空と海の境界線上 錯交編


 宿で働き始めたレオンの三日間の試用期間は、順調であった。
仕事の内容は、宿の受付、部屋までの案内、各部屋の掃除となっている。
他にも細かく柔軟な対応が求められ、一日目は覚える事ばかりで目が回ったが、雇用主と先輩も懇切丁寧に教えてくれ、トラブルもなく修了。
二日、三日目は団体客への対応で、ミスもあったが、先輩が上手くカバーしてくれた為、大きなトラブルになる事はなかった。

 四日目の夕方、シドはエアリスと共に、レオンが働く宿を訪れていた。
受付のあるフロントロビーの一角を借りて、今日の様子について訊く。


「昨日は団体客がいて大変だったな。今日は大丈夫だったか?」
「はい」


 シドの言葉に頷くレオンは、宿の従業員の制服を着ている。
私服を買って以来、専ら動き易い服装をしていたレオンだったが、制服はハウスメイドに似たものを着ている。
着崩す事無く、きちんと整えられた服装が、彼女の生真面目さを滲ませていた。

 宿のフロントロビーは、訪れる客層に合わせているのだろう、シド達が泊まっている安宿よりも遥かに広い。
当然、一部屋毎の値段も高く、ルームサービス等も行っていた。
働いている従業員の数も多く、レオン以外にも、住み込みで働いている者がいる。
そのお陰か、殆ど飛び込みで雇って貰ったレオンが悪目立ちする事もなく、彼女は職場に馴染めたようだ。

 昨日、一昨日に様子を見に来た時よりも、レオンの顔色は良くなっている。
団体客の波を終えて、今日は比較的ゆっくりと過ごせたお陰だろう。


「試用期間は昨日までなんだよね。今日も働けたって事は、これからも働かせて貰えるって事?」
「はい。昨夜、オーナーから当面宜しくと言われて」
「じゃあ、これで安心だね」


 良かった、と笑うエアリスに、レオンも頷いた。


「ま、大変なのはこれからだろうが、お前さんなら問題なさそうだな。少なくとも、真面目にやってりゃ、何の理由もなく突然クビにされるって事はないだろ」


 火のついていない煙草を指先で遊ばせながら、シドはさり気無く辺りを見回して言った。

 レオンが働くようになってから、シドは毎日、夕方に様子を見に来ている。
見ているのは、レオンの表情は勿論、宿の雰囲気や、泊まる客の顔を確かめる為だ。
この三日間で見る限り、宿は人の良いオーナーによって清貧が保たれているらしく、従業員からの評判も良い。
職場環境としては最高と言っても良いかも知れない。


(気掛かりがあると言えば、客の方だが……)


 シドは、レオンとエアリスが話に花を咲かせる傍らで、フロントを横切る客を盗み見た。
判り易く羽振りの良い格好をした男が、二人の女を侍らせながら部屋への階段を上がって行く。
同じ男を昨日も見たが、連れていた女は違っていた。
連れているのが商売女ならシドも深く気に留めなかったのだが、綺麗に着飾ってこそいるものの、表情に影のある女ばかりだったのが気になった。
そして、あの男の目が、度々レオンを追っている事にも、シドは気付いている。

 宿は上階に行くごとに上客が使っているらしく、働き始めたばかりのレオンは、二階より上には行けないと言う。
この三日間でレオンが彼の姿をフロント以外で見ていないと言う事は、恐らく、三階以上を使っている上客なのだろう。


(となりゃあ、仕事中に難癖つけられて部屋に連れ込まれる、なんて事も無さそうだが……気になるのは、他にも結構いるんだよなぁ)


 シドが見かける客の全てが、と言う訳ではないが、結構な確率でシドのセンサーに引っ掛かる者がいる。
エアリスやティファ、ユフィを育ててきた経験から、自分が思っているよりも過保護になり勝ちだと言う事は、自覚があった。
レオンに対しても、同じように見ているのも間違いない。
しかし、それを引いて考えても、この宿の客層は良いとは言えない。


(船に乗るまで、何もトラブルがなくても、半月はかかるだろうな。その間、何事もなけりゃ良いんだが…)


 予定よりも長くなった陸への滞在は、今日の夜に終わる。
宿も既にチェックアウトし、今頃はクラウドが先頭を取って、船への荷積みをしているだろう。
シドとエアリスも、この後は港へ直行し、明日の朝の出発に備える予定になっている。
だから、レオンと会話が出来るのは、今日が最後だった。

 丁度、エアリスとレオンの話題は、明日の出発についての話に移っていた。
エアリスは別れを惜しむように、レオンの隣に座って、彼女の頭を抱える様に抱き締める。


「レオン、元気でね。無理したら駄目だよ」
「はい。エアリスさんも、お元気で。皆さんも」
「うん。また逢えたら良いね」
「そうですね。また、何処かで」


 恩も返せませんでしたし、と言うレオンに、そんなの良いよ、とエアリスは言った。
どうしてもと言うのなら、これからも元気で過ごしてくれれば良い、と言うエアリスに、レオンが小さく頷く。

 抱擁を終えて、レオンは受付横の大きな置時計を見た。
そろそろ客の出入りがふえる時間と気付いて、腰を上げる。


「すみません、そろそろ仕事に戻らないと」
「ああ、そうだな。長居して悪かった」
「いいえ。シドさん、色々有難う御座いました」


 ぺこりと頭を下げるレオンに、シドはむず痒くなった頭をがしがしと掻く。
そんなシドに、エアリスがくすくすと笑った。


「ま、なんだ。お別れっつっても、俺達は明日の朝までは港にいるから、何かあったら遠慮せずに来れば良い。船の場所は覚えてるか?」
「はい」
「場所は変わってねえし、船番で誰か一人は起きてるから、大声出せば聞こえる筈だ」
「でも、夜はあんまり出歩いちゃ駄目だよ。レオン、綺麗なんだから。色んな人に狙われちゃうからね」
「大袈裟ですよ。でも、気を付けます」


 エアリスの言葉に、レオンはくすくすと笑って言った。
彼女の危機意識を育てるには、少々時間が足りなかったようだ、とシドが苦い顔をする。
こればっかりは仕方がないよ、とエアリスも眉尻を下げて苦笑した。

 それじゃあ、とシドとエアリスも腰を上げ、外へ向かおうとした時だった。
「あの、」とレオンが小さな声で二人を呼び止める。
何か言い忘れた事があったのかと、二人が振り返ると、レオンは気まずそうな表情で、ぼそぼそと小さな声で訊ねた。


「あの……ソラ君は……」


 名を呼ぶ事も憚られるような小声に、二人の間で“何か”あった事は、彼等を知る人間には直ぐに判った。


「……多分、船だな」
「…そうですか」


 シドの返答に、レオンは俯いて唇を噛んだ。
耐えるように制服のスカートを握るレオンに、エアリスが小さな声で訊ねる。


「ソラ、此処、一度も来てない?」
「………」


 レオンが働いている宿の事は、ソラも知っている。
場所もシドが教えており、顔を見に行ってやれ、とも促していた。
しかし、俯いてしまったレオンの表情を見れば、彼がレオンが働き始めてから一度も顔を合わせていない事が判る。

 四日前、レオンの働き口が決まった日、夕食の後に二人が何か話をしていた事は、全員が知っている。
その為にあの日、シド達はソラとレオンを残して、一足先に宿に入ったのだ。
会話の内容までは知らないが、男部屋に戻って来たソラは、言いたい事は言った、と言っていた。
結果は彼の表情を見れば判る。
レオンの決意は頑なで、ソラも彼女の意思を尊重するべきだと理解していた。
だが、子供ではなくとも、簡単に気持ちを割り切ってしまえる程成熟していないソラは、あれからレオンの顔を見る事が出来ず、宿から仕事場へと移ったレオンの所に足を運ぶ事もなかった。

 レオンが最後に見たソラの姿は、泣き出しそうな顔を隠すように、顔を背けて歩く彼の背中だった。
瞼の裏に焼きついたように離れないそれを思い出す度に、レオンは胸の奥がずきずきと痛む。

 痛みに耐えるように唇を噛むレオンに、エアリスが努めて優しい声で言った。


「帰ったら、声、かけてみるよ。貴方の事、気になってるのは確かだから」
「…あ…いや、その…そんな、申し訳ないです」
「お話、したいんでしょう?」
「……いえ。助けてくれてありがとうと、それだけ…伝えて下されば」


 そんな事は自分で伝えれば良い、とシドは思ったが、二人の間のぎこちなさを感じ取ってまで、それを口にする気にはなれなかった。
ただ、この微妙な距離感と蟠りを残したまま、ディスティニーアイランド号を出発させるのは、育て親として気が引ける。


(だからって、何も判ってないガキじゃあないからな……)


 難しいもんだ、と思いながら、シドは宿を後にする。
じゃあね、と手を振るエアリスに、玄関先まで赴いたレオンが手を振った。



 三日や四日で仕事に慣れる事が出来れば、苦労はしない。
それでも、目に見えて性質の悪い客がいない分、今は随分と恵まれているのだろうと、レオンも判っていた。
時期によっては、今の比ではない程の客で部屋が埋まる事もあるのだ。
現在は、部屋は埋まっているものの、観光客が少ない閑散期だと先輩従業員から聞いた。
だからレオンに支払われる賃金も繁盛期に比べると低く設定されており、船に乗るまでの金額を稼ぐのに、半月前後がかかると言う計算になったのだ。
これが繁盛期なら、一週間もあれば稼げると言う。
短時間で稼ぐならその方が良いだろうが、仕事と言うもの自体が不慣れなレオンからすれば、時間はかかっても、手を休める程度の時間がある方が有難い。

 とは言え、泊まり込みのレオンの仕事は、夜半まで続く事が多い。
手際の悪さもあって、自分のノルマが終わるまでに、他の従業員の倍は時間がかかってしまうのだ。
教えてくれる先輩従業員のお陰で、一日事にノルマ終了の時間は早くなっているが、まだまだ思う通りには行かない。
お陰で、寝泊まりに宛がわれた部屋に戻る頃には、日付も変わり、くたくたになって泥に沈むように眠るのが常だった。

 今日もレオンは、部屋に戻ると、直ぐにベッドに倒れ込んだ。
体重を受けてぎしっとスプリングが軋んだ音を鳴らす。
戻って来るバネの弾力を感じながら、レオンは深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。


「ふう………」


 このまま眠ってしまいたい───が、制服を皺だらけにする訳には行かない。
レオンはのろのろと起き上がり、制服の背中のリボンを解いた。
エプロンの肩紐を下ろして外し、ブラウスも脱いでしまおうと、首下のボタンに手をかけた時だった。

 カタン、と小さな音が窓から聞こえて、目を向ける。
窓にはカーテンはなく、雨戸だけが設置されていた。
その雨戸は、今朝から開けたままにしていた為、今は電気の点いた部屋が、宿の裏庭から丸見えになっている。
この状態で着替える訳には行かない、と遅蒔きに気付いて、レオンは雨戸を閉める為に窓へと近付く。
ボタンを外す前で良かった、と思いながら、雨戸に手をかけた所で、ガラス向こうでぴょこぴょこと動いている特徴的な影に気付いた。


「……ソラ?」


 若しかして───と、閉じたままのガラスの前で名前を呼んでも、影からの返事はない。
レオンは窓の鍵を外し、そっと押し開けた。
錆かけた蝶番が小さな音を立てて、窓向こうの暗闇に潜む影が慌てたように揺れる。


「ソラ、か?」
「!」


 もう一度名前を呼んでみると、今度は反応があった。
ピクッと動いたツンツン頭が、もぞもぞと蠢いて、そっと此方を振り返る。
窓から外へ漏れる電灯に映し出された幼い輪郭に、レオンの頬が綻んだ。


「ソラ」
「…う、うん」


 もう一度名前を呼ぶと、蹲っていたソラが膝を伸ばした。
ぱたぱたと服の土埃を払い、落ち付きなく視線を右へ左へ彷徨わせながら、とろとろと窓へと近付いて来る。

 四日ぶりに見る少年に、レオンは胸の奥に抱えていた痛みが、溶けるように消えて行くのを感じていた。
現金だな、と思いながら、レオンは窓を大きく開ける。


「入るか?」
「い、良いよ。すぐ帰るからさ」
「ん……そうか」


 ソラの言葉に、レオンの心に忘れかけた寂しさが再来する。
しかし、四日前の別れが最後ではなかった事が嬉しくて、レオンの頬は緩んでしまう。


「そんな所に忍び込んで、誰かに見付かったら、不審者扱いされるかも知れないぞ。此処はそう言うのに少し厳しいようだから」
「うん。でも、表はもう閉め切っちゃってたから」


 レオンの仕事の時間が終わるよりも前に、宿の玄関は閉め切られている。
夜間に出かける、或いは戻って来る客もいるので、フロントロビーの受付に待機している者はいるが、玄関は宿泊客に対してのみ開かれる。
宿泊していないソラは、恐らく、頼み込んでも開けては貰えないだろう。

 だから裏に回った、と悪びれる様子もなく言うソラに、大胆だな、とレオンは笑う。
これからは、そんな大胆さを自分も見習うべきだろう。
今まで見守ってくれた人達は、明日の朝にはこの街を去り、海を渡って何処か遠くへ行ってしまうのだから。

 だからこそ、ソラは此処へ来てくれたのだろう。
声をかけてみる、と言っていたエアリスに感謝して、レオンは窓枠に凭れかかった。


「外は寒くないか?」
「ううん。昨日と変わんない」
「でも、海風は冷たいだろう?」
「慣れてるから平気だよ」
「そう言うものか」
「うん」


 ソラはゆっくりと窓の傍まで近付くと、レオンが凭れている横に腕を乗せた。
背伸びをして腕に顎を乗せて、質素なレオンの部屋を見渡す。


「…此処がレオンの寝るとこ?」
「ああ」
「高そうな宿屋なのに、ちょっと狭くない?」
「従業員が使うんだから、こんなものじゃないか?」


 基準が判らないけど、とレオンは付け足して、ふぅん、とソラは気のない反応を漏らした。

 この宿屋に備えられた宿泊室は、各階ごとに広さが違う。
二階はリーズナブルな値段なので、部屋数が多い代わりに、規模は普通の安宿と大差ない。
壁やドアの厚みは確りとしているので、セプライバシーは十分確保されている。
上客が泊まる三階から上は、二階の部屋の倍の広さになっており、部屋の内装も凝ったものになっていた。
そんな宿泊室に比べると、泊まり込みの従業員が使う部屋は、猫の額程度の広さしかない。
しかし、ベッドと小さなテーブル、簡素なクローゼットは備えられていた。
ほぼ丸一日を仕事に費やし、殆ど寝るだけの部屋だと思えば、十分な設備だろう。

 ソラは一頻り部屋を眺めた後、ちら、と隣の女性を見遣った。
蒼灰色が自分を見ている事に気付いて、また目線を彷徨わせた後、


「んー…と……その……仕事、どう?」


 言葉を探すように、間を空けて訊ねたソラに、レオンは素直に答える。


「順調、かな。初めての事ばかりで、間違う事も多いし、皆には迷惑をかけているけど……良い人ばかりで、丁寧に教えてくれる」
「……変な事する客とか、いない?」
「今の所は。シドさん達にも注意されたし、気を付けているよ。少し手のかかるお客さんは、先輩達が相手をしてくれているし」
「そっか。じゃ、良かった」


 レオンの言葉に、ソラがほっとしたように頬を綻ばせた。
心配してくれていたのだと判って、レオンの胸がぽかぽかと暖かくなる。


「あの……」


 腕に顎を乗せたまま、ソラが小さな声を漏らした。
何か言いたい事があるのだろうかと、レオンは黙って続きを待つ。

 ソラは、ちら、とレオンを見上げて、また逸らす。
右へ左へと目線を彷徨わせながら、ソラは頭を掻いたり、鼻頭を擦ったりと忙しない。
窓の向こうの世界で、ソラの足下も、こつこつと地面を蹴って中々落ち着かなかった。

 ソラがようやく言葉を絞り出したのは、二人の間に沈黙が降りてから五分後の事。


「……ごめん、な。レオン」
「……?」


 ぱちり、とレオンは目を丸くして瞬きする。
何か謝られる様な事をされただろうか、と。
謝るのならば、寧ろ、彼等の厚意を無碍にする形で下船を決めた自分ではないだろうか。


「…どうして謝るんだ?」
「なんて言うか…まあ、色々……避けちゃってた感じになってたし」


 レオンがソラ達と過ごした宿を離れてから、毎日のように、レオンはソラの事を気にしていた。
最後に見た背中を思い出す度、胸が痛んだ所為だ。
最後にもう一度、ソラの笑った顔が見たくて、けれど仕事の忙しさもあり、自分から彼に逢いに行く時間を作れなかった。
だからソラが来てくれるのを待っていたのだが、ソラが来る気配はなく、このまま別れになるかと思っていた所だった。

 ソラとてレオンの事は気掛かりで、慣れない仕事で辛い思いをしていないかと心配だった。
シドが彼女の様子を見に行く時、「一緒に行くか」と誘われて、行こうと思った事もある。
けれど、逢えば四日前のように我儘を言ってしまいそうで、行くに行けなかったのだ。
明日には船を出すと言う今夜になって、エアリスからの「今日が最後になっちゃうんだよ」と言う発破に背を押され、ようやく来る決心がついた。
その勢いのまま、宿の裏庭まで潜り込んだソラだったが、閉まった窓に見えたシルエットを見付けて、思わず固まっていた。


(だって、服脱ぎ始めたんだから、そりゃ固まるだろ…)


 誰に対してか判らない言い訳をするソラ。
そんな彼を救ったのは、彼の存在に気付いたレオンである。
彼女が窓を開けて名前を呼んでくれなければ、ソラは彼女に気付かれる前にと、裏庭を後にしていたに違いない。

 意図してレオンとの接触を避けていたと言うつもりはなかったが、結果的にそんな形になっていた事を、ソラは少なからず後悔していた。
仲間達は勿論、レオンにも心配させていた事や、もっと早く逢いに来ていれば、今よりももっと時間を取って話が出来ていたのに、と。

 目を反らしたまま、気まずそうな顔をして唇を尖らせるソラに、レオンの頬が緩む。
ツンツン頭をくしゃりと撫でると、ようやく、無邪気な光がレオンを見た。


「私の方も、逢いに行けば良かったな」
「良いよ。レオンは仕事があるだろ」
「夕方には少し時間が取れるんだ」
「その時間、シド達が来てたんだろ?」
「ああ。でも、私が皆の宿に行く事も出来たと思うんだ」
「それで仕事に遅れたりしたら、怒られるよ。試用期間だったんだから、そんな事したら追い出されてたかも知れないぞ」
「うん……そうかも知れないな」
「だからレオンは気にしなくて良いんだよ」
「…ああ。ありがとう」


 ソラの気遣いに甘えて、レオンは彼の言葉に頷いた。
そんなレオンを見て、ソラも満足したように笑う。
眩しい太陽を思わせる笑顔に、ああ、これが見たかったんだ、とレオンは一人言ちた。


「明日は早いんだろう。船に戻らなくて大丈夫か?」
「平気。やる事はもうやったし。出そうと思えば、今直ぐにでも船は出せるんだ。真っ暗だから、よっぽどの時じゃないとやらないけど」
「夜の海は、港でもやはり危ないか」
「そりゃあね。浅瀬なんかも見えなくなっちゃって、乗り上げちゃったりする事もあるし。灯りが一杯ある港なら、夜でも漁船や連絡船が不自由しないように、誘導用の光を作ったりしてくれるんだけど、そんなの滅多にないし。沖に出たら結局は錨を下ろすし」
「夜通し船を動かす事はないのか?」
「殆どないよ。何かに追っ駆けられてる時は、ちょっと走らせる事もあるけど。海の中の事が判んなくなるから、夜は走ってもあんまり良い事ないんだ」
「じゃあ……予定になかった事でも起きない限り、船は明日の朝まで動かないのか」
「うん。だから、一晩中ここにいても平気なんだ。俺は明日の朝に船に戻れば良いだけだから」


 そう言って、ソラは窓枠に寄り掛かった。
レオンの明日の仕事を思えば、自分は適度な所で引き揚げた方が良いと、ソラも判っている。
けれど、あと数時間もすれば───自分が此処から立ち去ってしまえば、それが別れとなるのだと思うと、動く気になれなかった。
レオンもそんなソラに「帰った方が良い」とは言わない。
同じように窓枠に寄り掛かり、ソラとの四日ぶりの雑談は続いた。

 他愛もない話が二転三転とした頃だった。
コン、コン、と部屋のドアをノックする音が聞こえて、二人は慌てて声を潜める。


「やば……」
「すまない、ソラ。窓を閉めるから…」
「うん、ごめん」


 この時間にレオンの部屋に来客があった事はない。
そもそも、ソラやシド達と言った船の面々を除けば、先輩の従業員やオーナーが、仕事について困った事はないかと確認に来る位だった。
それも普段ならば、こんなにも遅い時間に来る事はない。
いつも静かな筈のレオンの部屋から話し声がすると気付いて、怪しまれたのかも知れない。

 レオンが窓を閉めている間に、ソラは裏庭の茂みに紛れ込んだ。
裏には灯りがないので、暗闇の奥に入ってしまえば、部屋から見付かる事はないだろう。
そのまま裏庭を出る事が出来れば、見付からずに船まで戻れる筈だ。
最後の逢瀬が随分と呆気なかった事に少しの苦味を感じながら、それでも彼が此処まで来てくれた喜びを胸に秘めて、レオンは窓の鍵をかける。

 窓の向こうにソラの姿が見えない事をもう一度確認して、レオンはドアに駆け寄った。


「すみません。うたた寝をしていたもので…」


 当たり障りのない言い訳をしながらドアを開けると、雇い主である宿のオーナーが立っていた。


「いや、此方こそすまないね。もう寝ているだろうとは思ったんだが……ん?着替えずに眠っていたのかい?」
「あ……はい。すみません、ついうっかり」


 ソラがいたから着替える暇がなかったとは言える筈もなく、レオンは眉尻を下げた愛想笑いで誤魔化した。
オーナーは特に怪しむ様子もなく、疲れているのに悪いね、と詫びる。
その人好きのする表情に、レオンは奇妙な違和感を感じ取った。


(……?)


 オーナーの顔は、この四日間で見慣れたものとなっている。
年齢は知らないが、顔の皺の数からして、初老は終えているだろう。
よく気の利く人物で、従業員からの信頼も厚く、新人のレオンにも色々と気を遣ってくれた。
人を見る経験が豊富なシドやエアリスからしても、彼は信頼できる人だとお墨付きを貰った程だ。
そんな彼の笑顔が、今日は酷く薄っぺらい。

 世話になっている人間に対し、そんな印象を抱いてしまった事に、レオンは自己嫌悪に陥った。
ソラ達との蟠りが溶けて以来、追い出していた疑心暗鬼が甦っている。
きっと彼も仕事で疲れているのだ、疲れれば人の顔は大なり小なり暗くなるものだ───と浮かぶ疑心を拭い、レオンは努めて平時と変わらない表情を作った。


「もう一度寝る時には、きちんと着替えてからにします」
「構わないよ。多少、皺になった所で、替えの服はあるから。それより、これを渡しておくのを忘れたと思ってね」


 これ、と言ってオーナーが懐から取り出したのは、麻の小袋だった。
紐止めで封が成されたそれは、試用期間だった三日の間、仕事終わりに毎回渡されていたものだ。
中身は日払いの給料である。

 差し出された小袋を、レオンはきょとんとした顔で見つめていた。


「あの……次にお給料を頂くのは、一週間後ではありませんでしたか?」


 昨日までは、雇用の試用期間だった為、本来よりも安い給料で日払いを頼んでいた。
そうすれば、直ぐにクビにされるとしても、少しは見入りがあるだろうとシドが提案したのだ。
オーナー側も了承し、試用期間のみ、当日中に賃金の支払いが約束されていた。

 しかし、今日はレオンが働き始めてから四日が経っており、正規雇用と言う形になった筈。
これからの給料は、他の長期の従業員達と同じように、週末に支払われる事でまとまっていた。
聞いていた話とは違う展開に、戸惑うレオンが手を出さずにいると、オーナーの方からレオンの手を取って、小袋を握らせる。


「ボーナス───と言うか、そうだな。契約料みたいなものだと思ってくれればいいよ」
「契約……?」
「当分、うちで働いて貰う為の前金だ。後の給料から天引きしているって事もないから、それは安心して良いよ」
「は…え、あの……で、でも、」
「レオン君、急ぎでお金が要るんだろう?」
「そ、それはそうですが……」
「なら、足しにすると良い。それじゃあ」
「あ、ちょ、」


 困惑するレオンを余所に、オーナーはついと背を向けてしまった。