抗う猫、一匹 3


 悪夢のような一夜を過ごし、意識を手放した後、目覚めて一番に探したのは、兄の顔だった。
けれど、広いベッドの上でぽつんと取り残されている自分に気付き、ようやく昨日中に何が起きたのかを思い出した。

 全部夢なら良かったのに。
そう思いながら、何処から何処までが夢であれば良かったのだろう、と疑問に思う。
兄に無理を強いていた事が夢であれば良かったと言うのならば、スコール自身が生まれた日まで遡らなければならない。
だが、生み出された事、レオンの弟として出逢えた事は、スコールにとって何よりも替え難い、嬉しい出来事でもあった。
ならば、支配者に拾われた所からか、それとも狭くて暗い世界を逃げ出した所からか。
考えれば考える程、延々と繰り返される自問は、スコールの思考を坂道を転げるように落ち込ませていく。

 自分以外、空っぽのシーツの波を見詰めながら、スコールは波の端を握り締めた。
其処に毎日あった筈の兄の温もりは、今は欠片も感じられないのが不思議だった。
毎日、このベッドの上で一緒に寝起きしていた筈なのに、たった一日彼がいないだけで、このベッドの上に彼の気配は残されないのだ。

 スコールは、目覚めてから薄ぼんやりと開かせていた瞼を、ゆっくりと下ろした。
レオンに揺さぶられて目覚めるのが、スコールの日課だったのだ。
疲れ果てている筈の兄よりも遅く目覚める事に、些かの罪悪感はあったものの、彼に揺り起こして貰う事がスコールにとって何よりも幸福な朝であったから、どうしてもレオンよりも先に目覚める事が出来なかった。
時折、先に目覚める日もあったけれども、隣で眠る兄の顔を見詰めている内に、とろとろと再来した睡魔に身を委ねてしまうのが常であった。

 今、此処に、レオンはいない。
だからスコールを揺り起してくれる人はいない。
その事実が、スコールを更に寂しくて虚しくて苛立つだけの現実から遠ざけようとする。

 ────が、ぐう、と腹の虫が鳴った事で、蕩けかけた意識は再び現実へと重きを置いた。


「………」


 むくり、と体を起こして、下半身の鈍痛に顔を顰める。
じんじんとした嫌な痛みを訴える腰を睨んだ後、空っぽの感覚を宥めるように腹を撫でた。
すると、触れられた事で体の活動開始を察知したのか、もう一度、ぐう、と腹の虫が鳴る。

 時計を見ると、短針は12時を指していた。
引かれたカーテンの隙間から、眩しい光が筋になって部屋の中に滑り込んでいるので、正午である事が判る。


(……食べる物……)


 いつもは、起きると兄が何某かを作ってくれていた。
彼がいないとなると、自分で用意しなければならない。

 キッチンの何処に何があるのか、何をどう使うのかは、レオンに教わったから判る。
しかし、それはあくまで理屈の上での話であって、スコールが実際にキッチンに立った事は少ない。
無理を押していると判るレオンが心配で、何度か手伝った事はあったけれど、出来る事と言ったら、皿の用意であったりテーブル拭きであったり、刻み終えたサラダの盛り付けだったりと、危険のない作業ばかりであった。
包丁など触った事もなかったし、火の管理なんてさせて貰える筈もない。
当然、何をどうすれば料理らしい料理が出来上がるのかさえも、判らなかった。

 寝室を出ると、しんと静まり返ったリビングがあった。
テーブルの上は空っぽで、温かいミルクも、焼き上がったばかりのパンも、鮮やかな赤いケチャップソースのかかったオムレツもない。
判っていたのに、尻尾が項垂れるのが判った。

 ぐう、と三度目の腹の虫が鳴る。
スコールはのろのろとした足取りでキッチンに入った。
其処で、調理台の上にぽつんと置かれたものに気付く。


(……カップラーメン……)


 封の切っていないカップラーメンと、箸が一善、それから走り書きのメモが一枚。
メモにはカップラーメンの食べ方が書かれていた。

 見慣れないその文字を書いたのは、クラウドだろう。
レオンがいない今、こんな事をするのは彼しかいない。
どうしてこんな面倒な事をしたのだろう、と考えてから、


(…そうか。俺まで倒れられたら面倒だって言ってたな)


 レオンが倒れた理由は、過度のストレスと疲労、睡眠不足、そして拒食症による栄養失調だと診断された。
その傍ら、昨日スコールが夕飯のカップラーメンに手をつけなかった。
このままスコールも食事を拒否し続け、倒れられては面倒が増えるだけだと思い、メモを残したのだろう。

 カップラーメンと言うものを、スコールは食べた事がない。
病院にいた時は、栄養剤の点滴が取れた後、米を水で溶いた粥や炊いた野菜、魚など、消化が良く、栄養価の高いものを与えられていた。
退院した後は、レオンが毎日の食事を手料理してくれて、時折インスタントのものもあったが、カップラーメン程簡素なものは見ていない。

 スコールはカップを手に取って眺めた後、元の位置に戻した。
風の開け方が判らなかった訳でもないし、この食べ物を信用していない訳でもない。
ただなんとなく、食べる気にならなかったのだ。
……あの男がわざわざ用意してくれたものを、食べたくないと思った。


(……多分、あの時のケーキの所為だ)


 ようやく、痛くて苦しくない世界に、兄と共にいられると思った矢先、その世界は再び嫌な色で塗り潰された。
その直前、クラウドの用意したケーキとコーヒーを口にして、それから兄弟は意識を手放し、目覚めたら支配者の世界に鎖で繋がれていたのだ。
だから、あの男が用意した食事に、無警戒に手を伸ばす気にならない。

 冷蔵庫を開けてみると、色々なものが入っていた。
野菜、漬物、香辛料、調味料、冷凍室を開けると肉や魚も凍らされている。

 食べる物は幾らでもあるのに、あの男は、カップラーメン以外は作る気がないらしい。
スコールは4分の1にカットされていたキャベツを取って、それを包んでいるラップを剥がした。


「……切るくらい、簡単だろう」


 呟いて、スコールは調理台にキャベツを置いた。
レオンがしていた事を思い出しながら、まな板と包丁を取り出し、キャベツを置いて包丁を当てる。
レオンと同じように刃を真っ直ぐに落そうとして、


「…………硬い……」


 ざくり、と中程まで入った刃が、芯に当たって止まった。
仕方なく包丁を一度抜こうとすると、芯に食い込んだ刃が引っ掛かって動かない。


「……っく……!」


 ぐぐ、と上から押さえつけて、ダンッ!とまな板に包丁が落ちる。


(……こうじゃなかった……)


 レオンが野菜を刻んでいる姿を思い浮かべながら、スコールは何故同じように出来ないのだろう、と首を傾げる。
切ったキャベツも、随分と幅のある太さに切られていて、レオンのように細くはない。

 ばらばらと散らばった切れ端の一本を取って、まな板の上に真っ直ぐに伸ばす。
細くする為に包丁を落としてみるが、薄い切れ目が入っただけで、葉はまだ繋がっている。


「……まあ、良いか……」


 やり方が判らないので、今日は諦める事にする。
幸い、キャベツは生のままでも食べられる。
ドレッシングは冷蔵庫の中にあるから、それを使えば味も付けられる。

 冷蔵庫の中には色々な食材があったのだが、結局スコールが手を付けたのは、キャベツと胡瓜とミニトマトだけだった。
どれも生のままで食べられるもので、刻んで食べ易い大きさにして、さっぱりとした味のドレッシングだけをかけて食べた。

 喉が渇いたので牛乳を飲もうとしたが、スコールは冷たい牛乳が飲めない。
レオンがいつもしてくれていたように、電子レンジを使って温めようとしたが、調理終了の合図で電子レンジの蓋を開けると、マグカップの中の牛乳は半分に減っていた。
沸騰して噴きこぼれた牛乳は、電子レンジの中で生暖かい匂いを放って飛び散っており、スコールの気持ちを大きく萎えさせた。

 半分になった牛乳は、温かいを通り越して熱かった。
猫舌のスコールには中々飲めず、冷めるまでちびちびと飲んで、ようやく空にした。

 一人でシンクに立って食器を洗っている間、スコールは酷く落ち着かなかった。
水音と、カチャカチャと食器の鳴る音だけが空間に響いて、ゆらり、と手持無沙汰に尻尾が揺れる。


(誰もいない)


 一人きりになるのは初めてではない。
レオンが実験をされている時、スコールは一人きりで彼の帰りを待たなければならなかった。

 レオンがどんなに傷付いて帰って来るのか、そもそも生きて帰って来てくれるのか。
それさえも判らず、ただ縮こまって彼の帰りを待ち続けていた時に比べれば、今は恐ろしく思うような事はない。
レオンの居場所も判っているし、あそこは病人を回復させる為の場所で、その点に置いては信用しても良いだろう────理屈と感情は別だが、それを差し引けば、心配は要らない筈だ。

 だが、レオンが傍にいないと言うだけで、スコールには異常事態に近かった。
特に、外の世界に出て、スコールが退院してからは、どんな時でも同じ空間にいたから、尚更だ。


(レオン……)


 早く帰って来て欲しい。
だが、今のまま彼が此処に帰ってくれば、彼はまた無茶をする。


(嫌だ)


 レオンには、これ以上、傷付いて欲しくない。
無理をして欲しくない。

 スコールはじわりと目許に浮かぶ雫を、腕で拭った。
スポンジを強く握り締めると、泡が溢れて来て、シンクに落ちて水に流されて行く。

 昨日、この場所で、レオンは倒れた。
一昨日の夜から、気まずくて顔を合わせていなかったスコールには、あの時、レオンが何を考えていたのかは判らない。
しかし、目を合わせようとしないスコールの態度に、彼が傷付いていたのは判る。
気遣うように時折スコールを伺う傍ら、彼は酷く泣き出しそうな顔をしていて、弟にその表情を見せまいとして、結局隠す事が出来ていなかったから。

 ほんの少しでもスコールがレオンに触れていたら、何か違っていただろうか。
日々の憔悴でレオンが倒れる事は、遅かれ早かれ、起きた事かも知れない。
それでも、何か自分に出来る事が、兄の為にするべき事があったのではないかと、スコールは考えずにはいられなかった。


(……こんな事考えてても、仕方がないよな)


 洗い物を終え、濡れた手をタオルで拭きながら、スコールは思った。

 あの時ああしていれば、こうしていれば。
過ぎた今になったそれを考えても、どうにもならない事だ。


(…だから…出来るようになろう)


 食事の用意も、掃除も、洗濯も、全てレオンがしてくれていた。
夜になると、支配者の欲望を満たす為、躯を差し出した。
それの繰り返しで、レオンはずっと、スコールを守ってくれていた。

 自分が出来るようになれば、レオンはもう無理をしなくて良い。
食事の用意も、掃除も、洗濯も、スコールが出来るようになれば良いのだ。
手伝う事でも彼の負担を軽くさせる事は出来るけれど、それだけでは足りない。


(俺が何も出来ないから、レオンが全部一人で背負うんだ。俺が出来るようになれば…)


 リビングに戻ったスコールは、マガジンラックの中に入っている料理の本を手に取った。
それはスコールが退院する以前に、レオンがクラウドに頼んで購入して貰ったものだと言う。

 獣人の研究施設にいた頃は、レオンもスコールも調理などと言うものをした事がなかった。
だからレオンも、最初はスコールと同じように、家事一般など判らない事でしかなかった筈だ。
それでも出来るようになったのだから、スコールも同じように、出来るようになる筈。

 そう思って開いた1ページ目から、用語の意味が判らずに唸る羽目になるのだが、スコールは気力を振り絞ってレシピを睨むのだった。





 レオンのように、料理らしい料理は結局出来なかったが、野菜を刻む事と、米を炊く、或いはパンを焼く程度の事は出来たのが幸いだった。
窓から差し込む光が橙色を帯び、四角い空の色の変化が早くなる時間帯になった頃には、食事らしい食事が出来上がっていた。

 白米、サラダ、インスタントのスープと言う質素なものであったが、ないよりは遥かにマシだろう。
レオンが碌に食事を採る事が出来ないのに、自分がのんびりと食事をする事に些かの抵抗はあったものの、彼と同じように食事を採らずに倒れてしまう訳には行かない。
クラウドの用意した食事は手を付ける気にならないし───となれば、質素でも良いから、自分で用意した食事を食べるしかない。
幸い、スコールは目を剥くような量を食べなければ満足しないと言うような体質ではないので、白米とサラダだけでも十分腹は満ちた。
正直に言えば、それ以上食べる気がしなかったのだが、昨夜から何も食べていなかった所為か、空腹を落ち着かせる事そのものに抵抗はなく、用意した一膳分は全て平らげる事が出来た。

 リビングのテーブルには、スコールのものと同じ食事がもう一膳並べられている。
直に帰宅するであろう、この城の主の為のものだ。
彼の為に何某か働くと言う事が、酷く屈辱的に思えもしたが、これもレオンの仕事となっていたから、スコールも同じように用意した。

 掃除は何からすれば良いか判らなかったので、今日はしていない。
片付けが必要な程に散らかっている訳ではなかったのもあったし、掃除機の音が苦手なので、する気になれなかった。
洗濯物は、洗濯機から出してベランダに欲し、夕飯の用意をする頃に取り込んで、レオンに教えて貰ったように畳んだ。

 何もする事がなくなった後は、リビングのソファに座って、ぼんやりとテレビを見て過ごした。
いつもなら、その隣で頭を撫でてくれるレオンがいる。
尻尾を絡めたり、頬を摺り寄せ合ってじゃれ合えるだけでも、スコールは嬉しかった。


(……レオン……)


 ソファの上で膝を抱えて蹲る。
じわ、と滲んで来るものを、腕に押し付けて誤魔化した。

 がちゃ、と廊下の向こうから聞こえた音に、スコールは顔を上げた。
ソファからじっと動かずにいると、リビングに金色の髪を乱れさせたクラウドが入ってくる。


「はあ……疲れた」


 愚痴めいた言葉を漏らして、クラウドは手に持っていた上着をテーブルに置いた。
其処で、並べられている食事をじっと見て、


「お前が作ったのか?」
「………」


 問い掛けに、スコールは答えない。
耳と尻尾が警戒を示していたが、スコールはじっとテレビを睨んだまま、動かなかった。

 クラウドはしばし考えるように食事を見詰めた後、椅子を引いて座り、箸を手に取った。
躊躇なく食べ始めたクラウドに、スコールはこっそりと様子を伺いながら、よく判らない奴だと思う。
何か盛られているとか疑ったりはしないのだろうか────と考えてから、この支配者がそんな事を考える訳もないと気付く。


(…俺達が逆らえないって、こいつは知ってる)


 スコールがどういう目的でクラウドの食事を用意したのかなど、彼にとってはどうでも良い事なのだろう。
自分でカップラーメンを用意する手間が省けた、きっとその程度の意味しかないのだ。

 食事をする男の気配を感じながら、スコールはテレビの電源を切った。
ソファを下りて、寝室へ向かう。


「今日は素直だな」


 聞こえた言葉に、ドアノブにかけていた手が止まった。


「……悪いのか」
「いや。別に」


 含みのある声に、スコールは眉根を寄せて振り返る。
クラウドは食事に終始していて、スコールを見ようとはしない。


「…どうせ、今日もするんだろう」
「ああ」
「今日はちゃんとやる」
「ああ」


 クラウドからの返事は、気もそぞろなものばかりだった。


(どうでも良いんだろうな。俺がどう思ってるかとか、そんな事は)


 クラウドにとって、スコールは気紛れで拾い、気紛れで飼っているだけの猫でしかない。
レオンに対してもきっとそうだったのだろう。

 結局、クラウドも、気紛れでレオンとスコールを拾って保護した事を除けば、研究施設の人間と大差ないと言う事だ。
獣人には法的保護も人権もなく、死ぬも生きるも、飼い主である人間の気持ち一つに委ねられ、自らの選択肢を持つ事は赦されない。
動物よりもその扱いは粗雑で良いし、死んだ所で誰に責任がある訳でもない。

 スコールは、噛み付きたい衝動を抑えて、クラウドから目を反らした。
陽が落ちると、カーテンを閉め切った部屋の中は、薄暗くて酷く空気が冷めているような気がする。
其処でスコールは服を脱ぐと、部屋の隅に投げた。
此処で脱いだものは、朝になると、他の服と一緒に洗濯機の中に入れられている。

 一糸まとわぬ姿になって、スコールは冷たいフローリングの上に座り込んだ。
日中ならば殆ど気にならない床の冷たさが、夜になると一際はっきりとして、スコールの白い肌に伝わってくる。

 ふと、スコールは、ベッドの傍らのローテーブルに置かれているものに気付いた。
暗闇の中で薄らと光を放つそれは、二本の鎖。
スコールとレオンの首に、毎夜繋がれ、クラウドへの従属を示す為の道具。


「………」


 徐に伸ばした手は、躊躇う事なく、厭う筈の鎖の一本を握った。

 二本の鎖の内、どちらがどちらのものであるかは判らない。
鎖は特に変哲もないもので、銀色で重々しい金属音を鳴らし、一方の先端に首輪に繋げる為のフックがある。
クラウドが選んでレオンとスコールの首輪に繋げている事もなかったので、区別はないのだろう。
それでも、一方がレオンの首に繋がれる為のものだと思うと、この鎖が、兄がまだ此処に帰って来る証左のように思えて来る。


(……馬鹿な事ばかり考えてるな)


 この鎖は、支配者を視覚的に満足させ、レオンとスコールの従属の意思を目に見える形で示す為だけの玩具に過ぎない。
だから忌むべきものである筈なのに、兄に甘えるように鎖を握り締めている自分が、酷く滑稽に思えて来る。

 それでも、今は、これしかないのだ。
兄がまだ此処に帰って来ると思わせてくれるものは、これしか。


(レオン……)


 鎖が二本あるのは、繋ぐ猫が二匹いるからだ。
だから、この鎖のどちらか一本だけでもなくなったら、きっと二人は引き離される。

 ────妙なものだ、と思う。
昨夜は、クラウドが手許で鎖の音を鳴らす度、苛立ちと焦燥に見舞われていたのに、今は正反対だ。
自分の手の中で、しゃらりと金属の音が鳴る度、心の中が落ち着いて行くような気がする。

 キィ、と扉の開ける音が鳴った時、スコールは床の上で丸く蹲っていた。
クラウドは、世界の全てから身を守ろうとするかのように縮こまる猫の姿を、特に興味もなさそうに見下ろす。
と、蹲ったスコールの手に握られているものを見付けて、形の良い口元がうっそりと笑みを象った。