壊れてしまう位なら、死んでしまった方が良い


















Kraken 前編



















今日も今日とて────東京の夜は物騒だ。
人工灯が乱明する世界でも、光の届かない薄汚れた路地裏でも。

その中で誰も気付く事のない、深淵の縁にいる若者達がいる。




不可思議な風が人ごみの中を滑り抜け、時にそれは鎌鼬のように人の肌を切り裂いた。
それを追うように、また人目に留まらない程の速度で駆け抜けていく人影の残像がある。

それらが駆け抜けた後には、人々の頭上の電線が撓み、道を照らす街灯が不自然な明滅を起こしていた。


やがてその現象が収まった時、不可思議な風を生み出すモノと人影は、使われていない高速道路の上にいた。


先日の突然の地震で崩落が起きたその高速道路は、現在、当然ながら使用禁止となっている。
夜半ともなれば工事の作業員も姿を消しており、これは人影にとって都合が良かった。
人目がなく、既に崩落した道ならば、周囲への懸念も心配も、他の場所に比べて格段に減る。
これは彼等にとって比重の大きな事柄である。

唯一気にせずにいられないのは、足元の強度がどうにも頼りない事か。
人影が、風のモノが歩を踏み出す度に、その足元に小さな亀裂が入っていた。



長期の戦闘に持ち込むのは得策ではない。
前衛で獲物を振るう人影がそう判断するまで、時間はかからなかった。


人影の中から一人、飛び出す者がいた。
緋勇龍麻である。

向かう先にあるモノ────鬼は、体長三メートル程の大きさで、餓鬼のような体を前傾に傾け、ヒトの脳のような頭部を持っていた。
両腕の先に手と思しきものはなく、体長の半分程の長さの刃があり、まるでカマキリのよう。
鬼は突進する龍麻目掛けて、その鎌を振り上げた。


鎌が落ち、龍麻の頭部を割らんと狙う。
龍麻は右足を軸に体を捻って回転させ、避けた鎌はコンクリートを破って地面に突き刺さった。

そのまま距離を詰め、逆手の鎌が落ちて来た気配に地面を蹴って前転する。
龍麻は両手を地面について逆立ちになると、高い位置から真っ直ぐに伸ばした足を落とした。
踵が鬼の胸部を抉る。




「ギィィィィィィィィィィィ!!」




頭部と思われる脳の頂点、人間で言うならば頭頂部ががぱりと開き、耳障りな音が空気を劈いた。
開いた部分から牙が覗き、唾液のようなものが撒き散らされ、異臭を放つ。

苦悶の声を上げる鬼の頭上から、無数の矢が降り注ぐ。
逃れる場所を赦さない矢は、鬼の頭部の一部を削ぎ落とし、肩に脚に突き立つ。


痛みを振り解くように頭部を左右に揺らした後、鬼は頭頂部を人影達へと向けた。
人間で言うならば喉奥に値するであろう箇所から、レーザーのように液体が噴出される。
人影が散らばり、地面に落ちた液体は、やはり異臭を撒いてコンクリートを腐らせた。




「ちッ、しぶてェな」
「多少削った程度じゃ意味がないようだな」




京一の呟きに、醍醐が頷く。


鬼が雄叫びを上げながら背を仰け反らす。
痛みに悶えているようにも、怒り狂っているようにも見えた。

液体が上空へと吐き出され、酸の雨が落ちて来る。
葵が頭上へと両手を掲げると、光彩のバリアがそれらを地面に落ちる前に打ち消した。


龍麻、京一、醍醐がそれぞれの武器を構え直す。
後方で小蒔もまた、矢を番えて弓を引いた。




「全部叩くぞ」
「うん」




酸の雨が止み、葵が結界を消すと同時に、三人は地面を蹴った。
鬼の左右に龍麻と京一が、正面からは醍醐が迫る。

鬼の頭頂部ががぱりと開いたが、其処から液体が吐き出されるよりも早く、小蒔の矢が鬼の脳に連続で突き刺さる。
ならばと両腕が振り上げられるが、的は三つ、腕は二つ。
時間差をつけて迫る人間達に、鬼は判断を遅らせ、それが命取りとなった。


京一の木刀が鬼の右腕を切断し、左腕には醍醐の鉄鞭が絡み付き、締め上げて筋肉が潰れる。
龍麻が放った正拳が鬼の膨れた下腹を押し潰し、その衝撃は鬼の背中まで一気に貫いた。

頭部の口から酸の液体が打ち撒かれる。

続け様龍麻の発剄が鬼の体躯を上空へと打ち上げる。
宙でぐぅるりと回転する鬼を追って、醍醐が跳んだ。
標的と自分自身の座標を見失った鬼は回転の力に身を任せるだけ。
其処へ追い撃つように、醍醐は組んだ両手で鬼の脳の頭部を力の限り叩く。

無重力状態の中にあった鬼の躯は、今度は一気に下降した。


地響きを鳴らして、鬼がコンクリートの地面に埋まる。
その躯からは緑色の液体が零れ出し、唾液同様にコンクリートを腐らせて行った。

だが、肉の塊となったそれらは、まだ動いている。




「そろそろ、死んでろッ!!」




京一の木刀が鬼の躯の形と平行の線をなぞって振り下ろされる。
肉の塊を真っ直ぐに両断した衝撃によって、頭頂部から下肢までを左右半分に切断され、ようやくそれは絶命した。



─────二十分近くの追いかけっこの末の出来事であった。



《力》を得た事によって、腕力や身体能力は勿論、体力も大幅に上がった彼らであるが、流石に疲れた。
終わった、と弓矢を地面に落としてへたり込んだ小蒔は、もう立ち上がる気力もないらしい。
同様に葵もふらふらとして、小蒔とは数秒送れて地面に座り込む。

男三人は座り込む事こそなかったものの、やはり疲労の色は濃い。
おまけに此処数日、鬼の出現の気配が増えた為に、休息自体がまともに取れていないのだ。
遅い時は朝方まで鬼との戦闘を続ける羽目になり、朝になれば即学生生活に戻らなければならない。
体力回復が追いつかない生活は、彼らの精神力も確実に削りつつあった。


京一は覚束無い足取りで、中央分離帯の役割を果たす垣根に近付いて、腰を落とす。




「あー……終わった終わった」
「うん」
「流石に疲れたな…」




醍醐と龍麻も、京一とは反対側にある防音壁に寄り掛かっている。




「オレ明日のガッコ休むからな」
「そんな、京一君……」




京一の言葉に、真面目な葵が何事か言おうとするが、結局は噤んでしまう。
最近の疲労と思えば、そんな言葉も出てきてしまおうと言うものだ。
葵もまた、今日これから帰宅して眠りにつくと、明日の遅刻が想像に難くなかったのだろう。

そんな二人を見た小蒔も、また、




「ボクも休みたい……あー、もうそろそろゆっくり寝たいよ〜」
「…そう、ね……でも、もうすぐテストがあるし」
「げッ、マジかよ!?」




京一が声を上げると、龍麻がクスリと微笑み、醍醐が呆れた溜息を漏らす。




「マリア先生が言ってたよ」
「そうでなくても、予定表に書かれていた筈だぞ?」
「……ンなもん聞いてねェし、見てねェよ」




マリアが言っていた時、その場にいようがいまいが、京一はほぼ確実に忘れていただろう。
それが毎回の事である。


がっくりと肩を落とす京一に、葵が苦笑を漏らした。




「だから京一君、今日はもう戻りましょう」
「……そーだな。で、明日は見回りナシな」
「…ええ」




京一の進言に、返事が幾らか遅れたが、葵は頷いた。

葵としては、昨今の鬼の急増が気掛かりなのだろうが、無理を続けるのも良くない。
以前の彼女であれば、こんな時でも休んではいられないと言って、京一と対立する事になっただろう。
それがなくなった辺り、彼女も大分、成長したのだろう。


学校は休む事は出来ない(京一はサボるだろうが)、けれども深夜の身回りは元々イレギュラーな事だ。
《力》を得た事、街に蔓延る鬼と言う存在を知った事、そしてそれぞれの思いがあっての選択肢。
何より、彼らは一介の高校生であるのだから、何に置いても優先されるのは本来の“学業”であった。



お開きが決まって最初に立ち上がったのは京一だった。
続いて龍麻と醍醐、そして小蒔に支えられて葵が立ち上がる。

場所は立体的に作られた高速道路の下部に辺り、彼らが住み暮らす家は此処から近いとは言い難い。
それでも、最後の体力を振り絞れば、五分もあれば我が家へと辿り着くことは可能だ。
ふらつく体を叱咤しながら、彼らは来た時に辿った方向へと足を向けた。


─────その時だ。
ズン、と足元が酷い揺れに襲われた。




「─────何ッ?」
「地震!?」




小蒔と葵が抱き合って身を竦ませる。


数日前に都心の真ん中で不自然な地震が起こった。
それは前兆もなければ、後の余震もなく、専門家達も首を捻らせている。

だが、彼らには判った。
その日を境に急激に鬼が増加した事と、如月翡翠の予測から、恐らく龍脈の活性化による地震だと。
如月に聞いた所によると、活性化はかなり激しくなっており、その余波が地表に現れ始めたのだと言う。



ピシリ、と彼らの足元で嫌な音がした。
中央分離帯を中心にして、大きな罅が急速に広がっていく。




「不味い、崩れるぞ!!」
「京一君!」




中央分離帯に一番近い位置にいるのは、京一だ。
葵が悲痛な声で叫ぶ。

京一も直ぐに其処から離れようとする─────が。
疲労の祟った体は思うように動かず、それよりも罅が広がる方が早い。




「京一!」




龍麻の声を掻き消すように、耳障りな瓦礫の音が響く。







只中にいた京一も諸共に、崩れたコンクリートは奈落へと落ちていった。




























頬に落ちる冷たい感触に、意識は覚醒へと促される。
それが水滴だと気付いた時には、冷たさの他に、じんじんとした痛みも感じ取れるようになっていた。




「……っつー……」




ズキズキと痛む頭を押えながら起き上がる。
と、ヌルリとしたものが手の平を滑り、京一は顔を顰めた。
手を離して眼前に持って来れば、暗い視界にも紅だと判る色があった。


カラリと瓦礫が崩れる小さな音がして、ああ、落ちたのかと思い出す。

首を擡げて頭上を仰げば、恐らく空であるだろう微かな光は、随分と遠い場所にあった。
どうやら、高速道路を落ちただけでは飽き足らず、そのまま地下まで突き破って来たらしい。
顔に落ちてきていた水滴は、地下水が染み出て雫となったもののようだ。




「ちッ……」




これでは助けを待つのも一入になりそうだ。
しかし、自力で這い登っていくような体力もない。


辺りを見回すと、横穴が続いていた。
と言うよりも、横穴があった為に地面までが崩落したと言う方が正しそうだ。




「……なんでェ、こりゃ」




延々と続く横穴は、人工とは言えないが、自然に出来たものとは到底思えない。
まるで巨大な土竜か蚯蚓でもいるかのようだ。


考えてから、在り得ない話ではないなと京一は思う。
まだ六月頃だったが、《力》を得て間もない頃に対峙した鬼は、地下に巣を作っていた。
あれと同じ体質の鬼がいても、何ら可笑しくはない。

だとすると、此処にいるのは危険だ。
頭部の傷の他、落ちた時の衝撃だろうと思われる痛みは全身を走っている。
そうでなくとも、連日の睡眠不足で疲労が溜まっているのだ。
今ばかりは、情けないとは思いながらも、一人では無力であることを自覚せざるを得ない。



上には昇れない。
仲間を待つのも難しそうだ。
しかし長居は望めない。

この横穴の主に逢わない事を願いつつ、此処を進んで行くしかない。




「……っと、その前に……」




方向性を決めたとして、京一が先ず行ったのは、愛用の獲物を探すこと。
手ぶらは身の危険を助長させるだけだし、何より、あれがないとどうにも落ち着かないのだ。

暗がりに慣れた目が目当てのものを見つけた時、それは微かな光と暗闇の境目に落ちていた。


壁に手を着いて立ち上がり、ふらつく足をどうにか動かして歩み寄る。
よろよろと近付いて屈むと、京一はようやく木刀に手を伸ばした。

─────その指が木刀に触れる瞬間、別のものが京一の手首に撒きついた。




「──────ッッ!?」




何が────、と。
京一の思考は、僅かな瞬間ではあったが、確かに働きを停止していた。

それは今の京一にとって無理のない事だが、それでも命取りである事に変わりはない。




「なッ……!」




理解不能の事態から、本能的に体が逃げようと退いた。
しかし腕に絡みつく物体は、それよりも強い力で腕を引き、京一を暗闇へ引きずり込もうとする。


離れるか、木刀を取るか。
逡巡している間に、闇の中から何かが伸びて来て、京一の体に巻きついた。

微かな光に照らされた“何か”は、まるで蛸の足のような物体。
それが暗闇の中から生えて来て、京一の腕に、足に、躯に巻き付いて拘束する。
最初に手首に巻きついて来たものも、同じ。


四肢を捉えられたと認識した時には、京一は既に絶望的な状況に陥っていた。




「……ックソ…!」




悪態を吐いても、状況が変わる訳もなく。
どころか、更に悪化する。



悪態を吐いた瞬間の僅かな隙間を狙ったように、京一の口に蛸の足が滑り込む。
ざらりとした感触が舌に当たって、滑った液体のようなものが咥内に纏わりつく。
吐き気を催して、京一は瞠目して喉奥から餌付いた。

抵抗の力が弱くなったのを好機とばかりに、躯に撒き付いた足が闇側へと強く引き寄せる。
嘔吐感から判断が遅れ、京一は為すがままに闇へと連れられた。




「……ッ……」




その先で見たものは、撒きつくモノから連想する生き物そのもの。
ぎょろりと飛び出した眼球がおぞましさを助長させるものの、形は確かに、蛸と同じ形状を取っていた。

東京の地下にこんな生き物が、横穴を掘ってまで住み着いているとは思えない。
普通の生き物にはない氣を感じる事から考えても、これも鬼の一種なのだろう。
さもなくば、龍脈の活動で突然変異したものか────。


いずれにしても、京一は現在の状況を鑑みるに、どう考えても捕食対象である。
木刀も広い損ねたとあって、京一の頭の警鐘は嘗てない程に高い音を鳴らしている。

だが、どうにも出来ない。
無手の武術も、龍麻ほどではないが心得ているけれど、それを使うには躯の自由がいる。
拘束する足を振り解くには、躯が疲弊し切っていた。



蛸は捉えた京一を自らの眼前へと運ぶ。
黄色い球体に、黒々とした瞳を持った単眼は、上下左右にぐるぐると動き、京一を頭から爪先まで眺めている。
まるで獲物を喰らう前に鑑賞しているようで、京一は寒気を覚えた。

反面、頭の中は状況に対して、冷静な分析を始めていた。
このまま大人しくしていては食われる以外に道はない、と。




(冗談じゃねェ)

(こんな気色悪ィモンに喰われて溜まるか!)




とにかく、先ず呼吸を確保したい。

口の中にある足は、京一の口を限界まで開いている。
歯に当たる表面は弾力があり、噛み千切るのは難しい。




「…あッ…ぐ……ッ!」




それでも目一杯、顎に力を入れて歯を閉めようと試みる。
ぎりぎりと、侵入物に歯を立てて。

その時、蛸の眼球がぎょろりと動いて、それが京一には哂ったように見えた。
生きの良い獲物を掴まえた、とでも言うように。




「ふッ…!?」




口の中の足が、突然ぐねぐねと動き出した。
それは喉の入り口まで到達して、京一はまた餌付く。
だが、一番吐き出したいものは我が物顔で其処に留まったまま、退こうともしない。

息苦しさと気持ち悪さから、目尻に涙が浮かぶ。
それが京一にとっては、また情けなく思えた。


どろりとした液体が咥内に吐き出されて、京一は瞠目する。
蛸の足であると認識していただけに、驚愕する。




「んんぐッ…!」




気持ちの悪い生き物が吐き出したものなど、いつまでも咥内に含んでいたくはない。
飲み下したくもない────けれど、蛸の足が邪魔して、吐き捨てることも出来なかった。

蛸の足が首に巻き付き、京一は喉を反らせた。
そうすると喉への通り道が開いてしまい、どろりとした液体が沈下して行く。




「う、ぐ、んぐぅうッ」




弱々しく首を振って拒絶を示すも、蛸はそんな事など構いもしない。
京一の行動の意味を判っているのかすら妖しい。


咥内の液体が胃に流れ着く頃、躯に撒き付いた足からも同様の液体が吐き出された。
元は吸盤であったのだろう部分に小さな穴が開き、其処から噴出される。

ぐちゃり、ぬるりと粘着質な音を立てて、液体は京一の躯を汚した。
液体は、地上で戦っていた鬼とは別の異臭を放ち、京一は顔を顰める。



暗い穴の中で、液体の異臭が充満する。
頭の芯が痺れて行くような気がして、京一は不味い、と胸中で呟いた。


液体が単なる排泄物の類とは思っていない。
人体に対して毒性を持っていたとしても、何も可笑しな事はなかった。

だが、この液体は明らかに“毒性”と言うものとは違う。
どちらかと言うと、“麻薬性”のような─────




「……んッ!?」




ぬるりとした感触が頬を撫でた。
見れば、更に増えた蛸の足の仕業。

足─────いや、触手の増殖は止まらず、八本どころではなくなっていた。