ファーストタイム・バースディ
レオン誕生日記念(2018)
オフ本[エモーショナル・シンドローム]の設定



 八月と来れば、学生は夏休みを満喫している時であるが、社会人には関係のない話だ。
ぎらぎらと光る日差しの中、コンクリートジャングルを歩き回る営業課を見ていると、本当に大変そうだとレオンは思う。
レオンもほんの少し前までは、あれらとそう変わらない生活───と言っても資材課、それ以前は事務課だったので、外回りと言うのは余りやらなかったが───をしていたのだが、今現在のレオンは、別の意味で暦とは関係のない生活を送っている。

 今から八か月前、レオンは三年勤めていた会社を辞めた。
理由は転属先で新しく上司になった男性に、生まれて初めての恋をしたからだった。
明るく子供っぽくも見える、けれども無限の包容力を持っていた彼に、レオンはいつの間にか焦がれ、彼の傍にいる事に幸せを感じるようになった。
初めはそれで十分だったのだが、しかしこの恋は秘めたるものにしなければならないとも判っていた。
男性には十年以上前に先立たれた妻があり、忘れ形見とも言える息子を溺愛していた。
仕事よりも家族が大事、ときっぱりと言い切る彼は、その言葉通り、何よりも息子の事が大切で、思春期の息子に少し冷たくされただけでも人魂を飛ばす。
かと思ったら、息子の手製の弁当を見て、良かった嫌われてない、怒ってない、と安堵する。
息子の一挙手一投足で一喜一憂する姿は、部下達には微笑ましく映っていたものだ。
レオンも同じで、あんな父親が欲しかったな、と思う位に憧れてもいた。

 レオンに両親はいない。
物心つくまでは父母共にいたが、気性の激しい父の家庭内暴力によって警察が介入した後、離婚した。
レオンの親権は母のものとなったが、その母も離婚後一年と経たない内に姿を消し、その後、レオンは児童養護施設で育っている。

 幼年期に両親から満足に愛情を与えられなかったレオンは、歪な成長を遂げていた。
何に置いても他人に迷惑をかける事を嫌い、自分の事は全て自分で出来るように努めた結果、レオンの余りある才能は様々な形で開花している。
しかしそれに反比例するように、レオン自身の自己肯定力はマイナス値のまま固定されていた。
児童養護施設の職員は、与えられる限りの愛情で彼を育てたが、レオンは愛情の受け皿と言うものを持っていない。
また、幼年期に父母から呪詛のように“必要のない存在”である事を繰り返された事で、レオンは自分自身が“要らない人間”であると思ってしまった。
子供の頃に両親に捨てられたトラウマは、彼の中に根を張り、これ以上誰かに棄てられない為に、誰かに心を預ける事を恐れるようになってしまったのだ。
同時に自分の為に誰かを求める事も止め、誰かが己を求める事もない、と思っている。
この為、レオンは“自分が誰かに好かれる事はない”“誰かに好意を寄せて貰えるような人間ではない”と言う思考が根付いてしまったのだ。

 そんなレオンが生まれて初めて、焦がれる程に欲したのが、上司となった男───ラグナであった。
気取る事のない彼の仕草の一つ一つに、レオンは無自覚に憧れて行った。
偶々家に上がらせて貰った事を切っ掛けに、息子とも付き合いが始まり、上司と部下と言う以上に親しい会話をするようにもなった。
そうしてレオンにしては珍しい、深い交流を続けている内に、レオンの心は惹かれていく。
しかし、ちょっとした切っ掛けで感情の波が溢れ、己の中に存在する感情の名前に気付いた瞬間にレオンを襲ったのは、恐怖と絶望だ。
ラグナは亡き妻を今も変わらず愛しており、その分の愛情は一人息子に注がれている。
それがラグナの幸せの形である事を、レオンはよく知っていた。
それを壊してでも、ラグナと言う人間が欲しいと思っている自分に気付いた時、レオンは己が“ラグナの幸せ”を壊そうとしている事に気付いたのだ。
そんな事はあってはならない、けれど彼が欲しい、と言うあさましい自分に気付いた瞬間、レオンはこの想いは封印しなければならないものだと悟った。

 しかし、幾ら抑え込もうとしても、想いは止まらない。
それ所か、傍にいる時間が増える毎に気持ちは膨らみ続け、ラグナのちょっとした仕草や視線も気になるようになった。
それは彼の事が気になる、と言うよりも、自分の気持ちが彼に気付かれてはいないか、と言う恐怖に因るものであった。
幸せを壊してでも自分を欲している男の存在と言うものを、ラグナはどんな目で見るだろう。
彼が一心に愛情を注いでいる最愛の息子にすら嫉妬の感情を向け、其処から彼を奪い、全部の愛情を独り占めしたがる男なんて、とんでもない。
そんな人間が何食わぬ顔で傍にいると知られたら。
考える程にレオンは恐怖に囚われ、それでも彼を欲しいと思う想いも捨てられず、心は雁字搦めになって飽和状態だった。

 その末に、レオンは彼の傍から姿を消した。
自分が本当に彼の幸せを奪ってしまう前に、傷付けてしまう前に、嫌われる前に────悍ましいものを彼から遠ざける為に、逃げたのだ。

 当てもなく彷徨いながら、レオンは己の感情に苛まれ続けた。
ラグナへの想いを忘れる為に、一時の忘却と睡眠の為に、行きずりの男と寝るようになった。
消えない想いは、レオンの心を軋ませ続けていたが、それはあってはならない感情を抱いた罰なのだろうと思った。
消えるまではいつまでも苛み続けるそれに、レオンは抵抗を止めていた。

 そのまま何処へともなく消えて行こうとしたレオンだったが、一体何の悪戯なのか、レオンはラグナと再会した。
募り続ける想いと、彼に本当に嫌われてしまいたくないと言う想いで、レオンはラグナを拒否しようとしたが、ラグナもまたそれを拒否した。
いよいよレオンの感情は暴走し、隠し続けていた心を吐露して、全てお終いだと思った。
伝えた気持ちを此処で置き去りにして行く事に、罪悪感もあったが、もう意味のない期待を持ち続ける事もないと思った。
後は二度と彼と遭う事のないように、何処へなりと消えてしまえば良い、と。

 けれど、神様は随分な気紛れを起こしてくれたらしい。
好き、と生まれて初めての感情を吐き出したレオンを、ラグナは丸ごと受け止めた。
一緒に帰ろう、一緒に暮らそう、と言うラグナに、レオンはこれこそが悪い夢なのではないかと思った。
目覚めれば露と消える、都合の良い泡夢なのではないか、と。
けれど愛しい人は確かに目の前に存在していて、抱き締めてくれる。
口付けもくれたし、頭も撫でてくれた。
夢なら一生覚めないでいたい、と思う程の幸福を、レオンは生まれて初めて与えられたのである。

 それから息子もレオンの気持ちに理解を示してくれ、父子二人にレオンを加えた生活が始まった。
レオンは全てから逃げた時に仕事を辞めたが、上司であったラグナはいつでも戻ってきてくれて良い、と言った。
レオンの有能さは会社では有名な話で、彼が抜けた穴は決して小さくなく、止むを得ない事情───退職届に本当の事は書けなかったので、当たり障りのない事を書いていたのだ───で辞めたとは言え、会社にとっては戻ってきてくれる方が断然有り難いのだ。
しかし、唐突に辞めてしまった気まずさと、精神的なものも含めた放浪中の生活で、レオンは体力が落ちている。
同時に、恋情を抱いた時から零れ始めた不安定さが落ち着いたとは言い難い事もあって、レオンは当分の間、主夫業に専念する事になった。
────これが、レオンが今現在、暦と殆ど無関係の生活を送っている理由である。

 高校入学と同時に児童養護施設を出て、一人暮らしをしていたから、家事一般は得意だった。
特に料理はレオンの数少ない趣味の一つとなっており、少し凝ったものを作るのがちょっとした楽しみであったから、この生活に苦はない。
自分が作ったものを誰かが食べてくれる事や、時には他の誰かが作ったものを食べられる事が、レオンには不思議で堪らない。
けれど嫌な気持ちは一つもなく、美味い美味いと言ってくれるラグナや、言葉はないが黙々と食べる息子に、レオンは独り暮らしをしていた時には感じた事のなかった充足感を得ていた。
体調を崩した時、息子が作ってくれた芋粥は、味も判らないのに美味しかった。
そう言う些細な事だけで、レオンはまだ夢の続きを見ているような気分になる。
本当に、いつまでも覚めない夢でいて欲しい、とレオンはいつも思っていた。

 今日もレオンは、夢の続きを見ている。
そんな気持ちで、夕方の街を歩いていた。
隣にはレオンの恋人となったラグナがいて、二人の手にはそれぞれ買い物袋が握られている。
いつもならこの隣を歩いているのは、ラグナの一人息子であるスコールなのだが、今日は彼は家にいない。
友人の夏休みの宿題を片付けさせる為に、友人宅に泊まり込みで監視をするのだそうだ。
なんでも、普段から宿題嫌いで夏休みの課題を手つかずで溜め込むタイプらしく、終盤の数日間で泣きながらプリントを埋める位なら、前倒しで強制的にやらせた方が良い、とスコールは判断したらしい。
確かにギリギリよりはその方が良い、とレオンも思う。
ちなみにスコールの課題はどうなったのかと聞くと、夏休みが開始して一週間でキッチリ終わらせたのだそうだ。

 そんな訳で、今日の夕飯はラグナと二人きりである。
そう思うと妙に緊張してしまう自分がいて、レオンはそんな自分を隠すのに必死だった。
あまり露骨に意識している事が判ってしまうと、ラグナを戸惑わせてしまいそうだったし、何より自分が恥ずかしい。
恥ずかしいのだが、こうして一緒に夕飯の材料を買い出しに行けるのは嬉しくて、レオンは気を抜くと頬が緩んでしまいそうだった。

 のんびりとした帰路の道には、様々な小店が並んでいる。
以前はあまり気にした事がなかった道だが、よくよく見ると、この辺りには雑貨カフェや安価なアクセサリー店が多く立ち並んでいた。
ファミレスもぽつぽつと点在し、その近くには学生向けの文具店もあるので、子供を持つ家庭が多い地域性に合っているのかも知れない。
そんな店々を、ラグナはきょろきょろと覗き込みながら歩いていた。


「───あの。何か探し物ですか?」


 ラグナはいつでも楽しいものを見付けたがっているので、落ち着きなく辺りを見回している事は多い。
が、この辺りは住み慣れた土地であるから、何処に何があるのかは判っている筈だ。
店の中をしげしげと見つめる事はあまりなかったように思えて、レオンは疑問に思って訊ねてみた。

 ラグナは「うーん……」と唸りながら、雑貨屋の小さなショーウィンドウを眺めつつ答える。


「スコールのプレゼント探してるんだ」
「プレゼント?」
「そう。もう直ぐ誕生日だからさ」
「そうなんですか」


 誕生日、と聞いて、それは成程、プレゼントが必要だ、とレオンは思った。
溺愛している息子の誕生日となれば、ラグナが放って置ける筈がない。
スコールは今年で高校三年生になったから、そろそろ誕生日を無邪気に喜ぶ年ではない───そもそも、そう言う性格にも見えない───が、息子の成長を祝いたい父の気持ちは変わらない。
少しでも何か喜ばせる事が出来れば、とラグナが目を皿にして店を覗き込んでいるのも無理はなかった。


「スコールの誕生日はいつなんですか?」
「8月23日。な、もう直ぐだろ?」


 今日から数えると、その日はもう一週間を切っている。
ラグナは今日の休みが終われば、明日から三日間海外出張になるので、ゆっくり探せる時間は実質今日しか残されていないのだ。
それで今日の昼は出かけていたんだな、とレオンは日中に恋人が家にいなかった理由を察した。

 良いものが見つからなかったようで、ラグナの歩が再開するのに合わせて、レオンも彼の横をついて行く。
去年は何をあげたかなあ、と回想しているラグナを横目に、自分も何か考えた方が良いだろうか、とレオンは思った。
しかし、父子の家に居候させて貰うようになってから、まだ半年と少ししか経っていないレオンには、スコールが何を好むのかも判らなかった。
食べ物なら、余り濃いものが好きではない事や、酢の物が好きだと言う事は把握しているのだが。


「……誕生日の日は、夕飯にスコールな好きなものを作ってみようかな」
「お、良いな。レオンが作る飯は美味いもんな〜。きっと喜ぶぜ」
「そうですか?じゃあ、考えておかないと」


 ラグナの言葉にレオンはくすぐったい気持ちで顔を赤らめながら、頭の中でメニューを組み立てていく。
祝いと言うならボリュームを多くして、とも思ったが、スコールの食事量は余り多くはない。
どちらかと言えば小食な方だから、余りボリューミーにしても持て余してしまうだけだろう。
それよりは食べ切れる量で作れるものか、日持ちのするものを用意した方が良さそうだ。

 それから、誕生日と言えば、ケーキだ。
バースディケーキと言うものをスコールが喜ぶ所は想像できなかったが、やはりあった方が雰囲気も出るのではないだろうか。
ファミリードラマでよく見る光景を思い出して、レオンはラグナに言った。


「誕生日は、やっぱりケーキを用意するんですか?」
「ああ。って言っても俺とスコールの二人しかいないから、コンビニのショートケーキとかで済ませちゃう事が多くてさ。ほら、コンビニのケーキって二個で一パックだろ?食べ切っちゃうにはちょうど良いんだ。あと、スコールに自分の誕生日のケーキ買わせるのも変だし、そもそもスコールは買わないし。でも俺は帰るのが大体遅いから、ケーキ屋なんて閉まっちゃってて、コンビニ位しか買える所がないんだよな」


 ラグナは家族を第一に考えており、自身が任されている課にもそう言った雰囲気は伝わっている為、必要以上の残業時間を取られる事は少ない。
が、立場も含め、仕事でも様々な要因によって拘束時間が延長される事は珍しくはなく、かつて彼の部下であったレオンもそれは同様であった。
会社主導の飲み会も、あれば行かざるを得ず、人気のあるラグナは中々家に帰しては貰えない。
必然的に帰宅の時間は遅くなってしまい、夕方に閉店するような店等、滅多に行けなかった。

 そんなラグナにとって、コンビニエンスストアで売られている2ピース一パックのケーキと言うのは、最後の望みだった。
今のようにコンビニスイーツと言われる程に質が高くなる前でも、息子の誕生日にケーキを買って帰る事が出来たのは、24時間営業で開いているコンビニのお陰なのだ。

 でも、とラグナは呟く。


「レインが───嫁さんが死んでから、スコールの誕生日はいつもそんな感じでさ。コンビニのケーキでも、スコールは喜んでくれてたから、買ってきて良かったってのも思うんだけど。テレビでケーキ特集とかあるだろ?小さい頃は、ああ言うの見て、目ん玉きらきらさせたりしてた事もあって。こーんなデカいケーキを子供の誕生日に買って帰ったりする親もいて。羨ましそうな顔してる事もあったんだ」
「あのスコールが、ですか。俺には、あまり想像が出来ないですね」
「あはは、今のスコールはなぁ。でも、昔はもっと素直だったからさ。今も割と素直っちゃ素直だけど」


 笑うラグナの言葉に唇を緩めながら、レオンは家のあちこちに飾られている家族写真を思い出していた。
其処には今は亡きラグナの妻、つまりスコールの母も一緒に映っている。
彼女が亡くなったのはスコールが五歳の時だと聞いたので、写真に残されているスコールは、それよりも幼い頃になる。
母にしっかり抱き着いて、向けられたカメラから恥ずかしそうに顔を隠そうとしていた幼子は、表情こそ今の仏頂面とは似ても似つかないものの、貌の面差しはしっかりと残されていた。
確かに、あの頃のスコールなら、今よりも素直に自分の気持ちを吐き出す事だろう。
嫌だと泣いたり、嬉しいと笑ったり、そう言う事を抵抗なく父に見せていたに違いない。

 今のスコールは好んで甘いものを食べる事は少ないが、昔はやはりケーキやアイスクリームが大好きだったと言う。
特に誕生日に食べるケーキと言うのは、やはり特別な感覚もあって、毎年楽しみにしていたそうだ。
だからラグナはどうしても息子の為に誕生日ケーキを手に入れたかった。
その想いは今でも変わらず、ラグナの心に根付いている。
スコールもラグナが買ってきた誕生日ケーキは、またこんな物を、と言う表情をしながらも、何も言わずに食べ切っているから、父子の間で誕生日のケーキと言うのは、外せない一つのマストアイテムになっているのは間違いないだろう。


「今年はどうすっかな〜。レオンもいるから、二個じゃ足りないし。折角だから、ちょっと良い奴買えるように頑張ってみるか」
「え。いや、俺は別に、そんな。俺の分までなんて、良いですよ」
「何言ってんだよ。誕生日ケーキは、皆で誕生日を祝って食べるもんなんだから、お前の分もなくっちゃ。うーん、何処のケーキ屋が良いかなぁ。遅くまで開いてそうな所、探してみるか」


 歩きながら考えるラグナに、ああ、とレオンは眉根を下げる。
自分の事など気にしなくて良いのに、と。
しかし、ラグナの言葉は自分の事を忘れていないと伝えてくれてもいて、じんわりと胸の奥が暖かくなる。

 そろそろ家が近くなると言う所で、レオンは、ケーキを作る事は出来ないだろうか、と考え始めた。
父子宅での居候生活が始まって以来、家事の合間に菓子を作るようになったが、ケーキはまだ手を付けていない。
小さなカップケーキなら、と思ったが、見映えがするのはやはりホールケーキか。
況してやスコールの誕生日と言う特別な日の為のケーキなら、見た目も綺麗なものの方が良いし、そうなると店売りに勝るものはあるまい。


(どの道、型もないしな。其処から揃えないといけないとなると、流石に時間も足りない)


 ケーキ作りは、またの機会にチャレンジしてみよう。
そんな事を思いつつ、自宅マンションの玄関を抜けて、エレベーターへと乗り込む。
フロア数が刻まれて行くのを見上げながら、そう言えばさ、とラグナが言った。


「なあ、レオン。お前の誕生日っていつなんだ?」
「俺ですか?」


 ふとした問に、レオンが鸚鵡返しに問うと、うん、とラグナは頷く。
エレベーターが停止して扉が開き、箱から降りながら、レオンは頭を巡らせた。


「えーと……」
「覚えてないのか?」
「はあ……あまり気にしていなかったもので。この年ですしね」
「年は関係ねえだろ〜。俺、今でも自分の誕生日が近付くと、ソワソワして来るぞ」
「スコールが美味しい夕飯を作って待っていてくれるから、ですね」
「そうそう」


 ラグナの誕生日は年始にあり、その日は必ずスコールが父の好きなものを夕飯に出している。
ケーキもスコールがコンビニに買いに行き、今年はレオンもいたので、2ピース1パックのものを2パック買ってきていた。
当日はレオンも含めて三人でケーキを開け、余った分は翌日にラグナが食べている。
その時もラグナは楽しそうだったが、彼の言う通り、当日は朝からそわそわと落ち着きなく過ごしており、変わりにスコールが複雑そうな顔をしていたので、当日をラグナの誕生日と知らなかったレオンは不思議に感じていたものだ。

 ───と、新年の事を思い出していたレオンであったが、思い出すのはそれじゃない、と思考を切り替える。
探しているのは、自分の誕生日の日付なのだ。
ついと流れ落ちてしまう程度の意識にしかない情報であったが、履歴書やら何やらに書いた数字を思い出す事には成功した。


「確か、8月23日です。俺の誕生日」
「えっ」
「え?」


 思わずと言った声を上げ、足を止めるラグナにつられて、レオンも数歩遅れて止まった。
一メートル後ろでぽかんとした顔をして立っているラグナに、レオンはきょとんと首を傾げていると、


「8月23日?ホントか?」
「ええ、確か……あ」


 反芻させるラグナの声に頷いてから、レオンは気付いた。
自分が生まれた日と、件の話の中心であった少年が、同じ日付に生まれていたと言う事に。


「スコールも23日、でしたね」
「すげー偶然だな!ってか、それならスコールだけじゃない、お前のお祝いもしなくちゃ」
「そんな、良いですよ。もう二十歳も越した大人なんだし、俺の事なんかより、スコールのプレゼントを考えてあげて下さい。……と言っても、家には着いてしまったし、後はインターネットの通販で探すのが良さそうですね」


 言いながらレオンは歩き出し、家まで残り数メートルと言う距離を進む。
ズボンのポケットに入れていた合鍵を取り出して、ドアの鍵穴に差し込む。

 後ろについて来るラグナの気配を感じつつ、レオンは靴を脱いだ。
キッチンに向かいながら、また胸の奥がじんわりと温もりを感じている。
誕生祝の話なんて、もう何年振りになるだろう。
児童養護施設にいた時には、他の子供達と一緒に祝われる事もあったけれど、施設を出てからはとんと聞かない言葉だった。
お祝いしなくちゃ、と言ったラグナの顔を思い出して、それだけで十分幸せだとレオンは思った。




 ソファに座ったラグナは、すっかりキッチンを使いこなすようになったレオンの背中をこっそりと見ていた。
点けているテレビの内容は全く頭に入ってこない。
最初から聞いていないのだから当たり前だ。

 自分の誕生日を、レオンはすっかり忘れていた。
話題になっているスコールが自分と同じ誕生日である事を、彼自身は、自分の事を聞かれるまで、全く気付いていなかった。
二十歳も過ぎた大人なのだからそれも無理はない、と言うのも確かだが、ラグナはそう言う問題じゃない、と思った。
レオンのあの反応は、“自分が生まれた日”と言うものを特別に思う感情がない事を示している。

 レオンの生い立ちについて、ラグナは彼自身の口と、彼が育った養護施設の職員から聞いて知っている。
両親に捨てられた事は勿論、それまでの間に、実親が如何にレオンの存在を粗雑に扱っていたのかも。
レオンは両親に穿たれた軛に未だ縛られ続けており、日々の日常の中で、その歪さは散見されていた。
ラグナは、出来るだけその歪を取り去り、レオンが自分の感情や気持ちを正直に吐き出せるようになれたら、と願っている。
ラグナがレオンの想いを受け止め、彼と言う存在を自分の手元に置きたいと思ったのは、そんな気持ちもあったからなのだ。

 だが、二十年以上、物心がつく以前から植え付けられた価値観と言うものは、他人が何と言った所で変える事は難しい。
特にレオンの場合、自分の立場を幼い頃から必要以上に理解していた事から、それも納得させるような形で己の一部に落とし込んでしまっている。
既にレオンの一部として形成されたそれは、彼の核ともなっており、最も柔らかい部分と繋がっていて、強引に剥がそうとすると、拒絶反応のようなパニックを招き兼ねなかった。
レオンはラグナへの恋慕を自覚した時、それと同じ事を自ら起こしてしまっている。
その結果、ラグナが再会した時の彼は、放って置けばビルの屋上からふらりと飛んでしまいそうな危うさを持っていたのだ。

 あれからレオンとの同居生活が始まったが、レオンと父子との間には、未だに見えない壁がある。
それは悪い事ではない、とラグナは思う事にしていた。
元々が他人同士であるし、レオンは必要以上に相手に近付かない事で己の心を守ってきたから、突然その距離をゼロにしろと言うのは難しいだろう。
同居の始まりこそラグナがやや強引に話を進め、彼を此処に留めるようにしたけれど、此処から先はそうは行かない。
少しずつ、レオン自身の気持ちも送り出しながら、もっと近付いて行かなければ、とラグナは考えていた。


(…でも、こういう時はやっぱり、なぁ)


 自分の事よりもスコールのプレゼントの事を優先するように言ったレオン。
レオン自身もスコールの誕生日を祝おうとしてくれている気持ちが見えるので、息子を溺愛して已まないラグナにとって、それはとても嬉しい事だった。
だがその傍ら、レオンの言葉の端々に滲む“俺なんか”と言う意識がラグナに苦い顔をさせる。

 自分を好いてくれる人はいない。
自分が生まれた事を喜んでくれる人はいない。
そう言う人がいるのではないかと、期待する事すら、烏滸がましい。
レオンの心には、そんな意識が重石のように沈んでいて、常に彼の足を引き摺っている。


(そんな事ないんだぜ。だって俺は、お前が此処にいてくれて、本当に嬉しいんだから)


 音にならない贈る言葉さえ、“本当に”と言う枕詞が着いてしまう程、レオンにラグナの想いは伝わらない。
伝えればきっと彼は受け止めてくれるのだろうが、彼の受け皿には底がないから、受け止めた傍から擦り抜けてしまうのだ。
今のレオンは、そうしなければ言葉を受け止める事さえも出来ないのだろう。
彼は先ず、自分が誰かに好かれている事がある、と言う点から慣れて行かなければならなかった。


(焦っちゃ駄目なのは判ってるんだけど。でも、こう言うのは)


 怯えさせない事は大事だ。
けれど、それだけでは進まない事も、レオンが何も判らない事も事実だ。
受け止める事は愚か、自分から手を伸ばす事も忘れているから、受け取って良いものは受け取って良いのだと、無理にでも渡さなければ、彼は差し出されているものに気付く事さえ出来ない。


(────うん)


 ラグナは小さく頷いた。
誰に対してでもない確認行為は、キッチンに向かっている青年には見えていない。

 じゅう、と言う音を最後に、レオンはコンロの火を止めた。
十分に味の染み込んだ肉野菜炒めを皿に盛り、ダイニングテーブルへと運ぶ。
メインの料理を作る傍ら、温めて置いたスープも器へと注いで、これもテーブルへ。


「出来ましたよ、ラグナさん」
「おう。夕飯だ、夕飯だ。今日も美味そうだな〜!」


 空きっ腹をアピールするように腹を撫でながら、ラグナは食卓へと移動する。
しっかり彩りも意識された料理が並んでいるのを見て、ラグナの胃袋が早くそれを寄越せと訴える。
いそいそと椅子に座るラグナと向かい合う椅子にレオンも座って、食事前の挨拶に手を合わせた。