空と海の境界線上 憧憬編


 眠るつもりはなかったレオンだったが、いつのまにか意識が飛んでいた。
火の番の交代の為にソラを起こす猶予もなく落ちてしまった為、起きた時には焚火がすっかり小さくなっており、レオンは慌てて薪を足した。
今日は洞窟を離れて海まで向かう予定ではあるが、腹拵えが終わるまでは必要な火だ。

 焚火がもう一度煌々と燃えるようになった頃には、洞窟の外は明るくなっていた。
しかし、昨日の夕方から降り始めた雨は、土砂降りとまでは言わずとも、中々激しい状態が続いている。
傘もない今、この雨の中を海まで歩くと言うのは考え物だ。
食料は昨日の内にソラが獲ってきてくれたものが残っているので、上手く使えば今日一日は凌げるかも知れない。
しかし、出発するとなれば余計な荷物にもなる。
この辺りの事は、ソラが起きてから相談しよう────とレオンは思っていたのだが、


(……起きないな……?)


 レオンが目を覚ましてから、体感で二時間以上は経っている。
朝食の魚もそろそろ焼き上がる頃で、洞窟内には香ばしい匂いが漂っていた。
漂着してから常に腹を空かせているソラなら、匂いにつられて目を覚ましているものなのに、彼は麻布に包まったまま動かない。

 昨日はレオンの分まで働き、夕方の土砂降りに降られて帰ってきたソラである。
疲れているのだからゆっくり寝かせてやろうと思っていたのだが、ひょっとしたら体調を崩しているのかも知れない、とレオンは考えた。
一先ずは様子を確かめる為にと、レオンは務めて静かな声で、ソラに呼び掛けてみる。


「ソラ。ソラ、起きてるか?」


 繰り返し名前を呼んで反応を見てみるが、ソラは動かなかった。
余程深い眠りの中にいるのか、それとも、と膨らむ不安に突き動かされて、レオンは眠るソラの傍に近付く。


「ソラ」
「……んぅ……」


 耳元で名前を呼ぶと、今度は反応があった。
その事に、良かった、と仄かな安堵を感じつつ、


「ソラ。朝ご飯が出来てるぞ」
「……んー……ごはん……」


 レオンの言葉に、ソラがのっそりと起き上がる。
ゆらゆらと揺れる頭が如何にも重そうで、体の動きもいつもの機敏さとは程遠かったが、昨日の事を思えば無理もないだろう。
ぶるっと子犬のように体を震わせるのは、着ている服がレオンのジャケットと自前の薄手のパンツのみと言う有様だからだ。


「さむ……」
「まだ服が乾いていない。もう少しだけ我慢できるか?私の服を着ていて良いから」
「……うん」


 肌着もなく、丈の短いジャケットを羽織っているだけでは、洞窟内の冷気は堪えるだろう。
しかし、昨日の土砂降りでやられてしまったソラの服は、まだ生乾きの状態だ。
夜通ししっかりと火を焚いて当てていれば、もう少しきちんと乾いたかも知れない、とレオンは寝落ちてしまった失態を改めて痛感した。

 どうにも動きの鈍いソラに、レオンは眠気覚ましに洞窟内に流れ込んでいる川で顔を洗うようにと促した。
ソラは包まっていた麻布を手放し難そうにずるずると引きずり、川の水で顔を洗う。
焚火の元に戻って来たソラは、少しすっきりしていた───と思いきや、表情は相変わらずぼんやりとしたままであった。


「ソラ、大丈夫か?昨日の疲れが残っているようだが」
「んー……多分大丈夫……」
「……」


 常の快活さが殆ど見えない鈍い反応に、レオンは眉根を寄せる。
そんなレオンの隣にソラが座り、良い焼き色のついた二尾の魚をじっと見つめ、小さな方を手に取った。


「オレ、こっちで良いや。大きいのレオンにあげるよ」
「いや、私が小さい方で良い。ソラの方が腹が減っているだろう」
「うーん……なんか、今日はそうでもないから、いらない」


 そう言ってソラは、一回り小さな魚を食べ始めた。
いつもと様子の違うソラに、レオンは首を傾げつつ、一先ずは自分も食べなければと、大きな魚を手に取る。

 魚を食べる傍ら、レオンはソラを観察してみた。
顔を洗えば少しは覚めるかと思った目元は、半分瞼が下りていて、疲れたような顔をしている。
食事となれば大きく口を開けて豪快に齧り付くのが常なのに、今日はもそもそと億劫そうに口を動かしていた。
包まった麻布の中で、小柄な体が時折ぶるりと震えている。
魚を食べる速さも、いつも大きな魚を食べるソラの方が早く食べ終わっていたのに、今日はレオンが食事を終えても、ソラの魚はまだ半分も残っていた。
絶対に普通じゃない、とレオンは確信する。


「ソラ、ちょっと……」
「ん……?何?」


 魚の骨を焚火に放り、レオンは手をシャツで拭いて、ソラを自分の方へと向き直らせた。
ソラはぼんやりとした顔でレオンを見上げてくる。
レオンはソラの前髪を持ち上げて、露わになった額に、自分の額を押し付けた。


「────やっぱり。ソラ、熱が出ているぞ」
「……熱?」


 何のこと、と言いたげにソラがレオンを見て鸚鵡返しをする。
自分の体調の変化にも気付かない程、ソラは蝕まれていたのだ。


「魚、まだ食べれるか?」
「うーん……」
「無理に食べなくても良い」
「……でも…今日は海まで行くんだろ。食っとかないと」
「まだ雨が降っている。中々激しいから、外に出たらまた濡れ鼠だし、体調も悪化するぞ。今日の出発は諦めよう」
「……そんなに降ってんの?」


 尋ねるソラに、レオンは頷いた。
洞窟の外から聞こえてくる雨は、昨日の土砂降り程に激しいものではないが、やはり本降りの雨が続いている事を伝えている。
雨具があっても足元が濡れてしまいそうな雨を、着の身着のままを晒して歩くのは愚の骨頂だ。
折角拠点としている洞窟があるのだから、せめて雨雲が遠退くまでは此処で過ごした方が良いだろう。

 レオンは体温を測る為に持ち上げていたソラの前髪を直し、包まっている麻布の前を寄せてやった。
未だ半裸の状態で過ごさざるを得ないソラを、これ以上冷えた空気に晒すのは良くない。
ボタンのような前を留めるものがあれば、と無い物強請りをしながら、レオンはソラに焚火の傍で横になっているように告げた。
ソラは半分まで食べた魚をレオンに渡して、四つ這いで焚火の傍へと移動する。
空元気を見せる事もせず、芋虫のように丸くなるソラに、レオンはほっと胸を撫で下ろしたが、


(……やっぱり、昨日、あれだけ動き回った所為なんだろうな。私が体調を崩した所為で、ソラに無理をさせてしまった。悪い事をした……)


 ソラが体調を崩した理由は、色々と考えられる。
元気にふるまって見せても、毎日のサバイバル生活で疲労は蓄積されていただろうし、育ち盛りの体には足りない食料で遣り繰りするのが精一杯。
食事については、海辺でぼんやりと過ごしているよりは潤っていると言えるが、それを得る為の労力まで緩和されている訳でもない。
そんな状態で、分担していた作業を一人で熟せば、後に無理が祟るのも当然だろう。
その上、昨夕から降り続く雨だ。
ソラはびしょ濡れになって帰ってきたし、替えの服と言うものもないから、冷えた洞窟の中で無防備とも言える格好で過ごすしかなかった。
───こう考えると、雨に降られたのは、駄目押しだったと言えるかも知れない。

 自分が体調を崩したりしなければ、とレオンは思ったが、直ぐにその思考は振り払った。
後悔ばかりを繰り返した所で、ソラが回復する訳もなく、外の雨が止む事もない。
昨日は自分がゆっくり休ませて貰ったのだから、代わりに今日は自分が働いて、ソラが気兼ねなく休めるようにしなければ。
レオンが優先すべきは、その為に環境を整えることだ。


(とは言っても、あの雨では外には出れない。物資の補給は難しいか)


 ちらりと洞窟の外を見遣って、レオンは雨雲に覆われている外界に溜息を吐く。


(ええと───食料の魚は、まだあるな。薪は……減ってはいるが、なんとかなるか?考えなしに使うと足りなくなるかも知れない。だが、火を小さくするとソラが寒いか。それは良くないな……)


 明日まで薪を確実に持たせるなら、焚火は弱めた方が良いだろう。
しかし、未だ薄着で過ごさざるを得ないソラの為にも、洞窟内の暖気は出来るだけ確保して置きたい。
その内にソラの服も乾いてくれれば、彼を凍えさせる事もなくなるだろう。

 レオンは一旦焚火の薪を多めに入れて、洞窟内を一時的に温めることにした。
一時凌ぎをしている内に、ソラの服が少しでも早く乾くよう、物干し場を作ってしっかりと空気に晒す事にする。
ズボンのベルトを外して服の袖から通し、洞窟の天井の微かな凹凸に引っ掛けて吊るした。
ここ数日の生活でレオンの体重は落ちており、腰回りの肉も減ったようで、ズボンがずり落ちそうだが、仕方がない。
あまり動き回る予定もないのだから大丈夫だろうと思う事にして、レオンはソラが昨日拾ってきていた植物の蔓をロープ代わりにして、ソラのズボンや靴下も吊るして置く事にした。

 焚火を強くしたお陰で、洞窟内はほんのりと温かくなっている。
ソラにジャケットを貸している為、レオンもかなりの薄着になっているが、それでも起き抜けに感じた寒さが和らいでいるのが判った。
いつまでこの暖かさが維持できるかは判らないが、今の内のソラの回復と、彼の服が乾いてくれる事を願った。




 昼食をいつにしようか、と思っている間に、洞窟の外の様子が少し変わった。
雨のみが延々と降り続けていた外界に、強い風が加わり、洞窟の入り口まで雨が吹き込んでくるようになった。
空の上でも風は吹いているようで、雨雲が動いているのが見えた。
未だ雲の切れ間は見れない為、雨が止む気配はないが、雲が流れてくれれば晴れも早く訪れてくれるかも知れない。
レオンはそれを願いつつ、こまめにソラの服の乾き具合をチェックして過ごしていた。

 ソラの容態には大きな変化はなく、彼は少し眠っては微かに起きて、と言う状態を繰り返している。
どうにもすっきりとした目覚めは訪れてくれないようで、レオンが少し宥めると、また直ぐに眠ってしまう。
風邪を引いた時の子供のようだ、とレオンは思った。
実際にソラの症状は風邪によくあるものと似ており、吐き気や眩暈は少ないようだが、寒気は感じられると言う。
寒いのならばやはり必要なのは暖だ。
レオンは、雨の隙を見て薪の補充がしたかった。


(雨が今日一日降り続けるとして、明日まで今の温度は維持できないだろうな。燃料が尽きてしまう前に拾いに行ければ良いが……あまり期待は出来ない)


 洞窟の外からは、ごうごうと言う激しい風の音が聞こえている。
ひょっとしたら嵐になっているのかも知れない。
洞窟内に流れ込んでいる川も、心なしか水嵩を増したように見える。
鉄砲水のような災害が起きないと良いが、と思いながら、魚を串枝に突き刺す。
それを焚火で炙り焼きするように設置した後、レオンは天井に吊るしていたソラの服に触った。


「……うん。十分乾いたかな」


 レオンはベルトを天井から外し、服の袖から抜いた。
よくよく触って確かめると、袖や裾の端に湿気が残っていたが、此処まで乾けば着ても問題ないだろう。
ズボンは厚手の頑丈なもので、随分と水を含んでいたのだが、これも裾やウェスト回りに湿気が残っている程度だ。
蔓に下げていた靴下も問題ないと判断して回収し、レオンは眠っているソラに声をかけた。


「ソラ。ソラ、起きれるか?」
「……んー……?」


 ソラはもぞもぞと身動ぎした後、ゆっくりと目を開けた。
深い眠りの中にいたのか、眠気の残るぼんやりとした瞳がレオンを見上げる。


「…レオン……?」
「服が乾いたぞ。これ以上冷えないように、着ておこう。起き上がれるか?」
「……うん……」


 ソラは面倒臭そうな表情をしていたが、今の格好はやはり寒いようで、ゆっくりと起き上がる。
ゆらゆらと頭を揺らすソラの背中を支えて、レオンは「少しだけ我慢しろよ」と言って、ソラが包まっている麻布を退けた。

 焚火を強くして洞窟内を温めているとは言え、肌身で感じるにはやはり冷たい空気である事に変わりはない。
ぶるっと背中を震わせるソラに、レオンは手早く服を着せていった。
ばんざーい、と促すと、ソラは素直に両手を上にあげてくれたので、シャツをすぽっと着せてやる。
ズボンを履かせ、シャツの裾を中に入れ、靴下も履かせた。
ソラは眠気もあって自分で動く気にならないらしく、着せ替え人形のように、レオンにされるがままになっている。


「ソラ、苦しくないか?」
「……うん」
「背中とか、肩とか、痛い所は?」
「…ちょっと背中痛い…寝にくい」
「この環境だからな……私の上着を下に敷こう。ないよりはマシだと思う」
「…うん……」


 いつもの快活さとは程遠い、夢の半ばにいるように、ソラの反応は鈍い。
それでも声をかければ返事をしてくれるソラに、レオンはほっと安堵した。

 着替え終えたソラを再び寝かせて、麻布を掛布団にしてやる。


「寒くないか?」
「…うん。大丈夫」
「腹は減ってないか?」
「……んー……あんまり……」
「そうか」
「……ご飯?」
「いや。今焼き始めた所だから、もう少しかかる」


 レオンはソラの頭を撫でて、眠って良いぞ、と言った。
ソラはとろとろと瞼を落として、直ぐに寝息を立て始める。

 ソラの寝息は穏やかなものだ。
環境の所為で寝難いとは言ったが、それでも全く眠れない程ではなく、彼の体を休める程度には保てているらしい。

 レオンはソラの傍を離れ、洞窟の出口へと近付いてみた。
音が聞こえる通り、強い風が吹きつけている所為で、雨が洞窟の中へと吹き込んでいる。
しかし、風の強さに反して、雨量は心なしか少なくなっているように見えた。
少しだけ、と外に出てみると、風がレオンの長い髪を大きく揺さぶったが、雨は思っているよりも激しくない────が、


(雲はやっぱり重いな。この雨の弱さは、今だけか)


 目を凝らして森の上を見てみると、鉛色の雲が覆いかぶさっている。
ゴロゴロと言う不穏な音も聞こえてきた。
この島全体が嵐に襲われているのかも知れない。


(…だとすると、海辺にいると危なかったかも知れないな)


 昨日のソラの話では、この島は最初に二人が思ったよりは大きくなく、高い場所に行けば全景が見渡せる程度だったと言う。
存在を主張するような遮蔽物や、岩場や山と言った類もなかったようで、島の大部分は専ら森で覆われていたそうだ。
となると、海を渡ってきた嵐が何かに遮られる事もなく、海上で成長した大きさのまま、島全体に覆い被さっていても可笑しくはない。

 ちらりと洞窟横の川を見ると、吹き付ける風と、上流から流れてきたのであろう水で、流れが激しくなっている。
海岸も同じような状況に見舞われているとすれば、高波でも襲ってきていたかも知れない。
そう考えると、昨日の内に海岸に戻れなかったのは、幸運であった。


(……こんな状態では、船も島には近付けないだろうしな……)


 流れ着いた海岸には、港代わりに出来るような場所はなく、遠浅が続いているだけだった。
船が近くまで来たとしても、接岸してレオン達を回収するのは難しかったに違いない。

 眺めている間に、また雨脚が強くなっていく。
やはり一時的に弱まっていただけか、と予想通りに動いた天気に、レオンは溜息を吐いて洞窟の中へと戻る。

 ぱち、ぱち、と火花の爆ぜる音を聞きながら、焚火の傍に腰を下ろす。
ほんの少し外の風に触れていただけなのに、随分と体が冷えてしまったような気がする。
昨日はソラの厚意に甘えて休息したが、やはりレオンの体も本調子ではないと言う事なのだろう。
ソラが十分に休めるように、昨日の分まで自分が働こうとは思ったが、無理をすれば明日また動けなくなってしまう。
無用な体力は使わないように、レオンも今日は外に出ない方が良いだろう。


(……薪の量を少し調整するか。せめて夜までは持たせたい)


 限りのある資源は、今のペースで使って行けば絶対に足りなくなる。
焚火が小さくなれば洞窟内はまた冷えてしまうが、維持を優先するのならば仕方がない。

 ぐう、とレオンの腹の虫が鳴り、視線が焼き色のついた魚へと移る。
ソラを起こすか迷って、レオンは止めた。
先はあまり食欲がないように言っていたし、服が着れたお陰か、ソラは深い眠りの中にいるようで、ようやくゆっくりと休めているのなら、邪魔をするのも良くない。
レオンは自分の空腹を宥めてから、また次の準備を始める事にした。

 清流で育った魚は臭みも少なく、今の環境にあっては良い食料なのだが、体調不良のソラに食べさせるのは如何なものか。
火もある事だし、魚の骨を出汁にすれば良いスープが作れそうだが、生憎と食器もなければ鍋もない。
バケツが代わりにならないだろうかと考えるものの、魚の生簀にしているし、ボロボロのバケツが火に耐えられるとも思えなかった。


(やっぱり無い物強請りだな。道具がなければ、碌に出来る事がない)


 はあ、と溜息を吐いて、レオンは鬱々と沈みそうになる思考を追い出す。
無い物強請りは、この状況に限らず、幾ら考えてもキリもなく、どうしようもない事だ。
気持ちを切り替え、今の環境で出来る事を探す方が良い。


(今の俺が出来る事────……)


 それこそ幾らもない、と思いながら、レオンの視線は眠る少年へと向けられる。
音を立てないように近付いて、寝顔を覗き込んでみると、ソラの額に薄らと汗が滲んでいた。
前髪を避けて掌を当ててみると、じんわりとした熱が感じられる。


(発熱しているのか。やっぱり風邪かな)


 ソラの寝息はまだ穏やかで、熱が彼を苦しめている様子はなかったが、このまま体温が上がれば辛くなるだろう。
いっそ自分に伝染ってしまえば良いのに、と思ったが、レオンは直ぐに頭を振った。


(そんな事をしても、ソラにまた負担をかけるだけだ。これ以上、俺の所為でソラに苦労をかける訳には行かない)


 レオンはソラの隣で横になり、小柄な体を抱き寄せた。
このまま熱が上がれば、きっとソラは寒いと言い出すだろう。
その時に少しでも彼が凍えないように、自分の体温で守るように包み込む。

 ソラは少しむずかるように唸る声を零したが、目を覚ますことはなく、暖を求めるようにレオンの胸へと頬を摺り寄せてきた。
麻布は頑丈で冷気を遮断する程度に役に立ってはくれているが、ごわごわとした感触は寝床としては不快だろう。
それに比べれば、仄かに熱の感じられる人体の方が、密着していて心地が良いかも知れない。
レオンも漂着した日はソラに抱き締めて貰って安心したし、ソラも同じ気持ちになってくれたら良いな、と思いつつ、レオンは腕の中の少年の背中を柔らかく撫でていた。




 レオンは終始ソラの傍らで過ごしながら、弱くなる火の番をしていた。
出来れば夜になるまでに一度薪の補充が出来ればと思っていたが、願い空しく、雨風は弱まらないまま夜を迎えた。
少なくなった燃料でどうやって明日の朝まで持たせようか考えつつ、早く夜と嵐が過ぎてくれるように祈る。

 じっとしていても腹は減っていくもので、レオンは火がこれ以上弱まる前にと夕食用の魚を焼き、残った小さな魚は燻製にする事にした。
串に刺した魚が焼き上がるのを待つ間に、ソラのナイフを使って燻製用の魚の下処理を済ませて置き、焚火が消えるまで燻して置く事にした。
その途中でソラが目を覚まし、喉が渇いた、と言った。
水なら洞窟に流れ込んでいる川があるが、嵐による増水に伴い、清らかだった水には濁りが出ていた。
今日は飲み水にしない方が良いと考えて、レオンは昨日ソラが収穫してきた木の実を食べさせる事にした。
それがその日のソラの夕飯になった。

 焚火がかなり小さくなると、洞窟内の温度もみるみる内に下がっていく。
レオンは出来るだけ火の近くで過ごすようにしていたが、それでも肌寒さは誤魔化せず、剥き出しの二の腕を何度も摩った。
自分の体感温度が低くなると、レオンが気になるのはソラの様子だ。
作業の合間を見てはソラの隣で横になり、彼の体が冷えないように抱き締めて過ごしていたレオンだったが、やはり洞窟全体が冷えると、発熱してきたソラには堪えるものになっていた。


「んぅ……」


 何度目かのソラの唸る声に、レオンは閉じていた目を開けた。
うつらうつらとしかけていた意識だったが、目の前で眉根を寄せているソラの顔を見て、直ぐに覚醒する。
レオンは直ぐ近くにあるソラの額に、自分の額を押し当てた。


(……熱が上がっている。本格的な発熱だ)


 今までの微熱に近いようなものではなく、明らかな体温の上昇。
抱き締めた腕の中で、小さな体が小刻みに震えているのが判った。
服を乾かす目的があり、早い回復を望んでいたからとは言え、やはり一気に燃料を消費させたのは痛かったか。
しかし、今更になって悔やんでもどうしようもない事だ。
すまない、と自分の浅慮を悔いつつ、レオンはソラを抱く腕に力を込めた。


「…寒いか、ソラ」
「……ん、う……」
「……俺はそれ程体温が高くないからな。足しにもならないかも知れないが、少しだけ我慢してくれ」


 意識のないソラに詫びるように語りかけながら、レオンはソラの背中を撫でる。
其処に寒気があるのなら、少しでも和らいでくれと祈りながら。

 少しでも早く、元気になって欲しいと思う。
ソラが元気に笑ってくれると、それだけでレオンは、何もかもが何とかなってしまうような気がするのだ。

 基本的にレオンは根拠のない自信と言うものを信用しない質だが、ソラに限ってはそうではない。
無邪気に、純粋に、自分の思うようにまっしぐらに走るソラの姿は、二の足を踏み勝ちなレオンにとって、眩しく羨ましいものだ。
そんな彼に手を引かれていると、向かう先がいつも明るいものに満たされているように思えて来る。
そして実際に、これまでの旅路の中で、ソラはいつもレオンに光を与えてくれた。
舵を失った船の底で、ソラが自分を見つけてくれた時から、その光はいつもレオンを水面へ押し上げてくれるのだ。

 そんなソラを、レオンは守りたいと思う。
自分よりも年下でも、海賊として短くはない海上生活を送っているソラに、“守りたい”等と烏滸がましいとも思うが、ソラが元気で笑っていられるように出来る事をしたい。
だが、気持ちばかりは強くあっても、現実にはレオンが出来る事と言うのは限られている。
今も熱に喘ぐソラを楽にしてやる事が出来ず、傍にいて、暖を分け与えるしか出来ない。


(……悔しいな。俺はいつもこうだ。肝心な時に何も出来ない)


 そう思った瞬間、じわりとしたものがレオンの視界に滲んだ。

 レオンの脳裏に浮かぶのは、守ろうとした人に守られた瞬間の記憶だ。
突き飛ばされて冷たい水の中に落ちた時、どうして、と思ったが、同時にその理由も理解した。
あの場に自分が残った所で、何かが出来た訳でもない。
判断が早かったのが、自分かそれ以外だったか、それだけの話だ。

 それでも、あの場に自分が残っていれば、此処で生き延びていたのはあの人だったかも知れない───そう考えると心が苦しくなる。


(……たらればを言っても仕方がないか……)


 こんな思考は、今日に至るまでに何度となく巡らせた。
その度、考えるだけ意味のない事だと思って、思考をシャットアウトする。
今日もまた、レオンは早々に考える事を止めた。


(それより、気にするのはこっちの事だ。ソラ……汗を掻いているな。拭いてやる事は出来ないだろうか)


 レオンは起き上がり、暗い洞窟の中で、散らばっている荷物を見回した。
一昨日小屋から持ち出した道具に使えるものはないので、自分の服のポケットに手を入れてみる。
ズボンの尻ポケットは空っぽだったが、ふとジャケットのポケットの事を思い出した。
ソラの敷布団代わりにしていたそれをそっと抜き取り、ポケットを探ると、白いハンカチが一枚入っていた。


(入れっぱなしにしていたのを忘れていたな)


 レオンはジャケットをまたソラの体の下へと戻し、ハンカチを広げてみた。
縦横10センチ程度の小さなハンカチは、真っ白だった筈なのだが、此処数日の生活の所為か、微かに泥土が染み込んで汚れている。
が、この際その程度の汚れは気になる程でもない。
十分に使えると踏んで、レオンは川へ向かった。

 川の水はまだ泥が混じっていたが、日中の雨風がピークだった時に比べると、濁りは薄くなっているように見える。
レオンはハンカチを水に浸し、しっかりと絞った。
ソラの下に戻り、冷たくなったハンカチを赤らんだ頬に当ててやると、「ふあ……」と微かにソラが嬉しそうな声を漏らす。


(……子供の頃、俺もこうして汗を拭いて貰ったな)


 朧な記憶に過ぎる光景に、あの時はなんだかとても安心した、と思い出す。
あの時の自分と同じように、ソラが少しでも安心できていると良い、と思いつつ、ソラの首筋の汗を拭く。


「んぅー……」


 もぞもぞとソラが身動ぎをして、ごろん、と寝返りを打つ。
麻布が蹴り飛ばされ、冷えるだろう、とレオンは眉尻を下げつつ、ソラの体にかけ直した。
が、ごわごわとした感触が嫌なのか、ソラは手足を動かしてまた麻布を退かしてしまう。
仕方がないと直す事は諦めて、レオンは今のうちにソラの体を拭いてやる事にした。

 顔回りを拭いただけでもソラは心なしかすっきりとした寝顔になったが、折角なので体も少し拭いておく。
シャツを捲ると、少年にしては確りとした体つきがあり、船上生活で必然的に鍛えられたのだと判る。
しかし、少年らしい柔らかさもあって、面白いな、とレオンは思った。

 長い時間をかけていれば体が冷えてしまうので、手早く済ませて服を着せ直す。
レオンはハンカチをもう一度濡らし、形を整えてソラの額に乗せる。
小さくなった焚火に薪を足してから、またソラの隣に横になった。


(火を維持する為にも起きていたいけど、眠ってしまいそうだな……)


 横になって一つ息を吐き出しただけで、一日の疲労が襲い掛かってきたように体が重く感じられた。
昨日のソラのようにあちこち動き回った訳ではないが、数日分の疲れも癒え切らない日々を送っているから、ふとした瞬間に一気に疲れを自覚する瞬間がある。
体を横たえると、体が少しでも長い休息を求めて、瞼が重くなって来る。

 うとうとと睡魔に意識が揺れていると、もぞ、とソラが身動ぎする。
丸くなろうとしているのを見つけ、レオンはソラの体を抱き寄せた。
ぽんぽんと背中を撫でてあやしていると、


「んんー……」


 ソラの眉間に皺が寄って、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
ぼんやりとした目がしばらく暗い天井を見つめた後、頭が傾いて、空色の瞳にレオンが映った。


「……レオン……?」
「ああ。目が覚めたか?」
「……うん……」


 やはりソラの反応は鈍く、起きてはいるが、体調が回復したと言う訳ではなさそうだ。
眠りがたまたま浅くなり、目が覚めたと言った所だろう。

 横を向いているソラの額から、ハンカチが落ちる。
起きているのならこれは邪魔かな、と思いつつハンカチを拾い、ソラがまた眠ったら元の位置に戻せるようにと脇に退けて置く。


「少し熱が出ているようだが、辛くはないか?」
「……ちょっと寒い……」
「そうか。これでどうだ?」


 寒気を訴えるソラに、レオンは体を寄せて密着した。
麻布越しでは体温は共用出来そうにないので、少しだけ中に入れて貰う。
元々大きな木箱を隠すように覆っていた布だが、レオンの足元は少しはみ出てしまう。
出来るだけ自身の体温も逃がさないようにと、レオンは足先を丸めて麻布の中に納めるようにした。

 二人で猫のように丸くなっていると、レオンの胸に埋められていたソラの顔が上げられ、じっとレオンの顔を見上げた。
観察するように見つめるソラに、「なんだ?」とレオンが声をかけると、


「……レオン、なんか……」
「ん?」
「……いいにおいする……」


 そう言ってソラは、またレオンの胸に顔を埋める。
レオンはソラの言葉に、くつくつと笑いながら言った。


「汗臭いの間違いじゃないか」
「んんー……」


 ふるふる、とソラが小さく首を横に振る。
ソラの腕がレオンの体に回されて、ぎゅう、と抱き着いた。
レオンの大きな胸のソラの顔が隙間なく埋もれており、呼吸し辛くないのだろうか、とレオンは思うのだが、すりすりと頬擦りをしている所を見るに、どうやら苦痛は感じていないようだ。


「レオン、いい匂いだよ」
「それなら、まあ、良いか。寒くはないか?」
「うん。レオン、あったかい」


 レオンの背に回されたソラの腕が、ぎゅ、と力を籠める。
小さな子供に甘えられているようで、レオンも口元が綻んだ。


「腹は減っていないか?焼けた魚がまだ残ってるんだ」
「んー……いい。それより、もっとぎゅってして」
「こうか?」


 空腹よりも、今は温もりが欲しいと言うソラを、レオンは柔らかい力で抱き締めた。
より密着した感覚が得られたのか、ソラが「えへへー……」と嬉しそうに笑う。
胸の谷間から覗いているその顔が、普段の快活さとは違い、甘えん坊の幼子を彷彿とさせた。
年上ばかりの仲間達の前では、子供扱いを嫌っている事もあってか、誰かに甘えると言う様子を───少なくともレオンの前では───見せる事はなかったのだが、本調子でない事に加え、夢現の意識とあってか、少年特有の負けん気の強さよりも、子供らしい素直さが前面に感じられる。

 此処数日の生活の中で、レオンにとって、ソラは頼りになる存在だった。
彼ばかりに無理をさせる訳にはいかない、自分がしっかりしなければ───と思ってもいたが、結局は前向きな彼にずっと引っ張って貰っている。
ソラが言うなら大丈夫かも知れない、と思う程に、レオンは彼を信頼していた。

 しかし、こうして抱き締めていると、やはり小さな存在である事が判る。
自分の腕の中に、すっぽりと納まるサイズだ。
レオンが男性と比べても身長が高い程に体格が良く、ソラが小柄な所為もあるのだろうが、こうして明確な差を感じた事で、レオンは自分が思っていた以上に“ソラ”と言う人物を大きく感じていた事に気付く。


「んにゅ……んぅ……」
「眠るか?」
「……うん……」


 抱き着いたまま、うつらうつらとし始めたソラ。
レオンの声に反応は一層鈍く、瞼がゆっくりと瞬きしており、再度入眠しようとしているのが判る。
ふああ、と欠伸をして間もない内に聞こえ始めた寝息が胸元をくすぐった。

 眠るソラの顔は、熱に魘されている気配もなく、穏やかだ。
額に手を当てると、まだ常温よりも僅かに高い気がしたが、先に測った時よりは落ち着いているように見える。
このまま落ち着いていれば、明日には元気な顔が見れるかも知れない。
それまでソラが寒さを感じる事がないように、レオンは麻布を手繰り寄せて、ソラを外気から遮断する。


「……おやすみ、ソラ」


 囁いても、既に眠っているソラから返事はない。
代わりにレオンの背中に回された腕は、離れまいとする意思の表れのように、ソラが深く眠っても解かれる事はなかった。
レオンはそんなソラの頭を撫でて、小さくなっていく焚火にゆらゆらと照らされる寝顔を見つめていた。