海、空、無限


 バラムの夏は長く、暑い。
年の平均気温が他国に比べて高い温度をキープする国だ、夏本番ともなれば尚更熱くなる。
しかし、夏こそがバラムの本番とも言える。

 この時期になると、元気な少年少女や、エネルギーの有り余った若者は、こぞって海へと飛び出して行く。
港でも海岸でも、無邪気な声な笑い声や黄色い悲鳴が響き渡り、空から降り注ぐ熱線で熱くなった体を一気に冷やす。
それは時折、街を巡る川からも聞こえ、稀に大人の姿も混じっていたりする。
常夏の国で生まれ育った人間でも、やはりバラムの夏本番の暑さは堪えるのだ。
その代わり、夏ならではの催しや、かき氷屋台が多く構えるようになり、うだる暑さと同時に涼も与えてくれる。
居並ぶかき氷の屋台幟や、きらきらと光る水面で遊ぶ人影を見て、若者達はああ夏が来た、と思うのだ。





 家の直ぐ目の前に海があるとは言え、其処から直ぐに海岸に行ける訳ではない。
コンクリートの防波堤の向こう側は、雨季の嵐の度に立ち上がる高波対策として、テトラポットで埋められていた。
これだけやっても、酷い年は弾けた波飛沫が家の傍まで届いて来る。

 しかし、家の中からも海が見えるとなると、やはり欲求心をくすぐられるのだろうか。
バラムガーデンが夏休みに入って間もなく、午前中をずっと窓の外────見える海を見詰めていたティーダが、そろそろ昼食を作ろうと腰を上げたレオンに言った。


「レオン!海行きたい!」


 唐突な預かり子の言葉に、レオンは一瞬面食らってしまった。


「……いきなりだな」
「駄目?」
「そう言う訳じゃないが……」


 ズボンの端を掴んでお願いして来る金髪の子供に、レオンは曖昧ながらも答えると、ティーダの青い瞳がきらきらと輝いた。
喜色一杯の表情のまま、ティーダはレオンの手を引いて玄関に向かおうとする。


「行こ!」
「ちょ、ちょっと待て、ティーダ。今から行くのか?」
「うん!早く早く!」
「駄目よ、ティーダ」


 ぐいぐいと手を引くティーダにレオンが困惑していると、窓辺のテーブルで雑誌を読んでいたエルオーネから声がかかった。
エルオーネの前の椅子では、絵本を読んでいたスコールが顔を上げ、兄とティーダを見詰めている。

 エルオーネは、開いていた雑誌を閉じると、


「今の時期、海は観光に来たお客さんで一杯だもの。ティーダ、すぐ迷子になっちゃうよ」
「迷子になんかなんない!」
「それに、もう直ぐお昼ご飯だよ。ティーダ、お腹空いてないの?」


 その言葉の返事のように、ぐぅう、とティーダの腹が音を立てた。
言葉よりも雄弁な返事に、エルオーネとレオンがくすくすと笑う。
そんな兄と姉に釣られたように、スコールも絵本で口元を隠して、小さく笑った。

 ティーダは、レオンの手を引く事は止めたものの、名残惜しそうに窓の向こうの海を見詰めている。
レオンは、そんなティーダの頭を撫でて、確かに今日は暑いしな、と思った。
家の中は、小さな弟達や、汗疹やニキビが気になる年頃になった妹の為に、空調を使用して快適音頭に保っているが、外は真夏日(バラム以外の国の感覚で言えば猛暑日か)。
増してティーダは、去年のバラムの島にやって来たばかりだ。
窓から見える青い空、白い雲、何処までも続くマリンブルーの海───と言う光景に、心が躍るのも無理はなかった。
幼い自分から、或いは物心ついた頃には既にこの光景が当たり前だったレオン達に比べ、感慨も一入強くなるのも当然か。

 レオンの撫でる手を大人しく受け止めていたティーダ。
最後にぽんぽんと軽く叩いてやってから、レオンは手を放した。


「昼ご飯、食べ終わったら海に行くか」
「いいの?」
「レオン、今日の海は人で一杯だよ?」
「ああ、判ってる」


 嬉しそうに顔を上げたティーダと、眉をハの字にするエルオーネ。
スコールは、人ごみに行くのが嫌いだけれど、海には行きたいのか、困った顔でレオンとエルオーネを交互に見ている。


「バラムの海には行かないさ。港の方にもな。代わりに、リナール海岸に行く」


 リナール海岸とは、バラムの島の南東にある浜辺一帯を地域を差す地名だ。
其処に行くまでには魔物も出るのだが、出現するのはバイトバグやケダチク、グヘスアイ、海岸付近では小型のフォカロルが出るくらいで、それらは炎や冷気魔法の気配を嫌う。
魔物避けに魔力を閉じ込めた魔石を持って行けば、襲われる事もないだろう。

 街に近い海岸と言う訳ではないから、売店や海の家と言った便利なものはないが、必要な物は家から持って行けば良い。
バカンスシーズンに入って、芋洗い宜しく人に溢れている街海岸に行くよりは、逸れて迷子になってしまう、等と言うトラブルも起きないだろう。

 エルオーネは、子供達を連れて街の外に行く事に少々渋い顔をしたが、きらきらと目を輝かせるティーダと、沈黙しているものの期待に満ちた目をしている弟に気付いて、一つ溜息を吐く。


「じゃあ、水着とおやつの用意をしないと」
「!」
「やった!」


 かたん、と椅子から腰を開けて言ったエルオーネに、スコールとティーダが目を合わせて喜んだ。
レオンもキッチンに入り、昼食の準備と同時進行で、おやつ代わりの軽食を作り始めたのだった。




 バラムのバス停から、ガーデン行のバスに搭乗し、バラムガーデン前で下車。
ガーデンは長期休暇中でも寮住まいの生徒がいる為、または図書室などガーデン施設を利用する生徒の為に、門は開かれている。
レオンは、門横に常駐している守衛の老人に会釈すると、妹弟を連れて南へ向かった。

 ティーダはバラムのバス停にいた時から興奮していて、まるで落ち着く様子がない。
バス停にバスが入って来る度、「あれじゃないの?」「まだ乗らないの?」とレオンをせっつき、バスに乗ってからも───街からガーデンへの所要時間は判っている筈なのに───「まだ着かないの?」とエルオーネに唇を尖らせて見せ、座席の上で待ち遠しそうにぷらぷらと足を遊ばせる。
そんなティーダに感化されたか、いつもは大人しくしているスコールも、心なしかそわそわとして、窓から海岸が見えた時には「海!海見えた!」とはしゃぎ出していた。

 そんな弟達は、目前となった海に、遂に我慢しきれなくなったのだろう。
アルクラド平野を過ぎた頃に、ティーダは繋いでいたレオンの手を放し、海に向かって走り出した。


「海だーっ!」
「こら、ティーダ!」
「ティーダ、待って!」
「あっ、スコールまで!」


 駆け出したティーダに触発されたように、スコールも姉の手を解いて後を追う。
緩やかな丘の坂を下る子供達を、レオンとエルオーネも急いで追い駆けた。

 白く細やかで、滑らかだった白砂の上に、子供達の足跡が作られていく。
港や街の浜辺であれば、きっと人の足跡で一杯だろうに、此処にはそれがない。
自分達だけの足跡が残って行くのが面白いのだろう、ティーダとスコールはきゃっきゃと愛らしい笑い声をあげながら白浜をぐるぐると走り回っている。


「うわ、あは、あははっ」
「あ、あっ、きゃうっ」
「あっ」


 砂に足を取られて、スコールが転ぶ。
ぱふん、と小さな砂が散って、スコールが顔を上げると、


「あはは!スコールの形!」
「ふぁ?……あ」


 起き上がったスコールの下には、くっきりとヒト型が残っていた。
顔の部分にも、口や鼻の窪みがある。
それが無性に可笑しくて、ティーダは腹を抱えてけらけらと笑いだした。

 駆け寄ったエルオーネが、スコールを立ち上がらせ、服についた砂を払う。


「もう……大丈夫?」
「うん。いたくない」


 砂粒も、散らばる貝殻の破片も、細かくなっていたのが幸いし、スコールは怪我をせずに済んだ。
エルオーネはほっと一息吐いて、スコールの鼻や頬についた砂をハンカチで拭いてやる。


「よーし!泳ぐー!」


 ばばっとティーダが着ていた服を脱いで投げ出した。
パーカーとシャツとズボンの下に穿いていたのは、黄色の海水用パンツだ。
スコールも同じようにシャツを脱いで、海水パンツ一枚になる。

 そのまま駆け出そうとするティーダを、一早く察したレオンが捕まえた。


「こら。ちゃんと準備運動をしてからだ」
「うえー……めんどくさい…」
「しないのなら、今直ぐ帰るぞ?」
「やるっ!スコール、準備運動やろ!」
「うん」


 素直なティーダの反応にくすくすと笑いながら、スコールが頷いた。
2人で向き合って、ガーデンのプール授業前に行っている準備運動を始める。
いち、にー、さん、し、と声に出して数を数えながら、二人は小さな手足を一所懸命伸び縮みさせる。

 そんな弟達の横で、レオンはピクニックシートを広げて荷物を置き、子供用の浮き輪に空気を流し込む。
パンパンにビニールが張ったのを確認して、次に鞄の中から日焼け止めクリームを出した。
一般的な人よりも肌が白いレオンは、真夏の日差しの下でも日焼けする事が出来ず、赤くなって肌が炎症を起こしてしまうのだ。
エルオーネも日焼け後のシミやそばかすが心配になる年頃である。
小さな弟達は全く気にしていないようだが、スコールはレオンと同じように白い肌をしているので、注意した方が良いだろう。
ティーダはほぼ毎日のように健康的に日焼けをしているが、今日一日で一気に真っ黒焼けてしまえば、やはり後で痛みになってしまう。
準備体操が終わったら、二人にもきちんとクリームを濡らせた方が良いだろう。

 皮膚ケアの用意をしているレオンに、エルオーネが声をかけた。


「ねえ、レオン。私、あっちの方で着替えて来るね」
「ああ。魔石、ちゃんと持って行けよ」
「うん」


 年頃の女の子である。
小さな子供ではないのだから、家で水着に着替えて出発するのも(レオンは弟達の世話との手間を考えて、先に着替えて来てしまったが)、幾ら此処にいるのが身内だけとは言え、男ばかりの傍で着替えをする事にも抵抗があるのだろう。
浜の先にあった岩場を指差したエルオーネに、気を付けろよ、とレオンは声をかけて見送った。

 エルオーネが岩場に姿を隠したタイミングで、ティーダの溌剌とした声が響く。


「準備終わったー!海っ!」
「待て、ティーダ。スコールもこっちに来い。日焼け止めをするから」
「そんなのヘーキ。行ってきまーす!」
「ティーダ!……全く……」


 ティーダの反応は、凡そ予想の範疇だった。
溜息を吐いたレオンの傍らに、スコールが言われた通りに近付いて、ピクニックシートの上にちょこんと座る。


「なあに?お兄ちゃん」
「日焼け止めだ。お前は俺と一緒で白いから、多分、ティーダみたいに黒くなる事はないと思うが、それはそれで大変なんだ。あちこち痛くて堪らなくなるからな」
「…いたいの?」
「そうならない為のクリームだ。背中は俺が塗ってやるから、腕とかお腹とかは、自分で出来るな?」
「うん。後でお兄ちゃんの背中、僕がやってあげる」


 クリームの入った薬ケースの一つをレオンから受け取って、スコールは言った。
ああ、とレオンが頷くと、スコールは嬉しそうに頬を綻ばせる。


「お兄ちゃん、僕、日焼けできないの?ティーダみたいになれない?」
「多分な……昔から、俺もお前もあまり焼けた事がないし。なんだ、日焼けしてみたいのか?」
「……だって、真っ白で女の子みたいって言われるんだもん…」


 ぷぅ、と頬を膨らませたスコールの言葉に、レオンは苦笑する。
同じような言葉は、生まれ故郷で過ごしていた頃、レオンも度々言われていた。
年配の女性や、ずっと昔に母に想いを寄せた事があったと言う店の客から、「レオンは母親似だなぁ。肌も白くて、女の子みたいだ」と頭を撫でられた事もある。
体格に恵まれた今では、そうした言葉が向けられる事は殆どなくなったが、クラスメイトの女子から「色白で羨ましい」なんて台詞を貰う事がある。
レオンとしては、 “女の子みたい”なんて言われて嬉しくもなんともないので、スコールが悔しがる気持ちも理解できた。

 男の子なのに、と不貞腐れるスコールの背中は、残念ながら、小柄である事も相俟って、本人には可哀想だが、女の子に見られても無理はないと思う。
性格も大人しいし、ティーダのように勝気な顔をしている事も少ないので、余計に女の子に見えてしまう事もあるだろう。
でも、それは幼い頃のレオンも───性格はもう少し積極的だったけれど───同じことだ。


「…大丈夫だよ、スコール。お前ももう少し経てば、女の子みたい、なんて言われる事もなくなるさ」


 スコールは、まだ10歳にもなっていない。
これから成長期を迎えるのだから、幾らでも変わって行くだろう。
兄であるレオンが体格に恵まれたように、スコールも同じように大きくなれるかも知れない。

 レオンの言葉に、スコールが振り返る。
ほんと?と見詰めて来る蒼色の瞳に、レオンが頷いてやれば、スコールは嬉しそうに笑った。


「えへへ。次、お兄ちゃんの背中やってあげる!」
「ああ」


 丁度、スコールの体に日焼け止めクリームを塗り終えた所だった。
交代でレオンが背中を向けると、広い背中を前にして、スコールが目を輝かせた。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「うん?」
「僕、お兄ちゃんみたいになれる?お兄ちゃんみたいに、強くてかっこよくなれる?」


 肩越しに振り返ってみれば、弟のきらきらと真っ直ぐな瞳が兄を見詰めていた。
羨望の眼差しが、どうにもくすぐったくて、レオンは頬を赤くして笑って見せる。
それがスコールには肯定に映ったのだろう、ぱぁあ、とスコールが破顔した。


「えへへ」


 嬉しそうな声が背中に聞こえて、レオンは頬を緩める。

 さく、さく、と砂を踏むサンダルの音が聞こえた。
兄弟が振り返ると、淡いパステルカラーに、花柄の白抜きのホルターネックとキュロットスカートのツーピース水着を着たエルオーネが立っていた。
首下には、魔物避けの魔石を括りつけた紐をロケットネックレスの要領で吊るしている。

 心なしか恥ずかしそうに顔を赤らめているのが微笑ましくて、レオンは笑みを零す。


「えっと……変じゃない?」
「ああ」
「お姉ちゃん、かわいい!」


 兄と弟の言葉に、エルオーネはほっとしたように笑みを零す。
夏休み前、ガーデンの友人と一緒に買い物に行った時に見付けたものだと、彼女は言った。
だから着たのはこれが初めてなのだと言う。


「良かった。可愛いって思って衝動買いしちゃったんだけど、なんか、似合わなかったらどうしようって…思ってたんだけど」
「大丈夫、似合ってるよ」
「うん!」


 繰り返す二人の言葉に、エルオーネは今度は照れたように頬を赤らめ、はにかんで笑う。
それからレオンの背中に一所懸命クリームを塗っているスコールを見て、


「スコール。レオンの日焼け止め、私が塗るよ」
「……でも」
「スコール、海に行きたいんでしょう?」


 波打ち際で、ティーダが白波と戯れている。
きゃっきゃと声を弾ませ、ころころと転がって水に濡れて、楽しそうに笑っていた。

 レオンに言われた通り、準備運動をして、日焼け止めクリームを塗ってと大人しくしていたスコールだったが、遊ぶティーダの姿は、スコールにとっても魅力的なのだろう。
レオンの背中にクリームを塗るのは、スコール自らが望んだ事ではあったが、反面、早く遊びに行きたい気持ちもあったのだ。

 気付いてやれなかった事に眉尻を下げるレオンの背中で、スコールがエルオーネを見上げた。
にこりと笑いかける姉に、スコールの顔が綻んだ。


「お兄ちゃん。僕、海、行ってくる」
「ああ。鞄の中に魔石が入ってるから、ちゃんと持って行けよ。ティーダの分もな」
「うん」


 間を置いたからもう一度準備運動もさせた方が良いかな、と思ったレオンだったが、スコールにそんな暇はなかった。
エルオーネに日焼けクリームを譲ると、鞄の中からペンダントにした魔石を首にかけて、浮き輪を掴んでサンダルを脱いで走り出す。
太陽光線ですっかり熱くなった砂に飛び跳ねながら、スコールは白波へ駆けて行った。

 スコールがいた場所に、エルオーネが膝をついた。
小さくて柔らかい弟の手とは違う、細くて滑らかな手がレオンの背を撫で始める。


「レオンの背中、大きいね」
「そうか?」
「うん。……ラグナおじちゃんみたい」
「……そうか」
「うん。でも、おじちゃんの方がもうちょっと大きかったね」


 それが、幼さ故に感じていた広さだったのか、今もしも触れる事が出来たら、あの頃よりは小さく見えてしまうのか。
考えても、レオンにもエルオーネにも判らない。

 あんな風になりたい。
レオンは、最近、よくそんな事を考えるようになった。
父と母を失ったばかりの頃、彼らの代わりにならなければと、そう思っていた頃とは、別の意味で。
大人の癖に子供のように無邪気に笑っていた父にはなれなくても良いから、あの大きくて広くて温かい背中に、少しでも近付ける事が出来たら良い。
そうしたら、妹を、二人の弟を、守ってやれるくらいに強くなれたような気がするから。

 すぅ、とレオンの肩から腰まで、エルオーネの手が滑る。
それが最後だった。


「はい、お終い」
「ああ。交代だ」
「うん」


 レオンが向きを変えて、エルオーネが背を向けて座る。
青空と海と、はしゃぐ弟達を背景にして映える白く嫋やかな背中を見て、レオンは小さく笑みを漏らした。


(お前もよく似てるよ。母さんと)


 白い背中も、髪を避ける時の仕草も、弟達を叱る顔も。
何気ない事で笑う時の、柔らかい表情も。

 ────どうしたの?と振り返って首を傾げる妹に、レオンはなんでもないと曖昧に微笑んで見せた。




 バラムガーデンでプール授業が始まったのは、今から1年前の話だ。

 バラムは島国で、街の産業も海と密接しており、夏には涼を求めて海に繰り出す若者も多いのだが、かと言って皆が泳げる訳ではない。
運動神経が鈍いもの、海が近過ぎる故に海に対してトラウマを持ってしまった者等々……理由は様々で、得手不得手と言うものもある。
そしてスコールは、運動全般が苦手なタイプであった。

 スコールは決して運動神経が鈍い訳ではない、とレオンは思っているのだが、如何せん、本人の性格が問題であった。
一見して危ない事や怖い事と言うものに対しては、幾ら安全が考慮されているとか、怪我をしない為の補助があると言い聞かせても、先ずやりたがらない。
一緒にやろうと促して、ようやく怖々と頷くだけなので、スコールの意思だけに任せていると、いつまで経っても踏み出せないのだ。
水泳に対しても同じで、顔に水をつけるのが怖い、水の中で目を開けるのが怖い、浮くのが怖い……と言った調子だった。
レオンとエルオーネが苦心して、風呂で潜る練習をさせて、ようやく水に潜れる程度になり、毎年川や海で遊んで、水の中で丸く縮こまって浮くようにはなれたのだが、まだ浮き輪なしで海に入るのは怖いのだと言う。

 そんなスコールの手を引いて、エルオーネが泳ぎの練習を教えていた。
直ぐに足がつく浅い場所で、スコールはエルオーネの手に捕まってバタ足をしている。


「頑張れ頑張れ、スコール。もうちょっと進めるよ〜」
「ん、んっ、ぷぁっ」


 応援するエルオーネの声も虚しく、息が続かなくなったのだろう、スコールが水面から顔を上げる。


「う、んぷ……ぷぅ」


 ぷるぷると子犬か仔猫のように首を振るスコールに、エルオーネがくすくすと笑う。
そんな彼女の足下から、ぽこぽこと泡が浮かんだ。


「?」


 ぱちりと瞬きしたエルオーネの足下────水の中で、ゆらゆらと揺れる金色。


「────ばあっ!」
「きゃっ!」
「わぁっ!?」


 ざばっ!と水飛沫を跳ねさせて現れたのは、潜水していたティーダだ。
突然の水底からの出現に驚いたスコールが、勢い余って引っ繰り返る。


「わぷっ」
「スコール!」


 足を立たせれば直ぐに水面に出られる程度の深さでも、パニックになってしまっては元も子もない。
増してスコールは泳げないのだから、慌ててしまうのも無理はなかった。

 ごぽごぽと口や鼻に入って来るものに、どうして良いのか判らなくなって、スコールは夢中で手足を暴れさせた。
そんな事をすればするだけ、体は沈んでしまい、いつまで経っても浮上できない。
そんなスコールの背中を、掬うように押し上げる力があった。


「ふわっ」
「────ふぅ。大丈夫か、スコール」


 ダークブラウンの長い髪を項で結んだレオンである。
スコールは、鼻や口の中の違和感を吐き出すようにけほけほと咳込んだ後、兄の顔を見てくしゃりと表情を歪めた。


「ふえええええええ……!」
「よしよし。びっくりしたんだな」
「はい、ティーダ。ごめんなさい」
「…ごめん、スコール。大丈夫?」
「ふぇっ、ひっく…ひっ……ん、…うん……ひっく…」


 エルオーネに促されて謝るティーダに、スコールは兄に抱き着いたまま、小さく頷いた。

 レオンは、預かっていた浮き輪をスコールに潜らせた。
抱えていた腕を放すと、スコールが心許なさそうに小さな手を伸ばしてくる。
浮き輪のお陰でもう沈む事はないが、やはり誰かに掴まっている方が安心できるのだろう。
レオンがスコールの手を握ってやると、青灰色がほっとしたように安堵を滲ませた。

 素直に謝ったティーダの金髪を、エルオーネが良い子、と撫でている。


「それにしても、ティーダ、凄いね。ずっと潜ってたの?」
「うん。俺、凄い?」
「凄い凄い。苦しくなかった?」
「全然ヘーキ!」


 エルオーネに褒められて、益々嬉しくなったのだろう。
日焼けした頬が赤らんで、ティーダはくすぐったそうに頬を掻いた。
そんなティーダを、浮き輪に寄り掛かったスコールが羨ましそうに見ている。


「スコールも、また頑張ろうな」
「……むぅ……」
「大丈夫だ。ちゃんとお前も出来るようになってる。潜れるようにもなっただろう?」
「うん」


 こくんと頷くスコールの頭を、くしゃくしゃと撫でてやる。
しっとりと濡れたダークブラウンの髪は、直ぐに絡まってピンピンと跳ねた。


「ねぇ、ティーダ。ティーダって、どれ位長く潜れるの?」
「んー……判んない。数えた事ないもん」
「じゃあ数えてあげようか」
「うん!」


 すう、とティーダが一杯に息を吸い込んで、水飛沫を立てて潜る。
それを見たスコールもすう、と息を吸って、浮き輪に入ったまま水の中に顔を突っ込んだ。


「1、2、3、4、……」


 エルオーネが指折り数えて、二人が上がってくるのを待つ。
レオンは、スコールが浮き輪の力に負けて引っ繰り返らないように、浮き輪の縁を掴んで浮力を抑えてやっていた。

 数が9と10の間の所で、スコールが顔を上げた。
以前は1秒だって潜っていられなかったのだから、大した進歩である。


「よしよし。よく頑張った」
「ん、……はふ」


 浮き輪に身を預けて息をするスコールの頭を撫でると、ほんの僅かに、スコールの口元が綻んだ。
先程溺れかけた事は、幸い、スコールの心には恐怖心として残らなかったようだ。

 一方ティーダはと言うと、まだ潜り続けている。
10秒、15秒、20秒……と続いて、小さな子供にしては長過ぎはしないかと、レオンとエルオーネは顔を見合わせた。
ひょっとして我慢のし過ぎで気を失ったのではないか、と言う可能性に行き付いて、レオンは大いに慌てた。


「ティーダ!」


 名を呼んでも、水の中のティーダには聞こえない。
レオンは息を吸って潜ると、水底に掴まるようにして腹這いになっているティーダを引き上げた。
ごぽっとティーダの頭部から大きな気泡が溢れ出て、小さな手足が先程のスコールのようにじたばたと暴れる。

 ティーダを持ち上げる形で浮き上がらせてから、レオンも水面に顔を出した。
けほけほと咽込むティーダに、エルオーネとスコールが水を掻き分けて近付いた。


「ティーダ、大丈夫!?」
「ぷぇっ、鼻入った……いってぇ」
「……一応、大丈夫みたいだな」


 ほっと息を吐くレオンとエルオーネを見て、スコールも詰めていた息を漏らす。
しかし、心配された当の本人はと言うと、


「?何かあった?」


 きょとんとして見上げて来る丸い青の瞳に、レオンはがっくりと脱力する。
それを見たティーダは、けろりとした顔で不思議そうに首を傾げた。

 ────無事なら、それで何より。
レオンもエルオーネもそう思う事にして、不思議そうに見上げて来るティーダの頭を撫でて、「なんでもない」と言った。
そんなティーダに、スコールがぱちゃぱちゃと水を蹴って傍に行き、


「ティーダ、苦しくなかった?」
「うん。全然ヘーキ」
「すごーい」


 我慢している様子でもないティーダを見たエルオーネが、こっそりとレオンに耳打ちする。


「やっぱり、ジェクトさんに似たのかな?」
「かも知れないな。才能、あるかも知れないぞ」


 何の、とエルオーネは訊かなかった。
言うまでもない、父と同じブリッツボールプレイヤーとしての才能の話だ。

 水中格闘技の異名を持つブリッツボールは、公式試合で20分もの時間を水中で過ごす。
それも相当激しい運動をしながらである。
使用されるプールが少々特殊なものであるとは言え、水中で過ごす為の特別な装備と言うものはない為、ほぼ素潜りも同然の状態で、だ。
ボールも固く、それが地上で受けるのと同じ位の剛速球で飛び交い、ボールを奪わんが為に全力で突撃される事も当たり前───と言った運動量の話を差し置くとしても、並大抵の肺活量でこなせるスポーツではないのだ。

 ティーダの父親であるジェクトは、そんな水中格闘競技で“キング”の名を冠している程のスタープレイヤーだ。
その才能が一人息子であるティーダに受け継がれていても、何ら可笑しくはない。

 しかし、当のティーダは、今の所、ブリッツボールに特別惹かれている訳ではないらしい。
ザナルカンドにいた頃に比べ、バラムはブリッツボール競技に関して恵まれている訳ではない事も、彼がブリッツボールに固執しない理由の一つだろう。
けれど、スポーツ雑誌やバラエティで特集が組まれれば───そんな時、大抵父の姿が其処にある事もあるのだろうが───見たがるので、全く気にしていない、と言う風でもないようだった。


「もう少し大きくなったら、ティーダもブリッツをやるようになるのかな」
「…どうだろうな。でも、そうなったら良いな」


 そうしたら、今は離れ離れの父親とも、距離を縮める事が出来るかも知れない。
ジェクトも、息子に技を教えたり、泳ぎ方を指南してやるようになれば、親子が一緒に過ごせる時間も増えるだろう。
今は顔を合わせる度に息子に意地悪をしてしまうジェクトも、もう少し経てば、きっともう少し素直になれるだろうと、レオンとエルオーネは思っていた。

 ティーダがぱちゃぱちゃと水を跳ねさせて遊んでいる。
その水が浮き輪に掴まっているスコールの顔にかかって、スコールは水を嫌う小動物のように頭を庇った。
やられっ放しのスコールが頬を膨らませ、両手を包むように組んで、水鉄砲にしてティーダの顔を狙う。


「うぷっ!」
「あはは。当たった」
「ていっ!」
「やー!」


 ティーダがざばっと両腕を大きく振り上げた。
きらきらと光る水の粒子が、二人の頭上に降り注ぐ。


「お兄ちゃん、お姉ちゃーん!」
「あー!おーえん呼ぶのずるいぞー!」
「やめてやめて、浮き輪沈んじゃうよー!」


 ティーダがスコールの浮き輪に伸し掛かって沈む。
じたばたと暴れるスコールだったが、その表情は楽しそうで、怖がっている様子はない。

 楽しそうな弟達の姿に、レオンとエルオーネは顔を見合わせ、微笑んだのだった。