RESTRICTION 01





“神夷”の新曲収録を終えてから、三日後。
金曜日の放課後、一足先に帰ると言って教室の窓から飛び降りた京子を除いたいつものメンバーの下へ、遠野がやって来た。




「見てみて、これ!」




言って、3-B教室に駆け込んできた遠野が見せたのは、学校新聞。
まだ書き終っていないようだったが、レイアウトは決まっているらしく、配置のメモと写真が載せられている。

新聞に載せられた写真は、先日“神夷”の新曲収録の際に撮影したもの。
ガラス向こうの録音ブースで歌う京子の姿がカラーで掲載されていた。


新聞を受け取った小蒔が感心した声を漏らす。




「へえ〜。こうやってると京子もアーティストって感じだね」
「緋勇君も一緒に行ったのよね」
「うん」




葵の確認に、龍麻は頷く。
それを見た遠野が、思い出したように龍麻に向き直り、




「そうそう、緋勇君、インタビューさせてくれない?」
「……インタビュー?」




何故唐突に自分にインタビューなどするのか。
“神夷”の新曲の記事なのだから、インタビューならメンバーの誰かが良いのではないのか。

遠野の真意が判らずに龍麻は首を傾げる。




「緋勇君も知ってると思うけど、京子ってバンドの練習に他人を滅多に近付けないのよね。新曲収録なんて尚更でさ。あたしも最初は押しかけみたいなものだったし」
「うん。前に醍醐君もそう言ってたよね」
「ああ。俺も中学からの付き合いだが、バンドに関してはライブハウス以外で見た事はない」
「と、ゆー訳で!!」




醍醐の言葉に覆い被せて、遠野は龍麻にずいっと顔を近付ける。




「まず他にないのよ、京子の練習を間近で見てて、収録も見てる人って」
「そうなの?」
「そうなのッ」




遠野の言葉に、小蒔と醍醐がうんうんと頷く。


遠野はすっかりジャーナリスト精神に火がついたようで、きらきらと目を輝かせて龍麻に詰め寄る。
手にはしっかりとデジカメとメモ帳が握られており、いつでもインタビュー開始の準備は整っている。
後は龍麻の返事一つと言う事だ。

遠野のこう言った熱意は、一度エンジンがかかると、中々沈静する事はない。
しかし、遠野が望むような記事になりそうな事柄は、残念ながら龍麻には浮かんで来なかった。




「…僕、面白いこと言えないよ」
「大丈夫! 緋勇君がインタビューに答えてくれるってだけで、じゅーぶんイケる!」




握り拳までして力説する遠野は、なんと言われようと引き下がる気はないらしい。


龍麻としては、困った。

こうして頼ってくれるのは嬉しくもあるのだが、自分の発言が文章になって新聞になるのは恥ずかしい。
“神夷”の売り上げにも関わってくるようだし、と言う事は、京子に深く関係する事柄でもあるのだ。
自分が好き勝手に喋るのはどうかと思う。

京子は遠野の取材についても、根負けから赦しているようだった。
照れもあるのだろうが、こう言った広報について、彼女はあまり積極的ではないらしい。



龍麻はしばらく眉根を下げて迷った末、口を開いた。




「明日、京に聞いてからでいい?」
「京子に?」
「うん。それからなら、僕で良ければ…」




丁度、明日は京子に会う機会がある。
その時訊ねてみるとしよう。

だが遠野が食いついたのは、龍麻がインタビューに答えてくれるか否かではなく、




「明日……って、京子は確か新曲のPV撮影じゃないの?」
「うん」
「緋勇君、行くの!?」




きらきらと。
これでもかと言わんばかりに輝いた遠野の瞳。

龍麻の脳裏に、明日の京子の不機嫌な顔が浮かび上がった。





すっかり龍麻が特別扱い(でも京子にとっては普通のつもり)。
龍麻も自分が特別扱いされてるとは思わず。




RESTRICTION 02





待ち合わせの場所に現れたメンバーを見て、京子は判り易く顔を顰めた。




「……オイ、龍麻」
「えっと……ごめん」




向かい合った龍麻と京子の後ろには、それぞれ四人の人間が控えている。
京子の後ろには、彼女の舎弟であり“神夷”メンバーでもある吾妻橋、キノコ、押上、横川。
龍麻の後ろには、共通のクラスメイトであり友人である葵、小蒔、醍醐、遠野だ。


本日は、学校が休みとなっている土曜日。
集まった面々は見慣れた真神学園の制服ではなく、それぞれラフな私服を着ていた。
舎弟メンバーはあまり代わり映えのない格好だが、それでも少し、楽そうなスタイルになっている。

傍目に見れば、級友達が揃ってお出かけ、と言った風だろう(舎弟メンバーは少々違うが)。
しかし実際には、此処に集合する筈だった人数の半数が呼ばれていなかったりする。




「なんでテメーらがゾロゾロと!!」
「だって〜!!」




怒鳴った京子に、遠野が龍麻の影に隠れながら反論する。




「ズルいじゃない、あたし達には練習だって見せてくれないのに、緋勇君だけなんてェ!」
「龍麻は邪魔にならねェからいいんだよ」
「あたし達だって邪魔しないわよッ」
「お前が言うな、お前がッ」
「いたたたた」




京子は龍麻を押し退け、遠野の頬を摘んで左右にぎゅうっと引っ張る。
むに〜とよく伸びる頬のお陰で、遠野の顔は殆ど原型をなくしている。

暫くそうしていた京子だったが、気が済んだのか、飽きたのか、一分後に遠野を解放すると、クラスメイト達へと向き直り、




「アン子がいるのは判らんでもねェが、なんでお前らまでいるんだよ」
「えっと…その……」
「だって見てみたかったからさァ、PV作ってる所とか」
「はは……」




困ったように眉尻を下げる葵と醍醐は、遠野の勢いに巻き込まれたのだろう。
小蒔は愛想笑いを浮かべつつも、単純に興味で着いて来たのがよく判る。

こうなった原因は─────恐らくこいつだと、京子は喧騒を眺める龍麻を睨み付ける。




「お前も止めろ! 撒いて来い!」
「ごめん、京。でも皆、凄く楽しみにしてたから…」
「こっちゃ遊びじゃねーんだよ!!」




響く京子の怒鳴り声に、道行く人々が何事かと足を止めて振り返る。
しかしそれ以上に追及する者などいる筈もなく、直ぐに人波は移動を再開した。


ぎりぎりと歯を鳴らして集まった面々を睨む京子。
吾妻橋が宥めようと声をかけようとするが、ジロリと睨まれて押し黙ってしまう。
いつもの事だが、京子の前では彼らの男の矜持も何もあったものではない。

噛み付きそうな京子と、愛想笑いを浮かべる小蒔、遠野に、申し訳なさそうな表情の葵。
女子メンバーの穏やかではない空気に、どうしようかと考えた龍麻よりも先に、醍醐が京子と三人の間に割り入った。




「まあ落ち着け、蓬莱寺。お前、いつもチケットを捌くのを遠野に頼んでいるだろう」
「………」
「学校新聞も、遠野が勝手にしている事とは言え、売り上げに貢献しているのは確かだろう。そのお返しって事にしないか? 桜井さん達の口コミで“神夷”に興味を持つ奴も増えているし」




このまま京子が怒って見せた所で、遠野は引き下がらないだろう。
小蒔も行く気満々だし、葵も少なからず興味があるように見受けられる。
醍醐は小蒔が行くと言うなら、一緒に行くのがお決まりだ。


龍麻を呼ばなければこうはならなかったのか────などと考えつつ、京子は溜息を吐く。




「しゃあねェな……良いか、絶対に邪魔すんなよ。ウロチョロすんなよ、気が散るからな」
「はーい!」
「りょーかーい!」




元気に返事をしたのは、小蒔と遠野。
美里は小さく「ありがとう」と微笑んで、醍醐もこれで一段落、と言う様に肩を撫で下ろす。



行くぞ、と言って肩で風を切って歩き出す京子。
それに吾妻橋達がついて歩き、それから龍麻、遠野、葵、小蒔、醍醐と続く。

龍麻は小走りになり、前を歩いていた吾妻橋達を追い越す。
一番前を歩く京子の隣に並ぶと、いささか不機嫌な色を移した瞳だけが此方を見た。




「ごめんね、京」
「……別に」





もうどうでも良い事だと頭を切り替えて、京子は淡白に言った。
瞳の不機嫌さは消えてはいないものの、怒り心頭と言う訳でもないらしい。





「ま、邪魔にならねェんならな─────……」






天を仰いで呟く京子は、最早諦めの境地にいるようだった。







うちの京ちゃんってテリトリーとか縄張り意識とか強いなぁ。




RESTRICTION 03






一同が向かったのは、港近くにある大きな倉庫だった。
元々は大型船の造船用倉庫だったと言うが、その役目を終えて久しく、現在は映画・ドラマ撮影等に使われている。

京子は大きな倉庫の鍵を開けると、吾妻橋達が重い引き戸の鉄扉を開ける。
ガラガラと煩い音を立てた扉の向こうは、薄暗く、少し埃っぽい。
その空間の真ん中に、ブルーシートや踏み台、カメラにアンプ等、必要な機材が揃えられていた。


京子は荷物を適当に放り投げると、先ずは撮影スペースの横にあるテーブルへと向かった。
テーブルの上には紙が散乱しており、京子は手早くそれを掻き集めると、パラパラと内容を確認してまたテーブルに置いた。



龍麻、葵、小蒔、醍醐、遠野の五人は、ただただ広い倉庫を見上げて、ぽかんと口を開けている。


倉庫にしろ、何処かの公園にしろ、撮影に使うのだから、それなりに金銭がかかる筈だ。
此処は造船用の倉庫だったと言うだけあって、広さも半端ではない。
幾ら売れているバンドをしているからと言って、一介の学生が借りられるとは到底思えなかった。

何かコネでもあるのか、例えは知り合いが此処の管理をしているとか。
龍麻は気になったが、テーブルにメンバーを集めて話をしている京子を見ると、問い出す時間はなさそうである。



真剣な顔で話し合いをしている京子達を遠巻きに見て、葵が言った。




「私達は邪魔にならないようにしなくちゃ」
「だね。何処かに座れそうな場所ってないかな?」




機材やブルーシート等がある場所を迂回して、一同は落ち着ける場所を探す。
しかし、用意されているパイプ椅子は“神夷”メンバー分、後は先人の置き土産か、小さな空箱やロープが転がっているだけだ。

これしかないなら仕方がない、と遠野が空き箱を三つ集めて運んで来た。
蓋のない箱は逆さまにひっくり返して、椅子の代わりにして腰を下ろす。
龍麻と醍醐は壁の隅にあったブロックを運んできて、其処へ座った。


京子達と少し離れた場所に座った一同だったが、京子達の話し合う声は意外とよく通り、五人にも聞こえて来た。




「先にオレのを撮るぞ」
「ヘイ」
「アニキ、電話鳴ってますけど」
「お前が出とけ。横川、CGなんかいいのねェのか? これに使えるような────」
「ない事はないっスけど、有料っスよ。あんま余裕ねぇスから、ちぃとキツイっス」
「確か、カミナリ野郎が何か持ってた筈だな」
「へェ。連絡しやすか?」




てきぱきと指示する京子に、舎弟達も遅れずついて行く。
それを葵、小蒔、醍醐は少し不思議そうに眺めていた。


学校で見る京子の姿と言ったら、何かにつけて面倒臭がって腰が重いものばかりだ。
勉強、掃除、補習等々、彼女が積極的に参加するものは殆どない。
クラスでの話し合いの類など以ての外で、リーダー役を担う所か、班への協調性も皆無である。

だが、そんな京子でも、自分のバンドの事となるとガラリと変わった。
時間が空けば練習したり、新曲の構想を練ったりと、普段とはまるで違う集中力と執着を見せる。
メンバーが集まれば最も率先して動くし、四人の男を引っ張っていくカリスマ性を持っていた。

葵達は今まで京子の練習風景など見た事がなかったから、彼女のこの変わり様に少々目を剥いていた。



一通りの手順が決まったのか、京子達はテーブルを離れ、機材の調整と準備を始めた。

大きなベニヤ板を壁にし、其処にブルーシートをかけて、もう一枚のブルーシートは床に敷く。
吾妻橋がカメラの電源を入れると、京子はブルーシートの凡そ真ん中に立った。
カメラレンズが京子を捉え、カメラ台を動かないように固定してから、吾妻橋は傍にあった液晶モニターを覗く。




「アニキ、もうちょい左です」
「どっちの左だよ」
「あー……下手の方っス。そこそこ。押上、風起こしてくれ」
「あいよ」




押上が、ガラガラとキャスター付の大きな扇風機を運んで来た。
直径一メートル程の扇風機である。

押上がスイッチを押すと、羽根が回り、強い風が京子の頬を叩く。




「大丈夫っスか?」
「オレは問題ねェから、モニター見ろ」
「へい。押上、もうちょい前に持って来い。斜め前。その辺」
「横川、音は?」
「用意できてます」
「キノコ、レフ板もう少し下げてみろ。…やっぱ戻せ。この方がいいっスね」
「15秒録画。見せろ」
「へい。撮りやーす。5秒前ー」




モニターを見ながら吾妻橋が微調整し、こんなものかと言う頃合で、京子が指示する。
言われた通りに吾妻橋はカメラを構え、カウントダウンをして、録画を開始した。


京子の指示通り、15秒の録画を済ませると、押上が扇風機の電源を切った。
京子は乱れた前髪を掻き揚げながら、モニターに歩み寄る。

一同が固まってモニターを覗き込み、これで一回やってみるか、と京子が零すのが龍麻にも聞こえた。



再びスタンバイする“神夷”メンバーを見ながら、小蒔がしみじみと呟く。




「なんか、アーティストって感じだね」
「小蒔、昨日もアン子ちゃんの新聞を見て、同じ事言ってたわ」
「そうだっけ?」




えへへと頭を掻く小蒔に、葵が小さく笑みを漏らす。




「でも、そうね。本当にアーティストって言う感じ。いつもの京子ちゃんと少し違うわね」
「だよねェ。しかも人気の“神夷”のボーカル。ねェ、アン子、“神夷”ってバンドやってる人達の中じゃ有名なんだよね?」
「うん。それも、“CROW”と並ぶ人気を持ってるから、アングラじゃ知らない人の方がいないって感じね。メジャーデビューの声もかかってるんじゃないかって噂よ。京子はそんなのガセだって言うけど」




遠野の説明を聞くと、なんだか京子と自分たちが全く違う世界の住人であるように感じられる。
学校にいる時は、普通の───多分───女子高校生なのだけれど。



鳴り響く音楽とシンクロして歌う彼女の姿は、なんだか酷く遠い存在のように思えた。






ステージで見た姿に抱いたのは確かに憧れと呼べるものだったけれど、目の前で見る彼女の姿は、(多分)ごく普通の一人の少女。
近くて遠い、遠くて近い、そんな距離。




RESTRICTION 04





PV撮影は順調に進み、途中からは連絡を貰ったと言う雨紋と亮一も加わった。
差し入れのコンビニのサンドウィッチは昼食になり、食後の10分程を休憩に使うと、また直ぐに撮影に戻る。


撮影中に揉めるような事は殆どない。
“神夷”メンバーと“CROW”の二人の他に此処にいるのは、撮影とは関係ない京子の級友のみ。
OKもNGも、“神夷”のリーダーを務める京子の匙加減と、後は雨紋達からの少しのアドバイスで決まる。
一度OKを出したシーンを、別バージョンを撮ろうと再度録画する事を京子が渋る場面もあったが、吾妻橋達に宥められ、雨紋に諭されて、再撮影も完遂させて見せた。

特別に時間がかかった事と言ったら、吾妻橋達の撮影シーンだ。
演奏を見せるシーンは殆ど使わない予定だったようだが、それでも幾つかは使うつもりらしい。
これが彼らの緊張の所為か、時間がかかり、京子の苛立ちの種になってしまった。



──────今もまた。




「いい加減にしやがれ、このボケェッッ!!!」
「あだあああああッッ!!!」




何度目か知れないNGに、京子の堪忍袋の緒が切れる。
ずかずかと近付いた彼女のすらりと伸びた御足が、怒号と共に四人の舎弟を蹴り飛ばす。




「手前らがカッコつけたって高が知れてんだよ! 何遍言やあ判るんだ、えェ!?」
「落ち着け、蓬莱寺! こいつらの気持ちもちったあ汲んでやれって!」
「それで毎回こんなお粗末やらかしてんだぞ! 猿でもいい加減弁えるだろうが!」




雨紋に羽交い絞めにされた京子だが、怒りは収まらない。
じたばたと暴れる京子に、舎弟一同は申し訳なさそうに正座して、彼女の怒りの沈静化を待つ。


しばらく暴れていた京子だったが、体格差では雨紋に及ばない。
暴れていては解放されないと知って、渋々大人しくなる。
それでようやく、雨紋も京子から離れる。




「おい、蓬莱寺。前から思ってたんだが、一度はあいつらメインのPVを作ったらどうだ? そうすりゃ、少しは気が晴れて、こんな真似もしなくなるだろ」
「………オレにそれを言うんじゃねェよ。決めてんのはあのバカだ」
「……それなんだけど、」




提案する雨紋と、顔を顰めて遠巻きに「それは出来ない」と言う京子。
其処に割り入ってきたのは、亮一だった。

二人の視線を同時に向けられて、一瞬亮一の肩が跳ねる。
緊張する対象である京子の視線から逃れるように、雨紋の陰に移動する。




「あの…京子さんがリーダーなんだから、…一つくらい勝手に決めても……」
「………それが出来りゃ、そもそもバラードだってやってねェよ」




忌々しげに目尻を尖らせる京子に、亮一はどんどん萎縮する。
雨紋はそんな亮一の頭を撫でて、京子と正座している舎弟一同を見渡し、




「少し休憩しようぜ。煮詰まってる時はそれが一番だ。飲み物でも買って来てやる」
「コーラ」
「お前らは?」
「いえ、あっしらは……」
「そうか。じゃあコーラ人数分でいいな。行くぞ、亮一」




棒立ち状態の相棒を促して、雨紋は倉庫を出て行く。

後に残ったのは、消化不良の苛立ちを抱えた京子と、すっかり気落ちしてしまった舎弟メンバー。
そして刺々しい空気に割り込むタイミングを失った、龍麻、葵、小蒔、醍醐、遠野であった。


恐らく、雨紋はこう言った場面に慣れているのだろう。
“神夷”と“CROW”の付き合いはそれぞれが中学生の頃からで、お互いのライブにゲストとして出演する事もある。
先日の“神夷”のCD収録の時も彼らは同伴していたので、ライブ以外の活動でも幇助し合う関係なのだろう。
それだけ長く近しい関係だから、癇癪を起こした京子に対しては、触らぬ神に祟りなしを貫くのだ。



京子はしばらく虚空を睨み続けた後、吾妻橋達に背を向ける。
其処で振り返った先にいたクラスメイトを見つけて────バツが悪そうに眉を顰める。

龍麻はブロックから腰を浮かせると、立ち尽くす京子に歩み寄った。




「大変だね、撮影って」
「……大変なのはあいつらの頭の中だ」
「……すいやせん」




指を差されて、舎弟四人は土下座しそうな程に気落ちして謝罪する。
京子はそれも一度ジロリと睨みつけてから、再び方向転換してテーブルへと向かう。

パイプ椅子にどっかりと腰を落とす京子を見て、龍麻は苦笑する。




「やりたい事ばっかり…じゃないんだね」
「……ああ」
「やりたくない事もやるんだね」
「…そりゃあな」
「やりたい事、できなかったりもするんだね」
「……当たり前だろ」




好きでやっている事だけれど、好き勝手にやっている訳じゃない。
そう呟いた京子の手には、いつも使っているベースのピックがあった。



カツリと足音がして、京子が顔を上げる。
龍麻もその足音の方向へと振り返ると、京子のベースを抱えた吾妻橋が立っていた。

京子は無言で立ち上がると、吾妻橋の手からベースを奪い取る。
苛立ちを隠さない足取りでその場から離れると、アンプの音量を調整し、其処からまた進んで、窓からの光の届かない暗がりで足を止める。
握っていたピックを持ち直して、掻き鳴らしたベースの音は、最大音量でスピーカーから溢れ出す。


幾重にも重なるベースの音。
いつもの完成されたメロディとは違う、ただ彼女の感情だけが詰まった、乱暴な音。
其処にいる全員に背を向けた京子の表情は、誰にも窺い知る事が出来ない。






響く音は、あの日あの時、ステージで聞いたものと同じ筈なのに。

龍麻の胸に去来するのは、何処か物悲しい色だった。







好きな事だけやっていられたら、きっととても楽しい筈なのに。
好きな事をやる為に、やりたくない事もやらなきゃいけない。




→IRRITATION