はじまりの夜、目覚めた世界 スコール誕生日記念(2012)


 潮騒に包まれたバラムと言う島国には、街が一つ、ぽつんと存在している他には、街の北部に天に聳える大きなビルがあるだけ。
島の中は緑豊かな地で、魔物もそれ程凶暴なものはおらず、魔物避けの魔石を幾つか所有して置けば、遭遇する事もない。
海の向こうでは、大国があちこちでぶつかり合っていると言うが、この島国は至って平穏なものだった。
緑豊かで、海の真ん中にぽつんと浮かんでいる島は、大国であるガルバディアとエスタの真ん中に挟まれている。
この地理関係を考えれば、バラムは大陸間戦争の中継地点として戦禍に巻き込まれていても可笑しくはなかったのだが、自身を挟む二国が戦争をしているにも関わらず、そうした気配は嘗て一度も見られていない。
バラムの近海には特殊な潮流があり、今現在の航海技術では、これを容易に越える事が出来ない為、軍事大国として様々な武器戦艦を所持してるガルバディア・科学大国としてガルバディア同様に多種多様な戦艦を開発しているエスタともに、バラムを素通りする形を取らざるを得ないのだ。

 こうした特異な地理的条件に恵まれた為か、バラムには自国を守備する軍隊と言うものを持っていない。
その代わり、島に万一の有事が起きた際には、バラムの街の北部に聳えるビル────セキュリティ会社『ミッドガル』に所属するボディガード、通称『SEED』が街を守る為に動く手筈となっている。
これは街の複数の有識者と、『ミッドガル』の社長であるプレシデント神羅の間で交わされた、条約であった。

 とは言え、『ミッドガル』の本社ビルがバラムに建てられてから十数年と言う年月が経っているが、今の所、SEEDが街を守る為に動いた事はない。
潮騒の響く常夏の島は、毎日を平穏無事に過ごしており、其処に住まう子供達も、毎日を伸び伸びと楽しく暮らしていた。
イデア・クレイマーとその夫シド・クレイマーの夫妻が、あちこちで起こる戦争に巻き込まれ、親を失った子供達を集めてバラムに住むようになったのは、そうした理由があっての事だった。




 孤児院で一番に早起きなのは、ママ先生こと、イデア・クレイマーだった。
子供達の朝食の準備や、夜半のうちに洗っていた洗濯物を干したりと、彼女は早朝から忙しい。

 そんな彼女を手伝うべく、二番目に早起きするのが、孤児院で一番の年長であるレオンだった。
レオンはまだ10歳にもならない幼い子供であるが、賢くて人の機微にも敏く、責任感の強い性格で、世話になっているクレイマー夫妻に恩を返せるようにと、率先して家事手伝いをするようになった。
その傍ら、年下の子供達への面倒見も良く、手が空いた時には遊び相手をしてやったり、勉強を教えてやったりもしている。
お陰で、レオンが来るまで小さな子供達ばかりで大わらわだったイデアも、随分と楽になった。

 二人でキッチンに立って、米を研いで炊飯器にセットし、卵を溶いて出汁巻き卵を作りつつ、人数分のコンソメスープを用意し、レタスを千切って透明な器に並べて、プチトマトを添える。
作業としてはそれ程手のかからないものであるが、何せ作る人数が多い。
子供によっては、小さな体の何処に消えるのかと思う程によく食べるので、人数分+αを用意するようにしていた。

 レオンは焼いていた出汁巻き卵を綺麗に丸めると、まな板に引っ繰り返して移し、包丁を入れる。
小さな子供達が食べ易い大きさに切り分けて、それぞれの皿に同じ数を振り分ける。


「ママ先生、出し巻き卵、終わったよ」
「ありがとう。それじゃあ、皆を起こして来てくれるかしら」
「判った」


 イデアの言葉に、レオンはエプロンの紐を解きながら頷いた。
手早くエプロンを丸めて片付けると、足早にキッチンを出て、リビングを抜ける。

 廊下を通って奥の部屋に入ると、其処は子供達の寝室になっている。
すぅすぅと寝息を立てている子供達が多い中、紫の髪の子供が既に目を覚ましていた。
レオンは、部屋端の窓のカーテンを開けてから、眠そうに眠っている子供に近付くと、逆立った紫髪をくしゃくしゃと撫でてやる。


「おはよう、デッシュ。早起きだな」
「んー……はらへった……」


 どうやら、空腹で目を覚ましたようだ。
レオンはくすくすと笑って、捲れていたデッシュの寝間着替わりのシャツ裾を直す。


「朝ご飯なら出来てる」
「ほんとか?」
「ああ。だから、きちんと顔と手を洗って、リビングに行くんだぞ」
「ん」


 頷いて、デッシュはベッドを下りて、眠い目を擦りながら寝室を出て行く。

 カーテンが開かれ、外の光が降り注いできた所為だろう。
子供達は次々と眠りを覚まし始め、あちこちでもぞもぞと動く気配と、まだ眠い、と唸る声がする。
レオンはそんな子供達に一人一人声を駆けて行く。


「レイラ、朝だぞ。早く起きないと、デッシュが朝ご飯を食べ尽くすぞ?」
「んん……あたいのごはんん……」
「おはよう、ローラ。髪が凄い事になってるぞ。ママ先生に直して貰うといい」
「おはよう……うん……」
「ゾーン、ワッツ。どうしてお前達は、いつも二人揃って布団を蹴飛ばすんだ?ほら、起きて着替えろ、腹を冷やすぞ」
「んー……」
「ふぁー……」
「ウェンブリー、早く起きないと、楽しい朝ご飯を一人で食べなきゃいけないぞ」
「うぁ……やだ……」
「ラウダ、また遅くまで本を読んでいたのか。読書も良いが、あまり夜遅くまで読んでいると、眼が悪くなるぞ。ほら、起きろ」
「むぐ……青色の…かたつむり……」
「…どういう夢を見てるんだ」


 謎の呟きを残し、もそもそとベッドを下りて他の子供達の後に続くラウダを見送って、レオンは一番奥のベッドで眠る子供へ視線を移した。
其処には、艶のある黒髪をショートカットにした女の子が、クッションを抱き締めた格好で眠っている。
────レオンが赤ん坊の頃から面倒を見ている、妹的存在のエルオーネであった。

 レオンはエルオーネの白い頬を、揃えた指の背で軽く叩いてやった。
むぅ、とエルオーネがむずがるように眉を寄せて、ぱちり、目を覚ます。


「おはよう、エル」
「……おはよぅ、れぉん……」


 微笑んだ兄の言葉に、妹はふにゃりと笑って返事をした。

 こしこしと目を擦りながら起き上がったエルオーネに、レオンはよし、と満足の呟き。
クッションを抱いたままでベッドを下りたエルオーネの背を押して、レオンは部屋を出て、彼女を洗面所まで連れて行った。
其処では子供達が顔を洗う順番待ちをしている。


「皆、ご飯は出来てるから、顔を洗ったらリビングに行くんだぞ」
「はーい」
「人数分ちゃんとあるから、喧嘩しないように。いいな?」
「はーい」
「おれ、一番!」
「あたいのご飯、食べちゃ駄目だからねー!」


 年長者であるレオンの言葉に、殆どの子供達は元気よく声を揃えて返事をしたが、デッシュとアイラはお構いなしだ。
二人はレオンの脇をすり抜けて洗面所を出ると、先を争うようにドタバタと賑やかな足音を立てて、リビングに駆けて行った。
人数分あると言っているのに、と呆れつつ、レオンはエルオーネを手からクッションをさり気無く取り上げる。
エルオーネは特に嫌がる様子はなく、掴む物をなくした物足りなさを、前に立っていたラウダのシャツの端を掴んで紛らわせた。

 子供達が行儀よく並んでいるのを確認して、レオンは洗面所を出る。
向かうのはリビングではなく、子供達の寝室の隣にある、クレイマー夫妻の寝床。

 レオンは軽くノックをしてから、ドアを開けた。


「シド先生、朝ご飯が出来たから、呼びに来た」


 そう言って顔を出したレオンを、ふくよかな顔の男性が見返し、にこりと笑う。
皺のある顔に丸眼鏡を乗せたその人物が、この孤児院の経営者であり、子供達の父親代わりを担うシド・クレイマーであった。


「ありがとう、レオン。直ぐに行きますよ」


 そう言って、シドは腰掛けていたベッドから立ち上がり、レオンの隣を通って部屋を出て行く。
しかし、レオンは直ぐに彼を追おうとはしなかった。

 シドとイデアの寝室には、二人が休むベッドの他に、もう一つベッドがある。
それはレオンがバラムに来てから用意されたベッドで、レオンと共にバラムに移住した人の為の物だった。

 三つ並べられたベッドの端───窓際に置かれたそれに、レオンはゆっくりと歩み寄る。
そのベッドの上で起き上がり、ベッドヘッドに背を凭れさせていた人が、柔らかな笑みを浮かべてレオンを見詰めている。
向かい合った青灰色の宝玉は、レオンのそれととてもよく似て、温かな光を灯していた。


「おはよう、母さん」
「ええ、おはよう。レオン」


 じっとレオンを見詰める優しい眼差しの持ち主は、レオンの実の母親────レインであった。
レオンの妹的存在であるエルオーネにとっても、同じように母的存在だ。

 レオンは、母のベッドに体を乗せると、そっと彼女に近付いた。
レインは何も言わずに息子の行動を見守っている。


「今日、どう?気分が悪いとかは、ない?」
「うん。随分いい気持ち」
「そうか。うん。良かった」


 そう言って、レオンは母の直ぐ傍まで来ると、彼女の腹にそっと耳を押し当てた。

 レインの腹は、同じ女性のものに比べ、まるで風船が膨らんだように大きくなっていた。
それはバラムに引っ越す以前から微かに見えていた変化だったが、移住してからよりはっきりと膨らんできた。
今ではベッドから降りて歩くのも大変になり、移住した頃にはイデアと息子と、三人で並んでキッチンに立つ事もあったのだが、最近はめっきりそれもなくなった。
一日数回の運動として、孤児院の周りをぐるりと散歩する以外は、ベッドで過ごしている事が殆どだ。
────それもこれも、彼女の腹の中で息づく命があっての事。

 耳を当てた母の腹の中から、叩くような、とんとん、と言う音が聞こえてくる。
それを聞いて、レオンはレインの腹に耳を当てたまま、


「……起きてる」
「うん。さっき起きたのよ。ほら、挨拶してあげて」
「おはよう。今日も元気みたいだな」


 とんとん、と叩く音が返ってくる。
レオンはそれがとても嬉しくて堪らない。

 レオンは、ずっとこのまま、母と新しい命の温もりを感じていたいと思ったが、現実はそうも行かない。
リビングの方から「レオンはー?」と言う元気の良い声がして、ああ行かなくちゃ、とレオンは思った。
しかし、感じられる温もりから離れ難くて、どうしよう、と思っていると、


「ほら、レオン。朝ご飯、あなたが行かないと皆食べられないでしょう」
「……うん」


 母の言葉に、レオンは渋々と体を放した。
レインは、いつも聞き分けの良い息子の、拗ねたように唇を尖らせた表情を見て、小さく笑う。


「ご飯を食べたら、またいらっしゃい」
「────うん!」


 微笑んで告げた母を見て、レオンはぱっと破顔した。
ベッドを下りて早足でドアに向かうと、部屋を出て行く前に、ちらりと後ろを振り返る。
すると、ベッドヘッドに凭れて、優しく膨らんだ腹を撫でている母の姿があった。

 リビングの方から、もう一度レオンの名前を呼ぶ声がする。
直ぐ行くよ、と返事をして、レオンは短い廊下を走ってリビングへと向かった。




 孤児院で過ごす子供達の一日は、基本的に皆バラバラだ。
皆で揃って遊ぶ事もあるが、その為の呼びかけがなければ、デッシュやレイラやウェンブリーは外を駆け回って遊んでいるし、ゾーンとワッツは二人揃ってイタズラを画策していて、ローラとラウダは基本的に屋内で本を開いている。
そしてエルオーネは、兄であるレオンの後ろをついて周っているか、寝室にいるレインの傍で絵本を読んでいるかのどちらかだった。

 エルオーネは、まだレインの腹が大きい理由をはっきりとは理解していないようで、度々レインに「どうしてお腹が大きいの?」と訊いている。
レインは「赤ちゃんがいるからよ」と答えるのだが、そうすると「どうして赤ちゃんがレインのお腹の中にいるの?」「シド先生もお腹が大きいよ。シド先生のお腹にも赤ちゃんがいるの?」と訊いていた。
“赤ちゃん”と言うものはぼんやりと判っていても、その意味の重さまでは想像が及んでいないようだ。
レオンは、そんな母と妹の会話を眺めながら、自分の時はどうだったかな、と妹が生まれる前の事を思い出そうとしてみたが、ぼんやりとしたモヤがかかっているばかりで、はっきりとは判らなかった。

 レインは、朝昼それぞれの食事を終えて一休みした後、シドに連れられて散歩に出て行く。
大きな腹を抱えて動き回るのを、レオンは随分心配したが、イデアから「じっとしてると憂鬱になってしまうものなのよ。お腹の赤ちゃんの為にも、運動はした方が良いの」と言われて、気にしつつも母を見送るようになった。
本音を言えば、30分程度の散歩とは言え、傍についていたいのだが、レオンには年下の子供達の世話がある。
賑やかしことが好きなデッシュやレイラやウェンブリーと、悪戯好きのゾーンとワッツをイデア一人に任せるのは中々大変だ。
エルオーネも悪戯好きな所があるので、彼女がゾーンとワッツの輪に加わると、非常に大変な事件が起きたりするので、目が離せなかった。

 孤児院の庭で、子供達の元気な声が響く。
今日は読書が好きなローラやラウダも加わって、鬼ごっこの真っ最中だった。


「デッシュ、たっち!」
「あ!」
「デッシュが鬼っスー!」
「逃げろー!」


 デッシュの肩を捕まえたレイラが、踵を返して一目散に走り出す。
そしてワッツとゾーンの言葉に、他の子供達も蜘蛛の子を散らすように走り出した。
デッシュはぎりぎりと悔しそうに歯切りして、


「1234567910っ!待てー!」


 早口で数字を一気に数え終えると、ぐるっと方向転換して、駆け回る子供達を追い駆け始めた。
レオンはそんなデッシュとの距離を測りつつ、少しずつ後退して、────とん、と腰に何かが抱き着くのを感じて振り返る。


「エルか」
「えへへ」


 名前を呼べば、エルオーネは嬉しそうに目を細めて笑う。
のんびりしてると捕まるぞ、と言おうとしたレオンだったが、くんっと手を引かれて軽くつまずき掛ける。
慌ててバランスを戻したレオンだったが、エルオーネはそんな兄には気付かず、レオンの手を引いて駆け出した。


「レオン、こっちこっち」
「どうした?何かあるのか?」
「あのね、隠れられる所、見付けたの」


 そう言ったエルオーネについて行くと、孤児院の裏手にある物置に連れて来られた。
其処には、外庭用の掃除用具や、時期や季節にしか使わないものなどが仕舞い込まれている。
しかし、其処は基本的に鍵が取り付けられている為、勝手に開けられないようにしてある筈だった。

 入れないのにどうやって隠れるつもりなのだろう、とレオンが首を傾げていると、エルオーネは物置の壁際に積まれていた木箱に昇り始めた。
4歳の子供が上るには少々高さのある木箱を、エルオーネはよいしょ、よいしょ、と掛け声を呟きながら上って行く。
天辺まで辿り着くと、其処には通風用の穴が開いており、4歳で小柄なエルオーネなら通り抜けられそうだったが、


「……エル。俺は其処は通れそうにないよ」
「平気だよ。ほら」


 手本を見せるようにエルオーネが通風口を潜って中に入る。
エルオーネは直ぐにひょこりと顔を出して、「ね!」と嬉しそうに笑ったが、レオンは眉尻を下げるしかない。

 早く早くと急かすエルオーネに、レオンは仕方なく、木箱を上って行った。
木箱はしっかりとレオンの足下を支えてくれたが、あまり良い木材を使っていないのか、潮風に晒されて傷んでいるのか、ぎしぎしと音を鳴らすのが少し恐ろしい。
足下の不穏な音に一抹の不安を覚えつつ、レオンがようやく通風口の高さまで来ると、早く、と小さな手がレオンに向かって伸ばされたが、レオンは腕を伸ばしてエルオーネの手を捉まえると、


「ほら、引っ掛かって抜けられないんだ」
「出来るよ。デッシュもレイラも通れたもん。レオンも通れるよ」


 ぐいぐいと握った手を引っ張るエルオーネに、レオンはどうすれば納得してくれるかな、と眉尻を下げた。
仕方なく頭を潜らせてみるが、ごつん、と通風口の縁に肩や背中が当たってしまう。


「…やっぱり無理だよ、エル」
「……うぅ〜……」


 レオンと一緒に隠れられないのがそれ程に悔しいのか、エルオーネの栗色の瞳に、一杯の涙が滲む。
レオンは腕を伸ばして、埃をかぶったエルオーネの髪を撫でた。

 レオンが腕を引くと、エルオーネが通風口から出てくる。
拗ねた顔をしている彼女に、レオンは訊ねた。


「隠れるんじゃなかったのか?」
「……レオンと一緒じゃないと嫌だもん」


 膨れ面のエルオーネの言葉に、レオンは無性にむず痒くなるのを感じて、眉尻を下げる。

 レオンが木箱からゆっくりと下りると、エルオーネも真似をするようにゆっくりと下りる。
レオンとしては、飛び降りた方が簡単なのだが、最近のエルオーネは何かと兄の真似をしたがるので、危ない事は極力避けるように心がけていた。
そうして、木箱を一つ一つ降りて、レオンに続いてエルオーネも地面についた所で、


「─────あ、」


 ぽつりと零れたエルオーネの声に、レオンは妹を見下ろした。
するとエルオーネは、並んだ家と家の隙間から見える道路を見ていて、


「今、レインがいたよ」
「母さん、帰って来たのか」


 エルオーネの言葉を聞いて、随分早いな、とレオンは首を傾げた。
いつもは───体調による前後はあるものの───30分程度は歩いて来るのに、今日はまだ10分も経っていない。

 レオンは、エルオーネの手を引いて、孤児院の表に出た。
丁度その時、レインは付き添っていたシドと共に帰り着いた所だったのだが、彼女はシドに支えられながら腹を抱え、覚束ない足取りで玄関に向かっていた。


「母さん!」


 慌ててレオンが駆け寄ると、レインが振り返って息子を見た。
その表情が酷く蒼褪めているのを見て、何かあったのか、とレオンの心が一気に冷える。
それはレオンに連れられて彼女の下に駆け寄ったエルオーネも同様だった。


「レイン、どうしたの?気分悪いの?」
「…ううん、なんでもないわ…大丈夫よ」
「だけど、母さん、真っ青になってるよ」
「平気。ちょっと休めば治るから。気にしないで」
「でも」
「大丈夫ですよ、レオン、エルオーネ。お母さんを信じてあげて下さい」


 縋るように言い募ろうとするレオンとエルオーネを、やんわりと制したのは、シドだった。
黒々とした瞳が優しく二人の子供を見詰める。

 家の中に残っていたイデアが、レインを促して中へと入って行く。
残されたエルオーネがレオンを見上げると、兄は閉じた扉をじっと見詰め、妹の手を握った手を小さく震わせていた。
その震えを見ているのが無性に怖くて、エルオーネは小さな手で、兄の手をそっと包み込んでやる。
そうして分け与えられた温もりに、レオンがはっと我に返り、自分を見上げるエルオーネの不安げな表情に気付く。


「…座ろう、エル」


 そう言って、レオンは玄関前の段差に腰を下ろした。
レオンがズボンのポケットに入れていたハンカチを敷くと、エルオーネも其処にちょこんと座る。


「ねえ、レオン。レイン、どうしたの?凄く苦しそうだったよ」
「……うん。そうだな」
「大丈夫かな。レイン、大丈夫かな?」
「…大丈夫だ。ママ先生とシド先生がついてる。だから、ほら、────泣くなよ、エル」


 不安で一杯になり、ぼろぼろと大粒の涙を零し始めたエルオーネに、レオンは弱り切った声で言った。
そうして頬に触れる兄の手が、とても不安そうに震えているのが判ったから、エルオーネは益々涙を止められなかった。




 夕飯の直前、母についているシドを呼ぶついでに、母の様子も見ておこうと思ったレオンだったが、部屋に行く前にシドがリビングに出て来たのを見て目を丸くした。


「シド先生、」


 母さんは、と問うレオンの蒼灰色の瞳には、不安が隠しきれていなかった。
それを見てシドは、いつも確り者のこの少年も、まだまだ親の庇護が必要な子供である事を改めて知る。


「大丈夫ですよ。今は、お医者様がついていてくれていますから」


 レインとシドが散歩から帰って間もなく、バラムの街医者が母の下へやって来た。
玄関前でまんじりともせずに過ごしていたレオンとエルオーネは、その医者と顔を合わせているが、会話はしていない。
医者はイデアとシドに促され、足早に寝室に入り、それきり出てくる様子がない。
それがレオンにとって、更なる不安になっていた。

 レインは安定期の後半に入ってはいたものの、臨月には至っておらず、出産の時期はまだ先だろうと言う頃だった。
赤ん坊は大きく育ち、耳も聞こえているのではないかと言う程に成長したが、それと出産期はイコールではない。
無理な運動をすれば、流産してしまう可能性もあったから、最低限の運動は確保しつつも、レインはじっと静かに過ごしていたのだ。
出来れば病院などに入院して、日を待てば良かったのだが、レインは生まれた地を離れたばかりの息子を一人で置いて行く事を嫌がった。
また、移住から一か月後には、行方不明となっていた少女────エルオーネも我が下へ戻って来、ようやく一心地つけられた所だった。
8年前にレオンを生んだ時にも特に問題はなかったし、初産から長い時間が開いているものの、その後も彼女は健康な日々を過ごしており、此処から産婦人科の病院も遠くはないし、出産に向けた準備をしながら待てば大丈夫だろうと考えての事だった。

 レオンは赤ん坊がいつ生まれるのか、あとどれ位の時間が必要なのか、詳しい事は判らない。
十月十日と言う言葉をシドから聞かされはしたものの、明確な目印にはなりそうになくて、ただ「もう少し先らしい」とだけ感じていた。
レインも、エルオーネの「いつになったら赤ちゃんが出て来るの?」と言う言葉に、「もうちょっとかかるかなぁ」と笑っていたから。

 赤ん坊が生まれる時、一気に忙しなくなる事を、レオンはぼんやりと知っていた。
それはエルオーネが生まれた日の記憶で、多くの部分は霞がかってはっきりとはしなかったが、父と母がエルオーネの両親の下で忙しなく駆け回っていた事は覚えている。
生まれ故郷の小さな村で唯一の医者であった老人と、村人達も皆で大騒ぎしていたような気がする。

 あの騒がしさと違って、今はとても静かである。
シドもイデアも駆け回る事はしないし、レオンもつい先程、イデアを手伝っていつも通りに夕飯を作る手伝いをしていた所だった。
それだけを見れば、何も慌てる事などないのかも知れないが、


(……母さんの所に、お医者さんがいる)


 医者が定期的に母の下を訪れている事は、レオンも知っていた。
安定期に入っているとは言え、何が起こるか判らない訳だから、週に一度は検診として医者が孤児院へ通っていたのである。
レオンも何度かその場に居合わせているから、医者がいる事自体を可笑しいとは思わなかった。

 レオンが引っ掛かっているのは、昼過ぎから孤児院に来た医者が、夕飯の時間になった今でも、母の傍についていると言う事。
常と違うことが起きる日は、何かがいつもと違っている日だと、レオンは感じていた。


「お母さんの事は、お医者様が診ていてくれますから、安心して下さい。さあ、晩御飯ですね。今日は何かな」


 レオンの肩を押して、リビングに促そうとするシドだったが、レオンは動こうとしなかった。
足に根が張ったように動かないレオンに、シドが少年を見下ろせば、彼は俯いて拳を握り締め、


「シド先生。俺、母さんについてる」


 顔を上げたレオンの言葉に、シドは一瞬目を丸くして、困ったように眉尻を下げた。


「うーん……」
「駄目なのか?どうして?」


 詰め寄るように問うレオンに、落ち付いて、とシドは少年の両肩に手を乗せる。


「お母さん、ちょっと気分が悪くなっちゃってるんです。君の事だから、お昼にお母さんの顔を見て、判ったとは思いますが。でもね、心配しなくて大丈夫です。これは悪阻(つわり)と言って、赤ちゃんを産む前には、起こるものなんです。自然な事なんですよ」
「自然な事…?でも、今まであんなの見なかったけど……」
「うーん……レインさんからは言わないでと言われていたんですが……納得してくれそうにないですし、言っちゃいましょうか。レオン。君のお母さんは、君やエルを不安にさせないように、悪阻を我慢していたんです。辛い時はとても苦しそうに見えてしまうものだから、二人に心配をかけないようにって」


 悪阻と言うものが妊娠期に起きるものだと言うのは、レオンも知っている。
エルオーネの母が、彼女を妊娠していた時に何度か蒼い顔をしているのを覚えていた。
しかし、レインは息子の前ではいつも柔らかな笑みを浮かべていて、悪戯が過ぎるエルオーネを叱ったり、そんなエルオーネに甘いレオンを嗜めたりと、以前と何も変わらなかった。
だからレオンは、レインを気にかけつつも、不安になる程に心を配る必要がなかったのだ。


「だからね、レオン。今は少しだけ、我慢して下さい。お母さんは、あなたに自分が辛いって言う所を見せたくないんです」
「………」


 シドの言葉に、レオンは口を開いたが、何を言おうとしたのかは自分でも判らなかった。
母がいるであろう部屋に目を向けても、其処には開かない扉が静かに佇んでいるだけ。

 母さん、とレオンの唇が音なく紡がれる。
不安げに揺れる青灰色を見詰めて、シドは小さく息を吐いた。


「さあ、ご飯にしましょう。お腹が空くと、なんだか気持ちも落ち着かなくなってしまうものですからね」


 そう言って背中を押すシドの手に、レオンは逆らわなかった。
促されるままに歩きながら、レオンは何度も後ろを振り返り、一枚扉の向こうにいるである母を、音のない声で呼び続けていた。