目が覚めて、父と一緒にラジオ体操をして。
母の手製のご飯を食べて、食器洗いのお手伝い。

それから、障子戸を開け放った部屋の中で、朝のテレビ番組を少しの間眺めてから。


いつものように外に向かおうと思った所で、電話が鳴った。



母はまだ水仕事をしていて、父はもう焼き場に行っていた。
電話機は玄関にあって、どの道そこに向かうから、ついでに出ようと思った。

少し背伸びをして、古びた黒電話の受話器を取る。




「もしもし、ひゆうです」
『ああ、坊主か』




受話器の向こうから聞こえた声は、少ししゃがれた男の人。




『京一ンとこの親父だが、おふくろさんいるか?』
「お皿洗ってます」
『そうか。少し急ぎなんだがな、替われるか?』




聞こえる声は至って落ち着いていて、急いでいるようには聞こえない。
でも急ぎと言うから、急ぎなんだろう。

龍麻は受話器を持って、台所にいるだろう母を呼んだ。




「お母さん、電話」
「はいはい」




ぱたぱたと足音を立てて、エプロンで手を拭きながら母が出てくる。
持っていた受話器を、京一のお父さん、と説明して渡す。


もしもし、緋勇です。
おはようございます。
ええ、ええ、此方こそ。

見えない電話向こうの人に頭を下げている母。
それを少しの間見つめてから、そうだそろそろ行かなくちゃ、と龍麻は思い出した。



今日はどんな遊びをしよう。
山の中に行くのもいいし、麓で絵を描いていてもいいし、川辺で遊ぶのもいい。

虫取りも、魚取りも、木登りも、なんでも楽しいから、龍麻はいつも迷う。
前はそんなに楽しいと思ったことのない遊びでも、京一と一緒だったらなんでも楽しい。
きっと、大好きな麦わら帽子の笑顔があるからだ。



そうだ。
あのつり橋。



ふと思い出した。
初めて二人一緒に山に入ったあの日、見つけられなかった遠くのつり橋。
あの日は結局迷子になってしまったけれど、今度は見つけられるかも知れない。

前回ギブアップしてしまった冒険に、もう一度挑戦してみるのも悪くない。
あの時よりは龍麻も山に慣れたし、ちゃんと目印をつけながら歩けば、帰る時だって迷わない。




それから─────






「ああ、ひーちゃん、ちょっと待って」






下駄箱から出したサンダルを履き掛けたところで、母に呼び止められる。
母はまだ電話で話をしていた。


別段、龍麻に急ぐ理由はない。
京一がやって来るのは、いつだって昼を過ぎた頃だった。

それでも朝早くから家を出るのは、待っている時間も楽しいからだ。
何をしよう、何で遊ぼう、なんの話をしよう────そう思っている時間が、とても。




サンダルを履いて、龍麻は電話が終わるのを待った。



まあ、まぁ。
そうですか、それは…
判りました、伝えておきます。

此方こそ、本当にありがとうございました。



チン。
小さなベルの音がして、受話器は戻された。

電話を終えた母は、一つ小さな息を吐いてから、土間に立ち尽くす息子に振り返る。
その表情が心なしか寂しそうに見えて、龍麻はどうしたんだろうと首を傾げた。




「あのね、ひーちゃん」




膝を曲げ、息子と同じ目線の高さになって、母は話し始めた。
落ち着いて聞いてね、と。




「京一君ね、もう遊べないんですって」
「……なんで?」




告げられた言葉の意味と、そんな言葉を告げられる意味と。
判らなくて問いかければ、母はまた寂しそうに眉を下げる。




「京一君、今日、東京に帰っちゃうの」
「…とうきょう?」




聞き覚えはあった、その単語。
テレビで時々見た事がある、高い高い建物が沢山ある場所。
車が沢山走っていて、電車が一杯あって、人が沢山いる場所。

でもそれが何処にあるのか、龍麻は判らない。
外国のような気さえする。
それぐらい、龍麻にとって“東京”とは遠い遠い地だった。




「京一君のおうちは、東京にあるの。こっちには、おばあちゃんが住んでてね。夏休みの間、遊びに来ていたんですって」




だから、龍麻は最初、京一の顔を知らなかった。
児童の少ない小さな村の、小さな小学校で、同じ頃の年なのに、顔を見た事がなかった。
夏休みの間だけ、此処に来るから。




「もう直ぐ、夏休みも終わりでしょう。新学期の準備もあるし…もう帰らなくちゃいけないんですって」





…そんなこと。
そんなこと、京一は一度も言わなかった。
昨日もなんにも言わなかった。

いつものように遊んで、いつものように水や砂やホコリまみれになって。
龍麻の好きな麦わら帽子の笑顔は、いつものように、きらきら輝いて。



さよならなんて、一度も。




「本当は、昨日言おうと思っていたらしいんだけど」
「……」
「結局言えなくて、さっき、お父さんから、伝言貰ったの」
「伝言……?」
「そう。京一君から。自分じゃ、言えないからって…」




頭が追いついていないのが判った。
何が、どうなって───京一が遊べないのかが、判らない。



浮かんで来るのは、龍麻を引っ張っていく、剣ダコのある、日焼けをした手。
生傷が絶えないのも、勲章みたいに見せて歩く、膝小僧。

案外照れ屋で、直ぐ耳の先っぽまで真っ赤になる。
それでも、大きな声で好きだよと言ってくれて。


きらきら輝く太陽みたいな、麦わら帽子のあの笑顔。




「約束破ってごめんねって。言えなくてごめんねって…」




きらきら輝く笑顔の内側で。

さようならを言えるタイミングを探してた?
ごめんを言える場所を探してた?



好きだよと言ったその声で、さよならの言葉を言おうとして、いた?




「楽しかったって。面白かったって。ひーちゃんと一緒に遊べて、嬉しかったって」




母の言葉と。
告げられなかった京一の声。

頭の中で重なって、繰り返される。








約束破って、ごめん。
言えなくてごめん。


楽しかった。
面白かった。
嬉しかった。

龍麻と一緒に遊べて、凄く。



だけどごめん。
もう帰んなきゃ。

さよならなんだ。




ごめん。
約束破ってごめん。
言えなくて、ごめん。



もう一緒に遊べなくて、ごめん─────………









「もう直ぐ、電車に乗っちゃうって。だから、京一君のお父さん、急いでかけてきてくれたの」





立ち尽くす息子は、果たして判ってくれるだろうか。
判ってくれたとして、それは我慢ではないだろうか。

滅多にわがままを言わない息子に、母は心配になった。


龍麻が、あんなに友達と一緒に楽しそうに過ごしているのは、随分久しぶりだった。
波長が中々合わないのか、あまり他の子と遊びたがらない息子が、この夏はとても楽しそうで。
そんな夏を一緒に過ごした友達が、もう会えなくなるなんて知ったら、この子はどんなに悲しむだろう。




水槽の中の金魚が、泳ぐ。
あの日友達と分け合った、二匹の金魚が。




少しの間、龍麻は立ち尽くした。
告げられた言葉の意味を、何度も何度も、頭の中で繰り返して。

手を繋いでいた、昨日の温もりを思い出して。


温もりを逃がさないように、強く強く握り締めて、顔を上げる。






ごめん、なんて。
そんな言葉、いらない。

謝らなくたっていい、怒ったりなんかしないから。







「お母さん、駅ってどこ?」









だから、さよならなんて言わないで。