この世界の為に出来ること 1


 始まりは、一通の手紙だった。
ただ一言“許さない”とだけ記された手紙は、エルオーネが使っている教室のロッカーに入っていた。
教室のロッカーには鍵はなく、誰でも開けられるようになっているのだが、暗黙の秩序のルールとして、自分のものではないロッカーは、頼まれるか間違えでもしない限り、開けてはならないものである。
しかし、ロッカーには上部と下部に細い筋のような隙間が四本ずつ開けられている為、便箋や小間物くらいなら、開けずとも入れる事は可能である。
故に、覚えのないものがどうやって其処に投入されたかは特に疑問にはならなかったのだが、問題はその差出人であった。

 エルオーネがその手紙を見付けたのは、クラスメイトに借りていた本を返そうと、中に入れていた鞄を取る為に、蓋を開けた時の事。
一番上に入れていた鞄の上に、その手紙はぽつんと置かれていたのだ。
見覚えのないそれに、エルオーネは首を傾げ、誰かのロッカーと間違えたのかな、と思った。
思うに至った理由としては、丁度その時期、エルオーネの学年でラブレターを贈り合う事が流行っていた事にある。
見た目がちょっと格好良い、可愛い、優しくされた、自分だけ特別扱いされている───と、そう言った理由で、あちらこちらでコイバナが飛び交っていた。
十二、三歳の思春期の少年少女達によくある現象の一つだ。
若者の携帯電話の所持率がほぼ8割以上に上るにも関わらず、アナログな手紙が流行したのは、時代の移り変わりの風景と言うものだ。
皆が当たり前に持っているしている事とは違う事がしたい、ボタン一つで消してしまえるデータではなく、確かな形にして、電波ではなくその手で相手に渡したい。
これもまた、思春期の少年少女達によくある現象の一つだろう。
────それはともかく。

 見付けた手紙は、味も素っ気もないものだった。
何せ、封筒も便箋もなく、四つ折りにされた紙切れ一枚だったのだ。
それで差出人も宛名ものないものだから、エルオーネは最初、その手紙を少女漫画によくある無名の恋文だと思って、返す人を見付ける為に折り目を開いた。
其処で見付けたのが、“許さない”とタイプ打ちされた一文だった。

 中身を見て、どうやらラブレターの類ではないようだと思い、少しがっかりした。
間違っても自分に恋文など有り得ないと考えていたエルオーネであるが、彼女とて十三歳の乙女盛りである。
ひょっとしたら、と言う淡い期待を胸に抱くのも無理はない。
それから気を取り直し、内容の“許さない”と言う、如何にも穏やかではない言葉の意味を考えてみたが、エルオーネにはやはりよく判らなかった。
生活をしている中で、己の意識外の所で誰かを傷付ける事がないとは言えないが、少なくとも、自分が自覚している中に、他人を不快にしたと言えるものもない。
近い記憶で、誰かと口論したか、例えばふざけ合っている男子生徒を注意した時に言葉が足りずに嫌な思いをさせたりしたかと考えてみたが、結局思い浮かばなかった。
最終的に、きっと誰かのロッカーと間違えたのだろう、と言う始めと同じ結論に行き着き、エルオーネは手紙をロッカーの上に乗せ、その場を去った。
その後、ロッカーに置いていた手紙は消えた。

 ……だが、話は其処で終わりではなかった。
“許さない”とタイプ打ちされたその手紙は、エルオーネがそれを最初に見付けた日から間もなく、もう一度届けられた。
また間違えられたのかな、と同じようにロッカーの上に置いて立ち去ったエルオーネだが、二度ある事は三度あった。
若しかしたら、間違えていると気付いていないのかも知れないと、此方から「ロッカーを間違えていませんか?」と言う問いと、嫌がらせのような事をどうしていているのか、何か悲しい出来事があったのかと訊ねる旨を書いた手紙を添えて、またロッカーの上に置いておいた。
手紙は両方とも消えたが、見知らぬ他人からの手紙はまた届けられた。
内容はやはり“許さない”の一言のみで、間違っているか否かの釈明もない。
此処まで来ると流石に耐え兼ねて、エルオーネはクラスメイトで同じ孤児院出身だったレイラに相談を持ちかけた。

 人の多い所では話し辛かったので、グラウンドの隅で、エルオーネは事の次第を打ち明けた。
それを聞いたレイラは、青い顔をして真っ先にこう言った。


「ねえ、エル。それって、ストーカーなんじゃない?」
「……ええ!?」


 レイラの言葉に、エルオーネは引っ繰り返った声を上げた。
その一言は、三回目の手紙が届いた時に過ぎったもので、余りにも怖かった為に考えないようにしていたものだ。
それを他人の口から告げられては、もう逃げようもない。


「や、やめてよ……大体、私がストーカーされるなんて…」


 正体不明のものが自分に近付き、物騒な手紙を残していくなど、恐怖でしかない。
その恐怖心から、レイラの思い過ごしだと防衛線を張ろうとするが、レイラは首を横に振る。


「エルはもうちょっと自分の可愛さを自覚するべきだと思う」
「意味が判んないよ」
「そのまんまだよ。可愛いし、優しいし、面倒見が良いし。料理も美味いし。って、今はそう言う話じゃなかったね」


 自ら脱線しかけた話を、レイラは無理やり修正した。


「訳の判らない手紙が、四回もロッカーに入ってたんだろ?四回だよ、四回。もう偶然や間違いで済まされる話じゃないよ。間違えてますーって返事も書いたのに、また送られて来たんなら、それはもう間違いじゃないよ。エルのロッカーだって判ってて手紙を入れてるんだ」


 レイラの分析は的を射ていた。
既に間違いで済まされる回数を越えているし、エルオーネからアクションを送ったにも関わらず続いているのだ。

 若しもこれで、手紙の中身がもっと浮ついたものであったなら、エルオーネとてこんなにも恐怖には感じなかっただろう。
恋人などいない、作る予定もないエルオーネだが、あちこちで飛び交うコイバナには年相応の興味があった。
恋に恋する訳ではないが、自分にもそんな相手が現れたりするのかな、と言う憧れはあったのだ。
見知らぬ誰かに懸想され、ラブレターを切っ掛けに告白されて……と言う少女漫画の使い古されたパターンでも、エルオーネはきっと胸を躍らせた事だろう。

 だが、現実は少女のささやかな夢を無残に打ち砕いた。
肩を落として落ち込み、何処の誰とも知らない輩に、理由の判らない怒りをぶつけられたエルオーネは、隠れるように頭を抱えて縮こまっている。


「一体何なんだろ……もう嫌だよ、レイラ。恐いよ」
「判ってるよ。早くなんとかしないとね」


 レイラとエルオーネは、クレイマー夫妻の孤児院にいた頃から仲が良かった。
今でこそエルオーネはバラムの街に、レイラは寮に入っているが、付き合い方は変わっていない。
幼馴染のピンチに、義理人情に厚いレイラが黙っていられる訳がない。


「手紙は、いつもロッカーに入ってるんだよね」
「うん」
「じゃあ、あたいがエルのロッカーを見張るよ。そうすれば、誰かがエルのロッカーに近付いたら判るし。移動教室や体育だと無理だけど……」
「見張るのなら、私が自分でやった方が……」


 レイラに迷惑はかけられない、と言おうとしたエルオーネだったが、先んじてレイラに制された。


「駄目だよ、そんなの。こんな手紙をコソコソ送りつけてくるような奴なんだから、エルが警戒してるって気付いたら、今後何を仕出かすか判らない。恐いと思うけど、エルはなるべく、今まで通りに過ごしてて。そうすれば犯人も、今までと同じようにロッカーに手紙を入れに来る筈。で、犯人が判ったら、あたいが現行犯で捕まえてやる!」
「え、ええぇ……あ、危ないんじゃ……」


 大胆にも犯人捕獲を宣言するレイラに、エルオーネは心配が尽きない。
しかし、力強く言ってくれる幼馴染の存在は、とても有難く心強いものであった。

 ────この時のエルオーネは、この騒ぎは直に収束するものだと信じて疑わなかった。
しかし、事態は彼女が予想していた以上の早さで、波及を広げていくのであった。




 相談した日から、レイラは犯人を見付ける為に躍起になっているが、相手の方が一枚も二枚も上手らしい。

 教室に人がいる時、エルオーネのロッカーに近付く者はなく、エルオーネに対して明らかな敵意を向けている者がいる様子もない。
クラスの中に犯人がいないのなら、他のクラスの生徒かとも考え、レイラは教室を出入りする生徒を逐一チェックして警戒したが、誰もエルオーネのロッカーには近付かなかった。
繰り返される手紙の投入に、それを見付けるタイミングを分析してみた所、早朝と移動教室の後だと言う事が判明した。
教室が無人になるタイミングを狙って、手紙を投入しているのだ。
レイラは授業をサボって張り込んでみたが、そんな時に限って、それらしい陰は見付からない上、サボっていた事が教師にバレて大目玉を喰らってしまった。

 手を拱いている内に、エルオーネに届けられる不気味な手紙が、二桁を超えた。
一文だけだった手紙は、段々と行が増えて来たが、内容は“許さない”の言葉を繰り返しただけのもの。
タイプ打ちされているので、文字の感情など判らないが、ゲシュタルト崩壊を起こしそうな程に連ねられる一語に、エルオーネの恐怖は増して行く。
それを見たレイラも、文字から伝わる異常な執着に、自分達だけでは手に負えない事を悟った。

 エルオーネとレイラが真っ先に頼ったのは、兄と慕うレオンだ。
二人は昼休憩にレオンのいる高等部の教室に赴き、人目を避ける為にグラウンド隅へと連れ出して、事情を打ち明けた。


「ストーカーだと!?」
「しーっ、しーっ!レオン、声が大きい!」


 常の冷静さなど吹き飛んだレオンの大音量に、エルオーネは慌てて彼の口を塞いだ。
グラウンドの向こうでドッジボールに興じていた生徒達が振り返るが、兄妹の会話は聞き取れておらず、直ぐにゲームに戻る。

 すまん、と小さく詫びるレオンの声を聞いて、エルオーネは彼の口から手を放す。
レオンは動揺を押し宥めるように、ふう、と一つ溜息を吐いて、不安げに見上げて来る少女達を見た。


「お前達、どうしてもっと早く俺に言わなかったんだ」
「だって……心配かけると思って」
「此処まで酷い感じになるとは思ってなかったし…」


 眉尻を吊り上げ、怒っていると言う表情を作る兄に、エルオーネとレイラは小さな声で答えた。

 レオンの過保護さは、孤児院で同じ時間を過ごした者にはよく知られている。
特に血が繋がった弟であるスコールと、同郷で赤子の頃から面倒を見ていると言うエルオーネに対しては、その傾向が顕著であった。
そんなレオンに余計な心配をかけたくなくて、エルオーネは今の今まで黙っていたのである。

 黙っていた事を叱られ、しゅんと落ち込んだ妹と、嘗て妹であった少女を見て、レオンはもう一度溜息を吐いた。
相談されなかった事は悲しかったが、それが少女達の気遣いである事は判っている。
本来ならば、自分の方からエルオーネの様子の変化に気付くべきだったのだ、とレオンは思った。
何より、引き続いているストーカーの被害で気を病んでいる少女達をこれ以上叱るのは酷と言うものだ。
レオンは頭一つ半下にある妹たちの頭をくしゃりと撫でる。


「取り敢えず、手紙の方を見せて貰えるか?」
「うん」


 エルオーネは肩に下げていた鞄を開けて、ビニール袋に入れた手紙の山を差し出した。
袋を受け取り、中身を確認したレオンの眉間に、深い皺が刻まれる。


「タイプ打ちか……筆跡でも判ればと思ったんだが」
「それはあたしも考えた。バレないようにやってるんじゃないかな。一枚目からこんな感じだったらしいし」
「だとしたら、最初から計画的な犯行と言えるな。それにしても、凄い数だな……10枚以上はあるだろう」
「これでも何枚かは捨てたんだけど……」


 コピー用紙を四つ折りにしただけのペラペラの薄紙でも、数を重ねればそれなりに嵩張る。
一回目から三回目に投入されたものは、ロッカーの上に置いたまま、いつの間にか消えていた。
回収されたか、捨てられたものと思って良いのだろう。
レイラに相談した後は、ストーカー被害の証拠として何枚かは持っていた方が良いと言う話になり、気味の悪さに辟易しつつも保管するようになった。
だが、それを差し引いても、ビニール袋に詰められた紙の量は多い。
と言うのも、最近は一度に見付ける手紙が一枚では済まされなくなっていたからだ。


「最近、二枚とか三枚とか、数が増えて来てるの。中身は全部同じまま」
「……“許さない”か。念の為に訊いておくが、心当たりは?」


 レオンの問いに、エルオーネはふるふると首を横に振る。
蒼の視線がレイラにも向けられるが、彼女も首を横に振った。


「エルが誰かに恨まれてるなんて話、聞いた事もないよ」
「だろうな……」


 エルオーネが誰かに恨みを買うような人間ではない事は、兄のレオンが一番よく知っている。
そもそも、此処で心当たりが思い浮かべば、此処まで苦労する事はなかっただろう。


「ロッカーに入れられるのは、この手紙だけか?」
「うん」
「でも、内容が段々過激って言うか、怖くなってるんだ」
「中身は同じなんじゃないのか?」
「同じは同じなんだけど……」


 エルオーネは袋の中をごそごそと探り、今日の移動教室の後に見付けた手紙を広げた。
其処に書かれたものを見て、レオンの表情が険しくなる。

 B5サイズのコピー用紙には、印刷可能範囲の上から下まで、隙間なくびっしりと“許さない”の文字が敷き詰められていた。


「一体なんだ、これは……」


 レオンも、手紙から伝わる異常な執着性を感じたのだろう。
眉間に深い皺を刻み、彼にしては珍しい、嫌悪に満ちた表情を滲ませている。

 一体何を“許さない”のか。
何があって、エルオーネに対し“許さない”と思ったのか。
そもそも、誰がエルオーネに対し“許さない”と言う感情を抱いているのか。
恐らく重要なファクターを担うであろうそれらの情報を、レオンは勿論、当事者である妹達も持ち合わせていない。
それが妹達の不安と恐怖を煽っている事を、レオンもよくよく理解出来た。
更に手紙の中身が常軌を逸し始めている事を考えると、ストーカー行為がこのまま手紙だけで終わるとは思えない。
若しかしたら、所謂“実害”が出る可能性もある。
それだけは絶対に防がなければならない。


「レイラ」
「ん?」
「ガーデンにいる間、出来るだけエルと一緒にいてくれるか?」
「勿論だよ」


 レオンの頼みに、レイラは迷わず頷いた。
くしゃくしゃとレオンの手がレイラの藍色の髪を撫でてやる。


「エルは、出来るだけ一人にならない事」
「うん……」
「放課後は俺と一緒に帰ろう。スコールとティーダを迎えに行ったら、学園長室で待っていろ。シド先生とママ先生に話しておくから」
「…ママ先生達に心配かけちゃう…」
「心配とか迷惑云々より、お前の安全が大事だ。ママ先生達だって判ってくれる」
「そうだよ、エル。レオンに話したんだから、もう隠さないで言おうよ。あたし達じゃ手に負えないもん」
「……うん」
「俺は授業が終わったら直ぐに迎えに行く。それまで、ちゃんと待ってるんだぞ」


 繰り返し言い聞かせる兄に、エルオーネはこっくりと頷いた。
じわりと視界が滲むのは、兄に頼った事で、無意識に張り詰めていた緊張の糸が切れたからだろうか。

 幼い弟達は勿論、妹弟の為に毎日忙しない生活を送る兄の前で、不安な貌は見せられない───その考えはエルオーネの根幹に近い部分にあった。
生みの親を亡くし、引き取ってくれたレオンの両親が亡くなった後、エルオーネは兄弟の母代わりになる事を決めた。
それはまだ4歳になって間もない幼い日であったが、それでもエルオーネは、その日の事を昨日の出来事のように思い出す事が出来る。
母代わりになると決めたエルオーネの目標は、ママ先生ことイデア・クレイマーと、レオンとスコールの母親だ。
辛い事があっても、決して子供達の前で弱音を吐くまいとした強い母の姿に、エルオーネは憧れて止まない。
だから、内々の恐怖は誰にも知られないようにして、兄弟の前ではいつも通りに笑っていようと思っていた。
けれども、まだまだ自分は母になれる程大きくはなく、撫でる手に促されるように、目尻から雫が溢れて行く。

 記憶にある父親代わりによく似て来た、大きな体躯にしがみついて、ぐすぐすと泣く。
そのままレオンは、エルオーネの気が済むまで、艶のある黒髪を撫で続けていた。




 バラムガーデン学園長シド・クレイマーと、その妻イデア・クレイマーにとって、ガーデンに入学した少年少女達は、皆総じて自分の子供である。
まだ父母から離れるには早い幼年クラスはいざ知らず、二十歳を超えた大学部の生徒まで、彼等の愛は須らく注がれていた。
だが、そんな二人でも、特に気にかけてしまう───別の言い方をすれば、贔屓してしまう───子供達はいるものであった。
その最たるが、ガーデン設立以前に運営していた孤児院にいた子供達だ。

 レオンからエルオーネの身に起こった一連の顛末を聞いた夫妻は、高等部の授業が終わるまでエルオーネ達を学園長室に滞在する事を受け入れた。
夫妻は、自分達の目の届かぬ場所で、愛する子供に起こった出来事に胸を痛め、出来るだけ早く事が解決するように協力すると言ってくれた。
それだけで、エルオーネの胸は温もりで一杯に満たされて行く。


「……ありがとう……」


 そう言ったエルオーネの黒曜の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出している。
昼休憩の時にレオンに全てを打ち明けてから、まるで涙腺が壊れてしまったかのように緩んでいて、何かと直ぐに涙が零れる。
これでは弟達に心配をかけると判っているのに、どうしても止められなかった。

 せめてシドと遊んでいるスコールとティーダに気付かれまいと、声を殺して泣くエルオーネを、イデアはそっと抱き締めた。


「怖かったのね、エルオーネ。もう大丈夫ですからね」
「……うん……」
「スコールもティーダも見ていないから、今の内に一杯泣きなさい。高等部は六限目が始まったばかりだから────」


 レオンもまだ此処には来ない、まだ誰も見ないから大丈夫、とイデアが言おうとした時だった。
ばたん、と大きな音を立てて、学園長室の扉が勢いよく開かれる。


「失礼します!」


 いつもならば、ノックをして挨拶をして、部屋の中からの反応を待ってから放たれる声だ。
それが予告なく扉を開けると同時に響いたのを聞いて、イデアの腕の中でエルオーネが大仰に肩を跳ねさせる。

 慌てて離れようとジタバタともがく少女を、しっかりと抱き締めたまま、イデアは扉の方へと振り返った。
其処には肩で息を切らした、濃茶色の髪に蒼灰色の瞳を持った青年が立っている。


「エル!スコール、ティーダ!」
「お兄ちゃん!」
「レオンだー!」


 妹弟の名を呼ぶ声に、シドとカードで遊んでいた弟達が真っ先に反応した。
勝負を放り投げて兄に駆け寄る弟達は、今年で9歳を迎える。
レオンは抱き着いて来た二人を難なく受け止め、妹の姿を探してきょろきょろと辺りを見回す。

 蒼の瞳が、ソファに座るイデアとエルオーネを捉えた。
ほっとした表情を浮かべたレオンに、イデアは小さく微笑んで、抱き締めているエルオーネの頭を撫でる。
エルオーネはもう泣いてはいなかったが、耳まで赤くなって、イデアの胸に顔を埋めたまま動かない。
話を聞いてから妹が心配でならなかった兄は、直ぐに妹の下へ駆け寄ろうとしたが、それをタイミング良くシドの声が制した。


「今日は随分と早いですね、レオン。まだ6時間目は始まったばかりだと思うのですが」


 肉の豊かな頬を緩ませ、にこにこと笑顔で言ったシドに、レオンは少しばかりバツの悪い表情を浮かべ、


「訓練施設が使えなくなって、自習になったので、その……サボってしまおうと思って」


 生真面目な性格のレオンである。
サボタージュが良くない事だとは判っているが、今日ばかりは事情が違った。


「夜にはアルバイトがあるし、買い物にも行かないと夕飯も作れないし。エル達も待たせてるし……って思ったら、もう帰った方がいいなと……」


 段々と小さくなっていくレオンの声に、シドはくすりと笑う。
レオンの優先順位が常に妹弟が一位である事を、シドもイデアもよく知っていた。
6時間目をレオンが望んで自習にした訳でもないし、今日は事情が事情である。
今日の所は大目に見ましょう、と言ったシドに、レオンはほっと安堵したように胸を撫で下ろした。

 レオンは、自分の腰にまとわりついている弟達の頭を撫でながら、シドとの会話に応えて行く。


「それにしても、アルバイトですか。仕方のない事ですが、そうなると心配ですねえ」
「俺もそう思うけど、今直ぐ休みにするのは無理だし。あと、今の所、起きている事はロッカーの手紙だけだから、家は安全……だと、思いたいんだけど……」
「では、貴方のお仕事が終わるまで、私とイデアがエルオーネ達を見ていましょうか」
「え?」
「ふぇ?」
「むゅ?」


 シドの言葉に、レオンだけでなく、スコールとティーダがぽかんと口を開けた。
二対の蒼と、海に似た青に見つめられて、柔和な笑みを浮かべたシドは、如何にも楽しそうに続ける。


「事件が起きてしまってからでは遅いですし。レオン、貴方がいたとしてもね、やっぱり出来る限り大人が近くにいた方が良いと思うんです。それにね、スコールとティーダがさっき言ってたんですよ、貴方とエルオーネが作ったご飯はとても美味しいんだって。ほら、イデアはよくお邪魔しに行っていますけど、私は殆どいけませんし。偶にはお邪魔させて頂いても良いかなと思うんですが」


 どうでしょう、とにこにこと笑顔で問う育ての親に、レオンが動けずにいると、静寂を破るように喜ぶ子供の声が響く。
「ママ先生は?」「ママ先生も一緒?」と確かめるようにシドに訊ねるスコールとティーダに、折角ですからねとシドが頷く。
更にもう一度確かめるように、子供達の視線はソファに座っているイデアへと向かい、イデアが優しく微笑んでやれば、それは子供達にとって頷いたもの同然の返事となる。

 小さな弟達がすっかりはしゃいでいるのを見たレオンが、迷惑になってしまうからとシドの言葉を断れる筈もない。
結局しばらく固まった後で、レオンは「お願いします」と頭を下げた。

 そんな遣り取りの間に、エルオーネはようやく赤みの引いた顔を上げる。
皺だらけにしてしまったイデアの服の胸元を見て、エルオーネは先とは別の意味で顔を赤らめて萎れた。


「ごめんなさい、ママ先生…」
「構いません。さ、皆が待っていますよ」


 やんわりと促すイデアに背を押され、エルオーネはソファを立った。
少し目許が腫れていないか気になったが、昼休憩の時程に泣いたつもりもない。
それでも、まだ顔が熱ままなのではないかと思えて、エルオーネはごしごしと顔を擦って誤魔化した。

 ソファの端に置いていた鞄を持って、学園長室の扉の前で待っている兄弟の下へ急ぐ。
合流すると、早速甘えん坊な弟が抱き着いて来て、それを見たティーダもじゃれつくように甘えてくる。
そんな妹弟の隣で、レオンは今日の今後についてシドに説明していた。


「帰りに夕飯の材料を買って行くよ。アルバイトは6時からで……」
「では、その時間までに私とイデアがお邪魔しますね。本当は一緒に帰れるのが一番良いのですけど」
「シド先生も忙しいんだから、仕方ないよ。遅くなっても大丈夫なように、戸締りはちゃんとするように言っておくから」
「ええ。それでは、お気を付けて。スコール、ティーダ、また後で」
「うん、後でね」
「ママ先生、早く来てねー!」


 手を振るシドとイデアに、スコールは小さく、ティーダは大きく手を振り返す。
レオンとエルオーネは小さく頭を下げ、「失礼しました」と言って学園長室を後にした。