はじめての大ぼうけん


 それは、一つの通過儀礼とでも言えば良いだろうか。
小さな子供が成長するには必要な大冒険で、大人がその成長を見守る為にも必要となる“耐える”時間。




「お使い?」


 エルオーネの言葉を、レオンは鸚鵡返しする。
それを受けた妹は、ぎゅっと抱き着いている弟の頭を撫でながら、うん、と頷いた。


「スコールも5歳になったでしょ。そろそろ、そう言う事をしても良いんじゃないかなって」
「お使いなら、お前と一緒にいつも行ってるじゃないか」
「そう言う事じゃなくて」


 もう、判んないかな、と少し怒ったように眉を吊り上げる妹に、レオンは皿を洗う手を止めて首を傾げる。


「一人で。一人でお使いをするの」
「一人で?」


 もう一度鸚鵡返しをした兄に、そう、とエルオーネももう一度頷いた。
それと同時に、スコールが縋るようにエルオーネにしがみつく手に力を込めた。

 小さな子供が、生まれて初めて、一人でお使いに行く────それは、子供本人と家族にとって、とても大きな意味を持つ。
子供と言うものは、生まれてからずっと、大人の庇護の下で守られ、育てられている。
家の中にいる時も、外にいる時も、守ってくれる人が傍にいて、子供はそうして与えられる無二の信頼と安心感の下、のびのびと過ごしていられるのだ。
買い物など、不特定多数の人がいる所なら尚の事、子供は大人と手を繋いで(不用意に歩き回らないように引き留める意味もあるが)いる事で、自分を守ってくれる人が傍にいる事を実感し、見知らぬ場所や慣れない場所でも、安心していられるのだ。

 そんな子供にとって“一人きりでのお使い”とは、大冒険にも等しいものだ。
見慣れた場所でも、家族といつも一緒に通っている場所でも、一人きりで行くとなると、それだけで世界は全く違って見えてしまう。
いつもは気にならないものが見えて来たり、家族がいる事で不安も何もなかった道程が、沢山の試練が存在しているように思えたりする。
それを、守ってくれる人がいない状況で、一人きりで乗り越えなければならないのだ。
これを大冒険と言わずして、なんと言おう。

 また、この“小さな子供の一人きりのお使い”は、それを見守る側にも多大な試練を運んでくる。
常に自分の手の届く場所で守り続けてきた子供が、一人で頑張らなければならないのだ。
つまり、見守る大人は、子供が困難に直面した時、いつものように前に出て守ってやることが出来ず、子供が一人で頑張ろうとする姿を只管見つめ続けるしかないのだ。
場合によっては、見守る事すら出来ず、冒険に出発した子供が、いつとも知れず無事に帰って来るかも判らない時を、延々と待ち続けなければならない。
これは中々に苛酷な試練である────常に妹弟を守りたいと思っているレオンにとっては、特に。

 つるり、とレオンの手から洗剤に濡れた皿が滑り落ちる。
それをはしっとエルオーネが掴んで、参事を回避した。


「もう、レオンってば」
「あ、……ああ。すまない」


 エルオーネの手から皿を受け取って、水で洗剤を流し、食器乾燥機に入れる。
残っていた他の食器も手早く洗い、片付けを済ませると、レオンはタオルで手を拭きながら妹弟に向き直る。


「まだ早いんじゃないか。スコールも1人歩きは殆どした事がないし」
「またそんな事言って。レオンはスコールに過保護すぎるの」
「…そうか?」
「そうよ。ね、スコール」
「………?」


 ねえ、と言ったエルオーネに、スコールはきょとんと首を傾げて見上げるばかり。
その大きな瞳には、不安そうな色がはっきりと浮かんでいる。
この様子から見るに、スコールはエルオーネが言う“お使い”に自分一人で行くと言う話を理解しているのだろう。
エルオーネはそんなスコールを宥めるように、ダークブラウンの柔らかな髪をぽんぽんと撫でてやっている。

 スコールの手がエルオーネから離れ、レオンへと伸ばされる。
レオンが膝を折ってそれを受け入れてやると、ぎゅう、と小さな体が精一杯の力で兄にしがみ付いた。
いやいやをするように兄の胸に顔を押し付ける弟に、姉は仕様がないなあ、と溜息を一つ。


「ねえ、スコール。今日は夕方から、ママ先生が来てくれるって言ってたでしょう?」
「うん……」


 レオン達の後見人であり、一年前まで孤児院を経営していたクレイマー夫妻は、早い巣立ちをしたレオンと、彼と一緒にバラムの街に住んでいる妹弟の事をとても気にかけてくれている。
まだ一人きりでは生活を賄いきれないレオンの為に、生活費の出資の他、時折レオン達の家に来て、兄妹弟の様子を確かめるようにしていた。
レオンとしても、学費のみならず生活費も世話になっている事に若干の気まずさはあるものの、育ての親が会いに来てくれる事を厭う訳ではなかったし、妹弟も彼女に会える日を楽しみにしている。
それなら、もう少しだけ、素直に甘えていようとレオンは思っていた。

 そして今日は、育ての母であるイデア・クレイマーが家に来てくれる日。
スコールは、彼女が来てくれる事、持って来てくれる美味しい手作りクッキーが楽しみで堪らなかった。
エルオーネも女同士でのんびりお茶が出来るのが楽しみでならないらしく、先日、ガーデンの授業の後、イデアから「今週の土曜日、おうちにお邪魔しても良いかしら」と言われた時は、直ぐに頷いた程だ。

 スコールの初めてのお使いは、そんな大好きな育ての母の為のものなのだ。


「ママ先生に、美味しいケーキ、食べさせてあげたいの。駅前の、いつも皆で買いに行くケーキ屋さんがあるでしょ?判る?」
「…うん」
「いつもママ先生、クッキー持って来てくれるから、そのお返しに、ね」
「……うん…」
「スコール、行ってくれないかな」


 お願い、と言う姉に、スコールの瞳が不安そうに揺れる。
大好きな姉の期待に応えたい気持ちもあるけれど、一人きりで外に出るなんて、スコールには殆ど初めての事だ。
昔から兄と姉の後ろをついて来たスコールは、ガーデンに通うようになった今でも、授業の時間を除けば、必ず兄と姉のどちらかと一緒にいたがる。
ガーデンの登下校は勿論、休みの日のお出かけや買い物でも、一人きりで行動した事がない。

 兄のシャツを握るスコールの手に、きゅ、と力が込められる。
俯いたスコールが、おずおずと兄を見上げ、


「お兄ちゃんも……」
「お兄ちゃんは忙しいの」
「いや、俺は」
「ね?」


 忙しい事など何もない、と言おうとして、妹の笑顔に圧されてレオンは口を閉じた。
今、亡き母とよく似た気配を感じたような。
レオンの胸中を妹が知る事はなく、彼女は兄から離れようとしない弟を只管宥めていた。


「お兄ちゃんも、私も、今日はやる事が一杯あってね。ママ先生が来た時の為に、色んな準備しなくちゃいけないの」
「…じゅんび、終わるの、待ってる…」
「それじゃママ先生が来るまでにケーキが間に合わないでしょ?」
「僕、お手伝い、する」
「ありがと。でも、スコールにはケーキを買いに行って欲しいんだ。それがスコールのお手伝い」
「……んぅ……」


 エルオーネの言葉に、スコールが唇を尖らせる。
拗ねたような表情を浮かべているが、それは不安の表れだ。
レオンがそんな弟を抱き締めてやれば、すり、と甘えるようにまろい頬が摺り寄せられた。


「スコール。怖いか?」
「……んぅん…」


 ふるふる、とスコールが首を横に振る。
無理しなくても良いぞ、とレオンが言うと、スコールはもう一度首を横に振った。
幼く内気な性格をしていても、やっぱり男の子だな、とレオンとエルオーネは思った。

 しかし、


「じゃあ、お使い行ってくれる?」
「……う……」


 スコールは、また首を横に振ってしまった。

 一人で外に出るのが怖い訳ではない、無理をしている訳でもない。
でも、一人でお使いには行きたくない。
甘えん坊の弟の、可愛いが困った我儘に、レオンとエルオーネは顔を見合わせて苦笑した。


「大丈夫、大丈夫。スコールは強い子だもん」
「そうだな。大丈夫、いつも皆で行っている道だし。行き方はちゃんと覚えてるだろう?」
「うん……」


 兄と姉に諭されて、スコールも自分に自信を持ちたい気持ちはあるけれど、生来の引っ込み思案は簡単には覆せない。
もじもじともどかしげに口籠る弟に、もう一押しかな、と兄姉は思い、


「スコールがケーキを買って来てくれたら、きっとママ先生も喜んでくれると思うの」
「だから、スコール。お願い、聞いてくれるか?」


 優しく見つめる蒼灰色と栗色の瞳に、スコールはきゅ、と唇を引き締める。
俯いていた顔が持ち上がり、不安一色だった大きな瞳に、微かな闘志が閃いた。





 いつも兄と姉と一緒に通うケーキ屋への道だけれど、一人で行くのはこれが初めて。
通い慣れている道とは言え、やはり一抹の不安は隠せないものだったので、レオンが家からケーキ屋への地図と、自宅と目的地の住所を書いたメモを用意した。
道が判らなくなったら、近くにいる人にこれを見せれば、店や家までの道を教えてくれる筈だ。

 それから、ハンカチとティッシュと、転んで怪我をしてしまった時の為にキズテープ。
ショートケーキを4個、と書いた買い物リストと、お金の入った財布をリュックサックに入れて、最後に、


「ライオンさん、此処にいるからね。スコールの事、守ってくれてるからね」


 そう言ってエルオーネは、スコールのリュックに、ライオンのぬいぐるみを入れてやった。
大きなライオンのぬいぐるみは、リュックの中には入りきらなかったので、頭を出したまま、ジッパーで挟んで固定する。
時折、一人で留守番をしたり、寂しい時や悲しい時に抱き締めているライオンが収まったリュックを背負って、スコールは緊張した面持ちで玄関に立つ。

 レオンが玄関のドアを開けて、スコールが一歩前へ。
レオンとエルオーネも一緒に外に出ると、リュックのショルダーベルトを握り締める弟の前に膝を追って向き合った。


「じゃあ、スコール。頑張ってね。転んで怪我しないように、気を付けてね」
「車に気を付けるんだぞ。道路を渡る時は、ちゃんと右と左を見てから。知らない人に声をかけられても、ついて行ったら駄目だからな」
「うん」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんが〜って言われても、駄目だからね」
「うん」
「よし。頑張れよ」
「うん」


 兄と姉の言葉に、こくん、こくん、と頷いて、スコールは行ってきます、と二人に背を向けて歩き出した。
背中に背負ったライオンがゆらゆらと揺れている。

 とてとてと、遠退いて行く弟。
それをレオンとエルオーネはじっと見つめていたが、その視線を感じたかのように、スコールがぴたりと足を止める。
おや、と二人が見守っていると、スコールはぱっと身を翻して、駆け足で兄姉の下へ戻って来た。


「うーっ…!」


 ぽすん、と抱き着いて来た弟を、レオンが受け止める。
ぐすん、と耳元で鼻を啜るのが聞こえて、レオンは苦笑した。


「大丈夫、大丈夫」
「うん……」
「ほら、ぎゅーってしてやるから。な」
「ん……」
「私も。はい、ぎゅー!」
「むきゅ」


 抱き締めてくれる、優しくて力強い腕が離れて行くのを嫌がるように、スコールもぎゅうぎゅうとレオンとエルオーネに抱き着く。
よしよし、と二つの優しい手が頭を撫でるのを感じながら、スコールはぐすん、と鼻を啜った。

 レオンとエルオーネが体を離すと、スコールはごしごしと涙の滲んだ目を擦る。


「頑張れるか?」
「うん」
「応援してるね」
「うん。行ってきます」


 今度ははっきりとした声で出発の挨拶をして、スコールはまたぱっと身を翻して、駆け出した。
一人で、小さな足で一所懸命に前に進もうとしているその姿が、ずっと見守り続けてきた兄と姉にはとてもいじらしくて仕方がない。

 スコールは、ケーキ屋へ向かう時、いつも曲っている角に辿り着くと、くるっと振り返って、見送るレオンとエルオーネに大きく手を振った。
「気を付けてねー!」とエルオーネが声をかければ、「はーい!」と元気な返事。
レオンが手を振り返してやると、スコールは嬉しそうに両手を振って、くるっと方向転換すると、初めての冒険に出発した。

 弟の姿が見えなくなっても、レオンとエルオーネが家の中に戻る事はなく。
2人はじっと、家の玄関前に佇んで、スコールが曲って行った道の角を見詰めていた。
ひょっとしたら、またスコールが戻って来るのではないか、と思いながら。

 ────そのまま、一分、二分と経って、


「……帰って来ないね」
「……そうだな」


 こうして待っても戻って来る気配がないと言う事は、スコールは無事に目的地への道を進んでいると言う事だ。
普段は兄と姉が手を引かなければ何処にも行けない程に引っ込み思案で寂しがり屋なスコールだが、目的を持てば、一人でもきちんと行動が出来る子だ。
レオンもエルオーネも、スコールがやる時はやれる子だと信じている。

 ……信じているのだが、


「エル?」


 一歩前に出たエルオーネを、レオンが呼んだ。
ぎくっ、とするように肩を跳ねさせた妹は、あの、えっと、と言葉を篭らせ、


「あの。ほら。ママ先生の好きなお茶の葉、切らせちゃってたの、思い出したから、買いに行こうと思って」
「財布も持たずに?」
「あっ」


 レオンの指摘に、エルオーネは赤い顔をして蹲った。
あうぅ、と唸る妹の姿を見て、レオンは眉尻を下げて笑みを浮かべる。


「俺が取って来よう。それで、二人で買いに行こう」


 背中越しの兄の言葉に、エルオーネが振り返れば、レオンは既に家の中に入っていた。
エルオーネは閉じられた扉を見詰めて、兄に過保護とは言ったけれど、やっぱり自分もそうなのかも知れない、とこっそりと笑みを零す。
でも、仕方がないだろう。
だって、今日初めての冒険に出た小さな弟は、大好きな母が遺してくれた、大切な大切な存在なのだから。




 曲がり角を曲がって、直ぐ。
スコールは背中に感じていた温かな気配がなくなったのを感じて、足を止めて振り返った。
見えるのは防波堤と、その向こうに広がる海と空。
数歩戻って角を曲がった方向へと逆に曲れば、大好きな兄と姉がいる。

 帰りたい。
お兄ちゃんとお姉ちゃんと一緒にいたい。
そう思ったスコールだったが、一歩を踏み出した所で、はっと我に返った。


(ダメダメ、ダメっ。お使いに行くんだもん。頑張るって決めたんだもん)


 忙しいレオンとエルオーネに代わって、ママ先生の為のケーキを買いに行く。
これが今日のスコールのお手伝いなのだ。
ママ先生と、レオンと、エルオーネに喜んで貰う為にも、このお手伝いはきちんと果たさなければいけない。

 ぎゅっぎゅっと抱き締めてくれていた2人の温もりを思い出しながら、スコールは前を向いた。
緩やかな坂道になっている道を、一歩一歩進んで行く。

 横断歩道の赤信号で、スコールは立ち止まった。
はふ、と小さく息を吐く。
そんなスコールの隣に、小さな犬を連れた人が並んだ。


「あら。スコールちゃん?」
「!」


 突然声をかけられたスコールの肩が、ビクッと跳ねる。
けれど、聞こえた声が聞き覚えのあるものだと気付いて、ドキドキしながら隣を見る。
其処には、レオン達と買い物に行く時、生鮮市場でよく顔を合わせる老婦人が立っていた。


「こ、こんにちは」
「こんにちは。珍しいわねえ、一人でお散歩?」


 にこにこと優しい笑顔を浮かべる老婦人の言葉に、スコールはふるふると首を横に振った。


「おつかいです」
「あら。一人で?」
「うん」
「あらあら。頑張ってねえ。車に気を付けてね」
「はい」


 こくんと頷くスコールに、老夫婦は柔らかく笑った。
足下で小さな犬が尻尾を振っている。
スコールが膝を曲げて手を差し出すと、犬が近寄ってきて、くんくんとスコールの手に鼻を押し付けた。
ぺろぺろと手を舐められるのがくすぐったくて、スコールはくすくすと笑う。

 信号が赤から青に変わって、老婦人にそれを教えて貰ったスコールは、ばいばい、と犬の頭を撫でて、横断歩道を手を上げて渡った。

 スコールは、レオンやエルオーネも含め、バラムでは有名な兄弟である。
一年前までクレイマー夫妻の孤児院の下で暮らしていた子供達は、夫妻の働きかけもあって、街で沢山の大人達に守られて過ごしていた。
孤児院で一番年上であるレオンも、近所付き合いを大切にしているし、今では兄妹弟の三人だけで生活をしている事もあって、彼らを気にかける街人は多い。

 だから街人は、スコールがいつも兄と姉の後ろを追い駆けているのを知っていた。
そんなスコールが一人で街を歩いているとなれば、兄弟を知る大人が放って置ける訳もなく、


「おっ、スコール君。今日は一人でお出かけかい?」
「お使いに行くの」
「おお、一人でお使いか。何処まで行くんだ?」
「電車の駅の、ケーキ屋さんに行くんです」
「そうか、そうか。気を付けてな。転ぶなよ」
「はい」


 庭木の手入れをしていた男性に声をかけられたり、


「スコールちゃん、一人?お兄ちゃん達は?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、忙しいの」
「一人で遊びに行くの?」
「遊びに行くんじゃないです。お使いです」
「あらぁ。大丈夫?一人で行ける?」
「大丈夫です」


 ガーデンの購買で働いている女性に声をかけられたり、


「あ、スコールちゃんだー。エルお姉ちゃんは?レオンさんいないの?」
「ふぁ、あ、え、」
「今日一人?珍しいね〜」
「や〜ん、ほっぺ丸い〜。かわいい〜」
「んむ、ぅ〜っ」


 エルオーネのクラスメイトに合って、ぎゅうぎゅうと抱き締められたりと、道中はとても賑やかなものであった。
人見知りが激しいスコールは、ガーデンでもあまり馴染みのない人に囲まれると、がちがちに固まってしまったが、泣き出したりする事はなかった。
声をかけてくれる人は、皆とても優しい人達だと言う事が判ったからだ。

 エルオーネのクラスメイト達に抱き締められて、撫でられて、ずれてしまったリュックを背負い直して、スコールは姉の友人達にばいばいと手を振って、改めて再出発。
てくてくと歩くその後ろ姿を見れば、リュックから顔を出したライオンが、スコールの体と一緒に揺れていた。

 三叉路になった道まで辿り着くと、スコールは立ち止まってきょろきょろと辺りを見回した。


「んっと……」


 右の道は、上り坂。
真ん中の道は、平坦な道。
そして左の道は、下り坂。

 スコールは兄と姉に手を引かれながら歩いた道を思い出しながら、左の道を選んで歩き出した。
2人と歩いた道で、坂道を下りて行く道があった事を思い出したのだ。
────しかし、


「……あれ?」


 見下ろした先にある道の風景が、記憶にあるものと違う。
でも、降りて行く道があったのは確かだ。


「……?」


 きょろきょろと辺りを見回しながらスコールは三叉路に戻って、他の道を覗き込む。
それでも判らなかったスコールは、そうだ、と思い出して、リュックサックを地面に下ろしてジッパーを開けた。


「んっと…えっと……」


 ライオンの下に入っているメモを取り出して、四つ折りにされていたそれに書かれていたのは、レオンが作ってくれた簡単な地図。

 地図にはきちんと、三又に分かれた道が二つ記されている。
『さいしょはまっすぐ!』と書かれているのを見付けて、スコールは来た道をこっち、と確認して、体の向きを直してから、“真っ直ぐ”を確認する。


「こっち!」


 正解は、平坦な道。
スコールは地図をリュックに戻し、背負い直すと、駆け足で真っ直ぐの道へ入った。

 そうだ、最初の道は曲がらなくて良いのだ。
家から近い坂道を昇ったら、最初の三叉路は平坦な道を選んで、下るのはその後にもう一回訪れる三叉路。
其処まで行けば、坂道を道なりに降って行けば駅に着く。
目的地のケーキ屋は駅の出入口に隣接した所に建っているから、其処まで行ければもう迷う事はない。

 最初の難関をクリアしたスコールは、意気揚々とした足取りで、次の三又の道へ向かっていた。
とてとてと小さなコンパスで駆けて行く子供を、擦れ違う大人達が温かな目で見守っている。

 このまま順調に次のターニングポイントへ辿り着けるかと思ったスコールだったが、


「ワンッ!!」
「ふえっ!」


 家を囲む塀の向こうから聞こえた大きな犬の鳴き声に、スコールはビクッと体を硬直させた。
走るように弾んでいたスコールの足は、其処で完全に竦み上がってしまい、跳ね上がった心臓の速さがより一層の緊張を生む。


(だ、大丈夫、大丈夫。さっきワンちゃん触ったもん。ワンちゃん、僕、怖くないもん)


 ドキドキとした胸を宥めるように深呼吸して、スコールはそっと新しい一歩を踏み出した。


「ワウッワンッワンッ!!」
「ふええっ!」


 塀の陰から飛び出してきたのは、短毛種の大型犬。
長毛種のようなふわふわとした毛並のない、体格の形がはっきりとしたその大型犬は、顔も中々に迫力のあるものであった。


「ワンッ!ワンワンッ!」
「う、ふぇ……」


 その体と鳴き声の大きさに気圧されて、スコールはじりじりと後ずさりした。
犬はぱたぱたと尻尾を振っており、スコールと遊びたがっていたのだが、スコールにはそうは見えなかった。
チワワやシーズのような小さな犬や、まだ生まれて間もない子犬ならともかく、あんなに大きな犬は、今まで見た事がない。
いや、見た事ならあったのだ。
ケーキ屋に向かう時に、この道はいつも通っていたのだから、この犬もずっと此処の家にいた筈。
思い起こせば、何度か犬の吠える声を聞いたような気もするし、大きな鳴き声に驚いて、兄にしがみついた事もあった気がする。

 一人きりで通る道に現れた、道を通すまいとする門番。
スコールには、尻尾を振る大きな犬が、そんな風に見えていた。


「だい、だい、じょーぶ、だいじょーぶ。つ、つないで、あるから……こっち、こない。こない、もん」


 犬にはきちんと首輪と鎖が繋いである。
だからスコールの方から犬に近付かない限り、犬がスコールに襲い掛かってくる事はない。

 よし、と自分を奮い立たせて、スコールはリュックのショルダーベルトをぎゅっと握って、もう一度一歩。


「ワンッ!」
「ふぇええっ!」


 一際大きく響いた鳴き声に、スコールはぱっと身を翻して逃げた。
塀の陰に隠れて座り込み、膝を抱えてどうしよう、と俯く。

 背負っていたリュックサックを下ろして、ライオンのぬいぐるみを取り出した。
ぎゅう、とそれを抱き締めるスコールの目には、じわじわと大粒の涙が浮かんでいる。
瞬きをすると溢れ出してしまいそうで、スコールは精一杯に目を開けてそれを堪えていた。


「どうしよう……」


 ケーキ屋まで行く道を、スコールは他に知らない。
だから、この道をクリアして次の三叉路まで行かないと、スコールはケーキ屋に辿り着けない。


「ふぇ……」


 じわじわと、涙が滲んで、視界が歪む。
スコールは慌ててそれを拭って、ライオンのぬいぐるみをぎゅっと抱き締め、リュックサックを背負って立ち上がった。


(頑張る。頑張るんだもん。お兄ちゃんとお姉ちゃんと約束したんだもん)


 ぎゅっと唇を引き締めて、スコールはライオンのぬいぐるみを見下ろした。
そのぬいぐるみは、去年のスコールの誕生日の時、レオンとエルオーネが手作りで作ってプレゼントしてくれたものだ。

 ライオンはスコールの憧れた。
強くて、格好良くて、一人で家族を守る為に戦う事が出来る。
ライオンと言う呼び名が、兄の名前の響きと似ているのもあって、スコールはライオンが好きだったのだ。
だからこのライオンは、スコールに安心感と共に、勇気を与えてくれる。
兄と姉の愛情が一杯に詰まった、このライオンが一緒にいてくれるから、何でも出来る筈だと、スコールは信じている。

 すぅ、とスコールは呼吸を整えて、今度こそ勝つんだと、塀の陰から飛び出した。
スコールが其処にいる事が判っていたのだろう犬が、直ぐに反応して振り返る。
そして犬が再び大きな声で吼える前に、


「がおー!」


 ライオンのぬいぐるみを抱き締めて、スコールは精一杯大きな声で吼えた。
それを見た犬は、きょとんとした顔で立ち尽くし、スコールを見詰める。


「が、がおー!」
「……クゥン?」
「がおーっ!」


 ライオンのように勇ましく、強く吠えながら、スコールはじりじりと犬の前を横切る。
犬は首を傾げながら、その様子をじっと具に見詰めていた。

 出入りの為に途切れていた塀が、再び現れた所で、スコールはライオンのぬいぐるみを抱き締めて走り出した。
犬はぐっと首を伸ばして、遠ざかって行く子供の背中を塀の陰から見送る。
しょぼん、とつまらなそうに尻尾が垂れている事に、子供が気付く事は、終ぞなかった。

 スコールは、脇目も振らずに走り続けた。
何かから逃げているように一目散に駆けて行く子供に、擦れ違う大人達が不思議そうに首を傾げる。
それも、スコールは気付かない。

 小川の上にかかった橋の上に来て、スコールは立ち止まった。
はぁ、はぁ、と息を切らして、橋の欄干に座り込む。


「ふえ……が、がん、ばった…うん。僕、頑張った、もん。怖く、なかった」


 泣き出しそうになっていた事なんて、とっくに忘れて、スコールは呟いた。

 けれど、ぐす、と鼻水が出ている事に気付くと、スコールは急いでリュックの中からティッシュを取り出した。
ちーん、と鼻をかんだティッシュを他のティッシュで包んで、スコールはきょろきょろと辺りを見回し、


「あっ」


 橋を渡り切った所には遊歩道があり、ゴミを捨てる為の屑籠が設置されていた。
スコールはリュックを背負い、ぬいぐるみを片手に持って、橋を渡る。
屑籠は背の高いものだったが、スコールが精一杯背伸びをすれば、取り込み口に手が届いた。

 ゴミを捨てたスコールは、ぬいぐるみを両手で抱えて、橋の袂に戻る。


「んっと……道、真っ直ぐ…」


 来た道と向かう道を確認して、歩き出す。
そして、真っ直ぐに向かう道の先が、三又に別れているのを見付けた。

 ぱっとスコールの表情が明るくなる。
此処までくれば、後はもう少し。
横断歩道を手を上げて渡り、駆け足で三叉路まで来たスコールは、三つの道をそれぞれ確認した。

 右の道は、平坦な道。
真っ直ぐの道も、平坦な道。
左の道は、下り坂。


「こっち!」


 最初の三叉路を真っ直ぐに行ったから、今度は下り坂を下りて行けば良い。

 スコールの選択は正解だった。
道を曲がって少し下って行くと、『Baram Station』の文字が見えて、スコールの進む足が早くなる。
転びそうになるのを持ち直しながら、スコールは坂道を下り切ると、きょろきょろと辺りを見渡して、見慣れたケーキ屋の看板を見付ける。

 兄と姉と一緒に何度も来ている店だけれど、一人きりで来たのは、勿論初めての事だ。
スコールはドキドキしながら、自動ドアを潜って、店内へと入った。