抗う猫、一匹 1


 兄がずっと苦しんでいる事は、判っていた。
ずっとずっと前から知っていた。
きっと自分が背負わなければならなかった苦しさや、痛みを、彼は全て代わりに背負ってくれた。
いつだって彼はそうして、“弟”として生み出された自分を守ってくれていた。

 身を守る術は、何もなかった。
だから何かを、誰かを守る為には、自分自身を代わりに差し出す以外、出来る事は何もなかった。
それは兄も弟も同じ事だったから、必然的にどちらかが傷付く以外、互いを守る事は出来なかった。

 だが、兄が弟を守りたいと思うように、弟も兄を守りたかった。
兄が弟を傷付けたくないと思うように、弟も兄を傷付けたくないと望んでいた。

 兄の願いを叶えれば、弟の願いは叶わない。
弟の願いを叶えれば、兄の願いは叶わない。

 寄り添い合って生きる以上、彼らの願いは未来永劫叶わない。
二匹の猫が誰にも傷付けられない場所で、誰にも知られず生きる以外、彼らの願いは叶わない。
何かを、自分を代償にして生きる世界にいる限り、二匹の猫が、身も、心も、傷付かずにいられる世界を見付けない限り。
人の手によって生まれた二匹にとって、生きている限り、そんな世界は何処にもないと言って良いだろう。
だから彼らの願いは叶わない。

 助けを呼ぶから、兄が泣く。
耐えようとして出来ないから、兄が泣く。
代わりに自分が傷付くと言う。
それが嫌だから、助けを呼ばないように、耐えようとしているのに、何度繰り返しても失敗する。
そして、また兄ばかりが傷付いて行く。

 外に出れば、あの閉ざされた痛くて苦しい世界から出れば、兄はもう傷付かなくて良いんだと思った。
だから、見付かって連れ戻されれば傷付くと判っていながら、行こう、と言って繰り返し差し出される兄の手を取った。
その先に、兄が傷付かなくて良い世界があるのだと信じて。
いつか兄が傷付かなくて良い世界に辿り着けると、信じて。

 ────それなのに。
何処まで行っても、行き着く場所は、兄が傷付く世界ばかりだった。





 白いベッドに寝かせられたレオンを、スコールはじっと見詰めていた。

 ベッドの傍らには、液体を溜めた透明なビニール袋が吊るされ、袋からは細い管が伸び、レオンの腕に繋がっている。
それがどういうものなのか、スコールは理解している。
生まれてからずっと、兄と共にあらゆる生態実験を繰り返されて来たから、薬物の類に関する実験も受けていた。
時には脳が焼けそうな程の劇薬を投与された事もあったが、この“病院”で与えられる薬は、そうした過激なものではない。
今レオンに送られている薬液は、所謂栄養剤の一種で、生き物が生きる上で必要不可欠なものを、直接体内に投与して、不足してしまった栄養素を補うものであった。
スコールもほんの数ヶ月前まで、この薬液を投与されて過ごしていたから、この栄養剤は信用して良いものだと理解している。

 しかし、信用して良いと判っていても、それで安堵する事は出来なかった。
不足した栄養を急ぎ補った所で、倒れたレオンが今直ぐに目を覚ます訳ではないのだから。


(レオン……)


 スコールはベッドに乗り上げると、瞼を閉じたまま動かない兄に、そっと顔を近付ける。

 スコール程ではないが、レオンも肌が白い。
その白い肌が、頬が、今は青白く見えて、嫌だ、とスコールは思った。
青白い肌は生気が感じられない時に見られるもので、レオンが拷問紛いの実験を受けた後、ぼろぼろになって帰って来た時に見るものだった。


(……また、俺の所為で……)


 眠るレオンの躯には、あの閉ざされた世界にいた時のような、メスの痕や焼け爛れたような痕は残っていない。
もう傷付かなければならないような生活に身を置く必要はなかったから、目に見える傷を負う事もなくなった。
けれど、あの痛みから解放された今でさえ、レオンは傷付き、その身を削って弟を庇い続けている。

 キィ、と蝶番が軋む音がして、スコールは顔を上げた。
ブーツの固い足音に、スコールの尾がピンと逆立ち、近付く気配にスコールはぐるぐると喉を鳴らす。
そんな事をして近付いてくる者が遠退いてくれる筈もないのだが、この反応は最早条件反射となっていた。


「検査結果が出たぞ」


 現れたのは、目が覚めるような金髪を逆立てた黒衣の男────クラウド・ストライフ。
閉じた薄暗い世界を逃げ出したスコールとレオンを拾い、保護し、看護して、己の世界へ閉じ込めた支配者。

 クラウドは、レオンを庇うように体の下に隠し、睨み付けるスコールに構わず、ベッド傍へと歩み寄った。


「過度の疲労とストレス、栄養失調……大雑把に言うとそんな所だな。あと睡眠不足か」


 クラウドの言葉には、溜息が混じっている。
それが「面倒な」と言外に言っているように聞こえて、スコールは眉根を寄せた。


「ヴィンセントからは食生活がどうだとか聞かれたが、俺はお前達の生活にはノータッチだったからな。問診票を貰ったから、お前が書いておいてくれ。字の読み書きは問題ないだろう?───で、レオンは暫く入院させる事になった。うちに来る前のお前と同じように、暫く此処で過ごすんだ」
「……俺も此処にいる」


 レオンが入院する───病院で過ごす───と言う事は、スコールは彼と離れ離れにならなければならない。
数ヶ月前、今とは逆に、スコールが入院している間もそうだった。
レオンは度々スコールに逢いに来てくれたが、時間が過ぎると彼は病室を後にしていた。
それから、またレオンが病室に来てくれるまで、スコールはずっと待ち続けなければならず、その一人きりの時間がスコールは嫌いだった。
レオンが部屋を去り、戻って来るまでの間の時間が、あの痛くて苦しい世界で、自分の代わりに傷付く兄が帰って来るのを待っていた時間と、酷く似ていたから。

 病院は、あの逃げ出した世界と少し似ている。
だからスコールは、病院と言う空間を好きになれなかった。
自分が入院していた時も、兄が来てくれるまではいつ実験染みた事を強要されるかと警戒していたし、兄が「此処は安全だから」と言っても、一人きりになるとどうしても緊張してしまう。
そんな場所にレオンを一人残して行くなんて、スコールには出来なかった。

 ベッドに齧り付いてでも動かない、と言う表情で睨むスコールに、クラウドはまた溜息を一つ。


「お前の言いたい事は判らないでもないが、此処は病人以外を泊められるような余分なスペースはない。診察や治療の邪魔にもなる」
「……」
「レオンが目を覚ましても、直ぐには連れて帰れない。胃が少し収縮していたらしいから、それが元に戻って、拒食症があるならそれも治す必要があるし。一朝一夕じゃ退院は出来ないだろうな。ゆっくり休ませてやる必要がある。その為にも、お前は傍にいない方が良い。レオンはお前が絡むと直ぐに無理をするようだからな」


 その言葉に、スコールはぎり、と牙を見せてクラウドを睨む。
今にも喉に食い付き、皮膚を破らんばかりの凶暴さを滲ませる眼にも、クラウドは眉一つ動かす事はしなかった。


「あんたの所為だ」


 動物の親が子を守ろうとするように、スコールはレオンに覆い被さった格好のまま、クラウドを睨んで言った。
シーツを握り締めるスコールの手は、込められた力の所為だろう、血の気を失って白んでいる。
ぷつ、と手の中で爪が皮膚を破った感触があった。

 何処を見るでもなく、宙を眺めていた碧眼が、スコールへと向けられる。
それだけでスコールの躯は、天敵に睨まれたかのように凝固しかけたが、スコールは唇を噛んでそれを耐えた。


「レオンが倒れたのは、あんたの所為だ。あんたがレオンにあんな事するから。あんたがレオンに酷い事をするから。あんたがあんな事しなければ、レオンは、」
「俺が原因か」
「それ以外に何がある!」


 鷹揚のない声で言ったクラウドに、スコールが声を荒げた。
しかし、クラウドは已然として表情を変えない。


「まあ、その一端がないとは言わないが、栄養失調や睡眠不足は本人の管理の問題だ。食事制限をした覚えはないし、眠る時間だって好きに採ればいい。昼間、俺は仕事に出ているから、その間お前達がどう過ごそうと、それはお前達の自由だ。言い換えると、お前達自身の責任だと言う事だ」
「あんな事されて、眠れる訳ないだろう。レオン、食事だって殆ど食べてなかった。全部、あんたにあんな事されてたからだ」
「何度も言うが、あれはお前達の生活の面倒を見る事への交換条件だ。レオンもそれを理解して応じている。嫌なら、最初に嫌だと言えば良かっただけの事だ」


 まるで自分に責任はないも同然の発言をするクラウドに、スコールは抑え込んでいた怒りがふつふつと沸き上がってくるのを感じた。
その怒りは、今の発言に対するものだけではない。
拾われてから、目の前の男に裏切られた事、毎晩レオンへと強制される行為への怒り────それらはレオンがスコールに「耐えろ」と言うから、耐え続けていたものだった。

 クラウドは交換条件に対し、嫌なら断れば良いと言うが、それこそスコール達には出来なかった。
交換条件とは体の良い言葉で、レオンとスコールにとっては、脅しと言った方が正しい。

 獣人として人の手によって生まれ、知識は全て本とデータによって得た物だけ。
血縁者などいる訳もなく、生まれた世界を逃げ出してから行く宛もない。
クラウドが気紛れで闇医者の下へ運んでくれたから、レオンとスコールは痛くて苦しいだけの狭い世界に連れ戻される事もなく、ひっそりと隠れ過ごしていられるのだ。
衣食住を与えられる代わりの条件を反故にし、この支配者の下を逃げ出した所で、次に何処へ行けと言うのか。
逃げ出したばかりの頃、行き場を失い、生きる術すら持たない自分達は、野垂れ死ぬのを待つしかなかったと言うのに。

 その上この男は、嫌なら逃げれば良いと言いながら、警察にレオンとスコールの事を届け出す旨も臭わせた。
公的機関に連絡されれば、十中八九、レオンもスコールも囚われて連れ戻される。
それこそ、兄弟にとって地獄へ再び落とされる事と同じだった。

 唇を噛み、拳を震わせて睨み続けるスコールに、クラウドは薄く笑みを浮かべて顔を近付けた。
仄昏い光を宿した碧眼が、まるで深淵から這い出たような不気味さを感じさせて、スコールは息を飲んだ。


「帰るぞ、スコール」
「な……」
「此処にいても、お前に出来る事はない。言っただろう。診察や治療の邪魔をしない為にも、お前は此処にいない方が良い」


 言い終えるや否や、クラウドはスコールの腕を掴んで踵を返した。
ベッドから無理やり引き摺り下ろされ、病室から外へと連れ出される。


「離せ!俺はレオンと一緒にいる!」


 スコールの叫びに、クラウドは答えない。
捕まれた腕を力任せに振り払おうとしても、クラウドの手は確りとスコールの細い手首を掴んでいて、離れる事はなかった。

 牙でも爪でも突き立ててやれば、離れるだろうか。
そう思ってから、駄目だ、とスコールは唇を噛んだ。
それでこの支配者の不興を買えば、何の為にレオンが今まで耐えて来たのか、全てが無駄なものになる。
怒りも憎しみも、何一つとして、スコールはこの男にぶつけてはならないのだ────唯一無二の絆を失わない為にも。




 背中の気配から逃げるように、玄関廊下を通り過ぎて、リビングに入って、被っていた帽子を投げて上着を脱ぎ捨てた。
押さえつけていた耳がようやく楽になり、腰に巻き付けて隠していた尻尾が自由になる。

 がちゃり、と玄関のドアが施錠される音が鳴って、びくり、とスコールの肩が跳ねた。
それを慰め、宥めてくれる温もりは、今此処にはいない。

 スコールの後に部屋に入ったクラウドは、玄関廊下からキッチンへ入ると、ポットを急速沸騰させた。
病院からの帰り道で立ち寄ったコンビニで、クラウドはカップ麺を大量買いし、暫くこれで食い繋ぐぞ、と言った。
それを聞いてスコールは、彼が家事一般がまるで出来ていない事、食事に限らず掃除洗濯諸々は全てレオンが担っていた事を思い出した。


(…あんな事、された後で……)


 スコールは、レオンが昼間、忙しなくしていた事を思い出す。
彼は必ずスコールよりも先に目を覚まし、食事の用意をして、掃除や洗濯を済ませ、いつもと変わらない顔でスコールに笑いかけていた。
仕事に出ていたクラウドが帰って来る際、無意識的に緊張と警戒に駆られるスコールを宥める彼は、自身がどんな仕打ちを受けていても、柔らかな表情でスコールの頭を撫でていた。

 どうして、そんな事が出来ていたのだろう。
自分の方が余程辛い思いをしている筈なのに、レオンはまるで何事もないかのように振る舞っていた。
夜になれば、また同じ事が繰り返されると判っている筈なのに、彼はいつでもスコールの事ばかりを気にかけていた。


(……俺の所為だ)


 病院で一度思った言葉が、もう一度浮かんだ。

 自分さえいなければ、レオンは此処まで傷付かなかった。
自分の事だけを気にしていれば良かったのだから、スコールの分まで背負う必要はなかった。
────だが、スコールがいるからこそ、レオンは“レオン”として存在意義を見出したのだと、スコールには気付く事が出来ない。

 キッチンで聞こえる物音に顔を上げても、其処に彼はいない。
忌々しい金色が其処にいるだけで、対面の壁越しに目を合わせた時、微笑んでくれた青灰色は見付からない。

 ────レオンが倒れたのは、今から数時間前の事だ。

 昼食の後、キッチンからは水道の水が流れる音と、食器を洗う音だけが続いていて、スコールは見詰めていたテレビの内容よりも、それらの音の方が気になって仕方がなかった。
その音の向こうにレオンがいると思うと同時に、昨晩の出来事が脳裏を過ぎり、消えなかった。

 自分の手で喘ぎ、果て、正気を失ったように腰を揺らめかせる兄の姿が、スコールの脳裏から離れない。
押し当てた機械越しに、ビクビクと跳ねるレオンの肢体。
支配者に強要された事とは言え、スコールは自分の所為で、自分の一番大切な人を壊し、傷付けてしまったように思えてならなかった。
その気まずさから、今日はレオンが目覚めてから一度も目を合わせられず、兄の存在の気配を具に確かめていながら、彼の顔を見る事が出来なずにいた。
謝らないと、でも謝るって何を、どうやって、と蹲り考え続けていた時、食器の音が途切れて、どさり、と言う音が聞こえた。

 リビングから見える筈のキッチンに、レオンがいない。
その事に気付いて、スコールがキッチンに入ると、床に倒れ込んだ彼の姿があった。
蒼白になって駆け寄り、起こそうと何度も呼んで体を揺さぶったが、レオンはぴくりとも反応を返さない。
目覚める様子のないレオンに、どうすれば良いのか判らなくなって、スコールはただ彼の名前を呼び続けるしかなかった。

 レオンを病院に運んだのは、クラウドだ。
仕事を終え、帰宅したクラウドは、キッチンで座り込んだスコールと倒れているレオンを見付けると、直ぐにレオンを病院に連れて行くと言った。
スコールは待っているように言われたが、頑なにレオンの傍から離れようとしないのを見て、クラウドが根負けした。

 スコールはソファに腰を下ろすと、膝を抱えて蹲った。
ゆらり、と揺れた尻尾がソファの上に投げ出される。


(……何も出来なかった。何も判らなかった)


 レオンが倒れて、何をすれば良いのか、スコールは何も判らなかった。
もしもクラウドが帰って来なかったら、今でもスコールは、目覚めないレオンの傍らで座り込んでいたかも知れない。


「───スコール」


 呼ぶ声に、思わず尻尾の毛が逆立った。
咄嗟にソファの端へと飛び退くと、両手にカップ麺を持ったクラウドが立っている。


「お前の分だ」
「……」
「置いておくぞ。食べたくないのなら、此処に置いておけばいい。後で俺が食べる」


 ガラステーブルに一つカップ麺を置いて、クラウドはスコールとは反対のソファの端に腰を下ろした。
ズルル、と麺を啜る音がして、テレビの電源が点けられる。
賑やかなバラエティ番組が流れ始め、クラウドは表情を変えずにそれを眺めていた。

 カップ麺の香ばしい匂いがスコールの鼻をくすぐり、胃袋を刺激する。
時計を見れば、時刻はいつもの夕食の時間をとっくに過ぎており、昼食にレオンが作ったサラダとスープを食べただけだった事を思い出した。
空腹は当然の事であったが、スコールはテーブルに置かれたカップ麺を一瞥しただけで、直ぐに視線を逸らす。
空腹は自覚があったが、それ以上に食欲がない。
思えば、昼食も無理やり胃袋に詰め込んだだけで、食べたかったから食べたのかと言われると、そうではなかった。

 スコールはソファの上に座り直して、膝を抱えて蹲った。
ピンと立った耳がクラウドのいる方向へと向いている。
警戒している事を示すその動きを、クラウドが目にする事はなく、彼は黙々とラーメンを啜っている。

 スコールがクラウドと二人きりになるのは、これが初めての事だった。
スコールがこの家に来た時は、レオンが既にクラウドと共に住んでいて、彼はこの空間に安心しきっており、クラウドの事も心から信頼していた。
スコールは、クラウドがどうやって自分達を見付けたのか知らないが、レオンが言うには、行き倒れていた所を通りかかって放って置けずに拾った、と言う話だった。
レオンがそれをスコールに話したのは、スコールの退院前の事。
話をしていた時のレオンは、心から嬉しそうに笑っていた。
あいつのお陰でお前と一緒にいられるんだ、と言った時のレオンの笑顔が、スコールは忘れられない。

 だからこそ、スコールはクラウドの裏切りを赦せなかった。
一ヶ月もの間、優しい仮面の下で、何も知らない二匹の猫を騙し続けていた。
優しく微笑み、柔らかく触れながら、心の中ではいつ本性を明かしてやろうかと、物知らずな猫を嘲笑っていたのだ。

 クラウドのお陰で、兄弟で離れ離れになる事なく、不自由なく暮らす事が出来るのは、事実だ。
倒れたレオンを病院に運んでくれたのもクラウドだ。
だが、この空間の支配者であり、レオンを傷付け、苦しめているのもクラウドだ。
スコールにとって、レオンは何よりも失う事が出来ない存在だから、彼を傷付けるものは、スコールにとって“敵”以外の何者でもない。

 “敵”なのに、この男がいなければ、自分は生きて行く事すら出来ない。
酷く惨めな気分になって、スコールはぎゅう、と唇を噛んだ。


「食わないのか」


 自分のカップ麺を食べ終えて、クラウドが言った。
スコールは返事をしない。
食うぞ、と言って、クラウドはスコールの分だと言っていたカップ麺を手に取った。


「伸びたな……」


 独り言のように呟いて、クラウドは水分を吸って膨らんだ麺を箸で解し、ずるずると啜り始めた。


「……別に、食いたくないなら今は構わないが、お前まで倒れられる訳にはいかないからな。明日からは食べろよ。カップ麺しかないが」


 スコールは何も答えず、反応も示さなかった。
視線だけを睨むように支配者へと突き刺したまま、ぐるぐると鳴りかける喉を抑え込む。
クラウドはそんなスコールをちらりと見遣ると、エンドロールを流し始めたバラエティ番組に視線を戻し、


「何もする事がないのなら、寝室に行って用意していろ」


 その言葉に、スコールは我が耳を疑った。

 寝室は寝る為の部屋だが、レオンとスコールにとっては、支配者に蹂躙される為の懲罰房であった。
毎晩繰り返されるレオンへの凌辱は、寝室で行われ、クラウドの気が済むまで続けられる。
その間、レオンは意識を失う事は赦されない。
クラウドが満足するまでにレオンが意識を失えば、その後はスコールが犯される。
だからレオンは、弟を守る為に、支配者に従い、痛みも屈辱も噛み殺して、耐え続けていた。
スコールは兄が悶え、乱れる姿を傍にいる事を強要され、「性教育」の名目で兄が支配者によって躯を暴かれる様を具に見せつけられていた。

 その兄がいないのに、どうして。
まさか、ただ「寝ろ」と言う意味で寝室に行けと言った訳ではないだろう。

 目を瞠り、なんで、と言う表情で見つめるスコールを、クラウドは一瞥すると、


「何ぼーっとしてるんだ。レオンがいないと、自分のするべき事も判らないか?」


 するべき事。
自分達に課せられた役割、果たさなければならない条件。
兄が苦しみながら耐え続けていた事。
────支配者への性的奉仕。

 スコールは、全身の毛が一気に総毛立つのを感じた。
その証のように、スコールの黒い尾が大きく膨らんでいる。


「ふざけるな!あんな事…誰がするか!」
「……まだ判っていないようだな、お前は」


 ずる、と啜ったラーメンを飲み込んだ後、クラウドは呆れたように言った。
クラウドは残りの麺を一気に描き込み、スープも飲み干すと、空のカップをテーブルに置いてスコールへ目を向ける。


「俺の性欲処理をするのが、お前とレオンを養う事への交換条件。これを拒否するのなら、俺はもうお前達の面倒を見ない。何処へなりと好きな所へ行けば良い」


 淡々とした口ぶりで告げる男に、スコールは今日何度目か知れない殺意を抱いていた。

 何処へなりと行けなどと、出来る筈もないと言う事を、この男は知っている。
それでいて、スコールが反抗的な態度を見せる度、レオンが苦い表情を浮かべる度に、優しさでも垣間見せるかのように、こんな事を言うのだ。
まるで、スコール達が自ら選んで、この支配者の下に留まっているかのような錯覚を起こさせる。

 ぐるぐると喉を鳴らして睨むスコールを、クラウドはしばしじっと見詰めた後、


「───ああ。ひょっとして、自分はやらなくても良いと思っていたか?」


 支配者に奉仕して、足を開いて欲望を受け入れる。
兄弟がクラウドの下で生活をする事を決めてから、それを行って来たのはレオンだった。
スコールは、支配者に従う兄の傍らで、その姿をじっと目の当たりする事を強要されていた。

 だが、本来ならば、この交換条件は、二人それぞれで負わなければならないものだった。
にも関わらず、スコールがただ見ているだけだったのは、レオンが“二人分”働くと言ったからだ。


「お前が俺の性欲処理を直接やる必要がなかったのは、お前の分までレオンが俺の相手をしたからだ。それはお前も判ってるだろう?前にも同じような話をしたのは覚えてるな?」


 クラウドの確認の問いに、スコールは何も言わない。
唇を噛んで俯くのが答えだった。


「だが、レオンはしばらく入院だからな。あの調子だと、一週間は帰って来れないだろう。その間の入院費って言うのは、案外馬鹿にならないものなんだ。言うまでもないと思うが、それもお前達の面倒を見るものとして相当するぞ」
「……横暴だ」
「人聞きが悪いな。ただのギブアンドテイクだ。猫のお前達でも十分対応できるレベルの、な」


 薄く笑みを梳いて言うクラウドに、スコールは口の中で言いたかった事を全て噛み殺す。
一つでもぶつければ、この男の不興を買ってしまう。
その事に怯えなければならないのが、スコールは酷く不愉快だったが、脳裏に浮かぶ兄の青白い顔に、その悔しささえも押し潰されて行くのを感じていた。

 クラウドはテーブルに置いていた空のカップ麺を拾うと、ソファから腰を上げた。


「まあ、お前がどうしても嫌って言うなら、無理強いする気はない」


 その言葉に、スコールは顔を上げる。
背を向けた男の表情は見えず、その所為で、彼が何を考えているのか、スコールには全く読めなかった。
────が、続いた彼の言葉が、またスコールを絶望の底へと叩き落とす。


「お前には手を出さないでくれって言うレオンの頼みもあるし。レオンが退院するまでは、俺も我慢するかな。退院した後、溜まった分と入院費分と、まとめてレオンに頑張って貰えば良い話だ」


 入院費と言うものが、一体どれだけの負担になるものなのか、スコールにはよく判らない。
ただ、長引けば長引くだけ、費用が嵩むであろう事は予想がついたし、入院したからと言ってクラウドがあの行為の手を緩めてくれるような優しい人間ではない事も判っていた。

 毎晩繰り返される凌辱を甘んじて受け続け、スコールの分までその身を差し出して傷付き、倒れた兄。
そんな彼を、これ以上傷付ける事など、スコールに出来る筈もなかった。