ラピット・アイズ・ムーブメント -birth-
レオン誕生日記念(2017)


 いつの間にかカレンダーに記された丸印を見て、レオンは小さく笑みを零す。
同居している少年が、自分自身がその日を忘れないようにと記されたそのマークを見付ける度、なんだか無性にむず痒い気分になった。
それは決して悪い意味を指しているのではなく、言い換えれば、照れ臭い、と言う事になるのだろう。
この年になってまで自分で強く意識する程のものではない事でも、彼にとっては大切な日であると言外に伝えられているようで、年甲斐もなく喜びを感じる自分がいる。

 そのマークが記された頃からだろうか。
少年は折々に、レオンに対し、「欲しい物とかない?」と訊ねて来るようになった。
自慢ではないが、物欲は昔から少ない。
それは環境故に多くを望む事が難しかった所為もあるが、そもそも、レオンは多くの物を欲しがる性格ではなかった。
日常的に使う物について、その時々で欲しい物は確かにあるが、少年が欲しがっている答がそれではない事は判る。
だからレオンは、答に詰まってしまう。
かと言って、何もないと答える訳にもいかず、思い付いたら教えるよ、と言うのが精一杯であった。

 しかし、日々は待つ暇もなく過ぎて行き、改めて気付いた時には、マークのついた日付が直ぐ其処に迫っていた。




 見た目としては少々古びたアパートメントが、ソラとレオンが住まう家である。
再建委員会の活躍と、シドの奮闘のお陰で、色々と最新設備を整えて新たに家を建てる人々が増える中、二人の住まいは何処かアンティークな雰囲気を持つ、レトロな様式から抜け出さないままでいた。
鍵位はちゃんとしたセキュリティにした方が良いぞ、とシドは言うが、そうなるとドアの様式から変え、壁に穴を開け、配線工事を行い……と決して気楽に行える作業ではなく、この為に他の作業を滞らせる───何せこうした作業は専らシドが一人で担っているので───事をレオンが嫌っている為、当分は後回しになる事が決まっている。
ソラとしては、無人になる事が多い家の安全性は勿論の事、家で一人で過ごしている事も多いレオンの為にも、きちんとした鍵は必要だと思うのだが、反面、家に空き巣が入って喜ぶような代物がないのも確かで、それを考えるとセキュリティの強化は急務とは言い難い。
何かトラブルが起きたら自己責任と言う納得の上で、当分はレトロな鍵のままだろう。

 建物自体は、レオンとソラが住み始める際、生活に置いて必要となる安全性を回復させる目的で、ある程度の改修工事は済ませてある。
しかし、元々が古い年代物の建物だ。
木製の床の廊下は歩くと軋んだ音を立てるし、壁も決して厚くはないので、外の空間の音が漏れ聞こえて来る事もある。
とは言え、外の音など、平時は殆どあってないようなものだ。
何せこのアパートの周辺は、嘗ては人が沢山住んでいた住宅地ではあろうものの、今はゴーストタウン宜しくと言った風である。
一応、セキュリティ装置のカバー範囲ではあるので、安全は確立されているのだが、今現在街の中心となっている再建委員会の拠点からはやや遠いのがネックであった。
生活に必要な市場は必然的に街の中心地に作られ、故郷に戻って来た人々の生活も、それを中心として形成されて行く為、其処から外れるとどうしても寂れてしまう。
しかし、レオンはその静けさが好きだと言う。
ソラが見るに、レオンはいつも誰かに頼りにされ、輪の中心にいるような印象だったが、レオン自身は余り人の中心に据えられるのは好きではないらしい。
誰かが引き受けなければならない事として、今はその役目を担っているに過ぎない。
その反動もあってか、休息を取る為の自分の家と言うものは、そうした喧騒から離れた場所に置きたかった───のかも知れない、とソラは思っている。

 中心地から外れた静かな場所にあるお陰で、時折、朝が無音になる事がある。
そんな時に目が覚めると、ソラは、この世界が他の全てから切り離されたような錯覚を感じる事があった。
勿論、それは単なる錯覚であって、窓の外を見れば、いつも通りの清々しい朝日が降り注いでいる。


「ん〜……っ、ふあ……」


 カーテンの隙間から零れる光に眩しさを感じつつ、ソラは目を擦りながら起き上がった。
ベッドを下りると同時に大きな欠伸が出て、眠い瞼を擦る。

 もそもそと着替えを済ませて、寝室を出ると、パンの香ばしい匂いがする。
次いでコンソメスープの匂いがして、ぐう、とソラの腹の虫が鳴った。
キッチンにはエプロンをしたレオンが立っていて、卵を割り落としている。
卵がじゅうじゅうと音を立てて火が通って行き、水を入れてフライパンに蓋をした所で、レオンが振り返った。


「おはよう、ソラ」
「おはよー……」
「酷い顔だな。ちゃんと洗って来い」
「はーい」


 どうにもきちんと開かない瞼を頻りに擦るソラに、レオンは洗顔を促した。
ソラはもう一度零れそうな欠伸を噛み殺しつつ、のろのろと洗面所へと向かう。

 冷たい水で顔を洗うと、大分頭がすっきりした。
目脂の所為で開かなかった瞼も、きちんと持ち上げられるようになり、視界もクリア。
ついでに寝起きのうがいも済ませて、ソラはリビングへと戻った。

 食卓はすっかり出来上がっており、きつね色に焼けたパンと、コンソメスープ、目玉焼きとサラダが並んでいる。
ソラの目玉焼きは双子になっており、ベーコンも添えられている。
食後のデザートにはブルーベリーソース付のヨーグルトが並んでいた。


「いっただきまーす!」


 両手を合わせて喜々一杯の顔で食前の挨拶をするソラに、レオンが微笑ましそうに唇を緩める。
召し上がれ、と言うレオンの声を聞きつつ、ソラは早速パンに齧り付いた。

 パンに染み込んだバターは、最近、レオンが自家製しているものだ。
ソラと同居し、街のパトロールの大部分をソラが担うようになってから、家事全般はレオンの役割となり、重ねていく内に段々と料理が趣味になってきているようで、使う素材を選ぶ癖がついた末に、自分で作ると言う所まで来た。
元々凝り性の気質はあるので、嵌ると行き着く所まで行ってしまうのがレオンであった。
そんな話を聞いたユフィからは、すっかり主夫だよね、と言われたらしい。

 空っぽの胃袋に栄養を詰め込むように、ソラはあっという間に朝食を平らげた。
ヨーグルトを食べ終えると、レオンに「ついてるぞ」と言われ、口端に付着したヨーグルトをティッシュで拭われる。
また子供扱いされた、と思いつつも、そうしている時のレオンが妙に楽しそうで、ソラはされるがままになっていた。

 レオンが食器洗いを始めようとした所で、ソラはあっと声を上げた。


「待って、レオン。それ、俺がやる」
「え?」


 蛇口を捻ろうとした手を止めて、レオンがきょとんとした顔を浮かべる。


「今日って、レオンの誕生日だろ?」
「今日……ああ、そうか」


 ソラの言葉に、レオンは今初めて気付いた、と言う様子で言った。
視線がカレンダーへと向かい、丸印のついた日付が今日である事を確認して、そう言えばそうだった、と呟く。


「だから、何かプレゼントとか出来たらなって思ってたんだけど、レオン、欲しい物ってないみたいだし」


 数日前から、ソラはレオンに欲しい物について訊ねていた。
しかしレオンの答えはいつもはっきりとはせず、口にしたとしても、それは日々の生活に使う物────砂糖が足りないとか、解れた服を繕う為の糸や針だとか───ばかりで、プレゼントにするにはソラが納得行かない物ばかりであった。
クラウドにしてみれば、本人が欲しいと言っているのだからそれで良いだろう、と言う所なのだろうが、やはりプレゼントとなれば特別な物、記念になるような物が良い、とソラは思う。

 しかし、今日と言う日になるまで、レオンは欲しい物について口にする事はなかった。
元々物欲のない人物であるから、取り立てて欲しいと思う物もないのだろう。
それよりも、復興にかける時間であったり、人材が欲しい、と言うのがレオンの本音と言っても良い。
しかし、それはソラの力ではどうにもならない事なので、冗談めかして口にする以外では、レオンはそれを望むような事は言わなかった。

 ソラ自身もレオンへのプレゼントは考えていたが、レオンが喜んでくれそうな物は中々思いつかない。
街の平穏、復興が頭の半分以上を占めていると判っているから、それに貢献するのが一番良い事なのだろうけれど、それでは日々のパトロールと変わらない。
一層気合を入れるのは勿論としても、他にも何か、今日と言う日だから出来る事はないか、と思った末が、日常的にレオンに任せきりにしている家事を手伝う事であった。


「レオン、スポンジ貸して。俺が洗うから」
「判った。じゃあ、洗った物はこっちに渡してくれ。俺が拭いて片付けよう」


 ソラの申し出に、レオンは少し戸惑ったように眉尻を下げつつも、要らないとは言わなかった。
持っていたスポンジを差し出して、シンクの前をソラに譲る。

 何かと大雑把だと言われるソラである。
自分でも少なからずその自覚はあるので、出来るだけ念入りにと意識しながら、食器を洗って行く。
皿の裏側も洗ってくれ、と言われて、皿をひっくり返すと、器の底が汚れていた。
洗剤泡を含んだスポンジで二度、三度と擦ると、汚れは直ぐに取れて、水に洗い流された。

 食器は二人分だけなので、それ程時間はかからずに片付け終わる。
綺麗になった食器が、レオンの手で棚へと戻されて行くのを眺めながら、ソラは言った。


「ね、レオン。今日は俺がレオンの代わりをするよ!」
「え?」


 ソラの言葉に、レオンがことんと首を傾げる。
少年の言葉の意図を汲み取れていない様子のレオンに、ソラは重ねて言った。


「考えてみたらさ、ご飯を作るのも、買い物に行くのも、掃除とか洗濯とかも、いっつもレオンに任せっきりにしててさ。街の復興の事でレオンだって忙しいのに、俺、普段ちっとも手伝ってなくて」
「それは仕方がないだろう。パトロールは大変だからな」


 嘗ては自分も街のパトロールを担っていたレオンである。
街の隅から隅まで、蔓延る影を一掃するには、どれだけ労力が必要となるのか、レオンはその身で理解していた。
だからソラが家事を手伝えない事は仕方がないと、レオンはそう思っているのだが、


「でもレオンは、俺と一緒に暮らすようになるまで、全部自分でやってたんだろ?パトロールも、復興の事も、家の事も、全部」
「まあ……そう、だな」


 今程几帳面にしていた事はないが、とレオンは付け足して呟くが、それはソラには届かなかった。


「俺が出来る事って言ったら、パトロールだけだって、ずっと思ってたけど、それに拘らなくても良いんじゃないかと思って。レオンが普段色々やってくれてるんだし、こんな時だけでも、俺が引き受けたいなって。それで、レオンにはゆっくり休んで欲しいんだ」


 基本的に、レオンはいつも忙しい。
家にいる時は家事を除けばのんびり───と言う事もなく、復興に必要になる資材の確保の為に伝手を探していたり、あちこちから寄せられる意見や要望をまとめる為に頭を悩ませていたりする。
セキュリティシステムのトラブルとなれば、シドから緊急の連絡が入る事もあり、そうなると休日返上は日常茶飯事で、其処から数日間、城に寝泊まりして対策が済むまで帰れない事も少なくなかった。
そんな時でも、同居しているソラの為にと、数日分の食事を作り置きしてくれていたり、折々に連絡してと、心配りも忘れない。
そんなレオンが手放しでのんびり出来る日と言うのは、本当に限られているのだ。

 今日が誕生日と言う特別な日であっても、恐らくレオンは、それを強く意識する事はないだろう。
カレンダーの丸印がなければ、当人が思い出さない内に、今日と言う日が過ぎて行っても可笑しくなかった。
それはそれで本人は構わなかったりするのだが、それは勿体ないじゃないか、とソラは思う。

 本当は、今日だからと言う特別性ではなく、日常的に休める時間が作れれば一番良いのだろう。
しかし、再建委員会に属し、沢山の人から頼られるレオンには、難しい話であった。
ソラ一人で其処をどうこう出来るとも思えない。
だから代わりに、些細な事ではあるけど、自分の手が届く範囲の事で彼の負担を和らげ、少しでも休む時間が作れたら、とソラは思っていた。

 ソラの提案は、レオンにとって意外なものだった。
頼りにされる事は多くとも、心配されたり、気遣われたりと言うのは、案外と少ないレオンである。
そんな自分の事を慮ってくれる少年の言葉が、レオンの胸をじんわりと温かくさせる。
至極真面目な瞳で真っ直ぐに見詰めるソラに、レオンは赤らむ頬を自覚しつつ、


「…それじゃあ、今日は少し甘えさせて貰って良いか?」
「!うん!」


 一瞬、レオンの言葉を予想していなかった顔を浮かべたソラだったが、直ぐにそれは笑顔に消えた。
頑張るよ、と拳を握るソラに、レオンも頬を緩め、宜しく頼む、と大地色の髪を撫でた。




 代わりをする───と言葉では一言で済むけれど、行動に移すとなると中々大変である。
普段、家事一般をレオンに任せきりにしている分、ソラはその大変さを改めて思い知った気分であった。

 レオンは朝食が終わったら、パトロールに出掛けるソラを見送るのが日課であった。
今日はソラがパトロールに出ないので、これはないとして───先ずは洗濯物を干す事から始まる。

 昨日の夜の内に回していた洗濯機から中身を取り出し、天気が良ければベランダに干す。
今日は快晴だったので、ソラは久方ぶりに自宅のベランダに出て、洗濯物を干し始めた。
洗濯機の中で揉まれて絡まり、丸まった服を一つ一つ解いて、洗濯紐に干し吊るして行く。
この時点でソラは先ず詰まった。
何せ、洗濯紐はそれを使っているレオンの身長に合わせて張られている為、まだまだ小柄なソラには簡単には届かないのである。
ぐぬう、と悔しがるソラを見たレオンが、見兼ねて「俺がやろう」と言ったのだが、ソラは「大丈夫!俺がやるよ!」と退かなかった。
ただでさえ二人の生活の中で、度々意識してしまう身長差と言う悔しさを再確認しただけでも苦いのに、始めた傍から出来ないなんて、ソラには認め難かったのだ。
ソラはリビングから踏台に出来る木箱を運んで来て、その上に登って洗濯物を干した。

 今日は天気が良いし、風もあるので、午後には乾くとレオンは言った。
取り込む時も俺がやるよ、と言うソラに、レオンはお願いするよと笑う。
その時の為に、踏台にする木箱はベランダに置いておく事にした。

 次にレオンが手を付けるのは、家の中の掃除だ。
机の上やテレビの上、椅子の背凭れ等を布巾で拭いて、床には掃除機をかける。
毎日のようにレオンがしている事なので、大した労働にはならないだろうと思っていたら、意外と疲れた。
部屋の角隅の埃なんて、どう取れば良いのか。
掃除機で角をガツガツと当てていると、レオンが「俺がやろうか」と言ったので、ソラは「大丈夫!」と言った。
まるで大丈夫ではなかったが、代わりにやると言ったのだから、やらなければと言う使命感がソラを突き動かしていた。
結局、レオンから角隅や物の隙間の掃除の仕方を教わり、その通りに行って、ソラはなんとか掃除任務を果たす事に成功した。

 それからレオンは、いつもベッドも綺麗に整えている。
ベッドはいつもソラが抜けだした痕跡を残しているのだが、それを一旦広げてきちんと畳み、シーツの皺も残さず伸ばす。
二人が一緒に眠った次の日は、洗濯もしているらしい。
今日は洗濯の必要はなかったが、布団がソラの抜け殻になっているのはいつも通りで、ソラはこれを自分で広げて整え直した。
もう一つのレオンのベッドも、ソラ程ではないが少し皺が残っていたので、此方も綺麗に整える。
きちんとベッドメイクされた寝床を見ると、眠る時に気持ちが良さそう、と思えた。

 そうしている間に、時間は昼だ。
ぐうう、とソラの腹が盛大な音を立てたのを聞いて、今日のソラをずっと見守っていたレオンが、くすくすと笑ってソファから腰を上げた。


「疲れただろう、ソラ。昼飯、直ぐに作るからな」


 そう言って食卓の椅子の背凭れにかけていたエプロンを広げるレオンを見て、ソラはあっと声を上げた。


「レオン、レオン。俺、俺が昼飯作るよ」
「ソラが?」


 ソラの申し出に、レオンは目を丸くした。
今日一日、自分の代わりをするとは言っていたが、まさか料理までやりたがるとは思っていなかったのだろう。

 やる気満々と言うソラの表情だったが、レオンの表情は些か鈍い。
蒼の瞳が、任せて良いのだろうか、と不安を映していた。


「その……大丈夫か?包丁とか使うんだぞ」
「判ってるって。切って、焼いて、それ位は出来るよ。レオンみたいに上手にってのは、ちょっと難しいけど……だから、大丈夫!」


 両手を握って力強く宣言するソラ。
何処か、気合で乗り切ろうと言う勢いも見られるソラに、レオンは迷ったが、


「じゃあ、頼もうか」
「やった!」
「判らない事があったら、何でも聞いてくれ。手伝いがいるのなら、直ぐに手を貸すから」
「うん。エプロン、した方が良い?」
「そうだな。と言っても、俺のしかないし……つけてみるか?」
「うん」


 レオンは首にかけていたエプロンを外し、ソラの首へと通してやった。
長身のレオンがつけるエプロンなので、小柄なソラにはやはり大きかったが、男性向けのすっきりとしたデザインのお陰か、裾を引き摺るような事にはならなかった。
背中で紐を結び固定する所でソラが躓いたので、レオンが代わりに結んでやる。


「ごめんな、レオン」
「慣れない事をしているんだ、仕方がないだろう」
「うー…そうなんだけどさあ」


 ソラの腰の後ろで蝶結びにされた紐は、かなり紐が余っていた。
レオンはそれをもう一度結んで、余った部分が足元に垂れないように調節する。


「よし、出来た。キツくはないか?」
「うん、平気。ありがと」


 準備が出来ると、ソラは早速冷蔵庫に駆け寄った。
ぱかっと蓋を開けて中を覗き込むと、作り置きのものがタッパーに入ってきちんと並べられている。
それらを必要な分だけ取り出し、温めるだけでも、食卓は整いそうだったが、折角エプロンまでしたのだから、何か作りたい、とソラは思った。

 とは言うものの、ソラの料理のレパートリーは非常に狭い。
それこそ、野菜を切って炒めて、と言うのが精々で、レオンのように凝った物を作る事は出来ない。
せめて失敗しないように、腹も減っているし、レオンをあまり待たせるのも良くないと、手早く作れるものを考える。


「レオン〜、卵って使っても良い?」
「どれでも好きに使って良いぞ」
「それじゃあ、えーと……」


 ソラは卵を二つと、じゃがいもの煮物が入ったタッパーを取り出した。
野菜室を開けると、四分の一カットになったキャベツとレタス、キュウリ、トマト等が入っている。
レオンがよくレタスのサラダを作ってくれる事を思い出し、それを作ってみようと思ったソラだったが、キャベツとレタスの区別がつかずに諦めた。
レオンに聞けば良かったのだろうが、やる気満々で料理を引き受けた癖に、キャベツとレタスが判らないと知られるのが無性に恥ずかしかったのだ。


(キュウリとトマトだけでも良いかな……?)


 綺麗な紅玉色のトマトを一つと、真っ直ぐなキュウリを一本。


(後は……あ、パン。パン焼こう)


 ソラとレオンの生活は、朝食はいつもパン食だ。
昼はと言うと、ソラがパトロールに出ていて弁当である事が多く、おにぎり等の米食になっている事が多いが、サンドイッチも儘ある。
レオンの昼はどうなっているんだろう、とソラはふと気になって、


「ねえ、レオン。レオンって昼もパンで平気?」
「ああ。大丈夫だよ」
「じゃあパン焼くね。普段もパン食べてんの?」
「そうだな……簡単だし」


 焼ければ食べれるしな、と言うレオンは、ソラがいない時の自分の食事が酷く簡素である事は言わなかった。
面倒な時にはコーヒー一杯で済ませる事もあると言ったら、少年はどんな反応をするだろう。
ちゃんと食べないと腹減って倒れちゃうよ、と叱るソラを想像して、レオンはこっそりと笑う。

 レオンの胸中を知る事もなく、ソラはパンをトースターに入れて、スイッチを入れる。
次に卵を割る為のボウルを探して、ソラは調理器具が何処にあるのか判らない事に気付いた。
取り敢えず、キッチン周りの引き出しや棚を開けて、目当ての物を探す。


「えーと、えーと……あった!」


 ボウルはキッチン戸棚の下に、サイズの違うものと重ねて納められていた。
一番小さい奴で良いよな、と一番上にあったものを採り出して、卵を割る。


(やべ、カラ入っちゃった)


 白身の中に浮いた、小さな殻の欠片。
ソラは食器棚からスプーンを出して、殻だけを掬い取ろうとするが、中々上手くいかない。
しばらくの奮闘の末、何とか少量の白身と一緒に取り除く。

 菜箸で卵を混ぜた後、フライパンを探して、コンロに火を点ける。
フライパンが温まって来た所で、ソラは早速卵を流し入れようとしたのだが、


「先に油を引いておかないと、直ぐに焦げ付いてしまうぞ」
「うわっとと」


 レオンの言葉を聞いて、ソラは慌てて傾けていたボウルを水平に戻した。
そうだった、とうっかり忘れていた事を思い出し、ソラはキッチン棚からサラダ油を取り出す。

 油を多めに引いてから、改めて卵を流し入れる。
火が通り易い卵は、直ぐにじゅううっと音を立てて固まって行った。


「わっ、わっ」


 ソラは急いで菜箸で卵を混ぜる。
油のお陰でフライパンの底に卵が焦げ付く事はなかったが、卵はあっという間に固まって行き、火を止めれば良いのだと気付いた時には、そぼろ卵が出来上がっていた。
所々に焦げた色のあるそれを、取り出した皿に移して、ソラは難しいなあと眉根を寄せる。


(スクランブルエッグにしたかったのになあ。レオンが作ってくれるの、美味しいから、俺も作りたかったのに)


 あんなに一気に火が通るなんて、と思いつつ、ソラはタッパーの煮物を温めていなかった事を思い出す。

 作り置きにされたじゃがいもの煮物は、よく味の沁み込んだ色をしていた。
二人分の小さな深皿に移して、電子レンジに入れてスイッチを押す。
あとはサラダ、とソラはもう一度キッチンに向かって、キュウリとトマトを流水で洗った。

 レオンが作るサラダの入っているキュウリとトマトは、薄切りで食べ易くなっている。
それを頭に思い浮かべて、ソラもキュウリを薄く切ろうとするが、


「んー、しょっ、と」


 ざく、と切り落としたキュウリは、中々に分厚い。
これはちょっと食べ辛そう、とソラは切り落としたキュウリを立たせて、もう一度包丁を当てた。
キュウリが倒れないように支える指を切らないように注意しながら、切り込んでいく。
見るからに危なっかしい包丁使いに、食卓からそれを見守るレオンが、そわそわとしていた事を、ソラは知らない。

 厚めに切っては包丁を入れ直す事を繰り返しつつ、なんとかソラはキュウリを切り終えた。
一本を丸々切り終えたソラは、まな板に重なったキュウリの輪切りを見て、頭を掻く。


「多いかなあ……」
「……そうだな。これはちょっと、多いか」


 ソラの呟きを聞いて、レオンがキッチンまで来て頷いた。


「やっぱり?まずかった?」
「いや、大丈夫だ。昼に食べられる分だけサラダにして、後は塩漬けにして漬物にしてしまおう。キュウリの塩漬け、好きだろう?」
「好き!」
「それじゃあ、今の内にやってしまおうか」


 そう言ってポリ袋を準備するレオンに、俺がやるよ、と言い掛けて、ソラは辞めた。
漬物の作り方をソラは知らないし、今はまだサラダ作りが残っている。
トマトを切るだけではあるのだが、潰れ易いトマトを切るのは、中々難しい事なのだ。

 卵そぼろを乗せた横に、薄切り───と言うには中々食べ応えのありそうな───キュウリを並べて、残ったキュウリはレオンが袋へと入れる。
塩を振りかけたキュウリを袋の中でレオンが揉んでいる隣で、ソラはトマトと奮闘していた。


「ソラ。包丁を使う時は、左手は猫の手だぞ」
「猫?」
「指を伸ばすと、包丁の刃が危ないだろう。こうやって指先は丸めておくんだ」


 レオンは袋を揉む手を止めて、ソラの左手を取り、指先を丸めさせる。


「押さえ難くない?」
「慣れない内はそうかもな。でも、さっきキュウリを切っている時とか、結構危なかっただろう?」
「あ〜……うん、確かに」
「端の方になってしまうと、猫手で押さえられないから、注意して切るしかないんだが、そうでない時は、その形にしておいた方が、指を切る可能性が低くて済むぞ」
「ん。次から気を付ける」
「それから、トマトを切るなら刃の薄い、こっちの包丁の方が楽だ」


 レオンがキッチン下の棚を開け、立てかけられている包丁を取り出す。
それはソラが使っている包丁よりも刃が薄く、全体的にも一回り小さなものになっていた。

 包丁を持ち換え、レオンに倣った通り、指先を気持ち丸めた形にして、ソラは改めてトマトに刃を入れる。
きちんと研いであるお陰で、包丁はすんなりとトマトに入って行った。
しかし、レオンがいつも作っているサラダのトマトに比べると、やはり厚い。


「ん〜……薄く切るのって難しいなあ」
「十分良い厚さに切れていると思うぞ。上手いもんだ」
「そう?じゃ、いいかな」


 レオンに褒められると、これで良いか、と思えて来るから、現金なものだ。
けれども嬉しいのだから仕方がない。

 キュウリとトマトを添えた卵そぼろの皿を食卓テーブルに置いて、ソラはすっかり放置していたトースターがパンを焼き終えている事に気付いた。
冷めてはいない事にホッとしつつ、パンを取り出して、レオン自家製のバターを塗る。
電子レンジに入れたままにしていたじゃがいもの煮物も、ほこほこと湯気を立てるまで温まっていた。
作ったものを一通り並べたソラは、ふとその食卓の中に足りない物に気付き、


「スープ作るの忘れた!」
「今朝の残りがあるぞ。温めて飲もうか」
「あっ、俺がやる、俺がやる!」


 冷蔵庫に鍋のまま入れていたコンソメスープを取り出すレオンに、ソラは手を上げて主張した。
レオンはくすくすと笑って、鍋をコンロに置き、ソラに場所を譲る。
ソラはお玉を手にコンロの前に立って、火を入れた鍋をぐるぐると掻き回した。

 レオンは揉み終わった塩漬けキュウリの入った袋の口を縛り、冷蔵庫に入れて、牛乳を取り出す。


「冷たいままでも良いか?」
「うん。あっ、それも俺が」
「いや、やらせてくれ。何もする事がないと、どうにも暇を持て余してしまってな」


 なんでも引き受けたがるソラを宥めながら、レオンはマグカップを取り出して、牛乳を注ぐ。
ソラの分には蜂蜜を少量入れて、よく混ざるようにスプーンでくるくると掻き混ぜた。

 温め終えたスープを器に注ぎ、蜂蜜入りのミルクが二人分。
それもテーブルに並べて、昼食は揃った。
時間を見ると、既に一時を回ろうとしている。


「うわあ、時間かかっちゃった。ごめんな、レオン、腹減っただろ?」
「ふふ、それなりにな。ほら、ソラも座れ。お前の方こそ、頑張ったんだから腹が減ってるだろう?」
「うん。……と、あれ、解けない……」


 エプロンの背中の結び目を解こうと奮闘するソラに、レオンが手を貸す。


「紐が長く余ったから、二回結んだんだ。動くな、今解くから」
「うん」


 エプロンの結び目を、レオンの指がするすると解いて行く。
ソラはそれに身を任せつつ、いつもどうやって結んで解いているんだろう、と自然な仕草でこの作業を済ませているレオンの姿をも思い出していた。
これも慣れと言うものなのだろうか、と考えている間に、エプロンが外される。

 ソラがテーブルに着くと、レオンも向かい合って座って、手を合わせた。
頂きます、と言うレオンを見て、ソラは俄かに緊張と期待で胸が膨らむ。
スクランブルエッグになる筈だった卵を食べたレオンが、美味しいよ、と笑った。
自分で食べてみると、甘味も何もない、少し焦げた味がするだけの卵焼きだったのだが、それでも美味しいと言ってくれるレオンの気持ちが嬉しかった。