空と海の境界線上 錯交編


 陸で宿屋に泊っている時、寝起きの悪い者は多い。
筆頭なのがクラウドで、彼は元々低血圧であるらしく、体が起きても頭が寝たままと言うのは船の上でも少なくない。
船の上では、就寝前に酔い止めの入眠剤を飲む事もあるので、それも関係しているが、陸では完全に惰性であった。
その割に、有事の際には誰よりも早く飛び起き、武器を手にして対応に当たるので、平時の違いは何処で出るのかと、幼馴染も首を傾げていたりする。

 次いでユフィが中々ベッドから出たがらない。
彼女もまた、船の上では酔い止めの薬を必要としており、それに加えて、寝起きの頭に船の揺れが悪い方向で響く事があった。
そんな生活に比べると、全く揺れのない陸のベッドは、何も気にする事がないので快適なのだろう。
良質なベッドに在り付ければ尚の事、ふかふかと心地の良い布団に包まれて、いつまでも惰眠を貪っている。
ただし、クラウドに比べると、食事への執着があるので、朝ご飯だよと声をかければ素直に起きる。

 シドも中々起きて来ない事があるが、彼の場合は寝酒の量が関係する。
深酒をしていれば寝起きが悪く、そうでなければ、一定の時間には目を覚ます。
時間に決まりがあるのは、陸にいた頃に幼子たちを抱えて生活していた時の名残だろう。
あの頃は、シドが男手一つで孤児の面倒を見ていたので、子供達が家事手伝いを出来るようになるまでは、朝食の用意と言ったものは全て彼が行っていた。
長らく続いた生活は、すっかり彼の習慣となっているらしく、朝食の準備が必要ではなくなった今でも、起床のスイッチが入るのだ。

 エアリスは、医者の不養生にはなるまいと、出来るだけ何処にいても同じ時間で起きるように努めている。
代わりに、病人や怪我人がいる時は、いつ何が起きても対処できるように、夜遅くまで起きていて、朝早くに目を覚ます。
何事かが起きた時の為に、自身の体調管理に気を配っているのだ。
とは言え、宿で眠る時の安心感は、船の上では得難いものなので、少しばかり長く眠る事も少なくなかった。

 一行の中で一番早起きで、そのサイクルが何処に行っても変わらないのは、ティファである。
船の上では朝食を作ると言う仕事もあるし、それが無くとも、朝のトレーニングは彼女の日課になっていた。
無手を武器とする彼女は、その修行に余念がなく、船の上ならストレッチとシャドーを、陸にいれば、治安の良い場所であれば早朝ランニングに出る事もある。

 そしてソラは、日によって非常にムラがあった。
早く起きる時もあれば、最後まで布団から出たがらない時もある。
気分が体調に出る典型とも言えた。
良いことがあったと思えば、翌日は早くに起きて活動を始め、嫌な事があれば、布団に包まって外に出る事を拒む。
これは極端な例で、シドと揃って起きて来る事もあるし、クラウドと共にいつまでも寝ている事もある。

 今日のソラは、シドが着替えている間に目を覚ました。
午前7時を過ぎた頃で、特に極端な時間ではなく、普通通りに目を覚ましたと言って良い。


「んんー……あー、良く寝たぁ」


 伸びをしながら、ソラは窓から差し込む光を浴びた。
一昨日は船番と言う役割もあってゆっくりと眠れなかったし、そうでなくとも、もやもやとしたものを抱えていたので、熟睡できたとは思えない。
ぐっすり眠った後の気持ちの良い朝と言うのは久しぶりだった。


「腹減ったー。シド、朝飯どうすんの?」


 着替えながらソラが訊ねると、シドはがりがりと背中を掻きながら、


「クラウドが起きねえしなあ。ユフィもどうせ寝てんだろうし。近くにパン屋があるから、適当に見繕って来るわ」
「俺も行く」


 ソラはジャケットを羽織り、紐を緩めたブーツに足を入れて、部屋を出て行くシドを追った。
俯せて寝ているクラウドに置手紙の類はない。
いつもの事なので、目を覚ましても、ソラ達が帰ってくるまではぼんやり待っている事だろう。

 宿のフロントロビーに下りると、長身の女性がレセプション前に立っていた。
受付嬢と話をしている濃茶色の髪に、階段を降りるソラの足が弾む。


「レオン!」


 名前を呼べば、女性───レオンが振り返る。
レオンは階段を下りてきたシドとソラを見て、口元を綻ばせた。


「レオン、おはよ!」
「おはよう、ソラ」
「おう。早いな」
「おはようございます。目が覚めたので…」


 レオンはソラに挨拶を返して、シドには丁寧にぺこりと頭を下げる。


「お二人も、早いんですね」
「ああ。朝飯、買いに行かないといけないしな。お前も腹減っただろ?」
「そう、ですね」


 シドの言葉に、レオンは眉尻を下げて頷いた。
腹を撫でるレオンに、早く起きたのは空腹の所為だったのかも、とソラは思う。


「俺達、今からパン屋に行くんだけど、レオンも行く?」
「良いんですか?」


 ソラの提案に、レオンはシドを振り返った。
俺が誘ったんだけど、とソラは思いつつ、同行者であるシドを気にするのは無理もないかも、と考え直す。


(それに、良いんですかって聞くって事は、レオンは一緒に行くのは嫌じゃないって事だよな)


 ソラの誘いを嫌がっている訳ではないのだと、そう考えると、ソラの心は弾む。
現金な自分に呆れつつ、ソラは外へと向かう二人について行った。

 パン屋は宿屋から五分もない場所に構えられていた。
店は大きくはなかったが、中々繁盛しているようで、朝の焼きたてのパンを求めた客が絶えない。
香ばしい匂いが漂う店内で、ソラはあれもこれもとシドに強請った。


「シド、あれも美味そう」
「どれだ?」
「クルミが入ってる奴。今焼き立てだって」
「おう、良いじゃねえか」


 ソラが指差したパンを、シドは早速トングで取った。
トレイに確保されたパンが、どんどん山積みになって行く。
レオンはと言うと、そんな二人の後ろを雛のようについて歩いていた。

 ついて歩くばかりで、何も言わないレオンに、くるりと振り返ったシドが、持っていたトングを差し出す。


「えっ……」
「良いから。ホレ。食いたい奴あるだろ?」
「あ、あの……」
「遠慮すんな」


 シドはレオンが受け取るのを待たず、彼女の手にトングを押し付けた。
そのまま手を離したものだから、落としてはいけないとレオンは慌ててトングを拾う。
レオンは戸惑ってシドとソラを見るが、二人は何も言わずにレオンの貌を見ているだけだった。

 二人がトレイの返却を許してくれそうにないので、取り敢えず、とレオンは辺りを見回す。
色々な種類が並ぶ陳列棚を見渡した後、レオンが気になったのは、棚の下段に並べられたパンだった。
動物を模した形のそれは、恐らく子供向けに作られたものだろう。
しかし、レオンはこう言った形のパンを見た事がなかった。


「あ、あの……これ、良いですか?」
「ああ。何でも良いぜ」


 犬、猫、クマと言った種類の中から、犬のパンを選んで、トングで挟む。
不慣れな器具にレオンはまごついたが、なんとか潰さないように持ち上げて、シドが持つトレイに乗せた。


「他には?まだあるだろ?」
「えっと……」
「レオン、あれ食べよう、あれ。美味そう!」


 もう一度辺りを棚を眺めようとしたレオンの手をソラが掴んで、目当ての棚まで引っ張って行く。


「これこれ。ソーセージ入ってるんだ」
「美味しそうだな」
「な?一緒に食べよ!」
「じゃあ、二個……良いですか?」
「ああ。一々俺に聞かなくて良いから、好きに選びな」
「じゃあ次ー」
「お前は山ほど選んだろーが」


 いそいそと次に買うパンを選ぼうとするソラを、シドが後ろ首を掴んで止める。
ケチ、と言うソラに、レオンはくつくつと笑いながら、傍に並べられていたサラダパンを取る。


「これ、と……あとは、これを」


 レオンは卵パンを取って、トレイに乗せる。
山になったパンを見て、こんなもんか、とシドは精算へ向かった。

 並ぶ客の隙間を通って、ソラとレオンは一足先に店を出る。
精算を待つ客が並んでいたので、シドが店を出てくるまでは少し時間がかかるだろう。
二人はパン屋の建物の端に立って、シドが出て来るのを待つ事にした。

 空樽をベンチ代わりに座って、ソラはぶらぶらと浮いた足を遊ばせる。
ちらりと隣を見ると、昨日と同じく、シャツとデニムパンツ、ブーツ姿のレオンがいる。
髪は昨日と違ってまとめられておらず、所々に寝癖のある髪が、緩やかな風に吹かれて揺れている。
長い前髪の隙間から覗く蒼色を、ソラは下からそっと覗き込んだ。
柔らかな光を抱いた蒼は、憂いているようにも見えるし、眩しげに細められているようにも見える。

 どくん、とソラの胸の奥で、鼓動が一つ鳴った。


「……ん?」
「…?」


 きょとんとソラが首を傾げ、視界の端にそれを捉えたレオンも首を傾げる。


「どうかしたのか?」
「んん……んん?」
「……?」


 空樽に座ったまま、体を右へ左へ傾けて考え込むソラ。
レオンはそんなソラを不思議そうに見詰めていたが、彼の心が何処か他の所へ散歩している事を察すると、何も言わずに人が行き交う道へと視線を戻した。

 一人、二人とパン屋の客が出て行って、ようやくシドも出てきた。
トレイに山積みにされていたパンは、大きな紙袋二つと、小さな紙袋一つに分けられている。
シドは大きな袋の一つをソラに差し出し、


「ほれ」
「ん」
「あの、私も……」
「おう。お前はコレな」


 ソラが袋を受け取ったのを見て、レオンも荷物持ちを引き受けようとすると、シドは心得たように小さな袋を差し出した。
受け取ると、紙袋越しにほかほかと温かな感触が伝わって、レオンの唇が綻ぶ。


「お前さんが選んだパンは、その袋に入ってる。俺らは部屋に戻って食うから、お前さんは好きにしな。エアリスやユフィと一緒に食いたかったら、声かけりゃ良い」
「はい。有難う御座います」


 遠回しに、一人になりたかったら部屋に戻っても良い、とシドは言っていた。
レオンもその言葉を察して、好きにして構わないと言うシドに短く感謝を述べる。
そんな二人に挟まれた位置で、さっきのはなんだったんだろ、とソラは未だに首を傾げていた。




 ソラはユフィとエアリスの部屋にパンを届けた後、シドと一緒に自分達の部屋へと戻った。
部屋を出る前、惰眠を貪っていたクラウドは、ようやく目を覚ましたと言う状態で、ベッドの上でぼんやりと座っていた。


「おう、クラウド。起きてたか」
「……ああ……朝飯は…?」
「パンだ。さっさと顔洗って来な」
「ああ……」


 のろのろと、面倒臭そうにクラウドはベッドを立つ。
洗面所へ向かう彼は、まだ意識が半分程夢の中にいるようだが、水を被れば少しは起きて来るだろう。

 パン屋から帰る途中、ミルク売りから買った牛乳を、シドが部屋に備え付けられている小さな竈で温める。
蜂蜜でもあればソラの好きな甘いホットミルクに出来るのだが、生憎、其処までは考えずに戻って来てしまった。
まあ良いか、と三人分の牛乳をマグカップに移す。


「ね、シド」
「ん?」


 呼ぶ声にシドが振り返ると、ソラがパンを乗せた皿を持って立っていた。
いつもならテーブルでミルクが届くのを大人しく待っている筈のソラに、なんだ、とシドは竈の火を消しながら訊ねる。


「俺さ、レオンのとこに行って良い?」


 そう言ったソラが持つ皿には、レオンと一緒に揃いで買ったパンがある。
そう言えば一緒に食べようと言っていた、とシドも思い出し、


「ああ、行って来い。ちゃんと向こうの許可を貰えよ」
「うん。行って来まーす」


 揃いで買ったパンの他、ソラが目当てにしていたパンを一通り皿に乗せて、ソラは部屋を出る。
洗面所から戻って来たクラウドが、その背中を見送って、のろのろとテーブルへ着く。


「ソラは何処に行ったんだ?」
「レオンの部屋だ。一緒に朝飯食うって言ってたからな」
「そうか。……青いな」


 ぽつりと呟いたクラウドに、全くだ、とシドは肩を竦める。

 自分のいなくなった部屋で、そんな会話が交わされているとは露知らず───ソラは急ぎ足で廊下を歩いていた。
皿に乗ったパンは小山になっており、走ると落としてしまいそうなので、ソラは平衡感覚に気をつけながら、女性陣の部屋へ向かう。

 ソラがエアリス達にパンを届けに行った時、レオンは彼女に誘われて、女部屋に入って行った。
あれから五分と時間は経っていないので、一緒に食べているのなら、彼女もまだ女部屋にいる筈だ。
その予想通り、ソラが女部屋の扉をノックすると、開いたドアの隙間から、椅子に座ったレオンの後ろ姿が見えた。


「あれ、ソラ。どうしたの?」
「お邪魔しまーす。俺も一緒に食べて良い?」
「良いよ。おいで」


 ドアを開けたエアリスは、直ぐにソラを部屋へと通してくれた。
テーブルを囲んでいたレオンとユフィが振り返り、


「おはよー、ソラ」
「おはよ、ユフィ」
「こっちで食べるの?」
「うん。レオンと一緒に食べるって約束したし」


 ソラの言葉に、レオンがぱちりと瞬きを一つ。
ソラがへにゃっと笑ってやれば、レオンの唇が緩んだ。
見詰める蒼灰色が仄かに嬉しそうに見える事に気付いて、ソラの顔がほんのりと赤らむ。

 そんな二人の様子を、ユフィがにやにやと笑いながら見ていた。


「一緒にねー。約束ねー。ふーん」
「なんだよ?」
「べーつにー?」
「なんだよー!」


 昨日から何度も見るユフィの悪戯顔に、ソラは抗議した。
が、エアリスに「宿屋だよ」と釘を差され、二人はぴたっと動きを止める。
船の上にいる時のように、隣近所を気にしなくて良い訳ではないのだと思い出し、ソラは立ちかけた椅子に座り直す。

 エアリスが温めた牛乳が人数分並んで、揃って手を合わせる。
女性陣が大皿に乗せたパンから選ぶ中、ソラは持ち込んだパンを食べていた。
その中には、レオンと一緒に選んだパンもある。
その事に気付いたレオンは、犬の形をしたパンを食べ終えると、山になったパンの中から、ソラのものと同じパンを取った。
塩茹でのキャベツとソーセージを挟んだパンを齧ると、火の通ったソーセージがぱちっと弾けた音を立てる。


「ん、……美味しいな」
「な!」


 塩コショウの味のするソーセージをよく噛んで飲み込み、レオンが言うと、ソラも笑う。
自分の選んだパンを彼女が気に入ってくれた事が嬉しくて、ソラはうきうきとした気持ちでパンを頬張った。

 男部屋で食べている時に比べ、女部屋での食事の席は、華やかだった。
ユフィが何かと話題を持ち出して、エアリスとレオンが相槌を打つ。
此処にティファがいるのなら、話は更に重なって、色々な盛り上がりを見せた事だろう。
代わりに今日はソラがユフィの話に乗って、パン屋で売っていたパンの種類について、話の花が咲いた。
この賑やかさは、男部屋ではあまり見られる事はない。
朝のクラウドは眠気もあって常以上に無口───と言うよりも反応が鈍く、シドも自分の食事が終わると、食後の一服で煙草を吹かす。
各自勝手に過ごすのが暗黙の了解になっているので、食後まで賑々しく過ごすと言う事が滅多にないのだ。

 話はソラ、シド、レオンがパン屋に行った事に移り、レオンが犬の形の可愛らしいパンを買った事も話題になった。


「レオンって、犬好きなの?」
「え…あ、その……た、多分……」


 ユフィの言葉に、レオンは赤くなって縮こまった。
恥ずかしそうな彼女に、エアリスがくすくすと笑う。


「別に恥ずかしがる事ないよ。可愛いよね、ワンちゃん」
「ね。あたしも好きー。猫はどう?」
「…好き、です」


 エアリスとユフィが同意してくれた事で、レオンは少し安堵したようだった。
犬が好きでも、猫が好きでも、恥ずかしがる事なんてないのに───とソラは思うのだが、何かがレオンには引っ掛かるのだろう。
が、エアリス達が笑って聞いてくれているからか、彼女が再び恥ずかしがる事はなかった。


「猫とかさ、一緒に乗せてる船って時々あるんだよ。ネズミ捕りとか役に立つし」
「そうなんですか。犬は…どうなんでしょう」
「猫よりはメジャーじゃない感じだけど、時々見かけるよ。犬を乗せてるのは、漁の船が多いかな。船長さんの相棒って感じ」
「レオンは、猫より犬の方が好きなの?」
「どちらかと言えば……」
「飼ってた事ある?」
「いえ。でも、知り合いに飼っている方はいたので、よく触らせて貰っていました」
「どんな犬?ちっちゃい子?おっきい子?」


 食い付いたユフィに、レオンは嬉しそうに頬を赤らめる。
仲の良い犬だったんだろうな、とソラは思った。


「小さな子も、大きな子もいました。小さな子は臆病だったんですが、私にはよく懐いてくれて、遊びに行くと走って来て。大きな子は、子供が乗れる位に大きかった。私が幼い頃から遊んで貰っていたので、すっかり年を取っていて。走って来る事はもうなかったのですが、私が行ったら嬉しそうに尻尾を振って───」


 其処まで言って、レオンの声は途切れた。
あれ、とソラが首を傾げていると、小さく鼻を啜る音が聞こえた。
ぎくっと肩を揺らしたのはソラだけではなく、彼以上にユフィが顕著であった。
ちらりとソラがユフィを見ると、彼女は気まずい顔をして俯いている。

 そうだ、とソラは思い出す。
エアリスから又聞きで聞いた事だが、レオンの故郷は戦に巻き込まれ、心神喪失状態となって故郷を出奔せざるを得なかったのだ。
それがいつの出来事だったのか、ソラには判らなかったが、レオンにとって遠い記憶ではない事は確かだ。


「……あの、……すみません」
「…うん。良いよ」


 レオンは小さな声で詫びると、席を立った。
足早に部屋を出て行った後、隣の部屋のドアの音が薄壁越しに聞こえる。

 しん、と静まり返っていた部屋の中で、長い息を吐いたのはユフィだった。


「……っあ〜……やっちゃったよ〜……」


 ぐったりとテーブルに突っ伏すユフィ。
判り易く沈み込む彼女の頭を、エアリスがぽんぽんと撫でて慰めた。
動き出した時間に、ソラも知らず詰めていた息を吐いて、ユフィと同じようにテーブルに突っ伏す。

 ユフィがレオンに訊ねた事が、決して悪かった訳ではない。
しかし、レオンが故郷での楽しい思い出を話している内に、此処数ヵ月で起きた出来事を思い出したのは、無理もなかった。
過去の事と割り切ってしまうには、近過ぎるであろう、戦禍の記憶。
家族の事も心配だろうに、彼女は言っても詮無い事と思っているのか、ソラ達の前でそうした気持ちを吐露した事がなかった。
だが、此処にいる面々は、それぞれの事情があって故郷にいられなくなった者ばかりで、彼女の気持ちの幾らかは想像が出来る。

 迂闊な事を聞いてしまったと、ユフィは後悔していた。
テーブルに額を擦り付け、うーうーと唸る。


「うえー……エアリスぅ……」
「うん。判ってる、わざとじゃないもんね。レオンも、それは判ってくれてるよ」
「……ん……」


 抱き付いて来たユフィを、エアリスはあやしていた。
頭を撫でて、背中を撫でて、柔らかな瞳が年下の仲間を見詰めている。
ソラも彼女に何かを言うべきだと思ったが、慰めれば良いのか、それ以前に何をどう言えば良いのかも見付からなくて、口を噤む。

 ディスティニーアイランド号は、故郷を失った若者達の集まりだが、故郷の話をするのがタブーと言う訳ではない。
しかし、故郷の記憶を口に出来るかどうかは、本人の心次第だ。
同郷であるクラウドとティファは、時折思い出話をしているようだが、シドによれば、彼等がそうした話をするようになるまでには、長い時間が必要になったと言う。
彼等の故郷は突如として失われ、二人は親類家族も皆失った。
戦によって故郷を失ったレオンも、クラウド達と同じなのだ。
楽しかった思い出さえ、今では辛い記憶を呼び起こすトリガーになってしまう。

 ソラは席を立って、部屋に戻ってるよ、とエアリスに言った。
後悔で震えるユフィを、ソラは何と言って慰めれば良いのか判らない。
それに、隣部屋にいる筈の彼女の様子も気になって、ソラはその場に留まっていられなかった。

 女部屋のドアを静かに閉じた後、ソラは隣の部屋の前で立ち尽くした。
其処にいるだろう女性の事が気になる───が、ノックをしても良いものか悩んだ。


(……一人でいたいのかも)


 女部屋を後にしたのだから、そう考えるのが自然だろう。
だとしたら、自分も今は部屋に戻って、彼女の事はそっとして置いた方が良い。

 そう思って踵を返そうとした時、キィ、と蝶番が小さな音を鳴らして、部屋のドアが開く。
え、とソラが捩り掛けた体を戻してみれば、薄く開いたドアの隙間から、蒼の瞳が此方を見ていた。


「……ソラ?」
「あ、……うん」


 呼ぶ声に、ソラは一瞬迷ったが、返事をした。
ドアがもう少し開いて、表情を失くしたレオンが其処に立っていた。


「……すまない。皆に悪い事をした。ユフィとエアリスさんに、悪かったと伝えて置いてくれると、有難い…」
「ん……その…レオンが謝んなくて良いよ。こっちが、その、えっと……」


 無神経な事を言ったから、と言おうとして、それは違うとソラは口を噤んだ。
ユフィは悪気があって言った訳ではないし、決して無神経でも無遠慮でもないのだから、この言葉は間違っている、と。
しかし、それならばレオンに何を言えば良いのか判らなくて、ソラは俯いた。

 早く部屋に戻った方が良かった、とソラは今更になって思う。
気まずくなるばかりな上に、感情を押し殺したレオンの貌を見ていると、胸の奥がずきずきと痛む。
しかし、レオンがこうして声をかけて来てくれたと言う事は、何か伝えたい事や思う事があるからではないだろうか。
それが詰る類の言葉であるとしても、あの場にいた自分には聞く義務がある、とソラは逃げたがる足を堪えて立ち尽くす。


「……その……ソラ、ちょっと…」
「何?」
「……入ってくれるか?」


 小さな声で告げられたレオンの言葉に、ソラは一瞬、その意味を理解出来なかった。
丸くした目で見つめていると、レオンはふいと背を向けてしまう。
ドアを開けたまま、奥へと消える彼女に、ソラはようやく「部屋に入って欲しい」と言われた事が判った。

 女性の一人部屋に入る事に、些か躊躇はあったものの、本人に誘われた───と言うよりも、頼まれる形であった事もあり、ソラはドアを開けて敷居を跨いだ。
ドアは閉めただけで鍵はそのままに、おずおずと部屋の中央まで向かう。
レオンはベッドの端に座っており、流石に其処に近付くのは憚られたので、ソラは部屋の中央にあったテーブルの前で足を止める。

 レオンの部屋は、綺麗に整えられていた。
ベッドは使われた形跡があるものの、ソラやユフィのように奔放ではなく、布団は片端が捲られているだけ。
服はチェストの上に畳まれており、エアリスから借りている服も、同じように畳まれて揃えられていた。
昨日の買い物の時に貰った袋は、ソファの上に綺麗に並べられていて、彼女の真面目さが伺える。

 はあっ、と息を吐くのが聞こえて、ソラはベッドを見た。
レオンは俯いて、膝の上で握った拳を震わせている。
息苦しそうな姿に、彼女が溢れて来る感情を堪えようとしているのが判った。


(……どうしよう)


 辛そうにしている彼女を見ているのが苦しくて、何とかしなくちゃ、とソラは思った。
躊躇していた足の重みを感じながら、ゆっくりと動かして、ゆっくりとレオンに近付いて行く。
と、その距離がテーブル一つを越えた所で、レオンが立ち上がった。


「レオ、」


 彼女の名前を呼ぶソラの声は、最後まで形にならなかった。
弾けたように床を蹴った彼女は、そのままの勢いでソラに抱き付く。
突然の事にソラは目を丸くして、頬に押し付けられる柔らかな感触の正体を悟った瞬間、顔から火を噴く。


「レ、レオンっ!ちょっ、えっ、」
「………っ」


 焦るソラに構う事なく、レオンの腕は強い力でソラを抱き締めた。
その腕が微かに震えている事に気付いて、はた、とソラの思考が冷静さを取り戻す。


「……レオン?」


 今度は名前を呼んだが、レオンは返事をしなかった。
ふるふると頭を振って、レオンはずるずるとその場に座り込み、立ったままのソラの肩に額を押し付ける。

 ソラは少しの間迷った後、柔らかな濃茶色の髪を撫でた。
いつも年上の仲間達に撫でられているのだが、自分が誰かを撫でると言うのは初めてで、ソラの手は酷く動きがぎこちない。
それでも、しがみ付くレオンの腕が、縋るように力を入れたのが判ったから、ソラは彼女の頭を撫で続けた。




 情けない、とレオンは思っていた。

 久しぶりに誰かと一緒に朝食を囲む事が出来て、嬉しかった。
ユフィやエアリス、ソラと一緒に囲んだ朝食は、賑やかで温かく、レオンを癒してくれた。
彼女達が海賊だと言う事を忘れた訳ではないが、誰もが自分の事を深く気遣ってくれているのが判ったし、昨日は酒場で絡まれた所を助けに来てくれた。
立場上、忘れてはならない猜疑心だが、いつまでも疑い続ける事は疲れるし、彼女達にも失礼だと思ったのだ。

 動物好きを他人に話したのも、これが初めての事だ。
ユフィとエアリスが自分達も動物が好きだと言ってくれたので、嬉しかった。
話の流れはごく普通のもので、何も可笑しな事はない。
だから、ユフィが訊ねた事も、決して悪気があった訳ではないのだと判っている。

 判っているが、どうしても湧き上がる感情を押さえる事が出来なかった。
嘗ての記憶を語る内、同じように蘇る記憶の中で笑っていた人々が、今は何処で何をしているのか知る事は疎か、生きているのかさえも判らない。
船の上で、時折頭を過ぎっては追い出していたものが、堰を切ったように溢れ出した。
情けなくもあの場所で泣き出しそうになって、そんな顔を見せればユフィが酷く傷付いてしまうのが判ったから、一人の部屋に逃げ込んだ。

 後でユフィに謝らなければ行けない。
その為にも、早く普通の顔をして、彼女達の下に行かなければ。
頭ではそう思っていても、心は思考と剥離して、体の奥が芯からずきずきと痛んで止まらない。
感情のままに涙が流れそうになって、しかし、そうすると酷い声で喚いてしまいそうだった。
此処でそれをやってしまえば、隣にいるユフィ達に聞こえてしまう。
耐え切れそうになくて、宿を出よう、とドアを開けようとした時だった。

 仄かに感じた人の気配に、そっとドアを開けると、自分を見付けてくれたと言う少年が立っていた。
無邪気に笑いかけては、手を繋いで自分を守ろうとしてくれた、年端も行かない幼い少年。
自分にはない強さを持った彼を見た瞬間、堪えていたものが一層大きく膨らんだ。

 部屋に招き入れた理由は、レオン自身も上手く説明できない。
彼を子供だと思ったからか、もっと単純に、消去法か。
ユフィやエアリスとは顔を合わせられなかったし、自分が酷い顔をしているのは判ったから、その状態でシドには逢えないと思った。
クラウドの事は、まだよく判らなかったし、彼とシドは同室で食事を採っていると言っていた。
行けば必然的にシドとも顔を合わせる事になるだろう。

 一人になりたいのなら、外に行けば良かった。
ソラにも声をかけずに、彼が立ち去った後で、部屋を出れば良かった。
それを待たずに彼に声をかけたのは、誰かに慰めて欲しかったからかも知れない。

 自分の半分の身長しかない少年にしがみついて、レオンは泣いていた。
ソラの肩口に額を押し付けて、溢れる雫が彼の服を濡らして行く。
頭を撫でるソラの手は、不器用だが優しく、シドや遠くにいる筈の父と同じように温かかった。




 レオンは声を出さなかった。
それに伴うように、ソラもじっと何も言わず、口を開く事はしなかった。
息が詰まって仕方がなかったが、自分以上にレオンが呼吸そのものを苦しんでいる事が判るから、ソラは耐え続けた。

 どれ程の時間をそうしていたか、立ち尽くすソラの足が少しばかり痺れを訴えた頃、すん、と小さく鼻を啜る音が聞こえた。
ソラが柔らかな髪を撫でる手を止めると、レオンはソラの肩に押し付けていた顔をゆっくりと持ち上げる。


「……ありがとう、ソラ。……すまない」


 レオンは手の甲で目許を拭いながら言うと、ソラから一歩離れた。
遠くなる距離に、ソラが彼女の手を握る。
レオンは濡れた瞳を瞬かせ、握られた手を見て、眉尻を下げて弱々しく笑った。


「もう大丈夫だ。すまない、情けない所を見せた」
「……別に、そんなの……」


 辛い事があったのだから、泣きたくなるのも当然だろうに、何が情けないのかソラには判らない。
だが、船の仲間達が、一番年下である自分に対しては、多かれ少なかれ格好をつける所があるのは判っていたから、きっとそれと同じなんだろうと思う。

 ソラはレオンをベッドまで連れて行った。
レオンの足下は少し覚束なかったが、ベッドまでは辿り着き、そのまますとんと腰を下ろす。


「えっと……水、飲む?俺、持って来るよ」
「……良いか?」
「うん」


 ソラは握っていたレオンの手を離して、小さなキッチンに向かった。
グラスに水を入れて持って行こうとして、思い立ってタオルを手に取る。
濡らしたそれをしっかりと絞って、グラスと一緒にレオンの下へ戻った。


「はい、これ。顔、拭くだろ?」
「…ありがとう」


 差し出した濡れタオルを、レオンは顔に押し当てた。
タオルに隠れたまま、レオンがゆっくりと息を吸い込み、静かに吐き出す。
しばらくそうして過ごした後、レオンはタオルを顔から離して、ソラを見て小さく笑った。
「大丈夫」と「ありがとう」が聞こえた気がして、ソラはくすぐったさと歯痒さで鼻頭を掻く。

 ソラの入れた水を、レオンは少しずつ飲み干した。
体中の水分が出てしまったように渇いていた喉に、冷たい水が沁み渡って行く。


「……もう昼か……」


 ぽつりとレオンが呟いて、ソラはそうみたい、と頷いた。
朝食の後、しばらくの雑談から、さらに時間が経っている。
時計を見た訳ではなかったが、窓の向こうから微かに聞こえる雑踏の声が、それを教えてくれた。

 ソラはレオンの隣に腰を下ろした。
人一人分のスペースを開けていたのだが、その距離がなんとなくモヤモヤとしている気がして、少しずつ距離を詰めてみる。
気付いたレオンが顔を上げて、ソラを見た。
がちっと固まったソラだったが、レオンは小さく微笑んだので、固まった肩から力が抜けた。


「……昼飯、行く?」


 小さな声でソラが訊ねてみると、レオンは悩むように少し首を傾けた。
一緒に食卓を囲む事に抵抗はなくとも、ユフィやエアリスと顔を合わせ辛いのだろう。

 一人にした方が良いかな、とソラは改めて考える。
声こそ上げる事はなかったものの、レオンの気持ちは幾らか発散されたようだった。
ソラが部屋に入った時とは違い、彼女がまとう空気も軽くなっているように見える。
ソラが部屋に入る前に感じていた、放っておけないと言う心配も要らない。
今度は、一人になって、涙で濡れた顔を洗って、気持ちの整理をつける時間が必要となってくるのではないだろうか。

 二人きりの空間は、とても静かだった。
レオンはお喋りな性格ではないようだし、ソラも今ばかりは賑やかにする気にはなれない。
ちら、とソラが隣を見遣ると、蒼灰色が此方を見ていた。
柔らかな光を宿す色に捉まって、知らずソラが固まっていると、レオンは小さく微笑んで言った。


「……ソラは優しいな」
「へ?」


 思いも寄らなかったレオンの言葉に、ソラはきょとんと目を丸くした。
ぽかんとした顔で見つめるソラの頭を、レオンの手が撫でる。


「優しくて、強さもあって。俺は少し羨ましい」
「へ?え?え?」


 レオンの言葉は、ソラに向けられていたが、独り言のようでもあった。
眩しいものを見るように、蒼の双眸が細められる。
それを見ている内に、ソラは胸の奥の鼓動が逸ると同時に、頭の芯がかぁっと熱くなるのを自覚した。

 ソラは蒼色から目を反らすと、蹲ってがしがしと頭を掻いた。
突然の少年の行動の意味が解らず、今度はレオンがきょとんと首を傾げた。


「ソラ?」
「……!」


 名前を呼ぶレオンは、ソラが謎の衝動に襲われている事に気付いていない。
しかし、彼女がソラの名を呼ぶ度に、ソラはその衝動に内側を打ち上げられる。


「は───腹減っちゃったから!俺、昼ご飯行ってくる!」


 衝動を振り切るように立ち上がって、ソラはベッドを離れた。
縺れる足でなんとかドアまで辿り着いて、部屋を出て行く。
其処までして、自分が酷く挙動不審な事をしてしまった事に気付き、慌ててUターンしてドアを開けた。


「あの、レオン、レオンもっ。落ち付いたら、飯食いに行きなよ。えっと、ひ、一人でも良いけど……ユフィとかエアリスとか誘っても良いし」
「…ああ。そうするよ」


 自分が何を言っているのか、ろくろく考える余力もなく、早口で喋るソラに、レオンはくすくすと笑った。
ソラなりに自分の事を心配し、ユフィやエアリスに対しても気後れする必要はないと言っているのが判ったからだ。
ありがとう、と音なく告げる柔らかな笑顔に、ソラはほぅっと胸を撫で下ろして、「じゃあね」とレオンの部屋を後にした。

 しんと静かな廊下に佇んで、ソラはふらりと方向転換した。
歩き出した足はのろのろとしており、何処に向かおうとしているのか、自分自身でも判らない。
ただ、胸の奥の鼓動だけが酷く煩く聞こえている事だけは確かだった。