空と海の境界線上 【遭逢編】


 レオンの朝食は、エアリスと共に船室で採るのが決まっていた。
体調への配慮も然る事ながら、知らない人間ばかりが集まるところに参加するのは気まずいだろうと言う配慮からだ。
昨日ようやくクルー全員の紹介をする事が出来たが、誰がどういう人間なのか、レオンはまだ知らない。
その為、今日もレオンの朝食は船室で採る事となった。

 食事を終えた後、レオンは食器をキッチンへ運ぶエアリスについて行った。
陽に当たりたいと言うのもあったし、昨晩考えていた事───世話になっている事への礼について、誰かに話しを聞いてみようと思ったのだ。

 船室へ入るエアリスと別れて、レオンは甲板で船上を見回した。
恐らく確実に誰かいるであろうと目を向けたのは、船尾楼の上にあった舵であった。
予想通り、其処には舵輪を握ったシドの姿がある。

 レオンは借り物のスカートの裾を踏まないように持ち上げて、揺れる足元に気を付けながら、船尾楼へと階段を上る。
足音を聞いたシドが、舵輪を握ったままレオンを見た。


「おう、お前か。昨日はよく寝れたか?」
「はい」


 実を言えば、夢見が悪くて夜中に目が覚めてしまったが、それはこの場で言う事ではない、とレオンは思った。
気遣ってくれるこの船のクルー達に、これ以上余計な心配をかける訳には行かない。

 レオンの返事に、そりゃあ良かった、とシドは気を良くしたようだった。
しかし、その後直ぐにシドは苦い表情で空を見上げる。


「…どうかしたんですか?」
「うん?ああ、ちょっとな……」


 シドにつられてレオンも空を見上げてみる。
抜けるような青空が広がり、その中に鳥が飛んでいた。
太陽光の逆光を受けている為、レオンに鳥の種類は判別がつかなかったが、随分と低く飛んでいるように見える。

 そのまま、シドとレオンは、鳥が飛び去るまで空を見上げていた。
ピュイー……と言う鳴き声が遠くなり、木霊だけが残った頃、シドがレオンを見て言った。


「レオンっつったか。あんた、今日は中に入ってろ。あんまり外に出ねえ方が良いぞ」
「あ……す、すみません、ご迷惑をかけて…」


 シドの言葉に、レオンは彼の仕事を邪魔してしまったのだと思った。
何をした訳でもなかったが、船を操るには、風の流れが波の動き等、色々な事に気を配らなければならない筈だ。
傍目にはぼんやりと舵輪を握っているだけに見えても、他人が安易に近付いて、気を散らすような真似をしてはいけない。

 すみません、と俯いたレオンに、シドは目を丸くしてぱちりと瞬きを一つ。
沈んだ顔で詫びたレオンを見て、シドは自分の言葉が足りなかった事に気付いた。


「いや、別に迷惑とかそんなのじゃねえよ。悪いな、言葉が足りなかった。今日は時化になりそうだから、安全の為にも、あんたは船の中にいた方が良いって話だ」
「シケ……嵐ですか?」
「ああ」
「……今日は、天気が良いように見えますけど……」


 もう一度、抜けるような青空を見上げてレオンが言うと、シドは「今はな」と言った。


「さっき、鳥が低い位置を飛んでただろ」
「はい」
「ああ言う時は、大体良くない兆候だ。空気にも湿気が混じってるようだし」
「……?」


 空気に湿気、と聞いて、レオンは意識して風を感じてみる。
しかし、吹く風は心地の良いもので、じっとりとした湿気のようなものは判らなかった。
それでも、故郷で草花の囲まれていた時は、雨が降る前に独特の匂いがしたり、鳥や虫が低い位置を飛ぶようになると雨が近いと言う事は少なくなかったので、シドの言葉が単なる勘ではない事は判った。


「ま、そう言う訳だ。時化になれば風も波も大きくなるから、船もよく揺れる。甲板にいりゃあ船から放り出されるかも知れねえ。凪の中ならともかく、嵐の中で海に放り出された奴を助けに行ける程、うちの船に余裕はないからな。船に慣れてないあんたは、安全圏にいた方が良い───つっても、中なら安全って訳でもないけどな。少なくとも、甲板よりはマシになる」


 からからと舵輪を回しながら、シドは「だからお前が迷惑とかって事はない」と続けた。

 レオンは船の外に眼を向けた。
青空は遠くまで広がっており、やはり、何度見渡しても、シドが言う嵐の気配は感じられない。
飛び去った鳥の影もとっくに見えなくなっており、今もあれが低い高度を飛んでいるのかも定かではない。

 嵐が来たら、自分は手伝い所ではないだろう。
穏やかな今でさえ、船の揺れに足を取られるのだ。
もう一度船を見回してみると、マストの上でクラウドとユフィが話し合っている。
船上に張り巡らされたロープを指差しながら話をしているので、恐らく嵐に向けて準備をしているのだろう。
カチャ、と音がしたので其方に首を巡らせると、ティファとエアリスが船室から出てきた所だった。
二人は急ぎ足で船倉へと降りて行き、入れ替わりにソラが甲板に上る。
口早に何か話をして、三人はそれぞれの方向に散った。


(……忙しそうだ)


 いや、正しくは“忙しい”のだろう。
こんな状況で自分が手伝いを申し出ても、反って余計な手間を増やすだけだ。

 シドの言う通り、船室に戻って静かにしていよう、と思った時だった。


「で、なんか用か?」
「え?」


 不意のシドの言葉に、レオンはぱちりと目を丸くした。
呆然としたレオンに、シドは片手で舵を弄りながら、


「なんだ。用があってこっちに上がって来たんじゃねえのか?」
「あ…そ、それは、その、」
「何かあるなら早目に言いな。俺達はこの生活も当たり前だから、多少の事は気にならねえが、あんたは海に慣れてないようだし、俺らが気付かない事で色々と不便もあるだろ。出来る事と出来ない事はあるが、改善してやれる事は、まあ試してみるからよ。溜め込まねえ内が楽ってもんだぜ。後で大事になるのは、あんたも嫌だろ?」


 遠慮をしなくて良い、とシドは言ってくれているのだ。
その気遣いの言葉と、向けられる瞳の柔らかさに、レオンはじんわりと温かいものが胸の奥に滲んで行くのが判った。
咥え煙草を揺らすシドの顔が、記憶の中で笑う人と重なる。
姿形は少しも似ていないと思うのに、不思議な事もあるものだ。

 レオンは、浮かぶ雫を頬にかかる髪を退かす仕草で誤魔化した。
切っ掛けを与えてくれた今の内に、とレオンは昨夜から思っていた事を打ち明ける。


「差し出がましい事とは思うのですが、私に何か出来る事はないかと思って」
「出来る事?」
「仕事のようなものが頂けたらと。助けて頂いて、行く先まで乗せて頂いて、お世話になってばかりなので……その、落ち付かないと言いますか、」
「……肩身が狭ぇって?」
「は、はあ……」


 苦笑するシドの言葉に、レオンは顔を赤くして俯いた。


「病み上がりの身で、何が出来るかとも思うのですが……」
「まあなぁ。あんた、船の事も海の事も、何も知らねえんだろ?」
「はい……」
「するってえとなあ……」


 考えるシドであったが、直ぐに詰まったように、唸る音を漏らす。

 シドはしばらく思考に耽っていたが、ふと思い立って、レオンを見る。
レオンの佇まいは整えられたものだった。
彼女は普通に立っているだけだが、その立ち方にも、性格や育ちは現れるものだとシドは知っている。
その経験則から、彼女がユフィのようなお転婆な性格ではない事も、ティファのように荒事に慣れている訳ではない事も判る。
緊張を誤魔化すようにスカートの端を握る手は、太いロープを引く事は疎か、重い荷物を持った事もないのだろう。
エアリスも初めはそうだったが、この船で生活している内に、海で生きる者に相応した手に変わった。
柔絹を捨てて言わせて貰えば、今のレオンの手は、苦労知らずの手だ、とシドは思った。
そうなると、任せられる事は極限られてくる。
いっその事、不必要な事だと言ってしまえば良いのだろうが、それではこいつは納得しない、と言う事も読めた。


「あー……おっ」


 何を任せるか、或いはどうやって言い含めるか考えていたシドであったが、ふと見えた逆立ち頭に良案を思い付いた。
───彼の思考が読めるクラウドにすれば、それは良案ではなく丸投げだ、と言ったところだろうが、今彼はマストの上にいる。

 シドは足下の船室に入ろうとしている少年に声をかけた。


「ソラ!ちょっと来い!」
「なにー?」


 呼ぶ声に少年───ソラは素直に船尾楼に上って来た。
が、其処にいるのが仲間だけではない事を気付き、ビタッと動きを止める。
それを見たレオンの唇が、寂しげに揺れた。
シドはそんな二人に気付いていないのか、レオンを指差してソラに言った。


「何か仕事が欲しいんだとよ。お前が決めて言い付けろ」
「うえっ?な、なんでそんな事。別に仕事なんかしなくて良いじゃん」
「世話になってるからだと。まあ、運賃っつーか、乗船賃の代わりみてえなもんだ」
「そんなの別にいらないのに」
「俺達がそうでも、こっちが納得しねえんだよ」


 こっち、とシドはぐしゃぐしゃとレオンの髪を掻き撫ぜて言った。
二度目になる不意打ちの撫でる手に、レオンの頬が赤くなる。


「あ、あの……」
「んあ?おお、悪ぃ。つい癖でな」


 どぎまぎとするレオンの態度に、シドは彼女の頭を撫でていた手を離した。
レオンは、離れた手にほっとする反面、少しの寂しさを自覚しながら、表情を変えないように努める。

 むずむずとする後頭部を、レオンが無自覚に手で押さえているのを、少年は見ていた。
むう、と唇が尖るソラに、「おい」とシドが声をかける。


「聞いてんのか?」
「聞いてるよ!」
「…何キレてんだ。まあ良いや。とにかく、なんでも良いから、仕事を探してやらせてやれよ」
「良いじゃん、仕事なんかしなくたって。お客さんなんだから」
「それじゃ納得しないんだって言ってんだろ。お前が仕事をさせたくないなら、お前がそう言う風に説得しろ。客の扱いを決めるのは、船長のお前なんだからな」
「え、」
「えーっ!こんな時だけ船長扱いって、ちょっ、シドぉー!」


  シドは舵を手放して、さっさと船尾楼を下りて行った。
シドはマストから降りてきたクラウドと合流し、一言二言を交わして、船首へと向かう。
それを見送るレオンを、残ったクラウドが甲板から見上げていたが、彼女がその視線に気付く事はなかった。

 舵の傍らで立ち尽くすレオンの頭の中は、一つの単語で占められている。
船長、と彼は言ったか。
その言葉は、誰に向けられたものだったか。
今一度、頭の中で事の流れを整理して、レオンは唇を尖らせている少年を見た。


「……あの……」
「えっ!?あっ!何っ!?」


 恐る恐ると声をかけると、ソラは此方が驚く程に驚いた。
逃げるようにじりじりと体が下がる少年に、レオンは数秒の隙間の後、頭を垂れた。


「すみませんでした」
「へ?」


 レオンが謝罪を口にすると、ソラはきょとんと目を丸くする。
頭を下げたまま動こうとしないレオンに、今度はソラが恐る恐る「……何が?」と訊ねる。
レオンはそのままの姿勢で、詫びに至る理由を説明した。


「昨夜は、失礼な振る舞いをしてしまったので……」
「昨日って……甲板で逢った時の?」
「はい。目上の方に取るべき態度ではありませんでした。申し訳ありません」
「え、え、ちょ……ちょっと待ってよ。別にそんなの気にしてない……」


 焦るソラの言葉にも、レオンは反応しなかった。
頭を下げたまま動かないレオンに、ソラはおろおろと首を巡らせた。
仲間の手を借りたかったのだが、皆それぞれに散り散りになっているようで、誰も捕まりそうにない。


「と、取り敢えず顔上げてよ!ね?」
「……はい」


 肩を掴んで起こすように促されて、レオンは従った。
そうして上がったレオンの面が、緩く翳を差しているのを見て、ソラは息を飲む。


「……なんでそんな顔してんの?」


 固いソラの声に、レオンの肩が微かに揺れた。
思わず怯えるような反応をしてしまった事に、レオンは小さく唇を噛む。


「……失礼な態度を取ってしまったので……」
「怒ってると思ってんの?」
「……違うのですか?」


 年端も行かないであろう少年が、“船長”と呼ばれた事に、レオンはまだ混乱がある。
とてもではないが、この無邪気そうな少年が、船を統括する任に着いているとは思えなかった。
レオンはてっきり、若い船員ばかりの中で、一番年長であろうシドがそうだと思っていた。
それでも、そのシドが彼を“船長”と呼んだのであれば、それは事実なのだろう。

 レオンがこの船に乗ってから一ヶ月と少し、彼女が目覚めてからと数えると、その半分以下になる。
エアリスが船医、ティファがキッチンを任されている事は聞いていたが、その他のクルーについては知らなかった。
若いを通り越し、一番幼いソラが船長であると、彼女達は一言も言っていない。
だから、部外者のレオンがソラを船長と思わなかったのも無理はなかった。

 だが、知らなかったからと言って、昨夜の態度は許される事ではない、とレオンは思う。
他の船員には改めた態度で接しているのに、ソラに対しては、子供を相手にする気分で接していた。
ひょっとしたら、終始見られていた頑なな態度も、そうしたレオンの行動への不満からだったのかも知れない。
───正確に考えれば、ソラの態度は、レオンが昨夜彼と対峙する以前から見られていたものなので、それとは別の理由である事が判るのだが、今のレオンに其処まで思い出す余裕はなかった。

 居た堪れない表情で、目の前の少年の表情を伺うレオンに、ソラは眉根を寄せた。
その貌に、やはり怒っているのだと思ったレオンが、もう一度謝ろうとした時、


「怒ってなんかないよ」
「……」
「本当だってば」


 眉尻を下げたままのレオンの表情に、ソラは重ねて言った。
それでも晴れないレオンの表情を、ソラは苦い表情で見つめた後、丸い瞳を逃がすように逸らして呟く。


「……でも、そのまんまだったら、ホントに怒る……」
「……?」


 そのまま、とは何の事だろう。
レオンがことんと首を傾げると、ソラはもごもごと口を篭らせた後、視線を外したままで言った。


「今の、その、態度って言うか、喋り方とか。なんか、ヤだ」


 ソラのその言葉で、レオンはようやく、改めた自分の態度を指しているのだと気付いた。
昨日と同じで良い、と言う事だろうか。
しかし、この幼い少年は、この船の長だと言うし───と思考をループさせていると、


「船長って言ったって、名前だけみたいなもんで、俺がワガママで船長って役になっただけだし。船長とか船員とか、いつもあんまり関係ないし……クラウドとか、普通に俺のこと子供扱いするし」
「はあ……」
「それに……昨日はさ。そう言うの関係なくて、普通に声かけてくれたじゃんか」
「……それは、その…船長様だとは知らなくて……」
「だから、あれって、その……レ、レオン、が。レオンが普通って言うか、そのままって言うか…とにかく、そんな感じで話してくれてたんだろ。それなら、俺は、そっちのままの方が良い……」


 言いながら、ソラの顔がぽこぽこと沸騰して行く。
俯いたままのソラの頭から、湯気が出てきそうだとレオンは思った。


「ええと……でも、その……船長様は、」
「ソラ」


 レオンの言葉を遮って、ソラが自分の名前を口にした。
虚を突かれたレオンが目を丸くしていると、


「昨日は名前で呼んでくれたじゃん」
「あ……は、はい。ソラ君……」
「ソラ!」


 強い声で繰り返すソラに、レオンはぱちりと瞬きを一つ。
そんなレオンを、ソラはうーっと唸りながら睨んでいた。
これは流石に怒っているとレオンも判り、どうすれば、と考えあぐねた後、恐る恐る口を開いてみる。


「ソ…ソラ……?」


 確認するように少年の名を呼んでみると、円らな瞳が判り易く輝いた。
年齢相応な輝かしい顔に、レオンはそんなに大事な事だったのだろうか、と首を傾げる。
しかし、きらきらと眩しい少年の瞳に悪い気はせず、これで良かったのだろうと思う事にした。


「それで、先程の件ですが……」
「それもヤだ」
「はっ?」


 改めて仕事について訊ねようとしたレオンであったが、もう一度ソラが遮った。
何度目かの瞬きをするレオンの前で、ソラはまた眉根を寄せている。
戸惑うレオンに、ソラは眉を吊り上げた表情のままで続ける。


「昨日は普通に話ししてたじゃん。あっちが普通なんだろ?」
「それは、その…はい……」
「じゃあ今日も普通にして。普通じゃなきゃ嫌だ」
「し、しかし……」
「い・や・だ!」


 年齢はどうあれ、立場は船長と乗り合わせただけの他人───レオンにはどうしてもそれが引っ掛かっていた。
昨夜はそれを知らずにいたから、素の自分で接していたが、知ってしまった以上は改めなければならない。
……とレオンは思っているのだが、目の前の少年船長は、それが嫌なのだと言う。

 頬を膨らませ、つーんとそっぽを向いてしまったソラに、これでは肝心の話が出来ない、とレオンは困惑する。
どうすれば良いのだろう、と考えてはみるが、結局は少年船長の要望に応えるのが一番と言うのは判っていた。
生まれ育った環境から、身に沁みた立場を重んじる考え方の所為か、どうにも違和感は拭えなかったが、此方の話を聞いて貰う為にも、とレオンは腹を括る。


「そ、それじゃあ……これで良いか?」


 無意識に改めそうになる言葉遣いを、意識して普段のものに変える。
素を意識すると言うのは、なんとも奇妙なもので、普段の自分はどう喋っていたのかを真剣に考えてしまい、ゲシュタルト崩壊を起こした気分だ。
が、レオンのそんな心境を、少年船長が気付く事はなく、拗ねていた顔が綻んで笑顔になる。


「ん!そっちの方が良いや。あと、多分皆にもそう言う感じで大丈夫だと思うよ」
「そうです、か……じゃ、なくて、えーと……ど、努力してみよう…」


 どうにも崩しきれないレオンの態度であったが、ソラはもう拗ねた顔をする事はなかった。
嬉しさを隠さない、にこにこと上機嫌に笑う少年に、こんな風に笑うのか、とレオンは初めて知る。
初めて見た少年の笑顔は、空の上でぽかぽかと世界を照らす太陽に似ていて、レオンの胸の内を温かくさせた。

 ソラはにこにこと機嫌よく、レオンはそんなソラの気持ちが伝染したように口元を緩めていた。
そのまま幾拍と時間を過ごしていた二人だったが、


「えっと、それで───なんだっけ?」


 頭を掻いて訊ねるソラに、レオンは一瞬遅れて本題を思い出す。


「その。仕事を貰えたらと……」
「あ、そうだそうだ。でも、仕事って別に要らなくない?」
「シドさんにもそう言って貰ったが……」


 どうにも落ち着かなくて、レオンは頭を掻いた。


「船のことも海のことも知らないから、もう直ぐ来るって言う嵐の時には何も出来ないけど……何か他に出来る事はないだろうか」
「そう言われてもなあ……あ、そうだ。レオンってご飯作れる?」
「え、あ…えっと……」


 ソラの言葉に、レオンは焦った。
与えられた仕事なら、どんな雑用でもするつもりでいたが、調理の類は子供の頃にやったきり。
それも大人達に付き添われてのもので、刃物や火には殆ど触った記憶がない。

 しどろもどろになったレオンに、ソラも察したらしい。
それじゃあ、とソラは別のものを考え始めた。


「掃除とか洗濯とか、どうかな。この船、人も少ないからさ、洗濯物とか少ないんだけど、皆それぞれ他の事してたりするもんだから、干したものとか片付け忘れたりとかあるんだ」
「あ、それなら……なんとかなる、と思う」
「水も石鹸も限られてるから、毎日やるって事もないんだけどさ。レオン、結構元気になったみたいだけど、やっぱりまだ病み上がりだろ。仕事とか、そう言うの気にしてるみたいだけど、ちょっとずつやる事の方が良いと思うんだ。あと、ちゃんとエアリスにも言って、エアリスが良いって言ったらだからな」
「ああ。ありがとう」


 ソラの言葉を聞きながら、気を遣ったつもりが、どうやらまた気を遣わせてしまったようだと遅蒔きに悟る。
しかし、今言わなければいつ言えたか、シドが言っていた通り、言える時に言わなければ溜め込んでしまい、人知れず鬱々としてしまうのも予想出来た。
話を通してくれたシドにも、後で礼を言わなければなるまい。

 背中の重いものが少し落ちた様な気がして、レオンはほっと胸を撫で下ろした。
緩んだレオンの表情を見て、ソラがまた嬉しそうに笑う。
その笑顔は、無邪気で明るいもので、小枝一本を持って駆け回り遊んでいても可笑しくない年齢なのだと判る。
反面、仕事を求めたレオンに対し、意見を汲みつつも体調を慮って釘を差す事を忘れない所を見るに、“船長”と言う肩書は、決して形だけのものではないのだろうと感じられた。


「……確りしてるんだな」


 呟いたレオンの声が聞こえて、ソラが「ん?」と首を傾げる。
幼い仕種のソラに、レオンの口元がまた緩む。


「さっきソラは、船長と言う役割は名前だけのものだと言ったが、そんな事はないと思う。きちんと気配りが出来て、俺…私の我儘も聞いてくれて。そう言うのは、本当に我儘だけで船長になった者には、出来る事じゃない」
「そ、そっかな……へへ」


 ソラはレオンの言葉に頬を赤くして、照れ臭いと言う顔で頭を掻いた。
くすぐったさを誤魔化すように、ソラの足下が忙しなく遊ぶ。
そう言う所は年相応だな、とレオンはくすくすと笑った。

 ひゅおう、と一つ強い風が吹く。
撫でられたレオンの髪が攫われて、レオンは手で髪を押さえた。
仕事を貰ったら、髪をまとめられる紐を貰った方が良いかも知れない。
髪を結うなんて何年振りになるだろう───と、ぼんやりと考えるレオンを、ソラもまたぼんやりと見つめていた事に、彼女は気付かなかった。

 ぱたぱたぱた、と軽い足音が鳴って、船尾楼の下から女性の声がかかる。


「レオンー?レオン、どこ?」
「あ……はい、此処です」


 自分を呼ぶエアリスの声に、レオンは船尾楼から身を乗り出して、甲板に立っているエアリスに返事をした。
探し人を見付けたエアリスは、下りて来て、とレオンに言う。


「嵐が来るって。思ったより早く当たりそうだから、もう私達は中にいよう?」
「はい」


 促すエアリスに、レオンは頷いた。
何も手伝えない自分に歯痒さはあるが、陸ならともかく、何も知らない海の上では、自分が走りまわった所で邪魔になるだけだ。

 船尾楼を降りる前に、レオンはソラに向き合う。


「じゃあ、ソラ。その───気を付けて」
「うん。レオンもね。船、結構揺れると思うから」


 手を振るソラに、レオンもひらりと手を振った。
途端、ぼんっとソラの顔が赤くなったが、彼にとっては幸運か、その前にレオンは甲板へと降りて行った。

 エアリスから嵐の際の注意点、気を付けるべき事を説明して貰いながら、レオンは船倉への階段を下りる。
嵐が来る前に、エアリスに仕事をしても良いか、自身の体調について聞いてみよう。
他にも何か出来る事があるのなら、少しずつでも良いから恩を返して行かなければ、とレオンは小さく拳を握った。




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