従う猫、一匹 2


 腰の痛みを覚えながら目を覚まして、レオンが第一にする事は、隣で眠っている弟の存在を確かめる事。
毎晩繰り返される行為で、レオンはいつも疲労困憊の状態で意識を飛ばす。
出来るだけ、支配者の気が済むまでは意識を保つように努めているつもりなのだが、毎回、途中からの記憶がごっそりと抜け落ちているのだ。
だから、支配者が満足していたのか、それとも中途半端なままで眠ってしまったのか、目覚めた時には判然としない。

 レオンが支配者を満足させる事が出来なかったら、そのツケは弟が支払わなければならない。
それでも支配者が満足しなければ、弟は捨てられてしまう。
彼と離れ離れになる事だけは、何度考えても耐えられないと思った。

 だから毎朝、レオンは弟が────スコールが自分の傍らにいる事を確かめるのだ。

 弟の顔を見たら、擦り寄ってくる彼の耳の裏をくすぐって宥め、ベッドを出て服を着る。
それから、口の中に微かに残る気持ち悪さを払拭する為に洗面所へ行き、一度すっきりさせて朝食の用意をする。
時計の針は8であったり、9であったり、時には12を指している事もあるのだが、どの時間であるにしろ、この頃には家主である支配者は姿を消している。
寝起きにあの男の顔を見たいとは思わないので、それは幸いな事だと考えていた。

 シャツにGパンと言うラフな格好で、マンションからは一歩も外に出ないで過ごすのが、常だった。
首輪は鎖こそ外されているものの、相変わらず首に取り付けられており、アナログな鍵がかけられている為、外す事が出来ない。
獣人である事もあって、外に出ない事が最も安全な生活方法である事は予想がついた。

 二ヶ月前は、ろくろくまともに出来なかった家事も、今では大分慣れて来た。
冷蔵庫の中身は好きに扱って良いと言われているので、有り物でいつも適当に朝昼晩の食事を作る。
支配者が帰ってくるのは、早くても夕方の6時から7時の間だから、それまでは、レオンもスコールも自由に過ごして良いのだ。
外に出られない事を不自由と思ったことはないし、以前の生活を思えば、正体不明の薬物や意味の判らない実験を強制されない分、快適とも言える程だ。
食事を自分で作る手間はあるが、幸い、レオンはその作業を嫌いとは思わなかった。

 トーストを焼いて、バターとジャムを用意して、昨晩の残りのサラダを冷蔵庫から出して。
コーヒーと、温めた牛乳と並べてリビングのテーブルに置くと、レオンは寝室に戻り、ベッドの上で丸くなっているスコールに声をかけた。


「スコール、起きろ」
「……ぅにゃ……」


 ぽんぽんと軽く頭を撫でてやると、ふるりとスコールの体が小さく震えて、もぞもぞと身動ぎする。
嫌がるように丸まろうとするスコールに苦笑して、レオンはスコールの耳を舐めてやった。


「ふに、」
「ほら、起きろ。牛乳、冷めるぞ」
「う……」


 スコールは冷たい牛乳が飲めない。
どうやら胃腸が弱く、乳酸菌を分解しにくい体質らしく、腹を下してしまうようだった。
その為、レオンはスコールが飲む牛乳は必ず温めるようにしている。

 のろのろと起き上がったスコールに服を着せ、手を引いてベッドを出る。
その時、必ずスコールは「まだ寝たい」と言わんばかりにベッドに縋ろうとするのだが、軽く耳を噛んで咎めてやれば、素直に言う事を聞いた。

 食事の前に洗面所に連れて行って、顔を洗わせる。
濡れた顔をふるふると振って水を切ろうとするスコールを軽く叱って、タオルでちゃんと拭いてやる。
そうすると、スコールはくすぐったそうに小さく笑うのだ。
だから、甘やかしてはいけない、自分で出来るように習慣づけなければいけないと思っていながら、ついついレオンは手を出してしまうのである。


「にゃ」
「こら、スコール」


 タオルを離すと、もっと、と言うように擦り寄って甘えてくるスコールに、レオンはくすくすと笑いながら、それを押し返す。

 成長してから、あまり目に見えて甘える事が少なくなったスコールだが、寝惚けている時だけは素直に甘えてくる。
可愛いものだ、と思いつつ、このままにしている訳にはいかないので、レオンは泣く泣くスコールを食卓へと促すのだ。

 朝食を取っている間に、スコールも少しずつ目を覚まして行く。


「足りるか?」
「……」
「……ん?」


 のろのろと食事をしていたスコールに、レオンは首を傾げた。
スコールは、食べている事は食べているものの、常以上にその進みが遅い。
元々、レオンと揃ってあまり量を食べる方ではなかったが、それにしても今日は様子が可笑しい気がする。


「欲しくないなら、無理に食べなくても良いぞ」
「あ……いや、…食べる。食べれる」


 言って、むぐ、とスコールはトーストを頬張った。
じっと見つめる兄に、スコールは少し気まずそうに視線を逸らしたが、レオンが見た限りでは、体調が悪いと言う訳でもないらしい。

 最後に少し冷めた、温くなった牛乳を飲み欲し、レオンもコーヒーを飲んで食事は終わり。
食器をまとめてキッチンのシンクに持って行こうとすると、スコールがレオンの手を掴んで止めた。


「ん?」
「洗うの……俺がやる」
「いや、大丈夫────」
「やりたい」


 じ、と見詰めて言ったスコールに、レオンはぱちりと瞬きを一つ。


「……やる」


 ぽかんとした表情で立ち尽くしているレオンから、スコールは食器を奪うように取って、キッチンまで運んで行った。
レオンも慌ててそれを追い、キッチンに入る。


「スコール、大丈夫か?」
「ん」


 スコールの見た目は、純粋な人間で言えば、15歳頃である。
しかし、施設での生活で家事などした事も見た事もなかったし、今の生活になってからも、そうした事は殆どレオンがやって来た。
いつもレオンの後ろをついて歩いているし、手伝いなどもさせた事はあったが、それもあくまでレオン主導での話。
食器洗いも何度か手伝わせた事があるものの、水には余り触らせておらず、洗い終わった食器を拭くのが主な仕事となっていた。
要するに、スコール一人に家事を任せた事がない、と言う事だ。

 スコールは、蛇口を捻って冷水を出すと、その落下地点に食器を置いた。
スポンジを取って水を含ませ、食器用洗剤の入ったボトルを手に取る。
しばらくそれを眺めた後、ボトルの蓋を開けて引っ繰り返し、────どぽぽっ!と流れ出て来た粘着質のある液体に、スコールの尻尾がぶわっと膨張する。


「ふぎゃっ!」
「ああ、ほら……」
「や、だ。やる。俺がやるっ」


 手を出そうとしたレオンに、スコールはぶんぶんと首を横に振って拒否を示す。
スコールは、どろどろとしたものが付着した手を見詰め、嫌そうに顔を顰めたものの、スポンジに擦りつけるように手を押し付けた。
水を含み、洗剤を吸い込んだスポンジを握ると、ぷくぷくと白い泡が溢れ出す。


「………」


 膨張していた尻尾が落ち着いたと思ったら、今度はゆらゆらと興味津々な風に揺れる。
静かな青灰色が心なしか楽しそうに閃くのを見て、レオンは口元を緩めた。

 スコールはしばらく、スポンジを握って開いて、その度に溢れ出す泡を楽しんでいたが、


「……!」


 はっと我に返ると、慌てて流しっ放しの水に晒していた食器を手に取った。
が、泡塗れの手は滑りやすくなっており、つるん、と陶器が指に滑ってシンクの上に落ちた。
ガチャッ!と陶器のぶつかる音が鳴って、ビクン!とスコールが固まる。

 やっぱり見ていられない、とレオンがもう一度手を伸ばそうとすると、またスコールはぶんぶんと首を横に振って拒否を示す。
こうなってしまうと、スコールは頑固だ。
レオンは止むを得ず、スコールの隣で、弟の様子を見守る事にする。


「洗剤がつくと、よく滑るから、気を付けろよ」
「……ん」
「裏側もちゃんと洗って…」
「うん」
「……水、出しっ放しってあまり良くないらしいぞ」
「ん」


 スコールが蛇口を捻って水を止める。
レオンから一つ一つ、ぽつぽつと教えて貰いながら、スコールは食器を危なっかしい手付きで洗って行った。

 グラスの底や皿の裏側もきちんと洗剤で洗い終えると、また水を出して洗剤を流し落とす。
レオンが綺麗になった皿を受け取って拭こうとすると、スコールはいやいやと首を横に振った。
どうしたのかと思っていると、スコールがレオンの手にあった布巾を取り、食器の水滴を拭いていく。
これもまだ手付きは危なっかしくあるものの、水洗いに比べれば慣れている。

 食器を棚に戻して、これで朝食の片付けは終了。
この後は、特別するべき事もないので、時計が正午を迎える頃までは二人でのんびりと過ごすのが常である。

 食器洗いが終わって一安心したレオンがリビングに戻ると、直ぐにスコールも後ろをついて来る。
ソファに腰を下ろせば、スコールも隣に座って、テレビの電源を入れた。


「昨日の……」
「ん?…ああ、あれか。見るか?」


 スコールの言葉少ななリクエストを汲み取って、レオンはDVDデッキのスイッチを入れた。
録画番組の表示を映すと、其処には報道番組系のものが毎日更新される形で何某かが録画されており、その合間に、動物番組系のバラエティが記録されていた。
報道系は家主が必要だからと言う理由の他、レオン自身とスコールの勉強も兼ねて視聴している。
動物番組は、スコールが入院していた頃から見ているものらしく、特にライオンが特集される時は、画面に齧り付くようにして見ている。

 動物番組のタイトルに合わせて再生ボタンを押す。
子供が喜びそうな、キャッチーなオープニングと、司会者のタイトルコールに、スコールの尻尾がゆらゆらと嬉しそうに揺れる。
その尾にレオンが自分の尾を絡ませると、ぴくっ、とスコールの耳が真っ直ぐに立った。


「………」


 じ、と見詰める青灰色に、レオンが小さく笑みを浮かべると、スコールはソファにあったクッションを抱えて顔を埋める。
ほんのりと赤くした頬を隠しながら、視線をテレビに戻しつつ、スコールもレオンに答えるように、尻尾を絡み付かせてきた。

 繋いだ場所から伝わる温もりが、彼らの世界の全てだった。





 テレビの途中で眠ってしまったスコールを起こさないように、音を立てないように気を付けながら、レオンはソファを立った。
すぅすぅとクッションを抱いて眠るスコールの耳をくすぐると、ふにゃ、と小さな声が漏れた。

 名残惜しさを感じつつ、レオンはソファを離れ、風呂場へ向かう。
レオンはクラウドに飼われるようになった日から、自ら風呂へ入った覚えがないのだが、毎晩あれだけの行為を繰り返されながらも、体は清潔なものだった。
散々貫かれ、欲望を注がれた淫部にも、違和感はあるものの、それが残されていた事はない。
気を失った大の男を抱えて洗うなどと言う手間を、あの男がするとも思えない。
けれど、それならばスコールに────と思うと、クラウドとは別の意味でレオンは泣きたくなってくる。
だから、なるべくその事は考えないようにしていた。

 水垢のついたタイルを洗いながら、レオンは出来るだけ頭の中を空にするように努める。
思考が動き出すと、無性に涙が出そうになるからだ。
自分が泣けば、苦しんでいる事が判れば、スコールが不安になってしまう。
だからレオンは、せめてスコールの前でだけは、涙を見せたくないと思う。

 タイルの泡をシャワーで一気に流し落とし、室内乾燥のスイッチを入れる。
バスルームの清掃が終わった後は、洗い終わった洗濯物を洗濯機から出して、ベランダに干す。
時刻は既に昼を過ぎているが、今日は天気も良いし、風も吹いているので、夕方頃には取り込めるだろう。
これも手早く済ませて、レオンはリビングに戻り、まだ起きる様子のないスコールの顔を覗き込んだ。


「……ん……」


 スコールは、日中はこうして寝て過ごしている事が多い。
起きていれば、家事に勤しむレオンを手伝う、と言って後ろをついて周るのだが、それ以外は専ら眠るのが仕事のようなものだった。

 今の生活になってから、スコールのストレスは溜まる一方だ。
支配者がいない間は幾らかリラックスしていられるようだが、この環境を受け入れられた訳でもない。
男が帰って来ると、スコールは直ぐに眦を尖らせて彼を睨む。
レオンもスコールの気持ちが判らない訳ではないが、それを表面化させる訳には行かなかった。
だからいつも、不満げなスコールを宥め透かしているのだが、それの所為で余計にスコールの苛立ちは蓄積される一方となっている。

 せめて、運動なり何なり出来れば、気晴らしになるかも知れなかったが、獣人である自分達は外に出る事は出来ない。
結局、こうして部屋の虫になって過ごすしかないのだ。


(……夕飯、好きなもの作ってやるか)


 レオンが弟の為に出来る事と言ったら、精々それくらいのもの。


(何かしてやれたら、いいのにな)


 スコールが笑っていてくれれば、レオンはそれで幸せだった。
スコールが苦しむ事がなければ、それで十分だった。
けれど現実は厳しいばかりで、スコールが泣き叫ぶ事がなくなった代わりに、彼は時折見せていた柔らかな面すら浮かべなくなってしまった。

 スコールが壊されなければ、それで良い。
そう思っていた筈なのに、壊される事がなくなったら、今度はスコールが辛い思いをするのが見ていられなくなった。
どうして、傍で生きていてくれるだけで嬉しいのだと、そう満足する事が出来なかったのだろう。
生きて、傍らで、笑って欲しいと、望まずにはいられないのだろう。

 欲と言うものは際限がなくて、一つ叶えばもう一つ、それが叶えば更にもう一つと、望んでしまうものだと言う。
本当にその通りだ、とレオンは、スコールの耳の付け根を撫でて思った。




 ガチャリ、と玄関の方から聞こえた音に、スコールの耳がぴくっと向きを変える。
夕暮れの橙色に染まった部屋の中で、穏やかだった彼の空気が一気に硬質化した。
尾を逆立ててグルグルと喉を鳴らすスコールを、レオンはソファに座らせて抱き寄せる。
咎めるように青灰色がレオンを睨んだが、レオンはスコールを腕の中に閉じ込めて、耳に鼻を寄せる。

 膨らんでいたスコールの尾が、少しずつ収縮して行った。

 玄関からリビングへと足音が続き、廊下とリビングを隔てる扉が開かれる。
もう一度強張ったスコールの背を、レオンはそっと撫でてやった。


「ただいま」
「……お帰り」


 拾われて、クラウドと言う人間を本当の意味で知るまでの一ヶ月の間で沁みついた遣り取り。
ワンテンポ遅れて、それでも返事をしたレオンだったが、スコールはレオンの胸に顔を埋めたまま、沈黙している。

 クラウドはジャケットをダイニングテーブルに投げ、キッチンの冷蔵庫を開ける。
ペットボトルのスポーツドリンクの蓋を開け、クラウドは真新しかったそれを一気に半分まで飲み干した。


「晩飯は」
「其処にある。俺達はもう食べたから、」
「風呂入って来る」


 自分で温めて食べろ、とレオンが言う前に、クラウドはリビングを出て行った。
仕方なくレオンがソファから腰を上げると、くん、とシャツの裾を引かれた。

 じ、と見上げる青灰色に、レオンは笑みを浮かべて、くしゃくしゃと柔らかな髪を撫でた。
シャツを握っていた白い手が離れて、スコールはソファに俯せになる。

 キッチンのコンロに置いたままにしていた鍋を火にかけて温める。
炊飯器の米は明日の朝にクラウドが食べる分だけ、余分に炊いておいた。
乾燥機に入れたままにした食器を出して、食事の用意を全て終えると、トレイでリビングに運び、テーブルの上に置いておく。
丁度そのタイミングで、リビングと廊下を隔てるドアが開いた。


「……向こうにいる」
「ああ」


 食事を始めるクラウドを一瞥して、レオンはスコールの手を引いて、寝室に入った。
ついて歩くスコールの足取りが重いように感じられるのは、気の所為ではあるまい。

 寝室のドアを閉めると、スコールが唇を噛んで俯いた。
レオンはそんな弟を抱き寄せて、ダークブラウンの髪を撫でてやる。
ぎゅう、と縋るように抱き着いて来たスコールが、レオンの肩口に顔を埋める。

 腕の中に閉じ込めた温もりが震えているのが判って、


(────ごめんな)


 それを言ったら、きっと泣き出してしまうのが判るから、レオンは何も言わないまま、スコールを抱き締め続けていた。