空と海の境界線上 憧憬編


 レオンが再びディスティニーアイランド号に乗船した事で、彼女は当初からの希望目的地であると言う、バラムまで共に過ごす事となった。
先の街での出来事も含め、どうにも警戒心が薄いレオンを、一行が放って置けなかったと言うのもあるが、何よりも彼女自身がソラ達を信頼する事が出来たと言う事が大きい。
助けて貰った恩、街で買い揃えた服や宿泊費等、返しても返しきれないものだと彼女は言っており、それも今後の乗船を希望した理由と言えるかも知れない。

 理由は何であるにしろ、ソラにとっては嬉しい事だ。
先の港街で、レオンが船を降りる可能性を考えては、落ち着かない気持ちになっていたソラである。
船が再びレオンを乗せて出港した翌日、彼女は朝食の席で「当分の間、どうぞ宜しくお願いします」と改まって頭を下げた。
何もそんな固い事しなくても、とソラやユフィは言ったが、やはりレオンとしては、自分はこの船にあって部外者であると言う意識は変わらないのだから、無理もあるまい。
実際に、この小さな海賊船に置いて、彼女は仲間ではなく一時の乗客として乗っている訳だから、何かと遠慮し勝ちになるのも自然な事ではあった。

 しかし、客分であるからと言って、船室で常に大人しく過ごしていられる性格でもない事は、既にわかり切った事だ。
世話になる事への挨拶を終えた後、レオンは早速、何か自分に出来る仕事はないかと訊ねた。
乗船賃の代わりにはならないだろうが、拾って貰った事も含め、役に立ちたい、と言う彼女の気持ちは強く、ソラが気にしなくて良い、普通にしていて良い、と言っても聞かなかった。
この辺りはシドやクラウドと言った年嵩のメンバーの方が、彼女の気持ちを理解し、幾つかの雑用を頼む事になった。
船員の服の洗濯の他、甲板の掃除や、破れた帆の補修も、その時々の状況によって手伝って欲しいと言うと、レオンは直ぐに引き受けた。

 実際に仕事を初めて見ると、彼女の世間知らず振りが折々に垣間見えたが、それについては誰もが口を噤んだ。
誰に対しても、目上の者に対しては特に礼節を重んじる節がある上に、立ち居振る舞いからして、彼女は一般人とは思えない節がある。
家事一般をやった事がない、と言う人間は決して珍しくはないが、濡れた服の絞り方さえも最初は判っていなかったのだ。
レオン自身も、自分がそれを知らない事は、一般的に言って奇妙な事であると言う自覚はあるのか、エアリスに洗濯のやり方を尋ねた時は、酷く言い辛そうにしていた。
レオンは様々な出来事に対して、警戒心が鈍い所が散見されているが、それでも自分の立場や身分と言うものを明示できない程度の立場を持っている事は自覚しているらしい。
惜しむらくは、それを隠している事が露骨に表に出ている事だが、これは詮無い事だろう。
寧ろ、世にはそれすら隠す事を忘れて危険を招く貴族の子息が少なくない事を思えば、懸命に隠そうとしているレオンの判断は、褒めても良いかも知れない。

 レオンの仕事振りについては、日々を過ごす内に少しずつ上達していった。
縫物は幾らか手に覚えがあったようで、針糸の使い方は問題なく、帆の補修に必要となる技術を教えれば、それを辿って綺麗に縫い合わせて見せた。
細かい事が苦手なソラやユフィ、クラウドよりもしっかりと縫ってくれるので、破れた帆の補修はしばらくレオンの仕事になりそうだ。




 見張り番をクラウドと交代したソラは、空いた小腹を埋めるべく、甲板上の船室へ向かった。
元々其処は食事の場、会議の場として使われている為、何かと人がいる事が多かったのだが、最近は何もなくとも其処に人が集まるようになっている。
ユフィ等は入り浸っていると言っても良い程で、就寝や見張りの時以外は、大抵船室で一日を過ごしているようだった。

 ドアを開けて船室に入ると、焼き立てのパンの香りがした。
腹が減っていたソラには大打撃になる程の良い香りで、ソラはすんすんと鼻を鳴らしながら、匂いの発信源であるキッチンを見る。
シドが大枚を使って誂えたと言うキッチンには、中型船にしては少々豪華に竈が備えられており、料理担当のティファが存分にその機能を活用していた。
お陰でディスティニーアイランド号の船員は、少々長い船旅であっても、備蓄さえしっかりしていれば、陸にいる時と遜色のない豪華な食事───焼き立てのパンやピザ、時にはデザート類も───を楽しむ事が出来るのだ。

 ソラがふらふらと竈の方に近付いて行くと、丁度竈の蓋を開ける人の影があった。
ティファ程ではないが長い髪をポニーテールに括り、飾り気のないエプロンをつけて、ミトンをつけて竈の中の鉄板を取り出しているのは、レオンである。
鉄板の上には、綺麗な焼き色のついたパンが乗っており、それを見たソラは思わず、


「美味そう〜」


 涎を垂らしながら言えば、気配に気付いていなかったのだろう、レオンが驚いた表情で振り返った。
見張られた蒼い瞳がソラを見付けて、ふわりと和らぐ。


「ソラか。良いタイミングだな、丁度焼き上がったんだ」
「ソラはいつもタイミングが良いのよね。嗅ぎ分けてるみたい」


 狙ったようなタイミングで入って来たソラに感心したように言ったレオンに、ティファがくすくすと笑いながら言った。
「オレ、犬じゃないよ」と言いつつ、ソラはレオンが持っている鉄板に乗っているものをまじまじと見詰める。
パンはシンプルな丸い形で、少々歪になっているものもあるが、どれも綺麗に焼き上がっていた。
どれにしようかな、とソラが吟味するように眺めていると、レオンが鉄板を隠すようにソラから離す。


「あんまりしっかり見ないでくれ。形を作る時に、ちょっと失敗してしまったんだ」


 そう言って恥ずかしそうに言うレオンに、ソラはぱちりと瞬きを一つ。


「そうなの?別に変な形なんてしてないと思うけど。ってか、そのパン、レオンが作ったの?」
「作ってみたいって言うから、私が教えたの」


 スープの仕込みをしながらティファが言う。
レオンはその隣に立ち、調理台に鉄板を置いて、パンを一つまな板へ移す。
パン切り包丁でパンを真ん中から切り割ると、断面をティファに見せた。


「どうだろう」
「これ貰うね。……うん、美味しい!大丈夫、上手く出来てるよ。初めて作ったとは思えない位」
「良かった。ありがとう。ティファが丁寧に教えてくれたからだよ」


 師事して貰ったティファから好評価を貰い、レオンは嬉しそうに頬を赤らめた。
それを見たソラが、レオンのエプロンをぐいぐいと引っ張り、


「レオン、オレも食べたい。レオンが作ったパン食べたい〜!」
「私ので良いのか?ティファが作ったパンの方が美味しいぞ」
「ティファのパンはいつも食べてるもん。美味いのも知ってる。でも、オレはレオンが作った奴が良い!」


 甘えるようにねだるソラの言葉に、レオンは困ったように眉尻を下げる。
しかし、表情は戸惑いと言うよりも照れており、ティファは髪をアップにしている事で見えるレオンの首が、ほんのりと紅潮しているのを見付けた。
余りに正直に気持ちを訴えるソラを、レオンは少々持て余しているようだったので、ティファが助け舟を出す。


「折角の焼き立てだし、今の内に食べなきゃ勿体ないもんね。レオン、ソラにあげるパンを取ってあげて」
「あ、ああ。判った」
「で、それを半分に切って。ソラ、ジャムは何が良い?マーガリンにする?」
「オレンジジャムが良い!」
「はーい。座って待ってて」
「判ったー」


 粗熱が取れて来たパンをレオンが切っている間に、ソラは食卓テーブルへ。
ティファは冷蔵庫からオレンジジャムのビンを取り出し、レオンが切ったパンに塗った。

 テーブルへと届けられたパンに、ソラは早速齧り付く。
食事のメニューにも利用するので、ティファは比較的よくパンを焼いてくれるが、まとめて作り置きしている事もある為、焼き立てのパンにありつけるタイミングは限られている。
今日は運が良い、と思いながら齧ったレオンの手作りのパンは、初めて作ったとは思えない程に良い出来だった。
焼き立てと言う事もあり、中もふわっとしていて、少し塩気があるのがジャムと合わさって丁度良い。
ソラは美味い美味いと言いながらパンを食べ進めた。

 ギ、と蝶番の鳴る音がして、ドアの方を見ると、シドが入って来た。
シドは船室に拡がる匂いに気付くと、きょろきょろと室内を見回し、ソラが食べているパンを見付ける。


「良いモン食ってるな。一個貰うぞ」
「駄目だよ、オレのパンなんだから───って、あー!」


 ソラが拒否する前に、シドはパンを一つ浚って齧る。
ソラがこの世の嘆きのような声を上げれば、シドはその喧しさに顔を顰め、


「なんだよ、えらく大袈裟じゃねえか」
「レオンが作ったパンなのにぃいいい!」
「あん?へえ、お前さんが作ったのか」


 浚ったパンをまた一口齧って、シドはキッチンに立っているレオンを見て言った。
レオンはティファの手伝いにと野菜を刻んでいた手を止めて、シドを見て頷く。


「はい。ティファに教えて貰って、さっき出来た所なんです」
「ふぅん。上出来じゃねえか」


 シドの言葉に、レオンの頬が僅かに赤らむ。
褒められる事に慣れていないのか、視線を彷徨わせるレオンであったが、シドはそんな彼女を気にせず、皿の上に残っているパンを見て、


「結構美味いぜ。もう一個貰うか」
「駄目!これオレの!」
「なんだよ、ケチケチするなって」


 相手が船長でも子供でも、遠慮なく手を伸ばして来るシドに、ソラは皿を自分の体の影へと隠す。
これ以上は絶対に譲らないと睨むソラに、シドは揶揄い易い気配を察知してニヤニヤと笑っていたが、基本的にキッチンのある船室で騒がれるのは、其処を預かるティファが厭う事であった。


「シド、あんまりソラを揶揄わないの。パンならまだこっちにもあるから。ソラ、ジャムの追加はいる?」
「いる!」
「レオン、シドのパンを切ってあげてくれる?」
「判った」
「ああ、良いぜ、そんな手間しなくても。そのままこっち寄越してくれりゃ十分だ」


 シドに言われて、レオンは少し迷ったようにパンとまな板を見比べていたが、結局切るのは止めた。
新しい皿を取り出して、残っているパンの中で比較的形が良いものを見繕い、テーブルへと運ぶ。

 ソラがオレンジジャムをパンに塗り足す傍らで、シドは素のままでパンを齧る。
ティファが必要なら使ってとマーガリンをテーブルに置くが、シドはそれをちらと見ただけだった。


「そのまんまでも美味いな。お前さん、パンは作った事があったのか?」
「いえ……」
「全くの初めてだって。それでこんなに美味しく作れるんだから、凄いわね」
「ティファが教えてくれるからだよ」
「ふふ、ありがとう。私も教え甲斐があるわ。ご飯の用意を手伝ってくれるのも凄く助かるし」


 ティファのその言葉に、レオンがほっとしたように胸を撫で下ろすのが見えた。
ディスィニーアイランド号に乗って以来、何か船のクルーに面倒を見て貰って来たレオンからしてみれば、ようやく一つ恩返しが出来たという気分なのかも知れない。

 改めて船に乗ってから、船上生活での細々とした雑事を仕事として担うようになったレオンは、少し前からキッチン周りの手伝いも始めた。
ディスティニーアイランド号に乗っている船員の数は、決して多くはないものの、その半分は中々の健啖家だ。
そんな彼等を支える為の毎日の食事は、殆どティファが作っており、時にエアリスが手伝っていたのだが、それでも毎日作るとなると大変だ。
保存の利くものは作り置きしているが、それもあっと言う間になくなってしまう事も少なくなく、作り足しは幾らしておいても足りない位だ。
その為、ティファが一日中キッチンに引き籠っていると言うのも珍しくはない。
料理をするのはティファにとって趣味にも近いので、没頭する事に否やなはないのだが、毎日の仕事となると、やはり人手が欲しくなるのも事実。
其処へレオンが「手伝わせて貰っても良いか?」と言ったのは、有難い事であった。

 レオンは料理の経験はと言うと、殆ど無いも同然であったのだが、元々が器用な性質であるのか、ティファが教えるとするすると飲み込んで行った。
こつこつとした作業も苦ではない性格らしく、大量の野菜を刻む単調な作業も黙々と熟してくれる。
火の扱いも、初めこそ焦がしたり、火力が弱過ぎたりと言う事もあったが、次第に慣れて行った。
レオン自身も出来る事が増える事が実感するのが嬉しいのか、ティファに積極的に調理方法のコツ等を訊いており、野菜炒めや簡単な焼き物なら自分で作れる程になっている。


「あとのパンは、夕飯に───ああ、その前に、レオンも一つ食べてみない?自分で味見もしてみなくちゃ」
「それじゃあ一つ。……ちょっと表面が固いか…?」
「大丈夫、大丈夫」


 船上生活の中で、何度かティファが焼いたパンを食べているので、それと比べた感触に首を傾げるレオン。
しかし、ティファはこれまでに何度もパンを作っているが、レオンは今日が初めての経験である。
理想の通りに行かないのは当たり前の事とティファにも宥められ、先ずは食べてみてと言われて、パンをちぎって口に入れる。


「…うん。食べれる」
「ふふ、ちゃんと美味しく食べれるよ。ね、ソラ、シド」
「うん!レオンのパン、美味いよ!」
「でもシンプル過ぎだな。次はベーコンでも入れて作ってくれ」


 手放しで嬉しそうに言うソラと、ちゃっかり“次回”をリクエストするシドに、レオンはほんのりと頬を赤らめて笑う。
それを見たソラが、便乗するように手を上げて言った。


「オレ、チーズとソーセージが入ってる奴が良い!」
「うーん……作れるかな……」
「基本の丸パンが綺麗に焼けたんだもの、大丈夫よ。また同じパンを作って、具は切って挟んで、サンドにするのも良いし」
「成程。良ければ、また作る時に教えて貰えるか?」
「勿論よ」


 ソラとシドのリクエストに応えたい気持ちから、自らも次の機会を申し出るレオンに、ティファは迷う事無く頷いた。
まだ一人では思うように作業をする自身のないレオンは、ティファの反応にほっと安堵する。

 レオンは調理台の上にあるものを一通り片付けると、スープ鍋を混ぜていたティファと場所を交代した。
鍋底に沈んでいる具を掬うように、ゆっくりと中を掻き混ぜる。
ティファは冷蔵庫を開けて野菜を取り出し、手際よく切り刻んで行く。
その手付きが何処となく上機嫌である事に気付いたのは、シドだった。


「えらく機嫌が良いな、ティファ。厨房担当に人が増えたからか?」
「そうね。だって毎日作るのって大変なのよ。うちは食べ盛りが多いんだから」


 港から航海に出る時には、十分な余裕を持って食料等を乗せているが、船上生活はいつ何が起こるか判らない。
海も空もいつだって気紛れなものだから、航海が予定通りに進む事は滅多になく、余分に積んだ備蓄さえも尽きてしまう事も珍しくはなかった。
略奪目的の海賊船と戦闘になる事もあるし、時には海軍に見付かって追い回される事もある。
海軍に追われる事については、略奪を目的としないディスティニーアイランド号にとって甚だ不本意な事だが、海賊旗を掲げている以上は避けられない事だった。
そう言ったトラブルが日常茶飯事であるから、台所を預かるティファは、クルーが腹を空かせて倒れないようにと、毎日の食による栄養管理を行いつつ、食料等の管理も仕事として請け負っている。

 しかし、思う通りに食糧の管理が出来る事は少ない。
前述のトラブルは勿論だが、思う以上によく食べる面々がこの船には多いのだ。
成長期真っ盛りのソラは勿論、クラウド然り、ユフィ然り。
シドも若い面々程ではないが、大工仕事をした時や、トラブルに見舞われた後にはやはりエネルギー補給の為によく食べる。
船員を飢えさせない為にも、野菜の皮や葉は勿論、肉についていた骨や、魚の頭も無駄には出来ない。
それでなくとも、船員がよく食べるので、その量を作るだけでも一仕事であった。
ディスティニーアイランド号の厨房担当を担うティファは、毎日のように頭を捻りながら、クルーの為の料理を作っているのである。


「レオンが手伝ってくれるから、私がやる事が半分で済むもの。一人だと、野菜を切りながら鍋を焦がさないようにしなきゃいけないから、手が足りないのよね」
「すまない、そんな時に料理を教えて貰ったりして。私がいる事で、反ってティファの邪魔になっていないのなら良いんだが……」


 ティファが台所で日々をどんなに忙しなく過ごしているか、此処数日で具に見て来たレオンが、鍋を混ぜながら詫びる。
ティファはそんなレオンに首を横に振り、


「全然、邪魔になんてなってないよ。うちの船、台所を任せられる人って本当に少ないの。エアリスに手伝って貰う事はあるけど、彼女は彼女で仕事があるし。摘まみ食いする人もいるしね」
「んぐ」
「お酒を飲み始めると止まらない人もいるし」
「……」
「レオンはそう言う心配がないから、凄く安心するの。このまま一緒に厨房担当になって欲しい位」
「そ、そうなのか。いや、でも私はリンゴの皮も剥けないし、やっぱりまだまだ役に立っているとは……」


 ティファの言葉に嬉しそうに頬を赤らめつつも、レオンは真面目な顔で首を横に振った。
そんなレオンにティファはくすりと笑いつつ、スープ鍋の中身の色をちらと見て、


「レオン、胡椒を振って、ぐるっと混ぜたら味見をしてみて」
「判った。ええと、胡椒は……」
「上の棚。右側の方にある筈」


 ティファに言われた通り、レオンはキッチン上の吊戸棚を開け、胡椒のビンを取り出した。
蓋を開けて軽く振り掛け、ぐるりとレードルで混ぜ込んでから、小皿を取ってスープを少しだけ注ぐ。
舐める程度の量のそれを口に含んで、うーん、と首を傾げる。


「よく判らないな……」
「薄い?」
「そんな感じがする。余り味がしない」
「じゃあもうちょっと胡椒を入れて、また味見して。レオンが良いかなって思う位までやってみて」
「ああ」


 ティファの指示の通り、レオンは胡椒を少しずつ振り掛けては味見を繰り返す。
何度も飲んでいると、段々と舌が麻痺して来たので、途中でティファにも味を見て貰った。
大丈夫、とティファが言うと、胡椒は戸棚に仕舞って、鍋を掻き回す作業を続ける。

 そんな二人を眺めているのは、パンを食べ終わったソラとシドだ。
皿の片付けしなくちゃ、でも今は邪魔かな、とキッチン横のシンクを見ながらソラが考えていると、カチリ、と傍らで小さな音が聞こえた。
ゆらゆらと煙が揺れ始めたのが視界の隅に映って、シドが食後の一服に煙草を吸い始めたのだと知る。


「シド、窓開けないと煙くなるよ」
「っと……そうだったな」


 シドは真後ろにあった船室の窓の鍵を外し、少しだけ隙間を開けた。
天井に向かって立ち上っていた煙草の煙が、出口から外へと逃げて行く。

 シドは肺に送り込んだ煙をゆっくりと吐き出しつつ、調理場に立つ二人を眺めながら言った。


「レオンの奴も、大分此処での生活に慣れたみてえだな」
「うん。皆と喋るのも、結構楽な感じになってるよな」
「まーな」
「シドにはまだ“さん”付けしてるけど」
「いらねえっつってんだけどなぁ……」


 先の港を出るまで、レオンは何処となく余所余所しい態度があった。
最初は全く知らない人間としての遠慮が、ソラ達が海賊だと知ってからは警戒もあったのだから、無理もない事だろう。
ソラに対しては、船長と知らずに乗組員の少年と思って一度接した事や、ソラ自身が改まった態度で話しかけられるのは嫌だと主張した事もあって、他のメンバーよりも砕けた雰囲気で接していたが、それでも距離感が存在していたのは否めないだろう。

 しかし、彼女と逢ってから最初に寄港した街で過ごした日々と、出港寸前の一悶着を経て、レオンはソラ達が危険な海賊ではない事を知った。
船に再度乗る事は彼女自身が辞退を考えていたようだったが、成り行きから再び乗船する事になった後は、ソラやユフィの後押しもあって、改めて目的地まで身を寄せる事を決めた。
それ以降、固い印象の多かったレオンの言葉や態度は砕けるようになり、かなり素の口調が出るようになった。

 一方で、判り易く目上の者であると言う礼儀的な意識は抜けないようで、シドに対しては未だに改めた言葉遣いが続いている。
シドは「呼び捨てで良い」「楽に喋れば良い」と言っているのだが、どうやら染み付いている習慣らしく、中々ラフには出来ないようだ。
シド自身は堅苦しい事は苦手なので、早い内に慣れてくれれば良いんだが、と思ってはいるが、


「…ま、良いトコの出のようだし、仕方ねえか」


 シドの呟きは、傍らにいるソラに聞こえるか聞こえない程度の、小さなものであった。

 ────レオンが何処の国の生まれで、どう言う立場にいたのかは、未だに誰も知らない。
ソラはクラウドが言ったように、レオンがある国の王族か、それに準ずる立場にいたのではないかと思っているが、確かめた事はなかった。
予想をしているクラウドからして、下手に突いて悪戯に刺激をするなと言われているのもある。
立場のある人間であればこそ、今のレオンは迂闊にそれを表に出す事が出来ない状態であると言える。
その理由も内情も、ソラ達には判らない事で、気にならないと言えば嘘であるが、かと言って問い詰める事も出来ないだろう。
レオンはソラ達の事を信頼してくれるようになったが、それとこれとは別の話なのだ。

 ソラは二枚の空の皿を重ねて、シンクへと運んだ。
薄い洗剤をしみ込ませたスポンジで皿を洗っていると、船室と甲板を繋ぐドアが開けられる。


「シド、いる?」


 顔を覗かせたのはエアリスだった。
シドは煙草を噛んだまま、ひらりと手を上げて返事をする。


「おう。どうした」
「海軍の船が見えるって、ユフィが言ってる。あと、ちょっと風が可笑しいの。クラウドは波も変って言ってた。行く方向、考えた方が良いみたい」
「了解、直ぐ行く」


 言葉通り、シドは直ぐに席を立ち、エアリスと共に甲板へと向かった。
ソラは皿の泡を流しながら二人を見送り、


「オレも行こうかな」
「私も。レオン、悪いけどサラダの盛り付け、頼んで良いかな」
「ああ」
「ごめんね、有難う」
「何かあったら、レオンにも直ぐに伝えるから」


 ソラは食器を片付けると、駆け足で船室を出て行った。
ティファもエプロンを外し、作りかけの夕飯をレオンに預けて、ソラの後を追う。

 一人残ったレオンは、預かった料理作りを再開させつつ、シドが開けて行った小さな窓の向こうを見た。
小さな水平線の向こうに広がる海は、レオンの目から見て、いつもと違っているようには見えない。
船の揺れと言うのも、レオンには大きな揺れか小さな揺れか程度の差しか判らず、判る事と言ったら、天気が曇りつつあると言う事だけだ。

 刻まれたレタスを大きなサラダボウルに入れながら、レオンは小さく呟く。


「……海軍か……俺の事でないなら、良いけど……」


 誰もいない船室で、その呟きは響く事もなく消える。
荒事にならなければ良いが、と言うレオンの細やかな願いは、残念ながら聞き届けられる事はなかった。




 海賊にも色々な海賊があるように、海軍にも色々なものがある。
海賊船の拿捕に命を捧げているような者もあれば、面倒事を避けて見付けていない振りをする者、海賊と取引を行って何某かの収益を上げている者等、その方向性も様々である。
海賊船を目の敵にしているとしても、略奪行為を行わない平和的な海賊なら見逃す者も皆無ではなかった。

 が、多くは基本的に、海の秩序を守る為、それを争うとする者は排除しようとする。
ディスティニーアイランド号が今回の航海の最中に遭遇したのも、そう言ったタイプであった。
下手に海軍と戦闘行為を初め、相手を負傷させたとなれば、また海賊としての悪い箔がつけられるので、ソラ達は出来るだけ海軍との遭遇は避けるようにしている。
が、此方に相手をする気はなくとも、向こうから撃って来るのはよくある事だ。
今回は問答無用で撃って来たので、ある意味では方向性が判り易く、判断に迷わないで済んだ。
海軍戦が大砲を撃って来る頃には、ディスティニーアイランド号は既に逃げる準備を整えていたので、風を捉えていそいそと逃げ進める───筈だったのだが、海軍戦の発見と同時に、近付いていると予測されていた嵐に追い付かれてしまった。

 初めは弱い雨から始まり、風が強まるにつれて、徐々にそれは大きくなって行った。
高波が立ち上がる程の大時化になった頃には、海軍船の事など気にしている余裕はなく、ディスティニーアイランド号は嵐を抜ける為に大わらわとなっていた。


「ティファ、アンカーは!?」
「投げたわ!ソラ、ロープ引くから手伝って!」
「クラウド、取舵だ!」
「ちょっと…待て、重い……っ!く…!」
「ティファ、俺がロープ引くから、お前はクラウドの所に行け!」
「了解!」


 シドの指示に合わせて、ディスティニーアイランド号の甲板をクルー達が駆け回る。

 嵐が運んで来た風は、一時は海軍船から逃げる為の味方となってくれたが、此処まで荒れれば既に敵だ。
海軍船の大砲の射程範囲から外れて間もなく、荒れる海に耐えるべく準備を始めた。
しかし、執拗に海軍船に追われた所為で、準備は遅れに遅れ、波が高くなってからようやくメインマストの帆を畳んだ。
其処からあれよあれよと激しくなる嵐の中、ソラ達は濡れ鼠になりながら、残る帆を畳もうとしているのだが、強風によって大きく張った帆は簡単には畳めない。


「ううう〜…っ、重いぃい……っ!」
「泣き言言ってねえで腹に力入れろ、ほら行くぞ!せぇ、のっ!」
「ふんぐうううっ!」


 シドの号令に合わせ、ソラは丹田に力を込めて、両手でしっかりと握ったロープをある限りの力で引っ張る。
ロープから伝わる帆の抵抗感は変わらないが、それでも帆は少しずつ降りていく。

 右舷のロープを引っ張るソラとシド。
その反対側の左舷では、ユフィとエアリスが同様に帆を畳む為のロープを引いていたが、エアリスの前でロープを握っているユフィの顔色は頗る悪かった。


「ユフィ、大丈夫?まだ動ける?」
「きもちわるいいいいいけどだいじょうぶうううう」


 海賊船生活をしながら、ユフィは重度の船酔い体質である。
平時の穏やかな波ですら、時に症状に見舞われる彼女にとって、嵐の中の船と言うのは地獄であった。
帆と繋がったロープを引っ張りながら、ユフィはそのロープによって体勢を支えられている状態になっている。
少しでも気を抜いたら、昼に食べたものが出てきそうになるのを、彼女は必死で堪えていた。

 自分の状態を誤魔化すように唸りながら、ユフィは必死でロープを引いている。
しかし、万事の状態でも簡単には畳めない状態の帆と戦うには、今のユフィには甚だ無理があった。


「シド、ソラでもいいから、ユフィと代われる!?」
「ちょっと待て!今放せねえ!ティファ、そっちどうだ!?」
「無理!ユフィ、もうちょっとだけ頑張って!」
「クラウドー!」
「もう少し待て!こっちも舵が持って行かれそうなんだ!」


 クラウドはティファの助力を借りながら、なんとか舵を切って船主を波の方向へと向けた後、それを維持する事に全力を注いでいた。
船員の中で、最も腕力のあるクラウドとティファが二人がかりでなんとか舵の向きを維持している状態である。

 ユフィが気力を振り絞って、ロープを強く握る。
と、その手を庇うように、大きな手がロープを握った。
ユフィが顔を上げると、雨に濡れた濃茶色の髪の隙間から、ブルーグレイの瞳が此方を見下ろしている。
甲板上に乗せていた物資や道具等を船内へと運ぶべく、駆け回っていたレオンであった。
彼女はエアリスから「着ておいて」と渡された救命胴衣を身に着けている。


「レオン!」
「代わろう、ユフィ。これを引っ張れば良いんだな?」
「う、うん。レオン、大丈夫なの?」
「少なくとも、今のユフィよりは」
「うう……確かに……」


 レオンの言葉に、ユフィはぐうの音も出ない。
腹に力を入れて踏ん張ろうとすれば、その腹の中で渦巻いているものが押し出されてしまいそうなのだ。
かと言って、力を入れずにロープにしがみついているだけでは、何の為に此処にいるのか判らない。

 ユフィはレオンと役割を交代し、甲板上に残されている物資を運ぶ係に回った。
じっとしても激しい揺れに見舞われるのだから、今だけは動き回っている方がまだ気が紛れる。
甲板まで落ちて来る高波に足を浚われないように踏ん張りながら、タルや箱を船内へ運び込み、動かせない重いものはロープで括りつけて行く。

 レオンはエアリスと目を合わせて頷き合うと、「せーの、」と掛け声をかけてロープを強く引いた。
船首とメインマストを繋ぐロープに仕掛けられた帆が下りて行く。
幸いにも風は僅かに和らぎ、帆の張りも緩んでいた。
今の内に、と言うエアリスに頷いて、レオンは次のロープを握った────その時だった。

 ドン、と言う強い衝撃を受けて、船全体が大きく浮き上がる。
舵を握っていたクラウドとティファが、舵輪の抵抗感が一瞬だけ完全なゼロになった事を感じ取った瞬間、ディスティニーアイランド号の船底は海面から僅かに浮き上がっていた。
船を浮かせる程の、何か大きなものが衝突したのだ。
その衝撃は甲板に集まっているクルー達にも襲い掛かり、ロープを引き踏ん張っていたソラ達の体勢ががくんっと崩れた。


「うわ!」
「いってぇ!」


 ソラとシドが握っていたロープが大きく波を打ち、小柄なソラの体が放るように持ち上げられる。


「ソラ!」
「うわわわわ!」


 そのまま海の向こうまで放り投げられそうになったソラだが、ロープを手首に巻き付けていたお陰で、彼の体が飛ぶ事はなかった。
宙をブランコのように浮遊する中、ソラは腕を伸ばし、マストと左舷を繋ぐロープ網を掴む。


「ソラー!無事かー!?」
「なんとかー!」


 振り子運動から脱出して、ソラはロープ網にしがみついてほっと息を吐いた。
が、場所はメインマストの頂上に程近い位置である。
船が並で揺さぶられる中、こんな高台にいるのは危険だ。
ソラは手足を滑らせないように慎重に、且つスピーディーに、網を下りて行く。

 その様子を、レオンはロープを握った態勢のまま見ていた。
あわや船から放られるかと思ったソラが、無事に船上に留まった事に安堵するが、予断のならない状況は変わらず続いている。


「レオン。帆をたたんだら、貴方はユフィと一緒に船内に行って。まだ海は荒れるから、今よりずっと危なくなるわ」
「───判った。そうする」


 自分だけ安全な場所になんて───と言い掛けて、レオンは止めた。
今の状況でさえ、レオンに出来る事は幾らもなく、船に慣れていない自分が一番の足手まといである事は明白だ。
今ですら人手がないから止む無く手伝って欲しいと言われたようなものなのだから、これ以上の働きが出来ないのであれば、自分は大人しくしているべきだろう。
船酔いが悪化しているユフィが休めるように、船内の環境を可能な限り整える事の方が、まだやってやれる事、かもしれない。

 これが最後、とレオンとエアリスが残る帆のロープを掴む。
幸いにしてまだ風は弱く、今なら直ぐに畳める筈だと、二人が強くロープを引いた瞬間、巨大な高波が船を襲った。


「うわああああっ!」
「きゃーーーーーっ!」


 水飛沫と悲鳴が響く中、レオンのロープを握っていた手がずるりと滑る。
しまった、と思った時には、船が大きく傾き、レオンの体を重力から掬い上げるものはなく、彼女の体は甲板に叩きつけられた水の力によって、船の外へと押し出されてしまった。


「レオン!」
「レオンーーーーっ!」


 エアリスの呼ぶ声と、遠退いて行く体を捕まえようとユフィが船の端から腕を伸ばす。
レオンも宙でもがいた腕を必死に伸ばしたが、二人の距離は余りにも遠く、互いの手を掠める事も出来なかった。

 レオンの視界の中で、泣き出しそうなユフィの顔が、スローモーションで映る。
ロープを握った体勢のまま、エアリスも手を伸ばしていた。
けれど、レオンがどんなに足掻いても、体は彼女達から遠ざかって行くばかり。

 折角、助けて貰ったのに。
助けてくれたのに。
そんな思いで、雨雲に覆われた空がじわりと滲んだ時、


「バカ、ソラ!待て!!」


 シドの止める声と共に、綺麗な青空がレオンの前に飛び込んで来た。

 船から数メートルの海面で、水飛沫が立ち上る。
ごぼごぼと口の中に入って行く水に呼吸を奪われて、レオンは見えない目を瞠った。
酸素を求めて思わず口を開けてしまったから、其処から酸素が大きな気泡に包まれて水の中へと浚われる。
それがほんの数ヵ月前に感じた冷たい感触と重なって、レオンの意識はブラックアウトした。



 振り回されるような渦の中、ソラは捕まえた体を離さないよう、夢中で抱き締めていた。
と同時に、このままではいけない、と微かに冷静さが残る頭が悟る。
早く海面に出なければ、ともみくちゃにされる体を叱咤して、ソラは海面に向かう方向を探した。
僅かにきらりとした光を見付けると、抱えるものを落とさないように心掛けながら、必死に足をばたつかせる。

 皮膜のように伸し掛かる重い水面が弾けて、見開いた目に降り頻る雨と黒雲が映った。


「ぶはあっ!はっ、はーっ、はーっ…!」


 準備など出来る暇もなく飛び込んだ所為で、酸素が足りなくて死ぬかと思う所であった。
息苦しさで痛みさえ訴え始めた肺に、ソラは必死で酸素を取り込む。
その傍ら、ソラは腕に抱えている人がぴくりとも動かない事に気付いた。


「レオ、レオン。レオン!しっかりして!」


 海に落ちた時から、レオンは全く動いていない。
悪い想像が奔る中、ソラは必死にレオンの名前を呼んだ。
俯き加減で水面に沈みそうになっているレオンの頭を持ち上げて、上向きにさせる。
すると、数秒の間を置いた後、レオンは咳と共に水を吐き出した。


「レオン!」
「……っ、……っ…、」


 良かった、と思わず表情が綻んだソラであったが、レオンの瞼は固く閉じられている。
海に落ちた時の衝撃で意識が飛んだのかも知れない。
どうしよう、とソラは補助の手を求めて辺りを見回すが、


(ヤバい。船、あんなに遠くに行ってる)


 未だ続く嵐の中で、船は遠く波の向こうを進んでいた。
船尾から細いロープが海に向かって伸びているのが見えるが、恐らくはあれに浮輪でも括ってあるのだろう。
しかし、それをソラが捕まえるには、余りにも船との距離が開き過ぎている。
落水してから海面に出るまでの間に、かなり波に流されてしまったようだ。

 助力を求める事は出来ないと諦めて、ソラはもう一度辺りを見回した。
幸運にもぷかぷかと浮かび流れて来る流木を見付けて、ソラはそれがまた流されて行かない内にと、レオンを抱えて必死に水を掻く。
なんとか捕まえた流木は、幸いにも太く軽く、浮きの代わりに使えそうだった。
一先ずレオンを流木に引っ掛け上げ、ソラもそれに捕まる。

 嵐はまだ収まる気配はなく、船はどんどん遠退いて行く。
どうしよう、と泣きそうになったソラは、傍らで気を失う人物を見て、ぎゅっと唇を噛み締めた。