青天の霹靂


 環境が環境だけに、体調管理には人一倍気を遣っていた。
小さな子供が2人と、初等部の六年生になった妹が1人────それ以前では、小さな子供は2人だけではなく、全員合計すると十人近くになる時期もあった。
そんな環境で、レオンは常に一番年上で兄役・保護者役となって来たから、免疫力の低い子供達に悪影響を与えない為にも、出来るだけ自分の体調管理は確りと行ってきたつもりだ。

 しかし、学業にアルバイトに妹弟達の面倒を見てと、多忙な日常生活の中で、ふとした気の緩みと言うものは出てくるものである。

 アルバイトを終え、遅い夕飯を済ませ、エルオーネがスコールとティーダを連れて部屋に戻った、それからほんの数分後の事。
食器洗いを片付けて、風呂に入る前にリビングのソファで一呼吸、と言うつもりだったのが、そのまま意識を飛ばしてしまった。
目を覚ました時には、窓の向こうから朝ぼらけの空が見えていた。


(……しまった……)


 ソファで座ったまま眠っていた所為で、ぎしぎしと硬くなった体を無理やり動かしながら、レオンはのろのろと立ち上がった。
時計を見ると、短針は5の所を指していたので、エルオーネが起きて来るにはまだ早い。

 レオンは一度2階の自室に上がり、インナーや下着などの着替えを取り出してから、1階の風呂場へと向かった。
温かいシャワーを浴びて目を覚まそうと思ったのだ。
血行が良くなれば、頭の靄も晴れるし、無理な姿勢で眠った事で固くなった体も解れてくれる。

 ───と、思ったのだが、


「……もうちょっと温度を上げるか…」


 適温で出している筈のシャワーの湯が、冷たい気がしてならない。
真冬でもないのに妙なものだと思いつつ、湯の温度を調整する。

 いつもよりも大分高めの温度でシャワーを浴びて、レオンは浴室を出た。
手早く拭いて着替えを終えると、濡れた髪をドライヤーで乾かすべきか迷った後、自然乾燥させる事にした。
癖が付き易い髪質なので、いつもは面倒と思いつつも乾かすようにしているのだが、今日はそんな気力が沸かない。

 キッチンで欠伸を殺しながら朝食を用意していると、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
一度洗面所へと向かったその音は、少しの時間を置いて、キッチンへと駆けてくる。


「おはよう、レオン」
「おはよう、エル」


 寝癖を直したのだろう、しっとりとした黒髪を片手で押さえながら、エルオーネがキッチンへ入って来た。

 キッチンに来たエルオーネは、いつものように朝食の準備をしているレオンを見て、きょとんと首を傾げた。
じぃっと見詰める妹の視線に気付いて、レオンも首を傾げる。


「なんだ?」
「レオン、大丈夫?疲れてる?」


 じっと顔を見詰めながら言った妹に、レオンは眉尻を下げて微笑んだ。


「大丈夫、問題ないさ。それより、サラダの盛り付け頼む」
「…判った。無理したら駄目だからね」
「ああ」


 冷蔵庫からレタスとミニトマトを取り出しながら言ったエルオーエンに、レオンは頷いた。

 サラダと目玉焼きとハムを乗せたトースト、温かいスープ、それから昨日の夜の間にエルオーネが作っていたサンドイッチ。
サンドイッチはティーダ用で、スクランブルエッグと、ハムとレタスとマヨネースを挟んである。
正方形に小さく切り分けたので、トーストで物足りなければ、スコールやエルオーネも食べるだろう。


(俺の分は……いいか)


 レオンもエルオーネやスコール同様に量を食べる方ではないが、近頃、身長の伸びに反する体重の減少に関して、保険教諭のカドワキから要注意と言われてしまった。
食事は成長の為に必要不可欠な栄養の摂取行為であり、エネルギー源なのだから、絶対に朝昼晩の食事は欠かさないように、とも。
妹弟の為を思うのならば、尚の事、きちんと食べるように言われたので、最近のレオンは気持ち多めに食事を採るように心がけていたのだが、今日はあまり食べる気になれなかった。

 最近はきちんと食べていたし、一食を軽くする位なら、それ程体に影響も出ない筈。
そんな事を思いながら、レオンは温めたスープを器へと注いだ。


「レオンー、エル姉ちゃーん。おはよー」
「おはよう、ティーダ」
「おはよう。スコールも」
「……おはよ……」


 二階から降りてきた弟達に、レオンとエルオーネも朝の挨拶を返す。

 ひょっこりとキッチンに顔を出したスコールとティーダを見て、エルオーネがくすくすと笑う。
何せ二人とも、酷い寝癖をそのままにしていたのだ。
特に、眠気眼を擦りながら、ティーダに手を引かれてキッチンに入って来るスコールは、ダークブラウンの髪をあちこちに跳ねさせている。


「エル、スコール達の寝癖を直してやってくれ。ご飯の用意は俺がしておくから」
「うん。2人とも、おいで。顔洗わなくっちゃ」
「はーい」
「んぅ……」


 エルオーネに手を引かれて、スコールとティーダはキッチンを出て行く。
面白い夢見たんだよ、と言うティーダの声を聞きながら、レオンは作り終わった朝食をトレイに乗せ、リビングへと運んだ。




 顔を洗い、エルオーネにきちんと寝癖を直して貰ったスコールとティーダがリビングに戻って来た時には、いつものように、温かく美味しそうな朝食が用意されていた。
一足先に席についていたレオンに倣うように、ティーダがその隣に、スコールがレオンと向き合う席に座る。
スコールの隣にエルオーネが座って、頂きます、の挨拶の後、いつもの朝食が始まった。

 いつもと変わらない朝に、レオンはトーストを齧りながら、ほっと息を吐いた。
何も変わらない、いつも通り。
それだけでレオンは安堵するのだが、


「……」


 じぃ、と見詰める視線に気付いて、レオンは顔を上げた。
其処には、サラダ用フォークを口に食んだままで、じっと兄を見詰める弟がいる。


「どうした?スコール」
「………」


 柔らかな表情を浮かべた兄を、スコールはじっと見詰め続ける。
顔にバターでもついたかな、とレオンが自分の口元を気にしていると、


「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ん?」


 心配そうに訊ねるスコールに、レオンはぱちりと瞬きを一つ。
そんな兄を見て、スコールは泣き出しそうな顔で言った。


「お兄ちゃん、なんか変なんだもん……」


 フォークを下ろして、スコールは呟いた。
しん、と静まり返ったリビングの中で、小さな弟のその声と、窓の向こうで響く潮騒だけが反響する。

 レオンの隣でぱくぱくと勢いよく食事を平らげていたティーダが、ことんと首を傾げ、レオンの顔を覗き込む。
じぃ、と見詰める海の青に、レオンは小さく笑みを浮かべて見せた。
レオンがくしゃくしゃと蜜色の髪を撫でる間も、ティーダはじっとレオンの顔を見詰めている。

 かたん、と音が鳴って、エルオーネがテーブルから身を乗り出した。
伸ばされた細く白い腕が、レオンの額へと添えられ、エルオーネの栗色の目が大きく見開かれた。


「何してるの、レオン!熱があるじゃない!」
「ふぇっ!」
「え?」


 エルオーネの言葉に、スコールがびくっと跳ね、レオンはぱちりと瞬きを一つ。

 エルオーネの手がレオンの額から離れると、隣からティーダが手を伸ばした。
姉と同じようにレオンの額に小さな手が触れる。
いつも温かい筈の子供の手が、今日はやけに冷たく感じられて、不思議だな、とレオンは思った。


「うわっ、本当に熱い!」
「えっ、えっ、」
「……?」


 驚いたようにティーダも声を上げ、スコールがおろおろと慌てふためく。
小さな手が離れ、レオンも自分で額に手を当ててみるが、2人が言うような熱は感じられない。


「…そうか?いつも通りだと思うが……」
「またそんな事言って。ティーダ、体温計の置いてある場所、判るよね。持って来て」
「うん!」


 首を傾げるばかりのレオンに、エルオーネは怒ったように眉尻を吊り上げた。
ティーダは椅子を飛び下りて、救急箱を収めているチェストに駆け寄る。

 レオンと向かい合う位置で、スコールが大きな瞳にじわじわと大粒の涙を浮かべている。
白い頬を伝いかける雫に、レオンは手を伸ばし、そっと指先で拭ってやった。
その瞬間、ぽろりと大粒の涙がスコールの頬から零れ落ちる。


「うわあああぁああん!」
「スコール?」
「やだぁ!お兄ちゃん、しんじゃやぁああああ!」


 わんわんと声を上げて泣きだしたスコールに、レオンは目を丸くした。
そんなスコールの言葉を聞いたティーダが、救急箱から取り出した体温計を手にしたまま、呆然と立ち尽くす。


「……レオン、しんじゃうの?」
「いや、」
「うぇ……!」


 じわあ、とティーダの目にも大粒の雫が浮かび上がる。

 弟達の突然の涙に、レオンは何が何だか判らず、二人の顔を交互に見比べるばかり。
エルオーネは泣きじゃくるティーダに駆け寄って、その手から体温計を受け取ると、自分の座っていた椅子にティーダを座らせる。


「ほら、レオンは体温計」
「あ、ああ」
「スコールとティーダは泣かないの。お兄ちゃんは大丈夫だから」
「だって、だってぇ!レオン、しんじゃうってえ…!」
「熱があるだけなんだから、死んだりなんてしないよ」
「だって…おにいちゃ、まえ、まえに…ふえぇええ…!」
「あの時だって、レオンは大丈夫だったでしょ?だから平気。だから2人とも、泣かないの」


 レオンに体温計を押し付けるように渡したエルオーネは、直ぐに泣きじゃくる2人の弟を宥めにかかった。
半分パニック状態でわんわんと泣く弟達を見ながら、レオンは体温計をシャツの中に入れて腋に挟む。

 体温計が電子音を鳴らすのを待ちながら、レオンはエルオーネとスコールが言う“あの時”の事を思い出していた。
それはガーデンが設立される前で、スコールが4歳、エルオーネが8歳、レオンが12歳の時の事。
三人の他に、スコールと同じ歳の子供が2人、5歳の子供が3人いた。
ある日、シドとイデアが2人で出掛けなければならない用事が出来て、子供達だけが孤児院で一日を過ごす事になり、親代わりの大人がいない分、自分が確りしなければと思っていたレオンだったが、折悪く、その日に限って体調を崩した。
それでも症状は頭痛があるだけで、くしゃみや咳もなかったし、自分が寝込めば子供達も不安になるだろうと思い、薬だけを飲んで後はいつものように過ごしていた。
しかし、子供達とエルオーネと皆揃って買い物に出かけた帰り道で、レオンは倒れてしまったのである。
突然の事にエルオーネも子供達もパニックになり、道端で倒れたレオンの傍で泣きじゃくる子供達を見付けた近所住まいの人々によって、レオンは急ぎ病院へと運ばれた。
診断結果は風邪だったのだが、無理を推して帰って子供達を心配させた事は、医者と話を聞いた育て親には勿論、エルオーネからも涙を浮かべて叱られ、スコールに至っては兄が突然倒れた事が相当なトラウマになってしまったらしく、数日間、ずっとレオンの事を心配しきりで、傍を離れようとしなかった。

 あの出来事から4年が経った今でも、スコールは、兄が倒れた光景をはっきりと覚えているようだ。
だからレオンに熱がある、体調が良くないと知った瞬間、「お兄ちゃんが死んじゃう」と思ったのだろう。
4年前のあの時にも、レオンが目を覚ますまでは、他の子供達と一緒に「レオンが死んじゃう」と思っていた事は、後でエルオーネから叱られながら聞かされた。


(可哀想な事をしたな)


 あの時は本当に、子供達にもエルオーネにも心配をかけて、沢山の人に迷惑をかけてしまった。
その事を判っているからこそ、レオンは日々の体調管理には気を遣っているのだ。

 ───そんな思いに反し、取り出した体温計が表示していた数字を見て、レオンは目を丸くする。


「終わった?何度?」


 ぐすぐすと愚図っている弟達を宥めながら、エルオーネは尋ねた。
レオンは信じられないものを見る目で体温計を見詰めながら、液晶の表示を読む。


「37.8度……」
「ほら。やっぱり熱があるじゃない」
「壊れてないか?これ」
「壊れてません」


 体温計の信用性を疑うレオンに、エルオーネはきっぱりと言った。
レオンはそれでも納得が行かなかったが、眉尻を吊り上げて睨むエルオーネと、涙を浮かべてじっと心配そうに見つめる弟達の視線に、早々にギブアップを表明した。


「判った。そんなに睨むな」
「だって判ってないもの」
「お兄ちゃ……」
「レオン、へーきなの…?」
「平気だと思うんだがな」
「ほら、判ってない!」


 ティーダの言葉に素直な返事をすれば、直ぐに叱る声が飛んだ。


「レオンは今日は休み。決まりね」
「其処までする程じゃないだろう。薬だけ飲んで行けば」
「駄目です。先生には私が伝えておくから、レオンは今日1日、大人しくしてるの。バイトも駄目だからね。そっちは自分でちゃんと連絡……やっぱり私がして置こうかな…」
「わ、判った、判ったから。ちゃんと休む。連絡も自分でするから」


 携帯電話を取り出して、ガーデンかアルバイト先の喫茶店か、今直ぐに連絡しようとするエルオーネを、レオンは慌てて止めた。
すると、「本当に?」と言わんばかりに、細められた双眸がレオンを睨む。
そんな姉の傍らで、ようやく涙を引っ込めたスコールとティーダが言った。


「お兄ちゃん、ガーデンお休み?」
「行かないの?」
「…その方が良いみたいだ。だから今日は、エルと3人で行っておいで」


 レオンのその言葉に、スコールとティーダは不安そうな表情を浮かべる。
兄と一緒にいられない事、体調を崩した兄の傍にいられない事────心配する気持ちと、寂しさが入り交じった2人の顔を見て、レオンは努めて柔らかい笑顔を浮かべた。
丸い2人の頬を指先で撫でてやると、ティーダの手に触れた時と同じように、温かい筈の彼らの体温が、今日だけは少し冷たく感じられる。
その理由に、ああ発熱しているからか、と遅蒔きに気付いた。

 エルオーネは弟達を並んで座らせると、自分とティーダの皿をそれぞれ入れ替えた。
それから、救急箱から風邪薬を取出し、レオンの前に置いて、隣に座る。


「吐き気とかはないの?」
「ああ。咳やくしゃみも、特には」
「食欲もある…よね?」
「あまり沢山食べる気にはならないって位かな。朝飯は全部食べれると思う」
「食べたらちゃんと薬飲んで、部屋で大人しく寝てる事」
「ああ。そうするよ」


 じっと心配そうに見つめる弟達や妹をこれ以上不安にさせない為にも、今日は大人しくしているしかあるまい。
食事が終わったら先ずはガーデンに連絡して、アルバイト先には昼過ぎにならないとマスターが来ないようなので、それまで部屋で休んでいよう。
幸い、食欲はあるので、治るのも早いのではないだろうか。

 病院はどうするかな───と思いつつ、レオンは少し冷めたスープを啜った。