夜の世界 : 第四節








「うわッ、何しやがる、気色悪ィ!」




男の垢だらけの手が触れたのは、京子の胸部。
柔らかい感触と、外套に覆われていたそれが思ったより大きかった事に、男はひひっと楽しそうに笑う。




「なんだァ、結構イイ乳してんじゃねえか。こりゃヤり甲斐がありそうだな」




男の言葉の意味を、京子は理解出来ない。
出来ないが、とにかく不快を煽るものであったことは確かだ。


向けられる刃の意味は判らない、怖いと言う感覚も判らない。
錆折れた切っ先は、京子にとってはなんの意味も持たなかった。

しかし、触れる男の汚らしい手に、京子は喉の奥底から何かが競り上がってくるのを感じた。
それは気を抜けば喉から口に移動して、さっき食った果実ごと出てきてしまうような気がする。
背中に当たる男の体さえも、嫌悪の対象になっていた。



京子はどうにか逃れようと身を捩ったが、でもさっき動いたら駄目だって────と八剣を見遣る。
その八剣は此方を───京子の背の男を冷たい瞳で見据えていた。




「……下衆め」




呪詛を吐くような、地の底から響く冷たい声音で八剣は呟いた。

龍麻は黙したまま、男を睨んでいる。
自分たちの後ろに立つ二人の男など、最早意識の外だ。


その気になれば、龍麻も八剣も、男から京子を救うことが出来る。
二の足を踏ませるのは、互いに本調子ではないことと、京子に眼前に刃が向けられていることだ。
下手に動いてタイミングを間違えれば、彼女の目は失われることになる。

刃が僅かでも京子から離れる瞬間を、二人は見逃すまいと構えた。




「放せ、やだ、嫌だッ」




頬を舐める舌、髪の匂いを嗅ぐ鼻、間近で吐かれる臭い息。
どれもこれも気持ちが悪くて、京子は“嫌”と言う感情を初めて感じていた。


龍麻が手を繋いでいた時とは違う。
八剣が頭を撫でていた時とも違う。

あの時は胸の奥がふわふわとしていたのに、今は腹の奥から何かが逆流してくるような苦しさだけ。



京子の胸をまさぐっていた手が、下肢へと伸びた。
その時、僅かに拘束の力が緩んだのを、京子は感知する。






「─────放しやがれって言ってんだッ!」





躊躇なく、男の腹に肘を撃ち込んだ。
思ってもいなかった衝撃に、男は瞠目して、一瞬呼吸を失う。

──────見逃すことなく、龍麻と八剣が動いて、彼らを拘束するべく近付いていた二人の男は意識を失った。




京子が腕からどうにか抜け出したが、バランスを崩して地面に転んだ。
鑪を踏んだ男は、一つ息を吐いて呼吸を取り戻すと、京子を睨み付けた。




「待ちやがれ、テメェ!」




京子を捕らえようと伸ばした手は、彼女を掴む事は出来なかった。
思うよりも先に京子の体は動いて、伸ばされた手を逆に捉えると、力任せに男の腕を捻る。
細身の腕に何処にそんな力があるのかと思うほど、強引に。


男の腰には、小刀があった。
迷わずそれを掴んで、引き抜く。
反動を殺さず、そのまま柄頭は男の顎を撃ち付けた。

打ち付けた衝撃が、柄を握る京子の手に伝わった。
手が痺れて、小刀は地面に落ちる。




「────このアマァ……なんてことしやがるッ!!」




折れた赤錆の刀が京子の頭上から振り下ろされる。
しかし、それが彼女に届くことはなく。


ぎゃりぃ、と耳障りな音。
金属と赤錆が擦れ、剥がれた錆がざらざらと地面に落ちる。







「それはこっちの台詞だ、下衆が」







京子の前に立ちふさがり、刀を受け止めたのは八剣。
その目はやはり冷たく据わり、無表情の瞳に浮かぶのは侮蔑と憤怒。

射殺さんばかりの鋭い眼光。
このまま殺される────男がそう考えたのも、ごく自然な事だった。
生命の維持を求める動物の本能が、この男は危険であると警鐘を鳴らす。



刀を引いて逃げるべきだと、そう判断するまでが八剣にとっては既に遅かった。

ヒ、と短い悲鳴の声が上がった瞬間、八剣は腕を振るった。
刀が月の光を受けて閃く。




その後京子が見たのは、五人の男全てが地に落ちている光景だった。




「京ちゃん、大丈夫かい?」
「京、怪我してない?」




地面に座り込んだままの京子に、八剣と龍麻が声をかける。




「……けが?」
「痛いところない?」
「………」




痛いところ─────少し考えていると、足がジンジンとしていた。
外套から足を出してみると、袴が少し破れ、膝から見慣れぬ色が滲んでいる。

なんだろう、と見ていると、急に体が浮いた。
顔を上げれば八剣の顔があって、彼の腕が京子の背中と足の下にあり、体重を支えていた。




「緋勇、手拭と包帯を」
「うん」




端的な確認をして、八剣は地に落ちた男達の輪から離れた。


道の端の木の根元に京子を下ろす。

八剣は、そっと京子の膝の傷に触れた。
ぴりりとしたものを感じて、京子は顔を顰める。




「痛い?」
「………?」




初めて地面を歩いた時、足の裏にあった感覚と同じ気がする。
だから、これは痛いと言うものだと判ったが、八剣が酷く心配そうな顔をする理由が判らずに、京子は首を傾げた。
痛いと思うから痛いのだろうとも思ったが、気にするほどの事でもないような気がして。



返事をしない京子に、八剣は目を伏せた。
また判らないのだろうと思ったのだ、“痛い”と言う感覚を。


いずれにしても、このまま放って置く訳にはいかない。

子供が見ても大した事ではないと思う傷でも、今の京子にはどう作用するか判らない。
ほぼ無菌の状態で過ごし、自らの力を失った彼女の免疫力は、殆ど皆無に等しい。
入り込んだ雑菌が全てを壊す可能性は、十分あった。



龍麻が差し出した濡れた手拭いで、京子の膝を拭いた。
布が傷口に触れる度、京子の肩が少し揺れたが、これは我慢して貰う他ない。
幸い、京子は嫌がるような素振りを見せなかった。

包帯を巻けば、傷は綺麗に隠された。




「軟膏があれば一番心配ないんだけど」
「持ってないんだ。僕、あんまり必要ないから」




龍麻が持っているのは最低限の応急処置の道具だけだ。
今の彼女を護るには少々心許ないが、普段世話にならないから、持っていないものは仕方がない。


立ち上がる二人に倣って、京子も立とうとした。
が、出来ない。




「京? どうかした?」
「………あし、」
「足? 痛い?」
「……動かねェ。あと、手……と、腹…気持ち悪ィ」




小刀の柄で男の顎を撃った時の衝撃が、まだ手の中に残っている。
ぴりぴりとしたそれは、痛みと言うほど鋭くはなかったが、思うように動かなくなっている。

腹の中が何かぐるぐるとしていて、京子はそれを痺れのない手で抑えた。
しかし収まる訳もなく、寧ろそれは喉へと競り上がってくる。
さっきの気持ち悪さと同じだ。


八剣が京子の痺れた手に触れる。
その手は、小さく震えていた。




「多分、急にあれだけ動いたから、筋肉が収縮に追いつかなくて、余分な負荷がかかったんだろうね」
「……?」
「体がびっくりしてるんだよ。あんなに動いたこと、なかっただろう?」




言い直されて、京子は思い出す。
確かに、小さな世界にいた時は、ほんの少し歩いたりするだけで、後は寝たりぼんやりしているだけだった。

そうすると次に浮かんでくるのは、なんで動けたんだ? と言う疑問。




「オレ、あんなに速く動けたのか」
「みたいだね」




龍麻が笑う。


そうか。
そうだったんだ。

龍麻の言葉はやはりすとんと落ちてきて、京子は違和感なくそれを受け入れた。
今まで出来なかった────と言うより、した事がなかったことが出来ると言うのは、初めてではなかった。
さっきだって木登りが出来たし、走ると言う行為も小さな世界では必要なかったけれど、此処では出来た。
だから出来るものだったんだと、京子は素直に受け止めた。



でも、今は全く体が動かない。
腹も気持ちが悪いし。



いつまでこれは続くのだろうと思っていると、体が浮いた。
さっきと同じように、八剣の顔が近くにある。




「俺が運ぶよ。昨日みたいに延々歩かせる訳にも行かないし」




普段とは少し違う角度の視界を、京子は怖がることもなければ、嫌がる様子もない。

以前なら決して大人しくしていなかっただろうに。
親に抱かれた子供のようにじっとしている様が、龍麻と八剣にとってはなんだか可笑しかった。





地に付している男達をそのままに、龍麻と八剣は再び目的の方向へと歩き出す。


遠ざかる男達を見遣って、京子は聞いた。




「あれ、起きるのか?」
「起きるよ。気絶させただけだから」
「…きぜつ?」
「無理やり寝かせた…って感じかな」




転がる男達の顔は、見えたのは僅かだったが、苦悶に歪んでいた。
寝ている感じにゃ見えねェけど────と思った京子だったが、自分は知らない事が多い。
自分よりも色んな事を知っている二人がそう言うのだから、そうなんだろうと思うことにする。


それより────京子はもまた一つ、気になることを訊ねる。




「オレ、なんで動けねェんだ」
「だからそれは─────」
「お前らは歩けるのに」




龍麻と八剣が、自分よりもずっと早く動いていたことを、京子は気付いていた。
男達には殆ど消えたようにしか見えなかった動きでも、彼女は確りと目で追えた。
そのことを京子は知らないが。

自分よりもずっと早く動いた二人は、変わらず自らの足で立って歩いている。
何故なのか、京子には不思議でならない。


男の腕から逃れて、再び京子を捕まえようとその手が伸びて来た時、京子の頭の中は殆ど真っ白だった。
何処でどう動くかなど考える間もなく、腕が動いて、体が動いて、視覚情報は自覚なく認識され、どうするべきかと言う判断を脳は筋肉へと信号を伝達させていた。
小刀に手を伸ばした時も、それを掴んだ時も、腕は京子が意識するより勝手に動いていた。

ああやって動けることを、京子は知らなかった。
速く動くこと、体が勝手に動くこと─────何もかも。






「……ヘンな気分だ…………」






京子のその呟きは、誰に対してのものでもなく、零れ落ちたもの。


腹の奥がぐるぐるする。
あの気持ちの悪い手は、もう此処には存在しないのに。

頭も少しぐらぐらしていた。
特に考え込んでいた訳でもないのに、また不思議な事が起こる。





それきり黙り込んだ京子に、龍麻も八剣も何も言わなかった。
答えを求めているようでもなかったし、何より、今以上に混乱させてしまうだろうから。































腕の中の少女が眠りについたのは、山賊達と遭遇した場所からそう離れない内の事だった。

黙り込んでいる内に疲労は睡魔を運んできたようで、京子はそれに逆らわなかった。
自らの足で歩いていた時と違い、八剣の腕に身を任せていた彼女は、意識を保つ術を持っておらず、僅かな揺れも手伝って、訪れた眠気に誘われるまま夢の世界に意識を落とした。


今の所目的地としている人里へは、今日明日と歩き通していれば辿り着くはずだ。
先刻のような事もあるだろうが、あの程度なら時間のロスには入らない。





京子が眠ってから、四半刻。
龍麻と八剣の間に会話はなく、ただ歩いた。


─────その沈黙を破ったのは、八剣だ。





「どう思う?」





問い掛けの言葉に、龍麻はしばし沈黙した。
八剣の示した事柄は判っていて、それについて考える────正しくは、考えていたことを今一度、頭の中で纏めてみる。




「……覚えてないけど、覚えてる。多分、そんな感じ」




二人が共通に思い浮かべているのは、眠る前の京子の言葉。


彼女が先刻の山賊の一人と対峙した時、その時間はほんの数秒だったが、あの身のこなしは見事だった。
再び自分を捕まえようとした腕を受け流し、反転して男に向かって地を蹴った。
男の懐に飛び込むことに躊躇せず、男の小刀を抜いて退くのではなく迎撃に出る。
顎は人体急所の一つ、小刀の堅い柄を其処に撃ち放つまで、彼女は表情を変えなかった。

幾ら今の彼女に恐怖心と言う感情が理解できていないとは言え、あの動きはそれだけで説明がつくものではない。
普通、人は人を傷付ける時に無意識にセーブがかかり、自分の体を痛めない為に全力を出す事は出来ない。

京子は迷うことなく山賊を討つつもりで、一撃を浴びせた。
その後、恐らくその衝撃から、彼女の腕は使い物にならなくなってしまったけれど。




「頭では判らないんだ、きっと。でも体が覚えてるから、動いた」
「……だろうね」




筋力も握力も、脚力も落ちている京子。
普通に歩いているだけが恐らく精一杯、走れば一分と体力は持たないだろう。

そんな体で、それ以上の力を瞬発的に使ったから、足も動かなくなって、手も痺れる。
腹が気持ち悪いと言ったのも、恐らくそれが原因の一つだろう。
踏み込む時、撃ち込む時、自然と腹に力が入り、それが今の彼女には思う以上の負担になったのだ。




「…少し厄介だね。あんな事が何度も続くと、京ちゃんの身体の方がもたない」




殆ど無意識の行動だから、抑制の仕様が難しい。




「だけど、やっぱり京は護られてばっかりは嫌なんだと思うな」




八剣の腕で眠る京子を見つめながら、龍麻は呟いた。
それを聞き止めた八剣は、もう一つ彼女が言っていた事を思い出して、溜息を吐く。




「そう────だろうね、……あれは」




守られること、庇われること。
女としての扱いを受けることを、彼女は生来から嫌っていた。

昔から彼女は、女だてらに気が強く、武器を持てば一騎当千、据わった度胸は誰にも引けを取らない。
それは恐らく、彼女が自分自身を見失った今も、強く根付いているのだろう。
彼女がそんな自分に気付くよりも先に、彼女の本能が“守られなければならない”ことを拒否している。


同じだけの事をして、自分だけが動けなくなってしまう。
歩き続けていれば龍麻と八剣よりも早く限界が来る(本人はそれを気付いていないだろうけれど)。
山賊に一時捕まった事も、恐らく京子は無意識下で消したい過去だと感じている。



今は仕方がない事だと、龍麻と八剣は思うけれど、彼女自身はそうは行かない。




「早く力を取り戻す方法を探さないと、その内、癇癪起こすかも」




笑って呟く龍麻に、八剣は深々と長い溜息を吐いた。
あながち冗談にならないような気がしたのだ、彼女の性格を知っているからこそ。




「見つけるなら早くして欲しいね。宥めるのは大変なんだから…」




その為にも、先ずは早く人里に辿り着かなければなるまい。









──────深い深い森の中。

月明かりだけが照らす道を、彼らはただ歩き続けた。











篝火 : 第一節
この京子よく寝るなー(笑)。
一応、それに関しても設定はあります。…それについてはまた今度。

今回の副題は“覚えてないけど覚えてる”でした。