この世界の為に出来ること 3


 バラムガーデンの昼休憩に、レオンは急ぎ昼食を平らげた後、ザナルカンドにいるジェクトへと電話した。
日々が忙しい事もあり、あまり電話を寄越さないレオンからの着信に、ジェクトは預けている一人息子に何かあったのかと言った。
其方については何事もない事を告げてから、レオンは既に一ヶ月が経った今も続いている、エルオーネのストーカー被害について説明する。


『んな……そりゃ大丈夫なのか?嬢ちゃんは怪我とかしてねえか?』
「今の所、それはありません。でも、精神的に参ってて……家も知られているから、いつ何があるか判らないし」


 こうなると、登下校のルートも知られているだろうと、レオンは予想していた。
いつも四人揃って登校し、最近は下校も一緒だが、利用しているバスは常にガーデン生でごった返している。
犯人がそこに同乗している可能性も計り知れず、そう言った場所で何かされたら、と思うと恐ろしい。


「ティーダとスコールには、怖がらせたくないので何も教えていません。でも、エルの様子が可笑しい事には気付いていると思います」
『あー……だろうなぁ。ガキってのは、案外目敏いからな』


 高等部に進学して以来、授業時間が異なるからと別々になっていた筈の兄との下校が、此処暫くは復活している。
少し前には、イデアとシドが毎日のように我が家を訪れていた。
買い物は急くように済ませてしまうし、物音がすると姉が落ち付かなくなる。
ガーデン外では余り付き合いのなかった兄の友人が、兄が不在の間にやって来て、兄が戻ると帰って行く。
此処まで生活に変化があるのだから、小さな子供でも違和感に気付くのは無理もない。
何より、スコールとティーダはエルオーネの事が大好きだから、彼女が何かに怯えていると気付かない訳がなかった。


「シド先生達は昨日から出張で、うちに来れなくなりました。代わりに昨日は俺のクラスメイトが来てくれて。今日からは、マスターが許してくれたので、エル達も連れてアルバイトに行きます。今は家にいる方が怖いと思うので……」
『ああ、そりゃその方が良い。けど、そうなると、一日中家を無人にしちまう訳だな……』
「……それが俺も心配で……」


 自宅すら安全でない今、エルオーネを家に長居させるのは忍びない。
だからマスターの申し出は有難かったのだが、それによる弊害として、ほぼ一日中、家が無人になると言う点があった。
既に宅配物を開けられると言う被害に遭っている事を考えると、次に起こる物事を予測するのは難しくない。
登校する時、自宅の施錠は玄関から窓から全て確認して出ているし、鍵はレオンとエルオーネが持っている二つのみだが、窓ガラスでも割られたら────と、レオンは悪い想像しか浮かばなかった。

 治安が良いと言われるバラムだが、犯罪が存在しない訳ではない。
路上のひったくりや空き巣被害、時には殺人事件がニュースに取り沙汰される事もある。
勿論、報道されていないものも沢山あるだろうし、レオン達がそれに巻き込まれないとも限らない。
その上、レオン達は大人がいない家庭環境である事を、周囲によく知られている。
お陰で近所の大人達から気遣って貰う機会も多いが、犯罪を犯そうとする者からすれば、格好の餌に見えるだろう。
件のストーカーが、いつ家宅侵入と言う手段に出ないとも限らない。

 せめて、自分がもっとちゃんとした大人だったら。
何度目か知れない事を考えて、レオンは深い溜息を吐いた。
最近、溜息の数が富に増えている事は自覚していたが、吐き出さなければやっていられないのだ。


「誰か、一日中家にいてくれるような人がいれば良いんですけど……ストーカー行為が悪化してる事を考えると、無闇に頼めるような人もいないし……」
『あー……俺が帰れりゃ良かったんだがなぁ…』


 ジェクトの苦々しい呟きを聞いて、やっぱり駄目か、とレオンは思った。
誰が見ても体格が良く、腕力もあるジェクトなら、家にいて貰えるだけで安心だと、密かにジェクトがバラムに来てくれる事を期待していたのだが、やはり彼の拘束はそう簡単に解けないようだ。

 うーん、と電話の向こうで唸る声がする。
ストーカーに狙われているのはエルオーネ一人だが、既にその行為は彼女の周辺環境にまで影響を及ぼしている。
ティーダがエルオーネによく懐き、レオンに対するものと同様に、エルオーネを姉のように慕っている事は、ジェクトも知っていた。
今ティーダが笑って過ごしていられるのは、レオンやエルオーネ、スコールのお陰なのだ。
其処に危険が忍び寄っているのなら、ジェクトとて黙って見過ごす事は出来ない。


『────そうだ。アーロンにそっちに行くように言っとくから、家の警備はあいつに任せろ』
「アーロンさんに?」


 唐突に出てきた名前に、レオンは虚を突かれた。

 アーロンとは、スピラ大陸の都市ベベルに住んでいる、ジェクトの古い友人であった。
息子と離れザナルカンドを中々離れられないジェクトに代わり、何度かバラムに来て、ティーダの様子を見に来ており、レオンは三回程顔を合わせた事があった。

 レオンは、まだ記憶に新しいアーロンの顔を思い浮かべる。
ジェクトのように大きな筋肉がある訳ではないが、まだ発展途上の域を出ないレオンよりも、遥かに無駄なく引き締まった体躯を持った男。
顔付は整っているが、常に眉間に深い皺を刻んでおり、目の上を走る傷もあって、厳めしい強面に見える。
スコールに至っては、初めてその顔を見た時、思わず泣いてしまった程だ───初対面の人間に対し、人見知りの激しいスコールが泣くのは然程珍しくはない話だが。

 アーロンは今でこそベベルに小さな家を持ち、其処に滞在しているが、以前はスピラ全土で信仰されているエボン宗と言う宗教の僧兵で、修行の為に各地域の寺院を巡り歩く僧侶の護衛として、魔物と戦っていた経験がある。
現在、ベベルに留まっているのは、その頃から縁のある僧侶がベベルに居を構えた事と、その延長から非常勤で街の警備の他、ベベル付近に現れる危険度の高い魔物の討伐を請け負っているからだと言う。
そんな人物が傍にいてくれると言うのなら、非常に頼もしい話ではあるのだが、


「あ、あの……そんな、申し訳ない…と言うか……、親しくもない人にそんな、こっちの事情で巻き込むのは…」
『ばぁーか、ンな事言ってる場合じゃねえだろ。嬢ちゃんの安全がかかってんだ。そっちにゃうちの泣き虫もいるし、放っとく訳にゃいかねえ。その辺の事は、あの堅物だって判る。いや、堅物だから尚の事、無視するなんざ有り得ねえ』
「でも、アーロンさんの都合もあるし……」
『そんな事はお前が気にしなくても良いんだよ。大体あの野郎、堅物の癖して、教義だ戒律だってのは直ぐ忘れるような奴なんだから』


 友人の性格を率直に言い切り、とにかく奴に頼れと言うジェクトに、レオンは何も言えなくなった。
本当に来て貰えるかはともかくとして、ジェクトの提案は、やはりレオンにとって有難いものだ。


『アーロンには俺から連絡しとく。二、三日中にそっちに着くようにさせるから、それまではお前がしっかり守ってやれ』
「はい。有難う御座います」


 短く感謝を述べたレオンに、通信の向こうから「堅苦しいから止めろ」と言う声が聞こえる。
無理はするなと釘を刺すジェクトに、はいと一つ返事をして、通話を切った。

 携帯電話をポケットに入れ、教室に戻ろうと席を立ったレオンの視界に、ふっと影が差し込む。
顔を上げると、銀髪の少年───エッジが立っていた。


「見張、行ってくれてたのか」
「ああ。でも成果なし。今日はまだ手紙は見付かってないのか?」
「エルからメールがないから、恐らく」
「やっぱ昼休憩はないかなー……今日は教室にも結構人が残ってたし」


 エッジは、昼休憩に入って直ぐ、エルオーネの教室を見張りに行った。
バラムガーデンの各クラスの教室は、二階と三階に分けて配置されており、中等部のエルオーネのクラスは二階にある。
高等部生のクラスは三階に在り、エッジは授業が終わるや否や、窓と壁をロッククライミングのように伝い降り、エルオーネの教室が見える木に飛び移って、其処で朝食を採りながら見張をしていた。

 明日も見張らないと、と小さな声で呟くエッジに、レオンは有難いと思った。
事が終わったら、何か礼をしなければなるまい。
エッジが喜ぶような菓子でも作ったら良いだろうか、と考えていると、二人の下に賑やかな声が届く。


「おーい、レオン!例の件、話が着いたぞ!」


 声が告げた言葉に、レオンは振り返った。
微かに輝きのある青い瞳を見て、声の主───ロックが駆け寄り、親指を立てる。


「出来る限り小さい奴を作ってくれるってさ。部品から集めないといけないから、明日直ぐって訳にはいかないけど、一週間はかからない」
「そんなに早いのか?」
「中身に凝るならもっと手間暇かけるだろうけど、今回はお前の妹の為にも急ぐべきだろ。女子が絡むと話が早いんだ、あの人は。ま、一番良いのは、それが完成する前に犯人を捕まえる事だけど」


 協力してくれている人物には感謝するものの、事件の解決が一刻でも早い方が良い事には変わりない。
助力を仰いでおいて、結局必要ありませんでした、では悪いが、レオンにとってはエルオーネを守る事が優先である。
レオンは、若しもそうなったら、後でちゃんと詫びに行こうと決めた。

 級友達と共に教室へ向かう道すがら、それにしても、とレオンはふと考える。
一体何処の誰が、どんな理由で、こんなストーカー行為を働いているのか。
擦れ違う生徒達を横目に見送りながら、この中の何処かに犯人がいるかも知れないと思うと、背筋が凍る。
そんな恐怖の只中に、妹はいるのだ。
早く解決しなければ、とレオンはひそりと唇を噛み、拳を握り締めた。




 レオンに心配をかけている事も、どんどん周囲を巻き込んでいる事も、申し訳ないと思っていた。
けれど、毎日のように届く異常な内容の手紙に、心が折れかけている事も事実だった。
弟達の前では何事もなく振る舞っていたいのに、何でもない物音にまで敏感に反応してしまう。
ガーデンにいる時も、レイラやクラスメイトが傍にいるのだから大丈夫と思っていても、何処かから視線を感じるような気がしてならない。
自宅に届けられた宅配物が漁られていた事に気付いた時には戦慄した。
ほんの数年前まで面倒を見ていた少年から届けられた手紙に潜り込んだ、“許さない”と言う手紙。
楽しみだった子供達からの手紙を、こんなに恐ろしいと思う日が来るなど、想像もしていなかった。

 自宅も最早安全とは言えないからと、レオンがアルバイト先のマスターに事情を話し、勤務時間の間、家族で店奥に上がらせて貰う事になった。
いつもよりも早めに出勤したレオンに連れられ、初めて兄の仕事先を訪れたエルオーネは、マスターに対し、私事に巻き込んでいる事を何度も何度も謝った。
そんなエルオーネを、笑い皺のある目は何度も宥め、淹れたてのコーヒーを勧めてくれた。
何も知らない筈の弟達は、そんな姉の隣でオレンジジュースを飲みながら、見慣れぬ空間にきょろきょろと辺りを見回していた。
しかし、弟達はこの場所に連れて来られた事について、なんで、どうしてとは聞かなかった。
誰も何も教えないが、姉の身の何かが起こっている事を、彼等も幼いなりに気付いているのだろう。
いつものように無邪気にじゃれ合いながら、時折、蒼と青が伺うように見詰めるのを感じて、エルオーネは零れそうになる涙を精一杯堪えた。

 エルオーネ達が、レオンがアルバイトしているカフェバーに来たのは、これが初めての事だ。
席数は多くないが、レオンの仕事の時間が夕飯時とあって、とても繁盛している。
店奥の休憩室には、椅子と四脚の机、そして2人掛けのコンパクトソファが置かれていた。
休憩室で過ごしているエルオーネ達には、兄の仕事風景を見る事は出来ないが、客足が途絶えないのは、壁越しに聞こえる声でよく判る。


(……私も手伝った方が良いかな?)


 このカフェバーで働いているのは、マスターとレオンの他には、マスターの息子がいるのみだが、息子は毎日来れる訳ではないらしい。
実質、マスターとレオンの二人体制で回しているようなものだ。
マスターは調理の為にキッチンを離れられない為、フロアはレオン一人で仕切らなければならない。

 注文位なら手伝えるかな、と思ったエルオーネだったが、そんな彼女の前で「ごぉー!」と元気の良い声が上がる。
空気で膨らませた白い飛空艇のオモチャで遊ぶティーダだった。


「てっき接近!てっき接近!ごぉーっ!」
「てっきって何?」
「多分、敵の事。敵のせんかんが近付いたら、こう言うんだ」


 アニメを見て覚えた台詞を言いながら、ティーダは手に持った飛空艇を持って、右へ左へ駆け回る。
そんなティーダを見ているスコールは、椅子に座り、テーブルに乗せた自由帳に絵を描いている。

 ティーダはテーブルの隅に置いていたもう黒いの飛空艇を手に取り、二つの飛空艇を向き合わせる。
黒い飛空艇が接近し、飛空艇同士がぶつかり合うかと思われた時、白い飛空艇が直角に軌道を変え、衝突を回避した。


「ミサイル用意!撃てー!どーん!」


 攻撃が放たれる音がした直後、黒の飛空艇がよろよろと落ちて行く。
どうやら、白い飛空艇からの攻撃は成功したようだ。

 ティーダは撃墜された黒い飛空艇をテーブルに戻し、白い飛空艇を持ってまたテーブルの周りを歩き回る。
段々と興奮しているのだろう、ティーダの声のボリュームが大きくなって行く事に気付いて、エルオーネはティーダを抱き締めるように捕まえた。


「こーら。声が大きい」
「んぐ」
「此処はおうちじゃないんだから、余り大きな声を出しちゃ駄目って言ったでしょ?」
「はーい」


 注意されたティーダは、飛空艇遊びを止めて、スコールの隣に座る。
絵を覗き込むティーダに、スコールは恥ずかしがってノートを体の下に隠してしまった。

 見せて見せてとせがむティーダと、いやいやと首を横に振るスコール。
その様子を眺めながら、エルオーネは苦笑する。


(レオンを手伝う暇なんてないか。私は二人を見てなくちゃね)


 スコールは大人しいが、不慣れな場所に取り残される事を嫌がる。
ティーダは元気が良いので、遊んでいる内に興奮して、怪我をしたり物を壊したりしてしまう事がある。
段々と分別のつく年齢にはなっているが、まだまだ手を放す事は出来ない。

 そんな事を考えていると、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。
思わず肩が跳ねたエルオーネだったが、直ぐに表情を切り替えて、煩い心臓を宥めながら出入口を見る。
質素な木造のドアが開いて、片手にトレイを持ったレオンが入って来た。


「皆、夕飯だぞ」
「ご飯?」
「お腹空いたー!」


 テーブルに置かれたトレイを見て、スコールとティーダがきらきらと目を輝かせる。
お絵かきや遊びに夢中になっていた二人だが、時刻は既に7時を過ぎており、普段の生活を思えば、遅すぎる夕飯であった。

 トレイにはハンバーグを乗せた皿と、スープの器が二つ。
レオンはそれをスコールとティーダの前に置いた。


「エルの分も直ぐに持って来る。パンとヨーグルトも」
「私、手伝うよ。レオンは仕事で忙しいでしょ?」
「大丈夫だから、座っていろ。持って来るだけだしな」


 席を立とうとするエルオーネの肩をやんわりと押さえて、椅子に座り直させてから、レオンは部屋を出て行った。
程無く次のトレイを持って戻って来て、エルオーネのハンバーグとスープと、パンの入ったバケットを置く。
最後に、ブルーベリージャムを乗せたヨーグルトを運び入れ、エルオーネ達の夕飯が揃った。


「お兄ちゃんは?」
「レオンは食べないの?」
「仕事があるからな。いつもと同じだ、先に食べてて良いぞ」
「はぁーい」


 二人揃って返事をして───少し残念そうに見えるのは、気の所為ではないだろう───、スコールとティーダはフォークを取った。

 ハンバーグは、マスターが特別に作ってくれたものだった。
デミグラスソースも店で使っている特製のもので、スコールとティーダは美味しい美味しいと言って食べた。
エルオーネも、頬が落ちそうな味にすっかり夢中になり、少し大きめのそれをあっと言う間に食べ切った。
スコールにはやはり多かったので、残りはティーダが食べている。

 ヨーグルトにかかっていたブルーベリージャムも、マスターの手作りのものだ。
レシピを訊いたら教えてくれるかな、と思いながら、ヨーグルトを食べていると、ドアのノックが鳴って扉が開く。
入って来たのは、エプロンを着けたマスターだった。


「あ……あの、晩ご飯、ご馳走様でした」
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」


 慌てて頭を下げる姉に倣って、ティーダとスコールも礼を言う。
マスターはそんな子供達を見て、にこにこと笑い、


「どう致しまして。それから、これは食後のコーヒーとジュースだよ」
「あ……ありがとうございます」
「砂糖とミルクもどうぞ。ジュースは林檎ジュースにしたけど、大丈夫かな。嫌いではないかい?」
「リンゴ好き!」
「僕も」


 エルオーネにコーヒーを、スコールとティーダにジュースを差し出して、マスターは「ごゆっくり」と言って部屋を出て行く。
エルオーネはコーヒーに一杯ずつミルクと砂糖を入れ、スプーンでくるくると掻き混ぜた。


(今度、お礼しなくちゃ)


 マスターだけではない、最初に相談したレイラや、クラスメイトにも。
イデアやシドは勿論、昨日はレオンの同級生が家に来て、エルオーネを気遣い、スコールとティーダの遊び相手をしてくれた。
こうした人々がいなければ、エルオーネは外に出る事も出来ず、家の中ですら怯えながら過ごさなければならなかっただろう。


(…ジェクトさんと、アーロンさんも)


 レオンが今日の昼、ジェクトに連絡した事は聞いていた。
ジェクトがアーロンをバラムに寄越すと言っていた事も、カフェバーに向かう道すがら聞いている。

 温かいコーヒーを飲みながら、エルオーネはほっと息を吐いた。
食事を終えて腹が膨れた所為か、知らず張っていた肩から力が抜けて行く。
ジュースを飲み終えたスコールとティーダが、ノートを1ページずつ使って絵を描いていた。
そう言えば、自分もそうだが、彼等は宿題をやったのだろうか。
見慣れない状況に目移りし、悪戯に緊張させない為にと遊びやお絵描きを好きにさせていたが、そろそろ促した方が良いかもしれない────と思いながら、エルオーネの瞼はとろとろと閉じて行く。

 ───此処が自宅ではなく、勝手の判らない場所であるとしても、エルオーネにとって、久しぶりの解放的な空間だったのは事実だった。
小さな休憩室の壁には、絵が飾ってあるだけで窓はなく、出入口は店と繋がるドアが一つだけ。
空間を共有しているのは、愛する弟達と、兄と店の主のみ。
狭い閉鎖空間ではあったが、今のエルオーネからすれば、それこそが安らげる場所だったのである。

 空になったコーヒーカップを置いて、エルオーネは少しだけ、とテーブルに伏せた。
組んだ腕の上に頭を置いて、ゆっくりと瞼を閉じる。
ふわふわと霞んでいた意識は、程無く夢の世界へと誘われて行った。




 すぅ、すぅ、と聞こえる寝息に気付いたのは、スコールだ。
テーブルを挟み、正面に座っている姉が、ぴくりとも動いていない。
あれ、と思って顔を上げて、その理由を知った。

 テーブルに顔を伏せて眠っているエルオーネを見て、絵を描いていたスコールの手が止まる。
その隣で、アニメのキャラクターを記憶描きしていたティーダも顔を上げ、エルオーネが眠っている事に気付いた。


「エル姉、寝てる?」
「うん」


 持っていたペンを置いて、足音を立てないように気を付けながら、テーブルを回り込む。
テーブルの縁からそっと顔を覗かせ、眠る姉の貌をまじまじと覗き込んだ後、二人はテーブルの脚元に蹲って声を潜め、


「起きない?」
「…たぶん」
「エル姉、眠そうだったもんな」
「うん」
「…でも、寒そう」
「……うん」


 もう一度、テーブルの縁からそっと顔を覗かせる。
眠るエルオーネは薄着だが、バラムのこの時期では珍しくない格好だ。
しかし、この部屋はクーラーが効いている上、エルオーネが座っている位置に冷風が直接当たっている。
このままでは、直にエルーネの身体は冷え、風邪を引いてしまうかも知れない。

 スコールとティーダは顔を見合わせた後、うん、とお互いに頷き合った。
物音を立てないよう、そっとした足取りでドアに向かい、ゆっくりとドアノブを回して押し開ける。

 夕食の直前、レオンが食事を運んできていた時には、短い通路の向こうから賑々しい声が聞こえていたが、今はそれも大分落ち着いていた。
話し声は止まないものの、店内に流れているレコードの音楽が聞こえる程度にボリュームが下がっている。
スコールとティーダは、通路の向こうで右へ左へ忙しなくしている兄を見付け、たたっと小走りで駆け寄った。


「レオン、レオン」
「うわっ…と、とっ」


 突然現れた弟達に不意を突かれて、レオンは抱えていた食器を落としかけた。
寸での所で惨事を回避すると、ほっと息を吐いて、通路から顔を出している弟達を見下ろす。
仕事が終わるまで良い子にしているように言い聞かせた弟達が、二人だけで其処にいるのを見て、レオンは目を丸くした。


「どうした?何かあったか?」
「あのね、お姉ちゃん、寝ちゃったの」


 スコールの答えに、レオンはぱちりと瞬きをした後、ほっと安堵の息を吐いた。
そんな兄に気付かず、ティーダが続ける。


「あそこ、涼しいんだ。エル姉、あのカッコだと風邪引くかも」
「毛布ってある?貸して貰える…?」


 二人の言葉に、レオンはそう言えば随分と涼しかった、と夕飯前の事を思い出す。
エルオーネが座っていた場所が、空調の風が直接当たる場所である事も、以前自分で経験していたので直ぐに判った。
弟達に座らせる訳には行くまいと、自ら其処を選んで座ったのは、想像に難くない。


「判った。ちょっと待ってろ、マスターに言って借りて来る」


 そう言って、レオンはキッチンで調理をしているマスターの下に向かった。

 マスターはレオンと話をすると、通路から顔だけを出して様子を伺っている子供達を見て、にこりと笑う。
人見知りの激しいスコールは思わず顔を引っ込めたが、ティーダはきょとんと首を傾げた。
レオンがマスターに小さく頭を下げ、弟達の下へ戻る。


「毛布は向こうの部屋にあるらしい。使って良いと言ってくれた」
「ほんと?」
「ああ。それと、椅子じゃ寝辛いだろうから、ソファに寝かせよう」


 奥の部屋へと向かうレオンの後を、軽い足音が二つ、揃ってついて行く。

 三人が休憩室の扉を開けた時、エルオーネはまだ眠っていた。
レオンはソファに畳まれていた毛布を広げるように弟達に言い、自身は眠るエルオーネを起こさないようにそっと抱き上げた。
エルオーネは、少しの振動では目を覚まさない程、深い眠りの中にいる。
最近は風による窓の音だけでも睡眠を阻害される姿を見ていただけに、レオンは彼女がようやく気を休める事が出来たのだと判った。

 2人掛けのコンパクトソファは、横になって眠るには小さいかと思われたが、小柄なエルオーネには問題なかった。
肘掛にクッションを当てて枕にし、そっと横たえたエルオーネの身体に、スコールとティーダが毛布をかける。

 さらりと零れる黒髪を、レオンの手が優しく撫でる。
もぞ、とエルオーネが小さく身動ぎしたが、彼女は嫌がる素振りもなく、またすぅすぅと寝息を立てた。
妹の寝顔を見詰め、口元を緩めるレオンの服裾を、小さな手がくいくいと引っ張る。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」


 真っ直ぐに訊ねたスコールに、レオンが僅かに目を瞠る。
だが、その表情も直ぐに笑みに代わり、姉を撫でていた手がスコールの頭へと移る。
濃茶色の髪をくしゃくしゃと撫でられて、スコールは日向の仔猫のように目を細めた。


「ああ、大丈夫だ」
「でもエル姉、最近ずっと眠そうだよ」


 何かあった?と訊ねる弟達に、レオンは眉尻を下げて微笑んだ。
小さな弟達を抱き寄せ、濃茶色と金色の髪を撫でてやる。
スコールとティーダは、レオンの肩に顔を埋めて、ことりと首を傾げた。


「大丈夫、何でもない。ちょっと怖い夢を見ているだけなんだ」
「怖い夢…?」
「そう、夢だ。だからお前達は何も心配しなくて良い」
「………」


 幼い二人の眉に、きゅう、と不似合いな皺が寄せられる。
心配しているのに、何も教えて貰えない事が不満なのだろう。
けれども、レオンは絶対に言うつもりはなかった。
二人に何も知らずにいて欲しいと言うのは、レオンとエルオーネは勿論、シドやイデア、今まで見守ってくれていた級友達の願いなのだから。

 抱き締める兄の背に、小さな腕が回される。
ぎゅ、と捕まえるように抱き締め返す弟達の腕に、レオンは胸の奥が暖かくなってくのを感じた。

 弟達の温もりを十分に感じて、レオンは二人から体を離す。
撫でた所為で乱れた髪を直してやりながら、レオンは曲げていた膝を伸ばした。


「仕事に戻るから、エルを宜しくな。起こさないように、静かにするんだぞ」
「うん。判ってる」
「エル姉、寝てるの久しぶりだもん」


 起こしたりしない、と固く誓うスコールとティーダに、良い子だ、と頭を撫でてやる。
行ってらっしゃい、と手を振る弟達に見送られ、レオンは休憩室を後にした。