握り締める、小さな手


 家庭を省みなかったとか、放ったらかしにしていたとか、そんなつもりはなかった。
けれど、気付けなかった自分自身に腹が立ったのは確かで、気付かなかった所為で、彼女を助ける為に出来たかも知れない事が、何一つ出来なかった事が悲しかった。

 妻は、自分を愛してくれていた。
元々自分のファンであったと言うが、ジェクトがそれを聞いたのは、彼女と結婚した後の事。
チームメイトの彼女の友人だとかで紹介され、ころころとよく笑う彼女を可愛らしいと思った。
その時分、ジェクトもまだ随分と若かったもので、後から考えれば、気持ちばかりが急いて周りの事がよく見えていなかった。
彼女との結婚を決めたのも、半ば勢い的な所があった事は否めず、無論、両親からも反対された。
当時、ジェクトは既にザナルカンド・エイブスに所属するプロのブリッツボールプレイヤーであり、目覚ましい活躍で頭角を現していたが年齢はまだ成人前。
結婚そのものにはザナルカンドの法に抵触する事はないが、自己責任や他人の人生を背負うと言う言葉の重みを、今ほど理解出来てはいなかった。
当然、彼女の両親からは反対され、チームの先輩や監督からも「気が早すぎる」と渋い顔をされていたが、結局、ジェクトは押し切った。
妻もそんなジェクトに喜んでくれ、駆け落ち同然に両親を振り切り、ザナルカンドの都市部から離れた清閑な住宅地に、二人で移り住む事となった。

 二人の結婚生活は、細々としたものであった。
ジェクトは自分が結婚した事を公にする事はなく、妻をメディアに晒し者になる事を嫌った。
程なくして息子が生まれた後も、それは変わる事はなく、ジェクトは一貫して家族の存在をマスコミに隠し続けた。
その為、二人は夫婦生活こそしていたものの、恋人同士が当たり前に味わうデートのような行為を経験した事がない。
妻はそれに不満を漏らした事はなかったけれど、その代わり、殊更に夫婦二人きりの時間を大切にしたがり、時には小さな息子よりも夫を優先したがる事もあった程だ。

 無論、妻が息子を蔑ろにしていた訳ではない。
ジェクトがいない間、妻は息子を厳しくも優しく育ててくれていた。
息子はジェクトと自分の愛の結晶であるし、おかあさん、と温もりを求めて腕を伸ばしてくる我が子が可愛くない訳がなかった。
ただ、息子とは毎日一緒にいられるから、一緒にいる時間が限られる夫と二人になれる時間が、彼女にとって殊更に大切になってしまっていたのである。

 そんな母を見て、息子は、父親が自分から母を取ってしまうと思ったらしい。
寂しがり屋の息子が、普段家にいない父親よりも、常に一緒にいてくれる母に懐いたのは、当然の事かも知れない。
だから息子にとって、母は自分を一番に愛してくれる筈の人なのだけれど、母は父が帰ってくると、自分よりも父ばかりを見てしまう。
幼心にその光景は酷く悲しい光景として焼き付いてしまったようで、段々と息子は、父が帰ってくるだけで拗ねたような顔を浮かべる事が増えてきた。
───それでも、ジェクトにとって息子は息子であり、守り慈しむべきものであった。

 妻も、息子も、ジェクトにとって、何者にも代えられない、唯一無二の大切な存在だった。
……その大切な存在が、ある日突然、自分の前からいなくなってしまう日が来るなど、誰が想像出来るだろう。

 ある日の練習試合を終えた後、チームマネージャーが酷く重々しげな表情でジェクトの前に現れた。
その口から告げられた言葉が信じられず、けれども事実であると重ねて言われ、ジェクトは飛ぶようにタクシーを走らせ、病院へと向かった。

 妻は、随分と前から、病に侵されていたと言う。
そんな話を、ジェクトは一度も聞いたことがなかった。
自分が家に帰った時、彼女はいつものように笑顔で出迎えてくれて、父の帰宅に拗ねた顔をする息子を宥め、ジェクトの為に酒の肴を作ってくれていた。
彼女は自分が病に侵されている等と、一度も口にした事がない。
何故教えてくれなかったのだとジェクトが呟けば、息子の口から「迷惑になりたくなかった」のだと聞かされた。
その時、じっと父を睨む息子の眼には、明らかな憎しみの感情があった。
もっと傍にいる事が出来れば、迷惑などと思う必要はないのだと、一度でも言う事が出来たら、何かが少しは変わってたのかも知れない。
けれど、それは結局“もしも”の話でしかなく、現実に起こった出来事とは、天地が引っくり返っても取り替えられる事はない。

 「おかあさんをかえして」と涙を浮かべた青の瞳で言った息子に、ジェクトは、自分が彼女を殺したのだと思った。
自分が彼女の変化に気付いていれば、彼女の押し殺した涙に気付いていれば、彼女はこんなにも早く逝ってしまう事はなかったかも知れない。
寂しがり屋の息子から、大好きな母を奪ってしまう事も、なかったのかも知れない。

 悲しみと、後悔と、罪悪感と。
たった一人残された小さな息子を前に、ジェクトは、この子供だけは守らなければならないと思った。
妻を失ったジェクトにとって、この小さな命だけが、自分をこの世界に繋ぎ止める縁であった。




 妻の葬式を終え、葬式に駆け付けてきてくれた二人の友がスピラ大陸へと帰る船を見送った後、ジェクトは数日分の着替えと財布だけを持って、バラム島行きの連絡船に乗った。
7歳の息子───ティーダは、初めて乗る船におっかなびっくりと言う様子で、きょろきょろと不思議そうな表情で船内を見回している。
その眦には、つい先程まであった、沢山の無機質なカメラに囲まれた時の恐怖心は紛れて消えてしまったようで、その事にジェクトは胸中で安堵していた。

 細々と家族とごく僅かな友人だけで行われる筈だった葬式は、一体何処から嗅ぎ付けたのか、ジェクトに家族がいた事を含めてマスメディアにばれてしまい、葬式会場の外は話を聞こうと殺到したマスコミで埋め尽くされてしまった。
余りにも無遠慮に押し掛けてきた上、小さな息子にまでカメラを向けてきたマスコミに、掴みかかりかけたジェクトを止めたのは、友人達だ。
それから式会場の別出口から隠れるように家へと帰ったジェクトは、最低限の荷物だけを慌ただしく掻き集めると、港へ向かい───現在に至る。

 ジェクトは、隣できょろきょろと辺りを見回すティーダの頭をぽんと軽く叩いてやる。
あちこち忙しなく動いていた海の青が父へと向けられて、ティーダはぱちりと瞬き一つして、尋ねた。


「どこ行くの?」


 家に帰った時、ティーダは泣き疲れと慣れない出来事の連続でうとうととしていたが、ジェクトはそのまま眠りそうだった息子を抱えて家を出た。
港に向かう道中でティーダは少し目が覚めたらしく、船に乗る手続きを終えた頃は完全に起きていた。
いつの間にか見慣れない風景の場所にいた事に戸惑い、生まれて初めて乗せられた大きな船の景色を眺めるのにも飽きて、ようやく疑問が浮かんできたらしい。

 どこ行くの、と舌足らずに尋ねた息子は、不安と期待が入り混じったような表情をしていた。
ジェクトはそんなティーダの頭をもう一度ぽんぽんと叩いて、


「静かに過ごせる所、だな」
「どこ?」
「さあて……」


 曖昧な答えしか呟かない父に、ティーダの眉がハの字になる。

 小さな手が、ジェクトの服の端を握る。
ジェクトが傍らの息子を見ると、ティーダはきゅうと唇を結んで、泣き出しそうな顔で俯いている。
服端を握るティーダの小さな手は、いつも母の細くて温かい手を握っていたものだ。
その手が握っていたものを、父親に奪られてしまわないように、幼い息子は一所懸命に母を捕まえようとしていた。
だが、その手が今求めているのは、「だいきらい」と舌足らずに言っていた父親の存在だ。

 泣き出す一歩手前の顔をしているティーダに、ジェクトはいつも言った。
泣くぞ、すぐ泣くぞ、もうすぐ泣くぞ、ほーら泣くぞ。
泣き虫な息子の泣き止ませ方が判らなくて、そんな風に発破をかけるしか、ジェクトは出来なかった。
そうして「泣いてない!」と涙が滲んだ顔で睨む息子を愛しく思いながら、最後にはわんわんと泣き出してしまう息子に、ああまたやってしまったと後悔するのがお決まりだった。

 だが、今は何も言うまい。
ジェクトは黙ったまま、小さな息子を抱き寄せた。
母とは違う、しっかりとした父の腕に抱き締められて、ティーダはきょとんと目を丸くする。
ぱち、ぱち、と不思議そうな表情で見上げてきた息子を、ジェクトは見なかった。
ただ、ぽすん、と胸の上に乗せられた軽い重みだけは、絶対に守らなければと思った。






 バラムの空は、よく晴れていた。
冬と春の間とあって、常夏の島のバラムとは言え、天候不良はしばしば訪れる。
そんな中、数日振りの晴天、ぽかぽかと暖かな陽気に恵まれた日曜日と言うのは、実に久しぶりの事だ。

 こんな日にこそ、溜まった洗濯物を片付けなければ。

 レオンがエルオーネとスコールと三人でバラムの街で暮らすようになってから、2年と言う時間が経ち、環境の変化に敏感な幼い妹弟達も、少しずつこの生活に慣れてきた。
平日、バラムガーデンと言う新しい環境や、家族が一時バラバラに過ごすと言う生活に、スコールも馴染みつつある。
大人がいない家庭環境とあって、近所に住む人々も温かく見守ってくれ、時折差し入れを持ってきてくれる事もあった。
日々の生活費や学費など、心配事は尽きないが、概ね順風な日々が過ごせていると言って良いだろう。

 ガーデン設立時、中等部二年生であったレオンは、高等部に入り、アルバイトを始めた。
この為、レオンは非常に忙しい日常を送っている。
平日の昼間はガーデンで学生として勉強に励み、放課後は妹弟の夕飯の用意を慌ただしく済ませて、アルバイトに行く。
アルバイトが終わったら、家に帰って遅い夕食を採り、自分の部屋で提出用の課題を片付ける────と言った具合だ。
エルオーネが11歳になり、スコールも7歳になったとあって、二人も積極的に家事手伝いをしてくれるので、レオンの負担はかなり軽くなったが、それでも何かしらの仕事が手抜きになったり、後回しになって溜まってしまう事はある。

 最近溜まっていた家事仕事は、洗濯物や布団干しだ。
これは兄弟の手が空いていても、天候によっては部屋干しせざるを得なくなり、大きな布団などは干せる場所の確保が難しく、後回しにするしかなかった。
其処へ来て、ようやくの休日の晴天────所謂、洗濯日和と言う奴だ。


「────よっ、と」


 洗い終えた布団シーツや毛布を洗濯籠に入れて、レオンは籠を持ち上げた。
冬用と春用の布団を一挙にまとめて洗ってしまった為、脱水を済ませているとは言え、布団の重さはそれなりのものになっている。

 両腕にずしりとかかる重みに、レオンはふらふらと体重をよろめかせながら、玄関へと向かう。
玄関の鍵は先に開けて置いたので、レオンは玄関扉を背中で開けながら外へ出た。
晴れ渡る空の眩しさに目を細めつつ、レオンが猫の額程のささやかな庭を見回せば、スコールがクレヨンで石畳の地面に絵を描き、エルオーネはその隣で弟のお絵描きの様子を見守っていた。

 ぱたん、と玄関扉が閉まる音が鳴って、エルオーネが振り返る。
エルオーネは、小山のように積まれた洗濯物を抱えた兄を見て、慌てて立ち上がる。
そんな姉に気付いて、スコールも顔を上げた。


「レオン、大丈夫?手伝うよ」
「ああ、ありがとう」


 籠の端を持ったエルオーネに、レオンは表情を綻ばせて言った。
それを見たスコールが、クレヨンを地面に転がして、とてとてと兄姉の下へ駆け足し、


「僕もお手伝いする」
「大丈夫?お布団、重たいよ」
「だいじょうぶ」


 スコールの小さな手が、布団を積んだ洗濯籠の端を持ち上げた。
小さな子供の力は、重い洗濯籠を持ち上げるには足りないが、よいしょ、よいしょと兄と姉の歩調に合わせ、顔を赤くしながら頑張ろうとする弟の姿は、レオンとエルオーネにとってとても和ましいものであった。

 レオンとエルオーネは、スコールが転ばないように、ゆっくりとした足取りで物干し竿の下へと向かった。


「ゆっくり下ろすから、二人とも手を挟まないようにな」
「うん。スコール、先に手を離していいよ」
「はぁい」
「ん……しょ」
「よっ……」


 スコールが洗濯籠から手を離し、邪魔にならないように三歩下がった所で、レオンとエルオーネはゆっくりと籠を地面に下ろした。

 レオンは小山の一番上の毛布を持ち上げ、物干し竿に引っ掻けながら広げていく。
ピンク色に可愛らしい兎や猫がプリントされた毛布は、スコールとエルオーネが使っているものだ。
広げた毛布が竿から落ちないように洗濯クリップで固定する。

 スコールが次の洗濯物を籠から拾い、エルオーネが丸まった洗濯物を広げ、レオンが竿に干す。
毛布や布団を干すのは中々の重労働なのだが、家族三人で分担すれば、それ程疲れるものではなくなる。
何よりレオンは、小さな弟と妹が手伝ってくれると言うだけで、日々の疲れも何もかも吹き飛んでしまうのだ。

 レオンは最後のシーツを竿に干して、皺を伸ばす。
パンッ、と小気味の良い音を立てたシーツは、真っ白な波を空の青の中で大きくはためかせている。


「よし。洗濯、終わり」
「終わりー」
「おわりー!」


 腰に両手を当て、爽やかに波打つシーツ達を見て言ったレオンに、エルオーネが真似をするように言えば、スコールも万歳しながら真似をする。


「この天気なら、乾くのも早いだろうな。片付ける時は、また頼む」
「うん」
「はーい」


 レオンの言葉に、エルオーネは勿論と頷いて、スコールは嬉しそうに飛び跳ねながら返事をした。
今のスコールには、兄と姉の手伝いが出来ると言う事が嬉しくて仕方がないのだろう。

 家の目の前の海から届いて来る風は、随分と暖かくなった。
レオンとエルオーネは、晴れ渡る青空を見上げながら、すっかり春だなぁ、と思う。


「ね、レオン」
「ん?」


 妹の呼ぶ声にレオンが首を傾けると、エルオーネは楽しそうな表情で此方を見ていた。


「こんなに天気が良いんだし。今日は外でおやつにしない?」
「おやつ?」


 エルオーネの言葉に反応したのは、スコールだ。
きらきらと輝居たスコールの瞳が、兄と姉を交互に見上げる。
レオンはそんなスコールの頭をくしゃくしゃと撫でて、エルオーネに頷いて見せる。


「そうだな。折角、久しぶりに晴れたんだ」
「うん。じゃあ、お茶淹れて来るね」
「ああ。テーブルは用意して置くよ」


 嬉しそうに家へと戻るエルオーネを見送るレオンとスコール。
スコールは姉の持って来てくれるであろうおやつが楽しみで仕方がないのか、レオンの手を握ってぴょんぴょんと飛び跳ねている。
レオンはそんな小さな弟の頭を撫でて、良い子で待っていような、と言った。

 レオンは、家の裏の物置に行くと、仕舞い込んでいたキャンプ用のテーブルとウッドチェアを運び出した。
スコールも自分が使う小さな椅子を持ち、ずるずると脚を引き摺りながら庭へと持って行く。
テーブルを囲むように三人分の椅子を並べ、レオンは椅子に座ってエルオーネが戻って来るのを待つ。
スコールはうきうきとした気持ちを表すように、お絵描きを再開させている。


「スコール。道には出ちゃいけないからな」
「うんー」


 生返事も同然のスコールの声に、レオンは眉尻を下げて苦笑する。

 スコールは夢中になって地面に絵を描いていた。
レオンが首を伸ばして絵を見てみると、ケーキやチョコレート、クッキーの絵が描かれている。
今日のおやつはなんだろう、と楽しみにしているのだろう。
可愛いな、とレオンはくすりと笑みを浮かべる。

 コンコン、と言う小さな音を聞いて、レオンはおや、と家へと視線を移す。
窓を見ると、其処にはエルオーネがいて、彼女は右手にダージリン、左手にアッサムの茶葉が入ったパッケージをそれぞれ持っている。
どっちがいい?と聞いて来る彼女に、レオンは少し考えた後、ダージリンを指差した。
じゃあこっちね、とエルオーネはダージリンのパッケージを掲げて見せ、窓辺から離れた。

 ふあ、とレオンの口から欠伸が漏れる。
昨夜も遅くまで勉強をしていたし、ぽかぽかとした春の陽気が、また一層の眠気を誘う。


(……少しだけ)


 ゆるゆると落ちて行く瞼を、持ち上げる事が出来ない。
レオンはお絵描きに夢中になっている弟を眺めながら、テーブルに伏せ、ゆっくりと目を閉じた。





 ケーキ。
チョコレート。
クッキー。
プリン。
シュークリーム。

 今日のおやつはなんだろう。
そんな事を思いながら描いていたら、地面の上はお菓子で一杯になっていた。

 昨日はプリンだったから、今日もプリンはないかなぁ。
ママ先生から貰ったクッキーはまだ残っていたかな。
お兄ちゃんが作ってくれたチョコレートケーキは食べちゃったし、シュークリームは来週作ってくれるって言ってた。
じゃあ、やっぱり今日はクッキーかなぁ───と思いつつ、スコールはキャンディの絵を描いていく。

 いつの間にか、家の庭の石畳は、すっかりお菓子で埋め尽くされていた。
思いつく限りのお菓子を描き終えたスコールだったが、お絵描きはまだ終わらない。


「ん、しょ…んしょ」


 絵のスペースを確保する為、少しずつ少しずつ、スコールは自分の位置をずらしながら描いていく。

 おにいちゃん。
おねえちゃん。
まませんせい。
しどせんせい。
毎日のように描いている大好きな人達の顔を、今日も描いていく。
そうしている内、スコールは自分の家の庭からすっかり食み出していたのだが、お絵描きに夢中になっているスコールは気付かない。


「んーぅ…んしょ……」


 よいしょ、よいしょ、と移動しながら、スコールは絵を描き続けて行く。
そんなスコールの視界の端に、草臥れた大きなスニーカーを履いた足が現れた。


「…んぅ……?」


 ことり、と首を傾げながら、スコールは顔を上げた。
そうしてスコールが見たものは、真っ青な空と眩しい太陽を背中にした、大きな大きな影。

 ぼさぼさと跳ねた黒い髪と、口の周りに不揃いに生えた髭。
真っ黒に日焼けをした肌と、赤い目と、もりもりと肉が盛り上がって丸太のように太い腕。
頭と体を繋ぐ首も、小さなスコールの手では半分も覆ってしまえないのではないかと思う程に太い。

 きょとんとした表情で見上げるスコールを、大きな影の赤い眼がじっと見詰め、


「あー…坊主、ちょっと…お前、この辺に住んでる、か?」


 低い低い声が、髭に囲まれた厚い唇から紡がれた。
その野太くてずしんと重みのある声に、スコールは思った。


(クマのこえ)


 テレビの動物番組で見た、山や森、雪の中に住んでいる、大きな大きな熊の声。
あれと、今の声は、よく似ていた───少なくとも、幼いスコールにとって、同じような音だった。

 そうだ、熊だ。
大きい体も、もじゃもじゃとした毛(髪)も、丸太のように太い腕も、熊そのもの。
手は普通の人間と同じ形をしているけれど、レオンやシド先生のものよりもずっと大きく、スコールの頭など片手で鷲掴んで握り潰してしまいそうだ。
顔のあちこちにある傷のようなものは、きっと他の熊と争いをしている時に負ったものに違いない。


「……おい?」


 見上げた格好のまま、固まって動かなくなったスコールに、熊が声をかける。
途端、びくっとスコールの小さな体が跳ね、


「あ…う……」
「ん?」
「ふぇ、」


 覚束ない声を漏らしたスコールの顔を覗き込むように、熊は膝を追ってスコールと目線の高さを合わせた。
近くなった赤い瞳に、スコールの青灰色の瞳から、じわじわと大粒の雫が滲み出す。
それを見て、熊はぎょっと目を丸くした。


「お、おい」
「ふえ、え、え、」
「ちょっ…ま、待て、泣くな。別に取って食おうって訳じゃ」
「ふええええええん!おにいちゃああぁぁああん!」


 熊の言葉を最後まで聞く余裕がある筈もなく、スコールは声を上げて泣き始めた。

 潮騒の響く閑静な街に響いた小さな子供の泣き声に、真っ先に反応したのは、庭先で眠っていた少年───レオンであった。
春の陽気の中で睡魔に浚われていたレオンは、弟の呼ぶ声を聞いて跳ね起きる。


「スコール!?」
「ふえっ、えっえうっ…おにいちゃ…おにいちゃぁん……!」


 椅子を蹴り倒し、道路に出ていた子供の下へ飛び出してきた兄に、弟は顔をくしゃくしゃにして抱き着いた。
レオンはわんわんと声を上げて泣く弟を抱き締めて、よしよしと頭を撫でてやる。

 どうしたんだ、と訊ねる兄に、スコールは答えられない。
スコールは只管、ぎゅうぎゅうと精一杯の力で、自分を守ってくれる人に縋り付いていた。
何かに怯えるように縋る弟に、レオンが首を傾げていると、ふっと視界に影が落ちる。
なんだ、と顔を上げてみて、レオンは思わず目を丸くした。


「……!」


 大きい。
レオンが抱いた印象は、その一言に尽きる。

 今年で7歳になったスコールは、体格的にはどうやら小柄な方であるらしく、クラスで背の順に並ぶと一番前になるのだと言う。
そんなスコールに比べ、今年で15歳を迎えたレオンの身長は、同年代の少年達と比較しても見劣りしない。
どちらかと言えば恵まれた方であるらしく、背の順で並ぶと後ろの方になるのが常であった。
8歳の年齢差があるスコールとは、スコールの頭がレオンの腰に来ると言う身長差だ。

 そんなレオンから見ても、出逢った“熊”は大きな体をしており、何よりもその存在感が圧倒的な迫力を醸し出していた────が。


「その…すまん。どうも俺が泣かせちまったようだ」


 ぼさぼさと跳ねた黒髪を、がしがしと大きな手が掻き毟る。
顔のあちこちに刻まれた古い傷は、まるで歴戦の勇士を思わせるかのような迫力なのに、眦が下げられ、赤い瞳を右往左往と彷徨わせる様は、その体躯の大きさに反して、どうにも頼りなさげに見える。

 レオンは小さな弟を抱き上げると、眉根を寄せて目の前の男を見た。
近所に住んでいる人は皆顔を覚えているから、見慣れないこの大人は、少なくともレオンが知っている人間ではない。
顔付は厳めしく、良い言い方をすれば野性味が溢れていると言うべきか。
少なくとも、子供受けするような顔ではなく、スコールが怯えて泣き出したのも無理はあるまい。

 じっと見上げる少年を、男は困り顔で見下ろしている。
自分を見詰める青灰色の瞳に、警戒の色が滲んでいる事が判ったからだ。


「あー……」
「……」


 レオンと男の距離は、約二メートル。
男が太い腕を伸ばしても、レオンには届かない。
男はその距離を無理に近付けようとはせず、その場に立ち尽くしたまま、えーと、あのな、と口籠っている。

 レオンはじっと男の顔を見詰めていたが、ふと、視界の端でちらちらと動く金色を見付けて、視線を落とす。
すると、男の足の影から覗いては隠れ、隠れては覗きを繰り返している小さな子供がいた。


「……?」
「……!」


 レオンの青灰色と、子供の青がぶつかる。
途端、子供はぴゅっと驚いたように小さな体を跳ねさせて、隠れるように男の足にしがみ付いた。
それを感じ取ったらしい男が、溜息を吐いて子供を見下ろす。


「何やってんだ、お前。ちょっと大人しくしてろ」
「……」


 男の言葉に、子供は拗ねたように唇を尖らせたが、足にしがみついたままでむぅと俯いた。
レオンは、男のズボンを握る小さな手が、縋るように確かめるように布端を握っている事に気付く。

 男は大きな手で子供の金髪をくしゃくしゃと掻き撫ぜた後、改めてレオンへと向き直り、


「あのよ。この辺に、ちっこいガキを集めて育ててる人がいるって聞いて来たんだが、知らねえか?」


 ───それはひょっとして、クレイマー夫妻の孤児院の事だろうか。
バラムの島でそうした施設を指すのであれば、レオンはそれ以外に思い当たる節がない。

 レオンは未だ泣き止む様子のないスコールを抱え直し、あやしてやりながら確かめる。


「シド先生の孤児院の事ですか?」
「あー…そういう名前だったかな。いや、噂っつーか、人伝に聞いて来ただけだったから、詳しい事は知らねえんだ。お前、その孤児院のこと、何か知ってるのか?」


 聞くも何も、レオンはその施設で育っており、(表向きの形ではあるが)独り立ちした今も彼らの世話になっている。
ガーデンではシドもイデアも度々声をかけて来てくれるし、イデアは月に何度も兄弟の家に遊びに来てくれていた。

 レオンが頷いて見せると、男の表情が俄かに明るいものになる。
しかし、続いたレオンの言葉に、彼の表情は再び沈んでしまった。


「孤児院でしたら、少し前に閉鎖しましたよ」
「え……そうなのか?」
「はい。シド先生達は今もバラムにいますけど、ガーデンって言う学校施設を始めたので、孤児院は閉める事にしたんです」
「……」


 沈んだ表情で口を噤んだ男に、レオンは眉尻を下げた。
抱き上げた弟は、まだ泣き止んでいない。
ぐす、ぐす、とスコールの泣く声だけが聞こえる中、男の影に隠れていた子供がそうっと顔を出す。
海を思わせる青色の瞳が、レオンと男をきょろきょろと見上げ、状況が判っていないのだろう、きょとんと首を傾げている。

 そのまましんと立ち尽くす中で、時間を動かしたのは、家の玄関を開ける音だった。


「あれ?レオン?スコール?」


 鈴の音を思わせる妹の声に、レオンははっと我に返った。


「エル!」
「レオン?どうしたの、そんな所で」


 エルオーネはキッチンから持ち出して来た茶器と菓子を乗せたトレイをテーブルに置いて、レオンの下へと急ぐ。

 姉が来た事に気付いたスコールが、泣きながらエルオーネに手を伸ばした。
レオンがスコールを地面に降ろしてやると、スコールはエルオーネに抱き着いて、甘えるようにエルオーネの胸に頭を押し付ける。
エルオーネはスコールの頭を撫でながら、どうしたの、とレオンに訊ねようとして、レオンの前に立ち尽くしている男に気付いた。


「えっと……お客さん?」
「いや……」


 少なくとも、自分達に対する客ではないだろうと、レオンは緩く首を横に振った。


「シド先生に───と言うか、孤児院に用があるみたいなんだが…」


 レオンの言葉に、エルオーネは困った表情で男に頭を下げる。


「あの、ごめんなさい。孤児院、今はもうやってないんです」
「ああ。其処の兄ちゃんから聞いたよ。なんか、今は学校やってるとかなんとか…」
「はい。だから、えっと…シド先生にご用があるのなら、バラムガーデンって言う所に行けば、多分、話が出来ると思うんですけど」


 今日は日曜日だが、バラムガーデンの門は日中は常時開放されている。
だから寮生でも街住まいでも、生徒の出入りは勿論、学校関係者も特に制限なく行き来する事が出来る。
図書室や食堂、グラウンドも解放されており、平日と変わりなく利用する事が可能だ。
創立者であり学園長を務めているシド・クレイマーとその妻イデア・クレイマーも、何か用事でもない限り、バラムガーデンの学園長室で過ごしている筈だ。


「バラムガーデン?其処に行きゃ、そのシドって人に逢えるのか?俺は完全に部外者なんだが……」
「えっと……た、多分」
「今週は特に予定もないって言ってましたから、シド先生は学園長室にいる筈です。守衛の人に話をして、通して貰えば大丈夫だと思いますよ」


 しどろもどろになったエルオーネに代わり、レオンが答えると、男はほっとしたように胸を撫で下ろす。


「そうか。ありがとよ。───で、ついでにガーデンってのに行くにはどうしたら良いか教えて貰えねえか?」
「バス停に行けば、街とガーデンを繋ぐ便があるので、それに乗れば直通で行けます」
「そうか、そうか。助かった。ありがとな」


 男は厳めしい顔をくしゃくしゃにして笑うと、じっと口を噤んで大人しくしていた子供を抱き上げた。
「わ、」と突然の事に驚いた子供が目を丸くする。
男はそれに構わず、子供を自分の肩の上へと乗せて、レオン達に背を向けた。

 遠ざかって行く大きな背中を、レオンとエルオーネは呆然と見送る。
エルオーネに抱き着いていたスコールは、ようやく大きな熊がいなくなった事に安堵して、涙に濡れた顔をそっと起こした。
すん、と小さく鼻を啜る音を聞いて、エルオーネがスコールを見下ろす。


「お鼻、真っ赤になっちゃってるね」
「…んぅ……」
「スコール、顔を洗っておいで。おやつを食べるのはそれからにしよう」
「おやつは逃げないからね。ほら、行こ?」


 兄に促され、姉に手を引かれて、スコールはとてとてと玄関へ向かう。
スコールの事はエルオーネに任せる事にして、レオンはトレイに乗せられたままの茶器をテーブルへと移し、紅茶をティーカップへと注ぐ。
スコールの紅茶にミルクと砂糖二杯、エルオーネの紅茶には砂糖を一杯入れて、軽く混ぜる。

 空から降り注ぐ陽光は、相変わらずぽかぽかと暖かい。
レオンはその暖かさに目を細めつつ、そう言えばあの人はバス停への道を知っているのだろうか、と熊のような男と小さな子供の事を思い出していた。