湯けむり温泉獅子の受難 6


 目覚めて一番最初に感じたのは、頭痛と腰痛。
頭痛の原因は昨晩の酒盛りの所為だろうと予測がついたが、腰痛の方はまるで覚えがない────が、


「………」


 適当に羽織らされ、適当に結われた帯で前を合わせているだけの浴衣。
下着は脱がされ、レオンのたわわな胸が揺れ、捲れた浴衣の裾から白魚のように滑らかな肌の太腿が覗く。
そして決定的な、下肢の違和感。

 すぅ、すぅ、と寝息が聞こえて、レオンは其方へと首を巡らせた。
隣の布団に、レオンと同じような格好───きちんと着せた筈の浴衣の襟合わせから乳房が見えている───で眠るスコールの姿があった。
ころん、と寝返りを打って浴衣の裾が捲れると、袷がずれて、足の付け根が見えた。
其処にある筈の下着は、レオンと同じく穿かれていない。

 ─────やられた。
全てを把握・理解したレオンは、痛む頭を抱えて項垂れた。


(あいつがどんどん進めて来るから……)


 自分がアルコールに弱い事は自覚しているので、いつも自分で制限するように努めていたレオンだが、押しに弱い性格が災いし、勧められると断り切れない所がある。
クラウドはそれを熟知している為、何かに付けてはレオンに酒を飲ませて悪戯を働こうとするのである。

 判っているのに、ついつい引っ掛かってしまうのは、少なからずレオンが酒類を好んでいるからだ。
ふわふわとした酔いは心地が良いし、仕事の疲れやストレスを(一時とは言え)忘れさせてくれる。
寝入る前の酒も、一杯二杯程度なら飲む事もあった。
何より、今は旅行中と言う、肩の力が抜け切っている所だったので、いつもよりも気が緩み、余計に飲んでしまった気がする。

 一人で赤くなって、蒼くなって、頭を抱えていたレオンだったが、昨晩の事を今になって後悔しても遅い。
こういう事は一度や二度ではなかったし(それだけに、いい加減に学習するべきだと、自分自身に情けなく思うが)、事後処理もきちんとされているようなので、これ以上悩むのは止めよう。
そう決めて、レオンはいそいそと浴衣の着付けを直し、未だ目覚める様子のない妹の浴衣もきちんと直してやった。


「……っつ…」


 ぐらぐらとする頭と、じんじんとする腰を抱え、レオンは襖に縋りながら立ち上がる。
此処の温泉は腰痛には効いただろうか、と思いつつ、襖を開けた。
目覚めた時からぼんやりと聞こえていた、テレビの音がクリアになる。


「おはよう、レオン」
「……ああ」


 テレビの前を陣取って、渋茶を啜りながら朝の挨拶をしたクラウドに、レオンは色々と言いたい事を飲み込んで返事を返した。


(……昨日のは、俺の失態だからな……ハメられた気もするが。ああ、でも)


 自分の事はさて置いて良いとしても、此方は見過ごせない、とレオンはクラウドの背後に立つと、予告せずに拳を撃ち落した。


「いった!何するんだ、レオン!」
「お前、スコールに手を出しただろう」


 頭を抱えて涙目で抗議するクラウドを、レオンは絶対零度の眼光で見下ろす。
気の弱い人間なら射殺せるであろう鋭さだが、クラウドは平然としたもので、痛む頭を摩りながらけろりと言った。


「だってお前ばっかり可愛がってたら、スコールが拗ねるだろ。スコールもお前が感じてるの見て、興奮してたし」
「……この!」


 耳まで赤くなったレオンが拳を落とすが、クラウドは素早く転がって避ける。
ターゲットを失った拳を震わせて、レオンはあからさまに舌打ちした。


「お前、この旅行中にまたスコールに手を出したら、その時は本当に殺すぞ」
「相変わらず、妹の事が絡むと物騒だな。そんなにカリカリしなくても、俺はちゃんと二人とも責任を取るつもりだから安心しろ」
「それを止めろと言っているんだ!」


 ぼすっ、と投げつけた座布団がクラウドの顔面を埋める。
レオンは怒りなのか羞恥なのか、自分でも判らない理由で、赤くなった顔で肩を戦慄かせる。

 ぎし、と襖の鳴る音がして、レオンは我に返った。
振り返ると、スコールが目を擦りながら寝室から這い出て来ている。


「う……れおん…?どうした…?」
「いや、なんでもない。大丈夫か?」
「んん……」


 傍に寄って片膝をつき、労る声をかけるレオンに、スコールは小さく頷いた。
しかし、のろのろと酷く緩慢な動きで、口元を苦悶に歪めて額を掌で押さえるスコールを見て、レオンは眉根を寄せた。


「スコール……頭、痛むんじゃないのか?」
「いや…う、ん……少し……」


 大丈夫、と言おうとして、無理だと思ったのだろう。
素直に告白したスコールに、そうだろうな、とレオンは思った。

 昨夜、スコールが酒饅頭を食べていた事をレオンは覚えていた。
クラウドが酒のつまみにと出したもので、子供も食べられるものだからと、レオンもスコールが食べるのを良しとした。
しかし、酒を飲んでいたレオンはともかく、炭酸水を飲んでいただけのスコールも同じように酔っ払っていたのだとしたら、その原因は絶対に酒饅頭にある。

 レオンは、投げつけられた座布団をクッション代わりに抱き締めているクラウドを睨み付けた。


「クラウド。あの酒饅頭、本当に子供でも食べられるものだったのか?」


 鋭い青灰色を、碧色はしばし見詰めた後、す、とその方向を変えた。
明後日の方向を見るクラウドに、レオンの米神に青筋が浮かぶ。

 レオンはスコールを襖に寄り掛からせると、すっくと立ち上がってクラウドへ近付き、腕を組んで仁王立ちになって男を見下ろした。


「あれはお前が買って来たものだろう。子供でも大丈夫だって、嘘吐いて食べさせてたのか」
「いやいやいや。子供でも食えるって書いてあったのは本当だ、間違いじゃない」
「じゃあどうして、こんな事になってるんだ」
「お前と同じだと思うぞ、レオン。ちょっとアルコールが入ってるもの食べると、直ぐ赤くなるだろ。スコールも同じなんだ、多分」


 レオンが酒に弱いのは、体質的なもので、父親からの遺伝である。
妹のスコールが同様の体質でも、何ら不思議はない。
レオンは社会人になってから、少しずつ体をアルコールに慣らしていく事で、父よりも幾らか許容できるようになったが、まだ学生のスコールはアルコールへの耐性など無いに等しい。

 レオンが見下ろす先で、クラウドの視線があちこちへ彷徨う。
超がつくマイペース男にしては珍しく、動揺を露わにしていた。


「……お前、判っていてあの酒饅頭をつまみにさせたな?」
「判っててって言うか、大体予想してたと言うか」
「どっちも同じだ!」


 がつん、と今日二発目(外した一発を含めると三発目だが)の拳骨が落ちて、クラウドがぱたりと床に倒れる。
レオンはじんじんと滲む拳を摩って宥めつつ、石頭め、と小さく毒吐いた。

 尾を引くじんじんとした痛みは無視する事に決めて、レオンはスコールの下に戻った。
スコールはまだ寝惚けた目を擦っていたが、暗がりの寝室から、明瞭とした灯りのある部屋に出て来た事で、少しは目が覚めたらしい。


「洗面所に行こう。立てるか?」
「なんとか……」


 襖に寄り掛かりながら立ち上がったスコールだが、足下はふらふらとしていて覚束ない。
危なっかしいな、と思いながら、レオンはスコールを支えながら、洗面所へと誘導してやる。

 洗面所でスコールに顔を洗わせた後、レオンは彼女を鏡台の前に座らせた。
ゆらゆらと頭を揺らしているスコールの頭部を支えてやりながら、スコールのダークブラウンの髪を梳き、寝癖を直す。
スコールは大人しく櫛を甘受していて、時折、寝起きの仔猫のように丸めた手で眠い目を擦っている。

 ふあ、とスコールが欠伸一つ。


「……なんか…寝足りない感じが……」
「まあ、そうだろうな……」


 スコールは、昨晩の事は殆ど覚えていなかった。
酒饅頭を一つ二つ食べた所は思い出せるが、それ以上の事はからきしで、どうやらクラウドとセックスをした事も覚えていないようだ。

 ひょっとしたら、父以上にアルコールに弱いのかもしれない。
まだ学生だし、レオンも父もスコールに酒を飲ませた事はなかったから、耐性がないだけかも知れないが、遺伝的な事を考えると、決してスコールは酒に強くはないだろう。


「スコール……お前、酒を飲む時には気を付けろよ」
「……?別に飲むつもりはないけど…」
「そうだな。大人になってからの話だ」


 レオンの言葉に、子供じゃない、とスコールが小さく呟いた。
そうだったなと寝癖の直った頭を撫でてやれば、だから子供じゃない、ともう一度呟くのが聞こえた。

 スコールがもう一度顔を洗っている間に、レオンは自分の寝癖を簡単に整えて、長い髪を結い上げた。
長い髪は、一括りにしてしまえば、あちこち跳ねていたシルエットも適度に抑えられるので楽だ。
とは言えこれは単なる応急処置であるので、また後できちんと梳き直さなければいけない。


「朝ご飯、もうとっくに終わってるよな…」


 スコールが呟いて、レオンが頷く。


「テレビが昼の番組を流していたから、そろそろ昼食だろうな。朝飯を食べ損ねてしまった……旅館の人には、少し悪い事をしたな」


 旅館の楽しみと言えば、のんびりとした朝食、ゆったりとした昼食、そして豪華な夕食。
旅館側もそれを売りにしている事が多く、宿泊客の為に、毎日腕によりをかけて作ってくれる。
それを寝坊して食べ損ねてしまうとは、少し申し訳ない事をした。

 クラウドの奴、起こしてくれれば良いのに。
スコールの呟きに、レオンは今度は苦笑いするしかない。
クラウドが起こそうとしたかは定かではないが、昨夜の事を思うと、きっと自分達は簡単には起きれなかったに違いない。

 コンコン、と洗面所の扉が音を鳴らした。


「レオン、スコール。昼飯来たぞ」
「ああ、直ぐに行く。置いて貰っておいてくれ」
「りょーかい」
「スコール、大丈夫か?」
「うん……」


 スコールがタオルで顔を拭いて、眠気を追い払うようにふるふると頭を振る。
青灰色がレオンを振り返った時には、大分目が冴えたようで、頬にも赤みが差している。

 部屋に戻ると、黒漆に金の意匠が施された重箱が置かれていた。
蓋を開けてみると、山菜を中心にした料理が並べられ、しめ鯖等の魚介の傍に、菊の花が彩りを添える。
汁椀の蓋を開けると、しじみの味噌汁が良い香りを立たせていた。

 レオンとスコールが両手を合わせると、倣うようにクラウドも手を合わせて、昼食に箸を伸ばす。


「今日はこれからどうするんだ?」


 人参の煮物を一口サイズに切りながら、クラウドが尋ねた。
レオンは食んでいた鯖を飲み込んでから、


「町に行こうと思っている。昨日聞いた民芸品店とかな」
「ああ、そう言えばそんな事言ってたな」


 昨晩の夕飯の時、仲居から聞いていた山麓の町の観光。
それ程見るところはないと仲居は眉尻を下げていたが、普段都会の中で生活しているレオンにとっては、田舎ののんびりとした風景もゆっくり見回りたいものの一つだ。
民芸品の土産物も探したいし、養蜂場が近い事で、取れたての蜂蜜を使った喫茶店もあると言っていた。
折角の旅行なのだから、そう言った場所にも足を延ばしてみるのも悪くないだろう。
他にも、意外な掘り出し物が見付かるかも知れない。

 じゃあそれで決まりだな、と言ってクラウドが味噌汁を啜る。
やっぱりこいつも連れて行かなければいけないのだろうか、とレオンは思ったが、荷物持ちにさせれば良いと自分を納得させ、ほかほかと温かな湯気を立てる白米を口に運んだ。





 観光になるようなものなど、ないも同然だと言っていた仲居の言葉は、強ち誇張でもなかったらしい。
町は山に囲まれた盆地に存在し、山裾から反対側の山裾まで、直線で二時間もかからない距離。
しかし、天然の温泉が湧いている地とあってか、観光業とまでは言わずとも、保養地としてはそれなりに知られているようだった。
大々的な団体ツアー旅行などに組まれる事はないので、殊更に町が賑わう事はないのだが、旧来の温泉宿地として好まれているらしく、常連的に決まった旅行者がリピーターとなって訪れているのだと言う。

 レオンとスコールは、仲居がわざわざ調べて書いてくれた地図を頼りに、民芸品の店やお奨めの喫茶店へ向かった。

 道程はのんびりとしたものである。
旅館から町まで降りる際にはタクシーを使ったが、それも10分程度のもので、後は徒歩。
道もそれ程大きなものはなく、工芸品や土産物を売っている店、喫茶店が立ち並んでいる場所も限られており、それらの店が面している道には殆ど車の往来はない。
人々は徒歩か自転車を主な交通手段としているようで、排気ガスの類も殆どなく、空気はとても澄んでいる。

 レオン達は、養蜂場から直接蜂蜜を仕入れ、パンケーキやカステラ、ホットミルクを作ってメニューに出している喫茶店に入った。
白を基調とし、外界の明かりをふんだんに取り入れた建物の中は、甘い香りで一杯だ。
それは決してしつこい甘さではなく、甘いものが苦手なスコールも「嫌いじゃない」と言った。

 オープンテラスがあると言うので、天気も良い事だしと、姉妹と連れの男は揃って其方を使わせて貰う事にした。
ウッドデッキのテラスは、木々に囲まれて適度に日差しを和らげてくれ、風通しの良い、居心地の良い空間になっている。


「エルオーネが好きそうだな」


 ウッドチェアに腰を下ろして、テラス全体を見渡しながら、スコールが言った。
レオンも妹と同じように、ぐるりと周囲を見回して、確かに、と頷く。


「花も綺麗に飾ってあるし、エルが見たら喜んだだろうな。後で写真に撮っておくか。土産話に良いだろう」


 デッキの囲いの柵には、長い蔦が巻き付いて葉を茂らせ、ぽつぽつと黄色と白の花が咲いて色を添えている。
四つ並べられたテーブルには、それぞれ種類の違う、花弁の大きな花が一つと、その印象を引き立てるように、または和らげるように、小さな花が囲むように輪を作っている。


「ん」


 何をするでもなく、ぼんやりとチェアに座っていたクラウドの視線が動いた。
右から左へ、自分の丁度目の前を過ぎって行った小さな生き物────蜂。


「蜂」
「ああ、ミツバチだな」


 指差して言ったクラウドに、レオンは短く答えた。
その反応に、クラウドの眉根が不満そうに寄せられる。


「スコール、蜂」
「知ってる」


 此方も淡白な反応だけを返して、小さなメニュー表に視線を落としている。
蜂の存在は羽音が聞こえた時点で把握しており、その存在が直ぐ傍にある事も判っているとばかりの少女の返事に、またクラウドの眉根が不満そうに寄せられた。

 蜂は少しの間三人の前をうろうろと飛び回って、テーブルに飾られた花へと降りる。
蜂は花々を吟味するように動き回り、白い花の真ん中で止まった。
蜂はしばらく其処に留まった後、蜜を集め終わって満足したのか、ぶぅん、と軽快な羽音を鳴らして飛び去って行った。


「レオン、これ…」
「ん?ハニーラテか…甘そうだが、大丈夫か?」
「…やっぱり止めるか…」
「別に残しても良いぞ。後はこいつが飲むだろうから」


 こいつ、とレオンが指したのは、クラウドだ。
クラウドは食べ物の好き嫌いが殆どない上、よく食べるので、レオンやスコールが食べ切れなかった食事をついでに貰う、と言うのはよくある事だった。


「俺は紅茶にするか。軽食メニューは……まだ昼を食べてからそんなに立ってないからな。あまり腹は減ってないが、折角だから一つ頼もうか」
「…俺とレオンで一つ?」
「ああ。スコーンでいいか?ベーグルもあるようだが、紅茶もセットになってるから」
「ん」
「で、俺達は決まりだから、後はクラウド───……どうした?」


 持っていたメニュー表をクラウドに渡そうとして、彼の表情を見たレオンは、ぱちりと瞬きをして首を傾げた。
何故なら、其処にあった見知った顔が、ありありと不機嫌を露呈させていたかからである。


「なんだ、急に。気に入らない事でもあったか」


 特に心配している風でもなく、ごくごく純粋な疑問として尋ねたレオンに、クラウドは碧眼をちらりと向けて、深々と溜息を吐いた。

 あからさまに何かを残念がっているような、憂いを含んだ表情。
高い鼻に小さめの唇、スコールやレオンとは別の意味で中性的な雰囲気を含んだ彼の面立ちは、やや童顔気味ではあるものの、整っているのは確かである。
そんな青年が何処か寂しげな、儚げな表情を浮かべているのを女性が見れば、つい見惚れてしまっても無理はない。

 しかし、此処にいるのは日々を共に過ごす同僚であったり、その同僚の妹であったり、その二人は彼自身の恋人であったりする訳で。
恋人ならば、想いを寄せる男のふとした翳りに、心配したり気遣ったりと言う事もあるのだろうが、この三人の恋人関係は普通ではないのだ。
レオンはクラウドが図太い神経をしている事も、時折突拍子もない事を言い出して此方を呆気に取らせるのが日常的だと言う事も、よくよく理解している。
スコールもまた、この男の事を真面目に心配して、その心配が本当に無駄であった事を具に経験していた。

 ────そんな訳で、ただただ溜息ばかりを吐いているだけの男に、二人の姉妹がいつまでも拘り合っている訳もなく、


「お前の分は適当に注文するぞ。すいません、注文良いですか」


 店内にいる店員にレオンが手を上げると、にこにこと愛想の良いリボンの女性が注文を取りに来た。


「ハニーラテ一つと、スコーンと紅茶のセットを一つ。あと…フレンチトーストとコーラをお願いします」
「ハニーラテはアイスとホットがありますが、どちらになさいますか?」
「ホットを」
「紅茶もアイスとホットがありまして、えっと…種類がミルクと、レモンと、あとアールグレイに蜂蜜を入れたハニーティーがあるんですが」
「じゃあ……折角だからハニーティーを、ホットでお願いします」
「はい。ご注文繰り返します。ハニーラテをホットお一つ、スコーンとハニーティーのホットのセットがお一つ、フレンチトーストとコーラのセットがお一つ。以上で宜しいですか?」
「はい」
「かしこまりました」


 ぺこりと頭を下げて、リボンの女性は早足で店内へと戻る。

 ぶぅん、と羽根の音がもう一度聞こえてきた。
スコールがその音に目を向けると、テラスの枠を覆う蔓の周りを飛び回っている蜂が一匹。


「多いな」
「環境が環境だからな。養蜂場が近くて、これだけ花を飾っているとなれば、蜂にとっても良い餌場なんだろう」
「……あんまり多いと、エルが嫌がるな……」
「昔から虫嫌いだからな。店内なら……ああ、でも窓もドアも開けているから、そう変わらないか」


 テラスの端で旋回していた蜂が、レオンとスコールの傍にきて、ちょこんとテーブルに降りる。
二人はそれをじっと見ていた。
その視線は、いつ来るとも知れない来訪者の攻撃を見逃すまいと目を光らせている、と言うものではなくて、本当にただ眺めているだけのもの。

 そんな二人と蜂を見ていたクラウドは、再三、深い溜息を吐いた。


「……お前達、絶対に可笑しい」
「……なんだ、いきなり」


 唐突な攻撃に、レオンが顔を顰めた。
スコールも意味不明、と言わんばかりに眉根を寄せている。

 ガタンッ!とクラウドがテーブルを蹴倒す勢いで立ち上がる。
テーブルの隅で静かにとどまっていた蜂が、慌てたように飛び去って行った。


「蜂が来たら、普通、女は怖がるものだろう!」
「……まぁ、スタンダードな反応ではあるだろうな、多分」


 ただ女性に限定するような話ではないと思うが、とレオンは小さな声で付け足した。


「なんでお前達は平気なんだ!?」
「あれはミツバチだったからな。ハナバチ類は習性的にも、季節柄で考えても、攻撃性が低い種類だから、此方が手を出さなければ特に何もして来ないものだ。スズメバチやアシナガバチの類なら警戒はするが」
「どっちにしろ、やたらと叫んで怖がるのは向こうを刺激するだけだ」
「……だからって冷静過ぎるだろう、お前達の場合。あとなんでそんなに詳しいんだ」


 見るからに、がっかりしました、と言う表情で問うクラウドに、レオンは「子供の頃から見ていたからな」と言って、


「母が生前、趣味で花畑の世話をしていた。俺はそれをよく手伝ったから。今でもエルオーネがその花畑の世話をしているし。要するに、慣れだな」


 レオンとスコールが幼い頃を過ごした実家は、今住み暮らしている都会のような空気とはまるで無縁の、田舎町であった。
丁度、今いるこの土地とよく似ている。
保養地のような施設がない分、此処よりもずっと静かで、何もない場所だった。

 レオンはその静かな土地で、母と一緒に彼女が丹精込めて育てた花の世話をしていた。
物心ついた時から、ずっと、だ。
母が逝去したのは、スコールを生んで間もない頃の事だから、スコールは彼女の事は写真でしか見たことがない。
しかし、彼女が育てたと言う花畑は、今でも義姉であるエルオーネが変わらず世話をしており、スコールも彼女を真似るように花の世話をするようになった。

 そんな二人にとって、花に付き物の昆虫など、今更見て大騒ぎするようなものではないのだ。
最も、現在も一番花に密接している筈のエルオーネは、今でも蜂や毛虫の類が総じて大嫌いだが。


「……だからって……」
「…なんだ。一体何を期待していたんだ、お前は」


 じとりと恨みがましく見つめる男に、レオンも溜息を吐く。
その傍らで、スコールも見詰めるクラウドを睨み返す。


「俺やレオンが、悲鳴を上げて逃げ回るとでも思ったのか?」
「其処まで考えてた訳じゃないが、クラウド助けてー!って抱き着いてくれたり位はしてくれるかなと」
「絶対にしない」


 何を勝手な期待をしているんだ、と米神を引き攣らせて言い切るスコール。
しかし、そんなスコールを見たレオンが、くすりと笑う。

 くすくすと楽しそうに笑うレオンの視線に気付いて、スコールが眉根を寄せる。
無言で睨む対象を変えた妹に、姉はひとしきり笑った後、


「昔はスコールも、エルと一緒にぶんぶん怖いって泣いてたのにな」
「……!!」


 レオンの言葉に、ぼっ!とスコールの顔に火が上る。


「花の世話をしている時に蜂が出て来たら、お姉ちゃん助けてってエルと一緒に飛び付いて来ただろ?」
「し、知らない、覚えてない!」
「毛虫もミミズも触れなくて、土を掘ってる時に出て来たら、大声で泣き出して」
「そんな事してない!」
「青虫も駄目だっただろ。あれは蝶になるんだって教えたら、あんなのがキレイなちょうちょになる訳ないって泣いて嫌がって」


 レオンの記憶違いだと、スコールは言いたかったが、姉妹の中で一番年上で、記憶力が良いのはレオンだ。
幼少期の記憶であるとは言え、8歳と言う年齢差を差し引いても、記憶違いがあるとしたら断然スコールの方だろう。
そして、スコール自身、自分が幼年の頃は酷く引っ込み思案で泣き虫であった自覚がある。


「結局、青虫を捕まえて観察して、やっと納得してたか。それでも青虫には触れなかったな。見付けると俺やエルを引っ張って、お引越しさせてあげてって言って」
「ほうほう。それで?」


 楽しそうに思い出話をするレオンに、興味津々に食い付いているのはクラウドだった。
スコールが真っ赤な顔でクラウドの顔面にメニュー表を押し付けると、次はそれをレオンの頭上で振り上げた。


「………!!」
「判った、判った。もう言わない」


 今にもメニュー表を落とさんばかりに、ふるふると震えながら涙目で睨む妹に、意地悪が過ぎたようだとレオンも反省する。
しかし、くすくすと楽しそうに零れる笑い声は消えない。

 メニュー表を下ろして椅子に座ったスコールだが、顔は相変わらず赤いままだ。
レオンがあやすように頭を撫でるが、スコールは嫌がるように頭を振って、つんと明後日の方向を向いてしまった。

 其処へ、店員の明るく柔らかい声がかけられる。


「お待たせしました〜、スコーンとハニーティーのセット、ハニートーストとコーラのセット、それからハニーラテになります」


 チェック柄のトレイに乗せられたメニューが並ぶ。
レオンはスコールの後ろ髪を指で遊び、来たぞ、と促してやった。

 むす、と先程のクラウドと負けず劣らず、不機嫌な顔で振り向いたスコールは、ハニーラテのカップを手に取った。
グラスには茶色と白のグラデーションの上に、ホイップクリームが顔を出し、その上に蜜色がくるくると円を描いている。

 スコールは少し息を吹きかけてラテを冷ましてから、そっとカップの縁に唇を寄せた。
レオンも鼻腔をくすぐるアールグレイの香りを感じながら、カップに唇を付ける。
アールグレイのすっきりとした味わいの中に、柔らかな甘さがあった。

 レオンがスコールを見ると、彼女はこく、と二口目に口を付けていた。


「飲めそうか?」
「…ん。そんなに甘くなかったから、大丈夫」
「そうか」


 蜂蜜を使っているとは言え、ラテであるから、基本はエスプレッソのコーヒーだ。
飲める、と言ったスコールの口元は微かに緩んでいる。
どうやら、気に入ったようだと察して、レオンも小さく笑みを浮かべた。

 クラウドがハニートーストにナイフを入れて切り分け、それでもまだ大きな一切れを口の中に入れる。
頬袋を膨らませてもごもごと顎を動かすクラウドの口の端に、ハニートーストに添えられたホイップクリームがついている。


「で、これ食べたら、次は人形作りだか何だかに行くのか?」
「そうしようかと思ってたんだが、旅館を出る時に仲居の人に聞いたら、今日は出払っているらしい」
「当てが外れたのか」
「そういう事だが、どうしても今日じゃないといけない訳じゃない。帰るまでまだ日があるし、焦る事もないだろう。だから今日は、適当に民芸品の店でも周ろうかと思うんだ」
「…土産、買うのか?」
「いや、今日は見るだけだ。今日はゆっくり選んで見当をつけて、明日か明後日にまたこっちに来て、その時買おうかと思っている。衝動買いで多くなってしまったりすると、消費するのも大変だから、ちゃんと考えた方が良いと思うんだ」


 レオンは同僚に、スコールも学校の友人に配る程度には数がいるから、其方は御当地の菓子を買えば良いだろうが、身内に対してはそうも行かない。
何せ実家にいるのは父と妹(姉)の二人だけだ。食べ物は消費できるペースに限界がある(確り者のエルオーネの事だから、近所に配ったりと言う気配りは欠かさないとは思うが)。
食べ物以外にも二人が気に入って身に付ける様な、また飾ってくれるようなものがあれば良いと思う。
とは言え、あれもこれもと送りつけてしまうと、邪魔になってしまうような気もする。

 レオンもスコールも、あれこれと沢山のものを送り付けられる大変さと言うのはよく判っていた。
何故なら、父であるラグナが色々なものを買い込んだり、溜め込んだりしてしまうからだ。
ラグナは娘達に喜んで貰おうと思って買って来たのだろうが、後々に大量の粗大ゴミになってしまう事も少なくない。
そうした経験をしていると、やはり必要なものは必要なだけで良い、と思ってしまうのだ。

 レオンは真っ白な皿に置かれたスコーンを二つに割った。
皿に戻した半分をスコールの前に置くと、自分は紙ナプキンをテーブルに敷く。


「これ、普通のスコーンなのか?」
「────いや、」


 さく、と一口食べてから、レオンが小さく否定した。


「普通のより少し甘い、か?」
「それも蜂蜜が入ってるらしいぞ」


 疑問符を含んで呟いたレオンに、クラウドがメニュー表の裏側を見て言った。
其処には可愛らしい蜂やポット入りの蜂蜜のイラストと共に、店自慢の蜂蜜料理について説明が書いてある。
クラウドは一通り目を通した後、ふぅん、と興味が終わったようにメニュー表を元の位置に戻した。


「蜂蜜ってダイエットに効くんだな。書いてあった」
「砂糖よりはカロリーが低いって事だろう?採り過ぎれば、結局は同じ事だけどな」
「ああ。ま、お前達には関係ない話だな。ダイエットなんかいらないし」


 にやにやとした笑みを浮かべて、クラウドの視線がレオンとスコールの腰下に向けられる。
四人席をレオンとスコールが並び、クラウドが正面に座っているので、腰などテーブルの陰になって見えない筈だが、にやけた笑みを浮かべるクラウドは、まるで透視能力でも備えているかのようだ。

 どうにも居心地が悪くなって、スコールがじりじりと姿勢を捩らせる。
それを察したレオンは、テーブルの下でクラウドの向う脛を蹴り飛ばしたのだった。





スコールの幼少期は、他人に知られると本人的に黒歴史。
でもレオンにとっては全部楽しい思い出。