空と海の境界線上 憧憬編


 嵐が去った後には、憎らしい程の青空が広がった。
もっと早くに晴れてくれたら良かったのに、と思うソラの気持ちなど知りもせず。

 ディスティニーアイランド号は、嵐の最中にすっかり見えなくなり、ソラは流木に捕まったまま、数時間を過ごした。
この間にレオンが目覚めなかったのは、不幸中の幸いと思うべきだろうか。
目覚めればパニックになるのが否めないだけに、そう考えた方が良いかも知れない。
しかし、 気を失ったままである為に、彼女は自分の体を揺らす波に抵抗する力を持たず、何度も流木から落ちて流されそうになった。
このままで過ごしていれば、いずれ彼女の体は海の底へと沈んでしまうだろう。
そうなった時、ソラに彼女を助ける事が出来るのか、そうしようと思うだけの力が残されているのかも、保証はなかった。

 嵐が過ぎるまで、レオンの体を支えながら、根気強く待った。
荒波の中ではどんなに泳いだ所で進めないし、向かうべき方向も判らない。
じっとしている事は苦手なソラだが、シドやクラウドから、こう言う事態に陥ったら安全が来るまでじっと待て、と口酸っぱく言われていた事を思い出したのだ。

 かくして嵐が過ぎて、ソラはようやく、自分の向かうべき方角を見付ける事が出来た。
漂流していた方角に、小島を発見したのだ。
何処かの大陸の端か、未開の島かも判らなかったが、少なくとも海を漂流し続けるよりはマシだと、ソラは流木を押して泳いだ。
幸いにも、波の流れは小島の方へと向かっている。
その流れが変わらない内にと、ソラは懸命に水を蹴った。

 ソラが見付けた小島の沿岸まで着いた時には、空は夕焼け色に変わっていた。
何時間を泳ぎに費やしたのか、考える事も出来ない。
沿岸まで来ると波の力も殆ど借りれなくなったので、ソラは流木に捕まった状態で休みながら泳ぎ進めた。
そうしてようやく、ソラの身長で足が届く深さの場所まで辿り着き、ソラはレオンの体を背負って、真っ白な浜辺を踏んだ。


「……やっと、……着い、……た、……」


 そう呟いた後、ソラはばったりと倒れ込んだ。
乾いた細かい白砂が砂埃を噴き上げて、また地面に落ちる。


「つ……つかれた……でも、…着いた……良かった……」


 これでもう溺れる事はない、とソラは数時間振りに長い呼吸を吐き出す。
遠泳にしても遠い距離を、流木に捕まりながらとは言え、よくぞ泳ぎ切ったと自分を褒め湛えたい気分だ。
実際、それ位はしても当然の事だと言われる程の事をソラは行っている。
お陰で水を蹴り続けた足は棒のようだし、冷たい海水の所為で体は冷え切っていて感覚が鈍い。
途中で疲れに負けて沈まなかった方が不思議だ。

 ソラにそれだけの行動力と気力を与えたのは、背中に負ぶった女性である。
レオンの為にも、此処で諦めてはいけない、泳ぐ事を止めてはいけないと思ったから、ソラは最後まで泳ぐ事が出来たのだ。
浜辺に倒れ込んだ今でも、首筋にかかるレオンの吐息を感じて、本当に良かった、と思う程に、彼女の存在はソラの大きな原動力となっている。


(でも、このままって良くない、よな。このままだと夜になっちゃうし……)


 冷えた体も、濡れた服も、無防備な浜辺で倒れているままと言うのも、何もかもが良くない。
せめてもう少し休める状態まで持って行かなければ、と思うのだが、島への上陸で最後の気力を使い果たした所為で、ソラは今の姿勢から起き上がる事も出来なくなっていた。

 うーうーと唸って体を起こす努力をしてみる。
少しだけ眠ったら体力は回復するだろうか。
でも此処は危ないかも……と動かない体にもどかしさで悩んでいると、背中の人が小さくむずかる声が聞こえた。


「う…ん……」
「……レオン?」


 起きた?とソラが彼女の名を呼ぶ。
肩越しに僅かに見える彼女の顔を見てみると、額に張り付いた前髪の隙間から覗く睫毛が、ふるりと震えて持ち上がった。


「……ソ…ラ……?」


 まだ薄ぼんやりとした蒼の瞳が、近い距離でソラを見詰め、確かめるようにその名を呼ぶ。
けほ、と小さな咳をするレオンの体の下から、ソラは這うように抜け出して、俯せているレオンの体をゆっくりと抱え起こした。


「レオン、大丈夫?」
「あ、ああ……痛…っ…!」
「あんまり動かない方が良いよ。海に落っこちた時に、何処か痛めてるかも知れないし」
「……海、に……そうか……」


 ソラの言葉に、レオンは自分の身に何があったのか、思い出す事が出来たようだ。
冷え切って力の入らない下半身の原因を理解して、同時に、どうして自分が生きているのかと言う事も悟る。


「…ソラが、助けてくれたのか」
「うーんと、まあ、うん。そんな感じになるのかな」
「そうか……」


 助けたと言って良い程、しっかりと助けられる事が出来たのかと言われると、どうにも返事に困る気がして、ソラはもごもごと返した。
それでもレオンにとっては助けて貰った事に変わりはない。
レオンは、両腕の力でなんとか体を起こすと、砂浜の上に座り込んだ格好で、自分の背を支えてくれているソラを見て言った。


「ありがとう、ソラ。また助けてくれて」
「い、いや、別に……あはは」


 面と向かって告げられた感謝の言葉に、ソラは無性に照れ臭くなった。
赤くなった鼻頭を掻く少年のはにかんだ笑顔を見て、レオンの口元も微かに綻ぶ。

 ふう、と一息吐いて、レオンはきょろきょろと辺りを見回した。
広がるのは足跡一つない真っ白な浜辺と、後ろには夕焼け色の大海原。
浜辺の向こうには鬱蒼とした森が広がっており、薄暗いその向こうがどうなっているのかは、全く判らなかった。
浜辺に座り込んでいるのは自分とソラの二人だけで、先の思い出した記憶と合わせて、レオンは眉根を寄せる。


「あの、ソラ……此処は、一体何処なんだ?他の皆は?」
「んーと……」


 尋ねるレオンの表情に、隠すまでもない不安の色が滲んでいるのを見付けて、ソラは何と言おうか少し迷った。
不安にさせない為に嘘を吐くのは簡単だったが、それこそ簡単にバレてしまうような嘘だ。
レオンの方も、まさかそんな嘘に騙されてくれる程単純ではないし、逆に嘘を吐いたソラの為にと、余計な気遣いをさせてしまうかも知れない。
はっきりと現状を口にする方が良いだろう。


「船から落ちてから、嵐が収まるまで、たまたま流れて来た木に捕まって、どうにか凌いで。その間に結構流されちゃったみたいでさ、船も何処に行ったか判んなくなって。取り敢えず、この島が見えたから、こっちに来たんだ。さっき泳ぎ着いたばかりだから、まだよく判んないけど。多分、無人島とかだと思う」
「無人島……」
「多分だけど。シド達が言うには、昨日の海の辺りって、小さな島が幾つも散らばってるんだってさ。でも、人がいる所はあんまりないって言ってたから」
「…そう、なのか……」


 俯くレオンの表情は暗い。
状況を思えば無理もない事だ。
ソラは慰められないかと考えたが、良い言葉は思い付かず、沈黙を誤魔化すように、濡れた頭をがしがしと掻いただけだった。

 潮の匂いを孕んだ風が海岸に吹き、二人の濡れた体がぶるりと震えた。
思わず肩を縮こまらせて、二人は顔を見合わせる。


「と、取り敢えず、ちょっと移動しよう。暗くなるし、此処にいたら風邪引くよ」
「そうだな。よっ……、と…っ」


 レオンは膝に手を突きながら、歯を食いしばって足を立てた。
両の足でなんとか立った所で、ふらふらと足元が揺れたが、転ばずには済んだ。

 レオンが自分で歩けそうだという事を確かめて、ソラもほっとした気持ちで、自分も立ち上がろうとする。
が、片膝を立てた所で、その足首が鉛のように重い事に気付いた。
気合でなんとかなるだろう、とぐっと体を起こして立ち上がりはしたが、一歩を踏み出そうとすると足の裏が砂浜に吸い付いたように動かず、つんのめって転んでしまう。


「うわぷっ!」
「ソラ!」


 砂浜に顔面を沈めるようにして突っ伏してしまい、ソラの顔は砂まみれになってしまった。
倒れた拍子に舞い上がった細かい砂の粒子が、目や鼻、口の中にまで入って来て、ソラは顔だけを起こして、ぺっぺっと砂を吐き出す。


「うえっぷ、砂食っちゃった…」
「ソラ、大丈夫か。何処か怪我でもしているんじゃないか?」


 起き上がれないソラを心配して、レオンが言ったが、ソラは起き上がりながら首を横に振る。


「大丈夫、ケガはしてないよ」
「しかし……」
「疲れちゃったんだよなぁ……ずっと泳いでたから」
「あ……」


 尻餅をついて、思うように動かない足をマッサージするように撫でながら呟くソラ。
それを聞いてレオンは、自分が気を失っている間、この少年が一人で頑張っていたのだと言う事を改めて悟った。

 浜辺で目を覚ますまで気を失っていたレオンには、ソラがどれ程の頑張りの末に此処まで辿り着いたのか、想像する事も難しい。
しかし、嵐の中で海に落ち、気を失った人間を抱えて泳ぎ続けるなんて、簡単に出来る事ではない。
レオンを見捨てなかったが為に、ソラが必要以上に体力気力を使った事は確かだ。


「…すまない、ソラ。私が海に落ちた所為で、こんな目に遭わせて…」
「え。い、いや、別にそんなの。オレが勝手に飛び込んだだけだし、レオンが謝る事じゃないよ」


 苦い表情で謝るレオンに、ソラは慌てて首を横に振った。
だがレオンの表情は簡単には晴れず、ソラの草臥れて棒のように動かない足を見て、ぎゅっと両手を握る。


「本当に、すまない。助けて貰ったばかりか、お前一人にこんな苦労をさせて……」
「だ、だから良いんだってば。オレが勝手に追っ駆けたんだもん」
「………」
「その後の事だって、別にレオンに悪い所なんてないよ。あんな状態で海に落ちたら、オレだって気絶しちゃうだろうし、それに、レオンがいたから、オレ、頑張れたんだ。絶対レオンを死なせたくない!って思ったから、此処まで泳げたんだ。オレ一人だったら、途中で疲れて泳ぐの止めちゃってるよ」


 実際に、ソラがレオンを追って海に飛び込んだのは、衝動的な行動だった。
嵐に揉まれる船の上で、甲板から放り出される彼女の姿を見た瞬間、ソラの体は考える暇もなく飛び出した。
後ろからシドの止める声があったように思うが、よく覚えていない。
目一杯強く床を蹴って船を飛び出し、なんとかレオンを捕まえてから、海に落ちた。
その後、海を漂流する中で、あの時に浮輪でもロープでも掴んで行くべきだったのだと思ったが、時既に遅し。
運良く見付けた流木が無ければ、ソラが気力を振り絞って泳ぐまでもなく、嵐の中で二人とも海の底に沈んでいただろう。

 そしてソラがこの島まで泳ぎ着く事が出来たのは、確かにレオンと言う存在があったお陰だった。
彼女を助けようと海に飛び込み、その後も彼女を死なせたくないと思ったから、気を失ったままの彼女を必死に支えて嵐をやり過ごすことに集中できた。
これがソラ一人で海に落ちたのなら、離れて行く船を追い駆けようと、荒波の中を無理に泳いでいたかも知れない。
自分が無謀な事をしたら、レオンを死なせてしまう───そう思ったから、ソラは冷静な行動を選択する事が出来たのだ。

 とは言え、それはソラの気持ちの事である。
レオンにしてみれば、自分が船から落ちたばかりに、と言う責任は逃れようのないものであった。
申し訳なさに唇を噛みちぎりたい程の衝動に駆られるレオンであったが、今此処でそんな事をしても、何の意味も無いのだと言う事を、辛うじて冷静が残る頭で理解する。

 レオンは、もう一度立ち上がろうと膝を立て、懸命に足に力を入れようとしているソラの肩に手を伸ばす。


「ソラ、無理をしないでくれ。私がソラを運ぶから」
「え───わっ!」
「くっ……!」


 レオンの言葉に、どう言う事、とソラが尋ねる暇はなかった。
レオンの両手がソラの脇に差し入れられると、ぐんっ、とソラの体が持ち上げられる。
小柄とは言え、それでも自分の身長の半分程はあるソラの体を、レオンが抱え上げていたのである。


「よっ…、と」
「!!」


 レオンは持ち上げたソラの体を、子供を抱くように、背中と尻を支えながら腕に抱いた。
落とさないように気を付けながら、楽に抱えられる体勢を探している。
が、ソラの方はそれ所ではない。

 突然抱き上げられた事にも驚いたし、レオンに自分を抱き上げられるだけの腕力がある事にも驚いたが、それよりも、腹に当たる柔らかい感触だ。
まだ幾らも乾かない濡れた薄手のシャツの下から透ける、たわわな乳房が、抱き上げられたソラの下腹に押し付けられている。
ソラが少しでも身動ぎをすると、レオンも辛いのか次の体勢を探してごそごそと動き、柔らかなそれはソラの腹とレオンの胴の隙間を埋めるように形を変えた。


「レ、レオン、ちょっ……!」
「う、…ソ、ソラ、あまり動かないでくれ。落としそうだ」


 いっそ落としてくれて良い、とソラは思ったが、レオンにそのつもりはないらしい。
落とすまいとソラの尻の下に腕を入れて、背中に手を添え、自分の寄り掛かるように言う。
その時には、ソラはレオンの頭を抱き抱えなければ安定しない姿勢になっていた。


「ソラ、捕まってくれ。多分その方が良い」
「い、いや、ちょっと待って。あの、大丈夫だから。レオンだって足フラフラしてるし、危ないよ。オレ、自分で歩けるって」
「無理だ。立つ事も出来ないんだぞ」


 レオンの言う事は最もで、浅瀬から浜辺に上がる所で体力を使い果たしたソラは、自力で立ち上がる事も出来ない。
流木に捕まって泳ぎ続けた為、酷使した両足はこれ以上の労働を拒否していた。
ちょっとで良いから歩けよ、と自分の足に叱るソラであったが、相変わらず足は動かず、ぶらぶらと揺らす事も難しい。

 そんなソラを腕に抱えて、レオンは一歩一歩、踏みしめるように歩き出す。
意識を失っていた分、自分の方が体力は残っている───とレオンは自分に言い聞かせていた。
何より、此処まで頑張ってくれたソラに、これ以上の無理をさせる訳にはいかないと思っていた。

 それでも、漂流していたレオンの体も消耗されている事は同じである。
数メートルと歩かない内に、レオンの足もふらつき始め、


「う…く……っ、」
「レオン、もう良いよ。海からもちょっと離れたし、もう下ろして」
「……ああ…」


 浜辺と森の境目に当たる場所まで来て、レオンはソラを地面に下ろした。
ソラはやはり自力では立てなかったので、レオンが支えながら、手近な木の根元に座らせる。
そしてレオンも、座り込むように隣に腰を下ろした。


「はあ…ふう……」
「ありがとう、レオン。その……ごめんな」
「いや。私がして貰った事に比べれば、この程度の事は恩返しにもならない」


 レオンのその言葉に、ソラは「大袈裟だなあ」と笑ったが、レオンの表情は真剣そのものだ。
本当に大した事じゃないのに───と思うものの、逆の立場であれば、能天気だと仲間達から揶揄されるソラでも、レオンと同じように考えたかも知れない。

 ソラが吹く風に何となく首を巡らせると、暗くなった海が見えた。
ついさっきまでオレンジ色の海が見えていた筈なのに、ほんの数メートルを移動している間に、陽が落ちてしまった。
今はまだ頭上に薄らと木の枝々の形が影になって見えているが、あと数十分もすれば、それも判らない程に暗くなるだろう。

 じり、と傍らで身動ぎする音を聞いて、ソラは其方を見た。
レオンは片膝を立てて、じっと海の向こうを見つめている。


「………」


 黙した横顔から滲むのは、不安と焦燥だ。
二人の状況を端的に述べれば、“遭難”である。
ディスティニーアイランド号に乗船してから、それなりに海の生活に慣れて来たレオンであるが、こんな状況は初めての事だ。
ソラとて全くの心配がない訳ではないのだから、レオンが不安にならない筈もなかった。

 ソラはその横顔を見つめながら、努めて明るい声で言った。


「大丈夫だよ、レオン。その内、皆が迎えに来るから」


 弾むような声で言ったソラに、レオンが目を向けて、ぱちりと瞬きを一つ。


「え……」
「あれ位の嵐なら、割としょっちゅう遭うし。オレが最後に見た時は、ちゃんと船は走ってたし。皆、レオンの事、ちゃんとバラムまで送るって約束したし。レオンを見捨てて行ったりしないよ。ね」
「あ……」


 ソラが自身の不安を払拭しようと、明るい表情を浮かべている事に気付き、レオンの肩から微かに力が抜けた。
無意識にか噤んでいた唇も解け、「……そうだな」と小さく呟く。


「すまない、また気を遣わせて。どうも、物事を悪いように考える癖があってな…」
「そうなの?」
「常に最悪の事態を想定して、それを回避するべく適切に動け。そう言う風に教わっていたから」
「ふうん……オレはそんなの無理だなあ。悪い事考えると、それで頭一杯になっちゃうから」


 ソラの言葉に、レオンは眉尻を下げて苦笑する。

 現状に置ける、最悪の事態とは───とソラは少し考えてみる。
最初に頭に浮かんだのは、このまま一生、助けが来ないと言う事だ。
先の嵐で船が転覆し、仲間達は海の底へ、自分達はこの島から出る事も出来ずに死ぬ。
そう考えると、俄かに背中が震えるものがあったが、でも、とソラは思う。
確かに嵐は激しいものであったが、過去にはもっと規模の大きなものに遭遇した事もあるし、それでも船は乗り越えて来た。
クルー達も同様で、船上生活の経験だけで言えば、皆ソラよりも上である。
それでも助けが来ないとなれば、彼等がこの島を見付けられない、と言う事になるが、それでもソラは最悪の事態にはならない、と考えていた。
其処には、仲間達への絶対的な信頼と言う、単純な計算では推し量れないものがある。

 だが、海の上の生活に不慣れである上、こうした遭難も初めてであろうレオンには、自分を乗せてくれる人々を手放しで信じろ、と言うのは難しいのだろう。
嵐の激しさもあり、船が無事でいるのかどうかも、レオンには判らないのだ。
それを判断、想像し得る材料も、彼女は持っていないのだろう。

 レオンは立てた膝の上で両腕を組み、枕にするように其処に顎を置いている。
しっとりと濡れた髪が眉間の傷を隠すように目許を覆っており、伏せがちに降りた瞼の下から覗く瞳が、泣き出すのを堪えているように見えた。
同時にソラは、レオンの肩が小さく震えている事に気付く。
レオンはそれを誤魔化すように、腕を抱く手に力を籠めていた。


(寒いのかな)


 不安による震えも否定は出来なかったが、寒さの可能性も十分にあった。
何せソラもレオンも、丸一日近くを海で漂い、ようやく上がって来た所なのだ。
陽も沈んでその恩恵も失った今、濡れた服が渇く気配もなく、下がった体温を益々奪って行く。
海風が吹き付ける波際から逃げたとは言え、風除けになる物もない場所では、どうしても寒さを防げない。


(えーとえーと、何か暖まるもの、温かいもの……うう、何にも持ってない!)


 大嵐の中、船を保つために大わらわであった時に、邪魔になるような荷物など持っていない。
いつも腰に身に着けている鞄の中にも、小腹が空いた時におやつ代わりにと持っている、小さな飴が入っているだけだ。
せめてマッチの一つでも持っていれば、と後悔する。
───マッチを持っていたとして、海を漂流した後でそれが使い物になるかは判らないが。

 考えに考えた末に、ソラは思い切る事にした。


「レオン!」
「……ん?」
「はいっ!」


 思い切って両手を広げて見せたソラに、顔を上げたレオンはきょとんと目を丸くする。


「……ソラ?」


 何をしているんだと首を傾げるレオン。
それまでの憂いの滲む表情とは一転して、何処か幼げな顔をする彼女に、ソラは真剣な顔で言った。


「ほら、寒い時はくっつくと暖かくなるじゃん。だから」
「だから……ええと…?」
「レオン、ずっと震えてるし。寒いんだろ?オレの体温、結構高いから、冬とかユフィが湯たんぽにしてくっついてくる事あるんだよ。オレもまだ濡れてるから、ちょっと冷たいかも知れないけど、少しはマシになると思うんだ」


 だから、はい、と重ねて言ったソラに、レオンはぱちりと瞬きを一つ。
不思議なものを見るかのように見詰めていたレオンであったが、やがておずおずと両腕を伸ばして来る。
つい先程、ソラを抱き上げた時には、必死だった事もあってか、躊躇う様子など微塵もなかったのだが、今度は恐々とした様子だった。
ソラは両腕を広げた体勢のまま、じっとレオンが来るのを待つ。

 立っていれば倍の身長差はあろうかと言うソラとレオンは、座っていても座高に差が出る。
レオンがソラの背中に腕を回し、抱き締めるように体を寄せると、ソラの顔はレオンの胸に埋まる格好になった。


(うわああああああ)


 そう言えばそうなるんだった、と今更になって思い出して、ソラは一人パニックに陥る。
目の前に迫る深い谷間から逃げようもなく、ソラは思い切り其処に顔を押し付けていた。
思い付いた時には疚しい気持ちなど微塵もなかったのだが、実際にこの状態になってみると、思春期の青少年には些か刺激が強過ぎた。

 ───が、耳元でゆっくりと深呼吸をする音を聞いて、ソラの意識は現実へと戻る。
自分自身で呼吸する事を意識して行っているのか、レオンの呼吸音はとてもゆっくりとしたものだ。
吸って、吐いて、と規則正しい呼吸を繰り返して行く内に、ソラの背に回された腕から、段々と強張りが解けていく。


「……えと……レオン?」
「……ん?」
「…マシになりそう?」


 ソラもレオンの背中に腕を回して、まだ冷たいシャツの感触を感じながら、確かめてみる。
レオンは少しの間沈黙していたが、すり、と猫のようにソラの肩に頬を寄せると、


「……ああ。とても暖かいな」


 そう呟いたのが聞こえて、じゃあ良かった、とソラは言った。

 他に暖を取る手段も、これ以上の体温を逃がさない手段も思い付かなかったので、二人は抱き合ったまま過ごしていた。
その内に、疲労し切った体は段々と睡魔に誘われて行く。
起きたら次はどうしよう、とソラは考えていたが、幾らも思考はまとまらない内に、暗闇の中に消えた。
小波の音だけが響く中、二人は夢も見ない程に深く深く眠りについた。