握り締める、小さな手


 外遊びが好きなティーダと、家の中でのんびりとお絵描きや本を読むのが好きなスコールの間で、揉める事しばし────エルオーネが「今日は天気も良いから、外に行こう」と言った事により、軍配はティーダに上がった。
外で運動する遊びが得意ではないスコールは、判り易く拗ねた顔をしたが、「スコールが嫌いな遊びはしないから」とエルオーネに宥められ、ようやくグラウンドへ向かって歩き出した。

 グラウンドには体育授業の高等部生の姿があった。
レオンの姿は見られないので、違うクラスなのだろう。
お兄ちゃんいるかなぁ、ときょろきょろと見回していたスコールは、少ししょんぼりとしてしまった。

 高等部生の邪魔にならないように、スコール達はグラウンドの端を使う事にする。
ボール遊びがしたいと言うティーダのリクエストに応えて、エルオーネが用具倉庫からバレーボールを持ち出した。
ティーダはエルオーネから渡されたバレーボールをぐるぐると回しながら見つめて、


「バラムって、ブリッツボールみたいなボールってないの?」
「ぶりっつぼーる…?」


 ティーダの言葉に、スコールがことんと首を傾げる。
聞き覚えのある単語だったような気がするのだが、何処で聞いたものだったのか。
しばらく悩んだ後で、テレビで何度か聞いた事があるのだと思い出す。

 エルオーネは、眉尻を下げてティーダの頭を撫でる。


「ブリッツボール用のはないの。ごめんね、これで我慢してくれる?」
「うん」


 こっくりと頷いたティーダに、良い子、とエルオーネが頭を撫でる。


「キャッチボールで良いかな。それなら、スコールも出来るでしょ?」
「うん!」
「…がんばる」


 スコールは運動が苦手だから、追い駆けっこのような走り回る遊びは勿論、ドッジボールも好きではない。
孤児院にいた頃にやったドッジボールの時は、サイファーが投げたボールを顔面ブロックしてしまい、鼻血を出して泣いてしまった。
それがすっかりトラウマになってしまっているようで、一時はボール遊び自体が嫌いだと言っていた程だ。

 ガーデンに入学してから、体育の授業でボールに触れる機会が増え、ボール遊び嫌いは克服された。
とは言え、苦手な事には変わりなく、スコールが好んでボール遊びをしたがる事はない。
そんなスコールでも、パス回しがメインとなるキャッチボールなら、遊ぶ事に抵抗がないようだった。

 三人は十分な距離を取って広がって、ボールはエルオーネが持っている。


「じゃあ、私がティーダ君に投げるから、ティーダ君はスコールにボールをあげてね」
「うん!」
「で、スコールは私にボールを頂戴ね。良い?」
「うん」


 パスを回す順番が決定して、エルオーネはボールを持ち直す。
ティーダが受け止めようと言う意気込み見せるように、腰を低くして構える。


「行くよー」


 合図に声をかけてから、エルオーネはぽーんとボールを投げた。
下方から投げられたボールが、ゆっくりと放物線を描いてティーダの下へ。
ティーダは両腕を伸ばしてボールをキャッチすると、くるっと踵を返して、スコールを見た。


「行っくぞー、スコール!」
「う、うんっ」


 勢いよくボールを持った右手を降り被るティーダに、スコールが緊張の表情を浮かべる。


「うりゃあっ!」


 気合いの砲哮と供に放たれたボールは、一直線にスコールへと迫った。
その速さに、決して運動神経が良いとは言えないスコールが追い付ける筈もなく、え、と瞬き一つした直後には、ボールはスコールの眼前に迫っていた。

 ぼんっ!と大きな音を立てて、角度を変えたボールが空中へ飛び出した。
その時には、スコールは既に後ろに向かって引っくり返り、どてっ、と地面に尻餅をついていた。
宙を飛んでいたボールが下に落ちて、てんってんっと地面を跳ねる。

 はっ、とエルオーネは我に返った。


「スコール!大丈夫!?」


 エルオーネは急いで駆け寄り、弟を抱き起こした。
スコールはぽかんとした顔をしており、自分に何が起こったのか理解出来ていないようだった。
丸い瞳がきょとんと姉を見詰め、その赤らんだ顔が徐々にじわじわと歪み、


「ふえ……うええええええええん!」
「よしよし、痛かったね〜」
「お姉ちゃあぁぁああん…!」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣き出したスコールを、エルオーネは抱き寄せてやる。
目一杯の力でしがみつくスコールを、エルオーネは頭を撫でてあやしてやった。
ティーダはそんなスコールとエルオーネに、ぽかんとした表情を浮かべていたが、わんわんと泣きじゃくるスコールの声に、やがて我に帰る。


「あ、えっと、えと……ご、ごめ、ん?」
「ふえっ、えっ…ひっく…うえぇええん……!」
「えーと、えーっと……」


 自分の所為なのかな、どうしたら泣き止んでくれるんだろう、とおろおろするティーダに、エルオーネはスコールの頭を撫でながら、眉尻を下げて笑いかける。


「ティーダ君、ボール投げるの上手だね。ドッジボールとか、得意?」
「う、うーと……多分」


 エルオーネの突然の質問に、ティーダは首を傾げながら頷いた。


「凄いね、ティーダ君」
「そ、そう?」


 照れ臭そうに頬を掻くティーダに、エルオーネはうん、と頷く。
そんな彼女の腕の中で、ぐすん、と目を赤くしたスコールが顔を上げる。
エルオーネはスコールの目元をハンカチで拭いながら言った。


「でも、スコールがキャッチするのは難しかったみたい。ごめんね、ティーダ君」
「んーん。オレも、えっと…ごめん、スコール」
「……ん、ぅ……」


 重ねて謝るティーダに、スコールがこくんと小さく頷く。
赤らんだ目をこしこしと手の甲で擦るスコールを、エルオーネがやんわりと手を掴まえて諌めた。

 エルオーネがぽんぽんと弟の頭を撫でると、スコールはもう泣いていなかった。


「ボール遊び、まだやる?」


 尋ねるエルオーネの傍らで、ティーダがうずうずと肩を揺らしている。
彼は早く続きを始めたいようだったけれど、スコールを泣かせてしまった負い目からか、大人しくスコールの返事を待っている。
スコールはそんなティーダを見詰め、うつむいて迷うように自分のシャツの端を握り締めた後、────こくん、と頷く。

 ぱああ、と青の瞳が輝いて、ティーダは地面に転がっていたボールを取りに行った。
嬉しそうにボールを持って駆け戻って来たティーダから、エルオーネがボールを受け取る。


「ねえ、さっきと逆にしようか」
「逆?」
「…?」


 逆って?とスコールとティーダの瞳がエルオーネに尋ねる。


「ティーダ君のボール、スコールはちょっとキャッチするのが難しいみたいだから、ボールを回す順番を逆にした方が良いと思うんだ。だから、ティーダ君は私に、私はスコールに、スコールはティーダ君にボールを回す事にしよ?」


 良いかな、と確かめるエルオーネに、スコールもティーダもこくんと頷く。

 エルオーネは子供達からもう一度距離を取って、今度はスコールに向かってボールを見せる。
スコールは赤らんだ鼻を啜って、真っ直ぐエルオーネと向き合った。
そんなスコールの傍ら、ティーダが待ち遠しそうにワクワクとした表情で順番が回ってくるのを待っていた。


「行くよー、スコール」


 きちんと合図の声かけをして、エルオーネはスコールに向かってボールを投げた。
時々弟とボール遊びをする時のように、スコールが怖がらないように、ゆっくり弧を描いて飛んでいくボール。
ボールは駆け寄ったスコールの腕にぽすん、と収まった。

 よいしょ、とスコールはボールを持ち直して、ティーダと向かい合う。
さあ来い!と言うようにティーダが勝ち気な表情を浮かべていた。
スコールはそんなティーダに向かって、精一杯ボールを大きく降りかぶり、


「行くよー」
「よしっ!」
「ん、しょっ」


 力んで目を閉じて、勢いよく───少なくとも、スコールにしては───投げたボールは、ティーダの下へ行く事なく、明後日の方向へ。

 ティーダが「あー!」と声をあげて、見当違いの方向へ飛び出していったボールを追い駆けて走り出す。
それを見送るスコールが、しょんぼりと落ち込んでいた。
エルオーネはそんな弟に苦笑し、


「大丈夫、大丈夫。ね、ティーダ君」
「うん」


 ボールを回収して戻ってきたティーダに声をかければ、ティーダはけろりとした顔をしていた。
それを見て、スコールがほっと安心したように表情を緩める。

 ティーダはエルオーネの方を向いて、ボールを構えた。


「行っくよー!」
「うん!────きゃっ!」


 ティーダが投げたボールは、勢い良くエルオーネの腕に飛び込んできた。
じん、とした痛みが腕全体に響いて、エルオーネは目を丸くした。

 孤児院にいた時、最初は同じ年頃の子供達に囲まれていたエルオーネだったが、月日が経つ内に、彼女は自分より小さな子供達の姉役を担うようになった。
レイラやデッシュと言った子供達が引き取られていく中、エルオーネはレオンの妹として、スコールの姉として、彼らから離れる事を望まず、その内に孤児院の中ではレオンに次ぐ年長になっていたのである。
孤児院には男の子も女の子もいたし、スコールのように大人しい子供もいれば、ティーダのように活発な子供もいた。
エルオーネも元々はイタズラ好きで活発な一面があったので、活発な子供や、男の子の遊び相手と言うものも、エルオーネは慣れていた。

 そんなエルオーネから見ても、今のティーダが放ったボールは強いものだった。
サイファーと同じくらいかも、と弟分達の中で特に大将気質で活発だった男の子を思い出す。


「お姉ちゃん」


 驚きで呆然と腕のボールを見ていたエルオーネだった、スコールの声で現実に返る。


「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから。凄いね、ティーダの投げたボール」
「へへっ」


 誉められたティーダが、くすぐったそうに笑う。

 じゃあ行くよ、とエルオーネはもう一度スコールに向かってボールを投げる。
いつもと変わらず、力加減をして投げられたボールを、スコールがキャッチした。
次にスコールがティーダに向かってボールを投げると、今度はちゃんとティーダの下へボールが渡る。
それから、ティーダはエルオーネへ。
投げられたボールは勢い良くエルオーネの腕に飛び込んで、エルオーネはその強さに目を瞠る。

 三回、四回とボールを回し合って、エルオーネは自分の腕が赤く腫れている事に気付いた。
ボールが自分の所へ回って来るのを待っていたティーダに、エルオーネは「ストップ」と言って手を上げる。


「ごめん、腕が痛くなっちゃった。ちょっと休んで良い?」
「えーっ」


 エルオーネの言葉に、ティーダが判り易く残念そうな顔をする。
しかし、何度もボールを受け止めたエルオーネの白い細腕が真っ赤になっている事に気付き、唇を尖らせつつ、仕方ないかと小さく呟いた後、


「スコールはまだやるよな?」
「え…」
「やろやろ!ほら、スコールこっち立って」
「あ、ティーダ君、」


 ティーダはエルオーネの手からボールを掴むと、スコールの手を引いた。
エルオーネは慌ててティーダを呼び止めようとするが、ティーダは聞いていなかった。


「スコールはここな」
「んぅ……あ、あの……」
「さっきみたいに顔にぶつけたりしないからさ。ちゃんと加減するし」
「……ぅ、ん……」
「よーし!行っくぞー!」


 ティーダは嬉しそうにスコールから距離を取って、ボールを掲げて見せる。
スコールはどうしよう、と言う表情で姉を見た。
エルオーネは眉尻を下げて笑んでいるだけで、ティーダを止めようとはしない。

 折角、新しい友達が出来たのだ。
苦手なボール遊びでも、今度はティーダも手加減して投げると言っているし、もう少しだけ一緒に遊んでいても良いのではないだろうか。
スコールも本当に嫌なら嫌だと言える子だし、ティーダの誘いには迷いこそすれ嫌がっている様子はない。
もうちょっとだけ様子を見よう、とエルオーネは思った。

 行くよ、と言って投げたティーダのボールは、最初に投げたものよりもスローなものだ。
それでも、スコールには強いボールであった為、スコールは思わずしゃがんでボールを避けてしまった。
てん、てん、とスコールの背中でボールが跳ねる。


「ふあ……」
「スコール、ボールボール!」
「あ……ま、まって」


 コロコロと転がっていくボールは、高等部生達のいる方向へ。
ボールがこつん、と見知らぬ男子生徒の足に当たって、ボールを追い駆けていたスコールの足が止まる。
男子生徒がボールを拾ったのを見て、スコールは益々固まった。

 ボールを持った男子生徒が振り返り、スコールを見付ける。
初等部と思しき子供達がグラウンドの隅で遊んでいた事は、体育の授業に勤しむ生徒達にも見えていた。
スコールがその子供の一人だと気付いた男子生徒は、ボールを見せて「これ?」と口を動かした。
スコールは固まったまま答えない。
男子生徒は苦笑して、ボールをころころと転がしてやった。
上手くスコールの下まで転がったボールを、スコールは慌てて拾い上げ、ぺこっと頭を下げて逃げるように背中を向ける。

 元の位置に戻ったスコールは、ふぅふぅと肩で弾んでいた呼吸を整えた後、


「行くよー」
「おうっ!」


 ティーダに声をかけて、思いっきりボールを投げた。
ボールは何度目だろうか、明後日の方向へと飛んでいき、ティーダが慌ててそれを追い駆ける。

 スコールの投げるボールが、狙った方向とは違う場所へ飛んでいってしまうのは珍しくない。
運動音痴と加えて、それをサイファーに揶揄れる事も少なくなく、スコールのボール遊び嫌いの要因の一端になったとも言える。

 ボールを取って戻ってきたティーダは、早速スコールに投げ返そうと構えるが、しゅんと沈んだスコールの表情を見て、ぴたりと動きを止める。


「スコール?」
「……」


 どうしたんだ?と首を傾げて呼ぶティーダに、スコールはきゅうと唇を噛んでうつむく。
物言いたげな表情をしながら、口を開こうとしないスコールに、ティーダはむぅと眉根を寄せる。

 ティーダがスコールの傍に歩み寄った。
じい、と見つめる海の青から逃げるように、スコールはふいと顔を逸らす。
かと思うと、スコールは木陰で二人を見守っていたエルオーネの下へと駆け出した。


「あらあら」


 駆け寄ってきたスコールを、エルオーネは苦笑して迎える。
ぎゅっと抱き着く弟に、四歳年上の姉は仕方ないなあと眉尻を下げた。

 追い駆けてきたティーダの表情も、スコールと同じようにしゅんと落ち込んでいる。
また自分の所為でスコールを泣かせてしまったと思ったのだろう。
エルオーネはそんなティーダを手招きして呼び、ぽんぽんと金色の髪を撫でた。


「スコール、ボールを投げるの苦手なの。投げたい所と違う所に飛んじゃって、それを揶揄われた事があるんだ」
「オレ、からかったりしないもん」
「ありがとう。ほら、スコール。ティーダ君、気にしてないって」


 ぎゅう、としがみついてくる弟の背中をぽんぽんと撫でて言うと、スコールはそろそろと顔を上げて、ティーダをちらりと見遣る。

 何度も何度もボールを目標と違う場所に投げてしまって、ティーダはその度にボールを取りに走る。
決してスコールに悪気がある訳ではないけれど、転がるボールを何度も取りに行くのは、案外と大変な事なのだ。
昔、サイファーにスコールが揶揄れたのも、上手く投げられない、見当違いの場所にばかり投げてしまうスコールにサイファーが焦れた所為だった。

 からかう事がなくても、あの時のように、怒っているかも知れない。
スコールはそんな不安が拭えなかった。
青灰色の瞳に、その不安の色がありありと浮かんでいるのを、ティーダは見た。

 ティーダは、伺うように自分を見詰めるスコールを見て、言った。


「ボール投げるの苦手なら、オレが教えてあげる」
「……え?」
「だから、ほら。続きやろ!」


 ティーダの手が、スコールの手を握る。
引っ張られるままに、スコールは立ち上がって木陰を出た。

 先程と同じ位置に立ったスコールに、ティーダがボールを投げる。
ボールは一度スコールの前でバウンドして、スコールの手に受け止められた。


「よーし、来いっ」
「……ん、しょっ」


 構えるティーダに、スコールは少し躊躇った後、思い切ってボールを投げた。
しかし、ボールはスコールの足元に叩き付けられるように落ちて跳ね、バウンドしながらティーダのいる方向からすっかり逸れて転がって行く。
あまりに不格好なボールの軌道に、スコールの頬が恥ずかしそうに赤らんだ。

 ティーダが転がってきたボールに追い付き、拾って、振り返る。


「スコールさあ、なんで目閉じるの?」
「……?」
「目だよ、目。閉じたら何にも見えないじゃん。投げる方向、ちゃんと見なきゃ」


 ティーダは自分の目を指差しながら言う。
こうやって、と手本を見せるように、ティーダはボールを見て、スコールを見て、真っ直ぐにスコールを見たまま、ボールを投げる。
ボールは綺麗に曲線を描いて、スコールの下へと飛んだ。

 足元でバウンドしたボールを、スコールがキャッチする。
スコールはしばらくボールを見詰めた後、ティーダを見て、両手でボールを頭上へ持ちあげた。
目を閉じないように、開くように意識しているスコールは、瞬きさえもしないように我慢している。
必死さが伝わる表情でボールを投げる弟に、エルオーネはこっそり笑った。

 スコールが投げたボールは、先と同じように地面に叩き付けられて跳ねたが、今度はちゃんとティーダのいる方向に転がった。


「出来たじゃん!」
「で、でき、た?」
「うん!」
「でも、ティーダやお姉ちゃんみたいにならない…」


 スコールは、エルオーネやレオン、クラスメイトの子供達のように、綺麗にボールを投げたいのだと言う。
しかし、スコールは何度やっても上手く投げる事が出来ず、地面に叩きつけてしまったり、降り被った時にボールを後ろに転がしたり。
どうしたら良いの、と尋ねるスコールに、ティーダはボールを頭上に掲げて、降り被る仕草を見せながら言った。


「こうだよ、こう」
「こ…こう?」
「そうそう。で、ここで手を放す」
「…ここ…?」


 ここってどこ、と言う表情で首を傾げるスコールに、ここだよ、とティーダは腕振りを繰り返しながら言う。
いまいち説明の足りないティーダに、スコールは困った顔を浮かべ、ティーダは通じない事に焦れたように眉根を寄せる。


「なんで判んないんだよう」
「…だ、だって……」
「こうだってば」
「……わかんないよぅ……」


 何度も動作を見せて手本を示すティーダだが、スコールは首を傾げるばかり。
困り切った弟の目に、じわじわと雫が浮かぶのを見て、エルオーネは腰を上げた。





 ボール遊びの後は、範囲を決めての追いかけっこや隠れんぼ、高鬼に色鬼。
走り回るのが苦手なスコールが疲れてしまうと、三人で地面にお絵描きをした。

 ────そうして知らず知らずの内に時間は過ぎ、気付いた時にはグラウンドで体育授業をしていた高等部生の姿はなく、高等部生も放課後と呼べる時間になっていた。
しかし、小さな子供二人はそれを知る事もなく、チャイムの音も聞こえなくなる程、夢中になって地面にお絵描きをしている。
エルオーネはグラウンドの時計を確認しながら、家の冷蔵庫の中身と今晩の献立を考える。
急いで買い物に行く必要はないとは思っていたが、よくよく思い返していると、調味料のあれこれが少なくなっていたような、あの材料を買っておいた方が良いかな、と思うようになってくる。

 エルオーネは、時計の針が5時前になっているのを見て、そろそろ帰らなくちゃと、お絵描きに夢中になっているスコールを呼んだ。


「スコール。そろそろ帰る準備しなくちゃ」
「もう?」


 エルオーネの声に反応したのは、ティーダが先だった。
もうちょっと遊びたい、と言葉以上に訴える海の瞳に、エルオーネは眉尻を下げ、


「ごめんね、ティーダ君。私達、帰って晩ご飯作らなきゃ」
「エルオーネのお姉ちゃんがご飯作るの?」
「うん。まだあんまり上手に出来ないけど」
「僕もお手伝い……」
「そうそう、スコールも手伝ってくれるんだよね」


 良い子、とエルオーネの手がスコールの頭を撫でる。
優しく撫でる姉の手に、スコールはくすぐったそうにはにかんでいた。

 スコールはお絵描きに使っていた小枝を地面に置いて立ち上がり、ぱんぱんと服の埃を払う。
足元には、レオンやエルオーネの似顔絵が描かれており、スコールはそれを踏まないように、ぴょんと飛び越えて姉へ駆け寄る。
エルオーネは、スコールの肩に鞄をかけると、自分の鞄を同じように肩にかける。
ティーダは右手に小枝を握ったまま、頬を膨らませて立ち尽くしていた。
そんな子供に、弟と手を繋いだエルオーネは、反対の手を差し出す。


「おいで、ティーダ君。向こうまで一緒に行こう」


 そう言って微笑んだエルオーネと、彼女と手を繋いでじっと見詰めるスコール。
琥珀のような茶色の瞳と、澄んだ青灰色の瞳を見て、ティーダは迷わず走った。

 ぎゅ、と繋がった小さな手に、エルオーネがにっこりと笑う。
スコールもエルオーネの傍らで、嬉しそうに笑うティーダを見て、笑った。

 広いグラウンドを横切って、グラウンドとガーデン校舎を繋ぐエントランスの階段を上がる。
両手に幼子達の手を握り、テンポの違う二人を支えながら上るのは大変だったが、エルオーネにとってはそれも慣れた事だ。
孤児院にいた時から、放っておくとあちこちへ自由に駆け出してしまう子供を捕まえる為、両手にそれぞれ子供達と手を繋いでいるのは日常的だったのだから。

 渡り廊下を辿り、校舎に入った所で、三人は足を止めた。
廊下の向こうから、此方へ向かって近付いてくる二つの影がある。


「お兄ちゃん!」
「ママ先生!」


 スコールとティーダの声が弾んで響く。
呼ばれた二人は、小さな笑みを浮かべて、ひらりと手を上げる。

 エルオーネがスコールの手を離すと、スコールはレオンへと駆け出した。
足を縺れさせながら走るスコールだったが、無事に兄の下へ辿り着くと、しゃがんだレオンの胸に飛び込む。


「んぅ…えへへ」


 嬉しそうに目を細めるスコールの髪を、レオンの手がくしゃくしゃと掻き撫ぜる。
其処へ、ティーダに手を引かれたエルオーネが小走りで到着した。


「レオン!」
「おっと」


 タックルするように抱き着いてきたティーダに、屈んでいたレオンがバランスを崩して床に尻餅を着く。
ティーダはそれに気付かず、嬉しそうにレオンにじゃれついていた。

 レオンはティーダの頭を撫でながら、三人を眺めているエルオーネを見上げ、


「遅くまでガーデンに残ってるなんて、珍しいな」
「うん。ティーダ君が一緒に遊ぼうって誘ってくれたから。晩ご飯の買い物、今日はしなくても良さそうだったし。結構、色々残ってた筈だから」
「そうか」
「でも、お塩が少なくなってた気がするんだけど……」
「ああ、そう言えばそうだったな。じゃあ、塩と────何かお菓子を買って帰ろうか」


 レオンはスコールとティーダが抱き着いたまま、ゆっくりと立ち上がる。


「今から買い物に行っても大丈夫?アルバイト、遅れない?」
「それなら心配ない。マスターの家族にちょっと急用があったとかで…二、三日は店を開けられないそうだ。今日も休みになったしな」
「じゃあ、晩ご飯、一緒に食べられる?」


 兄と姉の話を聞いていたスコールの言葉に、レオンが頷くと、丸い青灰色の瞳がきらきらと輝いた。
嬉しそうに腰に抱き着いてくるスコールを、レオンも眩しそうに目を細めて見下ろす。

 その様子をじっと見つめていたティーダの頭を、優しく撫でる手があった。
ママ先生こと、イデア・クレイマーだ。


「ティーダ君は、私と一緒に晩ご飯を食べましょうね」
「ママ先生と?」
「ええ」


 微笑みかけるイデアの言葉に、ティーダの青の瞳も、スコールと同じようにきらきらと輝いた。
やった、と全身で喜んで抱き着いてきた子供を受け止め、イデアも嬉しそうに笑う。

 エルオーネは、背を屈めてティーダと目を合わせた。


「ティーダ君、また明日ね」
「明日?」
「うん、明日。スコールも、ほら」
「ティーダ、ばいばい。また明日」
「ん、ばいばい。また明日!」


 明日、と言う言葉を嬉しそうに繰り返すティーダに、レオンとイデアは顔を見合わせ、小さく笑みをこぼす。

 スコールが右手をレオンと、左手をエルオーネと手を繋ぐ。
大好きな兄と姉に囲まれたスコールは、手を繋いだままで嬉しそうにぴょんぴょんと小さく跳ねる。


「じゃあな、ティーダ。また明日」
「ばいばい」
「またね、ティーダ君」
「ばいばーい!また明日ね!」


 レオン、スコール、エルオーネに、ティーダは大きく右手を振って別れの挨拶を返す。
そんなティーダの左手は、イデアの右手を握っている。

 遠退いていく大中小の影を見送りながら、イデアは目を細めた。


「スコール、ティーダと友達になったんだな」
「うん。あのね、ティーダがね、遊ぼうって。言ってくれた」
「ボールの投げ方、教えて貰ったんだよね」
「ん。んとね…ちょっとだけ、上手になった、よ。ね?」
「ねー」
「そうか。良かったな、スコール」
「お昼もね、一緒に食べたの。ティーダ、にんじん、キライなんだって」
「スコールと一緒だね。スコール、お残ししないでちゃんと食べた?」
「食べたもん」
「なら良い子だ。今日は時間があるから、ご褒美に何かデザートでも作ろうか」
「ほんと?」
「また甘やかして……」
「じゃあ、エルはいらないのか?キャラメルプリン」
「お姉ちゃん、ぷりん食べないの?」
「う〜っ……食べる!もう、レオンのいじわる!」
「冗談だよ。皆で食べような」
「うん!」


 弾む兄妹弟の会話。
イデアは、彼らが毎日、元気な顔を見せてくれる事に、心から安堵していた。

 ────きゅう、と。
イデアは、自分の手を力一杯に握る子供に気付いて、視線を落とした。
其処には、遠退いていくレオン達をじっと見詰めるティーダがいる。
その青色の瞳が捉えているのは、レオンとエルオーネに両手を引かれて歩く、自分と同じ年齢の小さな子供。
イデアは、ティーダの目がじっと羨ましそうにスコールを見詰めている事に気付いていた。

 三人の姿が見えなくなって間もなく、イデアは「行きましょう」とティーダの手を引いた。
ティーダは後ろ髪を引かれるように、何度も何度も後ろを振り返りながらイデアに連れられて歩く。


「ティーダ君。晩ご飯、食べたいものはある?」
「…言っていいの?ママ先生、作ってくれるの?」
「ええ」
「じゃあ、ハンバーグ食べたい!」
「判ったわ。うんと美味しいハンバーグ、作ってあげますからね」


 青色の瞳が嬉しそうに輝くのを見て、イデアはそっと目を細める。

 繋いだ小さな手は、ぎゅっとイデアの手を握って、決して放そうとはしない。
この小さな手を、愛しく思わない親など、きっと何処にもいないのだ。
けれどもそれを理解するには、まだティーダは幼過ぎて、不器用な父との向き合い方も知らない。
イデアは、寮での客室で息子の帰りをまんじりともせず待っているであろう男の顔を思い出し、難しいものですね、と胸中で苦笑した。





 イデアとシドと三人で夕食を終え、寮へと戻ってきた息子は、友達が出来た、と言って嬉しそうに笑っていた。
そりゃ良かったな、と言ってやれば、息子はうん、とくすぐったそうに頷いた。
授業見学はどうだったんだと尋ねると、面白かった、と息子は言った。

 スコール、レオンの弟なんだって。
エルオーネって言う姉ちゃんもいるの。
楽しそうに今日一日の出来事を報告するティーダを見詰め、ジェクトはなんともこそばゆい気分になるのを感じていた。
バラムガーデンに来てから今日で四日が経つが、今夜のようにティーダが無邪気に話しかけてくるのは、初めての事だった。
きっと今夜のこの光景が、親子としては正しい姿なのだろうな、とジェクトは思う。


「エルオーネのお姉ちゃんが、ボール投げるの上手だって。褒めてくれた」
「そーかい。良かったな。ま、俺からして見りゃ、まだまだヘッタクソだけどよ」


 嬉しそうなティーダに、いつもの意地悪心が沸いて、そんな言葉を吐いた。
すると、ティーダもいつものようにムッとした顔を浮かべる。


「エルオーネのお姉ちゃんは誉めてくれたもん」
「そりゃあな。その辺のガキよりゃボール投げんのは上手いかも知れねえけどな、ンなモン、俺様から見りゃどんぐりの背比べだっつーの」
「ガーデンのせんせーより上手って、エルオーネのお姉ちゃん言ってたよ!」
「ばぁか、お前みたいなチビ助が大人に敵う訳ねぇだろ」
「ほんとって聞いたら、ほんとって言ってくれたもん!エルオーネのお姉ちゃん、嘘言わないってスコールも言ってた!」


 ムキになったように声を荒げて言い返すティーダの目には、大粒の雫が浮かんでいる。
それを見て、やべえ、とジェクトは気付いたが、既に遅い。
じわじわと膨らんだ粒の雫は、ティーダがそれを堪えようとぎゅっと眼を瞑った時、ぽろりと溢れ出してしまった。


「ほんっ、ほんとって、エルっ……ひっ、うえっ、えっ、」


 本当に上手だって言ってくれたもん、と泣きじゃくりながら繰り返すティーダに、ジェクトは溜め息を吐いた。
ああ、やっちまった、と。

 嬉しそうなティーダを見ると、どうして意地の悪い事を言ってしまうのだろうか。
ぐすぐすと泣きじゃくるティーダを前に、ジェクトはがりがりと頭を掻きながら思う。

 ────まだティーダが赤ん坊だった頃、ジェクトはすやすやと眠るティーダをよく起こしては泣かせていた。
その時は、意地悪心で起こしていた訳ではい。
ブリッツボールの練習やマスコミ取材を終えて遅い帰宅が日常であったジェクトの存在を、赤ん坊のティーダが認識したのは、誕生から随分後の事だった。
早朝に家を出て、遅くに帰ってくる父を、乳飲み子が待っていられる訳もなく、ジェクトが帰宅した時にはティーダはいつも眠っていた。
息子の寝顔を見ているのは好きだったし、それはとても穏やかな時間だったのだけれど、起きている時の息子と触れ合いたいとも思っていた。
そんなある日、ジェクトが見ている前で、ぱちりとティーダが眼を覚ました。
見慣れぬ男───父親───を見た息子は、わんわんと声を上げて泣き出し、ジェクトは何ヵ月振りに見た息子の泣き顔に、戸惑いつつも喜びを感じていた。
声を上げて、腕を足を振り上げて動く息子に、ああ生きているんだと感じた。

 ……多分、その時感じた喜びが、悪い癖になって残っているのだ。
おまけにジェクトは、泣き出したティーダをあやすのが下手で、泣かせた後に笑わせてやる事が出来なかった。

 あれからティーダは成長し、もう泣く事だけで自己主張する赤ん坊ではなくなった。
けれど、何度も何度も父に泣かされていた所為か、涙腺はすっかり緩んで癖になってしまい、悲しかったり悔しかったりすると、直ぐに涙が顔を出す。
以前は妻がそんなティーダを宥めてくれていたのだが、妻亡き今、ジェクトはどうすれば息子を泣き止ませる事が出来るのか判らない。
戸惑っている内にティーダは益々声を上げて泣きじゃくる。


「えっ、えっく、わぁああぁああん…!」
「…あー、くそっ」
「ひっ、うぇっ、うわぁあああああん!」


 ジェクトが漏らした舌打ちが、ティーダを益々泣かせてしまう。

 ジェクトが苦々しく思うのは、泣きじゃくる息子ではない。
息子を泣かせ、慰めてやる事が出来ない自分自身だ。
しかし、幼い息子にそれが判る筈もなく、ジェクトは自分の所為で苛立っているのだと思っている。

 こんな時、妻はどうやって息子を泣き止ませていただろう。
甘えん坊の息子を泣き止ませる時、妻は息子を胸に抱き寄せ、優しく髪を撫でていた。
彼女と同じようにすれば、息子は泣き止んでくれるだろうか。

 手を伸ばして、小さな息子を抱き締めようとして、出来なかった。
伸ばされた手を嫌うように、ティーダが益々泣き声を大きくする。
ジェクトは手を彷徨わせた後、泣きじゃくるティーダの腕を掴んで、膝の上に乗せた。
嫌がって逃げようとするティーダをやんわりと捕まえ、此処にいろ、と言葉なく言えば、ティーダはいやいやと首を横に振って父の腕から抜け出そうとする。


「えっ、うえっ…!うええええぇん!」
「……あーあ…ったく…」
「ジェクトのばか!ジェクトなんかきらい!」
「判った、判った」
「ジェクトなんか、ジェクトなんか……うえぇええぇえん…!」


 ついさっきまで、楽しそうに一日の出来事を報告していた事などすっかり忘れたように泣き続けるティーダ。
きっとこのまま、泣き疲れて眠ってしまうのだろう。

 ……ようやく、息子の笑った顔が見れたのに。
自分の所為で泣かせてしまった事は、重々判っている。
褒めて貰えて良かったな、とその一言で終わりにすれば良かったのに、どうして自分は余計な一言を言うのだろう。
その所為で、こうして何度も何度も泣かせているのに。

 子供の泣き声が響いていた部屋の中が、少しずつ静かになっていく。
勉強をして、新しい友達と遊んで、泣きじゃくって疲れてしまった息子は、ぐす、と鼻をすすりながら、うとうとと舟を漕いでいた。
殆ど落ちた瞼を大きな手で覆ってやると、予想していた嫌がる仕草はなかった。
手を放してやれば、ティーダは青い瞳を瞼の裏に隠していて、すぅすぅと眠っている。

 それを見詰めながら、ジェクトは数日前に聞いた少年の言葉を思い出していた。

『もうちょっと優しく言ってあげた方が良いですよ』


 小さな弟と、少女と、三人で暮らしていると言う彼は、小さな子供の世話も慣れていると言っていた。
ジェクトの年齢の半分になるかならないか、そんな年頃の少年でも、小さな子供の扱いは心得ている。
実際に彼は、泣きじゃくるティーダをあやし、泣き止ませていた。

 もう少し優しく。
もう少し、柔らかく。
力任せにするのではなくて。
────そう思っているのに、そうすればきっと息子も嫌がる事はないのだろうと思うのに、何故だろう。
触れようとすると、我知らず力が入って、乱暴なやり方しか出来ない。

 ジェクトは、くしゃり、とティーダの頭を撫でた。
んぅ、とティーダが小さくむずがったけれど、嫌がって逃げようとはしなかった。
多分、この触れ方が正しいんだろうな、と思いながら、


(こう言う時なら、こうやってやれるのにな)


 息子が起きている時に、こんな風に触れてやった事があっただろうか。
ジェクトは、思い出す事が出来なかった。