変わらない事もあれば、変わった事もあると

気付いた時に傍にあったものが、きっと、
















The past, the present, and the ...

















38度8分────立派な風邪による発熱症状。
その現実を突き付けられた途端に、一気に体が重くなるのを京一は感じた。


この程度の熱で、と粋がっていられたのは、その症状の重さを自覚していなかったからだ。
病は気からとはよく言ったものである。
人間の体は案外といい加減なもので、現実・真実を知りさえしなければ、割と結構な誤魔化しが効く。
無論、後でそのしっぺ返しを食らう可能性は高いが、一番辛い状態を乗り越える事が出来れば、後は回復に向かう訳だから(こんな考え方を岩山に知られれば、間違いなく拳骨ものだが)、その後の事など大した問題ではない。

しかし、それも現実を明らかな数値として直面させられるまで。
ほら見なさい、と言わんばかりに、デジタル表示の体温計を見せて来る美里葵に、京一は深々と溜息を吐く。




「……判った、判った。寝りゃいいんだろ、寝りゃあ」




そう言って京一は、ごろりと保健室の簡素なベッドに寝転がった。
渋々と言った様子が判る、それでも大人しく横になった級友に、葵は吊り上げていた眉を下げて、ほっと胸を撫で下ろす。




「それじゃあ、京一君。私は教室に戻るけど、きちんと休んでね。抜け出したりしたら駄目よ」
「へいへい。何度も言わなくても判ってるっつの」




判っているのに、脱走を試みるから、葵が口酸っぱく言って聞かせるのだが、その辺りの反省を京一に求めるのは無駄な事だ。
葵は京一が横になったまま動かないのを確認してから、腰掛けていた丸椅子から立った。

それじゃあ、と言う声に、京一はひらひらと手を振るのみ。
仕切りのカーテンが閉められた後、「宜しくお願いします」と言う葵の声。
保険教諭の任せておいてと言う声がしてから、遠退く足音と、教室のドアの閉まる音が聞こえた。


人の目がなくなった事で、京一はようやく、全身の力を抜く事が出来た。
特に警戒していた訳でもなかったが、気を張っていなければ、ふらふらと情けない姿を晒していたのは想像に難くない。
とは言え、結局、相棒によって体調不良を看破され、強引に保健室に連れて来られたので、既に情けない姿を晒していたと言えなくもない。
それでも京一が最後まで平静を装い続けていたのは、プライドの成せる業であった。


頭痛はない。
咳もない。
あるのは熱だけ。

だから、誤魔化そうと思えば誤魔化せるものだと思っていた。
風邪なんてどうせ一過性のものなのだから、一番悪化している所だけでも乗り切ってしまえば良いと。
多少の熱で一々寝込まなければならないような柔な性質ではないし、何より、そんなもので休んだ分だけ足りなくなってしまうであろう単位が惜しい。
既にギリギリの単位数をキープしている状態の京一に取って、体調不良など、それ程問題ではなかったのだ。


しかし、放って置けば治ると高を括っていたのが災いしたか、今回の風邪菌は非常にしつこい。
一晩寝れば治るだろうと思ったら、気だるさは延々と続き、休み明けになっても体内に滞留したまま。
大丈夫、大丈夫と自分の体調に暗示をかけながら過ごし、しばらくしたら熱も下がっているだろうと思ったら、下がる所か上がる一方。
そして、こんな時に限って、体育で郊外マラソンがあったりする。

サボり常習犯であり、追試常連である京一だが、体育だけは単位が足りていたので、今日ばかりは体育は休ませて貰った。
その時は自分の体調の悪さを深く考えてはいなかったが、それでも発熱している自覚はあったのだ。
その状態で、マラソン時ジャージ不可を掲げる教師指導の授業になど参加する気にはならない。

その体育の授業が三時間目だったのだが、京一の限界が来たのは四時間目だった。
現国の授業で、出席しているのなら折角だから、と言う理由で教科書の音読に指名された。
面倒臭いと思いつつ、さっさと読んでしまおうと教科書を開いたのだが、頭がまるで働いていなかった京一は、まともに文章を読む事も出来なかった。
常の不真面目な態度のお陰とでも言うのか、現国教師は「お前に当てた俺が馬鹿だった」と言って、京一の指名を取り下げた。
その後は、居眠り常習犯の相棒宜しく、机に突っ伏して大人しくしていた。


龍麻に保健室に強制連行されたのは、その後だ。
────と、其処まで思い出してから、やっぱり十分情けなかったか、とプライドがどうのと言える状態ではなかった事を知る。




(昼飯、食い損ねた……ま、いいか)




食欲はあるが、今は腹が減っている気がしない。
取り敢えず、今京一がするべき事は、睡眠を取って英気を養う事だ。


それにしても、と京一は、窓から見えるグラウンドの風景を見ながら思う。
こんな時期に、こんなしつこい風邪をひくとは、面倒な事になった。




(……今日中に治せばいいか)




同じことを昨晩と、その前にも思った筈だが、そんな事はさっさと忘れる事にして。
治ってしまえばそれきりの話だと割り切って、京一は微睡に身を任せて、目を閉じた。













放課後の夕暮れが窓から差し込み、その眩しい光と、相棒の呼ぶ声によって、京一は目を覚ました。

目覚めて起き上がって思ったのは、あれだけ寝たのに、と言う愚痴めいた言葉。
ゆっくり休んで、起きて、より一層体調が悪化したような気がするのは、どういう訳か。




「大丈夫?京一」




訊ねたのは、教室に置きっぱなしにしていた京一の鞄を届けに来た龍麻である。
葵、小蒔、醍醐はそれぞれ用事があるらしく、京一を龍麻に預ける形で、一足先に学校を後にしたと言う。

京一は頭の靄を振り払うように、緩く頭を振った。
が、それで調子が戻るのならば苦労はない。
ゆらゆらと揺らした振動が、反って脳に要らぬ刺激を与えてしまったようで、ガンガンとした不快な鈍痛が鳴り始めた。




「あー……くそっ」
「病院は?」




忌々しげに舌打ちする京一に、龍麻が訊ねた。
途端、京一は頭痛とは別に、あからさまに顔を顰めた。




「行ける訳ねえだろ」
「どうして」
「なんでさっさと来なかったんだって殴られるのが関の山だ」




京一の言葉に、ああ、そういう事、と龍麻は納得した。

京一にとって、病院=桜ヶ丘中央病院はほぼ不変の認識である。
昔から馴染みの場所であるし、金銭面に余裕がない京一を無条件に受け入れてくれるのは、あそこ位のものだ。
しかし同時に、京一にとって彼の地は鬼門である。
院長である岩山たか子にはどうにも頭が上がらず、苦手意識を持っている────その割に、医者として誰よりも信頼している。
だから、苦手だの行きたくないだの言いつつも、他の病院の宛を探す気がないのだ。


重い体を引き摺るように、京一はベッドを出た。
目隠しであり仕切りだったカーテンを開くと、いる筈の保険教諭の姿はない。
視線だけでその姿を探していると、




「先生、僕が来た時に帰ったよ。鍵宜しくねって」
「…そうかい」




龍麻の手には、保健室の鍵が握られている。
それなら、京一もこのまま帰って良いと言う事だろう。


龍麻が教職室へ鍵を返しに行く間に、京一は一足先に下駄箱へ。
グラウンドを正門へと横断していた所へ、龍麻が追い付いてきた。

京一の足取りは、少々覚束ない。
がんがんと響く頭痛の所為で、 どうにも平衡感覚が取れず、真っ直ぐ進んでいるつもりが、斜めに傾いてしまっている。
今日はテニス部以外に部活練習をしている生徒の姿が見当たらないので、誰かに迷惑をかけてしまうと言う事はなかったが、




「京一、大丈夫じゃないね」
「……見て判んだろ」




問いかけではなく、決定的な言葉で言った龍麻に、京一も虚勢を張るのを止めた。
龍麻相手にそんなものを装うと言うのが、先ず最初から無駄な行為である。




「今日は、『女優』?」
「ああ」
「そう」
「……あんまり気が乗らねェけどな」
「そうなの?どうして?」




普段、あまり他人の事を詮索する事のない龍麻の食い付きに、京一は眉根を寄せた。
なんで聞くんだと言わんばかりに睨む京一だったが、それが龍麻に効く訳もなく、「どうして?」と改めて声に出して聞かれた。

喋るのも面倒だが、黙っていても龍麻は引き下がりそうにない。
帰路が別れるまで無視し続けると言うのも考えたが、その間、じっと見つめる視線に耐えなければならない。
元より忍耐力の短い京一の事、おまけに発熱の所為で調子が悪い今、耐久ゲームに付き合う気にはならなかった。


京一は一つ溜息を吐いて、篭った声で言った。




「明日、誕生日なんだよ」
「誰の?」
「オレの」




────京一の誕生日は、『女優』の人々にとって、毎年の一大イベントらしい。
彼女達はいつも、京一の為にプレゼントを用意し、パーティさながらの御馳走を用意し、前日から京一が帰って来るのを待っている。もう小さな子供ではないのだから、誕生日程度でそんなにも大袈裟な事をしなくて良いと京一は思うのだが、彼女達は「私達がお祝いしたいの」と微笑むばかり。基本的に他者の意見など右から左に聞き流す京一だが、『女優』の人々が相手ではそうも行かない。
何より、天邪鬼な性格のお陰で、表立って喜ぶ事こそないものの、彼女達に祝って貰える事は、京一とて嫌ではないのである。

最近───“歌舞伎町の用心棒”として名が通ってからか───は何処で聞きつけたのか、京一の誕生日と聞いた舎弟(名前は愚か顔すら覚えていないのだが)が祝いにやって来る事もある。
今年は先ず間違いなく、墨田の四天王も祝いに来る事だろう。
アンジー達が京一の誕生日が近い事を話した時、4人で膝を突き合わせ、プレゼントに相応しいものについて真面目な顔で話し合っていたし。


どうにも気恥ずかしい。
気恥ずかしいが、嫌ではない。
嫌ではないが、気恥ずかしい。

そんな調子で思考がぐるぐると巡っているので、どうも帰る足が重いのだ。
とは言え、今日は他に当てに出来る場所もないので、やはり向かうのは其処しかなく。




せめて、クラッカーだとか、くす玉だとか、紙ふぶきだとかを止めてくれれば、まだ良いのだが。
幼い頃と違って、大したリアクションが出来ないから、毎回対応に困るのだ。
────『女優』の面々にしてみれば、そうして困惑している京一が可愛いので、やらずにはいられないのだが、それは当人の知る由ではなかった。




「…京一、誕生日だったんだ」
「明日な」
「おめでとう」
「だから明日だっつーの」




なんで今言うんだ、と呆れながら京一が振り返れば、いつもの笑みを浮かべた相棒がいて、




「一番乗り」
「何が」
「京一の誕生日」
「フライングだ」
「駄目?」




駄目ではないが。
明日が休日で逢う予定がないのならともかく、平日で、同じ学校で同じクラスで、言おうと思えばいつでも言えるのだから、何も今の内に言わなくても良いだろうに。
それともお前は明日学校を休む気なのか、と京一は思ったが、その可能性が高いのは自分の方だ。

ずきずきと頭の鈍痛に顔を顰めながら、京一は溜息を一つ。
龍麻の発想が突飛なのは、今に始まった話ではない。
今更一々突っ込む事もないだろうと、流して終わる事にする。


そのまま、無言で歩く事、数分。
歩き慣れた高架下を横切る所で、龍麻が言った。




「京一。明日までに風邪、治るといいね」
「あ?」




唐突と言えば唐突な龍麻の言葉に、京一は肩越しに振り返って彼を見た。

半歩後ろをついて歩いていた龍麻が追い付いて、肩が並ぶ。
京一の顔を覗き込んでくる彼の黒の瞳には、心なしか心配の色がある。




「結構、辛そう」
「……まあな。さっきから頭がガンガンしやがる」
「頭痛だけ?」
「熱」
「何度?」
「……39度近かったんじゃねェか」




保健室で寝る前、葵に言われて測った時の体温の正確な数字は、既に忘れた。
自分で感じる体感温度は、その数値程に熱さはなかったけれど、それは頭の芯がぼやけている所為だろうか。
真っ直ぐ歩いているつもりで歩けていなかったり、擦れ違う看板の文字がまともに読めなかったりと言う事を考えると、実は40度を超えていると言われても、不思議はない気がした。

帰ったら直ぐに寝た方が良さそうだ。
課題やら何やら、面倒なものの事が一瞬頭を過ぎったが、そんなものの相手をしていられるような余裕はない。


やけにびかびかと賑やかなネオンサインが光る、歌舞伎町の看板が見える。
此処から京一は直進、龍麻は曲がるので、今日は此処が分かれ道だ。

はあ、と京一の吐き出した吐息には、心なしか熱が篭っている。
それを見た龍麻が徐に伸ばした手が、京一の額に触れる。




「……何してんだ」
「検温」
「…これで判んのか」




これ、と言って京一が指差したのは、龍麻が常に両手に嵌めているオープンフィンガーのアームウォーマー。
掌まで覆うそれを額に当てて、果たして熱が測れるのか、京一には疑わしい。

京一の指摘に、龍麻はきょとんとした顔で自分の手を見下ろす。
布に覆われたそれを見て、そっか、と今気付いたように漏らすのを見て、京一は呆れるしかない。




「…もう良い。帰ったら自分で計るから、お前も風邪引かねえ内にさっさと帰れよ」
「うん。今晩中に治るといいね」
「…そうだな」
「お大事に」




そう言って、ひらひらと手を振る龍麻。
京一は木刀を握った手を軽く持ち上げて、それを挨拶変わりにした。

日が落ちて、ごちゃごちゃと入り組み始める雑踏に紛れ込みながら、今此処で誰かに伝染してしまえたら治るのに、と傍迷惑は事を考えながら、京一は通い慣れた帰路を歩いた。