あなたが此処にいてくれる事が、嬉しいの


















Happiness of the existence called you

















眠い目を擦りながら、起き上がる。
潜っていた布団から顔を出すと、部屋の中の冷たい空気が頬に当たった。

冬の真ん中である一月下旬であるから、壁に守られた室内でも底冷えが酷くなるのは無理もない。
こうなると、起きて一番に認識する空腹感よりも、暖かい布団から抜け出る方が辛くなる。
けれどこのまま芋虫でいれば、折角作って貰った暖かい朝食を食べ損ねてしまう訳で────それも辛い。


京一は冷える肩を摩りながら、のろのろと布団から這い出た。
アンジーに買って貰った厚手のパジャマを脱いで、腹や背中の冷たさを堪えつつ、手早く着替えを済ませる。
合間に小さなくしゃみを漏らしつつ。


ベッド横に立て掛けていた木刀を掴んで、廊下に出ると、寝室よりも冷たくなった空気が京一を襲った。
お陰で、布団の中で目覚めた時の眠気は一気に飛んでくれたが、代わりにぶるっと肩が震える。

洗面所に入って、空気以上に冷たい水で顔を洗う。
蛇口から出て来る水に当てた手が痛みすら覚えるような気がしたが、ぐっと我慢して、手の皿に貯めた水を顔に押し付けた。
二回、三回と唇を噛んで、乱暴に顔を濡らした後、やはりまた乱暴にタオルで拭いた。



冷たくなった顔を手の甲でごしごしと擦りながら、また廊下を歩く。
それ程長くはないその突き当りにあるドアのノブに手をかけて、今日の朝飯なんだろ、とドアを押して、




「京ちゃん、お誕生日オメデト〜!」




ぱん、ぱん、ぱん!

耳に馴染んだ明るい声と、連続した破裂音に、京一は固まった。



時間にして一分少々のフリーズに見舞われた後、京一はアンジーに促されてソファへと座らされた。
一体何が起きたのかと目を丸くする子供に、『女優』の面々は可愛い可愛いと言って黄色い声を上げる。

ぽかんとしている京一の髪に、赤や黄色の紙吹雪が絡まっていた。
アンジーはそれを一枚一枚丁寧に取り除き、寝癖のついた髪に手櫛を通す。
根から跳ねてしまった髪はそれだけでは元に戻らなかったが、京一を現実に戻してくるには十分だった。




「…兄さん?」
「うん、なあに?」




隣にいるアンジーを見上げて呼べば、にっこりといつもの笑みを浮かべている彼女がいる。
京一がきょろきょろと辺りを見回してみると、同じような笑みを浮かべたキャメロンとサユリがいて、京一の動向を見守っており、ビッグママはいつもの通りカウンターの向こうにいて、席に座った京士浪に食事を出していた。

此処にいる人達は何も変わっていないのに、何かが違うのは、何故だろう。
京一は腕に絡まっていた細い紙テープを摘まんで、目の高さまで持ち上げた。




「……なんだこれ」
「何って、お祝いよォ」




京一の言葉は、紙テープの出自について問うたものであったが、アンジーは破裂音から今までの行動についてのものと思ったらしい。
それもそれで疑問であったので、京一は質問を修正する事はせず、アンジーの返答にことんと首を傾ける。




「祝い? なんの?」
「あら、京ちゃんったら。自分の事なのに、忘れちゃったの?」




自分の事?

京一の首が反対側に傾いた。
そうした仕草が、いつもの天邪鬼ぶりとギャップがあって、アンジー達を虜にする。


アンジーの大きな掌が、京一の赤茶けた髪を撫でる。
『女優』に来た頃はそれすら嫌がって頭を振っていた京一だが、一年も経てば大分慣れた。
明らかな子供扱いに頬が膨らむ事もあるが、それでも、この手から伝わる温もりは好きだと思うようになっていた。

子猫のように目を細める京一に、アンジーは撫でる手を離すと、店の壁にかけられたカレンダーを指差した。




「今日は1月24日。京ちゃんのお誕生日よ」




言われて、京一もようやく思い出した。
今年で12回目の、自分自身の誕生日を迎えた事を。



『女優』に来るまでは、年度末から続くイベントラッシュ───クリスマス、大晦日、正月に続く人生一大イベントとして、誕生日が其処に並んでいた。
誕生日になるといつもより我儘が言えるし、お菓子も貰えたし、プレゼントもあったから、いっそ毎日誕生日だったらいいのに、なんて事を考えた事だってある。
それを口に出したら、姉から「あっと言う間におじいちゃんよ」と言われて、それは嫌だと青くなった。


────そんな記憶も、今の京一には酷く遠い記憶の話だ。

一昨年までは指折り数えて待ち遠しく感じていた誕生日だが、去年からはそれをすっかり頭から追い出していた。
年齢を数えるよりも、一日でも早く強くなりたくて、日付の感覚も忘れて木刀を振う。


だから去年は、誕生日を祝われる、なんて事はなかった。
『女優』の人々も京一の誕生日を知らなかったし、京一も自分の誕生日の事などすっかり忘れていた。
アンジーから誕生日がいつかと聞かれた時には、季節は既に夏を迎えていて、アンジー達が残念がっていたのを覚えている。

お祝いしたかった、と言ったアンジー達に、京一は別にいいよと素っ気ない返事をした。
それは、何も祝われる事が嫌だった訳ではなくて、素直になれない天邪鬼が顔を出しただけの事。
アンジー達もそれは十分判っていて、代わりに来年の誕生日は目一杯お祝いしてあげる、と約束していた。




「だから、お祝いしなくちゃね」




優しい瞳の中に、京一の顔が綺麗に映り込む。
その柔らかな眼差しが、嬉しくて、けれど照れ臭くて、




「べ…別に、誕生日とかンなの…そんな大袈裟な事しなくてもいいだろ」




いつもの天邪鬼が顔を出して、京一はふいっと明後日の方向を向いた。
けれども、そうした事で、赤くなった耳がアンジーの目に留まる。




「もう、京ちゃんったらカワイイ!」
「ぐえッ」




ぎゅうと力一杯抱き締められて、息苦しさにじたばたともがく。
羨ましそうなキャメロンとサユリの声が聞こえたが、京一はそれ所ではなかった。

一頻り抱き締めて気が済んだのか、アンジーの力が緩んだ隙に、京一は彼女の腕から抜け出した。




「苦しいんだって、兄さん達のそれ」
「釣れないのねェ。でも、そんな所も可愛いわよ」
「聞いてねェし……」




赤くなった顔を、手の甲でごしごしと乱暴に拭って誤魔化す。
アンジーはそんな京一を、いつものようににこにこと柔らかな笑みを浮かべて見詰めていた。

キャメロンとサユリが駆け寄ってきて膝を折り、ソファに座る京一と目線の高さを合わせる。




「京ちゃん、今日は誕生日なんだから、一杯ワガママ言っていいのよ」
「アタシ達、京ちゃんの為になんでもするわッ!」
「なんでもって……ンな事言われてもなァ」




なんと言ったものかと、京一は思案するように頭を掻く。


欲しいものがあるかと言われると、今の京一には、直ぐに思い浮かぶものがなかった。
学校に行っていた時のように、友達が持っている物を羨ましいと思う事もなくなったし、漫画やアニメのDVDは言わなくてもアンジー達が買って来てくれる。
服は着れれば十分だと言う考え方だから、オシャレなんて興味がない。

食べ物の事など尚更で、ラーメンぐらいしか食べたいものが思い付かない。
それはビッグママに頼めば良いから、キャメロン達が言う“ワガママ”とは違うだろう。



でも、「なんでもしてくれる」と言われると、自分が王様になったような気がして、ちょっと悪戯心も湧いてくる。




「キャメロン兄さん、兄さんの化粧道具ちょっと貸してくれ」
「いいわよォ」




京一のお願いに、キャメロンは特に何か尋ねてくる訳でもなく、直ぐに頷いて腰を上げた。

程なくして戻ってきたキャメロンが差し出した化粧ポーチは、小さいけれど、パンパンに物が詰まっている。
蓋を開けて中を覗きこんでみると、口紅にアイブロウにマスカラにと色々なものが入っているが、京一にはどれが何に使われるのかはさっぱり判らない。
取り敢えず、真っ赤な口紅を取り出してみると、それはキャメロンの唇のように鮮やかな赤色をしていた。


にーっと京一の顔に悪戯っ子の笑みが浮かぶ。




「キャメロン兄さん、顔こっち貸してくれ」
「あら、お化粧してくれるの?」
「まーな」
「可愛くしてねン」
「無茶言うなよ」




キャメロンの言葉に素直な感想を返せば、酷ォい、なんて声が返って来た。
けれどキャメロンは笑っていて、京一に言われた通り、顔を寄せて目を閉じる。

京一はにやりと笑って、真っ赤な口紅をキャメロンの頬に押し付けた。
右と左にぐるぐる渦巻を一つずつ、鼻の頭も塗ってやれば、いつも濃く見える筈のピンク色のチークすら褪せて見える。
ついでにお約束、と額に一文字書いて、京一は噴き出しそうになるのを手で押さえた。




「ぶ……くくっ……」
「京ちゃん、どう?」
「お、おう。いいぜ。いい感じ」




キャメロンが目を開けて、どう? と言ってサユリとアンジーを見た。
二人も京一と同じように口元を押さえて、サユリが着物がハンドミラーを掲げてみせる。




「────いやぁあぁぁあああん!」
「ぎゃはははは! おっかしー、腹いてー!!」




悲鳴を上げたキャメロンの反応が可笑しくて、京一はソファに寝転がって腹を抱えて笑い出す。




「京ちゃん、酷いわァ!」
「いやいや似合うって、かわいーって。あ、落としたら駄目だからな。今日一日、キャメロン兄さんそれで過ごす! 決まりな」
「ママぁ〜!」




キャメロンが助けを求めるようにビッグママを呼ぶが、彼女の反応は相変わらず淡白なものだ。
ちらりと此方を一瞥しただけで、その位なら大丈夫だね、と宣う。




「大丈夫じゃないわよォ!」
「お前が自分で言ったんだろう、京ちゃんの言う事を聞くってね」
「でもォ」
「可愛いもんじゃないか、明日からメイクはそれにしたらどうだい?」
「いいな、それ。難なら、オレが毎日兄さんに化粧してやろっか?」




ビッグママの台詞が冗談である事は京一にも判ったが、調子良く便乗して言えば、キャメロンが至極真面目な顔で悩んで見せる。




「京ちゃんがお化粧してくれるのは嬉しいけどォ」
「瞼に目ん玉書くのもサービスでやってやるぜ」
「いやぁああん!」




瞼を隠して、泣き出すような大袈裟なリアクションを取るキャメロンに、京一がけらけらと笑う。
京一は持ったままだった口紅をぽんぽんと投げて遊びながら、さめざめと泣いて見せるキャメロンの顔を覗き込んだ。




「じょーだんだって、もうやんねェよ。でも今日一日はホントにそのまんまな」
「あぁン、恥ずかしい……」




今日はお得意さんが来てくれるのに、と呟くキャメロンだが、京一はそんな事は気にしない。
そもそも、『女優』の常連客は京一がいる事を知っているし、悪戯っ子で天邪鬼である事も判っている。
キャメロンの今日のメイクを見ても、京一が仕出かした事だと言うのは直ぐに気付くだろう。

さんきゅ、と言って京一は口紅をキャメロンに返す。
キャメロンは眉尻を下げてそれを受け取り、化粧ポーチへと戻した。


キャメロンへの悪戯に気が済んだ京一は、次にサユリへと視線を移す。




「サユリ兄さん、和菓子作るの得意だって聞いたけど」
「得意って言う程でもないんだけどォ…ちょっとだけね」




それでも、自分の得意分野を京一が知っていた事が嬉しいのか、サユリは白塗りの頬をほんのりと赤らめる。




「なんか美味いもん作ってくれよ。そうだ、羊羹作れる?」
「作れるけど、ちょっと時間かかっちゃうけど、イイかしら?」




こくこくと頷く姿が好物を前にした小動物のようで、なんとも愛らしい。


サユリは京一の前で料理や菓子作りをした事がない。
なんでも肌が弱いからで、水仕事をすると直ぐに手が荒れてしまい、皸や罅割れが出来てしまうのだそうだ。
けれども、普段滅多にお願い事なんてしてこない子供が、誕生日たってのお願いとなれば、話は別だ。

サユリは京一の丸い頬を撫でてから、ソファから離れ、ビッグママのいるカウンターへと入った。
あんこってあったかしら、と言うサユリに、ビッグママが収納場所を教えていた。


最後に京一が向き合ったのは、ずっと隣で見守っていたアンジーだ。
アンジーは相変わらず、にこにこと優しい笑みを浮かべていて、京一が何をおねだりしてくるのか、楽しみにしているようだった。

────が、




(………どーすっかな……)




アンジー相手にこれをして、と言うものが中々浮かばなくて、京一は唸る。

決してアンジーに何もして欲しくない訳ではないし、彼女の好意を無下にする気もない。
しかし、アンジーはいつも京一の為にあれこれと世話を焼いてくれるから、今以上に特別希望するものが思い付かないのだ。
例えば服なら月に一度は新しいものを貰っているし、京一の好きな漫画を買って来てくれるのも彼女だ。
日常の中で京一が求めているものを一番に察してくれるのは、間違いなく、アンジーであると言って良い。


……だからこそ余計に困るのだ。
あれが食べたい、何が見たい、あんなの欲しい、と言わなくても、アンジーは判ってくれる。
その判ってくれているものを今おねだりしても、常と変わらないような気がするのだ。

折角の誕生日だし、キャメロンやサユリにも“いつもと違う事”を頼んだのだから、アンジーにもちょっと変わった事を頼みたい。
しかし元々物欲は薄いし、あまりに無茶なおねだりなんて気が引けるしと、京一は迷いに迷っていた。




「えーと……」
「うん、なァに?」
「うー……」




柔らかな眼差しと声に、ほんの僅かに期待が混じっている───ような気がする。
けれどもやはり、幾ら考えても、特別そうな願い事は浮かばなくて、




「さ……散歩、行きたい」




口をついて出て来たのは、そんな細やかなお願いだった。