みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
今年も山の中で、沢山の蝉が鳴いている。
それを聞きながら、山頂へ続く山道の麓で、地面に落書きをするのが龍麻の日常。
時々自転車に乗った大人達が通り掛かって、今日もお絵かきかァ精が出るな、と言う。
“精が出る”の意味が龍麻にはよく判らなかったけれど、上手いなァと褒められるのは嬉しかった。
龍麻は、いつも此処にいる。
晴れた日はいつも。
小学校のクラスメイトは、山に登って蝉を取ったり、川で魚釣りをしたりしている。
けれど龍麻は、いつも此処で、一人で地面にお絵描き。
駆け回るのは嫌いではないけれど、龍麻は人の輪の中に入るのが苦手だった。
色んな子が遊ぼうよと手を伸ばしてくれるのだけど、どうしてか、その手を取るのを躊躇ってしまう。
怖がってばかりじゃ友達が出来ないのは判っているつもりなのだけど。
ずっとそんな調子だから、段々、周りも龍麻を誘わなくなった。
困らせて嫌な思いをさせたくないから、その事には少しだけ安心していたりする。
小学校の登下校も一人で、寂しくない訳じゃない。
だけど、どうやって人の輪の中に入れば良いのか判らないものだから、結局変わらないまま日々は過ぎる。
今日みたいに、一人で地面に絵を描いて。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
蝉の声、トンビの声、川魚の跳ねる音。
かりかり、地面を削る音。
ちりんちりん。
ひーちゃん、今日もお絵描きかい?
暑いねェ、お茶あげよう、美味しいよ。
じゃあね、暗くなる前に帰るんだよ。
冷たいお茶を飲んだら、なんだかすっきりしたような気がする。
明日から持って来れるようにお母さんに頼んでみよう。
でも大変かなぁと思いながら、龍麻はまた地面にお絵描きを始めた。
描くのはいつも、忍者やお城。
父が時代劇が好きで、だから龍麻もよく見るようになった。
お殿様やお姫様は今の日本にはいないけど、忍者はいると信じている。
彼らは人前に姿を見せてはいけないから、自分たちは見つけることが出来なくて、だからいないものだと言われているだけで、本当は今も何処かに忍の里と言うものがあって、其処で修行をしているんだと思う。
そう言ったら、父はそうだねぇ、と言ってくれた。
だから、いると信じている。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
このまま、空が茜色に変わるまで、龍麻は此処でお絵描きをする。
描いては消して、消しては描いて、気に入ったものは消さないで。
だけど明日になったら消えている、少しだけがっかりする。
誰とも一緒に遊ばない。
一緒に遊んでみたいけど。
もう皆との距離の縮め方が判らない。
だから一人で絵を描いて、空が茜になるのを待つ。
夕暮れになって家に帰って、母の作ったご飯を食べて、父と一緒にテレビを見て。
お風呂に入って、三人で寝る。
それが龍麻の日常。
ずっとずっと変わらない風景。
だと、思っていた。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
じゃり、じゃり。
じゃり。
足音。
最初は気にしなかった。
田んぼに行く大人が通りかかったんだろうと。
でも違った。
足音の主の影は、龍麻の前で立ち止まった。
短い影が龍麻の絵に被る。
地面ばかりを見ていた目を、少しだけ上げてみたら、自分と同じ位の大きさの足。
少し迷って、もう少し頭を持ち上げた。
自分と同じ大きさ足、擦り剥いた痕の残った膝小僧。
色落ちした半ズボン、汚れだらけの白いシャツ。
右手に長い棒を持っていて、左の手には虫取り網と虫かご。
龍麻がゆっくりゆっくり頭を上げている間にも、影の主は動かない。
じっとしていて、まるで龍麻が顔を上げるのを待っているみたいだった。
いいかな。
大丈夫かな?
思っても、誰も答えを教えてくれない。
どうしたい? と自分が自分に問いかけてくる。
迷って迷って、顔を上げて。
見下ろしていたのは、麦わら帽子を被った男の子。
見慣れない子だった。
誰だろう、と思い出そうと試みて、結局出来なかった。
この辺りに住んでいる子は少なくて、クラスも一学年で十人にもならない。
だから知らない子なんていない筈なのに、龍麻は目の前の男の子を知らなかった。
じっと見上げていると、麦わら帽子の男の子は口を開いた。
「これ、お前が描いたのか?」
両手が塞がっているからだろう。
手の代わりに、足で地面を鳴らして、これ、と示して男の子は聞いた。
そんな事を聞かれたのは初めてだったから、龍麻は少し、どう答えて良いのか考えた。
考えたところで出てくる答えは、真実以外の何者でもなく。
こっくり龍麻が頷くと、へー、と男の子は感心したように言って、しゃがむ。
「オレ、絵なんかガッコの授業じゃねえと描かねェよ」
絵を覗き込んでくる男の子の顔は、麦わら帽子に隠れてしまって、龍麻からは見えない。
それでも。
「すげーな、上手いじゃん」
その言葉が嬉しくて、龍麻の頬はほんのり赤くなった。
学校の休憩時間、自由帳によく絵を描いている。
連絡帳の隅にも、時々落書きをした。
先生にはよく褒めてもらうけど、クラスの子に褒めてもらったことはない。
お絵描きの授業で、自分より上手な子がいたから、その子に見られるのが恥ずかしかった。
何より、クラスの男の子達は皆外で遊んでいて、教室に残っているのは自分一人。
だから、同じ年の子に褒められた事は、ない。
初めて、同じ年の子に褒められた。
なんだか胸がぽかぽかする。
「……うまい?」
「おう」
問い掛けてみると、男の子は絵を見たまま、頷いた。
また、ぽかぽかする。
照れくさくって、嬉しい。
「なあ、これなんだ?」
絵の一つを指差して、男の子が訊いた。
「こうが忍者」
「コーガ?」
「こうがの忍者」
「ふーん」
龍麻もよく判っていなかったが、昨日、テレビでそんな忍者を見た。
頭に“甲”の字が入っている。
こいつは? と男の子は隣の絵を指差す。
「いが忍者」
「イガ? 栗か?」
「?」
「イガって栗のイガ?」
「…? ……多分」
首を傾げたが、そうかも知れない、と龍麻は頷いた。
ふぅん、と男の子は納得したらしい。
ほっとした。
判らなかったと知ったら、怒るかも知れない、と思ったから。
でも男の子はそうなんだ、と納得してくれたようだった。
「これ手裏剣か?」
「うん」
「これも?」
「それは、マキビシ」
一つ一つ指差して。
男の子の質問に、龍麻は答えた。
こんなに絵の事を聞かれるなんて、初めてだ。
大人達は上手いねェと言ってくれるけど、皆畑仕事で忙しいから、ゆっくり話が出来ない。
学校の先生には、採点はして貰うけど、直接あれがこうで、とは話していない。
クラスメイトの子には見せていないから。
初めてで、少しドキドキする。
「上手いな、お前」
また褒められた。
ぽかぽか、ぽかぽか。
暖かいのが止まらない。
訊かれてばっかりだ。
自分も、何か訊いた方がいいのかな。
でも、何を訊けば良いんだろう。
お絵描きの鉛筆代わりの石を握って、考えて。
「それ、なあに?」
「あ?」
男の子の持っている長い棒を指差して、訊いてみる。
男の子は顔を上げた。
麦わら帽子に隠れていた顔が、やっと見れた。
「何が?」
「これ」
「……ああ、コイツ」
龍麻の示したものを理解して、男の子はよく見えるようにと、棒を差し出してみせる。
「オレの木刀」
「ぼくとう?」
「剣術やってっから」
「…剣道?」
「違う、剣術」
言い直されて、龍麻は首を傾げた。
一緒じゃないの? と。
口にしなくても、男の子もそれを感じたらしい。
「よく知らねェけど、違うって父ちゃんが言ってた」
「ふぅん……」
どう違うんだろう。
龍麻が首を傾げると、男の子も傾げた。
男の子がよく判っていないから、剣術も剣道もしていない龍麻は、もっと判らない。
でも、違うと言うなら違うんだろう。
男の子は自慢げに、それを肩に担いだ。
それが、左手に持った虫捕り網と虫かごと、なんだか不似合いなような、そうでもないような。
でも、麦わら帽子は男の子の笑った顔に似合ってると思った。
棒のことは判った。
次は、何を聞こう。
「……虫、取りに行くの?」
虫取り網と、虫かご。
どちらもまだ新しそうだった。
やっぱり、この辺りの子じゃないのかも。
だってこの辺の男の子は、夏になるといつも虫取りをして遊んでいる。
龍麻と同じ年の子の虫取り網や虫かごは、穴が開いたり、ボロボロだ。
いや、単に新しく買い直して貰ったのかも────。
考えていたら、男の子も考えていた。
「行く、つもりだったけど……」
「?」
「やっぱ、今日は止めとく」
男の子は虫取り網と虫かごを地面において、自分も座る。
山の麓の道の端っこ、龍麻と向き合う形で。
男の子は、また地面の絵に視線を落とす。
そうすると、麦わら帽子の縁の所為で、男の子の顔は見えない。
「此処でお前の絵見てる方が、面白ェや」
言われて、龍麻のまんまるい目が、零れそうな程開かれて。
だけど男の子は、それを知らない。
龍麻も、男の子の顔を知らない。
今、どんな顔してるの?
どんな顔して、言ってくれたの?
訊いてみたかったけれど、どうやって訊けばいいんだろう。
判らなくって、考えて、まあいいか、と思うことにした。
笑ってたらいいなぁ、と思って。
「ぼく、龍麻」
「京一」
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
かりかり。
かりかり。
きらきら、ふわふわ。
小さな世界が、ゆっくり、ゆっくり、広がり始める。
(夏休みで5題 / 1.麦わら帽子に隠れた笑顔)
龍京ちみっ子。ほのぼの。
微パラレルだと思います。
季節的にアップ早いかなぁと思ったんですが、最近真夏並みの気温ですので…
夏の気分で読んでやって下さい。