迷い猫、二匹  1


 人と同じ形をしているのに、人ではない。
頭の上にある耳や、生えた尻尾や、眼球機能の動きや鋭い嗅覚などは、明らかに人が持ち得る範疇にはない。

 大きな試験管の中で生まれて、試験管の中で育って、沢山のコードに繋がれて、電流だの薬だの散々流されて、毎日のようにボロボロにされた。
痛い苦しい痛い嫌だ、喚いても喚いても逃げる事は出来ない。
その内喚くのに疲れて、されるがまま、望まれるがままに受け入れるようになった。
やっぱり体は痛くて苦しくて嫌だったけれど、諦めてしまうと、後はもう何も思う事はなくなった。

 けれど、自分とよく似た姿の生き物が、自分と同じ目に遭って痛みに泣き叫んだのを見た時、駄目だ、と思った。

 同じ耳の形、尻尾の色、人間としてのパーツも似通っていた。
その生き物が、自分と同じ遺伝子を母体にして作られた、所謂“兄弟”である事を知る事が出来たのは、白衣を着た人間達の興味本位からだった。
それまでは単体でしか作られておらず、育成環境もそれぞれ独立した形であったから、新しい試みとして、近しい存在を同じ空間で生活させたら、どんな変化が現れるだろう、と。
それだけの為に、“弟”は生まれ、自分は“兄”になった。

 最初に出逢った時、弟はとても小さかった。
これが弟だ、と白衣の人間が指差したのは、顕微鏡から覗かなければ見えないような細胞だった。
その時は「弟って何?」と思う程度にしか思考が働かなかったと思う。
けれども、その細胞が大きくなり、形を作っていくに連れ、度々引き合わされては「お前の弟だ」と繰り返された。
一種の刷り込みのようなものだったのだろうが、読んでいた本の中で“兄弟”と言う成り立ちや仕組みを知って、ようやくストンと心が落ちた気がした。
それからは、成長していく弟に逢うのが楽しみで、いつになったら弟が試験管から出て来れるようになるのだろう、と心待ちにするようになった。

 弟が試験管から出てきた日、迷わず抱き締めて、“お兄ちゃん”だと言った。
弟はことんと首を傾げていたけれど、拒否する事はなく、いつもガラス越しに合わせていた手を直に触れ合わせてにこにこと笑っていた。
それがとても愛しくて、弟だ、俺の弟なんだ、お兄ちゃんだから俺が守るんだ、と誰に言われるでもなく思った。

 けれども、それは出来なかった。
弟が沢山のコードに繋がれていくのを見た時、諦めて忘れていた、あの痛みを思い出した。
小さな弟が、あの泣き虫の弟が、あんな痛みに苦しみに耐えられる訳がない。
絶対に壊れてしまう、と思ったら、いても立ってもいられなくなった。
自分が代わりになるから弟に実験をしないように頼んでも、白衣の人間達は聞いてくれず、弟は喉が壊れんばかりに泣き叫んで「お兄ちゃん」と何度も呼んだ。
「助けて、お兄ちゃん」と呼ぶ声に応えたいのに、近くに行く事すら出来なくて、見ているだけしか出来なかった。
何時間もの苦しみから弟が解放されて、ようやく駆け寄って抱き締めれば、弟はほっと安心したように意識を失った。

 自分へ行われる実験は、大して恐ろしいとは思わなかった。
でも、弟は駄目だ。
絶対に壊れる、壊される。

 逃げよう、と思った。
ずっと試験管の中で育てられ、知識と言えば本やデータから得たものばかりだったから、外の世界なんて一つも知らない。
けれど、きっとこの世界よりは遥かに良いと思ったから、逃げよう、と思った。

 何度も逃げて、何度も捕まって、その度に拷問紛いの実験をされた。
弟はきっと耐えられないから、その分、自分が全部背負った。
数日間は弟と離れ離れにされて、何度か死んでしまった方が楽なのではないかと思ったけれど、自分が死んだら次は────そう思ったら死ねなかった。
それから数日振りに弟に逢うと、弟は泣きじゃくりながら縋り付いて来て、しばらく傍を離れようとしなかった。

 逃げて捕まって、それを数年間繰り返す内に、弟は少しずつ泣かなくなり、笑う事もなくなった。
実験の度に痛い苦しいと泣いていたのも止めて、歯を噛んで耐えるようになった。

 弟が耐えると、白衣の人間達は、今度は「何処まで耐えられるか」と言う実験をするようになった。
兄と違って諦めて馴染んでしまった訳ではないから、限界が越えると、弟はまた泣き叫ぶ。
ひょっとして人間達は、それを見て楽しんでるんじゃないか、とも思える程、弟に我慢と痛みを強いる。
弟が我慢して我慢して我慢して、兄を呼んで泣き叫ぶか、意識を飛ばして反応がなくなるまで、実験は続けられた。

 もう駄目だ、本当に、壊れる、いつかきっと壊される。
奴らは弟を壊す気だ。
壊した後がどうなるのか、それを見た自分がどうなるのか、それを確かめたいのだ。

 守らなければ、守らなければ、守らなければ。
その為には、この地獄にいたら駄目だ。

 これで最後だと、弟を連れて逃げた。
これで駄目なら、捕まる前に弟を殺して自分も死のうと思った。
それ以外に、弟を奴らから守る方法はない。

 見張りを騙して、部屋の鍵を開けさせて、培養ルームにあった不定形物体をぷかぷかと浮かせる沢山の試験管を手当たり次第に壊して、職員が右往左往している間に、施設から出た。
山の中を走って走って、一晩中走り続けて、敷地警告のフェンスを乗り越えて、生まれて初めて“外”に出た。
ふらふらになった弟を背負って、道路なんか通ったら誰かに直ぐに見付かるから、ひたすら山中を駆け抜けた。

 ─────それが、一週間前のこと。



 動かなくなった弟を抱き締めて、じっと息を殺していた。

 耳元から聞こえる小さな呼吸を、何度も何度も確かめて、安堵する。
何も考えずに、ただ逃げる事だけを求めて飛び出して来た事を、今になって少しだけ後悔していた。
けれど、あのまま地獄の中にいて、弟が壊れてしまうのも見たくなかったから、これで良かったんだと自分自身に言い聞かせている。

 小さな世界から飛び出して、暗い暗い山を下りて、人間の街に来た。
知識で自分達が“ヒト”ではない事は判っていたし、体にくっついている器官も隠せなかったから、移動できるのは街が寝静まる夜中だけ。
それでも大きな通りや、人が多い所は、必ず明るい光があるから、建物と建物の細い隙間を縫って歩く。
何処に行く訳でもなく、何処に行けれる訳でもないままで。

 街に来て二日目で、弟は歩けなくなった。
肉体精神共に疲労して、胃袋の中は空、ろくに睡眠も取っていないのだから当然だ。
そんな弟を背負って歩く自分も、状況は弟と何も違いはない。
四日目には自分も歩くのも辛くなり、五日目には立ち上がる事もままならなくなって、昨日からはついに身動ぎすらも出来なくなった。

 多分、絶対、このままだと、死ぬ。
自分が先か、弟が先か、判らないけれど、遠からず死んでしまうだろう。


(いいか。別に)


 ビルとビルの隙間、細い空を見上げて、そう思った。
どんよりとした雲がある。
湿気の匂いがして、雨が来るのが判った。

 抱き締める弟の呼吸が弱くなって行くのを感じながら、其処に苦しさの気配がない事が唯一の救い。
何も楽しい事などなかったけれど、外に出た所で、其処に自由はなかったけれど、少なくとも、壊れる事はなかったから。
大切な弟が、壊れる姿を見る事だけは、なかったから。

 もう一度寝たら、もう目覚めない気がする。
ならば、このまま、弟も目覚めなければいい。
弟が起きた時、自分が起きられなかったら、弟は一人ぼっちになってしまう。
一分一秒でも、弟にそんな想いはさせたくなかった。

 ぽつり、と降り出した雨は、あっと言う間に激しさを増した。
掃き溜めを歩き続けてきた二人の体は、直ぐに頭の天辺から爪先まで濡れて、汚れが洗い流されていく。
気持ち良いな、と少し思った。

 ……そんな時。


「どうしたんだ、そんな所で」


 聞こえた声に、身構える気も起きなかった。
閉じた瞼をそのままにしていたら、ぱしゃん、と直ぐ近くで水の跳ねる音がして、空から落ちてくる水滴が途切れる。
妙な事もあるもんだな────とぼんやりとしていると、少し硬くて熱いものが頬を叩いた。


「………?」


 目を開けてみると、あの地獄に住んでいた人間達とは真逆の色───黒衣の人間が膝をついて、此方を覗き込んでいた。
黒の服に金色の髪が映え、その隙間からガラス玉に似た碧色が、じっと此方を見ている。
きれいだな、と思った。


「…捨て猫、か?」


 問いかける声は、確認するようにも聞こえたし、単に呟いただけのようにも聞こえた。
どちらにせよ、答える気力はなかったし、喉もひりついていて何日もまともに音を発していないしで、何も言えなかった。
そのままもう一度目を閉じると、程なく、意識は遠くへと吸い込まれて行った。





 くん、と何か匂いがした。
嗅ぎ慣れない匂いに、知らず眉根が寄ってしまったが、不快な匂いと言う訳ではなかった、と思う。

 それを切っ掛けにして、意識が少しずつクリアになって来る。
目覚めた、起きた、と言う事を自覚して、重い瞼を持ち上げようとする。
手で目元を擦りながら、どうにかこうにか目を覚ますと、其処は見慣れない世界だった。

 ごちゃごちゃとした、よく判らないオブジェだかCDだかがあちこちに散らばった部屋で、育った部屋とは似ても似つかない。
あちらは酷く殺風景だったが、此方は統一性が無く、はっきり言って、汚かった。
けれども、首下までかけられていた布はとても肌触りが良く、温かなもので、こんなものがあるのか、とぼんやりと思った。
こういう布で、弟と一緒に包まって眠れたら、どんなに気持ちが良いだろう────そう考えて、気付く。
ずっと抱き締めていた筈の弟が、自分の腕の中にいない事に。


「………!」


 飛び起きて彼の名前を呼ぼうとして、出来なかった。
喉がひりついて、まともに声が出ない。
無理やり音を出そうとしたら、げほげほと派手に急き込んで餌付く。
その所為で、ぎぃ、と軋む音が鳴った事に気付かなかった。


「起きたのか」


 声が聞こえて、顔を上げると、開いたドア下に金髪の男が立っていた。

 誰だ。
此処は、何処だ。
弟は、どうした。
問おうとしても、声が出なくて、何も伝えられない。
痛む喉を押さえていると、男がゆっくりと歩み寄って来た。


「無理に喋らない方が良いぞ。声帯麻痺だかなんだかで、まともに声が出ない状態らしいから」


 男は、腕に抱えていた大きな紙袋をテーブルの上に置くと、その中からがさがさと何かを探し出そうとする。


「大きな病院で診せた訳じゃないから、確かなことは言えないが、心因性じゃないかって言われたな。あと、しばらくまともに喋ってなかったんじゃないか、と」


 男の言葉は正しい。
弟の意識がある間は、時折声をかけていたけれど、彼が意識を失ってからは会話をする相手などいなかった。
喋らなければ声帯は衰弱して震えなくなり、最後には喋れなくなる。
正にその状態、と言う事か。

 がさがさ、と紙袋を漁る音が止んだ。
取り出されたのは、紅い光沢を放つ宝石────林檎。


「食事もまともなものは食べられないってな。胃袋は空っぽで、水分も取ってなかったんだろ。下手にものを詰めたら、胃痙攣だか起こすってな。……摩り下ろし林檎、嫌いか?」


 ぽん、と手の中を林檎を遊ばせながら、男は言った。
答えずにじっと睨んでいると、男は眉尻を下げて溜息を一つ。


「警戒するのも仕方ないけど、ずっとそうしていても仕方ないだろ。取り敢えず下ろして来るから、もう少し休んでいろ。気が落ち着けば、腹も減って来るだろうしな」


 男はそう言うと、林檎を持って部屋を出て行く。

 この部屋は、あの男の持ち物だろうか。
どうしてそんな場所に自分はいるのだろう。
そう考えてから、ぼんやりと、意識を失う前に見た色彩を思い出した。


(捕まった?…拾われた?)


 どちらなのか。
どちらでも良い。
それより、弟がいないのが落ち着かない。

 ベッドを下りて、物が散乱するのを避けながら歩く。
足元がふらふらと覚束なかったが、壁まで行き付くと、寄り掛かりながら辿って部屋を出た。
次の部屋への廊下と言うものはなく、ドア一枚で間続きになった部屋があって、黒い革張りのソファと、ガラスのテーブル、大きなワイドテレビにオーディオコンポ……殆どモノクロで統一された世界の中に、明度の低いウッドが添えられており、シックな雰囲気になっている。
その部屋の、穴の開いた壁の向こう───対面式の為の空間であるのだが、そんなものは初めて見たので、名称を知らないのだ───で、先程の金髪の男が一心不乱に腕を動かしている。
キシュッキシュッと言う音が鳴っている中、ぎし、と床が鳴る音を聞いて、男が顔を上げる。


「寝る気にならないか?じゃあ、せめて其処に座ってろ。ふらふらしてて危なっかしい。転ばれても面倒だし」


 其処、と言って男が指差したのは、革張りのソファ。
足元が痛みを覚えて来たので、大人しく座らせて貰う事にする。

 きょろきょろと辺りを見回して、壁の四隅やオーディオコンポ、テレビ等をじっと観察してみる。
監視カメラの類が何処にも───少なくとも、目に見える所には───ないので、捕まった訳ではない、のだろうか。
今までの経験から言えば、捕まれば直ぐに弟と引き離されて、自分は実験室へと連れて行かれていた。
意識を失っていれば、目覚めた時には実験室の煌々とした明かりの下にいて、両の手足を実験台の上で拘束されていた。
そうでないなら、やはり、捕まったのではなく、拾われた……そういう事で良いのだろうか。

 でも、それならばどうして弟がいないのだろう。
確かにこの腕に抱いていた筈なのに。

 カタン、と音がして、ソファの前のテーブルに何かが置かれた。
白い光沢のある山が小皿の上に盛られ、銀色のスプーンが添えられている。


「無理にとは言わないけど。取り敢えず、一口」


 男がスプーンで山を少し削って、乗せたものを差し出す。
それを顔を顰めて見詰めていると、男はそれを自分の口へ入れた。


「ほら、危なくない」


 毒や薬が入っていない事を示した、と言う意図は判ったが、だからと言って、はいそうですかと食べる気にはなれない。
人間には何も作用しない薬でも、ヒトと動物の間にいる自分には作用する薬、と言うのは幾らでもあった。

 隣に座った男からじりじりと距離を取る。
それを見た男は、うーん、と頭を掻いて息一つ。


「せめて一口食ってくれないと、薬が……」
「……!」


 ぶわっ、と尾が膨らんだのが自分でも判った。
吊り上げた眦で男を睨んでいると、男はそれを見て、ああ、と呟いてから、


「大丈夫だ、普通の栄養剤だから。獣人にも効く。正規ルートで買ったものじゃないけど、信用はある。……と言うかお前、俺の言ってる事判ってるか?」


 寝てろって言ったのに起きて来るし、でも座れって言ったら座ったな……等と呟きながら、男はもう一口、小山を削って口に入れる。

 ────食べ物なんて、あの地獄を出てから、一度も口にしていない。
ぐちゃぐちゃになって酷い匂いを放つ食べ物なら、あちこちに転がっていたけれど、一度それを食べたら腹が痛くて気分が悪くなってしまった。
あそこは地獄だったけれど、生活環境だけで言えば富んでいた方で、食事は衛生士が管理して栄養バランスを整え、毎日シャワーも浴びていたし、衣服も毎日洗濯されて綺麗だった。
そんな環境で育ってきた自分達が、蠅がたかった食べ物など簡単に受け入れられる訳もない。
形振り構わず胃を満たすのも考えたが、幾らか詰めた所で吐いてしまい、反って食べられなくなってしまった。

 そうして物を食べなくなって、胃袋が空になって、空腹感すらも判らなくなって。
今も空腹感は全く感じないのだが、もそもそと男が小山を食べているのを見ると、


「………」
「ん?食うか?」


 じっと見つめる視線を察して、男が小山を盛ったスプーンを差し出した。
山は既に半分になっている。

 おずおずと顔を近付けると、スプーンの方もが少しだけ近付いた。
くんくんと匂いを嗅いでみても、感じるのは林檎の匂いだけで、薬の類は臭わない。
口を開けると、スプーンが下の上に乗せられ、口を閉じてゆっくり頭を下げる。
しっとりとした小さな粒が口の中に残って、じっくり噛んでから飲み込んだ。


「ほら、二口目」


 もう一度差し出されたものに、同じように匂いを嗅いでから口を開ける。
からからに乾いていた喉を、水と粒が一緒に通り抜けて潤されていくのを、何処か他人事のように感じていた。

 二度、三度、四度────その辺りで、胃が気持ち悪くなった。
顔を顰めて腹を抱えていると、限界みたいだな、と男が呟いて、男の凹凸のある手が背中に触れて、


「─────!!」


 ぞわりとしたものが背中を走って、尻尾が膨らんだ。
慌てて男が手を放す。


「悪い。摩ろうとしただけなんだ」
「………」


 フー、フー、と荒い呼吸をするのを、男は落ち付け、と両手を上げて降参のポーズを取りながら宥める。
それをしばらく睨んでいたが、喉奥のひりつきが戻って来て、咽込んだ。


「ほら、無理するな。……背中、触るぞ?」


 断りを入れてから、男がそっと背中に触れて来た。
上から下に何度も手の平を滑らせて、先の言葉通り、背中を摩っている。


「ゆっくり呼吸しろ。ちゃんと吸って、吐いて……って言うか、判るか?言ってる事」


 男の確認に、小さく頷く。
そうか、と言って男はもう一度背中を摩る。

 男の言う通りに息を吸って、吐いて、ゆっくりとしたリズムでそれを繰り返していると、少しずつ呼吸は落ち着いて行った。
息苦しさで滲んだ汗を拭うように、男の指が額を拭ってくれた。
そのまま離れて行こうとする手を掴まえると、男が「ん?」と首を傾げて覗き込んでくる。


「……っ、……っ…」
「無理に喋るな。言いたいことがあるなら後で」
「……!!」


 ふるふると首を横に振ると、男は困ったように眉尻を下げた後、顔を近付けて耳を寄せて来た。
無理に大きな音で喋るな、と言っているのだ。

 ひゅー、ひゅー、と鳴る喉を叱りながら、どうにか音を絞り出す。


「…ぉ…ぃ、……」
「ん…?」
「も、ぅ…ひ、……ぉり、……」
「……もう一人?」
「ぃ、っ……ょに…ぃ、…は……っ」
「────お前が抱えててた奴か?」


 断片の情報を継ぎ合せて確認する男に、夢中で頷いた。

 弟がいない。
此処にいない。
ずっと抱き締めていた筈なのに。
意識を失う直前、この金と碧を見た時は、確かに腕の中にあったのに。

 自分が一人で生き残っていても、弟がいなければ何も意味がない。
そう思ってはいても、弟の方が衰弱は激しかったし、体力も違う。
あの状況で先に終わってしまうとしたら、多分、弟の方だったと言って間違いはないだろう。
若しも自分だけがこうして拾われて、生き延びたのだとしたら────そう思うだけで、頭の中が真っ黒に塗り潰されそうになる。

 けれども、男は柔らかく微笑んで言った。


「大丈夫だ、生きてる。あんたより衰弱が激しかったから、医者の所に入院させた。獣人なんかを専門に見てる奴だ、腕も信用できる。何処かに通報したりもしない。安全な場所だから、安心しろ」
「………っぁ……!」


 生きている、生きている。
男の言葉でそれを知って、なんとも言えない気持ちが溢れ出す。
息を詰めていたら、また酷く咽込んだ。


「逢いたかったら、お前も元気になれ。まともに歩けるようになったら、連れて行ってやる」


 何度もげほげほと急き込んだ後、ゆっくりと体を倒された。
ソファの上に寝かされて、頭と首下に柔らかなクッションが差し込まれ、ぽんぽんと男の手が頭を撫でた。
─────撫でた。


(撫でられた)


 弟以外にこんな風に触れられるのは、生まれて初めての事だった。
あの地獄の住人達は、いつも冷たくていつも乾いていて、こんな風に柔らかく触れてくれた事なんてない。
だから自分は、弟が生まれるまで、他人と触れ合う喜びなんて知り得なかった。

 大丈夫、かも知れない。
この人間は、外の世界のこの人間は、あの閉ざされた世界にいた白衣の人間達のように、冷たくないのかも知れない。

 ぐにゃりと視界が歪んで滲むのが判って、腕で顔を覆う。
ひく、と喉が引き攣って、ぼろぼろと熱いものが溢れて止まらなかった。




 一日数回の流動食を与えられ、ベッドの上で起き上がって寝転んでを繰り返し、男が医者から聞いて来たと言う方法で声を出せるようにリハビリし、何もする事がなければひたすら眠って体力を蓄える。
懸命に回復しようとしているのを見て、男は「必死なんだな」と言っていた。
回復すれば弟がいる病院に連れて行ってくれると言う約束だったのだから、必死になって当然だったのだ。

 結局、回復にかかった時間は、一ヶ月。
早い方らしい、と男は言うが、弟と離れ離れであった時間だと言う事を考えると、遅過ぎる位だと思った。
ふらつく事なく歩けるようになったのは二週間前の事で、その時には声も出るようになっていたから、弟に逢いたいと言ったけれど、その時は却下された。
一週間の栄養不足で痩せ細った体が、もう少し人目に見れるようになるまでは駄目だ、と。
確かに肋骨は浮き出ていたし、腰が細過ぎる所為でズボンは落ちるし、重い物を持つ事だって出来なかった。
体のバランス感覚も少し狂っていて、ヒトと動物の特徴をそれぞれ受け継いだ証とも言えた運動能力は、ガタガタに低下してしまっていた。
運動感覚を取り戻し、痩せた体が幾らか丸みを帯びるようになって、ようやく男は許可を出してくれた。

 男の服を借りて、初めて人間の街に出た。
男が住んでいたのは大きなマンションの上階で、それは部屋の窓から外を覗いた時になんとなく予想はついていたのだが、想像以上に大きなマンションであった事には驚いた。
本やデータで得ていた知識で、こういう大きな場所に住めるのは限られた人間だと聞いていたからだ。
自分を拾った男は、その“限られた人間”だったらしいが、それにしては、男の持つ雰囲気は素朴なもののように思えた。

 陽の下で、ヒトの街を歩く日が来るとは思っていなかった。
帽子で隠した耳だとか、腰に巻き付け、その上にジャケットを巻く形で隠した尻尾だとか、窮屈さはあったけれど、それよりも初めての人間の街に意識を奪われた。

 男に案内されたのは、薄暗い寂れた場所にあった、細いビルだった。
病院だと言う看板など何処にもない、どちらかと言えば浮浪者が屯していそうな、そんな外観のビル。
本当にこんな所に弟がいるのだろうか。
本当に“病院”なのだろうかと思いながら、階段を上がって行く男の後ろをついて行く。
その間、男はビルに看板がない事についてこう説明した。


「免許持ってない、闇医者だからな。表だって開業は出来ない。だが、そのお陰でお前の弟の事も引き受けて貰えた。普通の病院なんかに連れて行ったら、飼い主を探す為に公的な届出を出さなきゃならない」


 ヒトと動物の遺伝子配合で生み出される、ヒトと動物の間の生き物────それらは俗に“獣人”と呼ばれている。
扱いはペットと同じか、環境によってはそれ以下だ。
だから施設では、自分や弟、同じように生み出された獣人達はモルモットとして扱われ、個人の権利なんてものは存在せず、ただ命令に従い、何れは壊れるか死ぬかで廃棄される運命だった。

 男が自分達を正規の病院に連れて行っていたら、またあの生活に逆戻りになっていたのだ。
どうして彼が正規の病院に連れて行かなかったのかは判らない。
素朴な雰囲気を持つこの男が、正規の病院に行けない理由が思いつかなかったからだ。
だが、理由が何にせよ、感謝しなければならないのは事実だった。


「…その、……ありがとう」


 喉のひりつきは、一度治って以来、訪れる事はなくなった。
声は狭いビルの階段に反響して響き、男が振り返って口元を緩めた。


「別に、感謝される程の事はしてない」
「だが、あんたは俺を……俺達を拾ってくれた。助けてくれた」
「それこそ感謝されるような事じゃない。俺が放って置けなかったから、勝手に連れて帰っただけだしな」


 ただの気紛れだったから、其処まで畏まられても困る。
そう言って柔らかく笑う男に、それ以上の言葉を投げる事は出来なかった。

 此処だ、と言って男が足を止めたのは、10階建てのビルの5階で、相変わらず看板のような目印はない。
通路に出ると、一番近いドアの向こうはパーテーションで通行止めになっていた。
男は唯一のドアにノックすると、中からの返事を待たずにノブを握って回した。


「邪魔するぞ。お前も入れ」
「……あ、ああ」


 促されて一緒に敷居を跨ぐと、其処は確かに“病院”であった。
独特の薬品の匂いがして、待合室のように簡易的なソファが並べられ、人体構造が描かれたポスターが貼られている。

 鼻につく薬の匂いに顔を顰めている間に、奥の扉が開いて、長い黒髪に草臥れたポロシャツを着た男が現れた。


「此処の院長のヴィンセントだ。お前を診たのも、こいつだ」
「あ……ありがとう、ございます」


 男からの紹介に、医者───に見えない───に頭を下げる。
しかし、医者は無反応のまま、感情のない瞳でじっと此方を見詰めていた。
その無機質さが、あの施設で向けられていた沢山のものと似ていて、居心地が悪くなって身を縮こまらせる。


「で、もう一匹の猫は何処だ?こいつと一緒に連れて来た奴」


 男が訪ねると、医者は無言で奥の扉を指差した。
部屋番号は?と男が続けて訊ねると、「……508」と小さな声で医者が答え、何かを放り投げる。
番号札の付いた鍵であった。

 男が扉に向かうのについて行く。
扉をくぐると、其処は上がって来た時に見たパーテーションの反対側になっていた。
横に並ぶ扉には、それぞれ番号が記されていて、医者が言っていた508の数字を探して進む。

 何枚かの扉を通り過ぎた所で、「508」の数字があった。
「507」の前を通り過ぎた時、既に心は逸っていて、知らず足早になって扉の前に来ていた。
数字を改めて確認して、男を振り返ると、男はくすりと笑って手の中に収めていた鍵をノブに差し込んだ。

 ギ、と軋んだ音を立てて扉が開き、


「………あ、……」


 小さな小さな真っ白い部屋の中、パイプベッドの上で丸く蹲っている弟を見つけて、駆け寄った。


「うわ、」


 力一杯抱き締める。
一ヶ月分の距離を埋め合わせるように。


「良かった……」


 青灰色が自分を映すのを、ようやく見る事が出来た。
腰に巻き付けていて興奮を隠していた尻尾が、いつの間にか解けて、ゆらゆらと揺れている。
帽子も落ちてしまっていたが、気にしなかった。

 密着させていた体を放すと、目を白黒とさせている弟がいた。
泥や埃や汗でドロドロに汚れていた弟の体は、すっかり綺麗になっていて、自分以上に痩せ細っていた腕やこけていた頬も丸みを帯びている。
触れれば温かく、柔らかな熱がある事に、こんなにも安堵した事はなかったと思う。

 じわ、と視界が滲む。
それを見た弟が、きょとんと首を傾げて、顔を寄せた。
ぺろ、と目尻を舐められる。


「こら……」
「だってあんたが」


 一か月ぶりに聞く声に、また涙が滲む。
それを心配そうに覗き込む青灰色があって、慌てて目元を拭いた。

 もう一度、ぎゅうと強く抱き締めて、じっと見守っている視線の持ち主を振り返る。


「本当に、ありがとう。幾ら感謝しても足りない位だ」
「大袈裟だな。そんな事言ってたら、今後が大変だぞ」


 苦笑して言った男の言葉に、首を傾げる。


「……今後?」


 意味が判らない、と反芻すると、男は続けた。


「なんだ、弟が帰って来たら雲隠れでもするつもりだったのか?」
「それは…だって、いつまでもあんたの所に世話になる訳には、」
「俺は別に構わない。何処かに行く宛があるなら別だが……どうせないんだろ?獣人がヒトと同じように生活できるような所なんざ、殆どないようなものだしな」


 行く宛────そんなものがあるのなら、あんな小さな暗くて狭い場所で、蹲って終わりを待ってはいなかっただろう。
目指す先が、安寧の場所があるのなら、どれだけ時間がかかっても、きっと其処に向かって進もうとしていただろうから。

 弟が病院を出て、自分の所に戻って来ても、自分に居場所がないなら、結局はあの一週間の繰り返しをするだけ。
ただ彷徨って、野良猫や野良犬ほどに逞しくもない自分達は、結局また腹を空かせて蹲るのだ。
ようやく丸くなった頬も、またこけて、弟の青灰色も光を失う事になる。

 ……腕の中で、弟が動かなくなって行く感覚を思い出したら、駄目だ、と思った。


「……いい、のか」


 これからも世話になっても。
弟も一緒で。
人間と違って、働き口など作れない自分達は、この優しい男の荷物にしかなれない。
出来る事なんて幾らもないだろうから、何も返せるものがない。

 それでも良いのだろうか。
陽だまりの世界にいても、良いのだろうか。

 小さく笑う金髪の男に、堪えていた筈の涙がまた溢れ出す。
弟が心配そうに覗き込んで来て、ぺろ、と頬を舐める。
それに頭を撫でてやれば、にぃ、と嬉しそうに黒い尻尾が揺れた。