Seaside school ]
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六日目の朝、生徒達は殆どぐったりとしており、宴会場を借りて行われたプリント授業もほぼ身が入らなかった。
原因は当然、前日の夜に繰り出した町の夏祭りだ。
生徒の多くは祭りを終える時間にはホテルに戻っていたが、祭り気分に浮かれた高揚はそう簡単に静まらない。
宛がわれた部屋を抜け出す生徒も相変わらずいるもので、消灯時間を過ぎてからも小声で雑談が交わされたり。
教師の見回りも布団に潜ってやり過ごし、不眠耐久レースなんてものに終始する者もいたりするものである。
だらけた生徒と、真面目に頑張る生徒と。
二分された光景は、既にこの六日間で繰り返された光景なので、教師も何も言わない。
プリントチェックに見回る教師が、形程度に───それでも使うのが出席簿なので、表紙の硬紙は痛いのだが───生徒の頭を小突いて起こしてやる位だ。
そんな中でやはり目に付くのが、赤茶色の髪色の少女だ。
座敷用の低い長テーブルに突っ伏し、シャーペンを筆箱から出してもいない、蓬莱寺京子である。
「……蓬莱寺さん、せめてシャーペン出しなさい」
「…………出しといて」
彼女の鞄と同じ、薄っぺらい筆箱をマリアに差し出しながら、京子は言う。
テーブルに突っ伏したまま、彼女は体を起こす気力すら沸いて来なかった。
だらけるにも程があると言わんばかりに、マリアは無言で出席簿を振り下ろした。
ぱかんと硬い音がしたが、京子は反応すらしない。
少なくとも何かリアクションはあるだろうと思っていたマリアは、少し意外に感じて、京子の前で膝を曲げる。
「ちょっと、蓬莱寺さん。体調が悪いのなら、部屋で寝ていても良いのよ?」
「……じゃあ此処で寝る」
京子の言葉に、マリアの目元が僅かに和らいだ。
いつにない様子の京子は、どう考えても昨晩の出来事が尾を引いているのだろう。
けれども元気がないとは言え、風邪を引いた訳ではないようだ。
念の為と京子の額に触れて体温を確認した後、マリアは一つ溜息を吐き、
「せめてプリントやってからにしなさい。単位になるんだから」
「…どーせ赤点プリントになんだろ…」
「提出するだけでも加算になるの。はい、名前書いて」
マリアに促されて、京子はのろのろと潰していた上半身を起こした。
筆箱からシャーペンを取り出すと、ミミズが這った様な字で名前を書く。
画数の多い名字は漢字で書く気にならず平仮名で、名前も“亠口小子”と各部位が完全に分離している。
それを隣で見ていた龍麻は、眉尻を下げて小さく笑みを漏らす。
気配でそれを察したか、胡乱な瞳が龍麻へと投げられた。
名前を書き終えると、京子はまた机に突っ伏す。
「眠ィ……」
同じ台詞が其処此処で囁かれているが、京子の声は一際気だるさを漂わせている。
龍麻とは反対隣に座っている葵が、ちらりと心配そうな瞳を向けていた。
「…京子ちゃん、大丈夫?」
「あー……」
小声で問い掛けてきたクラスメイトに、京子はなんとも気のない返事だ。
この遣り取りは、生徒達がこの宴会場に集まる前から繰り返されている。
何度聞いても同じ反応しかしない京子に、葵は何度目か知れない溜息を吐いた。
葵は、京子にまともな返事を求めるのを諦め、龍麻へと目を向けた。
「大丈夫だよ」
「……そう?」
「うん」
端的な遣り取りだったが、葵はようやく口を噤んでプリントに向き直った。
京子と龍麻が声を揃えるのなら、もう何を言っても覆らない事は十分学習している。
真面目に取り組む龍麻と葵、伏せたまま動かない京子。
そんな三人の後ろの席には、真面目に問題を解いていく醍醐と、ヒソヒソと小声でお喋りをしながらプリントを進める小蒔と遠野がいる。
この三人も最初は眠そうな京子を心配していたのだが、もう殆ど気にしていない。
京子が勉強に気乗りしないのはいつもの事だし、授業が始まって眠るのもいつもの事。
昨日の出来事を考えれば、尚更、京子が眠たげにしているのも自然と納得が行った。
京子は、程なく寝息を立て始めた。
それは流石にちょっと、と葵が肩を揺すったが、京子はウンともスンとも言わない。
葵が諦めて再三プリントに向き直ったのを確認して、龍麻がそっと彼女の下敷きになっているプリントを抜き取る。
案の定、解答欄は全くの白紙だった。
(まずいかな?)
思いつつ、龍麻は自分のプリントと京子のプリントを重ねた。
下になったのは、解き終わった自分のプリントだ。
(……でも、いつもこんなだし)
二人で揃って補習になる度、プリントの山を先に片付けるのは龍麻であった。
勉強嫌いで集中力も長く持たない京子は、自力でやるといつになっても帰れないからと、龍麻のプリントを写して提出している事が多い。
この日常的なカンニング行為は、マリアや犬神には先ず間違いなくバレていると思って良いだろう。
しかし二人の教師も最早何も言わず、溜息一つ吐くだけで、補習終了を迎えさせてくれた。
本人のやる気を待っていたら、いつまでも終われないと知っており、且つ改善を諦めているからである。
今と補習の時とで決定的に違うのは、京子が写す行為すらしていないと言う事だが──────
(…いいか)
すぅすぅと寝息を立てる恋人に、龍麻は笑みを浮かべて再度プリントに取り組んだ。
足元が揺れる。
しっかりと両足で立っている筈なのに、揺れる。
そういう感覚を龍麻が感じたのは、初めてではなかっただろうか。
龍麻は山間の小さな町で育ち、其処は海とはとんと無縁の場所だった。
水辺と言ったら田畑の間を流れる川位のもので、それだって然程大きくはない。
川をずっと上っていったら大きなダムがあったが、そんな場所にわざわざ出向く時と言ったら、小学校の社会見学位のものだ。
真神学園に転校し、東京に引っ越してから、龍麻は初めて海を見た。
東京湾と言う限られた広さではあったが、その向こうに続く水平線には感嘆の息が漏れたものである。
だから臨海学校と聞いた時には、実は結構楽しみになっていたりしたのだ。
京子や小蒔のように、あまり表立って表情には出ていなかったようだけれど。
──────そんな訳だから、龍麻は船と言うものに乗るのも、これが初めての事だったのだ。
「大丈夫か? 緋勇」
乗って間もない内にふらふらとしている龍麻に、醍醐が苦笑しながら言った。
龍麻は傍にあった手摺に掴まって、小さく頷く。
「平気だよ。初めてだったから、ちょっと驚いたけど」
「意外と揺れるからな」
今日の波は穏やかな方だと船の船員達は言っていたが、日頃海に親しんでいる人達はそうでも、慣れない人間にはそうでもない。
終始足場が安定しないと言うのは、陸の上で生活するのが常である人間にとって、中々経験しない事だ。
立ち話もそこそこにして、龍麻と醍醐は船員の誘導に従って船室へと入った。
既に殆どの生徒が入っており、クラスごとに分けられたスペースへ移動し、席に着ている。
醍醐が空いている列の端に座り、その横に龍麻が座ると、直ぐに隣に誰かが座った。
見れば眠い目を擦っている京子で、その向こうには葵がいる。
後ろからつんつんと髪を突かれて振り返れば、小蒔が龍麻の後ろの席にいた。
「どう? 緋勇君。船は初めてなんだっけ?」
「うん。面白いね」
「醍醐君は?」
「は、初めてですッ」
「そっかァ。ボクもなんだよね〜」
小蒔が嬉しそうにお揃いだね、と言うものだから、あっという間に醍醐の顔が真っ赤になる。
小蒔はそんな醍醐の反応など気付いていないのか、欠伸をしている京子を後ろから覗き込んでいる。
「おーい、京子ー。起きてんの?」
「………寝てる」
「起きてるじゃん」
「今から寝る」
だから邪魔すんなと言う京子に、小蒔は肩を竦めて葵と目を合わせた。
はい静かに、とマリアの高い声が船室内に響いた。
幾つかのざわめきの後、生徒達が静かになると、マリアは船内を見渡し、
「もう直ぐ船が出発します。船内放送があるまでは、皆ちゃんと座って待つように。良いですね?」
はーい、と真面目な声にやる気の無い声、色々と混じった声が異口同音に返事をした。
エンジン音が鳴り始め、船が動く。
少し傾いて方向を変えた後、ゆっくりと窓から見える桟橋が離れて行く。
船室の真正面に備え付けられていた大きなテレビに電源が点いた。
移動許可が出るまでは、これで船内の注意事項諸々について学んでおくようにと言う事だ。
既に面倒臭そうな生徒は数名見られたが、教師が見張りを兼ねて巡回する為、動き回るような生徒はいなかった。
窓から見える景色は、最初は港の近くの浜辺だった。
生徒達が毎日のように遊んでいた浜で、今は観光客の影が疎らにある。
浜を駆け回る子供達の影の中には、昨晩助けたあの女の子もいるのだろうか。
いや、昨日の今日だから流石にまだ安静にしているか。
しかし子供と言うのは、大人が思う以上に丈夫なもので、特に遊びにかける情熱は底知れない。
直にそれらも遠ざかり、船は何度かゆっくりと方向を変えた。
その内、窓に映るのは何処までも広がる青と蒼、点在する小島の緑だけになった。
エンジンとモーターの音が静かになって行く。
積極的な走行を止めた船は、波にゆらゆらと揺れつつ、ゆっくりと前進して行った。
その頃になって、船内放送のスピーカーのスイッチが入る。
『────それでは、真神学園生徒の皆さん、ゆっくりとクルージングをお楽しみ下さい』
その言葉を皮切りに、わっと船室内が沸き上がった。
彼らがじっと時を待っていたのは、五分か十分か、そう言うほど長い間ではない。
しかし待つ身となると時間の経過は緩やかに感じられるものである。
もどかしい時間から解放された生徒達は、賑々しくばらばらと動き始めた。
「葵、外に行こう!」
「ええ。京子ちゃんもどう?」
「……オレぁいい……」
葵の誘いに、京子はうとうとしながら答えた。
凡そ予想はついていたのだろう、葵は苦笑し、小蒔と共に席を立った。
二人とは入れ替わりに、遠野が駆け寄って来て葵の席にすとんと座る。
「あらぁ、まだ眠そうね、京子」
「……当たり前ェだろ……」
煩い、と言わんばかりに機嫌の悪い顔で遠野を睨む京子。
が、遠野相手では無論そんなものは通用しない。
遠野はハーフパンツのポケットからデジタルカメラを取り出して、京子、龍麻、醍醐にファインダーを向ける。
「撮るわよー」
「うん」
「おい、蓬莱寺」
「……知らね、勝手にしろよ」
いつものように笑みを浮かべる龍麻と、京子を促す醍醐と。
今にも眠りそうな表情の京子が、確りとカメラに収められた。
「美里ちゃんと桜井ちゃんは?」
「外に行ったよ」
「じゃあたしも行って来よっと」
言い終えるが早いか、遠野はカメラを握って席を立った。
いつもの事だが、遠野は全く落ち着けない。
カメラ片手に右へ左へ駆け回っている姿は、学校でもよく見られる光景だった。
この一週間の臨海学校の間に、遠野は相当の数の写真を収めた事だろう。
その内容の一部はきっと校内新聞になって貼り出されるだろうが、それ以外の写真は果たしてどうなるか。
予想できるのは、一部の有名な生徒───例えばマドンナ的存在の葵とか───の写真を求めて、新聞部の扉を叩く生徒がいるであろうと言う事だ。
ちらりと窓の外を見遣ると、丁度葵と小蒔が通りがかった所だった。
船室の外は穏やかな風が吹いていて、葵の長い黒髪をあやしている。
二人を後を追うように遠野が駆けて来て、二人にカメラを向けた。
小蒔がピースサインを作ると、フラッシュが焚かれ、三人揃って其処から移動して行った。
龍麻は椅子から腰を上げると、動かない京子の前を跨いで、通路に出た。
「外に行くのか?」
「うん。醍醐君は、行かないの?」
「そうだな……一回りしてみるか」
東京に戻れば、こんな大きな船に乗れる機会は早々得られないだろう。
クルージングならお台場周辺にでも遊覧船が走っているが、船の大きさが違う。
百人近い生徒を全員乗せる事が出来る船なんて、こんな時でもなければ体験出来ない。
醍醐は行儀が悪いと自覚しつつ、椅子の背凭れを跨いで、誰もいなかった後ろの列に移動した。
体躯の大きな醍醐では、どう試しても、京子が座ったままでは通路に出られないのだから仕方がない。
外に出ると、風が一陣、吹き抜けていった。
船の端に歩を寄せて、手摺に寄りかかって船下を見下ろす。
船の進行とモーターの回転に合わせて、白波が立ち、名残を残して蒼い海に広がっていった。
男子生徒のあれ見ろ、と言う声がして、見れば生徒が海の向こうを指差している。
倣ってその先に目を向ければ、魚がトンボのように羽を広げて海の上を跳ねていた。
真神学園の生徒の殆どは、東京と言う都心の真っ只中で育ってきた。
龍麻のように田舎から上京してきた生徒もいるが、それはごく少数であると言って良い。
そんな生徒達にとって、今の光景は都会では絶対に見られない物であった。
船の舳先へ向かってみると、一際広い其処で生徒達は思い思いに過ごしていた。
その中に葵達三人の姿を見つけ、龍麻と醍醐の足は自然と其方へと赴く。
「あ、緋勇君、醍醐君!」
振り返った小蒔が二人に気付いて声をかける。
醍醐が少し照れ臭そうに僅かに目を逸らしていた。
「京子は?」
「寝ちゃったみたい」
「勿体無いなァ」
遠く広がる水平線を見て、小蒔が言う。
その隣で、葵が眉尻を下げて笑みを漏らした。
「仕方ないわ。ずっと眠そうだったもの」
「まあね。ホテルから船に移動する時も、歩くのも面倒臭そうにしてたし」
朝から延々と寝不足をアピールしていた京子は、昼食後は歩くのも億劫そうだった。
移動なんて面倒臭い、ホテルで寝ていたいとぼやいて、ずっと龍麻の背中に寄りかかって殆ど惰性で歩いていた。
……背中に当たる柔らかい感触に、周囲の生徒が羨ましげに見ていた事は、当人達は知る由もない。
船は速度を落としてから、ゆらゆらと波に揺らされるようになった。
風が穏やかなお陰で、然程大きな揺れではなく、揺り篭のようにも思える。
となれば、眠気をずっと我慢し続けた京子が耐えられる訳もない。
クルージングなんて京子にとっては退屈なだけだろうから、きっと眠ってしまうだろうとは思っていたが、まさかこんな形で眠るとは。
椅子に座って腕を組んで眠った恋人を思い出しつつ、龍麻は小さく笑みを漏らす。
─────わあッ、と隣にいたグループから声が上がる。
何かと思って其方を見れば、女子生徒が沖を指差してはしゃいでいた。
「何? 何かいたの?」
「なになにッ?」
小蒔と遠野がグループに入ると、女子生徒がもう一度あそこ、と言って指差す。
龍麻達も加わって目を凝らせば、水平線の上で弧を描く影があった。
「イルカだ」
「ホントだーッ!」
龍麻の呟きに、小蒔が嬉しそうに声をあげる。
遠野が手摺を乗り出しカメラを構え、何度もシャッターを切る。
「あ〜ん、遠過ぎて上手く取れない〜ッ」
肉眼で辛うじて影が見える程度だ。
風景を撮る事は出来ても、ズームには限界のある遠野のカメラでは、イルカの姿を捉えることは難しい。
悔しそうな遠野を葵が宥め、うっかり船から落ちてしまわないように醍醐が支えていた。
「遠野、その辺にしておけ。落ちたら元も子もないぞ」
「う〜ッ」
追い駆けられないのが心底口惜しいようで、遠野はそれでもまだ手摺に齧りついていた。
もう乗り出したりはしないようだが、全く、危なっかしくて仕方がない。
遠野の興奮は、龍麻にもなんとなく判る気がした。
此処までテンションが上がってしまう事はないものの、イルカなんて水族館に行かなければ見れないものだったのだ。
自然の中で群れをなして泳ぐイルカなんて、早々お目にかかれるものではない。
イルカウォッチングと狙った時だって、逢えるがどうかは運次第なのだから。
手摺に寄りかかりながら、それでも京子は興味ないんだろうな、と龍麻は思う。
「イルカ、こっち来ないかなあ」
「この船じゃ大きいから、怖がるかも知れないわね」
どうしてもイルカの写真が撮りたい遠野の言葉に、葵が眉尻を下げて言う。
剥れる遠野の頭を撫でて、葵はあっちに行きましょう、と遠野と小蒔の手を引いた。
女子メンバーの後を龍麻と醍醐が付いていく。
いつもなら此処に京子もいるのだが、彼女は今はお休みタイムだ。
……どうにも隣の空間が落ち着かない気がする。
この感覚は今日が初めてではない。
京子がふらりといなくなるのは常の事だし、龍麻とて四六時中彼女と一緒にいる訳ではない。
各々の生活がある訳だから、自然と分かれて過ごす時間だってあるのだ。
京子が吾妻橋達と過ごす時や、龍麻の両親が上京していた時などは、互いに誘われても断っていた。
だから龍麻の隣に京子がいない日と言うのは、かなり頻繁に起きている。
それを特別気にしないのも常だった。
だが、臨海学校に来てからは、京子が隣にいないと何処か落ち着かないような。
地引網と料理教室に分かれていた日は、そうでもなかったと思うのだが。
「あ、なんか浮いてる」
「クラゲかしら」
「クラゲってさ、ぷよぷよしてだから触ると気持ち良さそうだよね」
波間に点在する白いものを見つけて指差す遠野に、葵と小蒔は手摺に寄りかかってそれを確認する。
「くぅ〜ッ、撮りたいなァ」
「ちょっとアン子、乗り
出したら危ないって」
「帰ったら望遠ズーム付きのカメラ探してみよっと」
「そういうものって高くなるんじゃないの?」
「そうだけどー。やっぱり性能の良い奴があると欲しくなっちゃうものなのよ。桜井ちゃんだって美味しい食べ物あったら食べたいでしょ。それと一緒!」
「まあ、そう言われると判らないでもないけどさァ」
手摺から離れて、三人はまた歩き出す。
彼女達についている龍麻と醍醐もまた、一緒に。
後部甲板では、生徒達の姿は疎らにあるものの、空間が広い所為もあってあまり騒がしくなかった。
望遠鏡で海も向こうを眺める者、ベンチに座ってお喋りをしている女子生徒、船員に船について聞いている男子生徒など。
見れば、段差のある所に犬神が座っており、これが生徒達を静かにさせている要因でもあるようだ。
犬神を苦手に思う生徒は京子だけではない。
“何を考えているのか判らない”と、彼女ほどではないものの、聊か敬遠され勝ちなのである。
当の本人はそんな事は露程も気にしていないようだが。
そんな犬神に遠慮なく話しかけに行くのが、彼の担当クラスの生徒でもある、遠野杏子だ。
「センセー、写真撮っていい?」
「……ああ」
了承が出たので、遠野は早速カメラを構える。
犬神は特に何をするでもなく、ピースサインなどする訳もなく、じっと其処に座っている。
遠野も判りきった事であったので、そのまま遠慮なくシャッターを切った。
こんな調子で、遠野はずっと写真を撮り続けている。
メモリがなくなるんじゃないのと小蒔が言ったが、予備のSDカードを大量に持って来ているので心配いらないそうだ。
一週間もの長い行事なのだから、彼女にとっては当然の事である。
撮れた画像を確認した後、遠野はすぐにカメラを龍麻達へと向けた。
「はいッ、ピース!」
遠野の言葉に、殆ど条件反射で小蒔がピースサインを作る。
葵は突然の事に驚いて目を丸くし、醍醐は予想できていたようで苦笑していた。
そして龍麻はいつものように柔らかい笑みを浮かべて、カメラのシャッターが切られる。
画像を確認してみると、真ん中に葵、両隣に小蒔と龍麻がいて、小蒔の半歩後ろに醍醐がいる。
それはいつも通りだったのだが、龍麻の隣が不自然に空いていた。
「いつものクセでつい……」
「あー、いつもは京子がいるもんね」
ぽっかりと空白になったスペース。
小蒔の言った通り、確かに常ならば其処は京子の定位置であった。
「やっぱり京子も呼んで来ようよ。一枚くらい皆で撮ろう!」
「うん、そうしよッ!」
「そんな、まだ寝てたら悪いわ……」
「あ、桜井さん!」
葵と醍醐の止める声を聞かず、小蒔と遠野は無邪気に走り出す。
カンカンと甲板を蹴る音が響いて、葵が慌てて二人を追い駆けて行った。
龍麻と醍醐は顔を見合わせて苦笑し、またその後を追い駆ける。
何処に行っても変わらない光景に、龍麻は酷く浮かれている自分を自覚する。
同時に、やはり隣に京子がいない事への違和感も募っていた。
船室は空間が閉じられているから、外よりも賑やかに思えた。
過ぎた悪ふざけをする生徒はいないが、持ち込んだカードやお喋りに余念がなかった。
グループごとに分かれた生徒達の輪の中には、マリアのように教師も一緒になっている所もある。
龍麻達が先に船室に戻った小蒔と遠野に追い付くと、二人は京子がいるであろう席の前で立ち尽くしていた。
きょろきょろと辺りを見回す二人の下まで近付いて見れば、席には人の姿はなく。
「京、いないの?」
「みたい。寝てるとばっかり思ってたんだけどなァ」
「騒がしくなって来たから、移動したのかも知れませんね」
誰かに聞いたら判るかも、と遠野が通路を挟んで反対の列に座っていた生徒に声をかける。
普段は何かと目立つ京子だが、今日は朝から静かだった。
船に乗って早々に寝落ちたし、賑やかな小蒔と遠野は葵と一緒に船外に行き、直に龍麻と醍醐も傍を離れた。
こうなると、眠った彼女を見に来る生徒は殆どいないと言って良いだろう。
寝起きの彼女はかなり不機嫌だが、低血圧なので暴れる事もない。
きっと騒がしさに目を覚ました後、憮然とした表情で黙ったままフラフラと移動して行ったに違いない。
遠野は入り口近くで生徒達とトランプをしていたマリアに駆け寄った。
「マリアセンセー、京子見なかった?」
「蓬莱寺さん? えーと……ついさっき、外に出て行ったわね」
ついさっき、と言う事は、龍麻達とは入れ違いになったと言う事か。
直ぐに探そう、と意気込む遠野達に、騒がしくしないようにと注意の声が飛んだ。
約百人を収容出来るクルージング船だから、大きさもある。
甲板の広さは勿論の事、船内も。
生徒の殆どは甲板か、甲板に設置されている船室にいたが、他にも甲板から降りて船内に行く事も出来る。
船員の案内で船底にある床がガラス張りの部屋に行けば、フィッシュウォッチングも楽しめた。
普段中々見る事が出来ない海の底の光景は、何処か神秘的にも見えるものだ。
底まで下りずとも、窓から海中を眺める事も出来、漂うクラゲや泳ぐ魚をじっくり観察する事も可能である。
京子一人を探すには、この船は聊か広過ぎた。
別に急いて探さなければいけないような理由はない。
その為、各々好きにクルージングを楽しむ事にし、そのついでに京子を探そうと言う話になった。
とは言うものの、龍麻にとってどちらがメインかと問われれば、迷わず京子である。
だから、全く興味がない訳ではないけれど、龍麻は船内へ降りようとはしなかった。
後部甲板に赴くと、生徒の姿はあるものの、やはり疎らだ。
犬神の姿は見られなくなっていたが、手摺に寄りかかって海を眺める生徒達は、静かなもの。
龍麻は辺りを見回して、壁とガラスで仕切られた船室の壁に、白いハシゴがかかっているのを見つけた。
迷わずそれに手を伸ばして、登って行く。
船室の屋根になる部分にも、空間はあった。
四方4メートル程度の広さで、恐らくイルカウォッチングの為に設けられたスペースだろう。
手摺に固定の望遠鏡が設置されており、一組のカップルがそれを覗き込み、ひそひそと小声で楽しげに話している。
望遠鏡が設置された反対側に、一脚の長ベンチがあった。
龍麻は其処で、ようやっと恋人の姿を見つける。
(やっぱり猫みたい)
静かで、日当たりが良くて、風通しの良い場所。
座って腕を組んで眠る京子に、龍麻はくすりと笑う。
一人分のスペースを空けて隣に座ると、気配を感じたのか、京子の頭がピクリと震えた。
望遠鏡を覗いていたカップルが、楽しげに何か囁きあった後、ハシゴを下りて行く。
─────完全に、二人きりになってしまった。
「……京、」
呼ぶと、京子は小さく唸るように音を漏らす。
それからゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……お前ェか」
「うん」
ぼんやりとした霞のかかった瞳で龍麻を見て、京子は言った。
確認にもならないその言葉に頷けば、ふあ、と大きく欠伸を一つ。
「……眠……」
「みたいだね」
「……誰の所為だと……」
ベンチの背凭れに寄りかかって、空を仰ぐ京子。
その口から恨めしげな声が零れていたが、怒りよりも眠気の方が強いようで、食って掛かる様子はない。
誰の所為。
考えずとも、自分の所為だと、龍麻も自覚していた。
祭りを途中で抜けて、廃寺で京子を抱いた。
ホテルに帰ったと思ったら思わぬ事件が起きていて、予想外の戦闘。
それから眠い疲れたと言う彼女に構わず、龍麻はもう一度情交に及んだのだ。
昨日の夜だけで酷使された京子の身が疲弊しない訳もなく、サボってしまったマリアの説教を朝一番に聞いた事もあって、彼女にとってはこの12時間は正に踏んだり蹴ったりと言った所だろう。
とろとろ、また眠りに入ろうとしている京子の髪に手を伸ばす。
潮風を受けて揺れる髪は、珍しく、常ほど傷んではいない。
「昨日、お風呂入った?」
「部屋の奴な……ベタベタしたくねェし」
「一緒に入れば良かったね」
「ふざけろ」
足を踏まれた。
痛い、と言うと京子にじろりと睨まれ、自業自得だと言外に告げられた。
自覚はあるので、龍麻はへらりと笑うだけだ。
しばらくぐりぐりと踏み締めた後で、足が退く。
京子のサンダルは底が柔らかかったので、実際の所、然程傷みはなかった。
ふあ、と本日何度目になるか判らない欠伸をして、京子は目を閉じる。
「…京」
「……あ?」
「…クルージング、楽しい?」
「………暇……」
眠い京子にとって、退屈なのは良い事だろう。
あれこれとしなければならない事がないから、眠っていても誰にも怒られない。
惜しむらくは、船室が思いの外賑やかになってしまった事だろう。
だから人の気配や騒音に敏感な京子はゆっくり眠っていられなくて、こんな場所まで移動したのだ。
……お陰で龍麻は、こうして彼女と二人きりで過ごせるのだけれど。
「……眠い」
「寝ていいよ」
「…言われなくても、寝る……」
言って、京子の体が傾いた。
ことんと龍麻の肩に彼女の頭が乗る。
(─────……びっくりした)
ぱちりと目を瞠って瞬きする龍麻に、京子は気付かない。
もう眠ってしまったから、気付く訳もない。
…モーターの音が遠い。
波を切る水飛沫の音も。
風は相変わらず穏やかで、二人の頬を撫でて行く。
京子が見つかった事を葵達に伝えねばならない。
とは思うのだが、こうしてのんびりとした時間を二人きりで過ごすのは、中々来ない機会である。
携帯電話もないから、一挙に連絡できないし。
等と考えて、龍麻は今だけはそれに感ける事に決めた。
隣で静かな寝息を立てる京子を眺めながら。
] ■
京ちゃん、ずっと寝っ放し(笑)。
昨日のアレやコレやで疲労がピークでした。そりゃそうだ。