OUTSIDER 01






一日の就学時間が終わると、京子はそれまでの退屈そうな表情を一転させる。
ホームルームも片付いてしまえば、一も二もなく、窓から飛び出してグラウンドへ────と言うシーンも珍しくはない。

それと同じ位に、




「コラ、蓬莱寺さん! アナタ補習があるでしょう!」




捕まった猫のように襟後ろを掴まれ、クラス担任のマリア・アルカードに一喝される場面も少なくはなかった。


今正に飛び降りんとしていた京子だったが、胡乱な目でゆっくりと振り返った。
振り向いた先にいるクラス担任は、逃がしませんと言うオーラを滲み出している。

本気で暴れれば、振り払うことは可能だった。
しかし、屹然としたマリアに逆らう事は憚られ、更に言うならその後ろで心配そうに此方を見ている葵の存在がある。
サボりの常習犯である京子の単位は万日足りていない訳で、それを取り戻す為に度々補習が行われる。
今日をサボれば後日に回される、それを延々と繰り返していれば、長期休みが全てパーになる程の補習スケジュールが組まれる羽目になってしまう。
それは嫌だ。


京子はムスッとした顔をしていたが、そろそろ自分でも観念した方が良い事は理解していた。
しているのなら逃げなければ良いのに、と龍麻は思うのだが、彼女曰く「体が嫌がるんだから仕方がない」だそうだ。

仕方なく窓にかけようとしていた足を下ろし、渋々顔で自分の席に戻る。




「ハイ、宜しい」
「ちッ」




逃げ損なった事が心底悔しいらしく、京子は舌打ちと同時に机に突っ伏した。

ブツブツと文句が聞こえてくる前席を陣取る少女。
龍麻はその丸まった背中に苦笑した。




「残念だったね、京」
「るせェ。ほっとけ、無神経野郎」
「京ほどじゃないよ」




最近お決まりになって来た、京子の罵倒台詞への返し文句。
あんだと、と剣呑な瞳が肩越しに閃いたが、龍麻は特に怖いとは思わない。
お互いに単なる軽口の叩きあいであると分かっているからだ。


マリアは京子に待っているようにと釘を刺して、他の生徒達同様に教室を出て行った。
やがて戻ってきたマリアがどれだけの量のプリントを抱えているのか、考えるだけでも恐ろしい気がする。

そんなプリントからいつも逃げ回っている京子だが、捕まってしまうと腹を括るのは早い。
仕方がないと呟いて、中身の少ない鞄の中から、シャーペンと消しゴムと、何故か小銭が入っている筆箱を取り出す。




「面倒臭ェなァ。補習なんてモン、誰が作ったんだよ」
「作った人は知らないけど、しなきゃいけないような事しているのは京だよ」
「ンなこたァ一々言わなくていいんだよ。イヤミか」
「緋勇君は事実をそのまま言ってるだけだと思うなァ」




二人の会話に割り込んで言ったのは、小蒔だった。
その後ろに葵がいて、同調すべきか否定すべきか迷っているのか、苦笑を浮かべている。
またそ隣には醍醐がいて、此方は判り易く小蒔の言葉に頷いている。




「京子がサボりなんてしなきゃ補習はしなくても良いんだよ」
「サボってなくても授業中寝てるんだったら同じだろーが。コイツみてーに」
「……僕?」
「ああ、確かに緋勇君ってばよく居眠りしてるよねェ。でも京子と違って真面目だから、補習逃げ回ったりはしてないし、やる事ちゃんと済ませてるから、やっぱ京子とは違うよ」
「その点、授業に出て起きててもテストで赤点じゃあな。そっちの方が問題あるぜ」
「なんだとー!」
「あ? オレはそういう奴の方が問題あるって言っただけだぜ。なんだ小蒔、お前赤点取ったのか? 授業も出て寝てもいねェのに」




お互いの揚げ足の取り合いは、傍目には低レベルな子供のケンカにしか見えない。

どっちも良くないと思うけど。
揉める様を傍観する面々の胸中は、この一言に尽きることだろう。


京子と小蒔の中身のない遣り取りは、放っておけばいつまでも続くと思われた。
が、予想に反して、京子が先に戦線を離脱する。




「おい、龍麻」
「何?」




一秒前まで小蒔と押収していた京子だったが、くるりと方向転換。
ほぼ不意打ちで龍麻を呼びつけ、龍麻はそれに対して驚くでもなく首を傾げた。




「お前、先にビル行ってろ」
「うん」
「遅れるってあいつらに言っとけ」
「うん」




矢継ぎ早の京子の言葉に、龍麻はこくりと首を縦に振って了承した。


京子が言うビルとは、京子がボーカルを務めるバンド“神夷”が練習場所として遣っている所だ。
使われていない廃ビルを再利用する形で、配電などは自分達で整備し、其処で楽曲の練習を行っている。

此処には部外者は基本的に立ち入り禁止の方向性らしいが、龍麻だけは部外者であるにも関わらず、出入りが許されていた。
勿論、自由勝手にと言う訳ではなく、京子に誘われた時に付き添いのように赴くだけ。
理由は知らない、ただ京子が来てもいいと言ったから、それに基づく根幹まで龍麻は聞いていない。


京子が練習に行くつもりだったと聞いて、葵が微笑み、




「それじゃ、早く終わらせなくちゃ」
「しょうがないなァ、ボクも手伝うよ」
「お前に手伝って貰っても意味ねーよ」
「折角の桜井さんの好意を無駄にするなよ、蓬莱寺」
「好意云々じゃなくて、こいつが手伝うこと自体が無意味なんだよ」




指差してきっぱりと言う京子に、小蒔の怒りの声が上がる。
が、それ以上に事が発展することはなく、話題は別の方向へと直ぐに流れて行った。



龍麻は仲間達と盛り上がる京子を一瞥して、席を立った。
鞄を取って立ち上がった龍麻に、醍醐が目を向ける。




「帰るのか、緋勇」
「うん。京、吾妻橋君達には伝えておくから」
「おー」




龍麻の言葉に気の抜けた返事、ひらひらと手を振っておざなりに挨拶。
後ろを振り返りもしない京子に、龍麻は小さく微笑んだ。

そのまま龍麻は教室を出て行く。




出て行った後で、ふと、龍麻は思い出した。


ごく当たり前のように、龍麻に先にビルに行けと言った京子。
けれども、今日は一緒に行くなんて一言も言っていないし、京子の方も誘って来なかった。

いや、思い返せばそんな事は既に何度か繰り返されていた。
最初の頃は「暇だから付き合え」だったり、「時間が空いているなら来い」と言う言葉があったのに、いつの間にかそれも消えていた。
龍麻の方も、わざわざ許可を取りに行くような事はなく───それは京子が誘っていたからと言うのもあるけれど───、最近は放課後の日課のように捉えていた風があった。





当たり前に彼女のテリトリーの中にいる。
龍麻が自分のテリトリー内にいる事を、彼女はごく当たり前の事だと思っているのだろうか。

許す許さないではなく、其処にいて当たり前の存在であると、思ってくれているのだろうか。


そうだとしたら─────なんだか、とても嬉しい気がした。







其処にあるのは、確かな信頼。




OUTSIDER 02




人気のない路地。
けれども、確かに人の呼吸の気配はする。

無機物に取り囲まれ、居並ぶ箱の中は酷く物静かで、暗い。
場所によっては不気味と言えるものもあるし、明らかに荒事が起こった後もある。
普通ならば、出来るだけ近付きたくないと言える、そんな空間。


けれども龍麻は、其処を恐ろしいと思った事はない。
そう思われる場所なのだろうという認識はあったが、同調する程ではない。
至って冷静に、ああ皹があるな誰かが此処で諍いを起こしたのだろうなと、その程度の話だった。


とは言っても、見慣れた雰囲気であった訳でもなかった。
山間の田舎で生まれ育ったのだから、都会そのものが珍しいものだらけだし、夜のネオンには今でも目を瞠る。

その中でも特に、こんな路地は見たことがなかい。
夜になっても人工灯がないのは同じだが、田舎はそれでも月明かりが眩しかったし、心配事と言ったら山から下りてきて畑を荒らす動物。
人間が人間を無心に警戒しなければならない空間などとは、縁もなかったのである。



それでも毎日のように足を運んだ場所だからか。
いや、そうでなくとも、最初からこの世界を怖いと思った事はないけれど。

彼女といつも歩く道は、龍麻にとって畏怖の対象でもなんでもなく、ちょっとした異世界への通過点に似ていた。





辿り着いた廃ビルは、いつものように、外側は廃墟のようにボロボロだ。
玄関口のドアも開けっ放し、これは蝶番にサビやゴミが溜まって固定され、閉める事が出来ない。
窓は枠だけでガラスは木っ端微塵に散らばっており、玄関口など使わずとも、何処からでも侵入可能だ。

セキュリティに置いては全くの皆無と言う物件なのだが、中々どうして、此処を利用する面々には快適らしい。
ものがなくなる、盗まれると言う事は全くないと言うのだから、不思議なものである。


一人で此処の敷居を跨ぐのは初めてだ。
けれども躊躇することはない、此処にいるのはよく顔を知る男達ばかりなのだから。

取り合えずいつもの部屋に行って伝言を伝えないと────と、足を踏み出した時だった。




「えーと、なんだ? アニキが焼き蕎麦パンだろ、カツサンドだろ。旦那の饅頭は……どれだったっけか」
「旦那は漉し餡かうぐいす餡じゃなかったか? アニキが前にそれで買って来いって言ってたろ」
「饅頭だけで腹ァ膨れんのかねェ。俺は足りねェな」
「そりゃそんな図体してりゃなァ」




仕切り壁のないワンフロアの奥、階段を下りる音と共に聞こえて来た四つの声。
龍麻が其方を見れば、“神夷”メンバーである京子の舎弟達の姿があった。

玄関前に立っている龍麻に、吾妻橋が気付く。





「ありゃ、龍麻サン」
「こんにちは」




笑みを浮かべて挨拶をした龍麻に、四人は揃って頭を下げる。




「珍しいっスね、お一人で」
「うん。京が補習になっちゃったから、伝えておいてって言われて」
「ありゃ、そうなんスか。今からお迎えに上がるトコだったんスけど」
「……お迎え? いつもしてないのに」
「へェ、まぁ…今日ばっかはちょいと訳アリなもんで。ま、どうぞ上がっといて下さいよ」




上階を指差して言う吾妻橋に、龍麻は頷いた。
そのまま彼らと擦れ違いに階段を上っていく。


恐らく、京子は今晩此処に篭るのだろう。
龍麻が此処に来るようになってから今日までにも、そういう場面は時々あった。
上手く行かない事が彼女にとって酷く癪に障る事のようで、舎弟達が引き上げた後も、ずっと一人でベースを鳴らしたり、歌の音程の確認をしていた。

その真剣さを勉強にも生かせれば……と思ったが、これは飲み込んでいる。

彼らはそんな京子に出来るだけ気を遣って、篭城用の食料を調達しに行くのだ。
近頃は新しいバラード曲が上手く纏まらないとの事で、メンバー全員が解散せずに夜中まで練習している事もあるようだ。



階段を上がって、いつものフロアに着くと、これもまたいつも使っている部屋へと向かう。

ドアのない入り口から、音楽が聞こえてくる。
今製作中の新曲を録音したものだろう、どうやら流しっ放しで部屋を無人にしたようだ。
彼ららしいと言えばらしい─────そう思って、小さな城に足を踏み入れた時。




「おや」




入って一番に龍麻が視認したのは、一人の人物。




「お客人とは、珍しいね」




柔らかに────けれど掴み所のない笑みを浮かべた男が、其処にいた。








舎弟達は基本的に京ちゃんシンパなので、京子が気を許した人間なら問題なしと見てます。
京ちゃんも京ちゃんで警戒心が強いですからね。気を許すといきなり距離が近くなりますが(笑)




OUTSIDER 03




金に近い、けれども少し褪せたような色の髪。
白いデニムのタキシードジャケット、インナーに黒のカットソー、ボトムは黒のスウェットパンツと言う、フォーマルスタイル。
ファッション雑誌からそのまま飛び出してきたような、一人の男。

夕焼けから夜闇へとに消えていこうとする外界を窓向こうに、背負うようにして窓辺に立つ影の形に、一切のゆがみはない。
まだ電球を灯していない所為で薄暗い部屋の中、その影は特に動揺を見せることもなく、龍麻の来訪を迎えた。




「八剣……さん」




八剣右近。

龍麻は、この男を詳しくは知らない。
知らないが、恐らく彼の人となりを知る上で最低限であろう、“京子の従兄”という事だけは覚えている。


辛うじて名を思い出して紡いだ名に、男は微かに目を細めて微笑んだ。






「緋勇龍麻、であってるかな」
「はい」
「京ちゃんから聞いてはいたけど、本当に来てるとはねェ」




確認に頷いた龍麻を遠目に眺め、八剣はしみじみとして呟く。


彼の手には火を点けたばかりであろう煙草があり、それを口に運ぶ仕草すら絵になる。
龍麻よりも頭一つ分高い身長に、体のバランスも均一で、身体そのものにも動きにも無駄がない。
背筋を伸ばしているのは意識的な事ではないのだろう、あくまで自然体で無理がない。

窓辺から移動して、片付けていたパイプ椅子を一つ開き、腰を下ろす。
テーブルには彼の自前であろう携帯灰皿が置かれており、既に二本ほどが潰されていた。
その傍らにハンドブックサイズの小さなパソコンがある、これも恐らく八剣の自前だろう。



龍麻はしばらく、そのまま立ち尽くしていた。
八剣はそんな龍麻に気付いてか、既に開かれていた椅子を指差し、




「座ったら?」
「……はい」




確かに、いつまでも出入り口で立ち尽くしているのは可笑しい。
龍麻は鞄をテーブルの足に鞄を立て掛けて、椅子に座る。
ぎし、と言うパイプの軋む音がやけに大きく聞こえたのは、気の所為か。




「京ちゃんは遅れるんだってね」
「…あ、はい。補習があって」
「さっき電話で聞いたよ。京ちゃんらしいねェ」




くつくつと笑う八剣に、龍麻も苦笑を浮かべる。

従兄だと言うし、前に龍麻が初めて彼と会った時にも、京子とは随分親かった。
京子が彼を信頼しているのは誰の目にも明らかだったし、他者に比べると距離の取り方が違う。
だから、京子が勉強嫌いでしょっちゅう補習から逃げ回っているのも知っているのだろう。


八剣の目は龍麻に向けられてはいたが、その瞳が見ているのは龍麻ではない。
龍麻を通して彼女の学校生活を想像しているのだろう事は、想像に難くはない。




「えっと……どうして此処に」




龍麻は少しの間目線を彷徨わせた後で、結局相手へとそれを落ち着け、問い掛けた。

此処は“神夷”のメンバーだけが集まれる場所であると、龍麻は認識していた。
自分が此処に出入り出来るのは、京子がごく当たり前のように、一緒に来いと言うからだ。
そうでなければ、龍麻は恐らく、真っ直ぐに家へと帰っただろう。


八剣は煙草の煙を吐き出してから、小さく笑んで見せた。




「ちょっとお仕事、かな」
「仕事?」




こんな所で、なんの?
首を傾げた龍麻が再度問う前に、答えは八剣の方から寄越された。




「京ちゃん達の新しい曲を客観的に考査する。そんな所か」




未だに仕上がらない、“神夷”の新曲。
京子が嫌だと言ったバラードを渋々受け入れる事となってから、既に二週間が経つ。
京子は放課後の時間を殆どバンドの練習に費やすようになっており、クラスメイトの面々と夕食に行くことはあっても、その後はやはりこの廃ビルへ来て練習していた。

しかし、バラードであると言うだけでも京子にとってはモチベーションが下がるものらしい。
いや、どうやら正確には、バラードを歌うとベースが弾けないと言う事が彼女にとっては一番嫌なのだ。


─────龍麻はしょっちゅう彼女の練習風景を見ている。
作曲の方向性が決まって、編曲し、何度も何度も歌っているのを見た。
時には彼女の声が枯れるまで、吾妻橋達も誰一人帰らず、彼女の努力に報いてみせようと必死だった。

その光景を見て、新曲の細部細部が変更を加えられていく過程を龍麻は知っている。
そして、もうこれ以上大きく変える所はないだろうと、譜面そのものは完成、と落ち着いた事も。



八剣はパソコンに手を伸ばすと、トントンと幾つかのキーを押した。

パソコンのスピーカーから音楽が流れ出す。
“神夷”の新曲であった。







それから、二人の間に会話はなく。

補習を終えた京子が舎弟に当り散らしながらやって来たのは、それから一時間近く後の事だった。









こいつらホント会話ねェなあ(笑)。
通常温度がマイナス値ですからね。会話しても最低限。




OUTSIDER 04




補習のプリントの山は、結局───龍麻がこっそり予想していた通り───葵達に手伝って貰ってようやく片付けた。
手伝ったのでラーメンなり奢れと小蒔に言われたのは少々癪であったが、助けてもらった事は確か。
今日は練習があるからと逃亡したが、後日にはちゃんと奢る事を約束した。


仲間達とは校門で別れ、京子は迎えに来ていた舎弟達と共に廃ビルへ。
その間、京子は補習のプリントの殆どが生物であった事から、生物教師・犬神への文句を延々と吾妻橋に吐き続けていた。
彼女の愚痴は廃ビルに到着し、階段を上り、いつもの部屋に来るまで途切れることはなかった────とは吾妻橋の弁である。

それだけ言い続けて少しは落ち着いたのか、それとも単に疲れるだけと悟ったか。
部屋に入ってきた京子は、溜息を一つ吐いて、愚痴を終了にした。




「おう、龍麻」
「うん」
「京ちゃん、俺には?」
「知らん」





京子の挨拶は龍麻に対してのみ。
それに便乗した八剣の言葉に、京子はすかさず冷水を浴びせる。
八剣はそれに気を悪くした様子はなく、予想通りと笑みを浮かべていた。


京子は鞄を壁際に置かれている毛布の上に投げ、ぐっと背筋を伸ばす。
その後ろで吾妻橋達が楽器をアンプに繋げたり、それぞれの楽器を確かめたりといそいそと動き出していた。

身軽になった京子がテーブルへと歩み寄ると、ハンドブックのパソコンから流れている音楽に気付き、眉根を寄せる。




「……どうなんだよ」




八剣へと問い掛けた京子の表情は、良い反応を期待しているとは言えない。
寧ろ否定的な意見が出るのは当たり前で、寧ろそうであるべきだと言う感情が滲んでいた。
それは修正を求めてのものではなく、京子自身がこの楽曲に得心がないからんなのだろう。


既に一時間近く、八剣はこの曲を聴き続けていた。
それは龍麻も同じである。

八剣の手元には、何回目かの再生の時に取り出したB5ノートと筆記用具がある。
ノートの開かれたページには、八剣が走り書きした曲の歌詞と、部分部分を赤いボールペンで囲ったりしてあった。
赤でチェックを入れられた場所の傍には、これもまた走り書きで何かメモ書きがある。



京子の問いに、八剣は答えない。
聞こえているだろうに。

京子は少し苛々としているのが見て取れたが、急かすことはしなかった。
貧乏揺すりのように、足の爪先がコツコツと床を蹴ってはいたけれど。




曲が終了した所で、八剣はようやく顔を上げた。




「はっきり言って、酷いね」
「そりゃそうだろ」




八剣の言葉に、京子は肩を竦めて口角を上げる。
そんな返事になる事は判り切っていた、と。




「京ちゃん、これはバラードなんだからもう少し落ち着いて歌わないと。今までと同じじゃ駄目だよ」
「……知るか、そんなの」
「ベースはもっと酷いな。吾妻橋、ギターと同じと思って弾くな。役割も扱う音も全く違う」
「…へい」




京子に吾妻橋、続いてキノコ、横川、押上と、全てのパートに駄目出しをする八剣。

それに対して憮然とした態度を取ったのは京子だけで、後の四人は粛々としたものであった。
とは言え、京子の方も言われた事に反発はないようで、ただ図星を突かれたのが彼女にとって少々癪に障ったのだろう。
八剣の指摘を拒絶することはなかった。


龍麻と二人きりで過ごしていた一時間弱の間、八剣はずっとパソコンで曲を再生していた。
その度にノートの歌詞には修正点が増えて行き、特に一番多くなったのは吾妻橋のベースだった。




「京ちゃん、発声練習しておいで」
「面倒臭ェ……」
「そう言ってやらないから、後で喉に響くんだろう。吾妻橋はこっちだ」
「へい」




渋々と言う顔で京子がテーブルを離れると、八剣は入れ違いにして吾妻橋を呼び寄せる。




「京ちゃんのレベルとまでは言わないが、まだレベルを上げてくれないと困る」
「へい」
「ベースのパートは京ちゃんが一人で作ったんだね」
「へェ……」
「京ちゃん、少し変更するよ。いいね?」
「あー」




壁に向かって“あ”を繰り返して発生している京子。
その中に一つだけトーンの違うものが混じって、それが八剣の問いへの答えだった。

吾妻橋が譜面台に乗せていた譜面を持って来ると、八剣は直ぐにペンを走らせる。


龍麻はそれを傍で見ているだけだった。
いつもと同じように。

………いつもと同じように。





一人の少女と、四人の舎弟と。
ふらりと現れては、彼女の世界の中に溶け込む、一人の男。


─────自分はこの世界には入れない。
ただ見ている事しか許されていない。

それに気付いた時、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。









自分が受け容れられている事が嬉しかった。
けれど、それ以上には踏み込めない自分がいて、結局距離を縮められない。

……青春してるなあ、この龍麻。





BORDERLINE→