この感情に名前はない
初体験 / 無自覚両片思い


 サイファーとスコールは犬猿の仲である。
男女の違いなど些末な事とばかりに、二人はいつも真正面から衝突する。
厭味の応酬じみた遣り取りはしょっちゅう見られるし、訓練授業でも競争し合う。
傭兵訓練学校と言う環境柄、男であるサイファーの方が有利に見られる事は多いが、スコールはそんな他者の先入観も覆す程の優秀振りで、サイファーを負かす事も少なくない。
サイファーにしてみれば、女だてらに自分と対等に渡り合うスコールが気に入らないのだろう、と言うのが周囲の見解であった。
そしてスコールの方も、自分を“女だから”と下に見るサイファーに対し、眼にもの見せてやらねな気が済まない、と思っているのだ。
故に二人は常に正面からぶつかり合い、良い言い方をすれば切磋琢磨し、意識するしないに関わらず、互いの腕を磨き合う、『ライバル』と呼ばれる仲にあるのだ。

 ────と言うのが、周囲の印象である。
それら全てが間違っている訳ではないが、実の所、多分な誤解と勘違いも多いと、知っている者は非常に少ない。

 サイファーとスコールは犬猿の仲であり、寄ると触ると一触即発となるのが常であるが、では顔を合わせる度に常にいがみ合っているのかと言われると、そうではなかった。
授業のノートの貸し借りをする事もあれば、物騒な訓練の後に保健室で互いの傷を手当てしている事もある(カドワキから、救護手当の練習も兼ねてやってみなさい、と言われたからでもあるが)。
食堂で二人が同じテーブルを使っている事もある(其処しか空いていないとか、周りが二人の喧嘩の巻き添えを避けているというのもある)。
こう言った具合に、二人が喧嘩をせずとも同じ場所にいると言う場面は、決して少なくはないのだ。
その事自体は、同じガーデンに身を置いているので特に珍しい話ではないが、意外とその事を知らない───気付いていない───ガーデン生は多い。
それ程、二人の間はギスギスとして見えるのだ。
少なくとも、二人の事を詳しく知らない生徒達には。

 本当の所は、授業や訓練がなくとも、二人の距離はもっと近しい。
物の貸し借りは授業のノートに限った事ではなく、漫画や映像ディスクをサイファーがスコールに貸している事もある。
スコールもバトル関連の月刊誌を欠かさず購入しているので、それを当てにしているサイファーに貸すこともあった。
お互いの愛剣が、タイプは違うがガンブレードと言う希少武器である事もあり、メンテナンス器具の融通もしていたりする。
油が足りないからちょっと寄越せ、ネジ余ってないか、明日の授業用に薬莢が足りないから分けろ、と言った具合だ。

 他人と滅多に話をしないスコールは勿論のこと、本人の横柄さもあって周囲から遠巻きにされ勝ちなサイファーが、こういった遣り取りをする相手は非常に少ない。
サイファーは最近、風神と雷神と言った生徒とよく一緒に過ごす事が増えているが、それでも彼等の交友関係と言うものは、このガーデンと言う箱庭にあって、非常に限定的である。
スコールに至っては、クラスメイトとの必要な連絡事項を除けば、サイファー以外と誰とも会話をしていない、なんて事は頻繁にある事だった。

 二人にとって、互いの性別の違いと言うものは、些末と言えば些末なことだ。
女だからスコールが気に入らないのだろう、男である事を嵩に来てくるサイファーが気に入らないのだろう───と言うのは、本当に周囲が勝手に“そう”と思い込んでいるだけなのだ。
偶々相手と自分の性別が違った、ただそれだけの話。
だから、サイファーが女であっても、スコールが男であっても、きっと二人は衝突したし、当たり前に物の貸し借りもしていたに違いない。
当人たちはそう思っている。
それ位に、男だの女だのと言う話は、二人にとってどうでも良かった。

 どうでも、良い事だったのだ。




 年少クラスの頃は男女が混じった寮で過ごした事もあったように思うが、年齢を重ねると同時に、ガーデンの規模が大きくなって行くに連れ、男女の環境は次第に分けられるようになった。
男女別に寮棟が整備された頃に、サイファーは男子寮へ、スコールは女子寮へと移されている。
互いの寮の行き来は、規則的には消灯時間前は基本自由とされているが、時折起こる男女トラブルがその回数と頻度を重ねていく内に、夕方以降は自分の寮へと戻るようにと巡回する教員の姿が見られるようになった。
その頃からだっただろうか、日が落ちる頃からの男女の逢瀬は、寮ではなく訓練施設の奥の奥───通称『秘密の場所』で交わされるのが、生徒達の密かなブームとなっていた。

 しかし、サイファーとスコールが放課後に顔を合わせる場所は、『秘密の場所』ではない。
主にはスコールが男子寮にあるサイファーの部屋に、時にはサイファーがスコールの部屋に行く事もある。
互いの寮がそれぞれに立ち入り禁止とされていないので、問題になる事ではないのだが、しかしそれもパブリックスペースまでの話。
個人部屋に性の違う相手を引き入れるとなると、色々と面倒な噂も立つものであった。
だから二人は、互いの所を訪れる時、寮の正面玄関を使う事はせず、人目のつかない寮の裏側を通って、窓から潜り込むと言う手段を取っていた。

 傍目に見れば、『秘密の場所』に行くよりも、蜜会じみた行動であるが、二人にとってはそれが一番苦がなかった。
『秘密の場所』はいつの間にか恋人同士のデートスポットになっていて、そんな関係ではない自分達が行くような場所ではない。
下手に行って誰かに見付かれば、根も葉もない噂が瞬く間に広がるだろう。
では日中、ガーデンで顔を合わせた時に用事を済ませてしまえば良いと言う話になるが、そもそも二人が互いの部屋に行くのは、相手に用があっての事ではない。
単純に、其処が自分にとって楽に過ごせる場所だから行くのだ。
ちょっとした離れのような感覚である。
自室にいる事に飽きた、隣人が煩い、扉越しの共有空間の話し声が鬱陶しい───そう言う理由で、二人は相手の部屋にやって来る。
来られた方は、面倒臭いのが来たと言う顔をしながら、追い出しても無駄な事なので、帰る気になるまで好きに過ごさせるのが定番となっていた。

 ────今日も自分の部屋にやってきたスコールを見て、サイファーはいつもの奴だろうと思っていた。

 最近、スコールの部屋の隣には、姉妹校のガルバディアガーデンから転入してきた生徒が入った。
バラムに比べるとお堅いと定評のあるガルバディアからの転校生と言う割に、その女子生徒は中々姦しい性格で、その騒がしさにスコールは辟易しており、頻繁にサイファーの部屋に避難しに来る。
良い迷惑だとサイファーは思うが、夜中まで煩い、と頭痛を抱えてやってきたスコールを見た時には、神経質な彼女を知っているだけに少し同情した。
仮眠くらいならして良いと許可して以来、彼女は二日に一度はやって来る。
部屋替えの希望申請は出したと言ったので、部屋の空きがあれば、来週には引っ越せるだろう。
それまでの辛抱だと、サイファーは割り切る事にしていた。

 来訪を知らせる窓のノック音を聞いて、からりとサッシを滑らせれば、スコールが挨拶もせずに窓枠を乗り越える。
お邪魔しますくらい言えないのか、と思いもするが、自分も彼女の部屋に潜り込む時には、特に挨拶もなく踏み込んでいるので、お互い様だ。

 外気は少し蒸し暑かった。
クーラーの効いたサイファーの部屋が心地良いのだろう、ふう、とスコールが少し安堵の息を漏らす。
右手が米神に添えられるのを見て、今日も頭痛の原因から逃げてきたのだと言う事が判った。


「部屋替え、まだ通らねえのか」
「……返事が来ない」
「空いてねえのかもな」
「だとしたら最悪だ。煩くて何も出来ない」
「注意しろよ」
「……した。余計に煩くなった」
「嫌がらせしてんのかもな」


 サイファーの言葉に、スコールは深々と溜息を吐いた。
その足はのろのろとフロアソファに向かって、転がしていたクッションを掴んで腰を落とす。
シャワーは浴びて来たのだろう、乾き切っていない水分を含んだ髪がふわりと流れて、顔を埋めたクッションの上を滑る。

 背中を丸め、小さく蹲っているスコール。
これはしばらく部屋には帰りそうにない、今晩は此処で寝るとも言い出しそうだ。
寝床はどうするかと考え始めたサイファーであったが、ふと刺さる何かを感じて振り返ると、口元をクッションに埋めたまま、此方を見上げる蒼があった。


「なんだよ」
「……」


 案外と露骨に判り易いブルーグレイが、物言いたげにしている事に気付いて問えば、スコールは少し視線を逸らした後、またサイファーを見上げる。


「あんた……」
「あ?」
「………」


 スコールの開いた口は、直ぐに閉じた。
蒼の瞳がふらふらと揺れているのを見て、サイファーは経験則から面倒な気配を感じ取る。
突いてしまった自分の迂闊さに辟易しながら、しかし放っておけば後になってもっと面倒な事になるのも想像が出来て、それならさっさと片付けてしまおうと、サイファーはスコールを急かした。


「なんだよ。用があるならさっさと言え」
「……」


 促せば、もう一度スコールの眼が此方へと向いた。
眉間に深い皺が刻まれて、一拍の空白が生まれた後に、スコールは再び口を開き、


「……あんた、……したことあるか」
「なんだって?」


 クッションに埋もれた口が、もごもごと何かを言ったが、サイファーにはくぐもるばかりで聞き取れない。
言いたい事はちゃんと、はっきりと言えと言われたのに───誰に言われたのだったか、サイファーには思い出せないが───、スコールはいつまでもこうだ。
やれやれと溜息を吐きながら、じろりと睨んでもう一度言うように命じると、言葉はなくともその気配はスコールにも伝わったようで、ううう、と唸る声が聞こえる。
そうするスコールの、いつもは陶磁のように白い頬が、判り易く赤らんでいるのを見付けて、サイファーが眉根を寄せていると、


「…あんた、…セックス、…したことあるか」
(────はぁ?)


 間の抜けた音がサイファーの口から出なかったのは、余りに呆気に取られて、声帯すらもその役割を忘れたからだ。
序に耳も役割を忘れてしまえば良かったのに、と頭の隅で思いつつ、いやそれでは結局もう一度聞き直すだけだろうと、自分の行動パターンを読む。
その思考がやや現実逃避じみている事もまた、サイファーは理解していた。

 数秒か、一分か、十分か。
体感時間が狂ったような空気の中で、サイファーはフロアソファに座っている少女を見下ろしていた。
見慣れた蒼の瞳はもう逸らされている。
所か、スコールは俯いて、呼吸が苦しくなるのも構わない程、抱えたクッションに顔を埋めている。

 サイファーの頭の中はぐるぐると目まぐるしく回っていた。
目の前の少女が一体何を言い出したのか、何を理由にそんな単語がその口から飛び出してきたのか。
年齢を思えばそう言う事に興味が沸かない歳ではないのは、サイファーも自分自身とその周りの環境を鑑みて知っている。
しかし、此処にいるのはスコールだ。
猥談を交わし合うような友人がいるとは思えないし、そんなに親しい間柄の人間がいるなら、隣人が煩いと言って男子寮まで避難しに来ないだろう。
スコールがそんな遠慮のない行動を取れる相手は、サイファーしかいないのだから。
それ位にサイファーとスコールの距離は近しいものだから、スコールが何の意味も目的もなく、性交の経験の有無を他人に聞く訳がない。
必ず切っ掛けがある筈だと、サイファーは読んだ。

 サイファーは一頻り脳内を忙しくさせた後、がりがりと頭を掻いた。
スコールの問いに対して答えるか否か。
取り敢えず、それは脇に置く事にして、先ずはスコールの言動の理由を聞かねばならない。
プライベートもプライベートな事を聞いて来たのはスコールなのだから、その質問の意図くらいは、此方も聞く権利があるだろう。


「セックスね。なんだって急にそんな事聞いて来た」
「…なんだって良いだろ。質問に質問で返すな」
「別に答えてやったって構わねえが、質問の内容が問題だ。プライバシーの塊の中に手ぇ突っ込まれて、気持ち良い奴なんかいねえ。面白半分で聞いてんなら余計にな」
「……別に、そう言う訳じゃ……」


 サイファーの言葉に、スコールの表情がばつの悪いものに変わる。
それを聞きながら、スコールが面白半分で先の質問を投げた訳ではない事を、サイファーはよく判っていた。
問う前に何度も口籠った事は勿論、元々のスコールの性格からして、迂闊に穿るような話ではないと思っている事も、考えなくても判る事だ。

 だからこそ、サイファーは問い返した。
スコールがそんな行動を取るに至るまでの理由は、何なのか、と。

 フロアソファに座っているスコールに対し、サイファーはデスクの椅子に座っていた。
必然的に高い位置から見下ろされる格好になって、スコールは居心地が悪そうに足元を縮こまらせる。
サイファーはただ見ているだけだったが、それでもスコールには睨まれているような気になったのだろう、サイファーから視線は逸らしたままでスコールは答えた。


「……女子が言ってた。セックスしたら大人になるって」
「なんだそりゃ、アホくせぇ」
「クラスの奴等も言ってた、多分男だった。セックスしてムけたら、男も女も一人前だって」
「おい、何処の馬鹿だ、そいつを言ったのは」
「覚えてない」


 クラスメイトの名前も顔も碌に覚えていないのに、其処で交わされていた下らない会話は覚えているのか。
偏ったスコールの記憶力に呆れつつ、それとはまた別に、そんな下らない会話を気にしているスコールにも呆れる。


「ヤっただヤらないだで、ガキだのガキじゃないだの言ってる奴の方がガキなんだよ。リスクも責任も知らないで、猿みたいに盛ってる奴等の言う事なんか気にするな。聞くな。耳が腐るぞ、お前」


 ルール云々の話ではなく、そう言う話が一定年齢以上に達した生徒達の間で出回るのは、ある意味では仕方のない事であった。
サイファーの周りでも同様の会話は幾らでもあるし、男女が良い仲になれば、そう言う事を突いて聞きたがる者もいる。
そうした会話が近くで囁かれれば、興味がなくても勝手に鼓膜を通してくるのも、よくある話だった。

 だが、それはいつも通りの事だ。
サイファーもスコールも、それぞれの生活環境で、そう言うものを耳にして来た。
その都度、どうでも良い事だと、自分に厄介事が降りかかって来なければ構わない話だと切り捨てている。

 それなのに、急にスコールがそんな話を気にし始めたと言う事は、


「スコール。お前、何を言われた?」
「………」


 さっきからスコールは“言っていた”と言うが、大衆の雑音だけを彼女が強く心に留める事は少ないだろう。
もっと明確な棘がある筈だとサイファーが踏み込むと、スコールはクッションを潰さんばかりに強く抱き潰しながら言った。


「ガキ」
「あ?」
「男とヤった事もない処女なんて、ガキだって」
「誰が言った?」
「隣の部屋の奴」


 スコールの言葉に、サイファーはまた呆れる。
その隣人は、お堅いガルバディアガーデンから来たと聞いた筈だが、随分と奔放な性格のようだ。
大方、夜毎に騒がしくし、それを注意したスコールに対し、言い返してきたのだろう。
この分だと、随分と楽しい弁舌が出来そうなので、決して口達者ではないスコールが勝てるとは思えない。

 サイファーの想像は概ね当たっていたようで、スコールは悔しそうな顔で歯を軋ませている。
スコールと件の人物との委細を聞く気にはならないが、きっとよく回る舌に対し、口を挟む暇もなく抑え込まれたに違いない。
ばふっ、ばふっ、とクッションで何度も床を叩くスコールは、癇癪を起こした子供のようだ。
それを眺めながら、サイファーは寸前の処まで来ている溜息を、どうにかこうにか飲み込んでいた。


「……お前、そんな下らねえ事で人のプライバシーに踏み込んできたのか」
「煩い。って言うか、別に、あんたがセックスした事あるかどうかは、どうでも良いんだ。……どうでも」
「じゃあなんで聞いて来た」
「……初めての奴は下手だって聞いたから。一応、確認して置こうと思った」


 言いながらスコールは、すっかり形の歪んだクッションを放り、立ち上がる。
椅子に座っているサイファーよりも、高い位置から見下ろす蒼は、強い光を持っていた。
それを見付けた瞬間、思った通り面倒になったと、サイファーは今度こそ溜息を吐く。


「サイファー」
「やだね」
「まだ何も言ってない」
「お前の考えてる事なんざ、聞かなくても判る。なんで俺がお前とセックスしないといけねえんだ」
「……!」


 サイファーの言葉に、スコールの頬が一気に沸騰した。
それを見て、やっぱりガキだとサイファーは思う。
その感想に限っては、スコールとやり合ったであろう、彼女の隣室の生徒に同意せざるを得なかった。


「お前が何か言われて、ムキになって見栄張るのは勝手だけどな。俺を巻き込むな。それに、さっき言ったな。セックスした事があるかないかで、ガキか大人か喚いてる奴らの方がガキなんだ。お前も、お前をガキ扱いした奴も、どっちもガキだ」


 きっぱりと言い切るサイファーに、スコールは黙したまま動かない。
蒼の瞳にはありありと彼女の胸中が映し出されていたが、そのどれもがサイファーにとっては子供じみた見栄と意地から来るものであると判る。

 はあ、とサイファーは深々と溜息を吐いてやった。
呆れた、バカバカしい、と言う心中が、目の前の少女にも判るように、それはそれはわざとらしく。
それは狙った通りにスコールにも伝わったようで、同時に冷や水を浴びせられた気分だったのだろう、スコールはクッションを握り締めながらも、何かを飲み込むように眉間に深い皺を刻んで俯いた。
一先ずは沸騰具合は落ち着いたようだと、サイファーは洗面所に向かい、グラスに浄水を注ぎ入れる。


「仕方ねえから今夜は此処で寝て良い。だがまた同じ事言ってみろ。叩き出して、二度とこの部屋に入れねえからな」


 スコールにとって、気兼ねせずに避難できる場所は限られている。
誰かに見付かって邪魔をされる、と言う事を心配しなくて良い場所なら尚更、サイファーの部屋位しかないだろう。
今、自分の部屋が安息の場所ではないスコールにとって、この部屋にいられる理由を喪うのは惜しい。
これでもう馬鹿な事は言わないだろうと、サイファーは水の入ったグラスを持って戻った。


「これ飲んで寝ろ。ベッドはお前が使え」
「……」


 差し出したグラスを、スコールは受け取らない。
俯いて動かないスコールに、サイファーは小さく舌打ちを鳴らして、彼女の横にグラスを置いた。
蹴飛ばしでもすれば床が濡れて面倒になるが、今のスコールを可惜に刺激する方が面倒になると踏んだ。

 ベッドをスコールに使えと言ったばかりだったが、彼女がフロアソファを占領しているので、サイファーの寝床がない。
仕方なしにサイファーがベッドに上がり、ごろりと横になった。
ベッドヘッドの傍にある電気スイッチを手探りで見つけて押すと、パチリと言う音と共に明かりが消える。
こうなったらスコールも直に寝るしかないと考えるだろう。

 ────そう思っていた。

 壁に向かっているサイファーは、背中に感じる気配がもぞもぞと身動ぎする事に気付いていた。
もしかしたらベッドに潜り込んでくるかも知れないが、そうなったらサイファーが出れば良い。
流石にベッドで男女二人は良くないだろう。
先の遣り取りをしたばかりとなれば尚更で、その気がなくとも、妙な事態に成り得る可能性は避けた方が良い。

 きしり、と小さくベッドのスプリングの鳴る音がした。
上がって来るか、と思ったが、それからまたスコールは動かなくなった。
じんわりと染みて来る気配が、サイファーには無性に鬱陶しい。
無視して眠ってしまえば良いのだが、どうにもサイファーは、スコールが眠らない限り、安息は訪れないのだ。


「……サイファー」


 呼ぶ声に、どうするべきかサイファーは考えた。
振り返るのは甘やかしている事になるし、絶対に厄介な事になる。
無視しているのが一番だと、経験則が語っていた。

 背を向けたままのサイファーを、スコールはもう一度呼ぶ。


「…サイファー。……なあ」
「……」
「………悪かった」


 ぽつりと零れた言葉に、サイファーは僅かに目を瞠る。
叱られたのが効いたのか、頭が冷えて自分の行動を振り返ったのか。
理由は判らないが、一応冷静にはなったのか、とサイファーが思っていると、


「……あんた、結構ロマンチストだし。好きでもない奴とセックスなんかしたくないよな。俺も別に、したい訳じゃないし。そんなのに付き合わせようとして、悪かった」
「……」
「……他の奴の所に行く」
「は!?」


 反省と詫びと、丁寧にそれを告げる口に、殊勝な奴だと思っていた矢先だった。
飛び出してきた言葉に、サイファーは思わず跳ね起きる。

 振り返って見たスコールの顔は、暗がりの部屋の中でも、よく見えた。
窓から差し込む僅かな夜明かりに映し出された少女の顔は、まるで贄になる決意を固めたかのようだ。
それを見た瞬間、一層厄介な事になったとサイファーは悟った。


「おい。お前、今なんて言った」
「悪かった」
「其処まで巻き戻すな。他の奴の所だと?」
「……あんた、嫌みたいだし。付き合わせるものじゃないって俺も判った。だから、他の奴に頼んで───」
「このバカ!」
「いたっ!」


 思わずサイファーの手が出た。
すぱん、と頭を叩かれたスコールが、何するんだ、とサイファーを睨むが、そんなものはサイファーにとってどうでも良かった。


「何処の阿呆にこんなバカな頼みをするつもりだ?盛った猿なら幾らでもいるが、その中に真面にお前のオネガイを聞いてくれる奴がどれだけいると思ってる?」
「……そんなの知らない。でも、誰とでも寝るって言う奴は聞いた事がある。そいつに───」
「だからバカなんだよ、お前は!」
「痛い!ポンポン叩くな!」
「お前が判ってねえからだ!」


 余りにも突飛で軽率なスコールの考えに、サイファーは頭痛がしてきた。
とかく厄介な所で頑固振りを発揮してくれるスコールに、どうしてこいつを無視して過ごせないのかと、遠退く安息にサイファーの気が遠くなる。
しかし此処で意識を手放せば、スコールを止める人間は誰もいない。
そも、何故自分がスコールのストッパーにならねばならないのかと言う疑問はあるが、今はそれに思考を割いている暇はない。


「お前が誰のどう言う噂を聞いたのかは知らねえけどな、そう言うのは真実8割、嘘2割だ。嘘ってのも噂そのものが嘘って奴じゃない、事実を上手く隠しておキレイに誤魔化してる嘘だ。大体そういう奴は、お前が聞いたこともないような下衆をやってんだ」
「……あんたはそう言うの、詳しいのか」
「風紀委員を舐めんなよ。寮則も含めて、規則違反をしてる連中の事はよく知ってる。懲罰房にぶち込んだ奴もな」


 人との交流を極端に避けているスコールは、人と人との間で交わされる噂に疎い。
クラスの殆どの人間が知っているような話でさえも、輪に加わらない場所を意図して選ぶスコールは、それを耳にする事さえない───と言うのも少なくはなかった。

 そんなスコールが聞いた事があると言う、遊び人の噂。
誰の事を指しているのか、サイファーには今判別する材料はないが、しかし碌な人物ではないのは想像に難くない。
何せスコールが思いつく者だから、それ程までに噂が吹聴されている訳で、相当の遊び人と見て良いだろう。
ひょっとしたら、噂以上に酷いのかも知れない。


(おまけに、馬鹿の中にはスコールこいつを狙ってる奴もいる。そんな奴の所に行ったら、どうなるか────)


 スコールは、平時の他者に対する振る舞いのキツさの所為で、周囲から敬遠されている事も多いが、必ずしも嫌われ者と言う訳ではない。
それは言動の冷たさとは裏腹に、授業のノートの貸し借りには応えてくれるとか、訓練中に班メンバーを庇う場面もあり、優秀さも含めて信頼している者は多い。

 同時に、サイファーから見ても判る、詰めの甘さと言うものがある。
本質的に他者に冷たくし切れない所があるスコールは、そう言う隙間を狙う者にとって、美味しい鴨に見えるのではないだろうか。
加えて、性的な事にあまり関心を示さない、お堅く見える所が、そう言う物を暴く事に興奮する輩の興味を惹いている。
表情筋があまり動かないので厳しい印象を持たれ勝ちだが、顔も整っているから、それを「泣かせてみたい」等と言う男がいる事を、サイファーはよくよく知っていた。


「とにかく。とにかく辞めろ。絶対に面倒な事になるし、お前も最悪な目に遭うぞ」
「……」
「睨むんじゃねえ。親切で言ってやってんだぞ、俺は」
「……」


 スコールはベッドの端を握って、じっとサイファーを見詰める。
だって、でも、と未だ納得の行ってない様子のブルーグレイを、サイファーもじろりと睨み返した。
その碧眼が、揶揄や嘲笑ではなく、やや怒りを混じらせながら本気で睨んでいるのを見て、スコールの頭が俯いて行く。

 サイファーの言葉に対し、判った、とは口を開かないスコール。
意地っ張りは本当に面倒だと、サイファーも遂に匙を投げるしかなかった。


「ああ、もう。好きにしろよ。勝手にしろ、バカ」
「……バカじゃない」
「煩ぇ。バカじゃなきゃアホかマヌケだ。そんなに処女を捨てたきゃ、適当な奴引っ掛けて捨てりゃ良い。後悔するのもしないのも、どうせお前なんだからな」


 俺には関係ない、とサイファーは言って、ベッドに再び横になった。
壁を向いて、スコールには背を向け、しっしっと追い出すように手を振る。

 背にした気配が去るのを、サイファーは待っていた。
意地っ張りが引っ込みがつかなくなっているなら、直に彼女は出て行くだろう。
其処から先、彼女がどうするのか、サイファーはもう気にしない事にした。
首の後ろがチリチリと、低温のライターを押し付けられているような気分はあったが、これだけ言っても無駄なら、もうサイファーが関与する余地はない。

 きしりとまたベッドの軋む音がした。
気配はまだ同じ場所にあって、じっとしている。
頭が冷えたのだろうか。
だとしても、サイファーはその是非を確かめる気はなく、寝るならさっさと寝てしまえと、投げ槍に考えていると、


「……いやだ」


 ぽつ、と零れた声は、独り言のような音だった。


「適当な奴なんか嫌だから……あんたに頼もうって、思ったんだ」


 小さく狭い部屋の中、その小さな声は、必要以上に反響してサイファーの耳に届く。
その言葉は、無視してしまえば良いと割り切るには、首の後ろのライターが近過ぎた。

 体は壁向けに寝転ばせたまま、サイファーは首だけを巡らせて、肩越しに少女の背中を見た。
ベッドの端に座っているスコールは、細い背中を心なしか強張らせている。
シーツを掴む手に力が籠り、微かに震えているのが見えた。


「どうせいつか捨てるんだ。いつか捨てるんなら今が良い。今捨てたい。でも一人で出来るものじゃないし、相手が要る。相手が要ることなら……どうせならあんたが良いって、そう思ったんだ」
「………」
「……でも、あんたが嫌がるのも、ちょっと考えたら判る事だったな」


 サイファーをスコールがよく知るように、スコールもサイファーをよく知っている。
型破りの風紀委員が、その横暴な振る舞いとは裏腹に、根からロマンチストである事も。
話を聞いたサイファーが、仮にその矛先を自分に向けられていなかったとしても、馬鹿な真似だと怒るのは、簡単に想像できる事だ。

 悪かった、とスコールはもう一度言った。
それを聞いてサイファーが体を起こすと同時に、スコールもベッド端から腰を浮かせる。
ずっと抱えていたのだろう、スコールの膝からクッションが落ちて、フロアソファの上へと転がった。

 ひたひたとスコールの足が窓へと向かうのを、サイファーは顔を顰めて呼び止める。


「おい、スコール」
「……なんだ」


 振り返らずにスコールは応えた。
サイファーは胡坐を組んで、ベッドの上に座ったまま、そう遠くはない距離に立っているスコールを見る。


「どうする気だ、お前」
「………」


 それが今夜に限った問いではない事を、スコールは読み取っている。

 見栄と意地は、下らないものではあるが、手放せないものだ。
スコールはプライドが高いから尚更だろう。
そして、いつかはそう言う日が来るのもまた事実であり、その時の相手が誰であるのか、選べるのかすらも判らない。
自分達がこのまま進む道の事を思えば、サイファー以上にスコールが望まない事態に成り得るのも、想像に易い話であった。
それならいっそ、選べる今に────スコールはきっとそう考えたのだ。

 今この部屋からスコールが出て行くのを見送ったら、彼女が後にどうするのか。
意固地になったスコールが、容易く自分の考えや行動を曲げるとは、サイファーには考えられなかった。

 サイファーの脳裏に、裸身の少女のシルエットが浮かぶ。
それを知らない男が触ると思うと、無性に腹が立った。