握り締める、小さな手


 イデアは、ティーダを連れてガーデンの施設を一通り歩いて回った。
最初はイデアと手を繋ぎ、俯いて黙り込んでいたティーダだったが、体育館の隣に併設された屋内プールを見て、きらきらと目を輝かせた。
午後の授業時間が始まり、プールを使っているクラスもなかったので、イデアはティーダをプールサイドまで下ろしてやった。
水着もあればプールに入れてやる事が出来たのだが、夏でもない今ではすぐに準備は出来なかったし、ティーダも泳げないから入らないと言った。
変わりにプールサイドに座って少しの間話をしている内に、少しずつティーダの気分は上向きになって行った。

 気持ちが上向きになると、ティーダは少しずつ能動的になって行った。
あれ何、これ何、と目につくものを幾つも幾つもイデアに尋ねる。
北方の大陸に存在するザナルカンドで暮らしていた少年には、南国気候のバラムの島にあるものは何もかも見慣れないもので、不思議に思えるものばかりらしい。

 1階フロアを一通り回ると、イデアとティーダは教室が並ぶ二階フロアへ移動した。
テラスに行く為に教室フロアに行っていたティーダだったが、その時はふらふらと宛もなく歩き回っていただけだったので、周囲の景色を見ていなかった。
レオンが授業で教室にいると聞いていた事もあり、ティーダも「レオンの所に行きたい」と言ったので、イデアはレオンのいる高等部の教室へと向かった。

 時刻は丁度、中等部と高等部の五時間目が終わった所だった。
これなら少し話をすることが出来るかも、とイデアが言うと、ティーダは嬉しそうに頬を赤らめた。


「あそこがレオンお兄ちゃんのクラスよ」


 イデアが廊下の先の教室を指差すと、ティーダが走り出そうとする。
早く早く、と小さな手がイデアの手を引っ張る。
イデアは、二年前まで沢山の子供達に毎日のように手を引かれていた事を思い出し、こっそりと笑みを漏らす。

 教室に近付いていくと、出入り口のドアの横にレオンが立っている。
レオンの前には少女───妹のエルオーネがいて、二人は楽しそうに笑っていた。


「レオン、レオン!」


 ティーダの弾む声に、レオンが振り返る。
その腰に、ぴったりとくっついている小さな子供がいる。
レオンとそっくりのダークブラウンの髪と、大きく円らな青灰色の瞳────レオンと血を分けた弟のスコールだ。

 ティーダはイデアの手を引いて、レオンの下へ駆け寄った。


「ティーダ、ママ先生も」
「レオン、オレ、良い子にしてた!」
「ああ」


 レオンは、くしゃくしゃとティーダの頭を撫でる。
ティーダが嬉しそうに笑うのを、レオンの傍らの青灰色がじっと見詰める。

 レオンはティーダの頭から手を放すと、イデアを見た。
青灰色がジェクトについて尋ねていたが、イデアは眉尻を下げるしかない。
それだけで、聡い少年はイデアの言葉を理解し、イデアと同じように眉尻を下げた。

 ティーダの手が、レオンの手を捕まえる。
握り開きして遊ぶティーダを、レオンは笑みを浮かべて見下ろろしていた。
その傍らで様子を見守っていたエルオーネが、つんつん、とレオンの制服の端を摘まむ。


「ねえ、レオン。この子、確か昨日の───」
「ああ。うちに尋ねに来た人の子供だよ。夕方、ガーデンに行った時にまた会ったんだ」
「ひょっとして、昨日レオンが帰るのが遅かったのって…」
「ああ。ちょっと面倒を見てたんだ」
「そう言う事だったの。…でも、やっぱり一言電話くらい欲しかったなぁ。ね、スコール」


 エルオーネがスコールに声をかけると、スコールは押し黙ったまま、ぎゅっとレオンに抱き着く。
レオンはそんな妹弟に眉尻を下げ、悪かったよ、と弱り切った顔で謝った。

 エルオーネは身を屈めてティーダと目を合わせた。


「昨日会ったけど、ちゃんとお話してなかったし。初めましてだね。私は、エルオーネって言います。君は?」
「ティーダ」
「ティーダ君。宜しくね」


 エルオーネがティーダの金髪をぽんぽんと撫でる。


「それで、こっちがスコール。私とレオンの弟だよ」
「おとーと……」


 ティーダの目がスコールへと移り、じぃ、と海の青が青灰色を見詰める。
スコールはその視線を嫌うように、ずりずりと横に動いて、レオンの背中に隠れてしまう。


「こら、スコール。ちゃんとご挨拶しなさい」
「…んぅ…」
「もう。ごめんね、ティーダ君。スコール、ちょっと恥ずかしがり屋さんなの」


 目線を合わせる事すら嫌うように、兄にしがみつく弟に、エルオーネは眉尻を下げた。
気にしてない、と言うように首を横に降るのをティーダに、エルオーネはありがとう、とティーダの頭を撫でる。


「ティーダ君は何歳?」
「7歳」
「じゃあスコールと同い年だね。んっと……バラムには昨日来たんだっけ。何処から来たの?」
「ザナルカンド」
「んっと…えーっと……」


 何処だっけ、とエルオーネがレオンを見上げる。


「トラビア大陸の東部だったかな。海の上にある街だ」
「海の上かあ……あんまり想像できないなあ。あ、でも、テレビで映る事あったね。夜の景色とかすごく綺麗だったなあ。トラビア大陸って、ずっと雪が降ってる所だよね。じゃあ、随分寒い所から来たんだね。こっちは暑くない?」
「ちょっとだけ。なんか、ムシムシする」
「バラムは湿度が高いからな。寝苦しくなかったか?」
「イデアせんせーがクーラー使って良いって。だから、ヘーキだった」


 慣れない土地で大丈夫だったかと尋ねるレオンとエルオーネに、ティーダは活き活きとした表情で答える。
良かった、と微笑む少年と少女に、ティーダも朗らかな笑顔で応えた。


「あのね、レオン。プール行ったよ。広かった!」
「そうか。良かったな」
「あと、食堂でケーキ食べた。昨日のと違うケーキ」
「美味しかったか?」
「うん。それから、保健室行ったら、変な機械があった」
「変な……検査機械の事か。あれを使って、皆の体に悪いところがないか探すんだ」
「ふぅん。後ね、後ね、」


 バラムガーデンで過ごす事が日常であるれオンやエルオーネにとって、ティーダの話は特別面白いものではない。
自分達が毎日のように見ているものだから、新しい発見も早々ある訳ではないのだ。
しかし、バラムに来たばかりのティーダにとっては見慣れないものばかりで、新しい地で出逢えた優しい人達と、夢中になって話をしたがるのも無理はない。
だからレオンとエルオーネは、ティーダの気が済むまで、相槌を打ちながらじっと話を聞いていた。

 ───が、高等部生であるレオンには、まだ六時間目の授業が待っている。
時間を忘れてティーダの話を聞いていたレオンの頭を、擦れ違い様にこつんと小突いていく生徒がいた。


「レオン、そろそろ訓練施設に行かないと遅刻になるぜ」
「そうか、戦闘実技だったな」


 レオンの頭を小突いた銀髪の少年───エッジは、急げよ、とだけ言って、廊下向こうのエレベーターへ向かう。
レオンはティーダの頭を撫でて言った。


「ごめんな、ティーダ。次の授業に行かないと」
「レオン、まだ勉強するの?」
「ああ」
「うー……判った」


 ティーダは渋々と言う顔を浮かべたが、大人しくレオンから離れると、見守っていたイデアと手を繋いだ。
レオンは素直なティーダに笑いかけた後、エルオーネとスコールに視線を移す。


「エル、スコール、気を付けて帰れよ」
「うん。ほら、スコール」


 帰ろう、と弟に促すエルオーネだが、スコールはふるふると首を横に振ってレオンにぎゅうと抱き着く。
レオンはそれを眉尻を下げて見下ろした。

 こら、とエルオーネがスコールを叱る。
スコールは、薄らと潤んだ瞳でレオンを見上げた。


「…おにいちゃんも…」


 一緒に帰りたい、と言うスコールに、レオンは苦笑する。
くしゃくしゃとレオンの大きな手が、スコールの濃茶色の髪を撫でた。


「六時間目が終わったら、直ぐに帰るよ。だからスコール、先に帰って、エルと一緒に待っててくれないか?」
「……いっしょ……」
「レオンはまだ授業があるの。ね、スコール、良い子だから我慢しよう」
「……やあ…」


 じわあ、とスコールの青灰色の瞳に、大粒の涙が滲む。

 先に帰ろう、やだ、一緒に帰る────と繰り返す妹弟に、レオンは弱りきった表情を浮かべる。
甘えてくれる弟の事は可愛いし、嬉しいけれど、授業開始は待ってはくれない。

 一緒にいたい、と全身で訴えるスコールに、レオンは膝を曲げて弟と目線を合わせた。
ぐすん、と小さく鼻をすするスコールを、レオンは抱き寄せ、ぽんぽんと小さな背中を撫でてやる。
スコールはぎゅっとレオンに強く抱き着いた後、眉尻を下げて唇を尖らせた表情で、そっと兄から体を放す。
レオンは小さく笑って、スコールの額にこつんと自分の額を当てる。


「良い子だ。俺が帰るまで、エルを頼んだぞ」
「……うん」
「よし」


 小さく頷いたスコールに、レオンはくしゃくしゃと髪を撫でる。
一頻り撫でて手を放すと、ぴんぴんとあちこち跳ねたスコールの髪を、エルオーネの指が優しくすく。

 兄と離れたスコールの手が、エルオーネの手を捕まえる。
ぎゅっと握る小さな手を、エルオーネが握り返すと、スコールは甘えるように姉に身を寄せた。


「じゃあね、レオン。買い物、済ませておくからね」
「ああ。宜しく頼む」
「うん」


 レオンの言葉に頷いて、エルオーネは弟の手を引いて歩き出す。
じっと成り行きを見守っていたイデアとの擦れ違い様、エルオーネは朗らかな表情でイデアに挨拶した。


「それじゃあ、ママ先生、さようなら」
「ええ、さようなら、エルオーネ」
「スコールもご挨拶」
「ばいばい、まま先生」
「ばいばい、スコール。また明日ね」


 手を振るスコールに、イデアも手を振り返した。
ぺこりとエルオーネが小さく会釈して、スコールと一緒にエレベーターへと向かう。

 レオンとイデアは二人を見送ってから、向かい合い、


「じゃあ、ママ先生。俺も、これで」
「ええ。怪我をしないように気を付けてね」
「はい。じゃあな、ティーダ」


 ぽんぽんとレオンの手がティーダの頭を撫でる。
手が離れると、レオンは教室に入って六時間目の授業の準備を急ぐ。


「────ティーダ君。私達も行きましょうか」


 まだ離れ難い表情を浮かべていたティーダを、イデアは促して、手を引いた。
ティーダは後ろ髪を引かれるように、レオンの教室をちらちらと振り返りつつ、イデアについて歩き出す。

 廊下に散らばっていた生徒達が、続々と教室へ集まっていく。
殆どの生徒はそれから出てくる事はなかったが、中には教科書や筆記用具を持って別の教室に移る生徒もいた。
ティーダはその様子を眺めながら、ふと気になった事を思い出して、イデアを見上げる。


「イデアせんせー」
「なぁに?」
「まませんせーって、何?レオンとかさっきの女の子とかが呼んでた。まませんせーって、イデアせんせーのこと?」


 ティーダの問いに、そうよ、とイデアは頷いた。


「イデアせんせーが、なんでまませんせー?」


 重ねて尋ねたティーダに、イデアはほんのりと頬を赤らめた。
照れ臭そうな、嬉しそうなその表情に、ティーダはきょとんと首を傾げる。

 複数設置されているエレベーターの中から、イデアは訓練施設へ向かう生徒達を避け、空いている箱に乗り込んだ。
ゆっくりとエレベーターが下降していくのを感じながら、イデアはティーダの疑問の答えを話し始める。


「実はね。私とシド先生は、このガーデンって言う学校を作る前は、お父さんやお母さんと離れ離れなってしまった子供達を集めて、皆で一緒に暮らしていたの。レオンお兄ちゃんや、一緒にいた女の子と男の子も其処にいてね。其処では、私は皆のママ───お母さんをしていたの」
「お母さん……だから、ママ先生?」
「そう。その時、一緒に住んでいた子達は、今は色々な所に引き取られて行ったり、レオンお兄ちゃんみたいにガーデンの生徒になったりして、皆それぞれ新しい生活を始めているんだけど、今でも皆、私の事をママ先生って呼んでくれるの」


 父を、母を失った子供達の寂しさを少しでも和らげたくて、イデアは子供達の“母”になろうと決意した。
けれど、イデアとシドの間には子供はいない。
右も左も判らないまま始めた孤児院の経営は、大変な事も沢山あったけれど、イデアはそんな日々も幸せだった。
子供達に「ママ先生」と呼ばれる度、イデアの心は暖かなもので一杯に溢れ、イデアが子供達を愛する以上に、子供達はイデアに親愛を寄せてくれる。
ガーデンを開校し、孤児院を閉鎖してからも、当時の子供達は皆イデアとシドの事を変わらずに慕ってくれた。
イデアにとって、こんなにも嬉しい事はない。

 イデアの話を、ティーダはじっと黙って聞いていた。

 エレベーターが一階フロアに到着し、二人はエレベーターを降りる。
一階はまだまだ沢山の生徒が溢れていて、訓練施設に向かう者、寮や食堂へ向かう者、校門へ向かう者と様々だ。
生徒達はイデアの姿を見つけると、擦れ違い様に「こんにちは」「さよなら」とそれぞれに挨拶して行く。
イデアは笑顔を浮かべ、生徒の一人一人に同じ挨拶を返して行った。

 次は何処が良いかしら、とイデアが次にティーダに見せるものを選んでいると、繋いでいた手がきゅぅと強く握りしめられた事に気付いて、イデアはティーダを見下ろす。


「なあに?ティーダ君」
「…ん……」


 柔らかなイデアの声に、ティーダは俯いてもじもじとしている。
なあに、とイデアがもう一度訪ねてみると、


「ん…あの、ね……」
「うん」
「イデア先生、皆のお母さんだから、まませんせーって呼ばれてるんだよね」


 そうね、とイデアは頷いた。
そう思って貰う事が出来ていたのなら良いな、と。

 ティーダはイデアの手を強く握って、金色の瞳を見上げて言った。


「じゃあ……オレも、まませんせいって、呼んでいい?お母さんに、なってくれる……?」


 ────目の前の女性を見つめる子供の青い瞳には、隠しきれない淋しさと、与えられる愛に漕がれる気持ちが一杯に詰まっていた。
毎日のように与えられていた、これからも長い時間降れていられる筈だった、母親からの愛情。
突然それを奪われた悲しみには、無心に愛情に飢える小さな子供にとって、どれ程悲しい事だっただろう。

 イデアは、この子供と同じ顔をした子供を、沢山見てきた。
望まずして奪われてしまった愛情を、温もりを、子供達は渇き行く世界の中で求めた。
ほんの一滴でも良いからと欲しがって、けれども与えられない愛情に哀しみ、少しずつ世界を閉ざして行く。
そうして世界を閉じた子供の瞳には、愛情を奪われた哀しみも、それを奪った者への怒りもなく、ただ渇きだけが映し出されていた。
それを見た時、そんな子供があちこちに溢れていると知った時、イデアは悲しくて辛くて堪らなかった。
それ以上に、愛情を奪われた子供達が悲しんでいるのだと思うと、いてもたってもいられなかった。

 子供達を少しでも救いたくて、イデアはシドと共に孤児院を始めたのだ。
子供達が与えられる筈だった愛情を、温もりを、自分が注いでやる事が出来れば良いと願って。
────孤児院は閉鎖され、ガーデンと言う形になった今でも、イデアのその思いは変わらない。

 イデアは、ティーダの手を柔らかく握り返した。
膝を追って目線を合わせると、恥ずかしそうに赤らんだ子供の顔がある。
そんなティーダを見て、イデアはふわりと笑った。


「勿論よ、ティーダ君」
「……ほんと?まませんせいって、呼んでいい?」
「ええ。でも、本当のお母さんの事を、無理に忘れたりする事はないからね」


 大好きだった母を失った事は、ティーダにとって酷く悲しい出来事だっただろう。
その出来事は、まだ幼いティーダには、直ぐに受け入れられる事ではない。
けれども、ぽっかりと空いてしまった心の隙間は誤魔化しようがなく、淋しさを埋めたくて代わりの温もりを求めるのも無理はない。

 それでも、ティーダが大好きだった母は、今までずっとティーダを愛してくれた母は、確かにこの世界に存在したのだ。
ティーダを生み、育て、慈しんで温もりで包んでくれたティーダの母親。
その人の存在なくして、ティーダは今此処にはいないのだから、忘れてしまうのは寂しい事だ。

 イデアの言葉に、ティーダの目にじわりと大粒の滴が滲む。
イデアは柔らかく微笑んで、ティーダを強く抱き締めた。





 ジェクトは、バラムガーデンの生徒の半数が一日を過ごす、寮の中にある来客用の宿泊部屋を借りて寝泊まりしていた。
息子であるティーダも、当然、此処で一緒に過ごす事になっている。

 寮は決して広くはなく、生徒達の部屋は二人分のベッドと勉強スペース、クローゼット等があるだけの簡素なもので、キッチンも小さい。
来客用の部屋はベッドが一つと、ソファベッド、テーブル、キッチンがあるだけで、生徒達の部屋とそれほど差はない。
面積的には来客用の方が心持ち余裕があるのだが、それもクローゼットの有無の差程度のものだ。
普通の一軒家で暮らしていた者にとっては窮屈かも知れないが、ジェクトにはそれほど苦ではなかった。
唯一不満があると言えば、ベッドにしろソファベッドにしろ足が食み出てしまう事だが、これは自分の体躯の所為なので、誰に文句を言えるものでもない。
そもそも、突然押し掛けてきたジェクトに対し、クレイマー夫妻が好意で急ぎ整えてくれたのだ。
感謝こそすれ、不満など言う訳もなかった。

 ジェクトは、ソファベッドの背もたれを倒して寝転がっていた。
部屋の中では、ベッドに座ったティーダが見ているテレビ番組の音だけが反響している。
ティーダはイデアが貸してくれたパジャマに着替えており、風呂も先程済ませたので、後は寝るだけなのだが、ティーダは眠いとは言わなかった。


(つっても……流石に、そろそろ寝かせた方が良いよな…)


 ジェクトは、ちらりと部屋の置時計を見た。
午後10時ともなれば、7歳の子供は床についた方が良いだろう。

 ジェクトは出来るだけ意識して、何気ない風を装いながら言った。


「おい、そろそろ眠いんじゃねえか」
「……んーん」


 しかし、ティーダはふるふると首を横に振る。
まだ眠くない、と言うティーダの横顔は、確かにぱっちりと目を開けていて、眠気を感じている様子はない。

 どうしたものか、とジェクトはひっそりと溜息を吐く。
昨日、テレビに熱中して中々寝付こうとしないティーダに焦れ、リモコンでテレビの電源を切った所、ティーダの癇癪を起こしてしまった。
見てたのに、と殴りかかってくる息子を、無理矢理ベッドに押し込んだのは良かったが、それからしばらくの間、ティーダは布団の中に潜って声を押し殺して泣いていた。
しばらくするとティーダは泣き疲れて眠ってしまったが、その間、ジェクトは何度となく零れかけた溜息を押し殺した。

 シドに促され、バラムガーデンで一週間を息子と共に過ごすことにしたが、ジェクトは既に後悔しつつあった。
思えばジェクトは、息子の寝付かせ方も判らない。
一緒にいれば泣かせてしまうし、口を開けば憎まれ口染みた台詞しか出てこない。


(シドのじいさんが言いたい事は、判ってるつもりだが……)


 ジェクトが自分なりに考えた結論であるとは言え、ガーデンでシドと話しをするまで、ティーダと肝心な話をしていなかったのは事実。
息子と正面から向き合わないまま、離れる事だけを一方的に決めたのは、悪い事をしたと思っている。
けれど、今のティーダと話をしても、ティーダが自分と一緒にいたいと言うとは思えなかった。
彼の大好きな母を奪ったのは紛れもなく自分で、ティーダはそんな父を「大っ嫌い」だと言っている。
それでも、最も近くにいる筈の“家族”なのだから、とは思うけれど────……

 家族か、誇りか。
ジェクトは選ばなければならなかった。
自分自身の影響力を理解しているからこそ、両方を選ぶと言う事は難しい。

 思考の海に落ちていたジェクトを引き上げたのは、じっとテレビを見続けていた息子の声だった。


「イデア先生が」


 唐突に切り出したティーダに、ジェクトは寝返りを売って彼を見た。
ティーダの視線はテレビに向けられたまま、此方を見てはいない。


「…イデア先生が、ママ先生になってくれた」
「……ママ先生?」


 なんだそりゃ、と問うと、ティーダはうーんと、と思い出すように間を開けた後、


「イデア先生、ガーデンができる前は、一杯の小さい子と一緒に住んでたんだって」
「ああ」
「イデア先生、その子達のお母さんなんだって」
「……ああ」


 イデアとシドが孤児院を経営していた事は、友人達から聞いていた。
それを頼る為に、ジェクトはザナルカンドからバラムへ来たのだ。
恐らく、その孤児院でのイデアの呼び名が、「ママ先生」だったのだろう────と考えてから、


(そういや、あの兄ちゃんもそう呼んでたか?)


 ジェクトの脳裏に、ティーダをあやしていた少年───レオンの顔が浮かぶ。
今日会った時に制服を着ていたと言う事は、ガーデンの高等部生なのだろう。
昨日、バラムの街で彼と逢った時には、小さな子供と少女と一緒にいたが、まさか三人だけで街に住んでいるのだろうか。

 両親を失い、孤児院でクレイマー夫妻によって育てられ、早い自立をしている少年。
大人びた目をした少年だとは思っていたが、まさか彼もクレイマー夫妻の孤児院の出身だったとは。
一緒にいた少女や、よく似た子供もそうなのだろうか。
三人だけでしっかりと生活を営んでいるのかと思うと、やはり、良い環境で育てられたのだろうなと思えてくる。


(…やっぱ、大事だよなあ。環境ってモンは)


 あんなにしっかりした少年を育てる事が出来るのなら、きっと────ジェクトは、テレビを見詰める息子の横顔を見て、小さく口許を緩めた。


「それで、イデアさんがなんだって?」
「……オレも、ママ先生って呼んでいいって」
「そうかい」


 ティーダの言葉に満足して、ジェクトはもう一度寝返りを打って、息子に背を向ける。
その背中をちらりと見た海の青には気付かない。

 ジェクトはソファベッドに置いていた電気のリモコンを取った。
オフボタンを押すと、部屋の電気が消え、テレビの明かりだけが部屋の中を煌々と照らし出している。


「もう寝ろ。ガキはとっくに寝る時間だ」
「ガキじゃない!」
「判った判った」


 まともに取り合う気がないジェクトの反応に、ティーダは子犬が唸るような声を漏らすが、程なくしてテレビの電源が落とされた。
もぞもぞとシーツを持ち上げる音がする。
ジェクトが肩越しにベッドを見遣ると、ティーダが布団の中に潜り込む所だった。

 バラムの夜に来て二日目の夜は、とても静かだった。
昨日は遅くまで聞こえていた息子の泣く声もない。
ガーデンの寮内からは、まだあちこちから生徒達の生活の気配が感じられたが、それも睡眠の邪魔になる程ではない。


(……イイとこだな、此処は)


 ジェクトは、ブリッツボールの試合や強化合宿などで、ザナルカンドを何度か離れた事がある。
ブリッツボール発祥の地であるスピラ大陸や、ガルバディア大陸の北部に位置するドール公国に行ったことがあるが、バラムの街はどの国とも違う。
穏やかで伸びやかで、街の人々は開放的だし、何よりジェクトを知っている者が殆どいない。
ザナルカンドやスピラ大陸で常にマスコミに注目されていたジェクトにとって、小さなバラムの島国は、とても平穏であった。

 此処なら、ティーダがマスコミに追われて怯える事はないだろう。
クレイマー夫妻は優しく暖かく、二人の下にいたと言う少年が立派に育っている姿を見れば、彼らになら息子を預けても大丈夫だと思える。
ティーダもレオンに懐いているし、イデアの事も好いているようだった。


(…やっぱり、俺が連れていくより、此処にいさせた方が良いな)


 ティーダを連れてザナルカンドに戻れば、まだマスコミに囲まれる。
それを承知の上で帰り、父子二人で生活を初めても、ブリッツボールを続けている限り、ジェクトは息子とゆっくり向き合う時間は取れないだろう。
幼い息子を家で一人残してしまうよりは、常に誰かの気配があるバラムガーデンに預けた方が良い、とジェクトは思う。

 ティーダの傍にいるのが嫌だと言う訳ではない。
小さな子供の成長は早いもので、ザナルカンドでブリッツボールの強化合宿に赴いた後、数日振りに帰ってきただけでも、息子は大きくなっている。
母に抱かれているばかりだったのに、いつの間にか自分の足で歩けるようになり、言葉を喋れるようになり、父の真似をするようにボールを持って投げられるようになった。
そんな息子の変化を、目の前で見守ることが出来たら、どんなに幸せだろう。
泣き顔ばかりで占められてしまった息子との思い出を、太陽のような笑顔に塗り替える事が出来たら、どんなに。

 ブリッツボールを続ける事を諦めれば、ジェクトはティーダと一緒にいられる。

 バラムに住みながら、ザナルカンドのチームでブリッツボールを続ける事は、決して不可能ではないが、シーズン時期は数日家を空けるのは当たり前だ。
シーズンオフでも強化合宿や親善試合が組まれるし、そうなった場合、幼い息子はやはり誰かの手に預けなければならないだろう。
手を繋いでいるのか、離そうとしているのか、曖昧なまま息子を不安にさせ続けるよりは、明確な答えを出した方が良い。

 ティーダは、温もりを求めている。
母と繋いでいた筈の手が空っぽになっている事に不安を覚え、握り、握り返してくれる人の存在を探している。

 ジェクトは、暗闇の中にぼんやりと映る、自分の掌を見た。
それなりに大きくなったと思う自分の手に、小さな子供の手はすっぽりと隠れてしまう筈。
曖昧にしか想像が出来ないのは、ジェクトが長い間、ティーダと手を繋いでいないからだ。
大きさを比べ合ったのも、どれ程前の話になるだろうか。
今のティーダの手は、ジェクトの手が覚えている感覚の大きさよりも、幾らか大きくなっているのだろうか。

 妙なものだ────妻が逝ってからの数日間、ジェクトは常にティーダの傍にいたのに、息子の手を握っていない。
小さな手はジェクトに縋るように、ジェクトの服の端を捕まえていたのに、どうしてその手を握ってやる事が出来ないのだろう。


(…やり方が判らねえんだよな)


 いつの頃からか、ティーダはジェクトの顔を見るだけで拗ねた顔をするようになった。
ジェクトがいると、大好きな母親が自分を見てくれなかったからだ。

 最初は顔を見るのを嫌がっていただけだったのだが、ティーダの父への態度は少しずつ硬化して言った。
肩車や抱き上げられるのも嫌がるようになり、手を繋ぎたいとねだる事もなくなり、最近は近付いてくる事もなかったように思う。
そんな息子の表情に気付いてしまうと、ジェクトは自分から息子に近付く事を躊躇うようになってしまった。

 ……その内に、ジェクトは息子との手の繋ぎ方や、接し方も判らなくなってしまった。
繋ぎたいのに、優しくしてやりたいのに、その気持ちとは裏腹に、意地悪な事ばかりをしてしまう。
そうして益々、息子が自分を嫌ってしまうと判っていながら。

 ジェクトの脳裏に、ティーダと手を繋いでいたイデアの姿が思い浮かぶ。
次に浮かんできたのは、ティーダを抱き上げてあやしていたレオンだった。


(……どうすりゃ、あんな風になれるんだろうな。っつーか、なんで泣かせてばっかりになるんだろうなぁ)


 誰に対してでもなく問うてみるけれど、答えが帰ってくる事はない。
ジェクトは溜息を押し殺して、深呼吸に紛れてゆっくりと吐き出した。

 きし、とベッドのスプリングが小さな音を立てる。
絹擦れの音がして、ぺた、と裸足の足音が聞こえた。
小さな気配がもぞもぞと動いている気配を感じながら、ジェクトは振り返るべきか否かを迷う。


「……ん、しょ」


 ぎっ、と今度はソファベッドが揺れた。
ジェクトが羽織っていた布団が持ち上げられて、何かが潜り込む。

 背中にぴったりを見を寄せる、温かな何か。
それが“何”であるのか、ジェクトも直ぐに判った。

 ……振り返るべきか、否か。
甘えるように擦り寄せられる温もりを、抱き締めてやれば良いのだろうか。
けれどジェクトには、そうして嫌がられる光景だけが思い浮かんで、結局、振り返る事は出来なかった。