Event that no one knows. 後編





二日前。
夕暮れの道端で彼女から突きつけられた言葉は、一つの通告のように思えた。








『───────もう構うな!!』








……俯いたまま、彼女はそう叫んだ。
そして八剣を押し退けて、走り去っていた。

その擦れ違うほんの一瞬に、八剣は彼女の顔を見てしまった。




泣きそうだった。
いや、泣いていた。

涙がなかったのは、彼女のプライドによるものだろうか。



強気な顔は何度も見たし、疲れた顔も何度も見たし、怒った顔も見た。
笑った顔もほんの束の間ではあったけれど見る事が出来たし、恥ずかしそうに顔を紅くするのも見た。
後ろの二つは彼女にとって不本意な事だっただろうけれど。

八剣といると仏頂面だったり、不機嫌だったりと言う表情が多いが、基本的に彼女は忙しなく表情を変える。
怒ったりする時も程度が色々あるから、その時に応じて僅かではあるけれど違いがある。
八剣はそれを見つけるのが楽しかった。

一番見たいのは、彼女の笑った顔だけれど、まだしばらく見る事は叶いそうにない。
ゲームセンターで郷愁に笑みを漏らしたのを見たのが、精々であった。


彼女の表情は、色々見てきたと思う。
逢って間もない自分が言うのもなんだとは思うけれど。



だが、彼女の泣き顔を見たのはあれが初めてだ。




頬に貼られていた湿布。
隠してもいなかった打ち身の蒼痣。

出逢った時、もっと酷い傷を負わせたのは八剣だ。
今となってはそれも悔やまれる、本来ならば負わせる事がなかった傷だと知って尚更。
だからかも知れない、八剣は彼女が怪我をする事に対して余り良い顔をする事が出来ない。


その頬に触れていたら、彼女自身にその手を払い除けられた。
あの時のじんとした痛みは、払われた掌からだけではなかったように思う。



だが、八剣はあの時の彼女の行動を諌めるような事は出来なかった。
……あんな顔を見てしまったら、余計に、そんな事は出来ない。




自分の行動の何が、彼女の琴線に触れたのか。
八剣には判らない。

でも、このまま彼女を放って置く事は出来ない。


逢って何を言おうと言うのか、それは決めていない。
謝るのかも知れないし、彼女がいつも通りに振舞うなら、いつも通りに接するかも知れない。



構うなと、彼女が言ってから、ほんの二日。
今彼女に逢えば、彼女は間違いなく顔を顰めるだろうし、溝は益々深くなる。
だがこのままにしておいても、それは同じような気がしたのだ。





今日は平日だ。
彼女の通う学校に行けば、ほぼ確実に彼女に逢う事が出来る。
彼女がいなくても、学友の誰かを見つける事は容易い。

だが道端で偶然逢っても顔を顰められる自分だから、学校なんて行ったら眼も当てられない事になるだろう。
決して自分は歓迎される立場にはいないのだ。



彼女は寝床を決めていない。

数年間居候をさせてもらっているごっくんクラブにいる事が多いようだが、学友達の家に泊まることも少なくない。
週に一度は舎弟達と吊るんで不夜城をふらふらしているようで、とにかく、彼女の居場所は一所ではないのである。


その中でも一番確率が高いのは、居候させて貰っているクラブだ。
歌舞伎町を通り抜けた河川敷にある其処に、彼女はもう随分長いこと世話になっているらしい。

少し考えた後で、八剣は一先ず、そのクラブへと向かう事にした。





そうしてネオンの鮮やかな歌舞伎町へと足を踏み入れた所で、常とは違う騒がしさに、八剣は辺りを見回した。





ざわざわと雑多な人々の話し声が止まない道中。
あちこちで奇妙な会話が飛んでいるのが聞こえて来た。





「変な男が」

「蛸みたいな」

「何、あれ」

「化け物」

「気持ち悪ィ」

「特撮じゃねえの」

「飛んでって」

「カメラない?」

「女の子が」

「新宿の学校の」

「追っ駆けてった」

「木刀持ってた」





一つの単語が耳に入って、八剣は足を止める。


今、誰が。
辺りを見回して、先程の単語の出所を探す。

道の隅で数人、固まって高い声で騒いでいる女子高生に眼が留まった。




「あれってこの辺で有名な子じゃないの?」
「うんうん。よく見かけるもんね」
「いつも紫色の袋持ってたから間違いないよね」
「さっきのってテレビ? あの子タレントだったの?」




この辺りでよく見かける女子高校生、手には紫色の太刀袋。
時々物騒な雰囲気の男達を取り巻きにして、歌舞伎町の何処かで大立ち回りを繰り広げる人物。

其処まで特徴的な人物が、他にいる訳もない。


八剣は人の良い笑みを浮かべて、話し込んでいる女子高生達に声をかけた。




「ちょっといいかな」
「はい?」




振り返った女子高生は、八剣の顔を見てきゃあと一つ黄色い声をあげる。
その女子高生の正面に立っている者は、八剣の顔をちらちら見ながら、隣の友人とヒソヒソと話している。




「さっき言ってた女の子の事、少し聞きたいんだけど」
「え? …あ、木刀持ってた子?」
「そう。その子に何があったのか」




─────それから聞いた話は、やはりこの騒ぎの中心にいたのが、彼女であると言う事。



初め、彼女は数人のチンピラに囲まれていた。
チンピラ達は明らかに常軌を逸していた連中だったのだが、彼女は恐れる様子は微塵も見せなかった。

“歌舞伎町の用心棒”の異名を持つ彼女だから、それは日常茶飯事だったのだろう。


しかし此処からが普通ではない。
男の腕や足、果ては服の隙間───つまりは腹からだろうか───から、無数の蛸の足のような物体が現れ、彼女目掛けて一斉に襲い掛かったのである。

彼女は躊躇わず跳躍した。
それも普通のジャンプ力ではない、電柱よりも高く飛び上がったのだ。

その後、彼女は逃げ惑う周囲の人垣を避けるように、細い路地に滑り込んでいった。
異形と化したリーダーの男に指示されて、彼の舎弟になるのだろうチンピラ達は彼女を追い駆ける。
舎弟達が彼女を追い初めて数秒の後、男も路地の闇間に消えた。
無数の触手を生み出しながら。



一般人が聞けば、その眼で直に見ていない限り、夢物語だと言うだろう。
そうでなければ、ゲリラで特撮映画の撮影をしていたとか。

八剣だって普通に生活していたら、そんな話をした奴の頭の方が大丈夫かと思う。


しかし生憎八剣は普通ではないし、そう言った異形の生き物が、この大都会に蔓延っている事も知っている。
そして、彼女がそれを屠る《力》を持っていると言う事も。




……一頻り事情を聞けば、八剣は次の行動を迷わなかった。




「─────その子、どっちに行ったか判るかな」




問い掛けて指差された方向に、教えてくれた少女達にありがとうと一言感謝し、向かう。




心配するような事は、多分ない。
相手が普通のチンピラでも、生命の輪から逸脱した鬼でも。

けれども、聞けば放って置けない。
無事な姿をこの眼で見ないと、安心できない。
傍に緋勇龍麻らの友人の姿があれば別だろうが、聞いた限り、彼女は一人だったと言うから。



何かあったら助けようとか。
それで少しは溝が埋まるかも知れないとか。
そういう事は、考えていない。

ただ、彼女が近くにいると言うなら顔が見たいし、危険な場にいると言うなら其処に行って彼女の無事を確かめたい。
彼女はそれを嫌がるだろうけれど、せめて手出しはしないようにするから、傍にいるのは赦して欲しい。
それを言えば、彼女は目尻を吊り上げて、「誰が赦すか」
と怒るのだろうけど。


そして──────彼女が本当に危険な状態にあるなら、やはり、出張るのだろうけど。





路地を進む途中から、奇妙な気配が感じられるようになった。
それは残り香のように途切れ途切れで、微かなものであったが、道標にするには十分だった。


日が落ちて夜になり、冷えた空気の隙間から、おどろおどろしい“氣”が彷徨う。
足元を見れば、粘着質などろりと濃い液体が溜まりを作っており、時折足を滑らせる。
闇に眼を凝らせば、所々でぶつ切りにされた蛸の足に似たものが転がっている。

彼女が此処を通り、鬼がそれを追って行ったのは間違いない。



細い路地の途中で、道を塞ぐように数人の男が転がっていた。
明らかなチンピラ風のそれらは、殴打の後があり、既に絶命したが、殴打痕は致命傷には至っていない。
それ以外に傷がない所を見ると、彼女を襲った時点で男達の命そのものは尽きていたのかも知れないと思う。



彼女は、随分遠くまで走ったらしい。
周囲を巻き込まないように、自分が獲物を躊躇わず振るう事が出来る場所を探したのだろう。

道標になっている澱んだ気配と、地面に転がる男達を通り過ぎる。
最中、途中から男達の躯が砂のように崩れて行くのが見えた。
此処からは何も確認できないが、決着が着いたと見て良いのだろうか。




このまま進めば、寂れた商店街に出る筈だと思っていたら、その通り。
街灯すら殆どないが、動き回るには十分な広さを持つ其処に辿り着いた。





ぐるりと辺りを見回して、八剣は直ぐに目当ての人物を見つける。

─────見付けて、瞠目した。





「京ちゃん!」





昼間の雨の所為で作られた、汚れた水溜りの上。
其処に倒れ込んだ少女に、八剣は駆け寄った。


抱き起こして口元に手を当てると、呼吸は確りとしていた。
ただし、少し荒い。

水溜りに触れていた頬に触れれば、水に濡れている筈なのに、酷く熱い。



周囲に鬼の姿はなく、気配もない。
恐らく、片は着いたのだろう。

体調が悪かったのか、それとも鬼に何かやられたか。
判らないが、とにかく、このまま此処にいさせる訳にはいかない。


横にして抱き上げると、木刀を握ったままの右手が、ぶらりと宙に揺れた。




(確か────桜ヶ丘中央病院と、懇意だったか)




最初、ターゲットとして彼女を調べていた時、そんなデータもあった気がする。

あの病院は霊的治療も専門にしているから、都合が良い。
普通の病院に連れて行っても、鬼による特殊な攻撃を受けていたら、話にならない。
ただ、こんな時間───既に午後七時を迎えようとしている───に行って、受け入れて貰えるかは判らないが。


何処に行くにしろ、此処にいるよりはマシだろう。
そう思って、八剣は歩き出した。




その振動の所為だろうか、腕の中の存在が小さく震えた。




「っ……ん……ぅ…」




ふるり、瞼が震えて、持ち上がる。
半分だけ。

熱に蝕まれてか、京子の意識は朦朧としているようだった。


ぼんやりと、微かに潤んだ瞳に、八剣の顔が映り込む。




「…………?」




其処にいるのが、いつも警戒している相手である事が、どうやらは今は判らないらしい。
瞳は覗いているけれど、頭は殆ど回転していないようだった。




「……大丈夫だよ」
「…………」
「寝ていて良い。大丈夫」




子供を宥めるように囁いて聞かせる。
すると、またトロトロと瞼が落ちて行った。


水溜りの中に倒れていた所為で、京子の体は濡れている。
服も汚れた水を吸って冷たくなり、彼女の肌に張り付いて、京子の体温をより一層奪おうとする。

その寒さから逃れようとするように、細い肩が八剣の胸に押し付けられる。
八剣は、八掛で包んでおけば良かったかと今更ながらに後悔した。



































ふわふわ。
ぽかぽか。

そんな温もりを感じる。


そう思ったら、ゆっくりと、意識は覚醒に向かって泳いでいった。



まどろみながらも意識がクリアになりつつあった頃、小さい頃からずっと嫌いだった、けれども慣れ親しんでしまった消毒液の匂いが鼻腔を擽った。
それだけで、ああ此処か、と見当がついて、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。

すると予想通り、この数年で何度も見た天井と、中々に迫力のある女性────岩山たか子の顔が近くにあった。
子供の頃は彼女の顔を見る度、色んな意味で固まっていたものだけど、流石に世話になって五年以上が経つ。
あれこれ過去を知られているので、相変わらず苦手は苦手なのだが、顔のインパクトには慣れた。




「…………センセー」




呼んでみると、漏れた声は少し掠れていた。
だが目の前の人物に届くには十分だったようだ。




「やれやれ。やっと起きたね、このじゃじゃ馬娘は」




呆れたと言う風に言いながら、岩山の表情は柔らかい。


京子が寝ていたのは病院のベッドの上で、岩山はその横に椅子を引いて座り、京子の胸に手を翳していた。
その手からは青白い柔らかな光りが放たれており、目覚める時に感じた温もりは其処から感じられている。




「馬鹿な子だとは思っていたけど、やっぱり馬鹿な子だったんだね」
「……ンだよ。腹立つ言い方しやがって」
「当たり前だろう。自分の調子がどんなものかも判んないのかい」
「いてっ」




光りの消えた手が、京子の頭を軽く叩いた。


叩かれた場所を摩りながら、京子は起き上がる。
と、肩を押されてシーツに逆戻りする事となった。




「熱がある。寝てな」
「熱?」
「風邪だろうね。それで鬼と戦うんだから、本当に馬鹿な子だよ」




風邪。
ああ、やっぱりひいたのか。

確かに少し頭が痛い、他人事のように考えながらそう思った。
理由は判っている、昼間の体育の授業で降った雨の所為だ。
自習となったあの後はちゃんと着替えたけれど、冷やしたのは確かで、病み上がりでもあった。


でも、鬼と戦っている時はなんともなかったと思うのだけど─────




「それと、鬼の瘴気を吸い込んだようだね」
「………ああ」




あれか、と京子はまた一つ思い出す。

対峙した鬼が絶命する直前に吐き出した、大量の黒い吐息。
至近距離にいた所為で、それをモロに取り込んでしまった。

熱が出たのも、どちらかと言えばそれが原因ではないだろうか。




「悪い氣は抜いたから、問題はないけど、今晩は安静にしてるんだね」
「へーい」




此処で逆らっても、彼女に敵う訳がない。
重々それを理解している京子だから、ベッドの中で大人しくしている事に決めた。

根無し草が常の京子である。
寝床が暖かく安全だと言う事が確保できたと思えば、ラッキーなものだ。
半病人として寝ているので、明日の朝まで動き回れないのは少々退屈だが。



病室のカーテンを閉める岩山を一瞥して、京子はふと、ベッド横のサイドテーブルに置かれた時計に眼を向けた。
時刻はもう直日付を変える頃になっており、鬼と出会う前に街頭で見た時計は午後七時を回っていなかった事を思い出す。
風邪の所為か、あの黒い吐息の所為か、どうやら随分と長く眠り込んでいたようだった。

それから手元が空いている事に気付いて、妙に落ち着かなくなって、いつも握っている獲物を探す。
サイドテーブルに立てかけられているのを直ぐに見付けて、掴もうと思えば掴める距離にある事だけ、目測で確認する。


長く寝ていたようだったから、今から眠れる自信は、正直言ってない。
寧ろ腹が減っている、言ったら何か出してくれるだろうか────微妙な所である。

空腹を自覚したら、夕飯にありついていない事を思い出した。
腹も減る訳だ。
あの鬼、せめて飯食った後で出て来いよ、と八つ当たり気味に胸中で毒づいた。



空腹を誤魔化す意味も含めて眠ろうと、京子は掛け布団を引っ張り上げた。
その時、自分の着ている服の袖が眼に止まって、京子は病室を出て行こうとしていた岩山を呼び止める。




「なぁ、センセー」
「なんだい?」




上半身だけを起こせば、布団に埋もれていた服が電光の下に姿を見せる。

京子の格好は、いつもの制服姿ではなかった。
入院患者に配られる、飾り気のないシンプルな寝巻きと言う井出達だ。


此処にない制服がどんな有様になっているのか、なんとなくではあるが、記憶にあった。
寂れた商店街で鬼と戦って、澱んだ吐息を吸い込んだ直後、自分は倒れた筈で─────その時、自分は何処にいたのか。
汚れた水溜りの上に一度尻餅をついて少しの間餌付いて……それから立ち上がろうとして、失敗して。

水溜りの中に落ちる羽目になった。


多分、今は病院に備えられている洗濯機の中で回っているのだろう。
洗い終わったら乾燥機にかけて、明日の登校には間に合わせるように早く乾かして。
汚れが落ち切らなくても京子は気にしないし、もともと喧嘩やら何やらで解れや汚れが多かったから、今更目立つものでもないだろう。



いや、気になったのは、制服の在り処ではない。



水溜りに倒れた自分。
そのまま、今の今まで目覚めなかった────筈。

だって、京子は此処に辿り着いた記憶がない。






「オレ、どうやって此処に来たんだ?」






自分で歩いた記憶がない、此処まで歩けるような状態でもなかった。
でも眼が覚めたら此処にいて。

傍に誰もいないから、龍麻達とは違うだろう。
葵や小蒔、遠野は勿論、龍麻や醍醐も、岩山に追い返されない限り、京子が目覚めるまで此処にいるだろう。
此処でなくてもロビーとか。
そしているのならば、岩山は目覚めた事を伝えに行く筈だ。
それがないなら、京子を此処に運んだのは、彼らではない。




京子の問い掛けに、岩山は振り返る。
何を言っているんだい、と言う顔で。




「自分で来たんじゃないのかい?」
「だってオレ、此処まで来た覚えないぜ」
「あたしは知らないよ。あたしは、玄関口を閉めようと思って行ったら、お前が倒れているのを見つけただけだよ」
「…………そうなのか?」




それはまた、妙な話だ。

オレ、夢遊病でもしてんのか。
矛盾する自分の記憶と、岩山の言葉に、京子はがしがしと頭を掻いた。


その間に岩山は病室を出て行ってしまい、彼女の言葉の真偽を確かめる事は出来なかった。
…するタイミングがあったとして、京子に彼女の言葉の撤回を求める度胸があったかは、別の話になるが。




一人残された病室は、静けさはあの商店街と似ているのに、あそこと違ってずっと明るい。
電気を消していないからと言えばそれまでだが、消しても、此処はあそこと同じにはならないだろう。

あの暗く寂れた商店街から、この静かで温かな場所まで、自分はどうやって辿り着いたのだろう。



………自分で来たんじゃない。



岩山の言を否定する事になるが、京子はそう思った。
そうとしか思えなかった。

ならば、誰かが運んできたと言うなら、誰だろう。
龍麻達でないのなら、舎弟とか、そう吾妻橋とか────いや、それこそ京子が目覚めるまで此処にいる筈だ。
他に誰かいないか考えれば、如月とか雨紋とか、仲間の顔は浮かぶのだが、いやアイツらはしねェだろこんな事、と思い至る。
したなら、他の面々同様に、京子が目覚めるまで此処にいて、目覚めた京子に恩を売る(半分冗談で)だろう。




誰だろう。

誰が此処に連れてきたのだろう。




あの商店街から、この病院は少し距離がある。
近くに別の、普通の病院もあった筈だ。
それをわざわざ此処まで運んできたと言う事は、鬼の事や、この病院が霊的治療を行っている事を知っている人物になる。
後者は探せばいるだろうが、前者については早々いない筈。




誰、だろう。


誰。





(誰、か)






朦朧とした意識が、闇の中に堕ちていく中。
体の奥がどんどん冷たくなっていくような感じがして、酷く嫌だった。

あの感覚は、前にも感じた事がある。
唐突に道標にしていた陽光が消えて、永い永い夜の中にいた頃だ。
世界が明けない夜に支配されていた頃、京子はあの冷たい闇の中にいた。


一度堕ちた闇の中の温度を、京子はまだ覚えていた。
忘れる事など、出来る筈がない。



判っている。
冷たかったのは、闇じゃない。
倒れ込んでいた水溜りの所為。

けれど、吸い込んでしまった瘴気の吐息の所為だろうか。
京子は冷たい闇に落ちていくのが、酷く嫌だった。




その感覚の中で、動かない体をどうにか動かせないかと、意識の中でもがいていて。







(誰か、いた、ような)







暖かいものが、包むように触れて来て。
目を開けたら、柔らかい光があって。








(誰かが、)



(誰かが、『大丈夫』って、)



(言ってた、ような──────)










あれは、『誰』だったんだろう。













……それは、暗闇の中に差し込んだ、今はまだ小さな灯。














閑話