空と海の境界線上 【遭逢編】


 当たり前に其処にあるものだった。
その大切さを気付かない程に、当たり前に。

 春になると、沢山の花が咲き誇る、綺麗な場所だった。
夏になれば小川の清流がきらきらと輝き、秋になれば遠くの山が真っ赤に萌え、冬は降り積もった雪が遊び相手になってくれる。
四季折々の景色は他国にも評判があり、観光目的の来訪も多かった。
それに合わせて人々は花をモチーフにした催しを開き、小さな国ながらも、もてなしの心と風光明媚な光景で、遠くまで名を知られた国だった。
特産品は花、そして花を原料とした香水だ。
遠い昔は其処は禿山だったと言うが、その話は既に何百年も昔の話で、今を生きる人々には想像もつかない。

 沢山の人々に愛される国だった。
その国を治める王もまた、沢山の人々に愛される人だった。
そんな父の背中を見て、ずっとずっと育ってきた。
可愛い可愛いと、暇さえあればそう言って抱き締める父が、照れ臭くもあり、愛しくもあり。
いつでも子供のように大きく口を開けて笑う父に、心密かに憧れた。
初恋の人は誰、と聞かれたら、きっと父の顔が浮かんだだろう。

 そんな父と、ずっとずっと一緒だった。
物心がついて間もない頃に母は逝去し、そんな母の分まで、父は娘を可愛がっていた。
娘が思春期になって、余りにも近い距離に顔を顰めるようになると、まるでこの世の終わりのように、おいおいと泣いていた。
そんな父が恥ずかしくもあり、やはり、愛しくもあり。
仕方がないと、常の父を真似て頭を撫でると、まるで春が来たように嬉しそうに笑って抱き付いて来たのを覚えている。

 ずっとずっと一緒だった。
いつか娘が嫁ぐ日が来るのを、寂しそうに、待ち遠しそうにしていた。
国の幸せと望む公人とは別に、彼は娘の幸せを一番に望んでいた。
お前の為なら何だってするよ、と言う父の言葉は、恐らく、誇張や見栄ではない。
そんな父の愛情を一身に浴びて、これからも与え続けられるものだと、思っていた。

 思っていたけれど。

 ささやかな願いは、赤い色に塗り潰されて、抱き締めてくれた手が、この体を突き飛ばす。
落ちた夏の川は、いつも気持ちが良い筈なのに、とても冷たく、痛く感じた。


◇◆◇◆   ◇◆◇◆


 前触れもなく目が覚めて、其処が現実だと気付かなかった。
薄く隙間を開けたカーテンから差し込む細い光は、弱々しく切なく、手許まで届いてはくれなかったが、閉じた部屋のシルエットを浮かび上がらせるには十分だった。
そうして僅かに見える天井板を見詰め、レオンはしばらくの間、金縛りに遭ったように固くなっていた。

 五分か、十分か、それとも一時間、将又ほんの数秒───レオンは判然としない時間の中で、固くなった体のまま、天井を見ていた。
此処が何処なのかも理解するのに暇がかかったが、鼓膜が機能を回復させると、漣の音で記憶が揺さぶられた。
芋蔓式に一連の流れを思い出し、此処が他人の船の上だと気付く。


(……喉が…乾いたな……)


 のろのろと体を起こして、全身が汗塗れになっている事を自覚した。
借り物の服なのに、と思いながら、どうしようもない事に溜息を漏らす。


(バラムに着くまで、幾つか寄港すると言っていた。その時に服も揃えてくれると……でも、こんなに世話をして貰っているのに、服まで買って貰うなんて…しかし、自分で買おうにも、金なんて持っていないし、どうすれば……)


 思案しながら、レオンは服の首下のボタンを開け、胸元を緩めた。
閉め切った部屋には風もないが、服の中のムシムシとした感覚は少し逃げてくれた気がする。
しかし、喉の渇きはどうにもならず、そう思うと尚の事水が欲しくなる。

 ベッドの横に置かれている筈の水を探すが、トレイとピッチャーごとなくなっていた。
部屋を見渡すと、いつもソファで眠っている筈のエアリスの姿もない。
水を取りに行ったのだろうか、それならば待っていれば良いか───と思ったレオンだが、どうにも体の奥がむず痒い。
じっとしていると、不意に思考の波が闇色に染まる気がして、少しでも体を動かしたかった。


(……甲板に出る位なら、大丈夫だろうか……)


 全く勝手の判らない、他人の家とも言える船を、一人で歩き回る事には感心しないが、今ばかりはそうも思っていられなかった。
ほんの少しだけ、と呟いて、レオンはベッドを下りる。
ベッドの端に畳まれていたブランケットを借りて肩に羽織り、紐を緩めたブーツを履いて部屋を出た。

 船内の構造については、エアリスとティファから説明を受けている。
エアリスの部屋は、基本的には彼女の部屋だが、怪我人や病人がいれば医務室になる。
ティファとユフィは女部屋として共同部屋を使っており、男性陣は船倉を改修したものを寝床として使用しているとの事だ。
会議室を兼ねた食堂は、甲板の船尾楼の中にあるので、水を貰う為にも一度甲板には出なければならない。

 エアリスの部屋を出て、細い廊下をしばし歩いた先に、甲板へと出る階段がある。
梯子でなくて良かった、と思いつつ、レオンは重い脚をゆっくりと動かして、階段を上った。
不必要な際の落下防止の為だろう、格子戸が閉じられた出入口を押し開けて、ひょこりと頭だけを甲板に出した。
きょろきょろと辺りを見回すが、人の気配は見付からず、代わりに船尾楼の船室に灯りが灯っているのを見付ける。


(良かった。誰かいるようだ)


 誰もいない船室に勝手に入るのは躊躇われたので、人の気配があるのは幸いだ。
そう思って、階段を登り切った時だった。

 ────ひゅう、と風を切る音の直後、だんっ!と何かがレオンの目の前に落ちてきた。
ビクッと肩を跳ねさせ、固まったレオンの前には、やんちゃに逆立った茶髪があった。
これは、としゃがみこんだそれを見つめていると、髪と同じように、やんちゃな光を宿した青色が、此方を見上げる。


「…………………えっ!!?」
「えっ!?」


 目を丸くして、大きな声を出した少年───ソラに、レオンも反射のように驚いた声を上げた。
お互いがお互いのその声に驚き、数秒を無言で見つめて過ごした後、先に我に返ったのはソラだった。


「うわわわわっ!ご、ごめん!」
「えっ、あっ、い、いいえ……?」


 ずざざざっ、と後ずさりで距離を取り、声を大きくして謝る少年に、レオンは反射的に返すが、何がごめんで、何がいいえなのか、レオンにはよく判らなかった。

 そのまま、レオンとソラは固まり合っていた。
ソラは船縁に背中をぶつけた状態で、レオンは船倉の階段を登り切った所で、見詰め合う。
不自然に停滞する時間の中で、レオンは昼間、エアリスから聞いた事を思い出していた。


(そうだ、確かこの子が───)


 レオンを廃船と化した客船で見付けたのは、この少年だと言っていた。
次いで、エアリスとティファから、折りを見て彼に話しかけてやってくれ、と言われていた事も。

 一言、礼を言わなければ。
レオンはそう思って少年に近付こうとしたが、彼はおろおろとしたように辺りを見渡している。
何かを探す仕草に、レオンは近付くのを止めた。
昼間も彼はレオンと目を合わせようとせず、落ち付かない様子で、ユフィと賑やかにしながら離れて行った。
それを思い出したレオンは、余り近付かない方が良いかも知れない、と近付く事を諦める。


「…ソラ君、だったな」
「へっ?」


 レオンが少年の名を呼ぶと、忙しなく動き回っていた目がレオンへと向けられる。


「見つけてくれてありがとう、ソラ君。君のお陰で、俺は───私は、こうして生きていられる」
「あ、う、うん」
「…シドさん達には、礼は後で良いと言われたが、君にだけはちゃんと言わなければと思ったんだ」


 そう言って、レオンは柔らかく笑んだ。
警戒しているであろう少年の心を、出来るだけ解してやれるように、努めて優しい表情を意識する。
そんな顔をするのは随分と久しぶりで、上手く出来ているのか判らなかったが、子供を怯えさせる事はない筈だ、と自分に言い聞かせた。

 もう少し話をしてみたかったが、彼は慣れない他人を警戒している。
自分からは余計な刺激は避けるべきだと、レオンは「それじゃあ」と言って、船尾へと向かおうとした。
が、一つ強く吹いた風と波で揺れた船体に、レオンの足が蹈鞴を踏む。


「と、と……っ」


 未だ慣れない船の揺れと、ブーツの紐を緩めたままだったのが悪かった。
バランスを崩したレオンの足が縺れ、ゴ、ゴツッ、とブーツが不揃いな足音を鳴らした時だった。
ぐっ、とレオンの手が強い力に掴み引き寄せられ、倒れかけたレオンの体が姿勢を戻す。

 とん、とん、と後ろに二歩を踏んで、レオンのふらつきは収まった。
転ばずに済んだ事にほっと息を吐いてから、レオンは手を握っているものを見た。
自分の手よりもまだ小さな、あどけなさの残る手が、レオンのそれを確りと握っている。


「あ…ありがとう、ソラ君」
「べ、別に……」


 また助けられた、と笑うレオンに、ソラはふいっと明後日の方向を向く。
やっぱり苦手意識を持たれているようだ、とレオンは思ったが、その割には掴まれた手が、待てども待てども離されない。


「……あの、手を、」
「何してたの?」
「え?」


 手を離して欲しい、と言うレオンの台詞を、ソラが遮った。
彼の方から問いを投げられると思っていなかったレオンは、一瞬ぽかんとしてしまったが、直ぐに我に返って答える。


「喉が渇いて、水を貰えないかと思って。部屋にエアリスさんもいなかったから、自分で行こうと思ったんだ」
「船内通信管を使えば良かったのに。部屋には全部通してあるよ」
「そう言うものがあるって、知らなかったんだ。それに、ちょっと汗を掻いたから、風に当たりたくて。……部外者が勝手に歩き回らない方が良かったな。すまない」
「そ、そんなの別に、謝るような事じゃないよ。ってか、誰も気にしないだろうし」


 しどろもどろになりながらの少年の言葉に、気を遣わせてしまったな、とレオンは眉尻を下げた。
と、握られたままだったレオンの手が引かれ、ソラが歩き出す。
連れられるままに歩を踏んでから、レオンは慌てて少年の名を呼んだ。


「ソラ君?」
「水が飲みたいんだろ。俺が頼んであげるよ」
「あ、ありがとう」


 一人で行けるから大丈夫、とレオンは言わなかった。
病み上がりの部外者を一人で歩き回らせるより、自分が見ていた方が良い、とソラは思ったのだろう───と考えたからだ。
握られた手は、捕まえていると言う意味もあるし、船に不慣れなレオンがまたバランスを崩して転ばないようにと言う優しさにも取れた。
若しもレオンが逆の立場ならそうするし、これは少年からの気遣いでもあるのだろう。
引く手に大人しく連なって、レオンはソラと共に船尾楼へ向かう。

 繋がれて伝わる少年の手の感触は、少し固い。
腰に提げたサーベルやロープを見るに、きっと彼は、この船の生活の中で何かと戦った事があるのだろう。
この海の上で生活していれば、何処かでトラブルに巻き込まれるのは想像に難くない。
それは強奪を目的とした海賊であったり、突如現れ船ごと海の中へと引き摺りこもうとする怪物であったり───とかく、この海で生きる者は、何某かの戦う術を身に付けなければ生きてはいけない。
その苦労や強さが滲んでいるかのように、少年の手の皮膚はごつごつとしており、ロープの擦れた後だろうか、毛羽立ったようにかさかさとした感触もあった。


(……こんなに幼い少年でも、自分の身を守る術を持っている)


 そう思うと、レオンは酷く歯痒くなった。

 この船に乗っている者で、戦う術を持っていないのは、きっとレオンだけだ。
男であるシドやクラウドは勿論、無邪気に跳ね回っていたユフィも、きっと戦い方を知っている。
証左のように、彼女の腰には複数の短剣が収められていた。
ティファとエアリスが戦う所は想像が出来ないが、身を守る術は何かしら持っているのだろう。


(……俺は……戦う事も、守る事も、出来なかった。その方法すら、知らなかった)


 揺れるレオンの瞳が、暗い海へと向けられた。
広がる光景は、陽の下で見ていた時とは違い、闇一色に塗り潰されている。
まるでタールを零したような真っ黒な景色に、溶け込んで行けたら良いのに、とさえ思う。

 沈んで行く思考を止める事が出来なくて、レオンは黒の海から目を反らした。
見慣れないブーツの足下を見詰めながら、手を引かれるままに歩いていると、立ち止まった少年の背中にぶつかる。
どん、と勢いよくぶつかってしまって、レオンはようやく我に返った。


「あ、す、すまない。ぼんやりしていた」
「………」
「あの……大丈夫か?」


 慌てて謝ったレオンだったが、ソラからの反応はなかった。
ソラはレオンがぶつかった時に当たったのであろう後頭部に手を遣り、沈黙したまま俯いている。
悪い事をした、とレオンが項垂れていると、ソラは何かを振り払うように、ぶんぶんと頭を振って、目の前の船室の扉を勢いよく開けた。


「エアリスー!水ちょーだい!」
「珍しいね、ジュースじゃなくて良いの───あら、レオン」


 元気よく飛び込んできたソラを笑顔で迎えたエアリスは、少年の後ろに控えるように立っているレオンに気付いた。

 レオンの手を引いていたソラの手が離れ、彼は食器棚へと駆けて行く。
グラスを二つ取って、調理台の前に立っているエアリスに渡すと、冷蔵庫を開けた。
エアリスはグラスの一つに浄水を入れながら、出入口で立ち尽くしているレオンに声をかける。


「こっち、座って良いよ」
「はい。お邪魔します」


 許しを得て、レオンは敷居を跨いだ。
食卓にもなっているのだろう、大きなテーブルの端を借りて、長椅子に腰を下ろす。
直ぐに水の入ったグラスがレオンの前に置かれた。


「目が覚めちゃった?」
「はい。それで、喉も乾いたので、水を頂けないかと思って」
「ああ、ごめん。ピッチャーの水を入れ替えようと思って、こっちに持って来てたの。それで、さっきまで朝ご飯の用意をしてたティファの代わりに洗い物してて……直ぐに戻れば良かったね」
「いいえ。それより、勝手に船の中を歩き回ってしまってすみません」
「大丈夫だよ。転んだりしなかった?」
「はい。ソラ君が助けてくれたので」


 レオンの言葉に、エアリスの目が冷蔵庫からジュース瓶を取り出したソラに向けられた。
つられてレオンも彼に眼を向けると、二対の瞳と空色の瞳がぶつかる。
ソラは数瞬、きょとんとした顔をしていたが、直後、まるで沸騰したように顔が赤くなった。


「……!」
「?」


 ぼぼぼっ、と文字通り顔に火が上ったようなソラの変化に、レオンは首を傾げた。
エアリスはと言うと、くすくすと笑ってソラの手から瓶を受け取る。


「座ってて良いよ、ソラ」
「いっ、良いよ、ジュースくらい自分で」
「良いから良いから」
「エ、エアリス〜っ!」


 エアリスはにこにこと楽しそうに、ソラの肩を押して、椅子に座らせた。
椅子の端に座っているレオンの直ぐ隣───椅子の端の端の位置に。

 椅子の角が尻に当たる位置に座らされる形となったソラに、其処では辛いだろうと、レオンは横にずれてスペースを開けた。
しかし、ソラは空いたスペースをちらりと見ただけで、位置を直そうとはしない。


(…ああ。直ぐ隣じゃ座り難いよな)


 ソラが近付かない理由をそう考えて、レオンはもう少し横にずれた。
ソラが座り直しても、人一人分のスペースが開く程度に距離を取る。
ちら、とソラの目が広がったスペースを見遣り、ずりずりと尻を動かして、ソラは椅子の端に落ち付いた。

 エアリスがオレンジジュースを入れたグラスをソラの前に置く。
ソラはごくごくと勢いよくそれを飲み干して、口端から垂れる果汁を手で拭った。
そんなソラを、エアリスは傍らに立って見下ろしている。
ソラは、終始楽しそうなエアリスの表情から逃げるように、右へ左へと視線を彷徨わせていた。


「海の様子はどう?」
「別に、何もないよ。風も静かだし、波も」
「危なそうな感じもない?」
「うん」
「ソラの見張はあと何時間だっけ」
「えーと……二時間くらいかな。シドと替わるよ」
「じゃあ、お茶だけ沸かしておこうかな」


 エアリスはそう言うと、ツイストの尻尾髪を楽しそうに揺らしながら、調理台へ向かう。

 レオンはグラスの中の水をちびちびと飲んでいた。
からからに乾いていた喉は、砂漠に水を注いだように、あっと言う間に水分を吸収して行く。
嫌な汗の所為で不足していた潤いが補われると、知らず強張っていた肩から、力が抜けた気がした。

 ほう、と小さく息を吐いたのを、エアリスが聞き留めた。
エアリスは水を沸かす火力を調整すると、ととと、とレオンの下に近付き、


「ちょっと良いかな」
「はい」


 レオンが顔を上げると、前髪が持ち上げられて、額に嫋やかな手が当てられた。
エアリスは逆の手を自分の額に宛てる。


「んーと……熱はないね」
「はい」
「でも、ちょっと汗掻いてる?」
「…少しだけ。それで、ちょっと風に当たりたくなったもので、勝手に部屋を出てしまいました」
「大丈夫だよ。今は海も穏やかだからね。汗はそのままにするの、良くないから、後で着替えようね」
「はい」


 服を何着も借りている事に抵抗はあるが、汗の沁み込んだ服を着ているのが病床の体に良くないのは理解できる。
エアリスの言葉は気遣いでもあるし、厚意を無碍にするのも良くないと、レオンは素直に頷いた。

 グラスの最後の水を飲み干した後、レオンはしばらく、その場に留まっていた。
先に船室に戻っても良かったが、部屋で一人で目覚めた時とは違い、此処にはクルーがいる。
一人で勝手に歩き回るよりも、エアリスが仕事を終わらせて、一緒に戻った方が良いだろうと思ったのだ。

 ゆらゆらと不安定な船の上で、エアリスは手早く家事仕事を熟している。
食器を洗う事は疎か、料理も、茶を沸かすなんて事も、レオンは殆どした事がない。
習い事として覚えた事はあったが、それを日常的に、ほぼ毎日行っていたかと言うと、否であった。
それはそう言う事を仕事とする者が行う事で、レオンがそれを代わりに行うと言う事は、彼等から職を、飯の種を奪う事に等しかった。
幼い頃は、父に褒めて欲しくて、我儘を言って厨房に立った事もあるが、周りが見えるようになってからは止めた。


(何か仕事を貰えたらと思ったんだが……これではな……)


 助けて貰った事、毎日面倒を見て貰っている事、借りている服、折々に感じられる気遣い───与えて貰ってばかりの現状に、少しでも返す事が出来るものがあればと思ったのだが、レオンが出来る事は殆どない。
小さな船の中は、正規の船員だけで十分に手が足りているようだった。
そうでなくとも、船の生活に素人なレオンが手を出すような事など、幾らもないだろう。


(…でも、このままと言うのも……)


 どうにも生真面目な性格の所為か、世話になりっぱなしと言うのは落ち着かない。
明日、エアリスに何か出来る事はないか聞いてみようか。

 思考に耽っていたレオンだったが、ふと、隣から寄せられるじりじりとしたものに気付く。
何だろう、と首を動かすと、つぶらな瞳とぶつかった。
ソラである。


「……!」
「あ……」


 ソラはレオンと目が合った事に気付くと、ぼぼぼっ、とまた顔を真っ赤にして目を反らした。
これは、苦手意識と言うよりも、嫌われているのではないだろうか───何度目になるか、まともに顔を合わせて貰えない事に、レオンは眉尻を下げた。

 かちゃん、と調理台から小さな音が聞こえ、エアリスが手を吹きながらテーブルへ近付いて来る。
エアリスは、お互いに顔を背け合った状態のレオンとソラを見て、きょとんと首を傾げた。
何かあったの、と言いかけた唇は、一拍早く、ガタンッ!と勢いよく席を立ったソラに遮られる。


「ジュースご馳走さまっ!見張行って来まーす!」
「あ、ソラ、」


 エアリスの呼ぶ声が聞こえていないのか、振り切るような勢いで、ソラは甲板に出て行った。
ばたばたと慌ただしい足音は、少し遠退くと、見張り台に上る為だろう、直ぐに聞こえなくなった。

 エアリスはテーブルに置かれた二つの空グラスを取って、流し台へと運ぶ。
手早く洗い物を済ませたエアリスは、柔らかなタオルで水気を拭くと、食器棚へと片付けてから、レオンに声をかけた。


「お部屋、戻ろっか」
「はい」


 促されて、レオンは席を立った。
両足で立つと、座っている時よりも船の揺れが顕著に感じられる気がする。
転ばないようにと壁伝いに歩いていると、エアリスがどうぞ、と手を出してくれたので、捉まらせて貰う。


「さっき、ソラに助けて貰ったって言ってたね」


 甲板を船倉へと向かう道すがら、エアリスが言った。


「はい。彼には助けて貰ってばかりで……」
「お話も出来た?」
「それは、余り……見付けてくれた事のお礼は言えたんですけど。目も合わせて貰えないので、やっぱり私は嫌われているようですね」
「んー……ふふふ」


 眉尻を下げたレオンの言葉に、エアリスはくすくすと笑う。
何か可笑しなことを言っただろうか、とレオンが首を傾げると、


「まだ照れてるんだね、ソラは」
「照れてる…?今日の昼も、そう言ってましたね」
「うん。意識し過ぎちゃって、顔を見れないの。時間が経ったから少しは落ち着いたかなって思ってたんだけど───そっかあ。ふふふ、ユフィが言ってた事、結構当たってるのかも」
「……?」


 ユフィが言っていた事、とは何だろう。
考えてみたレオンだが、とんと思い当たるものがないので、恐らく仲間内で交わしていた話なのだろう。
それなら自分が聞ける事ではない、とレオンは疑問を振り切る事にした。

 船倉に降りようと言う手前で、エアリスがレオンの手を引いた。
見ると、エアリスは人差し指を天に向けている。
何かあるのかと、指に倣ってレオンが頭上を仰いでみると、メインマストに拵えられた見張り台から見下ろしている少年と目が合った。


「!!」
「あ、」


 目が合った直後、少年の顔が引っ込んで、どたんっ!と言う音が聞こえた。
きしきしとマストが軋んだような音が聞こえたのは、レオンの空耳だろうか。


「だ、大丈夫でしょうか……」
「ふふふ」


 少年を心配するレオンに、エアリスはくすくすと楽しげに笑うばかり。
そのままエアリスは、レオンの手を引いて船倉を下りて行った。
メインマストの上で頭を打った少年が、それとは別の理由で顔を真っ赤にしていた事を、レオンは知らない。