握り締める、小さな手


 冬の終わり、春が近付いてくると、バラムガーデンの中は非常に慌ただしくなってくる。
来年度の準備は勿論の事、今年度の内に済ませなければならない事も山積みとなり、事務職員や教師は休憩する暇もあったものではない。
そんな大人達に比べると、生徒は暢気なものだなどと言う者もいるが、学生には学生の悩みがあるものだ。
特に中等部生から上は、学年末テストと言うラストボスが待っている。
これをクリアしなければ、補習と言う隠しボスに襲撃され、折角の春休みを食い潰される事になる。

 春先のバラムガーデンの慌ただしさは、そう言った何処の教育機関でもありがちな定例行事の他にも、理由がある。
平日のバラムガーデンは、基本的に授業はカリキュラム通りに進められるのだが、時折、授業が急遽変更される事もある。
それは主に訓練施設を使う授業で、戦闘訓練授業や魔法訓練授業が、授業の当日或いは直前になって取り止めになる事がある。
春先になると、冬眠を終えて子作りの時期になったアルケオダイノスは勿論、植物と同じ性質を持つグラットの活動も活発化し、狂暴性も増す。
この為、生徒を可惜に危険に近づけさせない為、事故防止の為に、春先の訓練授業は頻繁に中止されるようになるのである。

 訓練施設の使用が出来なくなると、施設を使う予定であった授業の代わりに、教室で通常授業をする事になる。
年中ならば他教科と入れ換えられる事が多いのだが、年度末となると、順調に進んでいればカリキュラムに定められた範囲は大方終わっている事が多かったり、授業に入れる時間のある教員がいなかったりと言う理由で、自習授業となるのも珍しくはなかった。

 授業中とは思えない賑やかさに包まれている教室を抜け出し、レオンはエレベーターで一階フロアに降りた。
その手には教科書やノートと、筆記用具がある。
向かう先は、常時利用が許可されている図書室だ。

 勉強をするのなら教室でも良かったのだが、自習時間で監督する教師も不在となっている所為か、教室は非常に賑々しいものとなっている。
レオンの集中力なら、周囲の喧騒など気にならないが、突進してくる人間は流石に無視できない。
構え遊べとじゃれついてくる友人達の事は嫌いではなかったが、レオンは生真面目な性格もあり、授業中に彼らと同じテンションではしゃぐのは無理だ。
しかし友人達はそんな事はお構いなしに突撃して来るので、本当に勉強に集中したいのなら、逃亡するのが一番なのだ。


(全く、エッジもロックも……学年末テストが近いのに、暢気なものだな。いつもの事だが)


 普段、真面目に受講しているし、定期テストも問題のない点数───で片付けるには良すぎる成績なのだが───をキープしているので、学年末テストも大丈夫だろうとは思うのだが、やはりテストが近付くと柄も言われぬ不安に駆られるのは、レオンとて同じ事であった。
友人達もそれは同じで、テストが近付く度に憂鬱だ面倒だと言っている。
その不安を拭う為、更に勉強するか、綺麗さっぱり忘れて遊ぶかと言う点が、レオンと友人達の違いだ。

 きっと、テスト直前にまた教えてくれと泣き疲れるのだろうな、と思いつつ、レオンは苦笑する。

 エレベーターホールから図書室は近い距離にある。
円形に作られている廊下を、エレベーターホールから左に向かえば、一番近くにあるのが図書室だった。
レオンは手の中の筆記用具を持ち直し、図書室へと繋がる渡り廊下を歩く。

 ────と、


(……なんだか、よく見る気がするな)


 渡り廊下の途中に、見覚えのある男が立っている。
彼は渡り廊下の縁壁に寄りかかり、其処から望める中庭を眺めていた。


「ジェクトさん」


 声をかけると、男はゆっくりと振り返る。
お前か、と言ったジェクトも、この一週間で何度となく顔を合わせたレオンの事を覚えたようで、慣れた表情をしていた。


「お前、こんなトコいて良いのか?授業中だろ?」
「訓練施設が使えなくなったので、自習になったんです。それで、図書室で勉強しようと思って。教室はちょっと────賑やかなので」


 自習で教室が賑やか、と聞いて、ジェクトはくくっと笑った。
突然の勉強時間からの解放感で、生徒のテンションが上がるのは、何処の国でも同じ事らしい。

 ジェクトの方は、何故此処に。
聞こうとして、レオンはジェクトが中庭の向こうを眺めている事に気付き、彼の視線を追う。
其処には小さな子供達の姿があり、皆手にスケッチブックを抱え、絵の具道具の入った鞄を肩に下げている。
そんな中、一人身軽な子供は、ジェクトの息子であるティーダだった。
他の子供達と違い、まだガーデンの生徒ではないティーダには、教材類が配られていない為、他の子供に比べると身軽になるのだ。

 子供達は図画の時間なのだろう。
中庭の中で描きたいと思うものを見付ける為、歩き回る子供達もいれば、既に何かを見つけて座っている子供もいる。
スケッチブック一つを持ったティーダの隣は、スコールと手を繋いで、きょろきょろと中庭を見回している。
この中庭には初めて来たのだろう、ティーダの青い瞳が物珍しそうにキラキラと輝いていた。

 成る程、これを見ていたのか。
レオンは納得して、ジェクトの隣で中庭を探検するように歩く弟達を眺める。


「ティーダは、絵を描くのは好きなんですか?」
「ん……どうだかなぁ。じっとしてんのが苦手だからな」


 あいつの絵って言うのも、見た事がないような。
何処か淋しげにジェクトが呟く。

 ティーダに手を引かれて歩いていたスコールが、渡り廊下に立つレオンを見付ける。
遠目にも判る程、ぱあ、と明るくなった弟の表情に、レオンはくすりと笑った。
立ち止まってスケッチブックを持つ手を振るスコールに、レオンは手を振り返してやる。
スコールが立ち止まった事に気付いたティーダも足を止め、スコールの視線を追ってレオンを見付け、ぶんぶんと大きく手を振った。
嬉しそうに笑う蒼と青は、まっすぐレオンに向けられている────レオンだけに。


「……ジェクトさん?」


 隣にいた筈の男の姿が消えている事に気付き、レオンは辺りを見回した。
おかしいな、と思っていると、ごそ、と足元で何か大きなものが動いた事に気付く。

 見下ろして、渡り廊下の背の低い壁に隠れるように縮こまっている男を見付ける。


「…何をしているんですか?」
「……いや……条件反射っつーか、なんつーか……」


 ジェクトは溜め息を吐いて、壁に背中を預けた。


「折角ティーダが手を振ってたのに」
「……だからだよ。折角楽しそうにしてんのに、俺の面なんか見たら、また変な面になるだろうからな」


 変な面とは、一体。
一瞬考えたレオンだったが、ティーダとジェクトのぎこちない親子仲を思い出し、問う事は止めた。

 ジェクトとティーダの親子が、この一週間をバラムガーデンで共に過ごしている事は、レオンも知っている。
今まで擦れ違いの生活を続けていた親子にとっては、久しぶりに同じ時間を共有できるものだったのではないだろうか。
シドもそのつもりで、ジェクトに息子と共にバラムに残るように奨めたのだろう。

 ティーダがスコールの手を引いて、あっちに行こう、と促す。
スコールもそれに頷いて、二人は中庭の奥へと駆けて行った。
弟の手を引いて行った子供は、自分の父親がレオンと共にいる事には気付いていないのだろう。


「……ティーダ、行っちゃいましたよ」
「…おう」


 のろのろとジェクトが腰を上げる。
ジェクトは息子のいなくなった中庭を見て、溜め息を吐く。
レオンはそんなジェクトを見上げ、少しの間迷った後、口を開いた。


「ジェクトさんは、まだ、ティーダを置いてザナルカンドに帰ろうと思っているんですか」


 少年の問いに、ジェクトは答えない。
その沈黙が肯定である事は、ジェクトの淋しげな表情が物語っている。


「……どうして、連れていってやらないんですか」
「一応、俺ぁこれでも有名人って奴だからな。便利な事もあるが、面倒な事も多くてよ。こんな親でも、やっぱ手前のガキに嫌な思いさせたかねえし」
「………」
「…判んねえって面してんな」


 じっと見つめるレオンの無言の抗議に、ジェクトは苦い顔で笑う。


「バラム育ちのお前にゃ判らねえだろうが、ブリッツってのはザナルカンドじゃ相当人気があるスポーツなんだ。俺はそれでキングなんて呼ばれてる。だから有名人って訳だ。そういうのには、必ずマスコミだのなんだのってのがまとわりついて来るもんでよ、俺も毎日取材だなんだって追い駆け回されてる。で、そういう奴らの中には、プライベートとかそう言うのを無視する奴らもいる」


 有名人本人から話を聞くだけでは足りず、その周辺、チームメイトや近しい友人は勿論の事、一般人である家族にもカメラを向けられる事がある。
ジェクトは自分の人気の高さと、話題性があれば虚偽の情報でも食い付いて大風呂敷を広げるマスコミの体質を理解していた。
人気が高く、豪快な性格をしているジェクトには、根も葉もない噂が度々飛び交う。
女性問題など当たり前の話で、そんな話題でも家族の耳に入ればきっと傷付ける。
幼い息子に、大人のどろどろとした陰湿な場面を見せるのも嫌だった。
だからジェクトは、つい数日前まで、妻と息子がいる事さえも公表していなかった。

 しかし、妻の死を切っ掛けに知られた家族の存在は、もう隠す事は出来ない。
今までごく普通の子供として生きてきた息子にも、母の死と言う現実とは別に、否応なく変化が起こるだろう。
今はその変化に気付く事がなくとも、成長し、少しずつ周りが見えてくるようになった時、ティーダはきっと気付く筈だ。
自分が“ティーダ”として見られるよりも早く、“キングの息子”と言う言葉がついて回っている事に。

 ジェクトは、ティーダには普通の子供でいて欲しかった。
いつか父を追ってブリッツボールに興味を示すとしても、逆にそれを遠ざけるとしても、他の子供達と同じように、自分自身の好きなことを見つけて、思うがままに生きて欲しかった。
嘗てのジェクトがそうであったように。
しかし、ジェクトが余りにも有名になり過ぎた今では、その父親の存在こそが、息子を“普通”でなくしてしまうのも事実だった。


「だから、連れて帰るのは無理なんだよ。俺のガキだって判りゃ、周りが放っといちゃくれないからな」
「守ってやれば良いじゃないですか。今までそうして来たんでしょう?」
「まあ、そういうつもりだったけど────そりゃ、嫁さんがいたからなんだよ。嫁さんがあいつの事を引き受けてくれてたからな。俺は外でブリッツに集中してりゃ良かった。けど、これからはそうも行かねえ。生憎、ザナルカンドにゃ遠慮なく頼れるような宛もないし、若しもあいつを連れて帰るんなら、俺が面倒みてやんなきゃならねえ。この一週間でよく判ったんだが、俺ぁ家事だのなんだのってのはまるで出来ねえし、何かっつうとあいつを泣かせるし。嫁さんがやってたみてえには出来ねえよ」


 料理は勿論、掃除洗濯さえもジェクトはろくにやって来なかった。
少しでも彼女と同じように努めようと試みて、ジェクトの心はすぐに折れた。
息子の事も含め、ジェクトはすっかり妻に甘えていたのだと実感した。

 そんな父親を見て、ティーダは何を思っただろう。
幻滅したかもな、とジェクトは思った。
元々、幻滅される程に息子が自分を慕っていたかも定かではないけれど。

 子供を育てる為に重要となるのは、環境だ。
子は親を映す鏡とはよく言ったもので、育てたように子は育つと言う。
ジェクトはその言葉を思い出す度、自分の手元に息子を置く事は、彼の為にならないとしか考えられなかった。


「俺がザナルカンドに帰るのは、ブリッツを続けたいって俺の我が儘もあるんだけどよ。それがなくても、俺はあいつの傍にいない方が良いんだ。昨日も結局、泣かせちまったしな。あいつも大っ嫌いな父親の面なんか、いつまでも見ていたくないだろうし」


 バラムにいる間、なんとか息子が望むような父親になろうとしてみたけれど、ジェクトには息子が父に何を望んでいるのかが判らない。
ただ少なくとも、意地の悪い事ばかりを言って自分を苛めてばかりの父親よりも、レオンやシドのような優しい人間の方を望むのは、当然の事だろうとジェクトは思う。

 大切な息子には、決して嫌な思いをさせたくないのに、自分の所為で嫌な思いをさせてしまう。
それならいっそ、離れてしまった方が良い。


「……親として正しいとは思ってねえよ。だけど、俺は親だからな。あいつは俺が守ってやらなきゃいけねえんだ」


 嫌な事、悲しい事────傷付いてしまう事がないように。
守りたいから放れるのだと、ジェクトは言う。

 ちゃんとした環境で、ちゃんと面倒を見てくれる人の所で。
真っ当に普通の子供として育って欲しいのだと、ジェクトは酷く淋しげな笑顔を浮かべていった。

 レオンはそんなジェクトの横顔をじっと見詰め、


「……大人の理屈ですね」


 ぽつりと呟いた少年の言葉に、ジェクトは顔を上げた。
じっと自分を見詰める少年を見返せば、深く澄んだ蒼灰色の瞳が、怒りとも悲しみとも言えない色を浮かべている。
その瞳に、責められているような、縋られているような気がして、ジェクトは目を瞠る。

 レオンは、ジェクトを見つめたまま言った。


「子供の理屈を、言っても良いですか」


 問うと言うよりは、確かめるように言ったレオンに対し、ジェクトは言葉を失ったまま。
レオンは返事を待たずに続ける。


「俺は、孤児院の出身です。バラムガーデンが出来るまで、シド先生とイデア先生の孤児院にいました」
「…ああ。そうらしい、な。イデアさんの事をママ先生って呼んでるから、そうなんだろうなとは思ってた」
「イデア先生は───ママ先生は、孤児院で暮らす子供達にとって、母親でした。代わりじゃなくて、本当に、心からそう思える人なんです。俺もそう思っています。……だけど、俺が初めてバラムに来た時には、俺を生んでくれた母も、まだ一緒にいたんです」


 レオンが初めてバラムに来たのは、8歳の時だ。
ガルバディア大陸の南方、周囲に望むものなど何もないような、そんな小さな村から、レオンは母と共に移住した。
その頃はガルバディアとエスタの戦争の只中で、レオンの生まれ故郷もその戦禍に巻き込まれたのが切っ掛けだった。


「孤児院にいたのは、最初は俺と母で、少し遅れてから妹のエルオーネも来ました。スコールが生まれたのは移住した年の夏で、母はスコールを生んだ後、亡くなりました」


 夏の終わりが近付く日、彼女は眠るように息を引き取った。
スコールとエルをお願いね、と言った母の笑顔を、レオンは今も覚えている。

 レオンはゆっくりと息を吐いて、知らず強張っていた肩を緩める。


「俺達をバラムに連れて来たのは、父でした。俺達が住んでいた村がエスタの兵に襲われたのを見て、何処か別の所に移った方が良いって言ったのは、父だったんです。それで、父の知り合いだったシド先生を頼って、俺達はバラムに来ました。その後、父はガルバディアに戻りました」


 その時、父はガルバディア軍に兵士であり、当時のガルバディア軍は脱走兵を決して赦さなかった。
父は絶対に戻るから、とレオンと約束し、幼い息子と妻を島国に残し、ガルバディア大陸に戻る事を余儀なくされた。
エルオーネがバラムに来た時、レオンは父も戻って来てくれるものだと思っていたが、ガルバディアとエスタの戦争はその後もしばらく続き、これが落ち付くまでは父も容易く戻っては来られない。
しかし、戦争が終われば、また家族皆で過ごせるようになるのだと、レオンは信じていた。
スコールが生まれ、家族が増えた事も、レオンは早く父に伝えたかった。

 だが母が急死した事により、レオンは憔悴した。


「母が死んだ後、父に早く帰ってきて欲しいと思いました。母が死んだ事も、スコールが生まれた事も、伝えたかった。だけど多分、それ以上に、俺自身が怖くて堪らなかったんだと思います」
「怖い?」
「……俺も、子供だったから。まだ、自分を守ってくれる人が欲しかったんだと思います」


 確り者だと言われているレオンだが、それでも10歳にもならない頃の事である。
突然の環境の変化の中でも、不安を感じる事なく過ごしていられたのは、母が傍にいてくれたからだ。
父が帰って来るまで、母と妹は自分が守るのだと誓ったレオンだったけれど、彼の心もまた、母の存在によって守られていたのである。


「母が死んだ時、シド先生もママ先生も、とても気を遣ってくれました。それはちゃんと判っているんです。スコールの事があったから、俺もエルもあまり悲しんでいる暇はなかったけど、母がもう何処にもいないんだって事を感じる度に、胸の奥に穴が空いたような気がしました。その穴は、シド先生やママ先生が傍にいてくれた時も、埋まってはくれませんでした」


 シドやイデアの気遣いの暖かさが、足りなかったと言う訳ではない。
母の死後、二人がレオンやエルオーネを気遣い、まだ生まれて間もなかったスコールの事も大切にしてくれた。
二人には、どんな感謝の言葉を伝えても足りない位だと、レオンは思う。

 しかし、そんな気持ちとは裏腹に、レオンの心の空虚は埋まらなかった。
母が与えてくれていた温もりが突然消えた事への戸惑いは、簡単に誤魔化せるものではなく、レオンを深く苛んだ。


「母が死んだ後、孤児院にいた子供達が、夜中に突然泣き出す理由を知りました。シド先生やママ先生に愛されていると判っていても、きっと、何処か埋まらない淋しさや、唐突に浮かぶ漠然とした不安が消えなかったんだと思います。俺は、エルがいたし、他の子供達よりも年上だったから、俺が泣く訳にはいかないと思ったけど……やっぱり、夜中に目が覚めた時、どうしようもなく不安になって。そんな時、父親が一緒にいてくれたら良いのにって、何度も思いました」


 母と共に、傍にいてくれる筈だった人。
子供のような笑顔を振り撒きながら、家族を守る為に駆け回ってくれた人。
あの人が傍にいてくれたら、母を亡くした悲しみも、言いようのない淋しさも、吹き飛ばしてくれるような気がした。

 けれど、父は帰って来ない。
エスタの沈黙により、エスタとガルバディアの戦争は事実上終結したが、あれから七年が経った今でも、父からは手紙さえ寄越されない。
その意味を、理由を、判らないでいられる程、レオンは既に幼くなかった。

 レオンが自分自身の心の空虚と向き合っている時間は、少なかった。
母が遺してくれた妹と弟を守る為にも、レオンは立ち止まっている事は赦されなかったのだ。
それからは、幼心にありがちな親への甘える気持ちを振り切って、小さな妹弟を守る事を第一に考えて来た。
自分よりも遥かに幼く、無心に親の愛情を欲しがる二人に、両親の分まで自分が愛を注ごうと決めた。
それでもレオンは、しばらくの間、夜中に前触れもなく目が覚める事があった。

 そんな自分を覚えているからこそ、レオンは思う。
ティーダを一人にしてはいけない、と。


「ジェクトさん。ザナルカンドでも、バラムでも良い。ティーダの傍にいてあげて下さい。ティーダは、貴方に対して素直になれないみたいだから、口に出して言わないみたいだけど、ちゃんと貴方を求めています。ティーダに必要なのは、静かに暮らせる環境だけじゃない。父親であるジェクトさんの存在が、今のティーダには一番必要なんだと、俺は思います」


 母を失い、戻らぬ父を待ち続ける淋しさを知っているからこそ、レオンはティーダの境遇を放って置けなかった。
あの頃の自分よりも幼い子供が、あんなにも淋しい思いをするのは嫌だ────と。
それは恐らく、レオンがティーダに自分の境遇を投影して、彼の淋しさを拭う事で、忘れたつもりでいた自分自身の記憶にある埋まらない穴を、僅かでも埋めたいと無意識に願っていた現れなのだろう。

 じっと見詰める蒼灰色の瞳は、常に帯びていた大人びた気配が消えて、年相応の───若しかしたら、それよりももっと───幼い貌が其処にあった。

 あいつも、こんな貌をするようになるのか。
ジェクトの脳裏に、今はまだ幼い息子の顔が浮かぶ。
息子の為にと思ってした事が、返って息子を深く傷付けてしまうのか。
結局、どっちの道を選ぶにしろ、自分は息子を泣かせてしまう事になるらしい。

 ジェクトは無意識に詰めていた息を吐いて、目の前の少年の頭を撫でた。
ぐしゃぐしゃと乱暴にしか撫でられないその手に、レオンは目を丸くしていたが、振り払う事はしない。
ただ、撫でられたのなんて何年振りだろう、とぼんやりと考える。


「大変だったんだな、お前も」
「……俺は、別に。スコールとエルがいましたから」


 両親がいない淋しさは埋められなかったけれど、スコールとエルオーネは自分の傍にいてくれた。
孤児院に預けられた時、母が傍にいてくれた事や、エルオーネや後にスコールが生まれた事など、レオンは自分自身はとても恵まれた人間だと思っている。
周囲の子供達の多くは、戦争を筆頭に様々な理由で両親と引き離され、イデアによって集められた子供達だった。
多くは自分の兄弟の事や、両親の顔さえ覚えていない境遇の中、自分は本当に幸運だったのだと思う。

 だが、ジェクトはレオンの頭を撫でる手を止めなかった。


「馬鹿言え。淋しいとか辛いとかちゃんと判ってる癖に、大変じゃなかった訳があるか」
「………」
「だから───判ったよ。お前の気持ちも、ちゃんと」


 ジェクトの言葉に、レオンは俯かせていた顔を上げる。
そうして見上げる蒼灰色が、ほんの少しだけ寂しさを忘れたように輝いている事を知っているのは、ジェクトだけだ。


「こっちもこっちで、色々あるもんだからよ。お前の望む通りにしてやれるかは判らねえけど。ちゃんと、あいつと話をしてみる。あいつがどうしたいのか聞いてから、俺もまた考え直してみるよ」


 今までジェクトは、一方的に“こうするべきだ”と思って考えていた。
マスコミや周囲の目と言うものから息子を守る為に、自分自身が何度も泣かせてしまう為に、己は傍にいない方が良いのだと。
そればかりが頭の中にあって、ジェクトはティーダがどうしたいのか、何処にいたいのか、それさえも聞いていなかった。

 レオンの頭を撫でる手が離れる。
ごつごつとした大きな手が離れて行くのを見ながら、レオンはその手の形が所々歪んで見える事に気付いていた。
それを誤魔化すように俯いて、レオンは小さく呟く。


「……お願い、します……」


 ジェクトがどんな選択をするにせよ、それで自分の空虚が埋まる訳でもないし、ティーダが幸せになれるのかは判らない。
ジェクトが言う“大人の理屈”も事実だし、レオンが言う“子供の理屈”がティーダに当て嵌まるかも判らない。
だが、何も言わず、何も知らされずに突然親の庇護を失う事は、子供にとって、とても悲しい事であるのも確かなのだと、レオンは知っている。

 目元を伏せたまま踵を返し、図書室の方向へと歩き出した少年を、ジェクトは黙ったまま見送った。
見詰める先少年の背中には、大きく見えてまだ成長途中の青さが滲んでいる。

 子供達の笑い声が聞こえて、ジェクトは中庭へ視線を移した。
じっとしている事に飽きたらしい息子が、捕まえた虫を他の子供達に見せている。
一体どうすれば、あの笑顔を守ってやる事が出来るのか────ジェクトはまだ、判らなかった。





 一週間と言う時間は、長いようで、短い。
ぼんやりと過ごしていれば長く感じるし、何かに没頭していればあっと言う間に過ぎている。

 ジェクトとティーダがバラムに来てから、明日で一週間になろうとしている。
明後日の日曜日には、ジェクトはザナルカンドに戻っていなければならない。
だからジェクトは、明日が父子が一緒に過ごしていられる最後の日になるのだと、ずっと考えていた。
明日になれば自分はザナルカンド行の船に乗り、ティーダはバラムガーデンに残るのだと。

 だが、少しだけ、考え方が変わった。

 ジェクトは息子と二人きりになった寮の客室の中で、話を始める切っ掛けを探していた。
ティーダは今までと同じように、ベッドに座って毛布を抱えた格好で、じっとテレビを見詰めている。
時折欠伸をしているのは、昼間は体験入学で伸び伸びと過ごしたからだろう。
時計を見れば夜の8時を迎えつつあり、そろそろ話をしないと寝落ちてしまう頃合いだった。

 ジェクトはソファベッドから立ち上がると、備え付けの冷蔵庫を開けて、中に入れていたスポーツドリンクを取り出した。
喉の奥の渇きを潤したくて、一気に半分まで飲み干した後、ジェクトはティーダを呼んだ。


「おい。ちょっとこっちに来い」
「……?」


 ぶっきらぼうな呼び方しか出来ない父を、ティーダは訝しむように眉を寄せながら見る。

 ティーダは少しの間、ベッドの上から動かなかった。
伺うように青の瞳が父を見詰める。
そのまま数分の時間が流れた後、ティーダはエンドロールを流し始めたテレビの電源を切って、毛布を引っ張りながらベッドの端に移動する。

 向き合う形になったと言うのに、父子の視線は交わらなかった。
真っ直ぐに息子を見詰めるジェクトに対し、ティーダの視線は自分の膝を見詰めている。
その事にもどかしさを感じながら、ジェクトは零れかけた溜息を水を飲んで誤魔化す。


「……明日、なんだけどな」
「………」
「俺は、明日の夕方には、ザナルカンドに帰ろうと思ってる」


 ジェクトの言葉に、ティーダの方がびくっと跳ねる。
ぎゅう、と小さな手が毛布を強い力で握り締めた。
海の青を映す大きな瞳に、じわりと大粒の雫が浮かび上がるのを見て、ジェクトは詰まりかけた息を意識して吐き出す。


「……それで、お前は、どうしたい?」
「……?」


 俯いていたティーダの顔が上げられ、ぱち、ぱち、と繰り返される瞬き。
ことん、と小さな首が傾げられ、


「……え?」


 どういうこと、と問う息子に、ジェクトはむず痒さを訴える頭をがしがしと掻いて続ける。


「この前は、俺一人で勝手に決めちまったからな。お前の話を聞かずに決めて、悪かった」
「……」
「こっちにいる間に、シドのじいさんや、レオンから───まあ、色々言われてよ。アーロンと、ブラスカからもな。ちゃんとお前と話をしてから、ちゃんと決めろって。お前のこれからの事なんだから、尚更な」


 ジェクトは、努めて静かな声で言った。
それを聞くティーダは、まるで知らない人を見るような瞳で、父親を見詰めている。


「お前がザナルカンドに戻りたいなら、戻れば良い。学校とかダチとか、あっちにもいるしな。それに、俺も一応、一緒にいてやれる」


 お前がそれを望むかは判らないけれど、とジェクトは目を伏せて付け足した。
だからジェクトは、青の瞳が俄かに輝いた事を知らない。


「だけど、このままバラムにいたかったら、そうしても良い。こっちで新しいダチも出来たようだし、イデアさん……ママ先生もいるしな。住む所は、此処の寮に入るって事になるみてえだが」
「…父さんは?」


 バラムにはいてくれないの、と言外に問う息子の声に、ジェクトは口を噤んだ。

 ジェクトがバラムに残ると言う事は、ブリッツボールを棄てると言う事だ。
シーズン中に連日行われる試合は勿論の事、シーズンオフでも企画されるエキシビジョンやショーなど、ザナルカンドではブリッツはあらゆる場面で求められるものである。
ザナルカンドに住んでいれば、家から通う事は可能だが、海を隔てた異国からは難しい。
ジェクトがブリッツボールを今まで通り続けるのなら、ジェクトはザナルカンドに帰るしかない。

 ザナルカンドで生まれ育ったのだから、ティーダもザナルカンドに置けるブリッツボールの人気はよく知っている。
同じ位に父が人気を博す選手であると言う事も、幼いながらに感じ取っていた。

 ジェクトは喉の奥がヒリヒリとした感覚を訴えるのを感じていた。
それを誤魔化すようにスポーツドリンクを口に運ぶ。
たぽん、とペットボトルの中で水が揺れるのを、ティーダは見詰めていた。


「……俺ぁな。キングなんだ。ブリッツボールは、手放せるモンじゃない」
「………」
「面倒な話、先立つモンってのも必要だしな。俺はこれしかやって来なかったから、他に自分が出来る事もねえし」


 ジェクトがブリッツボールを棄て、息子と共にバラムに残る事そのものは、決して難しくない。
ジェクトの心一つで決まる事だ。
幸いジェクトは若いので、仕事は選り好みしなければ幾らでも見付かる筈だ。
穏やかな気候や街の雰囲気も良いし、のびのびとしたガーデンも息子を静かに育てる環境に合っている。

 しかし、自分自身のアイデンティティと言えるブリッツボールを棄てるのは難しかった。
同時に、息子を育てる為には、十分な金が要る。
幸い、ジェクトはチームにとって必要不可欠な存在とされており、チームとの専属契約に支払われている金額も破格の値段だ。
このままブリッツボールを続けていれば、息子を養う事で必要となる金銭に困ることはないだろう。

 ティーダは毛布を抱えて、ころん、とベッドに倒れ込んだ。
話の途中だとジェクトが咎める事はしない。
ティーダはベッドの端で俯せになって、縮こまるように丸くなる、


「……じゃあ、あっちに帰っても、父さん、一緒にいてくれないじゃん……」


 ぽつりと零れたティーダの小さな呟きは、静かな部屋の中で思いの外よく響いた。

 試合や合宿の為に、ジェクトが殆どの時間を拘束され、たまにしか家に帰って来なかった事も知っている。
たまに家にいると思ったら寝ているばかりで、ティーダはジェクトに遊んで貰った記憶がなかった。

 ジェクトはティーダの言葉を否定しなかった。
出来なかった、と言うのが正しい。
それを判っていたから、ジェクトは自分だけがザナルカンドに戻り、息子をクレイマー夫妻の下へ預けようとしていたのだ。


「…そういう事になるだろうな。出来るだけ家にいれるようには努力してみるが、飯なんか大したモンも作れねえだろうし、他の事もどうなるか。母ちゃんがいた時にみてえに、美味い飯はそう食えないのは確かだろうな」


 ザナルカンドでは一般家屋でもセキュリティの品質は他国から群を抜く高さだが、やはり幼い息子を一人で家に残す事は、ジェクトとて不安だ。
今までは、試合や練習が終わった後、チームメイトと飲みに行く事も多かったが、それも行けなくなるだろう。
ブリッツボールのみに邁進する余り、妻の異変に気付く事が出来なかった罪の意識もある。
ジェクトはもう、後ろを振り向かずに突き進む事だけに集中する事は出来なくなっていた。

 だが、傍にいてやることで、全てが解決するとは言えない。
料理も洗濯も、掃除さえもジェクトは満足に出来た例がない。
妻の躾のお陰か、洗濯や掃除ならティーダの方が余程できている。
育ち盛りの息子に、まさか外食ばかりで生活させるのも良くないだろう。

 やっぱり連れて帰る事のは良くないな、とジェクトは思う。
しかし、今ジェクトが確かめているのは自分の考えではなく、息子が何を望むかだ。

 もぞもぞとティーダが転がったまま身動ぎしている。
ジェクトには、息子が悩んでいると言うよりも、泣くのを堪えているように見えた。


「…今直ぐ答えなくても良い。俺がザナルカンドに帰るのは、明日の昼過ぎだ。それまでに決めりゃあ良い」
「……」
「そろそろ電気消すぞ。寝るんだったらベッドの真ん中に行け。そんな所で寝たら落っこちるからな」


 話を強引に終わらせて、ジェクトは言った。
ティーダからは「…うん」と気もそぞろな小さな返事だけがあった。

 電気を消して、暗くなった部屋の中、ソファベッドに横になって、手探りで毛布を手繰り寄せる。
ベッドの方でもごそごそと布の擦れる音がして、ぎし、とベッドのスプリングが微かに軋む音が鳴る。
それから、ジェクトの直ぐ傍らで、ソファベッドの端が僅かに沈んで傾いた。

 体ごと壁を向いたジェクトの背中に、おずおずと寄せられる小さな温もり。
結局ジェクトは、愛しい筈のその温もりを、一度も抱き締めてやる事が出来ないままだった。