夢路の翳 : 第二節








帰らない。
帰りたくない。

だってまだ、見つけていない。


京子が小さな世界から外へ出たのは、夢に見たものをもう一度見たいと思ったからだ。
夢の中にある束の間のものとしてではなく、目の前に広がり、消えることのない現実のものとして。



京子は見たものがどういうものであったのか、人に伝える術を持たない。
だから彼女が夢に何を見たのか、知っているのは京子自身だけ。
それでも龍麻は、外にそれが存在すると言っていたし、故に京子は彼の手を取り外へと飛び出した。

少年がそれを知っているかは京子の知る由ではないが、京子は決めた。
今口に出して告げた自分自身の言葉で、決めた。


夢で見たものを見つけるまで、帰らない。





─────それを告げた直後、柔らかだった少年の表情がぐるりと一転した。





「………どうして?」





先程まで京子が紡いでいた問いかけと同じ言葉を、少年が口にした。

京子の手を掴む少年の手が、どんどん冷たいものになって行く。
その冷たい手を離さないまま、少年は京子を見据え─────いや、睨みつけた。


それまでの柔和な笑みを失った少年の瞳は、まるで氷のように冷たい。
だが京子はそれを怖いと思う事はなく、腹の奥や頭の中も常と変わらず平静としたものであった。
少年の鋭い眼光は、京子を畏怖させるには何かが足りなかった。




「帰りたくねェ」
「どうして」
「あそこにねェから」




主語を抜いた言葉を少年が理解できるか、京子は考えなかった。
そんな事を考えられるほど、まだ彼女の思考能力は発達していない。



初めて夢を見た後、京子は小さな世界で夢で見た色を探し回った。

記憶の始まりから、あの夢を見るまで、どれ程の時間をあの部屋で過ごしたのかは判らない。
小さな空が何度も色を変わるのを見たけれど、それが何度起きたかも知らない。
ただ今更探すようなものがある部屋でもない事は、薄らと認識していた。


それでも探さずにはいられなかったのだ。
夢に見たあの色を。



結局夢で見た色は見付からず、外にあるかも知れないと思った。
小さな世界の他にどんな世界があるのかは判らなかったが、八剣は小さな世界の外から京子の下へとやって来ていた。

彼の世界なら、夢に見た色はあるのかも知れない─────そう思った頃に、龍麻が現れた。

龍麻は、八剣と正反対で、京子を小さな世界から連れ出そうとした。
差し伸べられた手は決して京子の意志を無視することはなく、彼はただ、京子の返事を待っていた。
待って、待たれて、考えた末に、夢に見た色があるのかと聞いた。
夢に見た、夜とは違う空が外に行ったら見付かるのかと聞いて────「見付かる」と龍麻が言ったから、京子は彼の手を取ったのだ。




そうだ。
あの夜とは違う空が見たかったから、京子は小さな世界から外へ出た。

そしてまだ、夢に見た色を、京子はまだ見付けていない。
今戻ったら、なんの為に外へ出たのか判らなくなる。
繰り返し繰り返し見た夜じゃない空を、この目で見る事が出来なくなる。




「まだ見てねェ。だから嫌だ。帰らない」
「……見たら帰るの?」




少年の黒々とした瞳の奥。
握った冷たい手に力が入って。

何かの答えを求められている事が京子も判ったが、それが何かは判らない。
判らないし、判ってもきっと京子は答えを変えなかっただろう。




「ンなの知らねェ」




まだ見てもいないのに、見た後の事を聞かれても、京子には答えようがない。
今の京子には目の前の事で頭が一杯だから、その先の事は想像のしようがなかった。


京子の答えに、少年が頭を振った。
それじゃ駄目だよ、と。

少年の冷たい両手が京子の手を握る。
包まれているのに冷たいのが不思議で、京子は自分の手を握る少年の手を見下ろした。
傷も何もない綺麗な両手は、京子よりも色が白く、なんだかか細く思えた。




「帰るんだ」
「なんで」
「見た後なんて遅い。今すぐ帰って来て」




少年の声が必死なものに聞こえて、京子は首を傾げた。


どうしてそんなに帰れと言うのだろう。
八剣でさえ、京子にあの小さな世界に帰れとは言わなかったのに。

いや、この場合、八剣の方が変なのだろうか。
外に出るなと何度も言っていたのに、京子が外に出ると連れ戻そうとはしない。
おまけに一緒について来ているのだから、やはり変なのは八剣で、目の前の少年は普通なのか。




とす、と少年が京子に寄りかかって来た。

胸の上に少年の頭があって、少し重い。
握られた手は今の京子に見る事は出来なかったが、触れられているので、恐らく握られたままなのだろう。


こんな風に触れて来るのは、この少年が初めてだ。


それを見下ろす京子に舞い込んできた感覚は、京子に唄と手毬遊びを教えた小さな子供達を見ていた時の感覚に似ている。
あの感覚は龍麻や八剣やアン子に対して感じることはなく、毬をついて遊ぶ子供達を見ていた時だけ感じたものだった。

この少年は見た目こそ龍麻や自分と同じような大きさをしているが、中身はあの子供達と同じなのかも知れない。
胸に額が摺り寄せられるのを感じて、これも子供達が京子に抱き付いた時と似ていた。
あれやって、これやって、と言っていた子供達の姿が、何故だかこの少年と重なる気がした。



……だとしたら、この少年は何を望んでいるのだろう。






「帰ってきてよ、    ………」







─────少年の声が消えた。

不自然に、一節だけ。


それに変だな、と京子が感じたのはほんの一瞬で、次の瞬間にはそれはもう消えてしまっていた。
少年が顔を上げ、くしゃくしゃに歪んだ顔で京子を見上げたから。




「俺が一緒にいなかったから?」
「……?」
「だから外がいいの?」
「お前は知らない」




だから関係ない。
少年の問いに、京子はきっぱりと答えた。

また少年の顔が歪む。


なんだか悪いことをしている気分になって来た。
なって来たが、だからと言ってどうすれば少年がこの顔を止めるのかは、京子には判らない。




「………判ってるんだ」
「何が」
「俺のことは関係ない。そうだ。覚えてないんだから、俺は関係ない」




関係ない。
今、京子が少年に向けて告げた言葉だ。
寸分変わらない。

なのにどうしてか、少年がその言葉を呟いた瞬間、胸の奥がずきりと音を立てたような気がした。


泣き出しそうな顔で見上げる少年に、何かを言おうとして、京子は何を言えば良いのか判らなかった。
握られていた手が離れ、少年の手は京子を抱き締めるように背中に回る。
しばらく、そのまま抱竦められたままで、京子は月も星も夜もない空を仰いでいた。



抱き付いたままの少年は、沈黙してしまった。
少年が冷たいのは、どうやら手だけではないようで、触れ合った場所全体が冷たかった。
けれど、その冷たさを京子は決して厭うことはなかった。

どうしてこんなに、この少年の体は冷たいのだろう。
京子の頭を撫でた八剣や、あの時差し出された龍麻の手は、暖かかったのに。





ぼんやりと空を見上げて、どれ程の時間が経っただろう。
現実味もなければ変化もないこの夢の中は、時間が経つと言う概念そのものが失われているようにも感じられた。

そういや、夢っていつ終わるんだ─────京子がそんな風に考え始めた時だ。




「─────………?」




少し息苦しさを感じて、京子は首を傾げた。

背中が痛い。
腹をぐぅっと押されているような気がして、京子は空を見ていた目を下へと下ろす。


其処にいるのは、変わらず胸に顔を埋めている少年。



なのだけれど。







「ッ!!」




ギリ、と背中に回された腕に力が篭り、更に京子の呼吸を圧迫した。
締め付けられる痛みに息が詰まり、声にならない悲鳴が上がる。

少年の肩を掴んで、爪を立てた。
息苦しさと背中の痛みからの咄嗟に出た行動だったが、それが功を奏してくれた。
先の京子と同様に少年が小さい悲鳴を上げ、締め付けの力が緩む。
そのまま京子が少年の肩を押すと、少年は京子から身を離した。




「……ッん、だよ、テメェ…ッ」




痛む背中と腹。
締め付けは消えても、容易くは消えてくれないそれらに顔を顰めながら、京子は少年を睨んだ。


こんな事をされたのは、記憶の始まりまで遡っても初めての事だ。
八剣は京子にこんな事をした事がないし、それは龍麻も同じ事。

森の中で野盗に捕まった時でも、あれだけ力任せに締め付けられてはいなかった。
刀を突きつけられる事はあったが、それは京子にとって畏怖でもなんでもなく、あの時動かなかったのは龍麻と八剣が動くなと言ったからだ。
這う手や間近で匂った息の臭さは辟易したが、痛みによる阻害は何もなかったと言って良いだろう。



踏鞴を踏んで後退した少年は、俯いていた。

京子は改めて、少年の成り立ちを全体から見る。
自分よりも小さく、龍麻よりも二周り以上細い印象を受ける少年が、あんな力で締め付けてくる等誰が思うだろう。




「……痛い?」
「あ!?」
「苦しいよね」




呟かれた言葉に吼えると、同じ低さで違う言葉が続けられる。



痛い。
苦しい。
痛くて、苦しい。

苦しいのは大分治まってきたけれど、痛いのはまだ続いている。



少年は顔を上げると、そんな京子を見て笑んだ。
それまでの柔らかな笑みではなく、もっと別の─────笑みで。




「嫌だろ? 痛くて苦しい外なんか」




ほら見ろ、やっぱりそうなんだ。
そんな言葉が少年の笑みから聞こえてくるような気がする。




「ほら、帰ろう。君の居場所は、あそこなんだから」
「いやだ」
「駄目だよ」




京子の拒否を、少年は拒絶する。


空の色が変わってきた。
少年の瞳と同じ黒に、じわりじわりと染まっていく。

足元のふわふわも同じ色になって来る。
京子はそれを見ていたが、動くことなく、その場に立ち尽くして少年を見据えた。




「自分で帰らないつもりなら、俺が連れて帰るよ」
「いやだ」




帰るつもりはないし、連れ帰られるのも御免だ。

仮に今、龍麻が帰った方が良いと言っても、京子は聞かないだろうし、相手が八剣でも同じ事だ。
見たいものを見ていないから、誰に何を言われても、京子は帰るつもりはない。






「なんだか知らねェ奴の言う事なんか、聞きたくねえ」






真っ直ぐに見据えて、京子は告げた。
少年は漆黒に染まっていく世界の中心で、そんな京子を見て笑う。

さっき“知らない”と言われて泣きそうに顔を歪めた少年は、其処には既に存在していなかった。




「駄目だよ。連れ戻す。絶対に」





冷たい瞳の少年を中心に、突風が吹いた。
足元のふわふわが全て吹き飛んで行き、空の黒が残っていた色を急速な勢いで飲み込んでいく。
まるで少年の思いのままに、世界が改変していくかのように。

その中で京子の立つ足元だけが、それまでと同じ色を保っていた。
後は真っ黒な顔料で塗り潰されてしまったように、他の色を失っている。


京子諸共吹き飛ばそうとするかのように、風が強くなっていく。
京子は腕で顔を覆って、足に力を入れた。

ズリ、と僅かに足が後ろへ押し出されたものの、どうにかその場に踏ん張る。





そうして風が止み、目を開けた時には、世界はやはり黒く塗り潰されていて─────その中心にいた筈の少年は、其処にいたと言う気配さえも残して消えていた。








『連れ戻すよ。絶対に』

『だって君は俺の    ────────』








不自然に途切れた、言の葉の断片を残して。
























重い瞼を持ち上げて、最初に見つけたのは、淡い月色の光を放つ石。
少しの間それを見詰めた後で、龍麻が握れと言っていて、そのまま握り締めていた事を思い出す。

それから、自分が眠っていた事に気付いた。


起き上がると、眠る以前まであった“感覚がない”感覚は消えていて、腕も足もちゃんとあるのが判った。
石を持っている手の感覚は勿論、敷布に触れる手も柔らかい布の感触が感じられる。
足元にも同じ感覚はあって、少し手を伸ばすと布団をはみ出し、ざらざらとした畳の感触を感じられた。



上半身だけを起こした状態で、京子は辺りを見回した。
其処にあるのは眠る前に見たものと同じ風景で、違いがあると言ったら、龍麻の姿がない事くらいか。

それにしてもやけに静かな感じがして、京子は落ち着かなくて頭を掻いた。
龍麻と八剣も此処にはいないようだし、外から聞こえてくる音もない。
物音を立てる要因となるものは、この空間の中に京子一人しか存在していなかった。


頭の中はまだ少し茫洋としていたが、もう一度眠ろうとは思わなかった。
立ち上がるのは面倒で四つんばいになり、ずるずる這って閉じられた窓へと向かう。

膝立ちになって障子窓を開けて、桟に掴まって京子はようやく二本の足で立った。





桟に登って見たものは、静まり返った町の風景。
チンドン屋が音を立てている事もなく、子供が駆け回る姿もなく、一つ向こうの大路は人の気配すらない。

この部屋の中と同様に、世界は酷く静かだった。





空を見る。
月も星もない夜の空だった。

星がない日は小さな世界でも見たことがあったが、外に出てからは初めてだ。
何か黒くて大きなものが空を覆っているのが判る。
なんだろう─────思って考えてみたが、まだこれについて聞いた事がなかったのを思い出した。


部屋の中や町が静かなのは、この所為だろうか。
いつもより少し世界が暗くて、大路を照らす篝火だけでは町を照らすには足りない。
その篝火も、眠る前に京子が覚えていたものよりも、幾らか縮んでいるように見えた。


月も星も灯りのない空だから暗くて見えにくいのに、どうして篝火が縮んでいるのだろう。
近くで見える幾つかのものにいたって、消えてしまいそうな程に小さくなっていた。
野宿の時、森の中は時々月も星も見えない場所があって、龍麻は其処では少し大きな火を起こしていたと思うのだけど。



眠る前───それよりも前に見た筈の大きな灯りの揺らめきは、今は何処にもない。
あんなに大きく揺れ動いていたのに、まるでそれがあった事すら、この風景が忘れてしまったようだ。




見え難い町並みをもっとよく見ようと、京子は窓外に作られている柵に触れた。
落下防止の為に築かれたその柵は湿っていて、冷たさに驚いて京子は手を引っ込める。

暗がりの中でよくよく見ると、柵が濡れていたのが辛うじて判った。


もう一度手を乗せてみる。
まるで何かが京子の手に滲みこんで来るかのように、じっとりとした感覚が手全体に伝わって来る。
けれども別に気持ちの悪いものではなかったので、京子はもう手を引っ込めなかった。



湿った柵に両手を添えて、京子は柵から乗り出して下を覗き込んだ。
宿の入り口が下にあって、其処に面した道に、ぽつりぽつりと丸いものが点在しているのが見えた。

────水溜りだ。

雨が降っていたのだ。
それも、ついさっきまでの事。
だが“雨”を知らない京子には、水溜りさえ見たことのない不思議なものだった。




あった筈のものがなくなって。
なんだか、知らないものが出来ている。
京子はそれが何なのか気になって、龍麻に聞こうと思った。

桟を降りて畳に足をつけ、振り返る。





その時。







『待っていてよ』







耳に───いや、何かが頭に届いたような気がして、京子は背を向けたばかりの窓を見た。
其処から見える景色は、今まで見ていたものと何も変わってはいない。

あるのは、月も星もない、静かで昏い夜だけで、








『痛くて苦しいこの世界から』


『俺が救い出してあげるから』










聞こえたような聞こえなかったような、そんな曖昧な音。
どうしてそんな音が聞こえてくるのか京子は判らなかった。



……そう言えば。
今の声は、聞き覚えがあるような気が、するようにも、思えたのだけれど。

結局思い出すことが出来ずに、京子は前を向いたのだった。










夢路の翳 : 第三節
はっきりとした自我が芽生え始めてます。
何をすれば良いのかは判らないけれど、何がしたいか考えて、自分で答えを見付けられるようになって来ました。

でも知識は赤子同然なので、世界はまだまだ知らないものばかり。
判らなかったら人(龍麻)に聞く。