空と海の境界線上 憧憬編


 きし、きし、と少しだけ軋む音を聞きながら、エアリスは梯子を上って行く。
行き着く先にあるのは、トップマストの見張り台だ。

 大海原を走るディスティニーアイランド号が嵐に遭遇したのは、一昨日の事。
直前に出くわした海軍がしつこく追い駆けて来た所為で、来る嵐への準備が遅れてしまい、あわや転覆するかと思う程に危うい事態に陥ったが、寸での所で難は逃れた。
人員の少ない船にあって、イレギュラー的に乗船する事になった人物のお陰である。
しかし、その代償のように、彼女は嵐の中で船から落ちてしまった。
それを追い駆けて、船長である最年少のクルーもまた、海へと消えた。

 見張り台に辿り着くと、其処にはユフィがいた。
ユフィは望遠鏡を構えて、水平線の向こうをじっと睨んでいる。
彼女が以前に見張り台から降りたのは、何時の事だっただろうか。
小腹が空けばキッチンに来てティファにおやつを強請っているものなのに、今日は甲板で一度も彼女の姿を見なかった。
それ位に、ユフィは責任を感じているのだ。

 お気楽なように見えて、ユフィは人の気配に敏感だ。
しかし、今のユフィは望遠鏡から見える物に神経を集中させているらしく、エアリスが登って来た事に気付いていない。
真剣なのは何も悪い事ではないのだが、張り詰めた背中が少し息苦しそうに見えて、エアリスは少し声を大きくして彼女の名を呼んだ。


「ユフィ。交代しよう、疲れたでしょ」
「あ───エアリスか。ううん、平気。もうちょっとあたしがやるよ」


 声に振り返ったユフィは、エアリスの気遣いをきっぱりと断って、また望遠鏡を覗く。
真一文字に引き結んだ唇が、彼女の胸中を具に表していた。


「一所懸命なのは良い事だけど。あんまり根を詰めたら、辛いよ。酔い止めの薬と一緒に、ティファが作ってくれたクッキーも持ってきたから、ちょっと一服しよう?」


 そう言ってエアリスがポケットからクッキーの入った袋を取り出すと、やはり気持ちは急いていても、食べ物の誘惑は大きいらしい。
ユフィは覗いていた望遠鏡から視線を外し、ちらりと此方を見た。
ううぅ、と耐えるように唸っていたユフィであったが、ぐうう、と腹の虫が鳴ると、溜息を吐いて抵抗を止める。

 エアリスはユフィの隣に並んで、クッキーの袋を開けた。
ティファが焼いた出来たてのクッキーは、まだほんのりとした熱が残っている。
焼き物は長期保存が出来るように、何度も固焼きする事が多いのだが、今日中に食べてしまえる分は其処まで手を入れていない。
お陰で、口に入れるとサクサクと噛み砕ける。


「美味しい」
「うん。やっぱり焼き立ては美味しいね」
「だねぇ。もう一個頂戴」
「どうぞ。二人分詰めて貰ったから、遠慮しないで食べて良いよ」


 差し入れにとクッキーを作ってくれたティファは、ユフィが今日はマストから下りて来ない事を予想していた。
見張りを誰がするかと言う話になった時、いの一番に手を上げた時のユフィの表情を、エアリスも見ている。
あれを見ていれば、ユフィが意地でもマストを下りまいとするのは想像に難くなかった。

 ────一昨日の嵐の時、ユフィは途中から船酔いで蒼くなっていた。
酔い止めの薬は飲んでいたが、そうは言っても激しい揺れの中で大人しく休んでいられる訳もなく、胃の中のものがぐちゃぐちゃに掻き回されているようで、本当に酷い有様だった。
全く動けない程ではなかったのは幸いだが、この状態では踏ん張りも利かない為、嵐に揺さぶられる船を保つ為の作業も上手く進められなかった。
そんなユフィの代わりに力仕事を買って出てくれたのがレオンで、彼女のお陰で船は帆を畳み、荷を海にぶちまける事もなく済んだ。
しかし、その作業の最中に、レオンは海に落ちてしまった。
帆を畳む作業が終われば、船上生活に慣れていない彼女をこれ以上の危険に晒さない為、船内に入って貰おう、と話していた直後の事である。

 あの時までレオンが甲板に残っていたのは、少ない人手をカバーして貰う為であったが、それでも最後まで手伝って貰おうと思っていた訳ではない。
レオンも嵐と言う環境に対してどう動けば良いのか、決して判っている訳ではなかったからか、船内に入ってくれと言えば、大人しく頷いてくれた。
その判断をもう少し早く下すべきだったと、エアリスはずっと考えている。
ユフィもそれと同じように、自分がグロッキーしていなければ、レオンが海に落ちる事もなかったのに、と思っているのだ。
何せ、直前にレオンが担っていた仕事は、ユフィの代わりにと交代して行っていた事だったから、ユフィは尚更自分の責任を感じているのだろう。

 ユフィはクッキーを三枚齧った後、空になった右手を見た。
その手で掴み損なったものを思い出して、苦い物が喉奥から競り上がって来る。
それを誤魔化すように、ユフィは四枚目のクッキーを齧った。


「……なんか、しょっぱい」
「クッキー、塩もちょっと入れてるんだって」
「……うん」


 ティファが焼いてくれたクッキーは、ほんのりと甘い。
それなのにしょっぱい、と言うユフィを、エアリスは敢えて訂正しなかった。

 メインマストの下では、シドが周辺の海図を見ながら煙草を吹かしている。
ゆらゆらと揺れる煙は、真っ直ぐに上には登らず、西へと流れていた。


「……アタリをつけるとしたら、この辺になる筈だが…」


 何度も捲って重ねてと繰り返している五枚の海図は、この海域の周辺図である。
一昨日の嵐でディスティニーアイランド号は本来の航路から外れ、東へと流されていた。
それを一日かけて、嵐に遭った海域と思しき場所まで戻ったのである。

 海図には、小さな島が散らばるように点在している事が記されていた。
これからシド達は、これらの島を一つずつ虱潰しに周らなければならない。
それで目当てのもの───船から落ちてしまった船長と客人が見付かるがどうかは、今は願っているだけが精一杯であった。

 煙草を燻らせているシドの手許に影が落ちる。
顔を上げると、ティファがグラスを片手に立っていた。


「一服のソーダ水。飲む?」
「いや、良いわ。こいつがある」


 ティファの気遣いは有難かったが、シドは咥えた煙草を指して断った。
じゃあクラウドに、とティファは舵の方へと向かう。


「クラウド、どうぞ」
「ああ、有難う」


 ティファがグラスを差し出すと、クラウドは舵から片手を離してグラスを受け取った。
中身を半分まで一気に飲んで、ふう、とクラウドは息を吐く。


「ユフィは、まだ見張り台か?」
「そうなんじゃない?甲板で見てないし」
「…あまり根を詰めなければ良いんだけどな」
「そうは言っても、責任を感じているみたいだからね」


 二人の視線は、メインマストの上へと向かう。
エアリスが登って行ってから、誰も下りて来る様子がないので、恐らく二人とも其処に残っているのだろう。
ユフィもエアリスも、レオンが海に落ちた時、助けられなかった事を酷く後悔しているから、しばらく二人とも見張り台から動かないかも知れない。

 クラウドは見張り台を見詰めながら、グラスの中身を一口含む。
しゅわしゅわと気泡の弾ける感触は、ソラのお気に入りのものだった。
だからソーダを飲んでいると、何処からともなくソラが嗅ぎつけて「オレも飲みたい!」と強請って来たのだが、今日は静かなものである。


「……命綱を結んでおくべきだったな」


 ぽつりと呟くクラウドに、ティファは船舷に寄り掛かりながら、溜息を吐いて頷く。


「そうね。せめてレオンの分だけでも」
「救命道具は身に付けさせていたから、溺れてはいないと思いたいが、あの嵐だったからな。意識を失っていたらどうなっているか判らないし……それに、ソラにも着せておけば良かった」
「……まさかあのまま飛び込んで行くとは思わなかったもんね」


 二人の脳裏に浮かぶのは、船から落ちたレオンを追って、一も二もなく海へと飛び出して行った船長だ。
船から放られたレオンを見て、頭よりも体が先に動いたのであろう事は想像に難くない。
しかし、余りにも無謀が過ぎる行為であった。


「直ぐに浮輪は投げたけど、駄目だったし……」
「海が大荒れだったからな。泳げる状態じゃなかったし、離れてしまったら船まで戻るのは無理だ。シドが言っていたな。せめてロープだけでも持って行けと」


 レオン諸共ソラが海に落ちるのを見て、ティファは舵をクラウドに預けて、直ぐにロープを結んだ浮輪を投げた。
しかし、嵐の最中は勿論、それが収まってからも、繋いだ浮輪に何かが引っ掛かった形跡はなかった。

 あの時、ソラがロープの一本でも握っていれば。
エアリスとユフィが伸ばした手が、レオンに届いていれば。
もっと早くにレオンを避難させていれば。
後悔は幾らも尽きなかったが、そればかりに思考を囚われている訳にも行かなかった。
一向は嵐が過ぎ去った後、一刻も早く二人を見付ける為、行動を開始した。
嵐の海へと消えてしまった二人が、何処かで生きている事を信じて。

 幸い、この海域には小さな島が其処彼処に点在している。
運良く何処かの島の海岸にでも流れ着いていてくれれば万々歳だ。
今はその希望に従って、船を走らせるしかなかった。




 昨日、苦労して起こした焚火は、目を覚ました時には綺麗に燃え尽きていた。
もう一度火を起こして焼き魚を作る気にはなれなかったので、昨日の日中に収穫したヤシの実と格闘する事にした。
川の辺りに散在している大きな石を使い、どうにか一個の外皮を割る事が出来た。
それだけで一時間近くかかり、睡眠で辛うじて回復した体力を一気に消耗したが、実の中に詰まっていた水分と果肉を口に入れれば、その苦労も報われる。
よくよく考えると、昨日は魚こそ食べたものの、水分を口にしたかと言われると、記憶が曖昧である。
川の水も綺麗なものなので、飲もうと思えば飲めたかも知れないが、昨夜は火を起こす事に必死で、それ以外の事はすっかり忘れていた。
ほぼ二日ぶりの水分に、ソラは一気に飲み干したい衝動に駆られたが、なんとか耐えてレオンと分け合った。
レオンはそんなソラの様子に気付いて、「少しで平気だ」と言ったが、流石に昨日のように貰う訳には行かないと、「昨日のお返し!」と言って、レオンに多めに飲ませた。
実は綺麗に二つに割れていたので、果肉はきっかり半分ずつ食べている。

 少し腹が膨れた所で、もう一個のヤシの実は次の食糧として荷物にしたまま、二人は昨晩話していた通り、海岸へと戻る事にした。
海岸に比べると、森の中の川岸は、魚がいるので食糧確保にも適しており、必要以上に風が入る事もなく、昨夜はあまり凍えずに済んだのだが、見通しの悪さや、あちこちに身を潜めている鳥や虫の存在が気掛かりだった。
昨日は焚火をしていたお陰か、何事もなく朝まで眠る事が出来たが、危険な動物の有無については、未だ判らない事ばかりである。
長居をするには少々心許なく、仲間達に早く見付けて貰う為もあり、一旦海へと戻る事にしたのだ。

 昨日通って来た道を歩いて行けば、海に着く。
ソラはそう考えていたのだが────


「……あれ?」


 川を背にして真っ直ぐに歩いたソラとレオンを迎えたのは、小さな掘立小屋だった。
人の手から離れて何十年と経っているのだろう、すっかり朽ち果てた木製の小屋───昨日は一度も見なかった代物に、ソラは首を傾げた。


「…こんなの、昨日あったっけ?」
「いや……」


 自分が見落としていただけかと、後ろをついて歩いていたレオンに尋ねるも、レオンの反応も鈍い。
二人で昨日の記憶をよくよく掘り返して見るが、やはり建物と言う代物に関しては、影も形も見付からなかった。


「…オレ、ひょっとして道間違えた?」
「う…ん……そう、だな……多分……」


 ソラの言葉に、レオンはなんとも言い難そうに濁りながら答えた。
ソラの気持ちを慮ってか、否定の言葉も出かかったが、昨日見ていなかったものが目の前にある以上、間違えているとしか言いようがない。
目印も何もない、殆ど景色の変わらない森の中を歩いていたのだから、無理からん事であった。


「どうしよ。ちょっと戻ってみる?」
「それも良いが、……少しこの家の中を調べてみないか。何か使えるものがあるかも知れない」
「あるかなあ。オンボロだよ?」


 ソラの目から見て、小屋は今にも崩れんばかりの有様であった。
放置されて久しい家の中に置かれている道具など、どうなっているのか知れている。

 しかし、今現在の二人の手持ちの道具と言ったら、ソラが持っている小さなナイフ位のもの。
それも小枝や柔らかな果実を切れる程度の心許ない物である。
多少傷んでいても良いから、使える道具は増やして置くに越した事はない。


「オレが行ってみるね」
「あ、おい────」


 たたっと小屋に向かって駆け出していくソラに、レオンが止めようとした手が空振りする。
レオンは急いでソラを追い、結局二人で小屋の前へと辿り着いた。

 扉はついてはいたものの、半分以上が戸板が割れており、中が覗けるようになっていた。
覗いてみると、天井に大穴が開いており、太陽の光が直接中に降り注いでいる。
外観から見た通り、中もすっかり朽ちていたが、農具のようなものが壁際に立て掛けられているのが見えた。

 扉を開けると、キイイ、と言う錆びた蝶番の音が鳴った。
そっと首だけを伸ばして中を覗き、ぐるぐると目を動かして、動くものがないか確認する。
見えたのは小さな蜘蛛の影位のもので、大きなものは見当たらなかった。
そっと中へと入ってみると、埃の匂いが充満していたが、湿気やそれに伴いそうな腐敗臭の類は感じられない。

 きょろきょろと見回しながら、二人は小屋の中を調べてみる事にした。
壁に立て掛けられていたのは、やはり鍬や鋤と言った農具で、やはり手入れもされなくなって久しいのだろう、鉄部分は錆が侵食しているし、木製の柄にも節穴が開いていたり、折れていたりと言う有様だ。
タンスらしきものがあったので開けてみようとしたが、歪んでいるのか、何かが中で引っ掛かっているのか、引き出しは開けられなかった。


「結構色々あるけど、全部ボロボロだね」
「そうだな……こっちは台所か。此処にも道具が色々あるようだが、全部錆びているな」


 台所には、真っ赤に錆びた鉄鍋が置かれていた。
綺麗に磨いて洗えば使えるかも知れないが、其処までして必要なのかと言われると、首を傾げる。
包丁らしきものも転がっていたが、とても使える状態ではない。
錆びた刃と研ごうとしても、そのままボロボロと崩れて行きそうだ。


「こっちは何もなさそうだ。そっちは?」
「んー……」


 目ぼしい物が何も見つからず、ソラは眉根を寄せながら、諦め悪く小屋の中を見渡す。
すると、奥まった場所にこんもりと塊を作っているものを見付けた。
近付いてみるとそれは布の塊だった。


「これ、使えるかな?」
「何だ?」


 布の端を持って引っ張ると、覆い被さっていた埃がぶわっと舞い散る。
げほげほと咽ながら、ソラは布を引き摺ってレオンの下へと持って行った。


「毛布か?……いや、只の麻布か」
「毛布代わりにはなりそうじゃない?一回洗った方が良さそうだけど」


 ソラが持ってきたのは、一枚の大きな麻布だ。
ごわごわとした固い厚手の代物で、恐らく埃避けの為に置かれていたのだろう。
これに包んだ所で、麻袋に詰められた荷物の気分になるだけだが、しかし防寒の為にあるのとないのとでは大違いだ。
布は埃塗れで、あちこちに染み汚れがあり、所々は糸が解れていたが、大きな破れは見当たらない。

 麻布が被せられていた場所に戻ってみると、木箱が幾つも積み上げられていた。
開けられそうなものを適当に開けてみると、細々とした生活用具が詰め込まれている。
ソラとレオンは、バケツや竹籠を借りる事にし、拡げた麻布にそれらを包んで、小屋を出た。


「この小屋も使えたら良かったんだけどなあ」
「大掃除をしないと厳しいな。それに、天井もないから、雨が降ったら外と同じだ」


 埃はともかく、天井の大穴さえなければ、此処を一時の拠点にする事も可能だったかも知れない。
だが、今の状況で補修工事などする訳もなく、二人は小屋で過ごす事は諦めた。


「えーと。それで、どっちに行けば良いかな……」
「……うーん……」


 ソラとレオンは、改めて問題に直面した。
小屋で過ごす事を諦めたのなら、また移動である。
しかし、既に海へと向かう方角を見失っている今、下手に歩き回るのも良くない。


「…高い所に行くか、川を探すか。高場に行けば周りが見渡せる。川を下れば、海には出られる筈だ」
「あ〜、そっか。じゃあ朝も川沿いを行けば良かったのかあ」


 レオンの提案に、今朝、「こっちから来た!」と言って率先して歩き出した自分を思い出し、ソラは溜息を吐いて反省する。
そんなソラに、レオンは「私もあの時は気付かなかったから…」と言って宥めた。


「川。川。もう一回川探そう」
「小屋があると言う事は、人が此処に住んでいたんだ。大概、そう言う場所は水場の確保が出来る位置を取るから、……此処には井戸もないようだし、川が近くにあるのかも知れない。バケツもあったしな」
「じゃあそんなに遠くないね。よし、行こう!」


 行こう、と言ってどの方角に行くのかが決まった訳ではなかったが、ソラは躊躇わずに歩き出す。


「ま、待て、ソラ。どっちに行けば良いのか、まだ判った訳では」
「そうだけど、悩んでても判るもんでもないじゃん」
「それは、そうだが……」
「今まで来た道に川はなかったし、取り敢えず違う方向に行ってみようよ。しばらく行って何もなかったら、此処まで戻れば良いし」


 此処、とぽんぽんと小屋の壁を叩いてソラは言う。
小屋の風化は激しいが、かと言って今直ぐに崩れてしまいそうな程に傾いている訳でもない。
住む場所としてはいまいちだが、目印としては十分だ。

 向かう方角は、西か東か、北か南か。
現在地点すら碌に把握できていない状態で、それを見極める事は非常に難しかった。
だからレオンはよく考えて行動するべきだと思うのだが、ソラが言うように、判る事ではないのも確か。
故にソラは、悩むよりも体を動かした方が早いと言う。

 結局、レオンが迷っている間にソラが歩き出し、レオンは彼について行く形になった。
シドやクラウドなら、軽率だとソラを諫めたのかも知れないが、今彼と共にいるのはレオンのみである。
レオンは、強く言ってソラの行動を止める事は出来なかった。
腹を据えて今の状況を乗り切るつもりではあるが、その為に何を取捨選択すれば良いのか、レオンにはまだ判らないのだ。
本で得た知識は確かに参考になるが、それを上手く使うには、レオンは経験値が足りなった。
そんな彼女に比べると、楽観的と言われようと、危機感が足りないと思われようと、前向きに行動しようとするソラの姿勢は、心強くも感じられる。

 なんとなくこっちが良い気がする、と言うソラの勘は、無事に功を奏した。
レオンが先に予想を立てていた通り、小屋から10分としない距離に、小さな沢を見付ける事が出来た。


「ほらほら、レオン!川があった!」
「ああ、良かった」


 昨日見付けた川の支流だろうか、幅は1メートル程度のごくごく細い水流である。
水は冷たく澄んでおり、小魚が泳いでいるのも見えた。


「この川に沿って行ったら、海に出られる?」
「かも知れない。でもその前に、見付けた道具を少し洗って行かないか?全部埃塗れだから」
「あ、そうだった、そうだった。えーと、洗うのに良さそうな所はっと」


 沢には大きな石が折り重なるように散らばっており、その隙間を水流が滑り落ちている。
石が濾過装置の役割を果たしているのだろう、水流の中には落ち葉もあまり見られない。
二人は少し川を下って行き、途中で水が溜まって池になっている場所を見付けた。
池を囲む石場の中で、低くなっている場所を見繕い、袋を広げて道具を水に浸す。


「布も洗う?」
「乾くのに時間がかかるかと思うが、洗っておこうか。毛布の代わりにするなら、その方が良いだろうし。私がやろう」
「じゃあ、他の奴はオレが洗うよ」


 道具をソラが一通り引き受け、レオンが麻布を洗う。
水を吸った麻布は酷く重かったが、レオンは腕に力を入れて、布を擦り洗った。
その隣で、ソラは手袋をタワシの代わりにして、道具を洗う。

 がしがし、がしがしと力任せに洗って、ようやく道具の錆が取れて行く。
錆が剥がれて行くにつれ、一緒に表面の塗装も剥離し、バケツの縁等はぼろりと欠けてしまったりもしたが、幸いにも底が抜けるような事はなかった。

 その隣で、レオンは額に汗を滲ませながら、麻布を洗い続けている。
絞っても絞っても黒い水が染み出して、いつになったら綺麗になるのか、見当もつかない。
そもそも、何十年と放置されていたのであろう代物なのだから、それを真っ白な状態にしようと言うのが無理なのだ。
冷たい水に何度も布を浸しては絞る為に、レオンの手は真っ赤になり、段々と指先の感覚が鈍くなって行く。
其処までやっても、麻布は茶色い水を絞り出していたが、


「レオン、もう良いんじゃない。干さなきゃいけないしさ」
「ん……そうだな。この辺にしておくか……」


 ぎゅ、ぎゅうっ、と最後にもう一度、布を動かしながら全体を捩じり絞って、レオンはふう、と一息。
布を広げると、まだまだシミはあるものの、持ち出した時に比べると、かなり汚れが落ちているのが判った。

 日当たりの良さそうな石の上に布を広げ、その周囲にソラが洗った道具も置いた。
幸いにも天気だけは良い。
布がすっかり乾くかは判らないが、水が滴らない程度には乾いてくれるのではないだろうか。


「はーっ、疲れたぁ!」
「お疲れ様、ソラ」
「乾くまで一休みしよー」
「ああ」


 大きな岩の上で、ソラがごろりと仰向けになる。
レオンはその隣に腰を下ろして、改めて周囲を見回しながら言った。


「ヤシの実が一つ残っているが、あれはどうする?夕飯にするか?」
「うーん……あれ割るのが大変だからなぁ。でも、魚採っても、また火を点けなきゃいけないし」
「そのまま食べられる果実でもあればな……」


 無い物ねだりである事は判っていたが、そう思わずにはいられない。

 昨日、今日と歩く道すがら、食糧になりそうなものを探し続けていた。
しかし、見付かるのは背の高いヤシの木の上に生っている実と、種類の判然としないキノコ類。
ソラはキノコでも腹の足しになればと思ったが、知識のないものがキノコに手を出すのは危ない、とレオンが止めた。
ヤシの実以外の果実の類は、ヤシ同様に背の高い木の上に生っているものが殆どで、簡単には収穫できそうにない。
ソラが木登りをしようにも、木の幹がよく滑る為、一昨日からの筋肉痛を抱えている状態では、半分も登れなかったので諦めていた。

 ソラの本音としては、ヤシの実よりも肉が食べたい。
それも、魚ではなく、動物性蛋白質の高いもの。
鳥でも捕まえれば良いかな、と思って空を見上げるが、自由に羽ばたける鳥を捕まえるのは容易な話ではない。
捕まえた所で、生で食べる訳にも行かないから、それらの労力を考えると、採って直ぐに齧られるような木の実が食料としては妥当か。


(って考えたら、また腹減って来ちゃった。あ〜、腹一杯食べたいよ〜!)


 ソラは眉根を寄せ、口を真一文字に噤んで、漏れそうになる本音の声を寸での所で飲み込んだ。
口に出せば、きっとレオンは自分の空腹を我慢して、ソラにヤシの実を食べさせようとするだろう。
昨日の夜も、今朝も、レオンはソラを優先させようとしていた。
その気持ちは決して嫌ではないのだが、


(レオンに辛い思いはさせたくないなあ)


 余裕がない状態なのは、レオンとて同じなのだ。
それなのに、彼女にばかり我慢を強いたくはない。
そんな事をする位なら、自分が空腹を我慢した方が良いとソラは思う。

 ちらりとソラが傍らに座るレオンを見ると、彼女は立てた片膝に腕枕をして頭を乗せ、じっとしていた。
耳を欹ててみると、水流の音に隠れて、規則正しい呼吸音が聞こえる。
昨日から引き続き、今日も歩き通して、先程は洗濯もして、疲れているのだから仕方ない。
じっとしていると、ソラもうとうとと舟を漕ぎそうだった。


(……皆、近くまで来てるかな。目印、気付いてくれると良いけど。船が沈んだりは───してない、うん。きっと。絶対)


 俄かに浮かぶ不安を振り払い、ソラは胸中で“大丈夫”を繰り返す。
前にレオンにも言ったように、嵐ならば何度も乗り越えて来たのだ。
海に落ちてしまった自分達が、見知らぬ島とは言え、無事に此処まで流れ着いたのだから、ディスティニーアイランド号も無事に違いない。
そう思う事が出来なくなった時が、精神的にも一番危ういのだ。
前向きに考える事が出来るなら、自分の足が止まってしまう事もない。

 太陽だけでなく、乾いた風も吹いていたお陰で、道具が渇くのは早かった。
麻布は陽に当てていた片面のみが生乾きで、岩に設置していた裏面はじっとりと湿っていたが、水が滴る事はない。
後は持ち歩いている間に少しでもマシになってくれる事を期待して、二人は荷物をまとめ、沢の流れを下る事にする。
荷物は一旦ソラが持ち、疲れたら交代する事になった。


「其処の岩、滑り易いから気をつけてね」
「ああ、有難う」


 身軽なソラが前を行き、その後ろをレオンがついて歩く。
この島に来てから、すっかり定着した進み方だ。
いや、街にいた時にも、こうして前を歩くソラにレオンが引っ張られていたから、日常として定着したと言える。

 池から離れて行くに従い、沢は段々と幅を広げ、川と言っても良い広さになった。
所々で川は流れを分けていた為、二人は川幅の大きな方を選ぶ。
海はまだ見えず、二人は再び鬱蒼とした森の中を進む事になる。


「魚が増えて来た」
「…昨日いた辺りかも知れないな」
「一周回って来ちゃった?」
「判らない。こうも似たような景色が続いては……」
「あー、確かにそうかも。オレもさっきからちゃんと進めてるのか判んなくってさ。でも、川に沿ってるから大丈夫だよね?」


 振り返って確かめるソラに、レオンは頷いた。
川の分かれ目で選んだ道が正しいかは定かではないが、少なくとも、この川から離れる事が無ければ、間違っていてもやり直しは出来る筈だ。

 しかし、行けども行けども、終点としている海が見えない所か、周囲の風景にも殆ど変化がないとなると、このルートで良かったのだろうかと言う不安は浮かんでくる。
特に、レオンはその思考が強かった。
戻って道を選び直した方が良いのでは、でも、と迷いが思考を占める度に、両腕を振って前を歩く少年の背中を見る。
すると、ソラはまるで後頭部に目があるかのようにくるっと振り返って、にっかりと歯を見せて笑い、


「なんか冒険してるみたいで楽しいな!」


 そんな能天気な事を言うソラに、レオンの唇が微かに緩む。
彼の笑顔が、何事も悪い方へと考え勝ちなレオンの気持ちを、上へと引っ張り上げてくれる。
彼が笑っているのなら大丈夫だろう、とそんな気持ちにさせてくれるのだ。

 とは言え、頭上はまたも暗くなって行く。
川沿いに行けばいつかは海に辿り着く、と思っているのだが、その道程がこんなにも長いとは思わなかった。
予想していたより、島が大きいのかも知れない。
引き返した方が良いか、しかし此処から川を遡っても時間が───とレオンが思案している所に、ソラが「あ!」と声を上げた。


「レオン、あそこ。でっかい穴がある」
「穴?」


 ソラが指差す先を見ると、切り立った崖の下に、横穴が開いていた。
辿る川はその穴の中へと流れ込んでいる。

 近付いてみると、穴は奥へと続いており、洞窟になっている事が判った。
勾配のある暗い道は、入って数メートルの所までしか光が届いておらず、奥の様子を伺い知る事は出来ない。


「入る?」
「……いや。止めて置こう」
「でも川はこっちに行ってるよ。戻る?」
「それも危ないと思う。もう直ぐ暗くなってしまうだろうから」
「えーと……って事は、此処で寝る感じ?」
「…そうだな」


 先にも進めず、後にも戻れないとなれば、此処で野宿するしかない。
昨日よりは休みながら進んでは来たが、それでも疲れている子事には変わりないのだ。
荷物も増えているし、暗くなる森を歩くのもやはり危険であるから、今日はこの辺りで足を止めるのが無難だろう。


「んじゃオレ、魚捕まえて来るよ。さっき一杯泳いでる所があったんだ。一杯捕まえて来るね!」
「ああ、頼りにしている。私は火を起こしておくよ」


 荷物を下ろし、ソラはバケツ一つを持って川を遡り、漁場へと向かう。
レオンはその背を見送ってから、薪に使えそうなものを探すべく、洞窟の周囲の森を散策する事にした。




 ソラがバケツ一杯に魚を入れて満足した時には、夕暮れも越えて、夜が直ぐ其処まで迫っていた。
どうりで魚影が見え難い筈だと、漁を切り上げて洞窟のあった場所へと戻ると、横穴の口から仄かに光が漏れていた。
ゆらゆらと不規則に揺れるそれが、レオンが起こした焚火であると直ぐに判り、ソラは走って其処へ向かう。

 洞窟の中を覗き込むと、其処では暖かな火が焚かれていた。
その傍らで、レオンが外皮を剥がしたヤシの実を割ろうと、尖った石で格闘している。
内皮も中々に固いヤシの実といつから戦っていたのか、レオンは汗を流しながら、両手に力を入れて実に入った罅を広げようとしている。


「レオン!」
「───ああ。お帰り」


 名前を呼ばれてようやくソラが戻って来た事に気付き、レオンは石を握った手の甲で、顎を伝う汗を拭いながら顔を上げた。
ソラは少し勾配のある足元を滑らないように気を付けつつ、焚火の下まで急ぐ。


「魚、一杯採れたよ」
「ああ、お疲れ様。ちょっと待て、もう直ぐ実が割れそうなんだ」
「いつからやってたの?疲れたんじゃない?交代しよっか」
「いや、大丈夫だ。でも、そうだ、ナイフだけ貸して貰えるか?」


 拾った石ではどうにもやり難い、と言うレオンに、ソラはポケットに入れていたナイフを取り出した。
レオンはヤシの実の罅に刃を突き刺し、鋸のように引きながら一周させて、ようやく実を割った。
中に詰まっていた水分が漏れ出して来るのを、実を受け皿にさせて庇う。


「おっ、と……ほら、喉が渇いているだろう」
「ありがと!」


 差し出された実の半分を受け取って、ソラは直ぐに水分を口に含んだ。
丸一日で失われた水分を補給すれば、体が芯から潤うのが判る。
ごくごくと勢いよく飲んで行くソラを横目に、レオンは頑張って割って良かったと思いつつ、自身もヤシの実に口を付けた。

 ヤシの実の水分を飲みながら、二人はソラが獲って来た魚を焼いた。
魚を焼く為に刺す串は、レオンが薪と一緒に拾って来た木の枝を、石で加工して先端を尖らせたものを作り置きしていた。
魚が焼けるのを待ちながら、ソラがちらりと隣を見ると、レオンはうとうとと舟を漕いでいる。


(焚火して、串作って。ヤシの実割って。オレが魚追っ駆けてる間に、レオン、色んな事してくれたんだ)


 昨日のレオンは、火の起こし方を知らなかった。
一度見ただけでそれを覚え、真似て、無事に火を点けられた事は凄いと思うが、それ以上に彼女の努力が凄いと思う。
よくよく見ると、綺麗な筈の彼女の手は、泥や煤で汚れており、爪先には赤い血が滲んでいる。
元々は洗濯の仕方も碌に知らなかったと言うのだから、野宿の為に必要な事を果たそうとするだけでも、相当な気力が必要だった筈だ。
それでもソラが戻って来た時には笑顔を見せてくれる。
頑張ってくれてるんだ、と思うと、ソラは胸の奥が熱くなった。

 魚の香ばしい匂いが漂い、皮に良い焼き色がついた所で、二人は食事にあり付いた。
バケツのお陰で沢山の魚を獲る事が出来たので、昨日に比べると随分と腹が膨れた。
大振りの魚は二人で分け合い、残っていたヤシの実の果肉はデザート代わり。
この状況にあって、潤沢な夕食となった。

 久しぶりに満足な食事量を採る事が出来ると、今度は睡魔がやって来る。
ふあ、と欠伸をするソラに、レオンが言った。


「ソラ、先に寝ると良い。私は火の番をしていよう。朝食の為にまた火を起こすのも大変だから、維持しておかないと」
「いいよ、オレが見てるから、レオンが先に寝なよ」
「ソラが魚を獲っている間に少し休ませて貰った。だから、ソラが先に休むと良い」


 レオンの言葉に、またウソ吐く、とソラは思った。
クラウドのようにこうした事態に慣れていて、相応の経験を積んでいる人間ならまだしも、不慣れなレオンが夕飯前にあれだけの準備をして、休憩時間が取れたとは思えない。
絶対に休みなしで働いている、とソラでも判る事だ。

 しかし、笑みを浮かべて此方を見詰めるレオンは、譲るつもりはないらしい。
レオンは乾いた麻布を広げ、ソラに差し出す。


「布団の代わりだ。此処の地面は冷たいから、そのまま寝転ぶと冷たいぞ」
「……レオンも、後でちゃんと寝る?」
「そうだな。その時には、交代して貰っても良いか?」
「勿論」


 レオンを不寝番にさせたまま、自分だけが悠々と眠る訳にはいかない。
こんな状況なのだから、相互補助は不可欠である。
何より、ソラにはレオンに無理をさせたくなかった。
だから、レオンが辛いのであれば、ほんの十分後に交代を打診させても良いとさえ思っている。

 麻布はごわごわとして固く、布団代わりとするにはかなり質が悪いものだったが、厚みはあるので防寒には適していた。
ソラは目印として海岸に自分の上着を置いて来てしまっているから、レオン以上に薄着になっていた。
これがなければ、焚火の傍とは言え、体を冷やしてしまったに違いない。
冷たい岩肌に直に寝転ばないで済むのも有難かった。

 眠くなったら起こしてね、と言って、ソラは丸くなって横になった。
布に包まっているだけで、内側の熱が逃げないように保たれているのが判る。
小屋にいた時にもう一枚見付けて置けば良かった、と思いつつ、ソラは目を閉じる。
意識が体を離れて行くまでに、大した時間はかからなかった。