空と海の境界線上 【遭逢編】


 難破船と化していた廃船で見付け、保護した女性が目を覚ましてから、更に一週間が経って、彼女はようやく動き回れる程度にまで回復した。
こけていた頬も、少しずつ膨らみを取り戻し、青白かった顔にも血色が戻った。
全快と言うには遠いが、日常生活を送るに辺り、食事からリハビリ等、一通りのことを自力で熟せるようになると、やはり、今度は外の空気を吸いたいと思うようになる。
レオンがエアリスに「良ければ外に行きたい」と言ったのも、自然な流れであった。

 彼女のリハビリが始まってから一週間───彼女を船に迎えてから、述べ一ヶ月が経つ。
そろそろかな、とエアリスが考えていた所に申し出てくれたので、エアリスの対応は早かった。
仲間達に彼女の容体を伝え、天候や波の状態等、船には不慣れと言うレオンが甲板に上がっても問題のなさそうなタイミングを選んだ。
その時には、問題となっていた海賊旗は降ろされ、同様にシンボルマークが描かれたメインセイルも畳まれる事となった。

 シドとクラウドがメインセイルを畳み、ソラとユフィが各方向の安全を確かめて、レオンはほぼ一ヶ月振りに日の光を浴びる事を許された。
既に杖もなく歩けるようにはなったが、不規則に訪れる波の揺れには対処し切れず、バランスを崩してまう事があるので、エアリスが彼女の手を引いて、船室から甲板への階段を上る。
上ではティファが彼女の到着を待ち、途中でエアリスと交代する形で、彼女を甲板へと引っ張り上げた。


「……本当に、船の上だったのか……」


 広く晴れ渡る空と、柔らかな波に揺られる海の狭間で、レオンが小さく呟いた。
エアリスとティファ、ユフィから何度か聞いた事であったし、部屋の窓からは海が見えていた。
他にも、足下が常に不安定に揺れている事、潮の音や匂い、時に嵐の気配等、此処が陸ではない事を感じる事は多々あったものの、やはり屋内に篭っている間は、そうした意識は希薄だったのだろう。
甲板に出て、聳えるマストや帆を見て、レオンは改めて自分が船上生活をしていた事を認識したようだった。

 レオンは、きょろきょろと物珍しげに辺りを見回している。
しかし、足は船室への入り口階段前から、中々動こうとしなかった。
不慣れな場所で遠慮しているのか、どう動けば良いの判らないのか───何れにしろ、このまま彼女が自主的に歩き出す事はなさそうだ。
エアリスはティファに仲間達への報せを任せ、一先ず、甲板で一番見晴らしが良いであろう船首へとレオンを案内する事にした。


「レオン、こっちに来て。船首の方は見晴らしも良いし、今日は船の正面の方から風が吹いてるから、此処よりも気持ちが良いよ」
「あ……はい」


 促すと、レオンは直ぐにエアリスの後ろをついて来た。

 潮風が吹いて、レオンの濃茶色の髪と共に、ロングスカートの裾が揺れる。
コツ、コツ、コツ、と鳴る靴音は、ティファがレオンに貸したブーツだ。
彼女が身に付けているものは、全てエアリスやティファからの借り物である。
彼女の服は、下着も含めて酷い有様で、何度か洗ってはみたものの、良い状態にはならず、レオンの了解の上で破棄となった。
彼女の新しい服については、何処かの港に立ち寄ってから揃える事になっている。

 遠慮からだろう、船首楼への階段を上る事を躊躇うレオンを、エアリスは手を引いて上った。
吹き抜ける風が、レオンの髪を撫でて行く。
保護した時には痛み切っていた濃茶色の髪は、風呂に入る許可が出てから、エアリスとティファが念入りに洗った。
本人はそうされる事を酷く恥ずかしく感じていたようだったが、お陰でレオンの髪は猫のような柔らかさを取り戻している。
その髪が、風に吹かれる度に流れるのを見て、エアリスは満足げに笑った。

 甲板よりも一つ高い位置にある船首楼の縁へ、エアリスとレオンは向かう。
何処までも続く水平線を前に、レオンが感嘆の吐息を漏らした。


「凄いな……ずっと海だ……」


 レオンの独り言に、エアリスはくすりと笑う。


「レオン、船にはあんまり、馴染みがないんだよね」
「はい」
「海もあんまり、見てない?」
「…内陸の方で生まれたので。父の仕事の都合で、二度ほど港街に出た事はありますが、港や波止場には近付いていません」


 レオンの言葉に、そう、とエアリスは言った。
レオンの蒼の瞳は、それとよく似た二色の狭間をじっと見詰めている。


「だから……こんな景色は、生まれて初めて見ました」


 そう呟くレオンの表情は、少し晴れやかに見える。
深い蒼色の瞳の中で、水平線の光がきらきらと輝いて揺れている。
エアリスは、やはり、人は日の光をなくしては生きていけないのだと、今の彼女を見て思った。

 ざぁ、と潮騒が一つ鳴った時だった。
おーい、とよく通る声が二人の頭上に響いて、レオンが何処から、ときょろきょろと辺りを見回す。


「おーい、こっちこっちー!」


 もう一度響いた声と、エアリスが頭を上げた事に倣って、レオンも視線を上に向けた。
フォアマストの頂上にある見張り台に、手を振る小柄な影がある。


「あれは……ユフィ?」
「うん」


 レオンが世話になっている間、エアリスとティファと並んで、面倒を見てくれた少女の名を紡げば、エアリスはこっくりと頷いた。

 ひらひらとエアリスが手を振ると、見張り台の影───ユフィは檣楼の柵をひょいっと越えて飛び降りた。
高さ十メートルはあろうかと言う場所から、命綱もなしに飛び降りたユフィに、レオンがあっと声を上げかけた。
が、ユフィは軽い足ですとんと甲板に降りると、身軽な体をぽんぽんと跳ねるようにジャンプして、船首楼に到着する。


「レオン、元気になったんだねー!良かった良かった」
「まだ全快じゃないけどね。でも、随分良くなったわよね」


 はしゃぐように弾むユフィの声に続いて、船首楼を上って来たのティファだった。
その後ろに、複数の足音が続いて来る。


「おお、大分マシな顔色になってるじゃねえか」
「確かに。酷い有様だったからな。回復したのは何よりだ」


 ザンギリの短い金髪に、タオルを巻いた壮年の男と、同じく金髪だが特徴的な立て方をした金髪と、ガラス玉に似た虹彩の瞳の若い男。
そして彼等の後ろに隠れるように、ちらちらと顔を覗かせている、茶髪に青い瞳の少年。
続々と現れた男達に、レオンは警戒か恐怖か、竦むように僅かに後ずさってエアリスに身を寄せる。
エアリスはそんな彼女に笑い掛け、


「右から、シド、クラウド、ソラ。話してた、この船の仲間だよ。皆、彼女がレオンね」
「あ……お、お世話になっております」


 エアリスに紹介され、レオンは慌てて居住まいを正し、ぺこりと頭を下げた。
おう、とシドが片手を挙げ、クラウドが頷く。


「この船に乗ってるのは、これで全員だよ」
「特に上下関係とか、あってないようなものだから、誰それの立場がどうのって言うのは気にしないで。貴方も自然体で良いよ」
「はあ……」


 ティファの言葉に、レオンは些か戸惑った様子だった。
無理もない事だろう、立場を気にしなくて良いとは言え、レオンはこの船上では招かれざる客である。
彼女にとってこの船のクルーは自身の命の恩人でもある訳で、おいそれと遠慮を取り除く事は出来まい。

 レオンは改めて佇まいを直すと、揃った船員達に対し、もう一度ぺこりと頭を下げた。


「改めまして、レオンと申します。助けて頂いて本当に有難う御座いました。その上、バラムの島まで送って頂いて…」
「構いやしねえ。どうせその日暮らしの風来船だからな」
「そう言う事だ。それでも礼を言うのなら、バラム島であんたが降りる時にまとめて一言くれれば十分だ」
「あ…は、はい」


 シドとクラウドの言葉に、もう一度、ありがとうございます、と謝辞を述べようとして、レオンは言葉を切った。
そんなレオンに、二人が良し、と言うように頷いて見せるのを見て、レオンの肩の力が少し抜けた。

 それから一同の視線は、黙ったままの少年───ソラへと向けられた。
船員達が其方を見るので、つられてレオンの瞳もソラへと向く。
向けられた張本人はと言うと、視線に気付いていないのか、ソラは明後日の方向を向いて、そわそわと落ち付きなく身動ぎを繰り返している。


「ソラ。お前も何か言ったらどうだ」


 クラウドが声をかけると、ソラは「うえっ!?」と引っ繰り返った声を上げた。
明後日の方向を見ていた首がぐるんっと回り、自分を見詰める仲間達をきょろきょろと見渡した後、見慣れない蒼灰色とぶつかって、少年はガチリと凍り付く。

 固まって動かなくなったソラに、レオンはことりと首を傾げた。
何か変な事でもしただろうか、と考えた後で、見慣れない人間がいるから緊張しているのかも知れない、と思う。
エアリスやティファ、ユフィから、世話になる傍らで聞いた話では、この船のクルーは色々な事情の末に繋がり合った、家族のようなものだと言う。
そいて、レオンが見る限り、少年はこの船の中で一番年下のようだ。
家族の輪の中に、ふらりと部外者が割り込んで来たのだから、緊張や人見知りが働いても可笑しくない。

 子供は好きな方だが、相手が緊張しているのでは、可惜に刺激するのは良くない。
レオンはそう判断して、努めて柔らかく微笑むだけに留めた。
途端、ソラの顔がさっと赤くなり、ぱっと顔が背けられる。
嫌われているようだ、とレオンが眉尻を下げて苦笑していると、


「ソ〜ラ〜。なーに緊張してんのさ」
「き、緊張って誰が……!」
「ソラしかいないじゃん。何々、意識してんの?可愛いヤツ〜!」
「何言ってんだよ、やめろよ!」


 揶揄うユフィに、ソラが抗議する。
ソラが怒った、と船首楼を飛び下り、甲板に逃げたユフィを、ソラが追う。
どたばたと一気に賑々しくなった船上に、エアリスとティファがくすくすと笑い、シドとクラウドはやれやれと肩を竦めた。
レオンはと言うと、ぽかんとした表情で駆け回る少年少女を見つめている。

 呆然としているレオンに、ティファが言った。


「あのね、レオン。あの船で貴方を見付けたのは、ソラなんだ」
「ソラ……あの男の子ですか」
「うん」
「じゃあ、ちゃんとお礼を言わないと……でも、私は嫌われているみたいですね」


 自分を見て固まった少年を遠巻きに見て、レオンは寂しげに笑う。
そんなレオンの言葉に、ティファはエアリスと顔を合わせて笑った。


「違う違う。あれは意識してるだけ」
「意識…?」


 手を振って否定するティファに、レオンはまた首を傾げた。
隣でエアリスも頷いて、


「ソラ、貴方が目を覚ますの、ずっと待ってたの。貴方が目を覚ました後も、早く話がしたいって、そわそわしてて。貴方が回復するまではダメって言ったから、今の今までお話する機会がなかったんだけどね」
「ようやくお許しが出たようなもんだから、待った分、余計に意識してるみたいね。良いわね、初々しくって」


 笑うティファに、エアリスが「ねー?」と同調した。
レオンは二人をきょろきょろと見回した後、甲板で追いかけっこをしている少年少女を見る。
ユフィは帆船に張り巡らされたロープやマストを飛び回り、まるで背中に羽が生えているように身軽だ。
それを負うソラも、小柄な体を元気よく伸びやかに動かして、するするとロープとマストを上り、ユフィが飛び降りればそれを追って飛び降りる。
元気に駆け回るその姿は、レオンの前でガチガチに固まっていた少年と同一人物とは思えない程だ。


「今は忙しそうだから、後でレオンから声かけてくれるかな」
「私から?……良いんでしょうか。余り私の方から近付かない方が…」
「大丈夫、大丈夫。あれだけ意識してるから、寧ろレオンの方から話しかけた方が良いかも。とにかく、嫌ってるって事は絶対ないし、貴方から声をかければ、ソラもきっと喜ぶと思うの。お礼を言うついでで良いからさ」
「はあ……」


 ティファの言葉に、判りました、とレオンは頷いた。
礼についての言葉は、クラウドとシドからもう良いと言われてはいたが、見付けて貰った本人には、やはりきちんと言いたかった。
声をかける理由としては、不自然ではないだろう。
その時、少年の反応をもう一度見ても良いかも知れない。

 そう考えていたレオンだったが、不意に、じっと熱いものを感じて視線を巡らせた。
程無く、その正体に行き着いて、変わった虹彩を宿した碧眼と相対する。
睨んでいるようにも見える、じっと此方を見詰める眼差しに、見定められているような感覚に襲われて、レオンは居心地の悪さに僅かに身を捩った。

 甲板から聞こえていた賑やかな声は、開始した時よりも遠退いている。
代わりに船尾から騒々しい音が響いているので、追いかけっこはまだ続いているようだ。
元気な少年少女達に、レオンが口元を緩めたタイミングで、シドが船尾にいる二人に声をかける。


「お前ら、いつまでも遊んでないで仕事しろ!そろそろ船を出すぞ!」
「はーい!」
「はーい!」


 二つの声が綺麗に揃って、船尾から再び足音が此方へと駆けて来る。
ユフィとソラはメインマストを挟む二本のマストにするすると上り、まとめていた帆を広げ始めた。
クラウドも肩を回しながら、碇を上げて来る、と言って船首楼を降りる。


「じゃあ、エアリス、レオンをお願いね」
「うん」


 ティファも出航の準備の為、エアリスとレオンを残して、船首楼を下りて行った。
エアリスは、所在に困った風の顔で佇むレオンを振り返り、


「レオン、どうする?此処にいる?部屋に戻る?」
「えっと……」
「どっちでも良いよ。久しぶりに外に出たんだから、もうちょっと風に当たっても良いし。疲れたのなら、部屋に戻るよ」
「じゃあ……その、もう少し、此処にいたいです」


 風に当たるのも、陽に当たるのも、レオンは随分と久しぶりだった。
何をする訳でもないが、もう少しだけ心地の良い潮風の中にいたい。
レオンの申し出に、エアリスは快く頷いて、レオンの手を引いた。
こっち、と誘う足に従って、レオンは船首の真横に連れて行って貰う。

 ざあ、と波を滑る音が鳴る。
広げた帆が風を受けて張り詰め、碇の重りから解放された船が進み出す。
風を受けて流れる髪を抑えて、レオンとエアリスは並んで船縁に寄り掛かった。


「気分は悪くない?船酔いとか」
「はい、大丈夫です。足元が揺れるのには、まだ慣れませんけど」
「ふふ、良かった。船の揺れはねえ、慣れると気持ち良いものになるよ。長く海に出るのが当たり前になっちゃうと、今度は揺れないのが物足りなくなっちゃったりするけど」
「エアリスさんもそうなんですか?」
「時々ね。一度港を出たら、十日は海の上って言うのは当たり前だから」
「やっぱり、海の上の方が落ち付きますか?」
「んー……」


 レオンの戯れの問いに、エアリスは顎に人差し指を当て、トップマスト越しの空を見上げて首を捻る。


「海にいると、海がいいなあって思うかな。でも、陸にいると、陸もいいなって思ってる。私は、どっちも好き、かな」
「どっちも、ですか」
「うん。あ、でもね、クラウドとユフィは陸の方が好きかも。二人とも、船酔いが酷いから」


 くすくすと笑うエアリスの言葉に、レオンは目を丸くする。


「船酔い……するのですか?船上生活が長いのでは…」
「うん。クラウドは私やティファと同じ位だし、ユフィもまあまあ長いかな?でも、体質なんだろうね。嵐で船が凄く揺れる時とか、しばらく陸で生活して、久しぶりに船を出した日とか、どうしても酔っちゃうみたい。だからうちの船には、酔い止め用の薬を切らさないように常備してあるの」


 船酔いの薬は、レオンも目覚めてから今日に至るまで、何度か利用させて貰っている。
と言っても、船に酔った訳ではなく、船の揺れで落ち付けずに眠れずにいる所を、軽い入眠剤として処方して貰ったのだ。
船上に置いて、水や食料は勿論、薬も貴重品だと思うと、レオンは遠慮したが、エアリスは気にしなくて良いと言っていた。
慣れない生活で眠れない方が体に悪いし、予備の予備の予備まで常備しているから、と。
何故そんなにも沢山の酔い止めを持っているのかと思っていたレオンであったが、今のエアリスの言葉で納得した。

 船の上で生活するのに、船酔い体質とは難儀な事である。
しかし、とレオンが甲板へ眼を向けてみると、ユフィが忙しなくあちこちへ駆け回っていた。
ソラと追い駆けっこをしているのかと思ったが、後を追う少年の姿は見られない。
マストに上ってロープを引いたり、望遠鏡を覗き込んだりしているので、見張でもしているのだろうか。


「酔いが酷いようには、余り見えませんが…」
「じっとしてると酔っちゃうから、動き回って気を紛らわしてるんだって。甲板なら、景色も見えるし、風もあるから、まだ大丈夫みたい。船室に入ると大変なの」
「はあ……それだと、夜とか、眠る時も大変ですね」
「うん。だから酔い止めの薬が必要なの。眠っちゃえば、後は大丈夫だからね。で、クラウドはあっち」


 あっち、と差すエアリスの指に従うと、メインマストの向こうに舵輪を握るクラウドの姿がある。
特徴的な金色の髪が、潮風に撫でられて揺れているのを見て、固めている訳ではないのか、とレオンは思った。
ソラも逆立った髪だが、ぴょんぴょんと跳ね回る度に弾んでいたので、彼も固めている訳ではないらしい。
癖っ毛か、とレオンの指が自分の猫毛に絡まる。


「クラウドは、集中してる時とか、自分で操作してるものなら酔わないんだって。自分が動かすから、集中も出来るし、船がどう動くのか先に判るからかな」
「ああ……判る気がします。私の父も、馬車酔いが酷い人で────」


 其処まで言って、レオンの声は途切れた。
エアリスが首を傾げて彼女の貌を見ると、凍り付いた蒼灰色が佇んでいた。

 石像になったかのように動かなくなったレオンに、エアリスは密かに唇を引き絞る。
船縁を掴んでいた手が緩く握られて、意識して力を解いた。
虚空を彷徨う蒼に気付かない振りをして、自身と同じく船縁を掴んでいるレオンの手を握る。
レオンは傍らに人がいた事を忘れていたように、ビクッと肩を跳ねさせた。
それにも気付かない振りをして、エアリスはレオンの手を引いて歩き出す。


「来て、レオン。船尾も気持ち良いよ」
「あ……」


 掌から伝わる温もりに、レオンは俯いた。
気を遣わせた───と唇を噛みながら、レオンはエアリスについて行く。

 案内された船尾は、船首楼よりも風は届いていなかったが、代わりによく陽が当たる。
ぽかぽかとした陽気で甲板が温められ、潮風で少し冷えた肌が温まるのが判った。


「此処には風があまり届かないと言う事は……今は向かい風に走ってるんですか?」
「んーと……うん、そうだね」
「あの……船には疎くて判らないのですが、向かい風に向かって進めるものなのですか?オールの船なら判るのですが、これは帆船では…」
「上手く操れば、船はどの方向にだって走れるぜ」


 ゴツ、ゴツ、とブーツの音を鳴らしながら近付いた声に、レオンとエアリスは振り返った。
咥え煙草を揺らしながら現れたのは、シドである。

 レオンは、シドの先の言葉を小さく反芻する。


「どの方向にも……」
「いや、まあ多少言い過ぎだがな。風を受ける方角と、上手く波を捉えてやりゃあ、船は向かい風でも進むんだ。船の構造によっちゃ、追い風よりも早く走れるモンもある」
「そうなんですか。勉強になりました、有難う御座います」


 ぺこりと頭を下げるレオンに、シドはむず痒そうに鼻頭を掻いた。


「あ〜……レオンだっけか」
「はい」


 名前を呼ばれてレオンが頭を上げると、頭を掻きながら顔を赤らめるシドの顔があった。
咥えた煙草が上下にゆらゆらと揺れて、言葉を探しているように、あー、だの、うー、だのと零した後、


「その態度、ちっとなんとかならねえかな。あんたにしてみりゃ、此処は人ん家みてえなもんだから、遠慮すんのも無理はねえとは思うが、落ち付かねえや」
「え……で、でも…その……助けて頂いた方々ですし、目上の方にはきちんと…」
「そう言うのが要らないって言ってんだが……ま、仕方ねえ。バラム島に着くまでは日があるし、追々慣れてってくれや」
「は、はい。頑張ります」


 何度目になるか、ぺこりと頭を下げたレオンに、シドは苦笑して、濃茶色の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
突然の事に目を丸くしたレオンに構わず、シドは一頻りレオンの髪を撫でた後、その手をひらひらと振って船尾を離れた。

 撫でる手がなくなっても、レオンはぽかんとしたまま立ち尽くしていた。
乱暴な手で掻き混ぜられて、ぴんぴんと跳ねる柔らかな猫毛を、エアリスがくすくすと笑って手櫛で梳く。


「髪、凄いね。部屋に行って綺麗にしよっか」
「あ……ど、どうも…」


 レオンもようやく思考が戻って来て、おいで、と手を引くエアリスに短く礼を言う。

 船倉へ向かう為に船尾楼を降りると、舵輪の前でクラウドとシドが話し合っていた。
海図を広げ、空や海を見渡しながら話しているので、恐らく進路についての相談だろう。


「私達、部屋に戻ってるね」
「おう」
「失礼します」
「おーう」


 擦れ違い様に挨拶をしたレオンに、シドはひらひらと手を振った。
その隣で、碧眼がじっとレオンを見る。
まただ───と思いながら、レオンは手を引かれるままに、船倉への階段を降りた。




 部屋に戻ると、どっと疲れた様な気がして、レオンの足下が波とは関係なく揺れた。
ふらふらと体を不自然に揺らすレオンに、疲れたんだね、とエアリスは言って、レオンをベッドに座らせる。
ベッドヘッドに枕を置いて寄り掛かり、レオンはゆっくりと一つ深い呼吸をする。

 果てのない海と空、その境界を奔る船。
遠く何処までも吹いて行く風と、刻一刻と形を変える白い雲、そして世界を照らす太陽。
世界を埋め尽くすそれらに、レオンは知らず知らず圧倒されていた。
同時に、心の奥底で殺さずにはいられなかった、見知らぬ船とそのクルーへの警戒心が、陽光の下で溶かされて、緊張の糸がぷつりと切れた。
一気に襲った疲労感は、そうした要因もあるだろう。


(この船の人達は……もう、警戒しなくて良いな)


 世話になって置いて、と言われるかも知れないが、レオンはどうしても、船の人々を手放しで信じる事が出来なかった。
エアリス、ティファ、ユフィと言った女性達とは、世話になりながら交流させて貰ったが、男性については話にしか聞いていなかった。
見えない人物像や、今日───正確には、この船で目覚めるまで───の経緯も含め、レオンは容易に人を信用する訳には行かなかったのだ。

 だが、今日初めて顔を合わせて、大丈夫そうだと思えた。
エアリス達はレオンの体調や様子を気遣ってくれるし、男性陣は必要以上にレオンに近付かないようにしている。
女性であるレオンに対しての、男性なりの配慮だろう。
それだけに、シドに突然頭を撫でられたのには驚いたが、その手はとても暖かかった。


(……父さんと、似ていた)


 そう思って、きゅ、とレオンは唇を噛む。

 乱暴に頭を撫でたシドの手は、つい最近まで自分を撫でていた、父のものと似ていた。
父の手は、シドのようにごつごつとしてはいなかったものの、重ねた年齢と苦労の現れか、少し固さがあった。
その手で彼は、レオンを抱き上げ、可愛い可愛いと言ってくしゃくしゃと頭を撫でる。
思春期の頃は少し鬱陶しいと思う事もあったスキンシップも、大人になると愛しく思えて、恥ずかしいながらも受け入れられるようになった。

 ヘアブラシを持って来たエアリスがベッド横の椅子に座り、レオンの髪を梳き始める。
が、数分と経たない内に、レオンの体が傾いて、ぽすっ、とベッドに倒れ込んだ。


「レオン?大丈夫?」
「……はい……」


 呼ぶ声になんとか反応を返したが、それがレオンの限界だった。
招く睡魔に抗う事が出来ず、レオンはとろとろと目を閉じる。
エアリスはそんなレオンを起こす事はなく、ヘアブラシを置いてそっと体の向きを整えた後、また手櫛で柔らかな髪を梳いていた。