世界の真ん中にあるのが、強い強い光なら、

















Lux in tenebris

















輪の中心にいるのが誰か、と聞かれた時、十中八九の人間が、緋勇龍麻であると答える。
それは全ての星が動き出したのが、彼が東京の真神学園に転校してきた頃であるから────なのだろう。

事実、渦中の面々である真神学園の生徒達は、緋勇龍麻と言う存在が学園に現れるまで、繋がっていながらバラバラだった。
それぞれに接点を持ちながら、決して近しくはなかった彼らを結びつけたのは、間違いなく龍麻だ。
彼がいなければ、彼らは結びつく事はなく、何より、《力》に目覚める事もなかったと言って良い。
全ての《力》の発動は、彼と、彼の傍らにあった《菩薩眼》があってこそ、のものであった。


龍麻の宿星は《黄龍の器》。
四方を守る四つの《力》の根源であり、守護すべき主。

これにより龍麻は、正に渦中の人物であり、全ての発端的存在であると言える。



《力持つ者》として生きる傍ら、緋勇龍麻は一介の高校生でもある。
いや、本来ならばそれが普通の姿なのだ。
生まれ持った《力》が何であろうと、それは周囲の普通の少年少女達と何ら変わらない。


学校生活の中でも、龍麻は一つのグループの中心人物であると言える。

同じ《力持つ者》として背中を合わせ、共に異形者に挑む仲間達は、其処でも彼を囲んでいた。
其処にいる彼らは、龍麻と同じく《《力持つ者》ではなく、ごく普通の、例えばテストや成績に四苦八苦する普通の学生だった。

彼らは何事かあれば龍麻を呼び、肩を組み、笑い合う。
龍麻がずっと求めていた、当たり前の友人関係を結んでくれる人々は、何があろうと、決して龍麻を拒む事はしなかった。
崇めるでなく、畏れるでもなく、彼らは彼らのスタンスで、龍麻と言う人物を囲んで日々を過ごす。



全ての中心的存在。
全ての軸となる存在。

それはまるで、太陽に似て。



けれど「それは違う」と“彼”は言う。

















今週末の土曜日に皆既月食が起こる。
そんな新聞記事を切り出して持ってきたのは、遠野杏子であった。

わくわくと楽しそうな様子の遠野の姿に、京一が目一杯眉間の皺を寄せている。
彼の視線の先では、遠野と小蒔が皆既月食とは何か、と言う講義を葵から受けていた。




「だから、月食と言うのは、厳密に言うと『月が欠けている』訳ではなくて、月と地球と太陽が一直線に並んだ事で、地球の影が月に映り込む事を言うのよ」
「へェ〜」
「一部分だけが隠れるのが部分月食、全て隠れてしまうのが皆既月食。今回は皆既月食だから、全て隠れてしまうの」
「これってやっぱり貴重なんだよね?」
「そう…ね。前に日本で皆既月食が見られたのは、えーっと……12年前ね」
「12年……ボクらが5歳の時かァ。覚えてないなァ、って言うか知らないや」




眉尻を下げて笑って言う小蒔に、あたしも、と遠野が頷く。
同じように、遠目に話を聞いていた龍麻も、小蒔と同じく覚えがないなあと胸中で呟いていた。




「月食と言うのは、日食に比べると比較的頻繁に起こるんですって。でも、現地から見れるか見れないかは運次第ね。世界中の何処からでも同じタイミングで見れる訳ではないし」
「地球の反対側で起こったら、こっちは昼間だもんね。こっちに月が回って来る頃には、終わっちゃってるんだ」
「こっちに月があっても、天気悪かったら見えないしねー」




じゃあやっぱり貴重なんだね、と遠野が言って、葵は微笑んで頷いた。


葵の月食講義が一区切りとなった所で、京一が欠伸を一つ漏らす。
聞くとはなしに聞いていた京一であったが、彼にとってこの講義は、普通の授業と変わりない、退屈なものでしかないようだ。
京一を挟んで、龍麻の逆隣りにいる醍醐は、感心したように「成程」などと呟いていたが、そうした勤勉さや知識欲は、蓬莱寺京一と言う人間から甚だ縁遠い代物であった。

京一の凶暴そうな目尻に、欠伸の所為で浮かんだ、透明な滴。
それをそのままにして、京一は胡乱な目で遠野を見る。




「で? ンなもんオレ達に知らせて、お前はどうしたいんだ?」




教室に飛び込んできた時の勢いと言い、新聞をわざわざ切り出して来た(これ自体は珍しくはないが)事と言い、ただ単にレアな出来事であるからと知らせに来た訳ではあるまい。
寧ろ遠野の本題はこれからだろうと、京一は見当をつけていた。

京一の察しの良さに促されて、遠野は勿論、と眼鏡を光らせる。
そして自分の目の前に立っていた葵の手をがしっと掴み、




「お願い、美里ちゃん! 美里ちゃん家でお月見させてッ!」
「えッ」




きらきらと輝く遠野の目は、スクープを追い駆けている時に見られるものだ。
それを向けられた葵は、突然の申し出にぽかんとしている。




「だって皆既月食よ。貴重なのよ。見とかないと損よ」
「見なかったからって人生に影響が出るような損でもねェだろ。ってか、月見したいなら展望台にでも行けよ」




美里家の大きな屋敷は、高台の上に位置している。
お陰で確かに見晴らしも良く、月見星見には適しているが、単純に月食の観測がしたいなら、都内には大きな天体望遠鏡を設置している施設もあるし、それ用の展望に上る方が良い。

素っ気ない態度で言った京一に、遠野が拗ねたように頬を膨らませる。




「それで一人で月観測しろって言うの? それじゃつまんないじゃない!」
「……って事は……」




仁王立ちで力説する遠野の言葉を、龍麻、葵、小蒔、醍醐が頭の中で反芻する。


一人での月観測はつまらない。
だから、都内の展望台ではなく、葵の家でお月見。

何故なら、其処なら皆で集まれるし、ついでに美味しい茶菓子も食べられるから。


────其処までの答えに行きついて、あれ? と小蒔が首を傾げた。




「それってボクらも行くの?」
「当たり前でしょ」
「やっぱりそうか……」




そんな話は一言も聞いていないし、そもそも、遠野以外の五人は、遠野が新聞記事を持って来るまで、皆既月食の事など知らなかった。
だから月食観測────月見なんてする気もなかったし、思い出したら見上げてみようか、程度の意識しかなかった。

しかし遠野の中では、この月見は全員参加であって然るべきものであったらしい。



確かに皆既月食を見ると言うのは、貴重な体験であると言って良いだろう。
それも今年の皆既月食は、空の高い位置で始まるとの事で、日本各地の何処からでも見る事が出来ると言う。
天気はその日にならなければ判らないが、少なくとも現段階の予報では、夜空は晴れそうだとの話。

天体好きの人間なら、真っ先に食いついて、観測と撮影の準備に勤しむだろう。
そして絶好の観測ポイントに赴いて、いそいそと天体望遠鏡などの観測グッズを整えるに違いない。


しかし、此処にいるのは特別天体好きな訳でもない、皆既月食と聞いても殊更アンテナが反応する訳でもない、ごくごく普通な少年少女ばかり。




「パス。めんどくせ」




真っ先に不参加表明したのは、全員の予想通り、京一である。

すぐさま遠野が京一に詰め寄った。




「なんでよー! 貴重なのよ、折角なんだから見なきゃ損よ!」
「だから、見なかったからって人生で損する訳じゃあるめェよ。第一、夜中だろ。ンなくそ寒い時期に月見なんかしてられっか」



先週までは例年よりは温かい日々が続いていた東京だが、12月に入ってから一気に気温が下がった。
日中の気温が一桁を記録するようになり、北海道・東北地方では雪も観測されたと言う。
東京都で雪が降るのはまだ少しかかるそうだが、体感温度で言えば、いつ降っても可笑しくない程の寒さ。

日中でさえ寒さが堪えるようになって来たのだから、夜ともなれば尚更だ。
建物内も暖房設備を働かさなければ底冷えが酷いし、手足の末端は直ぐに凍えて悴み、感覚がなくなる。


そんな中で月見なんて、凍死する────と言うのが京一の率直な意見である。



だが、京一が素っ気ない態度や返事をするのは、いつもの事だ。
遠野も京一のこの反応は予測済みだったようで、うう、と唸ってから、気を取り直し、




「美里ちゃん家に行けば、美味しいお菓子食べられるでしょ」
「えッ……」
「誰がンなモンに釣られるか。ってかお前が出す訳じゃねェだろが」
「だっていつも出してくれるもん」
「甘えてんな。葵、お前もこいつ甘やかすな、調子に乗るから」




自分よりも頭一つ半下にある遠野の頭をぐりぐりと掻き撫でながら、京一は葵に向かって忠告する。
葵は眉尻を下げて苦笑いしており、「でもお客さんだから…」と弱ったように呟いた。
そう言う所が甘やかしているんだと、京一は短く溜息を吐いてやる。

食べ物で釣られなかった京一に、遠野は益々頬を膨らませる。
その傍らで、釣り針に引っ掛かったのは別の人物だった。




「お菓子かあ……葵、この間の固い菓子ってまだ残ってる?」
「うちの板長さんが作ってくれた落雁のこと?」
「そんな名前だっけ? あのほら、固いカリカリしてる奴。干菓子? あれ美味しかったから、また食べたいな〜なんて」




ちゃっかり所望する親友に、葵はクスクスと笑う。




「ええ、あれからまた新しいものも作って下さったから、まだ沢山あるわ」
「やった!」
「よしッ」
「よしじゃねえ、オレは行かねーぞ!」




握り拳で喜ぶ小蒔と同時に、味方を得たりとガッツポーズする遠野。
京一がそんな遠野の頭をガシッと鷲掴み、ぐいぐいと彼女の頭を力任せに揺らす。

痛い痛いと悲鳴を上げる遠野と、吊り上がった眉で遠野に行かないからな、と繰り返す京一と。
そんな二人を無視して、小蒔は醍醐の下へ駆け寄り、




「醍醐クンも行こうよ。それで、美味しいお月見料理とか作ってくれると嬉しいな〜とか言ってみたりして」
「え、そ、そうですか? それじゃあ……」




密かに想いを寄せている少女にそんな事を言われれば、嬉しくない訳がなく、断る理由がある訳もなく。
一見すれば、京一とは別の意味で強面にも見えるだろう巨漢は、この一言であっと言う間に蕩けてしまう。

腕によりをかけて、と太い上腕の筋肉を盛り上げて言う醍醐に、また小蒔は諸手で喜んでいる。
あそこまで露骨に張り切っているのに、想いを寄せられる本人が全く気付かないのは何故だろうか。
今年の春から、今の今まで、去年以上に距離が縮まった筈の二人なのに、その辺りは一向に進展する気配がない。

なんでああまで鈍いかね、と京一は白い眼で二人を見ながら思う。


そうしている間に、頭を揺らされる事に我慢がならなくなった遠野が、京一の腕を振り払う。




「痛いって言ってるでしょッ」
「おお、忘れてた」




悪い悪いとおざなりな詫びをして、また遠野の頭を揺らしてやる。
だから止めてってば、と言って、遠野はもう一度京一の手を払い除けた。

遠野は剥れた顔のまま、成り行きを見守る形で棒立ちになっていた龍麻の下へ駆ける。
傍まで来た遠野は、龍麻を盾にするように背中へと廻り込んだ。
小柄な遠野の姿は、それですっぽり隠れてしまい、京一からは見えず、龍麻も肩越しに彼女の頭頂部の跳ねた癖っ毛が見えるだけ。


龍麻が京一を見ると、彼はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
揶揄って遊んでいると判る親友の表情に、龍麻は眉尻を下げてへらりと笑った。

────と、つんつん、と背中を突かれている事に気付き、其処にいる少女を振り返ると、




「緋勇君は、行く?」
「勿論」




笑顔を浮かべ、躊躇わずに頷いた龍麻に、遠野の表情がぱっと明るくなる。




「じゃあ土曜日、皆で美里ちゃん家に集合ね。京一、あんたちゃんと来なさいよ」
「行かねェっつってんのがまだ判んねえのか、お前は」




凶暴な眦を更に尖らせる京一に、遠野は直ぐに龍麻の背中に引っ込む。

付き合いも長く、小柄な見た目に反して、瓦礫の中を突き進む度胸のある彼女だから、怯えているのは単なるポーズだろう。
しかし、小さな体の少女がそうした仕草を見せれば、庇護すべき対象は自然と定まる。


龍麻はふわりと笑みを浮かべ、睨み付けてくる親友に向き直った。




「行こうよ、京一。皆でお月見、楽しそう」
「嫌だね。興味ねェよ」
「きょーいち、空気読みなよ」
「食い意地張った欠食少年は黙ってろ」
「誰が少年だッ!」




京一と小蒔の言い合いが始まるか、と言うタイミングで、休憩時間終了のチャイムが鳴る。
やばい、と慌てて遠野が龍麻から離れ、挨拶もそこそこに教室を飛び出して行った。

からりと教室の前ドアが開く音がして、生物教師が入ってくる。
教室のあちこちに散らばっていた生徒達が、慌ただしく自分の席へと戻り、教材を机の上に出していた。
同じように京一と小蒔も、些か間の悪いチャイムに腹を立てつつも、大人しく自席へ戻っていく。




絶対ェ行かねえからな。




龍麻の後ろの席を陣取った京一の呟きは、近い距離の龍麻に確り聞こえていた。

龍麻は小さく笑みを浮かべ、眉尻を下げる。
何故なら、そう言いながら、なんだかんだと付き合ってくれる親友を知っているからだ。
















いらっしゃい、とたおやかな笑みを浮かべて、葵は四人の友人達を出迎えた。

揃って時間ぴったりにやって来た仲間は、皆それぞれ、防寒着でもこもこに着込んでいる。
小蒔と遠野は可愛らしいマフラーや手袋を身に着け、龍麻、京一、醍醐の三人はダウンジャケットを着込んでいる。


ともかく先ずは温まって貰わなければと、葵は直ぐに五人を客間に通した。


葵の家は古い日本家屋であるから、風通しが良く、夏は快適だが、冬は底冷えが厳しい。
対策として各部屋に暖房器具が設置されており、客間にもストーブと冷暖房機、そしてヒーターが置いてある。
畳の上には電気カーペットがあり、此方と暖房は随分前にオンにしてあった。

お陰で龍麻達が客間に入った時には、部屋の中はすっかり温まっており、冷気からようやっと解放された彼らは、ほっと安堵の息を吐いた。
住み込みの家政婦が入れてくれた温かい茶を飲み干せば、冷えていた彼らの身体もすっかり温まってくれた。
となれば無用の長物と、マフラーやダウンを脱いで、皆ラフな格好になって足を延ばす。




「お茶ありがとう、美里ちゃん」
「お陰で温まったよ」
「どういたしまして。後でまたお茶入れて貰うから、その時にお茶菓子も持って来るわね」




葵の言葉に、やった、と小蒔と遠野が手を合わせて喜ぶ。
彼女達の目的の一つは、この茶菓子なのだから、当然の反応か。

その傍らで、胡坐を掻いて電源をつけたヒーターの前を陣取っているのは京一だ。
ダウンジャケットを脱いだ京一は、いつもの制服と赤いシャツを来ているだけで、額ランの袖も少しまくり上げている。
鍛えている割に細見の腕や、骨の浮いた鎖骨が見えて、見ているだけで寒々しい。




「きょーいち、あんたもうちょっと厚着して来なさいよ」
「見てるだけで寒そうなんだけど」
「るっせ、オレの勝手だろうが」
「寒いのヤダって言ってたの京一でしょー」




言っている事と違うじゃないかと言う小蒔と遠野に、それこそ放って置けと京一は言い返す。
その隣で、龍麻は脱ぎ捨てられた京一のダウンを拾う。




「これ、暖かそうだね」
「……まーな」
「いいなー、ちょっと貸して」
「あ! こらアン子、勝手に触んな!」
「何よ、ちょっとくらいいいじゃない」




咎める京一を無視して、遠野は龍麻からダウンを受け取り、袖を通した。
小柄な遠野に男性サイズのダウンは、当然の事ながら大きく、遠野は袖から手を出す事も出来ない。


ダウンの中はふわふわとした羽毛で覆われており、肌触りも文句なく、気持ちが良い。
フードにも上質なファーがついていて、シンプルながら、豪華にも見えた。

着てみて判る着心地の良さに、遠野はこのダウンが決して安価なものではないと勘付く。
名残惜しさを少し引き摺りつつ、ダウンを脱いで、襟の後ろについているタグを見る。
英文で書かれた指標を見て、遠野は目玉が飛び出した。




「ちょっ、すっごい有名な高級ブランドじゃん!」
「知らねェよ。兄さんがこれ着てけって押し付けて来たんだ」
「何それ、いいなァ。京一には勿体ないよね、絶対に」




興味なさげな京一の反応に、遠野が恨めしそうな顔をする。
ちゃっかり遠野の隣で京一のダウンの手触りを確かめていた小蒔が、勿体ない、と呟いた。
そんな事を言われても、興味がないのだから仕方がない。

だと言うのに、こうした高価な服を京一が持っているのは、『女優』の面々が何かと彼を溺愛するからだ。
昔から面倒を見て貰っていると言う彼女達にだけは、京一も頭が上がらない───と言うか弱い───ようで、こういった甘やかしを大人しく受け止めている。
大体は荒事の所為で二、三日で駄目にしてしまう為、あまり身に着ける事はしないのだが、流石に今日の寒さは堪えたらしい。


可愛がっている居候に風邪をひかせてはいけないと、なんとかして京一にダウンを着せようとする『女優』の面々を想像して、龍麻はくすりと笑った。




「良かったね、京一」
「何がだ」




前置詞のない龍麻の言葉に、京一は意味が判らないと眉根を寄せる。
が、またダウンを着ようとしている遠野を見付け、もう返せと手を伸ばした。
遠野は面白がってダウンを着たまま部屋の中を逃げ回る。

そろそろ深夜近い時間帯だと言うのに、京一と遠野はお構いなしだ。
どたばたと騒がしくなる部屋の様子に、醍醐が慌てた。




「おい、二人とも。夜中なんだから静かに……」
「おーにさーんこーちら〜」
「遠野!」
「退け、醍醐ッ!」
「京一ッ! 人の話を聞けッ」




遠野が醍醐の背中に廻り込み、京一が醍醐を押し退ける。
全く言う事を聞かない仲間達に、ならば実力行使と先ず近くにいた京一を捕まえようとするが、目敏く気付いて逃げられる。
遠野も醍醐の傍は危険と気付いたようで、部屋の隅から隅を駆け回るようになった。


そんな二人の騒がしさの中で、辛うじて聞こえてきた障子戸を叩く音に、龍麻が気付く。
葵と目を合わせて障子戸を指差すと、ああ、と葵が立ち上がって障子戸を開けた。

手伝いの者が持って来てくれた、温かい茶と茶菓子を乗せた盆を受け取る葵。
ほんの少し戸が開けられただけで滑り込んでくる冷気に、葵と小蒔が少し身を震わせた。
手伝いの者は、賑やかな室内をちらと見遣り、クスクスと楽しそうに笑って戸を閉める。




「はい、お待ちどうさま」
「やった、お菓子お菓子ッ」
「あたしも食べる〜」
「食っていいからそれ返せ!」




菓子に釣られて誘導される形となった遠野を、京一が捕まえる。
遠野も捕まってしまっては降参と、渋々と言った表情でダウンを脱いだ。

ようやく大人しくなった二人に、深い溜息を吐いたのは醍醐だ。




「すまないな、美里。家の人の迷惑にはならないか?」
「ふふ、大丈夫よ。お父様もお母様もいないし、板さんやお手伝いさんが泊まるのは離れだから」
「そうだよ、醍醐君。葵の家って広いからねえ」




問題ない問題ない、と言う小蒔は、葵とは高校一年生の時からの付き合いだ。
家に遊びに来た事もあれば、泊まった事もあり、葵を除けばメンバーの中で一番この美里邸に慣れている。


そんな小蒔の言葉に、醍醐は眉尻を下げ、まだ賑やかに言い合いをしている京一と遠野を見る。
葵が気にしていないと言うし、小蒔も頷いているし、賑やかな二人は言っても聞かないし。
自分の方が神経質なのだろうかと、そんな疑問を感じつつ、醍醐もこれ以上考えるのは諦める事にした。

何より、京一と遠野の賑やかさと言うものは、決して嫌う程のものではないのだ。
誰かが騒いで、誰かが諌めて、誰かがそれを眺めていて……と言うのも、気の知れた仲間内だから出来る事なのだし。



出された茶菓子は、小蒔が所望していたものの通り、落雁と呼ばれる干菓子の他、色々な種類のものが並んでいる。
それらは、一つ一つの細工も凝っており、見た目も可愛らしく、食べる者の目も楽しませる。

今日が皆既月食である事を鑑みてか、菓子は月をモチーフにしたものが揃えられている。
兎の焼印を押した薄種煎餅の中に餡が挟んであるものや、半月の干菓子にはススキの穂が描かれている。
蹲った兎のような押しものは、女子メンバーに好評だ。
それらの傍には、色とりどりの金平糖がちりばめられており、星の役目を担っていた。


龍麻は、兎の形の上用饅頭を手に取って眺めた。
白い皮に赤い点がぽつんと二つ、つぶらな瞳でじっと龍麻を見詰めている。

可愛いな、と思う龍麻の隣で、京一が何個目かの饅頭を手に取り、口の中に放り込む。




「京一、美味しい?」
「ああ」




龍麻や女子メンバーと違い、甘いものがあまり得意ではない京一と醍醐だが、共に和菓子は比較的好むらしかった。
それに、差し出された茶菓子はどれも一口サイズの小さなものだから、これ位なら、と思うのだろう。
あまり数を食べる訳ではなかったが、菓子に伸ばされる手に躊躇はない。


小蒔が小さな落雁を一つ、口の中に放り込んだ。
かり、こり、と小気味の良い音がする。

それを飲み込んだ後、小蒔はふ、と部屋の隅に置かれている包みに入れられた重箱に気付く。
包みの隙間から覗く、上等な漆の塗られた重箱は、この客間には本来なかった物で、持ってきたのは醍醐だった。




「ねえねえ醍醐君、これ開けてみてもいいかな?」
「あ、はい!」




声をかけられて、醍醐が慌てて返事をする。

小蒔はいそいそと重箱を輪の中に運び、包みのコブを解く。
うきうきとした表情で蓋を開ければ、栗赤飯に里芋の煮物、丸い形に固められた胡麻団子など、手の込んだ料理が敷き詰められていた。




「わ、美味しそう!」
「やっぱり凄いね、醍醐君の料理」




目を輝かせる葵と遠野と、誉める小蒔の言葉に、醍醐が照れ臭そうに頭を掻いた。
そんな醍醐に寄り掛かって、にやにやと笑うのは京一だ。




「相変わらず献身的な嫁さんだなァ、え? オイ」
「……煩い」
「でも本当にすごいね、醍醐君」




京一を睨む醍醐に、龍麻が言った。


龍麻は東京に一人暮らしであるから、料理は最低限程度だが心得ている。
だがそれは基本的に自分一人で生きていく為に必要だから身についた、程度のものであった。

醍醐の作った料理は、どれも手が込んでいて、長く煮込まなければならない料理も、きちんと味が沁み込んでいる。
料理が美味しいのはやはり出来立てだと言うが、丹精込めて作られた醍醐の料理は、時間がたってもとても美味しかった。
何より、きっと小蒔に美味しく食べて貰いたい、と言う気持ちが込められているのが、食べている人間にもよく判る(不思議な事に、この点に置いては、一番伝わって欲しい人に伝わっていないのだけれど)。




「う〜、見てると食べたくなっちゃうなァ」
「ど、どうぞ。桜井さんなら幾らでも……」
「うーん、もうちょっと我慢するよ。月見ながら食べたいし」




そう言って、小蒔は重箱の蓋を元に戻した。
楽しみにしてる、と言う彼女に、相変わらず醍醐は赤い顔をして頷いた。

そんな醍醐に寄り掛かっていた京一が、そう言やあ、と部屋の掛け時計を見上げる。




「そろそろ月食が始まるんじゃねェのか」
「え? 今何時だっけ」
「10時前」
「うわッ、もう始まってる!」




新聞で予測時間を確認していたのだろう、遠野が慌て出した。
放り投げていた上着を着込むと、他のメンバーの準備を待たず、遠野は障子戸を開け放った。




「うわ寒ッ!」
「こっちの台詞だ! 何勝手に開けてんだよ!」




部屋の中に一気に入り込んできた冷気に、全員が鳥肌を立てる程に凍えた。
京一が障子戸を開けた遠野に怒鳴ったが、彼女は全く意に介さず、




「だってもう始まっちゃってるんだもん。ほら皆、急いで!」




急かした後、ばたばたと廻り廊下を玄関の方へと駆けて行く。
小蒔、葵に醍醐と言う順でそれを追い駆けるのを見て、京一は溜息を吐いた。

面倒臭い、と言う表情を隠さない京一の前に、ダウンジャケットが差し出される。
顔を上げれば、既に自分のダウンを着込んだ龍麻が、ふわりとした笑みを浮かべていて。




「行こう、京一」




そう言って当たり前のように手を引く龍麻に、京一はせめてダウンを着るまで待てと思った。