握り締める、小さな手


 図書室で借りた本を返し忘れていた事に気付いたレオンは、夕飯の買い出し前のついでにと、バラムガーデンへ足を運んだ。

 日曜日のバラムガーデンは、平日よりも生徒の気配が半分程になっている所為か、何処となく静かに感じられる。
それでも、併せて五百人以上の生徒と教師が生活している訳だから、人の気配は其処彼処にある。
生徒達の憩いの場である食堂は勿論、グラウンドや体育館、訓練施設、図書室にも。
廊下を走る幼年クラスの子供を、中等部生か高等部生か、年上の生徒が注意しようと追い駆けている。
静かなようで賑やか、そして和やかな空気に守られているのが、バラムガーデンであった。

 レオンは図書室に本を返した後は、校門へ向かわず、エレベーターへと向かった。
バラムガーデンの生徒達が平日の大半を過ごす教室は、日曜日の今日は閉められているので、教室へと向かうエレベーターを使う者はいない。
教師が過ごす教職員室へ好んで出入りする生徒も少ないし、学園長室は基本的に呼び出された生徒が行く程度なので、必然的に日曜日のエレベーターは空いている。

 レオンは、学園長室のフロアでエレベーターを降りた。
ガーデンの校章を抱いた扉にノックすると、少しの間を空けた後、「はい」と柔らかな女性の声が聞こえて来た。


「レオン・レオンハートです。入っても良いですか」
「ああ───ちょっと待って頂戴ね。ごめんなさい、宜しいですか」


 誰かに確認する声の後、キィ、とドアが内側から開けられた。
ゆったりと流れる長い黒髪に、まるで魔女を思わせるような黒を基調にした服を着た、穏やかな面差しの女性がレオンを出迎える。
孤児院が存在していた頃、レオンとその妹弟を慈しみ育てた、イデア・クレイマーであった。

 イデアは眩しそうに目を細め、いらっしゃい、とレオンに言った。


「突然来るなんて珍しいわね。何かあったの?」
「いや、そう言う訳じゃないんだけど。ちょっと気になる事があって」


 レオンの言葉に、イデアはことりと首を傾げる。
そんな彼女の影から、レオンは学園長室の中を覗く。

 いつもレオン達や孤児院で暮らしていた子供達が座っている来客用の椅子に、今日は見慣れない人物が座っていた。
その人物と向かい合って、シド・クレイマーが座っている。
レオンの位置からは、人物の顔を見る事は叶わなかったが、ぼさぼさと跳ねた黒髪と、太い首や盛り上がった肩を見て、それが誰であるのかを察した。
ああ、ちゃんと来れたのか、と確認できた事に満足して、レオンは「もう良いよ」とイデアに言った。


「レオン?」
「ごめん。本当に少し確かめたかっただけで、別に用はないんだ」
「そうなの?ああ、でも、待って。スコールとエルにお土産を持って行って」


 焼いたばかりのクッキーがあるの、と言って、イデアは踵を返す。
イデアの手作りクッキーは、スコールとエルオーネの大好物だ。
前に貰った時のクッキーは、今日のおやつの時間に食べてしまったので、持って帰ればきっと妹弟は喜んでくれるだろう。
勿論、レオンも彼女の作ってくれたクッキーは好きなので、貰える事は素直に嬉しかった。

 イデアはいつも、クッキーを綺麗にラッピングして渡してくれる。
リボンはレオンが赤色、エルオーネがピンク、スコールが水色と決まっていて、クッキーは等分されて入っていた。
形や焼き色も綺麗なものを選別してくれているようなので、ラッピングが終わるまで少し時間がかかるだろう。
いつもなら、それまで学園長室の中でのんびりと過ごすのだが、今日は来客がいる。
表で静かに待っていよう、とレオンがシドに小さく会釈してから扉を閉めようとした時、


「ジェクトのバカ!」
「いてっ!ンだよ、急に」
「バカバカバカ!だいっきらいだ!」


 突然響いた子供の声に、レオンは動きを止めた。
振り返ってみると、金髪の子供が男の肩や胸をぽかぽかと叩いている。

 小さな手が男の髪を掴み、ぐいぐいと引っ張っている。
痛ぇ痛ぇと抗議する大人の声は、子供にはまるで届いていない。
子供は眦に大粒の涙を浮かべていて、バカ、と繰り返しながら大人の髪や顔を引っ張っている。


「ああ、落ち付いて。大丈夫ですか、ジェクトさん」
「あ、あー、ヘーキヘーキ。こんなチビのやる事なんざ痛くも痒くも…いででで!禿げんだろ、止めろって!」
「ううぅ〜っ!」


 慌ててシドが子供を宥めようとするが、子供は男の言葉に益々怒ったように力を込めて髪を引っ張る。
学園長室の奥の給湯室から戻って来たイデアが、慌てて子供の手を取って、男の顔から離させた。


「駄目よ、ティーダ君。お父さん、痛いって言ってるでしょう」
「ひっく…えっ、うえっ…!わああぁぁあん!」


 イデアに窘められた子供は、目尻に溜めていた涙をぼろぼろと溢れさせ、大きな声で泣き始めた。
決して狭くはない学園長室の中が、小さな子供の大きな泣き声で占領される。

 イデアは子供を抱き上げようとしたが、子供はいやいやと暴れてイデアの手から逃げてしまう。
小さな体が精一杯の力で男の体に抱き着いて、男が眉尻を下げてその体を抱き上げると、またいやいやと暴れ出す。
かと言って男が子供を自分から離そうとすると、子供は渾身の力で男の首にしがみ付いた。


「おい、ちょっと落ち付け。泣くな、この泣き虫」
「泣き虫じゃないいぃぃ!」
「思いっきり泣いてんだろうが。顔拭け、鼻水だらけじゃねえか」
「ふえっ、えっ、わあああん!ジェクトのバカ、ジェクトのバカあああ!」
「バカで良いから、拭けっての。おら、じっとしてろ」
「痛い!ばか!ジェクトなんかきらいだ!」


 イデアが持って来たティッシュで子供の顔を拭く男だが、その手付きは雑を通り越して乱暴だ。
子供は遮二無二暴れて男の胸や顎を蹴るが、男は顔を顰めるだけで、体の方は微動だにしていない。
丸太のように太い腕や首を見るに、盛り上がったその筋肉は決して伊達ではないのだろう。
────それは良いのだが。

 そんな遣り方じゃ嫌がるばかりだ、とレオンは眉尻を下げて思う。
小さな子供は痛みや不快なものに敏感だから、少しでも気に入らないと感じた事は、嫌だと全力で主張する。

 イデアとシドが、一端落ち着かせようと思い、子供を男から離そうと試みるが、子供はやはりそれを嫌がる。
じたばたと全力で暴れて抵抗されては、女性のイデアと老齢に差し掛かりつつあるシドでは荷が重いようだ。


「ばかばかばかばか!」
「判った、判った。バカでいいから、もう少し大人しくしてろ」
「んぐっ、うえっふえっ!ぶ、うー!いたいって言ってる!」


 痛いと子供が何度訴えても、顔を拭く男の手付きは乱暴なままだ。
それ以外のやり方を知らないのか、そもそも心得がないのかはレオンには判らないが、もう見ていられない、と思った。


「───すみません、失礼します」
「あ?お前、確か……」
「よっ…!」
「ふえっ、」


 レオンはソファの後ろから腕を伸ばして、子供の両脇に手を入れた。
突然の乱入者に男と子供が目を白黒とさせている間に、レオンは子供を男の膝上から抱き上げる。
いつも抱き上げている重さとよく似ている重みに、スコールと同じ年くらいかな、とレオンは思う。

 子供はしばしぽかんとした表情で固まっていたが、見知らぬ顔が近くにある事に気付くと、じわあ、と大粒の涙を浮かべる。


「やだぁあああ!やだ、やあ、とうさああああん!」


 じたばたと暴れてレオンの腕から逃げようとする子供だが、レオンは離さなかった。
ソファの前に回って腰を下ろすと、膝上に子供を乗せて、テーブルの上のティッシュを取る。
逃げようとする子供の体をやんわりと腕の中に閉じ込めると、レオンはティッシュを子供の顔に軽く押し当てるようにして、涙や鼻水でくしゃくしゃになった子供の顔を拭いて行く。


「ふえっ、えっ、えっ。えぐっ、ふぁ、ああ、わああああん…!」
「よしよし。怖くない、怖くない。ほら、鼻ちーん」
「んぐっ、んっ、ぶーっ!」
「豪快だな」


 促された事に素直に応じる子供に、レオンは眉尻を下げて笑う。

 鼻水ですっかり萎れたティッシュをゴミ箱に捨て、新しいティッシュでもう一度子供の顔を拭いてやる。
何度か繰り返していると、子供も少しずつ落ち着き、鼻頭が真っ赤になる頃には、小さくしゃっくりを繰り返している程度になった。
すん、と何度か鼻を啜る子供の頭をレオンが撫でていると、


「その、悪い。手間かけさせちまって」


 隣から聞こえた声にレオンが顔を上げると、厳めしい顔付をすっかり萎れさせている男がいた。


「構いません。小さい子供の相手は慣れているし」
「…ちっさくない…」
「そうか。そうだな」


 レオンの言葉に拗ねたように呟かられた子供の台詞を、レオンは否定しなかった。
ぽんぽんと金色の頭を撫でながら頷いてやると、子供は恐る恐る顔を上げ、じぃ、とレオンの顔を見詰める。
その眼にレオンは、いつも妹弟にしているように、柔らかい笑みを浮かべて応えてやった。

 柔らかな笑みを浮かべるレオンと、それを見詰める子供。
そんな二人を、周囲の大人達はじっと見詰め、子供がもう泣き出す様子がない事を悟り、ほっと安堵の息を吐いた。
きし、とソファが小さく音を鳴らし、腰を下ろしたイデアを受け止める。


「ごめんなさいね。助けてくれてありがとう、レオン」
「大したことじゃないよ。それに、これ位になると、力もついて来てるから、ママ先生じゃ大変だっただろうし。シド先生は腰痛持ちだから、無理は出来ないし」
「いやあ……すみません。やっぱり、いつまでも若いつもりではいられませんね」


 情けない、と眉尻を下げるシドとイデアに、レオンは笑みを浮かべて首を横に振った。

 子供はしばらくの間、じっとレオンの顔を見上げた後、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
青い瞳が辿り着いたのは、ばつの悪い表情を浮かべた男。
レオンも子供の視線を追って男へと視線を移し、子供の金髪を撫でながら言った。


「もうちょっと優しく言ってあげた方が良いと思いますよ」


 差し出がましい台詞かとは思ったが、レオンは言わずにはいられなかった。
男もレオンが言わんとしている事の意味は汲み取れたようで、がしがしと頭を掻いて、そうだな、と小さく呟き、


「それが出来りゃあ、もうちょいと苦労しなくて済むんだろうけどな…」


 泣かせたのは決して本意ではないのだと、後悔を滲ませる赤い瞳が言外に告げている。
子供はそんな男をじっと見詰めていたが、赤の目が自分を見ない事に焦れて、ついと視線を外してレオンの胸に顔を埋めた。
そうして子供の目が離れて、ようやく、男は子供へと視線を移す。

 不思議だな、とレオンは思う。
子供が「父さん」と言ったので、この大きな男は子供の父親なのだろうが、息子と思しき子供に対して、どうにも態度がぎこちない。
まるで接し方が判っていないかのように、男は子供と目線を合わせようとしなかった。
気にかけているのは子供の背中を見詰める眼差しから感じられるのに、子供がくるりと振り返ると、その色は途端に引っ込んでしまう。
さっき子供が泣いていた時も、男は明確に子供と目を合わせる事はなく、抱き込んで子供の顔を隠してしまおうとしているように見えた。

 言葉の乱暴さも直した方が良さそうだが、それ以上に、目を合わせてやれば良いのに、とレオンは思う。
目を合わせると、子供は安心すると、レオンは知っている。
エルオーネやスコールがそうだったからだ。
信頼している人や、守ってくれる人が自分を見てくれていると判るだけで、子供は安心して笑うものだ。

 レオンは膝の上でじっと静かにしている子供の頭を撫でた。
すると子供は、すり、とレオンの胸に頬を寄せる。
それを見たイデアが、子供の背を宥めるように撫でてやりながら言った。


「レオン、少し時間はあるかしら」
「はい。一時間くらいなら」
「悪いけど、ティーダ君の面倒を見ていてくれる?ジェクトさんと大事なお話をしなければいけないの」
「大事な話…?」


 鸚鵡返しをしたレオンに、イデアは深く頷いた。
金色の瞳が、お願い、と言っているのを見て、レオンが断れる筈もない。
幸い、夕飯の準備を始めるにはまだ時間があるし、買い物も急がなければならない訳でもない。


「判りました。じゃあ───外に出ていた方が良いですか?」


 大人の“大事な話”と言うものは、大抵、大人だけで話し合われる事が多い。
レオンが孤児院にいた頃もそうだったし、子供は一番最後の部分で話を聞かされると言う事が殆どだった。


「そうですね。折角ですから、ティーダ君にガーデンを案内してあげて下さい。ジェクトさんとの話が終わったら、校内放送で呼びますね」
「判りました」


 シドの言葉に頷いて、レオンは子供を抱いてソファから立ち上がろうとした。
ひょい、と持ち上げられた子供は、突然の浮遊感にきょとんとして目を丸くする。
それから、自分が何処かに連れて行かれようとしている事が判ったのか、またじたばたと暴れ始めた。


「お、とっと…!」
「やあ、やだ、やだ!とーさん、とーさん!」


 此処にいる、此処にいたい、と全身で訴える子供に、レオンはどうしたものかと眉尻を下げつつ、取り敢えず子供を落とさないように抱え直す。
それが逃げないように捕まえられていると感じたか、子供はわんわんと大きな声で泣き出した。


「やだやだやだぁ!父さん、置いてっちゃやだぁ!」
「大丈夫だ、ちょっと話をするだけだから。な?外で待ってるだけなんだから」
「うぅうーっ…!」


 まるで今生の別れを嫌がるような子供を、レオンは出来るだけ優しい声で宥める。

 きっと、見知らぬ土地に連れて来られた事で、一人になるのが不安なのだろう。
レオンは、自分が初めて生まれ故郷の村から離れ、バラムの島に訪れた時の事を思い出していた。
あの時、レオンの傍には母と父がいてくれたけれど、父は直ぐに島を離れなければいけなかった。
父が何の為に、家族を置いて島を離れようとしていたのか、レオンも幼いなりに理解していたが、それでもやはり、父には傍にいて欲しいと思った。
致し方のない事情とは言え、右も左も判らない見知らぬ土地で一人になる事は、小さな子供にとって堪らなく怖い事なのだ。

 この子供も、その頃のレオンと同じなのだろう。
ならばこそ、子供は父と呼ぶ男と一緒にいるべきだと思うが、大人同士の大事な話があると言われると、子供はどうしても輪の外で待つしかない。


「大丈夫、大丈夫。後でまたちゃんと一緒にいられるから」
「……ほんと?」


 大きな青い瞳に、一杯の涙を浮かべて問う子供に、レオンは頷いた。


「だからちょっとだけ、外で待っていよう。そうだ、お腹空いてないか?食堂にケーキがあるぞ」
「…けーき……」
「行くか?」


 こくん、と子供は頷いた。
よしよし、とレオンは子供の頭を撫でて、もう一度抱き直し、学園長室の扉へ向かう。
イデアが開けてくれた扉を潜り、小さく会釈をしてから、レオンは部屋を出て行った。





 バラムガーデンの食堂の、窓際に並ぶカウンター式の席は、見晴らしが良い。
寮と中庭の間はいつも綺麗に整備されており、季節ごとに様々な花が咲き、ガーデンの外からやって来た野生の小動物の姿を見る事も出来る。
レオンはそのカウンター席に子供を座らせ、自分もその隣に座って、子供の話を聞いていた。

 子供の名前はティーダ。
昨日、機械都市ザナルカンドから、夜の連絡船に乗ってバラムの島にやって来た。
一緒にいた大人は父親で、ブリッツボールと言うスポーツのプロ選手。


「ブリッツボールか……」
「知らない?」


 うーん、と考え込むように唸るレオンに、ティーダは尋ねた。

 ブリッツボールと言うスポーツの名を、レオンは全く知らない訳ではなかったが、聞いた事がある、程度しか覚えていなかった。
テレビで何度か映像が流れていたような気がするが、そんな時、レオンは大抵家事かアルバイトに精を出していて、ゆっくりテレビを見ていない。
後でテレビを見ていたスコールやエルオーネから、こんな風になって凄かったよ、と言う話を聞く位のものだ。

 ブリッツボールは、別名を『水中格闘技』と呼ばれる程に激しい運動量を誇るスポーツだ。特徴としては、丸い球形のプールを使用し、その水の中でボールを奪い合うと言うもの。
プロ選手は、公式試合で前半後半併せて約20分と言う長時間を水の中で過ごすのだが、ただ水の中で過ごすだけではない。
前述の通り『水中格闘技』と呼ばれるに相応しく、ボールを奪う為に相手チームの選手にタックルしたり、ボールを追って素早く泳ぎ回らなければならない為、並大抵の身体能力では通用しない。

 ティーダの父、ジェクトは、そのブリッツボールのプロ選手であり、現在めきめきと頭角を現している最中だと言う。
豪快なプレースタイルや、他者を圧倒する強さ、若くしてチームを牽引するカリスマ性で、“キング・オブ・ブリッツ”と呼ぶファンも多いらしい。
───しかし、ブリッツボールと言うスポーツは、世界的に見るとまだまだマイナー路線である。
ブリッツボール自体がメジャーな扱いではないバラムに住むレオンが、“キング・オブ・ブリッツ”を知らなくても無理はなかった。


「ごめんな、ブリッツボールって言う名前は聞いた事があるんだけど、見た事はないな」
「えー」


 ティーダは不満そうに拗ねた顔をする。
しかし、ぱくりとケーキを口に入れると、ころりと笑顔に変わる。
それを見て、大分機嫌が直ったみたいだな、とレオンはこっそりと安堵していた。

 ティーダの口の端についた生クリームを、ハンカチでそっと拭き取る。
んきゅ、と小動物のような声が漏れて、レオンはくすくすと笑う。


「ティーダは、何歳になったんだ?」
「7歳」
「7歳か。俺の弟と同じだな」
「弟?レオン、弟いるの?兄ちゃんなの?」
「ああ」
「いいなあ。オレも兄ちゃん欲しい」


 ケーキにフォークを刺しながら言ったティーダに、難しいな、とレオンは苦笑する。


「兄ちゃんは難しそうだけど。弟なら、お父さんとお母さんに頼めば、出来るかも知れないぞ」


 レオンの言葉に、ぴたり、とティーダが動きを止める。
中途半端に持ち上げたフォークの端から、ぽたり、とケーキが落ちて皿の上で潰れた。
ティーダはじっとそれを見詰め、フォークを持った手を下ろす。

 ケーキのお陰で機嫌が直っていたティーダの瞳に、じわじわと雫が浮かんで行く。
レオンは目を丸くして、宥めるようにティーダの頭を撫でてやる。


「ティーダ?」


 何か失敗しただろうか、とレオンが自分の言動を振り返っていると、


「……お母さん……」


 消え入りそうな声で紡がれた言葉と、深い深い悲しみを孕んだ青の瞳。
それを見て、レオンは自分の何が原因で、ティーダが涙を浮かべているのか気付く。


「……おかあさん…しんじゃった。いなくなっちゃった」
「…うん。ごめんな。辛かったな」
「……おかあさ……」


 ぐす、ぐす、と泣き出したティーダを、レオンは抱き寄せた。
ティーダがぎゅう、とレオンに縋り付く。

 ティーダは、数日前からの出来事を、ぽつぽつと話してくれた。
いつものように過ごしていたら、突然母が倒れ、病院に運ばれたまま目を覚まさなくなった。
母はずっと前から病気になっていて、けれど父に迷惑をかけたくないからと黙っていた。
ティーダは何度も父に母の病気を伝えようとしたけれど、その度、母は「内緒」と言って笑った。
母を悲しませたくなくて、裏切りたくなくて、ティーダは最後の最後まで病気の事を伝える事が出来なかった。

 ティーダにとって、大好きな母の存在は、小さな世界の全てだったのだ。
いつも家にいない父の代わりに、自分を一番に愛してくれる母が帰らぬ人となった悲しみは、ほんの数日で消えるものではない。

 おかあさん、と繰り返し母を呼び求めながら、ティーダは泣いた。
話をしている内に、忘れかけていた寂しさや悲しさが沸き上がって来たのだろう。
レオンは、ひっく、ひっく、としゃっくりを繰り返しながら泣くティーダを抱き寄せて、ぽんぽんと柔らかく背中を叩いてやる。


「よしよし。悲しかったな。俺も判るよ」
「んっく……ふ……?」


 ぱちり、とティーダは瞬きして、不思議そうな表情でレオンを見上げる。
判るの、と言葉なく訊ねるティーダに、レオンは小さく頷いた。


「俺も、な。母さんがいないんだ。父さんもいない。いなくなってしまった時は、凄く悲しかった」
「ふえ……」
「だから、判るよ。ティーダの気持ち」


 柔らかく、寂しげに笑う青灰色を見上げたティーダは、胸の奥がぎゅうと握り潰されるような気がした。
自分の気持ちを理解してくれる人がいる、その人は自分と同じ寂しくて悲しい気持ちを知っている。
シンパシーが呼んだ感情の波は、あっと言う間に小さな子供の心の中を一杯に埋め尽くして、青の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。

 ティーダは、レオンの胸に顔を埋めて泣いた。
ひっく、ひっく、と声を殺して泣くティーダを、通りかかった生徒が心配するように覗き込んできた。
レオンは大丈夫、と口だけを動かして伝えると、ティーダを抱き上げて席を立った。

 あと一口分だけが残ったケーキの片付けを食堂で働く職員にお願いし、レオンは食堂を後にする。
向かったのはグラウンドで、レオンは校舎とグラウンドを繋ぐ間の通路ホールのベンチに腰を下ろした。
平日は体育の授業に向かう生徒が通る場所だが、日曜日の今日は人の気配は疎らだった。

 ぽかぽかと温かな日差しが降り注ぐ場所で、レオンはティーダをあやす。
しばらくすると、泣き疲れたのだろうか、ティーダはうとうととレオンの腕の中で舟を漕ぎ始めた。


「眠いか?」
「……ん…」
「寝てもいいぞ。お父さんに呼ばれたら、俺が連れて行ってやるから。色んな事があって疲れてるんだ。ゆっくり休んで良い」
「…うん……」


 ティーダの反応は鈍く、瞼はとろとろと落ちて行こうとしている。
この分なら、レオンが促さなくても、直に眠っていたかも知れない。

 すぅ、すぅ、と寝息を立てるティーダを抱え直して、レオンはグラウンドに建てられた時計を見る。
時刻は4時を周っていたが、春が近付いて一日の陽が長くなったので、もう少し此処でゆっくりしていても大丈夫だろう。
今の内に夕飯の献立でも考えるかな、とレオンが思っていると、ふっと視界に影が落ちた。
顔を上げてみると、黒衣の女性───イデアが立っている。


「ママ先生?」


 学園長室でシドとジェクトと一緒にいる筈の彼女が、此処にいる。
ひょっとして、とっくに話は終わっていて、呼び出しの放送をしたのに気付かなかったレオンとティーダを迎えに来たのだろうか。

 レオンが考えていると、イデアはそっと膝を追って、レオンに抱かれたティーダを見詰めた。


「…疲れているのね」
「……そうみたいです。泣き疲れもあると思うけど」
「そうね。無理もないわ」


 イデアの細く白い手が、ティーダの丸い頬を撫でる。
涙の痕を残すそれを見え、イデアはスカートのポケットからハンカチを取出し、ティーダを起こさないようにそっと優しい手付きで押し当てる。

 レオンは、ティーダを見詰めるイデアの瞳が、酷く悲しそうな色を宿している事に気付いた。


「ママ先生?」


 彼女がそんな表情を浮かべる時は、決まって彼女が愛する子供達に何か悲しい出来事があった時だった。
孤児院にいた子供達が怪我をした時や、病気になった時、引き取られた子供が里親の下で上手く馴染めなかったと言う話を聞いた時。
イデアは母親代わりとして、否、子供達の母として、自分の事のように悲しむのだ。

 レオンはバラムの街に来た時、正真正銘、血の繋がった母がいた。
けれど、孤児院で自分や妹弟の面倒を見てくれたイデアも、レオンにとって確かに母であった。
優しく、時に厳しく、子供達を導いてくれる母の悲しい顔は、レオンも見たくない。


「ママ先生、どうしたんだ?」


 レオンの声に、イデアははっと我に返ってレオンを見上げた。


「…ああ……ごめんなさいね」
「何かあったのか?」
「ううん。大丈夫……」


 そう言ったイデアの瞳は、ティーダへと向けられている。
レオンはすぅすぅと眠るティーダを見下ろし、


「ティーダの事、何かあったのか?」
「………」


 眠るティーダの代わりに、レオンは尋ねた。
イデアは淡色の唇を何度か開閉させた後、きゅ、と一度唇を噤む。
それでも逸らされない少年の眼差しに、やがてゆっくりと口を開き、


「ティーダ君はね。先日、お母さんが亡くなられたの」
「…うん。ティーダから聞いた」
「そう。その後、お父さんのジェクトさんに連れられて、ザナルカンドからバラムへ来たのだけれど───」


 妻の、母の死と言う悲しみが癒えない内に、ジェクトはティーダと共に夜の連絡船に乗り、バラムの街へ来た。
その間、ジェクトは息子に何処に行くと教える事はせず、息子の問い掛けにもきちんと答える事はしていなかった。
ただ、「バラムに孤児院を開いている夫婦がいる」と言う人伝の話だけを頼りに、バラムに来たのだと言う。


「ジェクトさんは、ティーダ君を孤児院で───ガーデンで預かっては貰えないかって言っているの」
「預かってって……ザナルカンドで一緒に暮らせば良いじゃないか」


 レオンの反応に、そうなのだけれど、とイデアは俯く。

 レオンの言葉は、至極当然の反応と言える。
父一人子一人の生活が決して楽なものとは思わない、今まで息子の世話を一手に引き受けてくれていた母がいなくなったとなれば、尚更大変になるだろう。
しかし、だからと言って、安易に他人の手に大事な一人息子を預けようと言う考えは、レオンには理解出来なかった。
大好きな母を失ったばかりで、まだその現実と悲しみにすら上手く向き合う事が出来ない子供を、見知らぬ土地で投げ出そうと言うのだろうか。


「ひょっとして、さっきティーダが泣いて嫌がっていたのは…」
「ええ。ジェクトさんが、ティーダ君を置いて行くって言うのを聞いて、それで……」
「あの人、ティーダと一緒にいたくないのか?ティーダは凄く不安がってるのに…!」


 俄かに怒りにも似た感情を滲ませるレオンに、イデアはゆるゆると首を横に振る。
そうではない、と。


「ジェクトさんは、ティーダ君を大切に思っているわ。でも、だからこそ、ザナルカンドに居させる訳には行かないんですって」


 ────ザナルカンドに置いて、ジェクトの存在は単なる一個人の範囲で収められるものではなかった。
ブリッツボールは世界的に見ればマイナースポーツであるが、ザナルカンドでは都市の地域毎にクラブが作られ、チームが編成される程に人気のある競技だ。
ジェクトは多数存在するチームの中でも、最も強豪と呼ばれるザナルカンド・エイブスと言うチームに所属している。
その上、“キング・オブ・ブリッツ”の異名を冠する程の実力は、そのままジェクトの人気の高さにも繋がっており、昨今、他国でもブリッツボールと言うスポーツが取り上げられるようになったのは、ジェクトのスター性に魅せられた人々に因る声に他ならない。

 そんなジェクトであるから、マスメディアに追い回されるのも日常的であった。
しかしジェクトは、数日前の妻の死まで、決して家族をマスメディアの前に晒す事なく、自身が結婚して子供を設けている事さえも隠していた。

 妻の死を切っ掛けに、ジェクトが隠していた家族の事は、遂に世間に公表される事となる。
マスコミはこぞってこの情報に飛び付き、ジェクトだけではなく、まだ幼い息子にもカメラを向けた。
それを見た瞬間、ジェクトはザナルカンドを出奔し、何処か遠い地で息子が平穏に、ごく普通に生活できる場所を求め、港から船に飛び乗ったのだと言う。

 ……イデアの話を聞いて尚、レオンはジェクトのしようとしている事が納得できなかった。
息子をマスコミから守る為、バラムに連れて来た───それは良い。
其処からどうして、ティーダを孤児院に預けると言う話になるのだろう。

 唇を噛むレオンに、イデアは言った。


「ジェクトさんは、ザナルカンドに帰ると言っているわ。ティーダ君の傍にいてあげたいけれど、ブリッツボールは自分が唯一誇れるものだから、棄てられない。ザナルカンドのチームメンバーとして、バラムから通うのは難しいから、ティーダ君をバラムに残して、自分はザナルカンドに行くって」
「そんなの、勝手すぎる!」


 思わず声を荒げたレオンの腕の中で、もぞ、とティーダが身動ぎした。
むずがるように小さく声を零すティーダに、レオンは我に返って唇を噛み、声を潜める。


「ティーダは、父親と一緒にいたがってる。母親が死んだばかりなんだから、尚更だ。いきなり知らない場所に一人で放り投げられたら、きっと不安になる」
「判っているわ、レオン。私も、シドもそう思っている。だから今、シドがジェクトさんを説得しているわ。でも……」


 ジェクトの決意は固いのだと、イデアは言った。
ザナルカンドからバラムへ、そしてガーデンへ来るまでの道すがら、彼はずっと考え続けていた。
息子を大切に思うのならば、何よりも今は息子を優先し、傍にいてやるべきだろう。
しかし、その代わり、ジェクトは自分自身が築き上げてきたものや、抱いて来た誇りを全て棄てなければならない。
ジェクトにとっては、ブリッツボールがそれだった。

 ザナルカンドで一緒に過ごしてやれば良いのに、とレオンは思う。
ブリッツボールと言う競技をよく知らないレオンにとって、どれだけの練習が必要なのか、その間息子がどれだけ一人で過ごさなければならないのかは判らない。
だが、どれだけ長い時間を一人で過ごす事になろうとも、自分を守ってくれる人が傍にいてくれると感じる事が出来れば、子供はきっと安心するのだ。
────いつかのレオンがそうであったように。

 レオンの腕の中で、むにゃむにゃとティーダが寝言を言っている。
よくよく耳を欹てれば、「おとうさん」と言っているのが聞こえて、レオンは唇を噛んだ。





 イデアが淹れてくれた紅茶は、すっかり冷め切っていた。
それでも一度も口を付けないまま返すのは失礼だろうと、ジェクトは一息でそれを飲み干す。
普段、炭酸飲料やスポーツ飲料ばかりを飲んでいる所為か、馴染みのない味に知らず眉根が寄ってしまったが、幸い、シドにそれを見られる事はなかった。

 シドは学園長室の半分を覆う窓ガラスの足下に立って、じっと外を見詰めている。
其処から何が見えるのか、バラムガーデンの構造を知らないジェクトには判らない。
バラムの島を囲む海か、バスの中で見た山の尾根か、それとももっと近く───このガーデンで過ごす、彼らの“子供達”か。

 学園長室が沈黙の蚊帳に支配されて、10分は経っただろうか。
息苦しい気もしたが、ジェクトはこの沈黙は自分の所為なのだと理解していた。
だから、ふう、と聞こえた溜息も、ジェクトは甘んじて受け入れた。


「……どうしても、考え直しては頂けませんか」


 窓の向こうを見詰めたまま、シドは言った。
深く感情を押し殺したような声に、ジェクトは答えを寄越さない。
沈黙こそが答えであると察したシドは、もう一度溜息を吐いて、ジェクトへと向き直る。


「ジェクトさん。貴方の決意やお考えを、否定するつもりはありません。きっととても悩んだ末に選んだ答えなのでしょう。ですが、それは貴方の気持ちであって、息子であるティーダ君の気持ちではありません」
「……ああ。判ってる」
「それでも、貴方はティーダ君を此処へ置いて行くおつもりなのですか。バラムで、或いはザナルカンドで一緒に過ごす事は出来ないのでしょうか。ティーダ君に今必要なのは、ただ静かに過ごせる場所ではなく、貴方から与えられる温もりと愛情だと、私は思います」


 振り返ったシドを、ジェクトは見る事が出来ない。
自分よりも一回りか二回りか、齢を重ねた男の言葉は、男としても父親としてもまだ年若いジェクトには、耳に痛くて仕方がない。
孤児院とガーデンと言う教育機関を通し、様々な子供と触れ合って来た彼は、きっと“父”としても素晴らしい人なのではないだろうか。
……少なくとも、顔を合わせる度に息子を泣かせてばかりの自分に比べれば、遥かに。

 その人物の言葉を聞いて尚、ジェクトの決意は揺らがない。
ティーダをバラムの地に残し、自分はザナルカンドへと帰る。
ザナルカンドからバラムへ向かう船の中、一昼夜を悩み続けたジェクトが出した答えが、それだった。

 ジェクトは中身のなくなったカップをソーサーに戻すと、ソファの背凭れに深く背を沈めた。
見上げた天井は高く、この巨大な建物が、外観から見る以上に開放的なものである事を示唆している。


「ジェクトさん」


 沈黙しているジェクトに焦れたように、シドが名を呼んだ。
ジェクトはがしがしと頭を掻いて、ぽつりと呟く。


「一緒にいてもなあ。きっと俺ぁ、泣かせちまうばっかりなんだ」


 ジェクトの脳裏に浮かぶ息子は、いつも泣き顔だった。
冗談で揶揄っただけで、子供は直ぐに泣き出して、わんわんと声を上げる。
そして言うのだ、「ジェクトなんかだいっきらい」と。
ジェクトには、その言葉がティーダにとっての父の全てに思えてならない。

 ティーダが赤ん坊の頃には、もう少し笑っていた顔を見たような気がするが、ジェクトはその顔を思い出す事が出来なかった。
ティーダと言えば泣き顔だと、そう沁みついてしまう位には、ジェクトは息子を泣かせてばかりいる。
その上、息子が大好きだった母さえも、自分が奪ってしまったとなれば、益々嫌われてしまうのは想像に難くない。


「嫌いな親父と一緒にいるより、離れてた方が良いだろうと思ってよ」
「ティーダ君は、貴方を嫌ってなんていませんよ。あんなに貴方と一緒にいたがっていたじゃないですか」
「……そりゃ、あれだ。知らない奴と一緒にいるよりは、嫌いだけど知ってる奴と一緒にいた方が、不安はないだろ。結局、俺より知らない奴と一緒にいる方が安心するって思ったみてぇだけど」


 ジェクトは、今日逢ったばかりの少年に抱き上げられていた息子の姿を思い出していた。
散々泣きじゃくっていたのに、少年の膝の上で泣き止んでいたティーダ。
ケーキを食べるか、と言われ、頷いた後、ティーダは彼と一緒に学園長室を後にした。
ジェクトは、息子をあんな風にあやす事も、宥めてやる事も、上手く出来た例がない。

 なんて酷い父親だろうと、自分でもつくづく嫌気が差す。
せめて、あの少年のように優しく触れてやる事が出来たら、あんな風に泣かせる事もないだろうに。

 深い溜息を吐き出すジェクトに、シドは目を伏せた。


「ジェクトさん。私は貴方が、貴方が言う程、酷い父親だとは思えません」


 シドの言葉に、ジェクトは顔を上げて姿勢を直す。
黒々としたシドの眼が、じっとジェクトを見詰め、ジェクトはそれから目を逸らす事を赦されなかった。


「家庭環境と言うものは様々ですから、どのような親が良い、悪いと優劣を付けるつもりはありません。ですが、自分の子供を愛して止まない親が酷い親などと、私は思いません。大切に思うからこそ、手放さなければならない───そんな事もあるでしょう」
「……」
「まさか、面倒を見るのが嫌だから、ティーダ君をバラムに置いて行くと思っている訳ではないのでしょう?」
「…そりゃ、まあ、な。今までガキの事は完全に嫁さん任せで、何をどうしてやりゃ良いのか判んねえのは確かだが……適当にすりゃあ良いとは思ってねえよ」


 寧ろ、適当に───いい加減に───出来ないと思うからこそ、自分が面倒を見るよりも、誰かの手に預けた方が良いと思う。
若くして結婚した上、ブリッツボール以外の事は碌々手をかけて来なかったので、ジェクトは炊事洗濯さえも満足に出来ない。
自分の事だけならそれでも良かったが、それを息子にまで強要する訳には行かないだろう。
なればこそ、子供を預けられる場所を探し、信頼できる手に委ねるべきだと思った。

 大切な息子なのだ。
唯一残された、たった一人の家族なのだ。
だからこそ、傍にいたいと思うけれど、泣かせたくないから、手を離した方が良いと思う。

 カーペットの床を踏む音が鳴る。
シドは、壮年の苦労を滲ませる面を厳しくさせ、じっとジェクトを見詰めて言った。


「判りました、ジェクトさん。ティーダ君を、此方で───バラムガーデンで預かりましょう」
「本当か?」
「はい。ですが、せめて今週一週間だけでも、ティーダ君の傍にいてあげて下さい。お母さんが亡くなって、お父さんもいなくなってしまっては、きっと心細い筈です」


 ───その間に、出来る事なら考え直して欲しい、ともシドは言った。
息子を置いて本当にザナルカンドに帰るのか、やはり親子で共に生きて行くのかを、一昼夜だけではなく、もっと長い時間をかけて、そして出来れば息子の気持ちを汲んだ上で考えて欲しい、と。

 幸い、現在、ブリッツボールはオフシーズンである。
地区毎の練習試合はいつも通り組まれているが、妻の死と言う出来事もあって、チーム監督やオーナーからはしばらくの休養を許された。
泊まる部屋は此方で用意しますから、と言うシドに、ジェクトは幾ら感謝しても足りない、と思った。




 レオンとティーダを呼ぶ放送が流れて、レオンは起きる様子のないティーダを抱いて、イデアと共に学園長室へと戻る。
その足取りが心なしか重くなるのは、イデアから聞いたジェクトの決意の所為だ。

 何度考えても、レオンには納得が出来なかった。
いや、理屈では判らない訳ではないのだ。
単なる一個人と言うには大きな影響力、それが呼び水になって訪れるかも知れない息子への危険の可能性。
ジェクトは、それらからティーダを守る為に、息子と離れ離れになる道を選ぼうとしている。
大切に思うからこその選択なのだと、イデアからも聞かされて、その意味を理解できないほど、レオンは子供ではなかった。
しかし、だからと言って納得して受け入れられる程、大人になってしまった訳でもない。

 歩く振動が伝わるのか、レオンの腕の中で、ティーダがもぞもぞとむずがっている。
自分の弟とよく似た重みに、レオンは自分がすっかり情を移している事に気付いていた。


(……だから、放って置けないんだろうな)


 弟───スコールは、生まれた時から寂しがり屋で、少しでも兄や姉の姿が見えないと、不安になって泣いた。
一所懸命に自分を愛してくれる人を呼ぶ声を、レオンは毎日のように聞いている。
だから、手を繋いだ時、抱き上げた時、スコールがどんなに嬉しそうな顔をするのかも、毎日のように見ている。

 ジェクトは知らないのだろうか。
自分の子供が、言葉で、体で、どんなに自分を求めているのか、気付かないのだろうか。
プロのスポーツ選手と言うのは、体調管理や練習で毎日忙しいから、子供と接する時間も短くて、だからあんなにも不慣れな手付きで触れる事しか出来ないのだろうか。

 むぐぅ、と意味のない声を漏らしたティーダが、こしこしと目を擦る。
ふるりと瞼が小さく震え、ゆっくりと持ち上がると、青い瞳がレオンを見上げ、


「……ふぁ?」
「おはよう、ティーダ」
「……はよ…?」


 現状の理解が追い付かないのだろう、ティーダはぼんやりとレオンに返事を返す。
丸い頬をぐしぐしと拭うティーダに、イデアがそっとハンカチを添えて、柔らかく頬を拭いてやる。

 ぱち、ぱち、と何度か瞬きを繰り返した後、ティーダはきょろきょろと辺りを見回した。
それから、自分を抱えている少年と、傍らの女性の貌を見て、「…あ」と呟く。
どうやら、自分の今の状況を思い出したらしい。


「…父さんは?」


 今、一番傍にいて欲しい人の名前を一番最初に出したティーダに、レオンは小さく笑みを漏らす。


「今から行くよ。話は終わったみたいだから」
「……」


 ぎゅ、とレオンの服を握るティーダの手に力が篭る。
青の瞳は、何処か怯えるように揺れていた。
恐らく、“ティーダをバラムに残し、自分はザナルカンドに帰る”と言っていた父の話を思い出したのだろう。

 エレベーターでフロアを上がり、イデアが開けてくれたドアを潜って、学園長室の中に入る。
シドはいつもの柔和な笑みでレオンと妻を迎え、ソファに座ったジェクトが肩越しに此方を振り返っていた。

 レオンに抱かれていたティーダが、もぞもぞと動く。
レオンがティーダを床に降ろしてやると、ティーダは一目散に父の下へと駆け寄った。


「とーさん、」
「おう。兄ちゃんに迷惑かけなかったか、チビガキ」
「かけてない。チビじゃない」


 ジェクトの言葉に、ティーダは判り易く拗ねた顔をして言った。
ぽかぽかと小さな手で逞しい胸や腕を殴る息子を片腕で制しながら、ジェクトはレオンを見上げる。


「悪かったな、面倒をかけた」
「いえ、別に。良い子でしたから」
「そうかい」


 なら良かった、とジェクトは言った。

 放って置くと、いつまでも叩き続けそうなティーダを、ジェクトは手首を捉まえて止める。
うーうーと唸ってじたばたと暴れるティーダだったが、ジェクトは構わずにひょいと持ち上げ、膝の上に乗せた。
ティーダはきょとんと瞬きした後、むぅと拗ねた顔で、自分を抱くジェクトの腕に捉まった。
父に掴まる小さな手が、どちらかと言えば“父を掴まえている”ように見えるのは、レオンの気の所為ではないのだろう。

 シドはジェクトの膝上にちょこんと収まったティーダと目を合わせた。
物怖じしないのか、人見知りをしないのか、ティーダはきょとんとした表情でシドを見返す。
シドは努めて柔らかい笑みを浮かべていた。


「ティーダ君。お父さんからのお願いで、今日から一週間、君はこのバラムガーデンで過ごす事になりました」
「……オレだけ?」


 泣き出しそうな青色がシドを見詰める。
一人なんて嫌だ、と青い瞳が一心に訴えているのを見ながら、シドは緩く首を横に振る。


「いいえ、お父さんも一緒ですよ」
「ほんと?」
「はい」


 その言葉を聞いた途端、きらきらとティーダの瞳が輝いた。
その眼が父を見上げれば、父は明後日の方向を向いていて、ティーダはへにゃりと眉を下げるが、父が一緒にいてくれると聞いて嬉しい気持ちは誤魔化せないようで、ティーダは嬉しそうな顔でジェクトの胸に後頭部を乗せた。

 レオンがティーダと出逢ってから、初めて、青い瞳が嬉しそうに光っている。
それを見て、レオンは知らず知らずの内に詰めていた息をほっと吐き出した。


「良かったな、ティーダ」
「うん!」


 レオンが笑い掛ければ、眩しい程の真っ直ぐな笑顔が帰って来る。
レオンがくしゃくしゃと金色の髪を撫でてやれば、ティーダはくすぐったそうに笑って、甘えるように父の腕を捉まえて遊ぶ。

 レオンはティーダの頭から手を放すと、学園長室の壁にかけられている時計を見上げた。
時刻は5時に近付いており、レオンが図書室に本を返す為に家を出てから、二時間近くが経とうとしている。


「シド先生、ママ先生。俺、そろそろ帰ります。夕飯の買い出しに行かないと」
「ああ、もうそんな時間なんですね。大分陽が長くなりましたが、帰り道は気を付けるんですよ」
「はい」
「それじゃあレオン、また明日」
「また明日。ティーダも、また明日な」
「明日?」
「そう、明日」


 レオンの言葉に、ティーダが嬉しそうに鸚鵡返しする。
見知らぬ土地で優しくしてくれた人物と、明日もう一度逢えると知って、ティーダの目がより一層輝く。

 明日、と頷いて繰り返したレオンに、ティーダが手を伸ばす。
まだ小さく丸っこい、柔らかさの残る手に、レオンは自分の手を重ねた。
ぎゅっと握った力が、自分が良く知る弟のものとよく似ていて、この手が何より求めているものが、離れる事がなければ良いと思う。