BORDERLINE 01





いつものように屋上で昼食を取った後、ぼんやりとしていたら、隣から小さく鼻歌が聞こえた。
誘われて其方に目を遣れば、いつものように京子が新曲のメロディを確認している所だった。




「最近、いつも歌ってるね」




思った事がするりと口を突いて出た。

龍麻のその言葉に、京子は鼻歌を止め、一瞬きょとりとして瞬きする。
どうやら、自分が頻繁にメロディを確認している事を意識していなかったらしい。


龍麻が手の中にあったパックの苺牛乳に口をつけている間に、京子も自分の行動の経緯を思い出したようで、




「収録があるからな」
「今日だよね」
「ああ」




昨日も、龍麻は“神夷”の練習を見に行った。
近頃は京子が誘わなくても行っているので、龍麻にとっても習慣になりつつある。

その昨日の練習の終わり、吾妻橋と京子の会話で、収録が明日であると龍麻も聞いた。
スローテンポが苦手な京子を考慮して今まで避けていたバラードが、ついに形になるのだ。
京子は未だにバラードについて乗り気ではないが、腹を括ったのか、不満顔は隠さないものの、作ることに否やは唱えなくなった。
そうなると意識の切り替えは比較的早く、京子は曲の練習に余念がない。


京子が歌を口ずさんでいるのは、龍麻と二人きりの時だけだ。
葵や小蒔、醍醐、遠野の前では決して歌わないし、鼻歌もしない。
授業中にシャーペンの先でノートを小突いて、リズムを数えている事はあるが。




「あー面倒臭ェ!」




手にしていたサンドウィッチを握り潰して、京子は叫んだ。
勿体無い、と龍麻が胸中で呟く。




「面倒って、収録が?」
「いんや、そりゃ別にどっちでも。録音ならいつもやってるしな。オンボロ機材じゃなく、高ェ機材で録音するってだけの違いだし」
「じゃ何が面倒?」
「……その後にPV撮らなきゃなんねェんだよ」




苦々しく呟いた京子に、龍麻は苦笑する。




「京、PV撮影が嫌いなの?」
「同じとこ何度も撮り直すのが面倒」




潰れたサンドウィッチを口に詰め込んで、京子は汚れた手を制服の裾に擦り付ける。
ティッシュかハンカチでも持ってくればいいのに、と龍麻は思ったが、京子はまるで気にしない。

京子はコーヒー牛乳のパックにストローを差し込んで、眉根を寄せた表情のまま、口に含んだ。




「カメラが回ると、あいつらがテンパるんだよ」
「吾妻橋君達?」
「そ。もう何度もやってるっつーのによ。あいつらのお陰でやり直す羽目になる」




他人に振り回されることを嫌う京子にとっては、苛立ちの種だろう。
非常に理不尽な言い分だが。

いつになったら慣れるんだ、と忌々しそうに呟く京子。
そんな京子は一度も緊張した事がないのか、龍麻は気になったが─────なんとなく、聞かない事にした。
真実が何れであるにしろ、彼女のプライドの高さを考えれば、返事は一つしかない。




「無駄に格好つけようとするからだ。テメェの面弁えろっつーの」




情けも容赦もない京子の言葉に、龍麻は苦笑いするしかない。




「オマケにあの野郎、また面倒な絵コンテ作ってきやがって……」




ブツブツと呟かれる京子の愚痴は、しばらく止まりそうにない。

これなら鼻歌を聞いている方が良かったかも知れない。
曖昧な笑みを浮かべたまま、龍麻はこっそりとそう思った。






お互いが傍にいるのがすっかり当たり前な二人。




BORDERLINE 02





放課後、龍麻が京子と揃って教室を出ようとした所で、遠野に捕まった。

うきうきとした遠野の表情に反比例して、京子が判り易く渋面を作る。
お互いに何を言わんとしているのか分かっているらしい。


二人はしばらく睨み合っていた───遠野は笑顔であったが───。
まるで“先に動いた方が負け”と暗黙のルールが制定されているようで、その空気に圧されてか、龍麻も動けない。
どうかしたの、と京子に聞く事も、何か用、と遠野に問いかけることさえも出来なかった。



──────先に折れたのは、元来我慢強くはない京子の方。




「……勝手にしろよ、もう」




目元を片手で覆い、溜息を吐き出して京子は言った。
それを聞いた遠野はガッツポーズ。




「任せて! 絶対いい記事書くからッ」
「任せてねーし頼んでねーし、手前が勝手にやってるだけだろッ」
「いいじゃない、それで売り上げも伸びるんだし」




やる気満々と言う遠野に、京子はげんなりとした様子だった。


京子が歩き出し、遠野の横を通り過ぎる。
龍麻もそれに倣って彼女について歩くと、その後ろで楽しそうな足取りの遠野がついて来た。

龍麻は肩越しに遠野を振り返り、




「遠野さんも、京の収録を見に行くの?」
「うん。やっぱり緋勇君も行くんだ」
「……うん」




遠野の問いの返事が一拍遅れた。
何故なら、京子から収録現場に来いとも、来て良いとも言われていなかったから。


練習に付き合うのは習慣になっていたけれど、練習と収録は違うだろう。
廃ビルに通い始めた時は、京子から「付き合え」と先に言われていた。
だから少し居場所に困りつつも、行く事には然程抵抗を覚えずにいたのである。

しかし今回は、今日が収録日だと知ってはいるけれど(それも聞いたのは昨日、半ば盗み聞きである)、来いと誘われてはいない。
昼休憩の時に聞けば良かった、と遠野の問いかけを受けてから、遅蒔きに思う。



龍麻のそんな思考とは関係なく、京子はどんどん前へと進む。
収録現場に行くと言った龍麻の返事は、彼女にも聞こえている筈だ。
それで何も言われないのだから、多分、彼女も赦しているのだと、思う事にする。




「楽しみだわ〜、“神夷”の新曲。これだけで新聞の売り上げも断然違うんだから!」
「オレはお前の懐に貢献する為にバンドやってんじゃねェぞ」
「そんなの判ってるわよ。でもいいじゃない。あたしがアンタ達の記事を書いて、新聞は売れて、アンタ達の新曲ももっと売れる訳だし」
「……まーな」




それがなければ、速攻で摘み出している。
呟く京子に、龍麻と遠野は顔を見合わせて苦笑する。




「遠野さんって、“神夷”の広報担当?」
「そんなトコね〜」
「オレは許可した覚えはねェけどな」




スカートのポケットに手を突っ込んで、京子は眉間に皺を寄せて言う。
遠野はそんな事などお構いなしで、今からああしてこうしてと新聞のレイアウトを考えている。




「収録してる所の写真、撮らせてよ」
「……載せるなよ」
「なんでよー! その為に撮るんじゃない!」
「…じゃあブースの中まで入って来るなよ」
「はーい」




邪魔になる事はしないとの約束で許可を貰い、遠野は嬉しそうに了解の手を上げる。
そんな遠野に、やはり京子は溜息を吐いていた。

─────が。
うんざりとした表情を作りながら、その耳が赤いことに気付いて、龍麻は小さく微笑んだ。






贔屓して貰う事や、応援して貰える事は決して嫌ではない。
けれど、それよりも先ず「照れ臭くて恥ずかしい」と思ってしまう京ちゃんでした。




BORDERLINE 03





京子が向かった場所は、いつもの溜まり場にしている廃ビルではなく。
都内の大通りを一本逸れた場所にある、都心部にしては広さのある縦長のビルスタジオ。

何度も使っているのだろう、京子は周囲を一々確認することなく、足を進ませる。
部屋も同じ場所を使っているのか、三階にある奥まった部屋のドアノブに手をかけるまで、京子は一切躊躇わなかった。


──────そして、




「……なんでまたテメェがいるんだよ」




スタジオのドアを開けた京子が、一番に零したのが、それだった。



彼女の視線の先にいるのは、一人の男。
長い手足に均整の取れた体格、服装も落ち着いた大人のセンスの良さを漂わせている。
首元のシルバーネックレスも、無為に華々しくはなく抑え目で、シックな印象を受ける。

染めているのか、それとも地毛か、傍目には少し判り難い、褪せた金色の髪。
顔の右側はその金色の前髪で隠れて見えないが、見える左目はにこにこと掴み所のない笑みを浮かべて。


──────八剣右近。
京子の従兄だと言う男である。


その向こう、録音機材のミキサシング・コンソールの前の椅子に、雨紋と亮一が座っている。





「よう、蓬莱寺」
「こんにちは……」
「おー。で、そっちのお前はなんでいるんだ?」




雨紋と亮一の挨拶に端的に返して、京子は八剣を睨みつける。




「つれないねェ。折角仕事を休んで見に来たのに」
「いらん帰れ邪魔」




つれないと言うにはあまりにも冷めた京子の言葉。
しかし八剣は、それに対して特に傷付いた様子はなく、寧ろ予想していたのだろう、平然とした風だ。




「八剣さん、こんにちは〜!」
「…こんにちは」
「ああ、こんにちは」




元気の良い遠野と、控えめに頭を下げる龍麻に、八剣は小さく手を振って返事をする。
京子はそんな八剣の傍をスタスタと通り過ぎて、鞄を備え付けのテーブルに放り投げた。

龍麻と遠野は、部屋の隅にあったソファに腰掛ける。
合皮が剥げているボロボロの代物であったが、文句を言う程でもない。
言った所で、他に落ち着ける所もないし。


京子が制服の裾に手をかけたのを見て、八剣が彼女に背を向ける。
着替え始めた事に龍麻も気付いて、直ぐに目を背けた。
雨紋も溜息を吐いて、亮一は慌てて、京子に背を向ける。

遠野が「少しは隠したら?」と言ったが、聞こえた返事は「面倒」と言うシンプルなものだった。


ブースへのドアを開ける音がして、龍麻が視線を戻せば、学校の運動着に着替えた京子がブース内に立っていた。
既に中で待機していた吾妻橋達が京子に頭を下げて挨拶している。

どうでも良いが、彼らの挨拶の仕方を見ると、彼らは確かに京子の“舎弟”なのだと感じられた。
大きな分厚いガラス窓から見えるその光景は、まるでドラマか何かのスクリーンのようだ。



京子がヘッドフォンをつけ、マイク前に立ったのを確認して、雨紋が録音ブースと繋がっているマイクスイッチをオンにする。




「そういやな、蓬莱寺。此処のコンソール、新調してるぜ。前と同じ設定にしても、随分音の入りが違う。どうする? 設定変えるか?」
『……あー? その辺はオレぁ判んねェよ。お前に任す』
「つったってなァ、お前らの新曲だろう。それに……今日は見に来てるじゃねェか」
『判らねェオレがどうこう言っても無駄だろ。其処で見てるのは南瓜だと思え。気にすんな』




見学者を気にする雨紋に、京子はきっぱりと言い切った。


コンソールが新調されたとか言われても、龍麻には全く判らないのだが────そう思っていると、クツクツと笑う声が聞こえた。
その声の方へ視線を向ければ、八剣だ。

どうやら先の二人の会話は、単純に見学者がいるという事ではなく、八剣のみを指してのものだったらしい。




「酷いねェ。そう思うだろう?」
「え!? …あ、いや、……あの……」




急に八剣に話しかけられて、雨紋の横で縮こまっていた亮一の肩が大袈裟に跳ねる。
亮一はしどろもどろになった後、隠れるように雨紋の影に隠れた。

それを見て、雨紋は小さく溜息を吐き、




「亮一、一々相手にするな。面白がってるだけだ」
「そうだけど……」
「八剣さんも頼むから遊ばないでくれ」
「ああ、ごめんね」
『おい八剣。おちょくりに来たならブッ殺すぞ』
「はいはい」




京子に釘を刺されて、八剣はひらひらと手を振って、雨紋と亮一から離れる。
龍麻と遠野の座るソファに腰を下ろして、懐から煙草を取り出す。




「一本良いかな?」
「あ、どーぞどーぞ!」




箱を見せて問う八剣に、遠野が遠慮せずにと応える。
そんな遠野の手には、いつでもチャンスを逃すまいと、既に電源の入ったデジカメがあった。


此方の様子など気にすることもなく、録音準備は着々と進む。
発声している京子と、チューニングしている吾妻橋達を合間に見ながら、雨紋がコンソールの設定を変えている。




「何回かリハーサルを頼む。コンソールの調子がまだ判らねェんだ」
『りょーかい』




雨紋の依頼に片手を上げて返事をすると、京子はメンバーを見渡して、取り敢えず一回目、と開始の合図。





音が鳴り出せば、龍麻が出来る事と言ったら、もう見守る以外に選択肢はなく。

目を閉じて、聴覚だけを研ぎ澄ます。
重なっていく音の中で、彼女の声だけがやけにクリアに聞こえる気がした。






宅の京ちゃんと雨紋は基本的に仲が良いです。
亮一は別段やる事ないんですが、雨紋がいるので一緒にいます。




BORDERLINE 4





ビルで聞いていた声と、少しだけ違うような。
そんな気がするのは、彼女達が愛用しているいつもの機材と揃っているものが違うからだろうか。


スローテンポのバラードを苦手としていた京子だったが、毎日の練習の成果は如実に現れている。
八剣に指摘されていた歌い方の癖も落ち着いたし、声の伸びも格段に良くなった。

龍麻が何気なく隣に座る遠野を見ると、最初はバラードと知って驚いていたのが、今は目を閉じて聞いている。
歌詞を吟味しているのか、メロディを楽しんでいるのかは判らない。
いずれにしても、京子の声に心地よさを感じているのではないだろうか、と龍麻は思う。




最後のギターの音が引いて消えて、京子が汗の滲んだ額を手の平で拭う。
長い前髪を掻き上げて、マイクスタンドにかけていたタオルを手に取った。




『どうだ?』
「ああ、大分掴めた。幾つか試してみたが、今回はエフェクトは控えようと思う。いいか?」
『あー……ちょっと流してくれ。一番だけフルで』




京子の依頼に応えて、雨紋がコンソールのスイッチを押す。
何度も録音された中から、エフェクトを一番抑えたと言うものが流れ出した。

京子はタオルを首にかけて、マイクの前に立ててある楽譜スタンドに寄り掛かり、楽譜を睨みつけている。
その後ろでは吾妻橋達が沈黙し、京子の反応をじっと待っていた。


パチ、と龍麻の隣で小さな音がした。
龍麻が隣を見れば、遠野がカメラを構えている。
ファインダーは京子を捉えているが、フラッシュを焚かなかった所為か、京子が気付く様子はない。

遠野は今までのリハーサル中にも何度かカメラを構えていた。
その都度シャッターを切っていたが、フラッシュは一度も光らない。
邪魔はしないと言う約束を守っているのだ。



雨紋が曲を停止させると、京子はがりがりと頭を掻いて、




『抑えすぎじゃねえか? コレ』
「ああ、それは俺も思う。けど、この方が雰囲気はあるだろ?」
『なーんか落ち着かねえけどな……』
「京ちゃんは音に隙間を開けるのが嫌いだからね」
「─────うおッ!?」




いつの間にかコンソールに近付いていた八剣の言葉に、京子が判り易く顔を顰めた。

八剣の介入が想定外だったのだろう、雨紋から少し引っくり返った声が上がる。
釣られて傍らにいた亮一も驚いた声を漏らしたが、八剣はそれに構わず、ブースに繋がるマイクを自分に寄せる。




「京ちゃん、最初の音、外しただろう」
『………ちッ』
「こういうのは誤魔化したら駄目だよ。ベースの音に釣られたね?」
『……へいへい。気ィつけまーす』
「押上、間奏のリズムが速くなる事がある。お前が乱れると全員が速くなる。キノコは吾妻橋に釣られるな、今回はお前がリードだ。横川、ノイズをもう少し強くした方がいい。ほとんど消えて聞こえない。エフェクトを消せば多少は直るだろうが、ただの雑音になる」
『……へい』




京子に対してのみ柔らかな表情で笑みを交えていた八剣だったが、他の面々には厳しい口調。
吾妻橋達は言葉少なに了解して、京子は眉根を寄せている。




「エフェクトを消すなら、京ちゃんは尚更音を気にしないといけないよ」
『……わーってるよ』
「なら大丈夫だね」




言った八剣が笑みを浮かべているのは、ガラスに映る彼の表情を見れば龍麻にも判った。
だが、それを見た京子は尚更仏頂面になる。


京子は憮然とした表情でガラス窓に背を向けると、吾妻橋へと歩み寄る。
無言で手を突き出す彼女に、吾妻橋はベースを差し出した。
ベースの音を響かせると、それで直ぐにベースは吾妻橋の手元へと戻った。

彼女が鳴らした音が、今回のボーカルパートの最初の一音であると気付いたのは、八剣、雨紋、亮一だけ。
龍麻と遠野は、彼女の行動の意図が読めず、顔を見合わせる。



今回に限り、京子はボーカルのみを担当するが、彼女が一番拘っているのはベースパートだ。
ベースが出来なくなるからバラードはやりたくない、と意地になっていた程である。

手元にベースがないのが京子にとっては落ち着かない。
ベースの音に釣られて音を外したのも、彼女のそんな意識が原因だろう。
だから落ち着かせる為と、音のチューニングの意味で、一度ベースを鳴らしたのだ。




京子がもう一度マイク前に立ち、雨紋が合図をして、再リハーサル。
雨紋はブースと繋がるマイクスイッチを切って、コンソールに肘をつけて頬杖を立てる。




「あいつのベースへの固執もなんとかしねェとなァ……」
「……無理じゃないかな」




雨紋の呟きに返したのは、亮一だった。
二人はしばらく顔を見合わせた後、どちらともなく視線を外し、ブースの少女を眺める。
その傍らに立つ八剣が、僅かに表情を変えたように見えたのは、龍麻の気の所為だったか。

龍麻の隣にいる遠野は、カメラのメモリを確認している。
其処には四角く切り取られた世界の中、全身で歌を歌う少女の姿がある。




ガラス向こうの世界と、コンソールと、ソファと。

引かれた見えない線があるのなら、きっとそれは、コンソールとソファの間にある。






京ちゃん以外にはいつでも情けも容赦もない八剣。
その癖、京ちゃんだけには当たりが柔らかいので、その露骨な贔屓っぷりが京ちゃんにとっては苛立ちの種。
厳しくすると嫌われて、優しくするとウザがられるうちの八剣(笑)。




→RESTRICTION