握り締める、小さな手


 図書室に本を返し、買い物をして帰るだけ───それが日曜日の夕方のレオンの予定だった。
が、本を返した後の再会と、夕飯の献立に迷った所為で、家に帰った時には予定時間を大幅にオーバーしており、妹からは「遅くなるなら、きちんと連絡して!どうしたのかと思って心配したでしょ!」と叱られ、弟からはその日の就寝までぴったりと甘えられて過ごす事となった。
アルバイトを始めてから寝室を別々にしたが、スコールが離れようとしないので、久しぶりに三人一緒のベッドで眠った。

 一週間の始まりである月曜日と言うものは、どうにも憂鬱な気分になり勝ちなものである。
しかし、妹弟と久しぶりに一緒に眠ったお陰か、レオンは頗る機嫌が良かった。
何せ、目を覚まして直ぐに愛する家族の顔を見る事が出来たのだから、嬉しくない訳がない。
また寝室を一緒にしようか、とも思ったが、自分自身の生活サイクルと、まだ幼い妹弟の生活サイクルのズレを思うと、やはり別々にして置いた方が良いと言う答えに行き付いた。

 レオンが用意した朝食を、三人揃って食べる。
食後は、レオンが食器を片付けている間に、エルオーネがスコールと一緒にガーデンに向かう準備をする。
リビングから妹弟の忘れ物チェックの声が聞こえる事に唇を緩めながら、レオンは冷蔵庫の中身を確認して、今日の夕飯のレシピを組み立てた。

 レオンが出発の準備を済ませたら、三人揃って家を出る。
レオンが道路側を歩いて、スコール、エルオーネと並ぶのがお決まりだった。

 兄と姉と手を繋ぎ、嬉しそうに歩くスコール。
甘えるように姉の手を引いたり、兄の方へ近付いたりするスコールを、エルオーネが楽しそうに見詰めている。
レオンもそんな妹弟を見て、眩しそうに目を細めていた。

 毎日握る、弟の小さな手。
毎日聞く、妹の声。
───やっぱり、近くにあるのが良いな、とレオンは思った。





 バラムガーデンで組まれている授業時間と言うものは、各学年によって違う。
幼年クラスは午前と午後に二時間ずつの授業用の時間が定められており、それ以外の時間は自由時間となっている。
初等部は45分、中等部は50分、高等部は55分と定められ、初等部は長くても一日5時間、中等部と高等部は6時間目まで授業時間が組まれている。
一応、昼休憩の時間は出来るだけ重なるよう、開始時間を各学年でずらせたり、5分休憩や10分休憩と言った隙間で調整されているが、食堂が混むと言う理由で、時間を分けても良いのではないかと言う案が出ているらしい。
今の所、食堂職員の手間や、前後時間の兼ね合い等を理由に、当分は一斉に昼休憩が始まる事になっている。
レオンとしても、昼休憩の時間に妹弟の様子を見に行く事が出来るので、出来れば昼休憩の時間はこのままが良いと思っている。

 バラムガーデンが設立された時、レオンは中等部生であった。
この為、レオンにとってガーデンで採る食事と言うのは、食堂で採ると言うのが当たり前になっていた。
時折、弁当を持って行く事もあるのだが、それはスコールやエルオーネが遠足などで必要な時、「お揃いがいい」と言うスコールの為に、レオンの分も作るのだ。

 今日は特別な行事があった訳ではないから、レオンはいつも通り、クラスメイトのエッジと共に食堂で昼食を採った。
学年末テストが近付き、嫌だ面倒臭いと愚痴るエッジに、まあ頑張れとレオンはドライな反応を返す。
ついでにノートの拝借を強請られて、明日中に返してくれるのならと条件付きで貸出を約束した。

 食後の紙パックのコーヒー牛乳を飲みながら、さて午後の授業が始まるまでどうしよう、とレオンは思案する。


「スコール達の様子を見に行くかな…」
「またか。飽きないな、お前。いつもの事だけど」


 食後のデザートのゼリーを食べながら、エッジが言う。
別に良いだろう、と言えば、そうだな、と特に気にした様子もない返事が返ってくる。

 空になった紙パックをゴミ箱に捨て、エッジもデザート用の器を返却口に返し、じゃあまた授業で───と食後の運動にとグラウンドへ向かうエッジと別れたレオンは、初等部の教室へ。
スコールの方から行くか、エルオーネの方から行くか、と、友人が聞けば「結局どっちも行くんだから、どっちでも良いんじゃないか?」と言われそうな事を考えていると、レオンは廊下の向こうに見覚えのある影を見付けて足を止める。


(あれは……ジェクトさん、か?)


 エレベーターホールに設置された案内板の前で、立ち尽くしているがっしりとした体躯の男。
ぼさぼさとした黒髪に無精髭、頬や額に残る古い傷痕。
昨日見たばかりの特徴的なその風貌を、記憶力の良いレオンが忘れる訳もない。

 近付いてみると、ジェクトは唸りながら案内板を見上げていた。
その傍らに、彼の息子であるティーダの姿は見当たらない。


「あの───ジェクトさん?」
「ん……お、お前か」


 声が聞こえる距離まで近付いて、名を呼んでみると、ジェクトは直ぐに振り返った。
ジェクトはレオンを見詰め、何故此処に、と言う表情を浮かべていたが、


「そうか。お前、此処の生徒か」
「はい」


 頷いたレオンに、ジェクトは助かった、と言うように眉尻を下げてばつの悪い笑みを浮かべる。


「その、じゃあよ。詳しいよな、このガーデンの事」
「まあ……施設内の一通りの事は、判ります」
「だったらよ、子供が行きそうな所って心当たりないか?」


 子供───と聞いて、レオンが真っ先に思い浮かんだのは、金髪の子供だった。


「ティーダに何かあったんですか?ひょっとして、迷子とか」
「いや、迷子っつーか何つーか…」


 レオンの問いに、ジェクトは苦い表情を浮かべ、きょろきょろと辺りを見渡す。
その仕草が気まずさを誤魔化しているように見えて、レオンは眉根を寄せた。

 じい、と見詰める少年の視線に、詰問するような空気を感じたジェクトは、がりがりと乱暴に頭を掻きながらぼそぼそと言った。


「その、な。折角こういう所に来てる訳だし。シドのじいさんから、ちょっと授業の見学とか、参加してみたらどうかって言われてよ。これから世話になるトコだし、行って来いよってあいつに言ったんだけど」
「行って来いって……ジェクトさんは一緒に行かなかったんですか?」
「あー……ほら、イデアさんがよ、案内してくれるっつーから、任せようかと思ってよ。俺ぁガーデン関係者じゃねえし、あんまりウロつかない方が良いだろ」
「シド先生の許可があって滞在しているんだし、ママ先……イデア先生と一緒なら、来客と言う事になるんじゃないですか。入学希望者と家族が一緒に見学している事もあるし、結構、皆気にしてないと思いますよ」
「いや、あー……うーん……」


 ジェクトは酷く決まりの悪い顔をして、視線を右へ左へと泳がせている。
言葉を探しているような、と言うよりも、言い訳を考えているような表情だと思ったレオンの勘は、強ち外れてはいない。

 ジェクトはしばらく口籠った後、何かを振り切るように首を横に振って、


「ま、それでだな。行って来いっつったら、何が気に入らなかったんだか、一人で飛び出して行っちまいやがってよ。イデアさんが探してくれちゃあいるんだが、まあ、ほら、任せっきりも良くねえだろうと思って、こう……」
「探そうと思って出てきたけど、何処から探せば良いのか判らない、と言う感じですか?」
「ああ、うん、そうだな…」


 レオンの言葉に、苦い表情を浮かべて、ジェクトは頷いた。
それから傍らに設置されている案内板に視線を移す。

 レオンは、過ごし慣れた所為ですっかり見る事がなくなった案内板を、久しぶりに見上げた。
半透明の擦りガラスに印刷された校内案内図には、現在地であるエレベーターホールを中心に、八方へと伸びる核施設への道標が書いてある。
レオンはしばしそれを見詰め、子供が行きそうな所を考えようとするが、


(昨日ガーデンに来たばかりなんだし、何処に行くって決める事はないかな…?)


 スコールやエルオーネのような在学生であれば、食堂やグラウンド、図書室など、出入りしそうな場所は予測が着く。
しかし、ティーダとジェクトの親子は、昨日バラムに来たばかりで、ガーデン施設の何処に何があるのかも判らない状態だ。
ガーデンは普通の学校として考えても広い方らしいから、昨日今日来たばかりの人間には、自分の現在地を把握するのも難しいかも知れない。
増して、癇癪を起こして飛び出して行った子供など、暴走機関車のようなものだから、何処に行くかなんて本人にさえ判っていないのではないだろうか。

 取り敢えずレオンは、昨日、ティーダと一緒に過ごした場所に見当をつけてみた。
学園長室、食堂、グラウンド前の通路広場───食堂はさっきまでレオンが過ごしており、ティーダらしき子供を見る事はなかったので、一端外す。


(学園長室はエレベーターに乗らないと行けないから、先ずはグラウンドか?グラウンドなら、エッジが行ってる筈だな)


 レオンは制服のポケットから携帯電話を取り出し、友人の番号を発進した。
その動作を、ジェクトが横目で見ている。

 しばらく呼び出し音が鳴った後、通話が繋がった。

『もしもーし。レオンか?どうした?』
「エッジ、ちょっと探して欲しい子供がいるんだが、確かめてくれないか」
『子供?お前の所のチビか?』
「いや、違う。金髪の……すまない、ちょっと待ってくれ。ジェクトさん、ティーダの服装は?」


 電話の通話口を軽く押さえ、通話相手に話が聞こえないようにし、レオンはジェクトに訊ねた。


「あーっと……フードがついてる白のシャツと、青の短パンだな」


 ジェクトの言葉の通りにエッジに伝えると、携帯電話の向こうでしばし沈黙が続き、


『それっぽいのは見当たらないぜ。なんだ、幼年クラスが迷子にでもなったのか?』
「そんな所だ。ガーデンに来たばかりで、まだ何処に何があるのか判っていないと思う。見かける事があったら教えてくれ」
『相変わらず面倒見が良い奴だな。判った、見掛けたらな』
「ああ」


 通話を切って、レオンは改めて案内番を見上げた。
隣にいたジェクトが、おい、と聲をかける。


「いたのか?」
「いえ。グラウンドにはいなかったようなので、他の所を探そうと思います。あの子が行きそうな場所…雰囲気とか、何か心当たりはありませんか?賑やかな方が良いとか、静かな所が好きとか」


 賑やかな所が好きならば、今は見当たらずとも、その内グラウンドや食堂に現れるかも知れない。
静かな場所が好きなら、図書室か、隠れるのなら人気のない駐車場も有り得る。
子供が一人でガーデン外に外出する事は、余程の理由でもなければ赦されないし、校門に行く途中のカードリーダーで守衛が声をかけるだろう。

 とにかく、ティーダの行きそうな場所、落ち着きそうな場所の見当を着けなければ。
その為にも、ジェクトから少しでも多く情報が聞きたかったのだが、ジェクトは苦い顔をしているだけだ。


「ジェクトさん?」


 黙ったままの男の名を呼べば、ジェクトは重い口を開く。


「いや、その…ずっとそれを考えちゃいるんだがな。よく判らねえんだ」
「判らない?」
「……今まで、何処かに連れていってやるとか、そういう事をしてやった事が一度もないもんだからよ」


 家族がいる事をマスコミに隠していたジェクトである。
妻と恋人らしくデートの時間すら設けられなかったのだから、息子と一緒に外出もした事がなかった。
ティーダの事は専ら妻に任せ、ジェクトはブリッツボールに打ち込む日々。
たまの休日は日頃の疲れを癒すように一日眠り通す事が多く、ティーダはそんな父親に遊んで構ってとまとわりつく事はせず、夫の事で頭が一杯になり勝ちな母に自分の事を思い出して貰う事で必死だった。
時折、やっと父子が向き合ったと思えば、お互いに憎まれ口を叩くばかりで、親子らしい会話の一つも出来ない。

 擦れ違うばかりの親子は、互いの事をよく知らないまま、過ごしていた。
ジェクトはティーダの好きな食べ物さえも知らないし、ティーダもそれは同じだろう。
────ティーダの好んで行きそうな場所など、尚更、ジェクトには判らない。

 だから案内板の前で立ち尽くしていたのだ。
何処に何があるのか、ティーダが好きそうなものが何処にあるのかさえも判らないから。


「……情けねえ話だよな」


 苦く笑って呟いたジェクトに、レオンは何も言わない。
言えないのだ。
自分が知る“父親”と言うものは、放って置いても子供に構って貰いたがり、これでもかと言う程にスキンシップをしたがる人だった。
息子に触れる手はいつも優しくて温かく、レオンが何か悪い事をしてしまった時でさえ、怒っているのは表情ばかりで、最後には泣きながら「心配した」「無事で良かった」と抱き締めてくれる人だった。
シドとイデアも同じように優しかったから、レオンは、ジェクトのような“父親”を知らないのだ。

 レオンは言葉を探して、口をつぐんだ。
案内板へと向き直り、早くティーダを探さなければ、と思考を切り替える。
此処で立ち尽くすジェクトの為にも、見知らぬ土地で一人不安になっているであろうティーダの為にも。


「クラスメイトに電話して、誰か見かけていないか確認します。今は昼休憩で、皆あちこちに行ってるから、誰か見かけた人がいるかも知れない。その間に、───ジェクトさんは駐車場に行って下さい」
「駐車場?」


 其処にいるのか、と縋る瞳で問うジェクトに、レオンは判りません、と言って、


「駐車場は、あまり人が出入りしないんです。若しもティーダが誰にも会いたくないとか、隠れたいと思っているなら、其処じゃないかと思って」
「判った、行ってみる。お前はどうするんだ?」
「俺は訓練施設を探してみます。あそこは魔物が常時解放されている場所なので、幼年クラスや初等部の生徒は一人では入れないようになっているし、入り口に先生もいるので、若しも入ろうとしたら直ぐ止められるとは思うんですが、念の為に行ってみます」
「魔物が…って、そりゃ大丈夫なのか?お前こそ、一人で入ったりして…」
「授業でよく使っているし、高等部生になったので、一人で入る事は許可されています。此処は部外者は原則立ち入り禁止なので、俺が行ってきます。クラスメイトから連絡があったら伝えに行くので、ジェクトさんは駐車場から時計回りでガーデンを回ってみて下さい」


 レオンは案内板に書かれている施設図を、駐車場を起点に時計回りに指差して言った。
各施設を出たら、左隣の施設を順に回って行けば良いのだ。

 判った、と行って急ぎ踵を返して走り出したジェクトの背を見送って、レオンは携帯電話を取り出した。
バラムガーデンは確かに広いが、外に出る事が出来ない以上、方々に散っている友人逹の力を借りれば、見つかるのは時間の問題だろう。
生徒の立ち入り禁止区域に入っていなければ良いが、と思いつつ、レオンは携帯電話を耳に当てた。





 レオンが訓練施設に入って間もなく、高等部の教室付近で昼休憩を過ごしていたクラスメイトから折り返しの電話が入った。
高等部の教室の前を横切り、廊下の奥に向かったと言う。

 レオンは駐車場を探し終え、図書室にいたジェクトを連れ、教室のフロアへ上がった。
廊下を歩く間、年若い少年少女逹は、見慣れない男と並んでいるレオンを見て首を傾げたが、「学園長の来客」とレオンが説明すると、直ぐに納得した。
レオンの言った通り、学園長の来客や入学前の見学者と言うものは多く、シドに頼まれたレオンがその案内を任される事も珍しくはないのだ。

 通り過ぎるレオンとジェクトを見る少年逹の中には、ジェクトを知っている者も数名いた。
どれもスポーツに興味のある生徒ばかりで、昨今、人気を上げているブリッツボールにも興味を持っているらしく、その競技で特に人気のあるジェクトもテレビで見た事があったのだと言う。
なんでジェクトが此処に、と言う少年逹に、レオンは「静かに」と頼んだ。
ジェクトはそうした喧騒を嫌ってバラムに来たのだから、此処で騒がれてしまっては本末転倒である。

 レオンがジェクトを連れて向かったのは、高等部生の教室を通り過ぎた先にある、奥まった場所だった。
廊下は其処で行き止まりになっているのだが、大きな扉が一つ設置されている。
その扉の向こうには、小さいながらもテラススペースが存在し、それなりの高所である為、ガーデンの周囲の景色を一望する事が出来る。
バラムガーデンの南部に位置するリナール海岸や、その向こうの海原も、望む事が出来た。

 厚みのある扉を押し開けると、心地良い風がレオンの髪を撫でていく。
陽光の眩しさに目を細めたレオンは、頬にかかる横髪を払い除け、辺りを見回す。
テラスには昼食を終え、教室には戻らないが昼休憩の終了までのんびりと過ごそうと言う生徒逹の姿がある。
此処からなら各学年の教室まで直ぐに向かえるので、屋外の開放的な空気を求める生徒が過ごす事が多いのだ。

 教室位置の為だろうか、テラスには制服を着た高等部生の姿が多い。
そんな中、落下防止の手摺の磨りガラスにぴったりと身を寄せている小さな子供がいる。


「いましたよ、ジェクトさん」
「お、おう」


 良かった、とレオンが頬を綻ばせた傍ら、ジェクトの表情は固い。
そのまま中々動く様子を見せないジェクトに、レオンは眉根を寄せて隣を見上げる。


「ジェクトさん?」


 行かないんですか、とレオンが言外に問えば、ジェクトは益々苦い顔を浮かべている。
自分の所為で息子が機嫌を損ねた訳だし、顔を合わせ辛いのだろうか、とレオンが考えていると、


「悪い。お前、代わりに行ってくれねえか?」
「え?」
「あいつも俺なんかに迎えに来て欲しくないだろうしよ。俺はイデアさん探して来るから、頼んだぜ」
「ちょっと────」


 頼まれても、とレオンが止める間もなく、ジェクトはテラスと廊下を繋ぐ扉向こうへと消えてしまった。

 一体、何の為にティーダを探していたのか。
迎えに行く為ではなかったのか、と胸中で投げ掛けるレオンの問いに、答えてくれる者はいない。

 レオンはしばし立ち尽くした後、溜め息を吐いて振り返った。
小さな子供は動く事なく、同じ場所で、じっと磨りガラス越しの海を見詰めている。
じっと動かないその背中に、レオンはゆっくりと近付いて、


「ティーダ」


 名を呼んでやれば、子供はぱっと勢い良く振り向いた。
まるで何かを待ち続けていたかのように、期待に満ちた海の青が、レオンの姿を映し────へにゃり、と眉尻が下がる。
レオンはそんなティーダの前で膝を曲げ、目線を合わせて、金色の髪をくしゃりと撫でてやる。


「こんな所にいたんだな。お父さんとイデア先生が探してるぞ」
「……」


 レオンの言葉に、ぴくり、とティーダの肩が跳ねる。
ティーダはきゅうと噛んでいた唇を開いて、ぽそりと言った。


「…父さん、探してる?」
「ああ」
「……うそだ」


 絞り出すように零れたティーダの言葉に、レオンは目を丸くした。


「嘘じゃないぞ。お前の事を探してくれって、俺も頼まれて───」
「…探すの、メンドくさくなったから、人におしつけたんだ」
「そんな事はない。俺に頼んだ後も、ガーデンの中を走り回っていたぞ」


 本当だ、と念を押して言うレオンだが、ティーダは泣き出しそうな顔で唇を噛んでいる。
小さな手がシャツの端を握り締めていた。


「…どうして、嘘だって思うんだ?」


 努めて静かな声で、レオンは尋ねた。
ティーダはぎゅうとシャツの端を握り締め、泣き出すのを堪えるように口を真一文字に結んでいたが、じっと見つめる青灰色を受けて、小さく口を開く。


「……だって……迎えに来ないもん……」


 ずっと待ってるのに、と言ったティーダに、レオンは零れかけた溜め息を押し殺す。

 ぐす、ぐす、としゃくり上げ始めたティーダを抱き上げる。
高くなった視界に、ティーダが驚いたような声をあげて、浮遊感を嫌うようにレオンの首にしがみついた。
落とさないように支えながら、レオンはティーダの背中をぽんぽんと叩いてやる。


「此処は教室があるフロアだからな。エレベーターに乗らないと来れないし、ちょっと上がって来辛いんだろう。探しているのは本当だから、一緒に下に降りよう。そうしたら、迎えに来てくれるから。な?」


 促すレオンだったが、ティーダの反応は鈍い。
レオンの首に絡む小さな手は、「ここにいる」と言わんばかりの強い力でしがみついてくる。

 どうして逃げたりするのだろう、とレオンは胸中で溜め息を吐いて思う。
自分が迎えに行かない方が良い、と言ったジェクトを、力尽くでも引き留めなかった事を、レオンは激しく後悔した。
無理矢理にでもジェクトに迎えに行かせれば、せめて声をかけるまでテラスで待たせていれば、ティーダはこんな顔をする事はなかっただろうに。

 レオンは手摺に持たれかかり、ティーダに海が見えるように角度を変える。
レオンにしがみついて肩口に顔を埋めていたティーダが顔を上げると、海岸と何処までも続く水平線が見えた。


「うみ……」
「好きか?」


 小さく呟いたティーダに、レオンが訊いてみると、ティーダはこっくりと首を縦に降った。


「家から、見えてた。海」
「ザナルカンドの海か。どんな海なんだ?バラムの海と似てる?」


 レオンの言葉に、ティーダは少し考えた後、今度は首を横に振った。


「あんまり、似てない。こんなに広くないし、遠くない」
「そうか。ザナルカンドは、海の上に出来た街だったな。じゃあ、家の下に海があるのか?」
「うん」
「じゃあ、家の近くで泳いだりするのか?」


 ふるふる、ともう一度ティーダの首が横に振られる。


「海、入っちゃ駄目って。マモノがいるから」
「街の直ぐ下に魔物がいるのか?」
「見たことないけど」


 学校でそう教わった、と言うティーダに、成る程、とレオンは納得した。
海が余りにも身近にあるザナルカンドでは、水難事故と言うものも非常に身近に存在する。
例えば橋の欄干から落ちた、道路端のガードレールを乗り越えた……そうして街の下の海に落ち、海底に潜むサハギンやスプラッシャーに襲われると言う出来事は、比較的頻繁に起こると言う。
そんな事故から小さな子供を守る為、ザナルカンドではごく限られた遊泳地域を除き、海には近付かないようにと教えられるのだ。
バラムでも湿気や風の強い日に海に近付くなと教わるので、それと同じ事なのだろう。


「じゃあティーダは、海に潜った事はないのか」
「……わかんない。ふわふわして、冷たいみたいな、あったかいみたいな、気持ちいい感じ、なんとなく覚えてるんだけど…あれ、海だったのかなぁ…?」
「もっと小さい頃に潜ったのかも知れないな」


 誰かと一緒に、と言う言葉を、レオンは口にしなかった。
その“誰か”はきっと父か母で、今のティーダにそれを思い出させるのは酷だろうと思ったのだ。
今はティーダの寂しさを紛らわせて、気持ちを落ち着けさせる事が先決だ。


「レオンは、海、入ったことあるの?」
「ああ。此処と、もっとずっと小さい頃、違う海にも入った。その時は春先で───丁度、今みたいな季節だったかな。だから海も凄く冷たくて、泳げたものじゃなかった」
「レオン、泳げないの?」
「そう言う訳じゃないが────いや、あの頃はまだ泳げなかったかな。泳ぐような深い川もなかったし。ティーダは、もう泳げるのか?」


 レオンの問いに、ティーダは答えなかった。
肩口でむぅ、と拗ねるようにむくれた気配を感じて、レオンはくつくつと小さく笑う。


「海があんなに近くにあるのに」
「だって、入っちゃダメって先生が言うもん」
「そうか、そうだったな。学校にプールはなかったか?」
「あったけど……プールの授業があるの、二年生からだった。プール、入りたかったのに」


 体育の授業の一つとして、夏期にプール授業は汲まれているのだが、一年生のティーダはまだ入らせて貰えなかったのだと言う。
夏休みにプールが一般解放された時も、本当は行きたかったのだけれど、行きたいと母にねだる事が出来ないまま、解放期間が終わってしまった。
夏休みが終わった後、クラスメイトから「来れば良かったのに」と楽しい思い出話を聞かされて、ティーダはやっぱり行けば良かった、と思った。


「…ねえ、レオン。ここ、プール授業、ある?」
「あるぞ。室内プールだからな、夏だけじゃない、冬も───今の時期でもプールには入れるぞ」
「ほんと?オレも入れる?」
「バラムガーデンは、初等部の一年生からプール授業があった。俺の弟も入ったし、ティーダも今小学校の一年生だろう?部活はまだ出来ないから、入れるのはプール授業の時だけだけど、夏になれば入れるよ」


 ティーダの青の瞳がきらきらと輝く。
余程プールに憧れがあったのか、今すぐにでもプールを見に行きたい、と言いそうな表情だ。

 レオンは爛々と輝く青い瞳を見つめながら、尋ねた。


「ティーダは、泳ぐ練習とか、した事はあるのか?」


 海が身近にあるからと言って、誰もが泳げる訳ではない事を、レオンは知っている。
湿気の大波や水位の増加など、バラムもザナルカンド同様に水難・海難事故は少なくない。
そのトラウマや事故の話を聞いて、トラウマになってしまった者も少なくない。
スコールは水難事故を経験した訳ではなかったが、水の中に顔を浸すのが怖いらしく、風呂で湯船に潜る事も出来なかった。
水中で手足を丸める事も出来ないので、当然、水泳も全く出来ずにいる。
レオンは、クラスで潜れないのが自分だけだと落ち込んでいたスコールを、来年の夏までに潜れるようになろうな、と宥めていたのを思い出した。

 ティーダは、海に入った事がない───物心つく以前はあるのかも知れないが、少なくとも、ティーダの記憶にはない───し、プール授業も経験がないと言う。
だが、ブリッツボールと言う水中競技のプロ選手であるジェクトが父親であるし、泳ぎのいろはを教わる機会はあったかも知れない。
…と、そんな思いで軽く尋ねたレオンだったが、ティーダは口をヘの字につぐんでしまった。


「……泳ぐの、練習、したことない」
「そうなのか?」
「………」


 ぎゅう、とティーダはレオンの肩に顔を埋めた。
レオンは、そんなティーダの背中をぽんぽんと撫でて、


「そうか。プール授業もまだなんだから、無理もないな。海にも入ったことはないんだし」
「……ん…」


 ティーダを宥めながら、ジェクトはティーダに泳ぎを教える事はなかったのだろうか、とレオンは首を傾げる。
レオンが思っている以上に、ジェクトとティーダの溝は深いと言う事なのか。
色々な親子がいるものなんだな、とレオンがぼんやりと思っていると、小さな手がレオンの肩をぎゅっと握り、


「…レオン、優しい」
「ん?そうか?」


 普通だと思うが、とレオンが言うと、ティーダはふるふると首を横に振った。


「…父さん、直ぐバカにする」
「ジェクトさんが?」
「……」


 父が息子をバカにする、とはどういう事だろうか。
レオンが浮かばない想像に首を捻っていると、ティーダはぷっくりと頬を膨らませて言った。


「オレの子供なのに泳げないのかって。泳いだことないのかって。……恥ずかしいって」


 水中格闘技と呼ばれる、ブリッツボールのプロ選手であるジェクトであるから、泳ぎの技術も半端なものではない。
レオンはブリッツボールの試合を見た事がないので、どれ程のものかは判らなかったが、プロのアスリートともなれば、当然、普通以上の技量を求められるものだろう。
洗練され、卓越された水泳技術と、20分と言う長時間を水の中で過ごせる肺活量。
普通の水中競技を遥かに凌ぐ運動量が必要とされるブリッツボールにおいて、“キング”の異名を冠するのは、並大抵の事ではあるまい。
そんな男の息子となれば、当然のように、同じような期待の目が向けられる。

 ティーダがジェクトの息子だと言うことは世間には伏せられていたので、周囲からの視線を気にする事はなかったが、当のジェクトがティーダが泳げない事を揶揄う。
泳げないこと、水に近付かないこと、直ぐに泣いてしまうこと。
ジェクトは何かにつけてはティーダを揶揄い、バカにするのだと、ティーダは言った。


(そんな人には見えなかったけど……)


 レオンの脳裏には、弱りきった顔で息子を探す父親の姿が浮かんでいた。
が、ジェクトがティーダと面と向かい合うタイミングを避けていたり、思うように接する事が出来ないような事をぼやいていた所を見ると、息子を目の前にすると心と相反した行動を取ってしまうのかも知れない。
そして、まだ幼いティーダが父の密かな葛藤に気付ける筈もなく、父は自分に意地悪ばかりすると思うようになったのは、無理もない話であった。

 広々とした海原を見て、きらきらと輝いていた青の瞳が、むっつりと拗ねた色に染まる。
迎えに来てくれない父に、意地悪ばかりを言う父に、忘れかけていた不満が蘇ってきたのだろう。
レオンは眉尻を下げて、宥めるようにティーダの頭を撫でた。

 ティーダは、くしゃくしゃと頭を撫でるレオンの手に甘えながら、小さな声で呟いた。


「ジェクトなんか、きらい」
「どうして。ジェクトさんはティーダの事が大好きなのに」
「そんなのうそだ」
「嘘じゃないさ」
「うそだもん。ジェクト、いつも意地悪ばっかり言うし、うそつくし、……迎えに来てくれないもん。だいっきらい」


 すっかりヘソを曲げた様子のティーダに、レオンは眉尻を下げた。
レオンは、ティーダのこの言葉が本音だとは思わないが、全くの嘘だとも言い切れない気がした。
迎えに来て貰えない淋しさや、父に意地悪をされる悲しさが、「きらい」と言う言葉に繋がってしまうのだろう。

 だいっきらい、と小さく呟いて、ぐすん、とティーダは鼻を鳴らした。
泣くのを堪えるように唇を噛むティーダを、レオンはぽんぽんと背中を撫でてあやす。
其処へ、柔らかな女性の声がかけられる。


「レオン、ティーダ君」
「───ママ先生」


 レオンが顔を上げると、黒髪の女性───イデア・クレイマーが立っていた。

 レオンは目だけで辺りを見回した。
彼女を探しに行く、と言って息子をレオンに任せた張本人は、戻ってきていないのだろうか。
視線を彷徨わせるレオンに気付いたイデアは、目線だけでテラスと廊下の出入り口を示す。
見ると、半開きになっている扉の隙間から、大きな影が微かに覗いていた。
ちらちらと此方を伺い見る様子を見れば、息子の事が心配で仕方がないのだろうと思えるのに、彼はテラスへ出ようとはしない。
イデアが困ったように眉尻を下げているのを見て、レオンは零れかけた溜め息を飲み込んだ。

 イデアはレオンとティーダの前に来ると、ティーダを目を合わせて、柔らかく微笑んだ。


「ティーダ君、お父さんが迎えに来ているわ。中に入りましょう」
「……むかえ?」


 信じられない、と言う様子でオウム返しをしたティーダに、イデアは本当よと頷いた。

 レオンはティーダを抱いたまま、廊下へ繋がる扉へ向かう。
その隙間から見えていた影が逃げるように離れた。
それを見たイデアが、足早に影を追いかける。

 レオンが廊下に入ると、イデアがジェクトを捕まえて待っていた。


「ほら、ティーダ。お父さん、迎えに来たぞ」
「……」


 ちら、とティーダがジェクトを見る。
レオンはティーダを床に下ろし、ぽんと背中を押してやる。


「お父さん、ティーダ君の事をとっても心配していたの」
「……」
「良かったですね、ジェクトさん。ティーダ君が見付かって」
「…あー……」


 イデアの言葉に、ジェクトは右へ左へと目線を泳がせながら言葉を濁す。

 ティーダはじっと父の顔を見ていたが、ふいと視線を逸らすと、レオンにぎゅっと抱き着いた。
レオンが小さな頭を見下ろすと、ティーダはレオンの腰に顔を埋めていて、父の顔を見ようとしない。


「ティーダ、どうした?ほら、迎えに来てくれたぞ」
「………」


 促すレオンに、ティーダはふるふると首を横に降るだけ。
待ち望んでいた筈の父の迎えだと言うのに、ティーダは父に近付こうともしなかった。


「ティーダ、」
「ああ…良いよ、そのまんまで」


 ティーダを父の下へ促そうとするレオンを、ジェクトは苦く笑みを浮かべて遮った。
良くないでしょう、とレオンはジェクトを睨んだが、ジェクトは此方を見ていない。


「その、イデアさん、悪いがあいつの面倒頼んでも良いかな?」
「私は構いませんが……でも、それではティーダ君が」
「あいつは俺の面も見たくねえようだし。俺は部屋で大人しくしてるんで、見学なり何なり、終わったらまた連れてきて貰えるかな。手間ぁかけちまって本当に悪いけど…」


 ジェクトの言葉に、イデアは眉尻を下げ、ティーダを見る。
ティーダは縋るようにレオンの腰に抱き着いていて、父を見ることもなく、レオンから離れようともしない。

 じゃあ、頼みます────そう言って、ジェクトは息子に背を向けた。
急ぐように早足で遠退いていく父を、ようやく青い瞳がそっと覗くように見る。
レオンはティーダの背を押して、追い駆けるように促してみるけれど、ティーダは泣き出す手前の顔でレオンの腰にもう一度顔を埋めた。

 強引にでも、連れ去って行けば良いのに。
きっとティーダはそれを待っていたのだと、レオンは小さな手から伝わる震えを感じながら思う。

 ジェクトの背を見送ったイデアが、レオンとティーダへと近付く。


「……ティーダ君」
「………」


 柔らかな声に名を呼ばれて、ティーダがそっと顔を上げる。
涙を滲ませた青い瞳を見て、イデアは眉尻を下げて笑いかけた。


「どうする?お父さんの所に行く?」
「……」
「見学、無理に行かなくても良いのよ。お父さんと一緒にいたかったら、お部屋でゆっくりしていても良いの。ティーダ君の好きなようにして良いのよ」


 白く細い手が、そっとティーダの丸い頬を撫でる。
柔らかく、優しく微笑みかける金色の瞳に見詰められ、ティーダはきゅうと強く唇をつぐんだ後、


「…けんがく……いく」
「お父さんは、良いの?見学、一緒に行きたかったんでしょう?」
「……もういい」


 イデアの言葉に、ティーダはふるふると首を横に振った。
その“いい”が決して納得したものではなく、振り切る意味で“いい”と言ったのだと言う事を、イデアもレオンも理解できた。

 青い瞳がレオンを見上げる。
小さな手が、せがむようにレオンの制服の端を引っ張った。
その手が求めているものを、レオンは直ぐに察する事が出来たが、レオンは眉尻を下げるしかない。
レオンは膝を折ってティーダと目線を合わせると、くしゃりとティーダの頭を撫でる。


「ごめんな。俺はもう直ぐ授業があるんだ」
「授業…?」
「此処の生徒だからな。ティーダに色々見せてやりたいけど、これからって言うのは無理なんだ」
「……」


 くい、と小さな手がレオンの制服を引っ張る。
レオンは小さな手を握って、そっと制服から解いた。
その手を、イデアがそっと掬って柔らかく握る。


「レオンお兄ちゃんは、これからお勉強をしなくちゃいけないから、ティーダ君と一緒に見学は出来ないの。でも、教室にはいるからね。一緒に行くのは無理だけど、会いに行くことは出来るから」
「……うん」
「授業の後なら、少しだけだけど、話も出来る。それまで、イデア先生と一緒に良い子にしててくれるか?」
「……してたら、話、してくれる?」
「ああ」


 レオンの青灰色の瞳が、柔らかく笑う。
それを見て、「じゃあ、まってる」とティーダは言った。