■□ 舞い上がれ、舞い踊れ。 □■
×ヴァイパー、セシア
→ロクス
「天使様、お誕生日おめでとうございます。」
そう言って森の少女は愛らしい花束を差し出した。
「え……あ」
「ふふ、やっぱりお忘れでしたね。
天使様は私たちにとてもお優しいけど、ご自分のことはあまり気にしていらっしゃらないみたいで」
少女に言われたとおり、言われるまですっかり忘れてしまっていた「天使様」も少女で、しかし今日は背の翼を畳み仕舞って人の行き交う町にいた。
夏の終わり、秋の入り口。箱庭世界アルカヤに芽吹く混乱を取り除くために舞い降りたらしい幼い天使様だけどまだ不穏な足音は遠く小さく、町を行く人々だけでなく彼女に選ばれた「天使の勇者」ですら時には時間を浪費する。
天使シルマリルの勇者、聖なる森レイフォリアに暮らしていた「長き腕」セシア。
それが彼女の名前。淡いコスモス色の長い髪と、彼女の天使と同じに透き通った青い瞳が愛らしく印象的な少女。
そんな彼女が、己の髪の色と同じ色合いの花束を、己の天使に差し出した。
「天使様はいつも花の香りと一緒にいらっしゃるから、きっと花がお好きだと思っていたんです。でも地上の花の苗や種をお渡ししても天界で同じように育てられないかもしれないと思って……摘まれた花はどうしても枯れてしまうから、悲しい思いをなさるかもとは思いましたけど…………。」
セシアにとって、童話に語られる天使様という存在は憧れそのものだった。
その憧れの、文字通り雲の上の存在だった天使様が、自分の下に舞い降りたことがうれしくてうれしくて――――一見セシアよりも幼く見える頼りない天使なのに、彼女の態度はシルマリルの勇者の中で誰よりも「天使に対する礼儀」をわきまえたものだった。
憧れだから、些細なことにも気がつく。
それはまるで恋のようなのだけど、セシアもシルマリルも女性同士で恋とは少し違う。
いわばそれを超えた親愛で、中身が似たもの同士セシアとシルマリルの関係は非常に良好だった。
「いいえセシア、ありがとうございます。
大丈夫です、こうすれば、ほら――――」
自分の誕生日を覚えていてくれたこと、何が好きかを察してくれていたこと、渡したあとのシルマリルの気持ちにまで配慮していてくれたことが、セシアの気持ちが何よりも嬉しい。
人と同じ姿、しかし天使は人とは違い、あどけない姿を持つ金の髪の少女は、花をくれた森の少女の髪と同じ色の花を満面の笑みで受け取った。そしてそれを両手で持ち目を閉じると、シルマリルの小さな手からやわらかな光がかすかに、しかし確かに漏れ出した。
それは最初はかすかだったけれどセシアの目の前で見る見るうちに強くなり、愛らしく儚げな花束を包み込んだ。シルマリルは手の中でほのかな光を放ち始めた花束から指を、そして手を離し、花束は地面に落ちることなく彼女の掌に浮かべられるように宙にあるままで……
「…………あ!!」
セシアが今朝摘んで、しおれないうちにとシルマリルへ手渡したコスモスの小さな花束が、天使の手で小さな球体の中で咲き誇るオブジェと変化した。
儚い命に永遠を与え、美しくあどけない天使が悲しげに微笑む。
「……こうして永遠に近い時を与えるのも残酷かもしれませんけど、あなたが摘んでくれた可愛らしいこれがしおれてゆくのを見るのはつらいですから。
私の寝室の枕もとに飾りますね。」
「天使様…………!!」
天使様の見せた奇跡、御力に、彼女が口にした優しい感謝の言葉に、セシアは感激のあまりうっすらと涙なんて浮かべている。シルマリルが見せたのはささやかな奇跡、数々の道具をその知識の渦から生み出すラツィエルが繰るほどの力はないけれど、ガラスの球体のような小さな結界の中に脆い物限りある時間の中にある物を閉じ込め飾るぐらいのことはできるらしい。
天使たる己のエゴイズムを承知の上でのささやかな奇跡、だけどあまりにもささやか過ぎて通りを行き交う人は気づかない。
ふたりの少女の狭間で発露した、あまりにもささやかな、しかしそれは確かに奇跡だった。
「……通りすがりですげえェモン見ちまったな。」
低い声に、少女ふたりが同時に声の聞こえた方を向いた。
「ようお嬢さん、今日もキレイだな。」
「クラレンス?」
短い銀髪を逆立て、左側のこめかみの一部をターコイズブルーに染めている大柄な隻眼の男。低い声とどこか近寄りがたい雰囲気だけど、シルマリルが見るなりにその名を呼んだからセシアはわずかに身構えただけ。
彼にはささやかな奇跡が見えたらしく驚きを隠せない表情を隠そうともしなかったけれど、ふたりが同時に彼を見ると人懐こくすらある笑顔を返し大きな手をゆっくりと振った。
「もうひとりのお嬢さんははじめまして。いやいやこりゃ目の保養通り越して目の毒だ。」
彼は少々柄は悪いが礼儀知らずではなくて、少年のような人懐こい笑顔を添えつつ本気かお世辞か、といった具合の言葉を口にしているから、セシアも初めての印象ほどの近寄りがたさを感じない。それにシルマリルの知り合いなら自分が知らなくても不思議ではない、とあっさりと思うほどに己の天使様を信じきっているから、軽い人見知りの仕草を見せながらも、セシアは初対面の男に向けぎこちないなりに笑いかけた。
それに――――
「あなたも天使様のお姿とお力が見えるのですね。
私はセシアといいます。」
「俺は……ヴァイパーって呼ばれてる。
お嬢さんは俺を本名で呼ぶからどうにも耳の辺りがくすぐったくてかなわなくてな。」
セシアにとって、天使様は絶対。その天使様の姿と奇跡に気づいただけで警戒も緊張も解けるほどらしい。ヴァイパーと名乗った彼……クラレンスは、シルマリルに語った真の名ではなく、セシアには通り名の方を告げ、暗にそっちで呼ぶようにとセシアに促す。
「でもな、お嬢さん。」
「はい?」
「奇跡を起こすんだったらまわりを確かめてからにしような。
見たままを真に受ける俺みたいな単細胞ばっかじゃねえんだから。」
純真無垢な少女ふたり、世の中からはじかれたすれっからしから見ればそれはもう不憫なほどに危なっかしくて、クラレンスは呆れながらシルマリルに釘を刺した。
「あっちこっちで奇跡ばっか起こしてちゃ、教皇がいなくて四苦八苦してる教皇庁に目ェつけられるぜ。
ただでさえむさくるしい男より優しげな美人の方が説得力あるんだ、ちーっと自重しよう、な?」
「で、でもこの辺はもう六王国」
「細かく言えば教国領。
今度ロクスに会った時にでも可愛ーく訊いてみな、アールストって村はどこの国になるんですか?ってさ。
ちっこいあんたが見上げただけで男はくらくらするもんだ、今見上げられてる俺なんてもうぶっ倒れちまいそうだし。」
世間知らずをからかうふりして世の中のことを教えてる、言われた世間知らずは言い返せなくてちょっと悔しそう。ある意味いつものクラレンスとシルマリルのやり取りなんだけど、クラレンスと初対面のセシアにはからかわれる天使様と天使をからかう男が不思議。
知らない名前が出てきたけれど、きっと目の前の彼と同じにシルマリルの知り合いなのだろう、セシアにはそれで充分だった。
シルマリルは訊けば隠さずに教えてくれるから、後で訊けばいい話。それよりも少しだけ緊張を解いている、がんばりすぎる天使様の様子にほっとしていたりする。
「ロクスという人はエクレシア教国の人なんですか?」
「ん? ああ、次の教皇猊下だと。でも俺の目から見たら俺と同類。
あの性質の悪い女たらしに純真無垢なお嬢さんがだまされやしないかっていっつも心配してるんだ。」
「セシア、ロクスはあなたと同じ立場にいます。
いつか会うこともあるでしょうから、その時に詳しく紹介しますね。」
「お嬢さん……言った先から。
あんた多分初対面で口説かれたろ、あいつはこっちのお嬢さんもまず口説くぜ?
それがあいつのアイサツだしな。」
「そ、それは困る……かも…………。」
「かも、じゃなくて困るだろうな。なんなら怒ってもいいんじゃねえのか?
……ってかその様子じゃ口説かれたんだな。ったくお盛んというか見境なしというか……。」
「あ、あはははは……。」
いったい「ロクス」とはどんな人物なのだろう? クラレンスの言い様とシルマリルの歯切れの悪い言葉に、セシアも不安を隠しきれない。どうやら男性のようだけど、何よりセシアは森で静かに、自然のままに暮らしていただけに口説かれたことなどないからどうしても不安になってしまう。
けれど目の前の彼と「同類」なら、それほど悪い人間ではなさそうだから……セシアは笑うよりほかにできない。
「それよりお嬢さん、今日誕生日なのか?」
ロクスを弁護できないシルマリルと、ちょっとこんがらかっているセシアだけど、クラレンスはあっさりと、自然に話題を切り替えた。
「そいつぁ困った、何も用意してないんだが。」
「あ、気にしないでくださいクラレンス。私は」
そこまで言って、シルマリルがハッとする。
己の勇者たちなら、後日今のクラレンスと同じ言葉をかけられても
「自分は天使だから誕生日が来ても歳をとった実感が薄くて、自分でも忘れることがよくある。」
……と、笑いながらさらりと言える。そして勇者たちもおそらく戸惑いながらも納得するだろう。
しかし。クラレンスは顔見知りではあるけれど、勇者と同じ説明はできない。シルマリルは誰にも彼にも「自分は天使だ」なんて言いふらすことなんてできない。
それはクラレンスも例外ではなく、稀に天使の姿を捉える力を持つ者もいることだし、と、自分に声をかけ親しげに話しかけてくる彼のことをどこか無理やりに納得している。……だから、言葉に詰まる。
「いーや。どうやらロクスも知らねぇみたいだし、俺としてはここで差をつけたいってトコだからどうにか押さえたいんだけど。
んーでもお嬢さんのお誕生日、かぁ……女宛の贈り物なんて月並みなモンしか思いつかねぇ自分が恨めしいぜ、ホント。」
けれどクラレンスはいつものことながらマイペース極まりなくて、シルマリルが短い時間で悩んでいることなどそっちのけで自分の都合をべらべらと口にする。
「そっちのお嬢さんがいいって言ってくれるんだったら、お嬢さんをちょいと拝借したいんだが。
安心しな、暗くなる前にちゃあんと返すから。」
「え? てん……シルマリル……様、を、ですか?」
「お嬢さんも美人だから俺としてはお誘いしたいけど、あいにく俺はこっちのお嬢さんにひと目惚れでな。大好きなお嬢さんのお誕生日とあっちゃ当然俺にとっても特別だから、お嬢さんは縁があったらまた今度、な?」
そしてクラレンスは柄の悪い言葉でどこか紳士的な配慮を覗かせる。セシアに彼女の連れであるシルマリルを借りるために伺いを立て、暗くなる前に帰すと前置きし、冗談交じりの言葉を口にしにっこりと少年みたいな人懐こい笑顔を向ける。
「シルマリル様さえよければ、私は構いませんよ。
今日はここの宿にいますから、ゆっくりしてきてくださいね。」
「ありがたい。いやぁいっつもロクスが張りついてるからなかなかお誘いできなくてなぁ。
俺は臆病で嫌われるのがそりゃ恐ろしいから当然お連れするなら健全かつ楽しい所しか選ばない、ってどれだけ言ってもあいつには通じないしで困ってたんだ。」
嘘か真か、のような口ぶりで、どこか大袈裟にクラレンスは語るけれど……それが嘘ではないこと、シルマリルは当事者だから笑うしかできない。ロクスはやたらとクラレンスを警戒するけれどそれは下衆の勘繰りでしかなくて、守られているのはありがたいけれどあまりの過保護さにシルマリルも少々困っている。
それにロクスの警戒とシルマリルの印象は明らかな隔たりがあることも承知してはいるが、天使はただの純粋培養、箱入り娘ではない。
そこに悪意があるのなら、多少取り繕おうと天使の目を欺くことはできない。
そう、クラレンスに何かしらの思惑があることはシルマリルも感じている。だが彼は誰に対しても嘘はついていない。
包み隠している部分はある様子だけど、隠すために嘘はついていない。語らないだけ。
「……さて。
お嬢さん、誘いをお受けくださるのならこの手をとってくださいな。」
そしてクラレンスはセシアの快い返事を受け、大きな手をシルマリルに差し出した。
「今日があんたの誕生日じゃなきゃそっちのお嬢さんもご一緒でいいけど、今日は特別だ。できればあんたを独り占めしたい。
当然断られても恨みっこなしだ、あんたに言い聞かせたロクスを恨んで引き下がるよ。
でもまあ、せいぜい次見かけた時あいつの女遍歴でもあんたにばらすぐらいで済ませてやるよ。」
「あ、あの……お手柔らかに。」
「冗談だ。
あいつの女遍歴聞かされちゃ自分のもてなさぶりに泣きたくなっちまうからあえて聞かないようにしてる。」
その本意が読めない男なんだけど、敵対しているわけではないから善意の塊のシルマリルはまず信じることから始める。わずかに、気持ちの分だけ、暦の分だけ下がった気温の風がシルマリルの、セシアのやわらかな女の髪をかき乱し吹き抜けて、その先でクラレンスはまだ手を伸ばしたままで微笑んでいる。
シルマリルが手を伸ばすのを待っている。
「……天使様。」
そして同じように疑うことを後回しにするセシアが、臆病な天使様の背中を言葉で押した。たとえ信じたことで自分が追い込まれようとも、彼女たちは信じることをやめないだろう。
彼女たちは信じなかったことで生まれる後悔に耐えられないようにできていて、セシアの精神はシルマリルが守っている。けれど……天使様の純粋な心はむき出しのまま。
「安心しな、今日おつきあいいただいてる間、なにがあっても俺がお嬢さんを守り通すからさ。」
その言葉で、シルマリルの小さな手がクラレンスの手のひらの上に乗った。
「守るのは男の役目だ、あんたはなにも心配しなくていい。」
核心を語らない男からそんな言葉を引き出す女、クラレンスは己が心の向くままに。
己を縛らず思うままに行動する。
不意に知り得た己の天使様の特別な一日を貰い受けたいから、嘘をつくなどと言う愚行を選びはしない。望む結果を得るためならなんだろうとする男、それがクラレンスだけど
「じゃあ、どこに行きたいか大まかなご希望から伺いましょうか?」
今日、彼女はお姫様。女はその勘で邪念を読み取り身の振り方を決めるのが常だから、手を取ってほしければ相応の礼儀を尽くそうか。
手を取ってくれたのなら、次の機会のためにも裏切らぬよう誓おうか。
「悪いな、セシアさん。でも次があったらよろしくな。」
クラレンスは言いながら、シルマリルの手を取りながらセシアを振り返り笑った。
セシアは微笑みふたりを見送る。
今はまだ、仇なすものではなくて。敵ではないから天使様も聖女様も目の前の男を疑わない。
クラレンスは一日、一分、一秒でも先の裏切るタイミングを狙いつつ振舞い続ける。
2008/11/01