もう直、電車がやって来る。
そんな時間になっても、息子は頑固なままだった。




バカ息子、とよく揶揄った。
しかしそれでも、やる時はやる。

けれど、こんな時には臆病で、まだまだガキなんだと。





「……京一」





ベンチに座って、麦わら帽子に顔を隠して俯いたままの息子に、声をかける。
返事もなければ、顔を上げることもなく、まるで貝みたいだと思う。




「電話ぐれェなら、今からでも十分間に合うぞ」
「………」
「其処に公衆電話あるだろう。100円やっから、行ってこい」




ふるふる。
京一は、首を横に振った。

父は、はっきりと溜息を吐いた。




息子が何を嫌がっているのか判っている。



自分の口から、あの言葉を言いたくない。
あの子に向かって、あの言葉を自分の口で言いたくない。

だから電話をするのも嫌がって、今朝も父を頼って伝えてもらうのが精一杯。
自分であの子に、あの言葉を告げたくない。
だって、本当に嫌だから。


さよならなんて、したくない。



けれど、もう直ぐ夏休みは終わってしまって、東京の学校も授業が始まる。
母も娘も東京の家にいるから、自分たちは帰らなければ行けない。

それは京一も判らないほど幼くはなくて、だから友達にさよならしなきゃいけないことも判っていて。


………だけど、言いたくない。
さよならなんて、したくない。




「ばあちゃん、年だからな……お前も知ってるだろ」
「………」
「そろそろ、病院とか行った方がいいんじゃねェかと思ってんだ」
「………うん」
「足ィ悪いだろ。ばあちゃん。一人にしてちゃ、危ねェかも知れん」




今年の夏に此処に来たのも、そんな祖母の説得の為。


大きな田舎の家は、確かに思い出も沢山あると思うけど、孫たちの為にももう少し長生きして欲しくて。
何かが起きて大変なことになる前に、何処か───例えば子供達でも直ぐに行ける場所の病院だとか。
移っては貰えないだろうかと。

そんなに頑固な祖母ではない。
せめて自分が逝くまでは家も土地もそのままにしておいてと、それで話はまとまった。


子供の京一は、難しい話はよく判らなかった。
でも、こんなに遠い場所に一人で住んでいたおばあちゃんが、近くに来てくれるのなら嬉しかった。
それは、京一にとってとても嬉しいことだったのだけど。






「だからな。来年、此処に来れるかどうかは、判らねェ」






それはつまり。
此処で出会った友達と、もう逢えなくなるかも知れなくて。



東京から此処までは、遠い。
子供だけで来れる場所でもないし、移動に時間もお金もかかる。

だから、息子には悪いけれど、もう来ない可能性もあった。


だから何も言わずに此処を離れて、ずっと後悔するよりも、せめて何か言った方がいいんじゃないかと父は思う。
けれど、この息子は誰に似たのか、妙に聞き分けのないところがあって。




「行って来い。電話すぐ其処だ」
「………」



やっぱり、京一は首を横に振った。


あの言葉を、自分であの子に告げた瞬間、全てが夏の夢になってしまうような気がする。
楽しかった日々も、現実にあった筈なのに、あの言葉が全て夢にしてしまうようで、だから言いたくない。

こんな別れ方も初めてだから、余計に怖くて言えなかった。




電車がホームに滑り込む。

父が立ち上がっても、京一はベンチから降りなかった。
帰らなきゃいけない、でも帰りたくない。
息子の気持ちは判るし、父自身もやきもきした所はあったけれど、父は息子を抱きかかえて電車に乗った。


こうしてやると、いつも子供扱いするなと怒るのに、今日ばかりはしがみついて来る息子。
バカ息子、と呟いたのは無意識。




乗客の少ない電車のボックス席に座って、京一を窓側に下ろす。
窓の肘掛に寄りかかって、京一は広がる田舎の風景に見入った。




実の成り始めた田んぼ。
さらさら流れる小川。
山から聞こえる、鳴きやまない蝉。

どこでどんな風に遊んだのか、覚えてる。
底が見えなくなるぐらい、沢山の記憶があちらこちらに散らばっている。



夏の強い陽の光の下で、春の陽気みたいにふんわり笑う友達は、思い出全部の中にいて。




さよならなんて、したくない。





間もなく、発車します。
アナウンスの声が車内に響いて、ドアの閉まる音がした。

丁度、その時。












「待って!」











聞こえた声に、無情にもドアは閉まる。
けれども、その声は確かに、京一の耳に届いた。


景色が動き始めたのも構わずに、京一は夢中で窓を開けようとした。
しかし、施錠された電車の窓の開け方が判らず、ガタガタと音を立てるだけで、気ばかり焦る。

後ろから腕が伸びて、それは父のものだった。
直ぐに窓は開けられ、京一は危ない事なんて頭に一つも浮かばずに、窓から外に乗り出した。



見付けたのは、駅のホームを走る友達。




























「龍麻、」





必死に走る最中、京一の呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げて前を見れば、窓から乗り出す、見慣れた麦わら帽子。

龍麻は手足を精一杯動かして、出来る限りの速さで走る。
列車はまだ速度を出していない。




「京一、」
「龍麻、お前、なんで」
「お父さんに、自転車」




焼き場にいた父を母が呼んでくれて、自転車に乗せて此処まで連れてきてもらった。
もっと早くもっと早くと珍しく急かす息子に、父は応えられるだけの速さで応えてくれた。

そうして、今、間に合った。

列車は既にドアを閉めてしまったけれど、まだ加速していない。
友達の存在はまだ此処にあって、遠い遠い東京じゃない。
言葉を紡げば、届く距離。




「バカ、危ねェ」
「京一だって危ないよ」




電車と並んで走るのも、走る電車の窓から乗り出すのも。
どっちも危ないけれど、今はそんな事は問題じゃなくて。




「龍麻、オレ、」




何かを言いかけて、京一が喉を詰まらせた。
見上げた瞳に浮かんだ雫に、龍麻も視界が滲みかけて、目を擦る。

そうしている真に、列車は少しずつ少しずつ、加速を始める。
残された最後の時間は、残り僅か。





「龍麻、」
「京一、」





言葉を捜す京一に変わって、龍麻が口を開く。






「また、逢えるよね、」
「龍、」
「いつでも、いいから。来年でも、来年じゃなくても、」






いつでもいい。
いつでも。

来年でも、再来年でも、十年先でも。
いつだっていい、もう一度会えたらいつだっていい。


それがどんなに遠い日でも。






「だから、だから、」






だから、さよならなんて言わないで。
これっきりみたいに言わないで。

もう逢えないなんて、言わないで、思わないで、決めないで。


楽しい日々は、直ぐに過ぎてしまうけど、また繰り返される時が来る。
そう教えてくれたのは、他でもない、目の前にいる友達で。




だから。







「また、逢えるよね、」







手を伸ばしても、もう届かない。
少しずつ開き始める、二人の距離が、今もまだ寂しくて悲しい。



時間が止まってくれたらいいのに。
夏が終わらなければいいのに。

何度思ったか知れない。
何度願ったか判らない。
叶うはずのない、子供の希望。


だって時間は止まらない、夏は過ぎて秋になる。
蝉はもうじき鳴くのを止めて、コオロギや鈴虫が鳴き始めて、川の水はもっともっと冷たくなる。
山の緑は緋色に替わって、空の蒼も少し変わって、稲穂は重くなり頭を垂れる。

でもそれと同時に、この小さな自分たちの手も、少しずつ大きくなってくれるはず。
届かないこの距離を、もう一度縮められるくらいに、足も速くなるはずだから。









「今度は僕が、逢いに行くから」









─────最初の一歩は、京一からだった。
だから今度の一歩は、龍麻から。

届かなくなったこの手を、もう一度届かせる為に。



だから、さよならなんて言わないで。





「……ばぁか」





赤い顔で、京一が呟いた。
それから、腕でごしごし目を擦ってから、












「またな、龍麻!」












龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔。
ほんの少し、涙の滲んだ、きらきらの笑顔。




ホームの終わりに立ち止まって、精一杯背伸びして手を振った。
同じように、京一も、窓から乗り出して手を振った。

見えなくなるまで、ずっとずっと。


滲んだ視界を、また擦って、見えなくなった笑顔を忘れないよう心に刻む。







さよならなんて言わないで。
もう逢えないなんて言わないで。

だって逢いに行くんだから。


だって、大好きな友達なんだから。













この夏が終わっても、


キミと出逢った思い出は、ずっとずっと忘れない。



















(夏休みで5題 / 5.夏の終わり)


最後は“さよなら”に決めてました。
悲しい感じにならないように、未来に向かってく感じで。

意外と京ちゃんがよく泣いたなぁと……感情の起伏が龍麻より激しそうなので。
京一が弱ると、やっぱり龍麻がちょっと男らしくなります。でも天然気味。
そして出張りに出張った京一の父ちゃんでした(笑)。