零れ落ちる、その前に


 フリオニール、ティーダと共に探索に出て、戻った時には夕暮れになっていた。
予定より遅くなったが、日が落ちる前には戻れたのだから良い方だろう。
混沌の大陸へと続く道を中心にイミテーション退治をしていた為、レベルの高い者と遭遇する事が多く、戦闘も何かと長引いたお陰で、三人は疲れ切っていた。
聖域近辺まで戻ればイミテーションの影はなく、魔物と鉢合わせする事もなかったのは幸いだった。

 聖域の屋敷に戻った三人は、バッツが持ってきたポーションをそれぞれ一本飲み干してから、風呂に入る事にした。
バッツは風呂へと向かう三人に手を振り、「寝落ちて溺れないようにな」と言った。
ティーダが何度も欠伸をしている所を見ての言葉だろう。
気を付けるっス、と言ったティーダであったが、既にその足取りは危うい。
フリオニールはそんなティーダに苦笑し、スコールも呆れたと溜息を漏らしていたが、その実、彼等も似たようなものであった。
しかし、闘争の世界で風呂場で溺れて死亡と言うのは余りにも酷いので、せめて風呂から上がるまで意識は保っておかねば、と自身に言い聞かせる。

 眠気眼のティーダが、動くのも面倒とのろのろと服を抜いている間に、フリオニールとスコールは風呂場へ入った。
埃塗れになった髪を洗うスコールの隣で、フリオニールも体を洗っている。
その体には細かな傷があちこちにあるものの、大きな怪我と言うものはない。
今日の探索で負った傷と言うのも、スコールがケアルで殆ど直していた為、結果的には三人とも殆ど無傷と言う形で帰還する事が出来た。


「本当に、今日はスコールのお陰で助かったよ。怪我も全部治してくれて、ありがとうな」
「……別に。礼を言われる程の事じゃない」


 必要な労だと言って、スコールはシャワーの湯に髪を晒す。
脳茶色の髪から泡が流れ落ちて行くと、スコールは前髪を掻き揚げながら顔を上げた。
オールバック気味になったスコールの額の傷が露わになり、雫が伝い落ちて行く。
スコールは目許に流れて来る水滴を拭いながら立ち上がり、浴槽へと移動した。

 フリオニールもシャワーで体の泡を流していると、ようやくティーダが入って来る。
ふあああ、と何度目になるか大きな欠伸をして、ティーダはフリオニールの隣へ座る。


「あー、疲れたぁ……風呂より寝たい気分だなぁ」
「はは、同感だ。でも先に入ってから寝た方が、起きた時に気持ちが良いと思うぞ」
「やっぱりそうだよなぁ。あ〜、そういや晩飯ももう直ぐだよな」
「そんな時間だったな。バッツが鶏肉を捌いてたぞ。香草焼きにすると言ってたよ」
「いいなあ、美味そう。それ聞いたら腹減って来た〜。風呂上がったら寝ようと思ってたけど、それなら飯食ってからにするか」
「それが良い。バッツの飯は美味いもんな。鱈腹食べさせて貰おう」


 フリオニールの言葉に、そうしようそうしよう、とティーダは言った。
漏れる欠伸を噛み殺しながら、石鹸の沁み込んだスポンジでごしごしと体を洗うティーダを横目に、フリオニールは席を立った。

 大の男が五人入っても余裕のある浴槽を一人占めしていたスコールは、端に寄り掛かってうつらうつらと船を漕いでいる。
帰って来るまでは気を張り詰めさせていたスコールだったが、やはり屋敷の中までその緊張感は続かない。
暖かな湯で、疲労し切っていた筋肉もすっかり解れ、休息モードに入っている。
フリオニールはそんなスコールと一人分の隙間を開けて、湯船に入って座った。


「ふぅ……」


 余りの気持ち良さに、感嘆の混じった吐息が漏れた。
それが聞こえたのだろう、スコールの閉じていた瞼が持ち上がり、蒼灰色がフリオニールを捉える。
青とフリオニールの赤が交じり、フリオニールの頬が綻ぶ。


「スコール、今、寝そうだっただろう」
「……別に」
「頭が少し揺れてた」
「……揺れてない」


 じろり、とスコールの瞳に険が滲む。
以前のフリオニールなら、機嫌を損ねたと思う表情だが、今は気にしなかった。
恥ずかしがってるな、と思うと可愛らしく思えるから、関係性の変化と言うのは面白いものだ。

 あまり揶揄すると本当に拗ねて怒ってしまうので、フリオニールは「気を付けろよ」とだけ釘を差した。
そのタイミングで、たったったっと弾む裸足の足音の後、ばしゃーん!と水飛沫が立ち上がった。


「うわっ!おい、ティーダ!」
「へっへー!眠気覚まし!」
「………」


 豪快な飛び込み入浴に、フリオニールが声を上げる。
飛沫を殆ど正面から受ける羽目になったスコールは、蟀谷に青筋を浮かせていた。
ティーダはけらけらと笑いながら、ざぶざぶと湯を掻き分けて湯船の真ん中へと逃げる。

 さっきまで眠い疲れたと繰り返していたのに、一転してティーダは元気になっている。
文字通り、水を得た魚のようだ。
とは言え風呂場でやたらとはしゃぐのは困りもので、フリオニールはすいすいと泳ぐティーダに近付いて、後ろから羽交い絞めにして上半身を持ち上げてやった。


「うぉっ!やる気だな、フリオ!」
「やる気ってお前、わぶっ!」


 拘束から逃げようとじたばたと暴れたティーダが水を弾き上げ、フリオニールの顔に湯がかかる。
フリオニールがぶるぶると頭を振って水気を払っている間に、ティーダがその腕からするりと逃げた。


「逃げろー!」
「こら、ティーダ!風呂で泳ぐなって!」


 ばしゃばしゃとバタ足で湯面を泳いで行くティーダ。
風呂場は銭湯のように広いので、少し位なら泳げない事もないが、一人で入っているならともかく、今日は同伴者もいるのだ。
それも、こうした騒がしさが嫌いな人物が。
案の定、その人物───スコールから注意が飛ぶ。


「あんた達、煩い!」
「スコールが怒った!」
「そりゃそうだろ……」


 今日一日の疲労もあって、スコールはいつも以上に短気だった。
疲れている時こそ静かに過ごしたいスコールにとっては、この騒がしさは辟易ものだろう。
声を荒げるのも無理はない。

 怒られた、と萎れるティーダの頭を撫でて、フリオニールはその隣に胡坐を掻いて座った。
ティーダも渋々と言う顔で座り、濡れた髪をがしがしと掻く。
マリンブルーの瞳はちらちらとスコールを伺い、怒ってないかな、と気にしているのが見て取れた。
フリオニールは、其処まで縮こまらなくても大丈夫だろう、と思うのだが、敢えて黙っておく事にした。
平時はどうしても元気なティーダが微笑ましく、それを良しとしている面々も多いので、多少の騒がしさを許す者が多いが、時には灸も必要だ。
とは言え、意外と繊細なティーダが必要以上に落ち込まないように、適当な所でクッションを入れないとな───と思っていると、


「フリオ、フリオ」
「ん?」
「スコール、なんか気分悪そうに見えるんだけど……気の所為かな」


 ティーダの言葉に、フリオニールはぱちりと瞬きを一つ。
さっきはそんな風には見えなかったけど、と思いつつスコールへ視線を向けると、眉根を寄せて俯いている。
いつもの表情にも見受けられたが、ぱしゃり、とスコールの手が湯から出て、皺の寄った眉間に宛がわれた。
目眩でもするのか、逆上せたのだろうか。


「スコール、大丈夫か?」
「………ん」


 フリオニールが声をかけると、スコールが小さく頷く。
その反応の鈍さに、フリオニールとティーダは顔を見合わせた。


「えっと……スコール。気分悪いなら、早目に風呂上がった方が良いんじゃないか?」
「そ、そうっスよ。逆上せたら溺れるぞ」
「……ん。そうする」


 仲間達の心配の言葉に、常であれば「大した事じゃない」とでも言う所だが、今日のスコールは素直だった。
湯の温度は少し高く、疲労した体には少々負担がかかったのかも知れない。
逆上せてしまう前に出るのが良い、と言うティーダの言葉に頷いて、スコールは腰を上げた。

 ざぱ、と立ち上がったスコールの体が、フリオニール達の前に晒される。
湯の中で光が乱反射して隠されていた体は、体格の良いフリオニールや、適度に脂肪と筋肉の乗ったティーダのものに比べると痩身に映る。
それでも戦士として、傭兵として引き締まった筋肉がついているのだが、今日はそれが一回り小さく、か弱くなったように見えた。
そんな事を言えばきっとスコールは怒るのだろう。
こんな錯覚が見えてしまうなんて、俺も相当疲れてるみたいだな、とフリオニールが目を擦っていると、


「……スコール?」
「…?」


 名前を呼んだティーダの声に、スコールはことん、と首を傾げる。
なんだ、と言外に問い返すスコールに、フリオニールも釣られたように首を傾げていたが、


「……スコールって、男だよな?」
「は?」


 ティーダの余りと言えば余りであり、今更と言えば今更な言葉に、スコールの声色が低くなる。
明らかに不興を買ったと判る声だ。
無理もあるまい、なんて事を聞くんだ、と言う気持ちでフリオニールがティーダを諫めようとすると、


「だってスコール、それ」
「…なんだよ」
「それ。そこ。……下、下」


 直接的な物言いを避けるように、ティーダは代名詞と方向だけで場所を指す。
スコールは立ったまま、己の足元に目を向けた。
倣ってフリオニールも、スコールの顔を見ていた視線を、下へ下へと下ろして行き、────其処にあった、いや、“ない”ものを見付けて、絶句する。

 ある筈のものが、其処にない。
男として持っているべきものがなく、女が持っているものがある。
それを見て、理解した瞬間、フリオニールは目の前が真っ赤になって気を失った。




 神々の闘争の世界では、不思議なものが手に入る事がある。
それはモーグリショップに売られていたり、歪の中に落ちていたりする事が殆どだが、時折、道端にぽとりと落ちていたり、誰が持ち込んだ訳でもないのに戸棚の中に置かれていたりする。
売られているものならモーグリに詳細を訪ね(判らないクポ、と言われる事も多いが)、拾ったものならまた捨てる事もあるし、危険がなさそうなら持ち帰ったりもする。
戸棚の中に突然現れ、見付かった物については、モーグリショップに持って行って類似と思しき商品を探したり、薬師として調合の知識があるバッツや、魔力に関しては最も造詣が深いと思われるルーネス、肌で魔力の質を感じ取る事が出来るティナと言った面々で、成分や効果を調べる事もあった。

 しかし、全ての物がそうした経緯を辿れる訳ではない。
特に戸棚の中に出現したものについては、既存の物とよく似たボトルの中に入っていたりする事もあって、ポーションやエーテルと言った代物と誤認される事も少なくなく、気付いた時には誰かが飲んでしまっていた、と言う事件も起きていた。

 ────恐らく、そう言う事なのだろう、と言ったのは、燦々たる現場を見付けたクラウドの見解である。

 偶然風呂場の前を通りがかり、騒ぎの気配を聞きつけたクラウドが飛び込んだ時、其処はパニックになっていた。
主に慌て焦って声を上げていたのはティーダ一人だったが、その隣には湯船の中で肢体同然にぷかりぷかりと浮かんだフリオニールの溺死体があり、スコールは湯船の端で立ち尽くして固まっていた。
その光景はまるでサスペンスの一幕だ。
ティーダがフリオニールを衝動的に溺死させ、それをスコールが見てしまった───と言うシナリオでドラマが展開していたとしても可笑しくない、とクラウドは思っている。
実際は其処まで血生臭い事はなく、フリオニールは気を失っていただけで、スコールとティーダは全く別の事でそれぞれ混乱していたのだが、それを理解するまで、クラウドは真面目にこの事件は隠すべきか糾弾すべきか、頭を高速回転させていた。

 最初に我を取り戻したのはティーダで、彼はクラウドの姿を見付けると、泣き付いて言った。
「スコールが女の子だった!」と。
何を馬鹿な事を言ったクラウドであったが、ティーダに促されてスコールを見て目を丸くした。
目の前にいたのはクラウドがよく知るスコールと全く同じ顔をしていたが、体つきは一回り小さくなり、手足は心なしか華奢なシルエットを帯びた、一人の少女が其処にいた。
それがスコールである事は、額の傷が何よりの証明であったが、しかし間違いなく彼は男であった筈で、それは闘争の世界で共に生活している内に判り切った事だった。
風呂だって一緒になった事があるのだから、彼がきちんと男である事は誰もが知っている筈だ。
しかし、其処にいたのは少女だった。

 クラウドは一先ずティ─ダを宥め、フリオニールが本当に溺死しないように浴槽から運び出した。
それから、フリーズしたまま動かないスコールの体をバスタオルで包み、ティーダにセシルとティナを呼んでくるように言った。
未だ慌てたティーダが全裸のまま呼びに行こうとするのは焦ったが、改めて落ち着かせてから、呼びに行かせた。
その後はスコールの事は二人に任せ、クラウドは気を失ったままのフリオニールに服を着せて、リビングまで運ぶ。
リビング奥のキッチンにバッツがいたので、風呂場で起きていた事を説明した後、バッツの方からも、三人が風呂に向かった後で、戸棚に置いていたポーションの個数が記憶と合わない事に気付いたと言う。
それを聞いて、時折起こる不可思議な現象が、この事態の原因であると言う可能性を見出したのであった。

 現在、リビングには、なんとかパニックを脱して落ち着いたティーダ、依然として気を失ったままソファに横にされているフリオニール、現状把握の情報収集をしていたクラウドと、夕飯の準備を中断させているバッツが揃っている。
バッツはクラウドから風呂場で起きていた事件を聞いた後、記憶違いと思っていたポーションの個数の事を思い出してから、深い後悔に苛まれていた。


「つまり、何処かから紛れ込んだ変な薬を、おれがスコールに渡しちゃったって事だよな」
「……平たく言うと、そうなるか。いや、あくまで俺の憶測でしかないんだが…」
「でも他に原因らしいものはないんだろ?おれがポーションの数を見間違いとか記憶違いとか思わないで、ちゃんと確認してれば良かったんだ。悪い事したよ……」


 バッツの言葉は、間違って渡した妖しい薬を飲んでしまったスコールだけでなく、それによって起こった事象の第一発見者となった事で混乱したであろうティーダとフリオニールにも向けられている。

 キ、と蝶番の鳴る音にクラウド達が振り返ると、セシルの姿があった。
更衣室に残していたスコールの為に呼び、ティナと共に彼を任せていたセシルが一人で出て来たと言う事は、大方の診察は終わったと言う事だろうか。


「セシル。どうだった?」


 クラウドが簡潔に訊ねると、セシルは眉尻を下げ、戸惑いも消えない表情を浮かべつつ、


「うん……クラウドが言っていた通り、確かにあの子はスコールだ。それで、体も確かに女性になっている」


 俄かには信じ難い事だけど、とセシルは付け足す。
その言葉は、この場にいる者全員の心中を代弁したものであった。


「本人の様子はどうだ?身体的な問題は勿論だが、精神的な所も含めて」
「体の方は、痛みとか熱とか、そう言うものはないよ。気持ちの方は、少しずつ落ち着いて来てはいるかな。今はティナが宥めてくれてる。それで、こっちの方は?」


 セシルの視線は、ソファに横たわるフリオニールと、その傍らでなんとも複雑な顔をしているティーダへと向けられる。

 ティーダも、落ち着いたと言えば落ち着いた方だ。
クラウドから一つ一つ事情を尋ねられ、それに答え、混乱しては宥められを繰り返す内に、少しずつ現状を把握できるようになった。
風呂場で見たスコールの姿が夢幻ではない事を理解してから、追うように「女の子の…見ちゃった……」と落ち込む姿に、若いね、青いな、と年長者二名は微笑ましさを感じている。


「ティーダはあの調子だが……まあ、パニックは治まった。フリオニールは見ての通り、まだ起きていない」
「落ち着いたのなら良かったよ。フリオニールはもう少し待とうか。それから───そうだ、原因は判ったのかい?僕からスコールに尋ねてみたけど、まるで判らないと言っていてね」
「それは此方で凡そ予想がついた」
「本当かい?」
「多分な。三人が風呂に入る前に、バッツが棚に仕舞っていたポーションを渡したんだ。その中に一つ、違う薬が交じっていたらしい。偶に何処かから紛れ込んでくる物があるだろう、恐らくそう言う類だ」
「後から数えたら、数が違ったから、多分それだと思うんだ。───そうだ、まだビンは捨ててないんだ。回収して調べてみるよ」


 自分が原因だと言う責任感からか、バッツは言い終えない内にキッチンへ向かう。
直ぐに戻って来た彼の手には、三本の空のビンが握られていた。


「一緒に全部捨てちゃったから、どれが原因だか判んないんだけど……二本は普通のポーションの筈だし、比べながら調べてみるよ」


 バッツが見せたビンは、確かに三本とも遜色なく同じものだった。
底に薄らと色味のある液体が表面張力で残っているが、此方も全て同じ色で、一つだけ効果が違うと言われても、到底見分けられまい。
だから今回の事は殆ど事故なのだが、何かと世話を焼いている少年がまさかの事態に陥ってしまったと言う負い目なのか、バッツはいつになく意欲的であった。

 秩序のメンバーに置いて、バッツ以上に多彩で博識な者はいない。
彼が率先してくれるのなら、後は任せて大丈夫だろう、とクラウドとセシルは思った。

 さて後は────と全く動きのない青年へと一同の視線が向けられた所で、


「う……」


 呻く声が聞こえ、切れ長の目が薄らと開かれる。
ようやく起きたか、とクラウドが呟き、フリオニールが起き上がった。
溺死体も同然の状態で湯船に浮かんでいたフリオニールだったが、瞳の光も正常で、どうやらこれと言った問題は残っていないようだ。
念の為、セシルがフリオニールの下に近付き、まだ微かに赤みの残る頬に触れる。


「……セシル?」
「ああ。目が覚めて、取り敢えずは良かったよ。気分はどうだい?」
「……少しくらくらするような……ええと、俺は一体……」


 気を失った事で、少し記憶が混濁しているようだ。
ちら、とセシルの視線がクラウドへと向けられる。
どうしようか、と訊ねる瞳は、フリオニールの人となりをよく知っているからこその心配だろう。
クラウドも同じ気持ちではあるが、どうせ黙っていても本人を前にすれば思い出すだろう。
フリオニールの性格上、その方がショックが大きそうだな、とクラウドは思った。


「風呂場で倒れて、湯の中に浮いていた。原因は……スコール、だな」
「スコール……─────!!」


 仲間の名前を聞き、それを小さく反芻させて、数秒後、フリオニールの顔が一気に赤くなって、そのまま青くなる。
どうやら、見たものについては確りと記憶に焼き付けられていたようだ。
そんなフリオニールの思考が感染したのか、すぐ傍に座っていたティーダもまた真っ赤になり、「うわあああ!」と残像を追い出さんばかりに頭を振っている。

 フリオニールは赤いような青いような顔を俯けて、縮こまるように背中を丸めながら、確かめるように問う。


「あの……スコールって、男、だよな?」
「ああ」
「そう、だよな……やっぱりあれは見間違い……」
「だったら良かったんだけどね」


 安堵しかけたフリオニールに、現実に戻すべくセシルが言えば、また顔色が激しく変わる。
血が昇っては一気に下がると言う忙しない血行に、急激な血圧の変化は体に良くなかったんだったか、死にはしないよな、とクラウドは些か的外れな心配をする。

 何がどうなって、と混乱極まった表情を浮かべるフリオニールに、クラウドは事態の原因と思しき点まで含めて、話して聞かせた。
やはり俄かには信じ難い様子だったが、その信じ難い光景を正しく目にしていた事も事実。
それを思い出してはまた赤くなるフリオニールに、セシルは眉尻を下げながら言った。


「フリオニールが戸惑うのも判るけど、余りそう言うのを本人の前では見せないようにね。スコールも今回の事、結構混乱しているから」
「あ……ああ、うん…そう、だな。そうするよ」


 女性に対して判り易く免疫のないフリオニールである。
事故とは言え、見てしまった女体の裸と言うものは、彼にとって刺激が強過ぎたのだろう。
それを思えば、思い出す度に赤くなるフリオニールの反応も無理はないのだが、セシルが診察している間、スコールはあくまで“スコール”であった。
女性となってしまったのは外面だけであって、中身は仲間達がよく知る少年なのだ。
プライドの高い彼の事、事故とは言え女になってしまったからと言って、可惜にそれを意識するような態度を取られるのは嫌だろう。

 その事件の中心人物であるスコールが、リビングに入って来た。
ドアの開く音に全員の視線が其方を向けば、俯いたスコールをティナが宥めながら連れてきている。
フリオニールが思わず固まり、ティーダも判り易く目を逸らしてしまう。
言った傍から、とクラウド達は呆れたが、良くも悪くも素直な二人には無理のない反応であった。

 ティナに手を引かれて歩きながら、此方に目を合わせようとしないスコールに、セシルが声をかけた。


「スコール、気分はどうかな。少し落ち着いた?」
「……ん」


 頷くスコールに、何かあったら直ぐに言ってくれ、とセシルは言った。
一応、身体検査はしたものの、混乱した本人を長く拘束させるのも酷だろうと、セシルは簡単に診るのみに留めている。
これから不調が起きないとも限らないので、異常があれば直ぐに知らせて欲しいと言うと、スコールはもう一度頷いた。

 スコールの反応が鈍いのは常の事ではあるが、今日は一層返事が遅い。
無理もないだろう。
いつもの服装に身を包んで立ち尽くしているスコールは、ぱっと見た限りでは殆ど変わった様子はないが、ジャケットの肩や裾に緩みや撓みが出来ている。
本来の体格から一回り小さくなったように見えるのは、決して気の所為ではないのだ。
彼自身も服を着てからそれを如実に実感せざるを得なかったのだろう。
サイズが微妙に合っていない所為で、何もせずともずり落ちてしまうジャケットの肩口を、鬱陶しそうに何度も直しているのが目に付いた。

 そんなスコールの下に、バッツが駆け寄る。


「スコール!ごめんな、おれが変な物飲ませちまった所為で」
「……あんたの所為なのか」
「うっ」


 よくよく聞けば、声色も微かに高い。
喉を見ると、男性ならば目立つであろう喉仏も見えない。
声帯も変化してしまっているようだ。

 バッツはスコールの問に、苦い表情をしつつも、言い訳はしなかった。


「その……戸棚の中にあったポーションの数が合ってない事に気付いてなくて……お前に渡した奴、ポーションじゃなくて、何処かの世界から紛れ込んだ何かの薬だったみたいで」
「……じゃあ、あんたの所為じゃない。俺も違う薬だとは気づかなかったし……」


 事情を聴き、時折起こる不可思議な現象の所為なのだと察して、スコールは溜息と共にそう言った。
ポーションはバッツの手からスコール、フリオニール、ティーダにそれぞれ渡されたが、バッツだけでなく、三人もそのポーションに異物が混ざっているとは思わなかった。
透明なビンの中身は全て同じ色で、成分だけが違っている等とは思いもしない。
在庫の個数については、バッツは自分の確認不足だとは言うが、折々に仲間達が買い足したり、余剰に手に入った物を追加したりと言う事は少なくないので、把握していた数が一個や二個違う程度なら、気にしない者も多い。
だから事態の原因はバッツじゃない、あんたは悪くない、と言うスコールの言葉はバッツには有難いが、その優しさが反って当人の罪悪感を刺激する。


「うう……ごめんな、スコール。おれ、この薬、調べてみるからさ。時間が経てば元に戻れるかも知れないけど、あんまり長い事そのままって言うのも嫌だろ?」
「当たり前だ。ちっとも落ち着かない」
「薬を調べて、元に戻す方法を探してみるよ。それで許してくれるか?」
「許すも何も、俺は別に……薬は、あんたが一番詳しいんだろうし、……頼りにはしている」


 微かに口籠った後、スコールは僅かに赤らんだ顔で言った。
人に頼る事は勿論、その気持ちすらも滅多に口にしないスコールには珍しい言葉だ。
それだけ彼も不安があるのだろうし、同時に薬の究明を申し出てくれたバッツの言葉は有難かったのだろう。
バッツもスコールのその気持ちを察して、「任せとけ!」と胸を張った。

 と、バッツが薬を調べる事についてやる気を出してくれてはいるが、生憎、今日の彼は夕食当番である。
事件を受けて中断していた夕食の準備を再開させる為、彼は一旦キッチンへと戻る事になった。

 キッチンへ入るバッツを見送るスコールに、ティナがにこりと笑って言う。


「良かったね、スコール。バッツならきっと元に戻る方法を見付けてくれるよ」
「…だったら良いけどな」
「ふふ」


 本人を前にして、慣れない言葉を使った反動か、また素直ではない事を言うスコールに、ティナがくすくすと笑う。
セシルと共に体の状態を診ていた時には、ただただ不安げな表情で立ち尽くしていた彼が、少しずついつもの調子を取り戻しているのが嬉しいのだろう。

 しかし、スコールの瞳はまだ彷徨い続けている。
リビングに入って来た時のような、誰とも目を合わせようとしない拒絶感はないが、蒼の瞳はまだ頼りない。
それを見付けたクラウドとセシルは、それぞれ目を合わせ、互いの考えている事を読み取ると、


「夕飯まで少し時間があるな。ティーダ、少し書庫に行かないか」
「へ?書庫?」


 凡そ普段は自分と縁遠い場所へと誘うクラウドに、ティーダが目を丸くする。
なんでそんな所に、と言う表情を浮かべるティーダへ、セシルが引き継いで言った。


「薬を調べるに当たって、使えそうな本を探して置こうと思ってね。人手が欲しいから、ティーダにも手伝って欲しいんだ。ティナも頼んで良いかな?」
「ええ、勿論。私で役に立てるのなら」
「俺、数に入る?本とかよく判んないっスよ、普段ちっとも読まないから」
「荷物持ち位は出来るだろう。来い」


 殆ど有無を言わさずに促すクラウドに、ティーダは「マジっスか…」と呟きつつ、ソファから腰を上げた。
書庫には様々な本が納められており、その中にはティーダが興味を引く本───主に彼の世界で発行されたと思しき雑誌類───もあるのだが、魔法や薬学に関する類は全く触れた事がない。

 部屋を出て行く途中、疲れているのにごめんね、とセシルが言った。
全くだと思いつつ、どうして自分だけが本探しを手伝われるのかと、自分と同様に探索から帰ったばかりの面々を見遣る。
それから、彼も気付いた。
立ち尽くした蒼灰色の瞳が、ゆらゆらと揺れて、残っている人物に向けられている事に。
そうだと気付けば最早ティーダがリビングに残れる訳もなく、後で二人の分まで夕飯の鶏肉を食べさせて貰おうと決めた。

 リビングに残されたフリオニールは、仲間達を吸い込んで閉じた扉を見詰めていた。
ソファから一メートル程度の距離の場所には、立ち尽くすスコールがいる。


(これは……気を遣われた、よな)


 ティーダとティナに声をかけ、リビングを出て行ったクラウドとセシル。
彼等はフリオニールとスコールの間柄を知っており、ティーダも含めて、付き合うまでの二人の距離を縮める為に何かと後押しをしてくれた。
そして、スコールが人目のある場所でフリオニールに甘える事は勿論、弱音を吐く事も出来ない事も理解している。

 だが、今のスコールは、明らかに弱っている。
思いも寄らない事態に遭遇したのだから無理はなかったが、かと言って、それを直ぐに表に出せるような性格ではない。
ただ言葉以上に雄弁な瞳がその感情を吐露しているから、周囲はそれを察すると、彼が楽に息が出来るようにと席を外すのだ。
其処に、彼が一番求めているであろう、フリオニール一人を残して。

 と言った仲間達の気遣いは判ったのだが、しかしフリオニールにはどうすれば良いのかが判らない。
何より、フリオニールの脳裏には、風呂場で見てしまった細くしなやかな肢体が浮かんでいる。
クラウドとセシルに釘を差され、意識してはいけないと思ってはいるのだが、自分にそう言い聞かせる程、記憶は鮮明に蘇ってしまうのだ。


(うわあああ!駄目だ、駄目だ考えるな!考えるなって!)


 真っ赤になって行く自分を自覚して、フリオニールは俯いてがしがしと頭を掻き回した。
必死に記憶の残像を追い出そうとするフリオニールに、スコールが若干引いている事も知らずに。

 しばらく頭を掻き毟った後、フリオニールは未だに赤い顔を自覚しながら、深く溜息を吐く。
こんな事では駄目だ、でもどうすれば、と考えあぐねていると、


「……フリオニール」
「!」


 名前を呼ばれて、はっと我に返って顔を上げる。
其処には、じっと此方を見下ろす蒼灰色があり、フリオニールにはそれが泣くのを堪えているように見えた。

 その瞬間、はた、と思考が水を浴びたように静まり返る。


(そうだ。混乱してるのは俺だけじゃない、寧ろスコールの方が戸惑っている筈だ。俺が余計な事を考えている場合じゃない)


 フリオニールは今度こそ、思考を振り切る為に頭を振った。
長い銀色の尻尾が何度か左右に揺れた後、フリオニールの赤い瞳が真っ直ぐにスコールを捉える。
何も目につかない程に狼狽していた瞳が、いつもの芯のあるものに変わったと感じ取り、スコールの引き結ばれた唇が微かに緩んだ。


「ええと……此処、座るか?」
「……ん」


 取り敢えず落ち着いて話せるようにと、フリオニールはスコールを隣へと誘導した。
スコールは小さく頷き、ふらふらと覚束無い足取りでソファに近付くと、すとん、と体重を落とすように座る。

 ソファに深く座り、スコールは背中を丸めて俯いた。
風呂場で洗った髪は十分乾かしたようだが、幾分か水分の名残も残っており、しっとりと艶を孕んでいる。
フリオニールは少し迷ったが、その髪に手を伸ばして、軽く撫でた。
思いも寄らない行動だったのか、スコールが一瞬固くなるのが判ったが、そのまま撫でていると段々と強張りは抜けて行く。
少しは落ち着いてくれたかな、とフリオニールが思っていると、ふらりとスコールの体が揺れて、フリオニールの肩に頭が乗せられる。


「……スコール。大丈夫か?」
「……一応」


 聞いても詮無い事ではあったが、聞かずにはいられなかったので問う。
スコールの反応は短かったが、フリオニールは無視されなかった事にこっそりと胸を撫で下ろしていると、


「……悪かった、フリオニール」
「え?」


 零れた謝罪の言葉に、フリオニールは目を丸くする。
何か謝られる事があっただろうか、寧ろ謝るなら自分の方では、と思っていると、スコールは続ける。


「…変な事に巻き込んで。混乱させた」
「そんな───これはスコールの所為じゃないだろう」
「でもあんた、溺れ死にそうになってたし」
「いや…それは……その……」


 湯船の中で気を失ってから、自分がどんな有様だったのか、フリオニールには判らない。
しかし、クラウドから聞かされて、実に無様な姿を晒していた事は理解した。
それをスコールは、“女になっていた自分”を見た事が原因と思っているのだろう。
確かに、気絶の原因はそれであるが、フリオニールはぶんぶんと頭を振って、スコールの詫びを拒否した。


「いや、やっぱりスコールの所為じゃない。おぼ、溺れそうになったのは…の、逆上せた所為だ。湯当たりしたんだよ」
「……」
「寧ろ、誤るなら俺の方だ。直ぐに助けてやれなくて、ごめん」
「……別に……助けるも何もないだろ、あんなの。俺もティーダも、訳が判らなかったし……」
「そうだとしても、気絶してそれきりで。後の事はクラウドとセシル達が全部看てくれたんだろう?そう言う事がちっとも出来てなくて……情けないな。スコールが一番不安になってるって言うのに、俺は要らない事ばかり考えて。ごめんよ、スコール」


 繰り返される詫びの言葉に、スコールの眉根が寄せられる。
怒らせたかな、と思っていると、「……もう良い」と言う小さな声が聞こえた。
怒っていないからと言うスコールに甘えて、ありがとう、とフリオニールは囁く。


「それで、───そうだ、体は苦しいとか、痛いとかは、ないって聞いたけど」
「……今の所は、ない。…何かあったら、その時には言う」
「ああ。俺じゃ出来る事は少ないかも知れないけど、なんだってするから、遠慮せずに言ってくれ」


 バッツのように薬の知識はないし、セシルやティナのように魔法に長けている訳でもない。
それでも、好きな人が苦しんでいるのなら、フリオニールは何かしてやりたいと思う。
些細な事でも良いから、それでスコールの力になれるのなら、スコールの不安を軽くする事が出来るのなら、フリオニールは惜しまなかった。

 頭を撫でていた手をスコールの肩に回して、そっと抱き寄せる。
嫌がられるかな、と思ったが、スコールは何も言わなかった。
青の瞳が少しだけフリオニールを見遣り、逸らされると、すとん、とフリオニールの胸にスコールの頭が乗せられる。


「……疲れた」
「寝るか?」
「………」
「夕飯になったら起こすよ」
「……ん」


 簡素な返事だけを寄越して、スコールは目を閉じた。
寄り添う体から力が抜けて行き、すっかりフリオニールに体重を預ける形になって間もなく、微かな寝息が聞こえる。

 スコールがいつ元の姿に戻れるのか、誰にも判らない。
その間、スコールは顔だけは冷静を作っていても、胸中の不安まで拭える事はないだろう。
傍にいてやらなくちゃ、と思いながら、フリオニールは少しだけ小さくなった恋人の体を柔らかく抱き締めた。