空と海の境界線上 憧憬編


 ふわふわと、ぽかぽかと。
柔らかくて暖かいものに包まれているのを、夢の中で感じていた。
それはとても心地良く、遠い何処かで一度、よく似たものに抱かれていたような気がする。
けれども、それとはまた違う、吸い込まれそうに甘い気配も感じていた。

 ずっと此処にいたいな、とソラは思ったが、目を覚ます時間は望まなくともやって来る。
ピチョン、ピチョン、と言う小さな音に促されるように瞼を上げたソラが最初に見たのは、肌色をした柔らかな谷だった。
殆ど距離のないそれから、夢の中でも感じていた、温もりと仄かな甘い匂いがする。
混じって少し塩っぽい匂いも感じられたが、それも不快なものではなかった。
頬に当たる柔らかい感触が気持ち良くて、ソラは睡魔の抜けきらない目を細め、猫が温もりを求めるようにそれに顔を埋めた。


「ん……」


 と、そうして耳元で聞こえてきた声に、あれ、と思ってもう一度目を開ける。
手招きする睡魔に、ちょっと待って、と言うように、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ソラは顔半分を柔らかなものに埋めたまま、上目になった。

 ソラの瞳に映ったのは、薄く唇を開けて眠る、レオンの顔。
殆ど光のない空間でも、その顔がはっきりと判る程の距離に、レオンの顔はあった。
え、とソラが目を丸くして固まっていると、レオンはもぞもぞと身動ぎをして、ソラの背に回していた腕に力が籠る。
ぎゅう、と閉じ込めるように確りとした力で抱き締められたソラは、むにゅう、と大きな胸が自分の顔に押し付けられている事に気付き、一気に沸騰した。


(えええええええええええ)


 悲鳴にも似た驚愕の声を上げなかったのは、食らった衝撃が余りにも大きかったからだ。
お陰でぐっすりと眠っているレオンを起こす事はなかったが、ソラを抱き締める彼女の腕が解かれる事もなく、まるで抱き枕のようにぴったりと身を寄せられて、ソラは益々混乱する。


(えっ、ちょ…っ、なんで?なんでこうなってんの?)


 パニックを起こしたソラであったが、渦巻く疑問に答えてくれる者はいない。
昨日は何があったんだっけ、と必死に記憶を巻き戻せば、昨日一日の記憶は総じて曖昧で、事の経緯を思い出す事は出来なかった。
なんでそんなに何も覚えていないんだろう、とソラはそれさえも判らない。

 しばらくぐるぐると目を回していたソラだったが、一分二分と時間が経つと、徐々に現実と向き合える程度の理性が戻ってきた。
もう一度、恐る恐る顔を上げてみると、やはり其処には眠るレオンの顔がある。
それから目線だけで辺りを見回して、ようやく此処が洞窟の中であり、遭難した自分達が一時の寝床として利用していた場所であると思い出した。
殆ど明かりが入らないような暗い空間だが、少し離れた場所にある出入口の横穴から、眩しい光が差し込んでいる。
それが洞窟内に流れ込んでいる川の水面に反射して、洞窟内に僅かな光の恩恵を与えていた。
目覚めた時に聞いていた、ピチョン、ピチョン、と言う小さな音は、洞窟の天井から染み出した水滴が、川に落ちる音であった。

 洞窟の中はひんやりとしており、麻布を布団替わりに被っても、暖かいと感じるには程遠い。
着込んでいればもう少し違ったのかも知れないが、上着を浜辺に置いてきたソラには、どうやっても冷気を感じてしまうものだった。
しかし今は、ぴったりと密着したレオンの体温のお陰で、殆ど寒さを感じない。


(……あったかい。あと、ちょっと…いい匂いが、する、気が……)


 其処まで考えて、またソラの顔が赤くなる。
匂いを感じられる程、レオンの体が、存在が近くにあるのだと感じる度、ソラは言い様のない感覚に襲われた。

 うわああああ、とまた目を回すソラを他所に、もぞ、とソラの足元で何かが動く。
縮こめられたレオンの足だった。


「う…んん……」


 レオンの綺麗な形をした眉が僅かに潜められた後、長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。
ぼんやりとした光を湛えた青灰色の瞳が暗闇の中で浮かび上がり、少しの間、何もない中空を見つめていた。
寝惚けてる、と思いながらソラはその顔を見詰める。
レオンはしばらく茫洋とした顔で過ごした後、腕に抱いていた少年へと視線を落とし、


「……ああ」
「お、おはよ」
「……うん。おはよう」


 ソラの存在を思い出したように声を零したレオンに、ソラはどもりつつも朝の挨拶をした。
レオンはそれに応えると、少しカサついた手をソラの頬に当てる。


「……うん」
「レオン?」


 何かを確かめるように、レオンはゆっくりとソラの頬を撫でる。
それから顔を近付けてくるレオンに気付き、ソラはえっと目を丸くした。
レオンの形の良い唇が目の前に迫ってくるのを見て、ソラの心臓がどくどくとはち切れそうに音を立てる。
ちょっと待って────とソラが声を上げるよりも前に、こつん、とソラの額とレオンの額が当たった。


「……え」
「……うん。良かった、下がったみたいだな」


 傷のある額をソラに当てたまま、レオンはそう言った。
額を離すと、レオンはほっとした表情で起き上がる。


「んん……流石に体が痛いな。ソラは大丈夫か?」
「えっ。あっ。う、うん。多分」


 腕を頭上に伸ばして固くなった背筋を伸ばしながら言うレオンに、ソラは慌てて頷いた。
それを聞いてレオンは、もう一度「良かった」と言った。


「昨晩は熱が上がっていたからな。寒いとも言っていたし」
「……あー……なんか、そう言われると、そんなだった気もして来るような」
「焚火も炊いてはいたんだが、昨日もずっと土砂降りで、薪を集められなくてな。夜には無くなってしまいそうだったし、俺も寝てしまいそうで。やっぱり眠ってしまったな。それで火が消えると、また洞窟が寒くなるだろう?体を冷やすのは良くないと思って、俺の体でも湯たんぽ代わりになればと思ったんだ。一応、効果はあった───のかな」


 冗談めかして笑いながら言うレオンであったが、それでずっと温かい気がしていたのか、とソラは思った。
夢と現実の境目でうとうととしていた時から、ずっと感じていた心地よい熱は、レオンのものだったのだ。
それを知ると同時に、レオンが自分の為にと身を挺して世話をしてくれていたのだと判り、とくん、とソラの心臓が一つ音を鳴らす。

 よく判らない鼓動の鳴った自分に、ソラはおや?と首を傾げる。
レオンはそんなソラに気付かず、軽い柔軟運動をしながら言った。


「腹は減っているか?昨日の夜、魚を燻製にしてみたんだ。上手く出来ていると良いんだが」


 レオンは体の筋肉を解した後、少しふらつく足を支えつつ、焚火の名残のある場所へ向かった。
薄暗い洞窟の天井に、蔓をロープ代わりに何かが吊るしてあるのが見える。
レオンはそれを天井から降ろすと、ソラの傍に戻ってきて、蔓に括り付けていた魚の干物を見せた。


「少し味見をしてみる。生が残っていると怖いしな」
「オレ、ちょっと位平気だよ?」
「普段はそうでも、病み上がりだろう。止むを得ない状況ではあるが、危険は少ない方が良いものだ」


 言いながら、レオンは水分が抜けた一尾を齧る。
少し固くなって噛み応えの増した魚肉をしばらく噛んで飲み込み、


「────うん、大丈夫そうだ」
「どれでも良い?」
「ああ。当面の食料で持っていたいから、全部と言う訳には行かないが……」
「大きいのが良い」
「勿論、良いぞ」


 ソラの希望に応えて、レオンは一番大きかった魚をソラに差し出す。
ソラが嬉しそうにその魚を齧るのを見て、レオンも満足そうに口元を緩めた。

 水分が抜けた事で魚は随分と小さくなっており、大物であった筈の魚も随分と小さくなっていたが、代わりによく噛めるので満腹中枢は刺激される。
魚の干物ってこんなに美味いんだ、とソラは初めて知った気がした。
噛んでいる内にじわじわと味が染み出てくるので、早食いの気があるソラでも、長く噛んでいたいと思え、飲み込むまでに時間がかかる。
その間、ソラが嬉しそうに顎を動かしているのを、レオンは微笑ましそうに眺めていた。


「腹一杯にはならないだろうが、少しは足しになったか?」
「うん。ごちそーさまっ、すっごく美味かったよ!」
「お粗末様。ティファに魚の捌き方を教わっていて良かった。俺でも役に立てたんだから、帰ったらティファに礼を言わないとな」


 真っ直ぐに褒めるソラに、レオンは少し照れ臭そうに笑いながら言った。

 食事を終えると、二人は洞窟内に散らばった荷物をまとめ、外へと出た。
一日振りに迎えた外界は、満点の青空に覆われ、辺りを覆う森の木々に残った天雫がきらきらと反射して美しい。
傍を流れる川は一昨日よりも増水していたが、昨日のように泥の濁りはなくなり、清流の色を取り戻していた。
一昨日の夕方の事を思うと、またいつ急な天気の変化があるか判らないが、出発するのなら今を置いて他にはない、と思う程の晴天である。


「よっし。じゃあ出発しよっか」


 ソラの言葉に、レオンが頷く。


「海へ向かえそうな道を見つけたんだったな」
「うん。ちょっと戻った川の分かれ道の所で、違う方向に流れてる奴。この前、ちょっと先まで行ってみたら、海の方まで続いてるっぽかった」
「じゃあ、今日はその川をずっと下っていってみようか」


 ソラとて川の先の先まで見た訳ではないから、また行き止まりにぶつかるかも知れない。
しかし、そればかりを考えていても、海まで辿り着く事は出来ないのだ。
行こう、と両手を振って歩き出すソラに並んで、レオンも歩き出した。




 朝方に見付けた小さな島に、ディスティニーアイランド号が寄せられる。
海岸付近まで船を近付けようとするが、生憎と遠浅になっており、喫水が浅いディスティニーアイランド号でも、あまり近付く事は出来なかった。
小船を出して足が届く深さの場所まで漕いでいる所に、ユフィが海岸に立てられた不自然な物体に気付いた。
一緒に小船に乗り込んでいたティファが望遠鏡で確かめると、其処には突き立てられた長い木の枝に、見覚えのあるジャケットが括り付けられていた。

 クラウド、ユフィ、ティファの三人で上陸し、直ぐに件のものを確かめると、間違いなく逸れた仲間────ソラが愛用している上着である事が判った。
ソラが此処にいる、と言う何よりの確信を得た三人は、船に残っているシドとエアリスにジャケットを見付けた事を伝え、海岸を中心にソラ、共に海へと落ちたレオンの行方を捜す事にした。

 海図から見る情報では、島はそれ程大きなものではないのだが、海際の外周を一周するのに、人の足では一日から二日はかかりそうだった。
此処から泳いで渡れるような距離には島影すらないので、幾ら無茶をし勝ちなソラでも、一人で大海へ泳ぎ出すような真似はしないだろう。
となれば、十中八九、彼は島の何処かにいる筈だ。
レオンは一緒にいるかなあ、と嵐の日からずっと彼女を心配しているユフィには、クラウドもティファも、きっと大丈夫だろう、と希望観測の滲む言葉を返すのが精一杯だった。
海岸にはソラのジャケットしか残されておらず、彼が歩いたのであろう足跡も残されておらず、レオンに関する情報は何もない。
海に落ちた時、彼が上手くレオンを捕まえる事が出来ているのならば、一緒に流れ着いたかも知れないが、それも保証のない話である。
今はとにかく、ソラの発見と、レオンがその傍らにいる事を願って、捜索を続けるしかなかった。

 クラウド達が海岸沿いを調べた結果、遠浅の海岸には殆ど魚が寄り付かず、食料となりそうな物が見当たらない事が判った。
嵐の日から日数が経っている事を考えると、食料を求めて島の内部へと入った可能性は高い。
三人は手分けをして森に入り、危険な生き物がいない事を確認してから、彼らの名を呼んで探し回ったが、返事はなかった。
ユフィが背の高い木に登って周囲を確認すると、島の大部分は鬱蒼とした木々に覆われており、方向感覚を失ったら、元の海岸に戻るのも難しそうだとの事。
食料を探している内に、戻るべき海岸から離れてしまい、道に迷っている事は十分に考えられた。

 自分達も同じように森を進むか、とクラウドは考えたが、それよりは島の外周の沿岸を探した方が良いかも知れない、とティファが言った。
島は全方位が海に囲まれており、海抜の差は所によってはあるものの、沿岸部は総じて見通しもよく、海に沿って歩いていれば、やがては最初の海岸に辿り着くことが出来る。
ソラがその事に気付いてくれたら、道に迷ったとしても、海岸に出る事さえ出来れば。
或いは最初から森の中に入らず、ディスティニーアイランド号を自ら見付ける為に、沿岸部を歩いて移動している可能性も否めない。

 クラウド達は一旦船に戻り、自分達は沿岸を反時計回りに進むから、船は島を時計回りに回って欲しい、とシドに頼んだ。
こうすれば、ソラが沿岸付近にいれば、どちらかが合流する事が出来る筈。
ソラ達が見つかれば狼煙を上げて合図し、クラウド達がいるポイントを示して、船がそれを迎えに行くと言う事にした。

 そうして、午後に差し掛かる頃から、クラウド、ティファ、ユフィの三人は再び島へと上陸し、沿岸部を歩き続けている。
潮騒の音がする静かな海岸は、きらきらと降り注ぐ日差しもあって、まるで歓声なリゾート地だ。
景色も決して悪くはないのだが、如何せん、状況が状況である。
いつもならこの環境にはしゃいで遊びたがるユフィも、嵐の日から続く責任感もあり、黙々と仲間達の姿を探して歩き続けていた。

 ざくざくと細かな貝殻が混じる砂浜を歩くユフィ。
クラウドとティファは、その背中を眺めるように見守りながら歩いている。
心なしかユフィの足が急いているのをクラウド達は感じていたが、声をかける事はしなかった。
この島に辿り着く道中で、ユフィはエアリスやティファから何度も宥められていたが、それでも彼女は自分の責任を強く感じているのだ。
その想いは、海に投げ出された仲間達の無事が判るまで、どう足掻いても晴れるものではないのだろう。
だからせめて、先走って逆に見落としてしまうような事のないように、冷静さだけは失わないようにと言い聞かせるに留めていた。

 とは言え、年上のクルー達も、ユフィの事ばかりが気になっている訳ではない。
ソラやレオンを一刻も早く見付けたいと言うのは、ディスティニーアイランド号の船員全ての願いだったのだ。

 小さな島で流れる時間は、随分とゆっくりとしたものに感じられた。
それでも太陽は南天を通り過ぎ、眩しさに気付いた時には、西の海に橙色の太陽が沈み行こうとしていた。
島の外周は、四分の一程度は回っただろうか。
野宿をする前に、ユフィにまた高い場所から島の現在地点を確認して貰おう、とクラウドがユフィに声をかけようとした時だ。


「─────あ!!」


 よく通る、高い声が響く。
ユフィの声だ。
どうした、とクラウドが声をかける前に、ユフィは一目散に走り出した。


「おい!」
「ユフィ、待って!」


 慌ててクラウドとティファも走り出し、ユフィの後を追う。
そうして、砂浜の向こうから伸びている二つの影に気付いた。


「あれは、」
「ソラーーー!レオンーーーー!!」


 クラウドが影の正体をはっきりと確かめる前に、ユフィの声が響き渡る。
ぶんぶんと手を振って、気付いてと全身で訴えるユフィに、小柄な影が背伸びしながら両手を振った。


「ユフィーーーっ!」


 小柄な影が此方に向かって走り出す。
その隣を歩いていた背の高い影も、長いポニーテールの髪を揺らしながら、小さな影を追って走り出した。

 あっという間に影と影の距離は縮まり、夕焼けの逆光を受けた、ソラとレオンの顔がはっきりと見える程の距離になる。
二人は全身を土埃や泥で汚し、足元も少し覚束ないようだったが、走って来る姿は五体満足である。
ソラに至っては、疲れていないのか、とクラウドがこっそりと思ってしまう程、ぴょんぴょんとウサギのように跳ねている程だ。
レオンの方は流石にそんな元気はないようで、段々と走る足も重くなっていたが、それでも最後の気力を振り絞るように走り続けて、


「レオンーーーーーっ!」
「あ、」


 ユフィはソラの横を素通りして、そのままレオンに飛び付いた。
息を切らせていたレオンが、突進宜しく抱き着いてきた彼女を受け止められる訳もなく、背中から砂浜へと倒れてしまう。
諸共にユフィもレオンの上に倒れ込み、浜辺の砂が舞い上がった。


「いたた……」
「いててて……」
「何やってるんだよ、ユフィ!」
「ごめん、つい。レオン、大丈夫?」
「ああ」


 通り過ぎた分を戻ってきたソラに怒られ、ユフィはレオンを助け起こしながら詫びる。
悪気はなかったが、疲れ切っているであろうレオンには中々厳しい仕打ちであった。
しかし、レオンはユフィの手を借りて起き上がり、ほっとした顔でユフィを、そして追いついてきたクラウドとティファを見上げ、


「良かった。皆、無事だったんだな」


 嵐の日以来となる恩人達との再会に、レオンは安堵した表情を浮かべていた。
疲労の色の滲む顔で、自分達の無事を喜んでいるレオンの貌に、ユフィはようやく胸の奥を刺し続けていた棘が抜ける。


「レオンん〜〜っ!」
「!」


 じわじわと涙を浮かべたユフィに抱き着かれ、レオンは目を丸くする。
ぎゅうう、と力一杯に抱き着いて離れないユフィを見て、レオンの口元がそっと緩み、指先の爪が割れた手が、ショートカットの黒髪を撫でた。

 抱き合っているユフィとレオンを横眼にしつつ、クラウドとティファはレオンの隣に立っている少年船長と向き合った。


「無事で何よりだ、ソラ。ほら、服を返すぞ」
「あ、ありがと」
「それのお陰で、ソラがこの島にいるって判ったの。良い目印になってくれたよ」
「そっか。良かった!」


 潮風に晒されたジャケットに袖を通しながら、ソラが嬉しそうに笑う。
ティファは数日振りに見るその笑顔に頬を緩め、すっかり傷んだ大地色の髪をくしゃくしゃと撫でてやった。


「ソラ、お腹空いたでしょう。船に戻ったら、直ぐご飯にしなくちゃね」
「ご飯!やったー!」
「が、その前にお前もレオンも風呂だな。いや、それよりもエアリスに診て貰うのが先か」
「そうね。体の事とか、他にも色々。ソラもだけど、レオンも手がボロボロだわ。大変だったのね」


 ティファの言葉を聞いて、ユフィがレオンの手を握ってまじまじと覗き込む。
彼女の言う通り、レオンの手は、少し前まで洗濯物の洗い方すら知らなかったとは思えない程に傷だらけになり、爪の隙間から赤い色も滲んでいた。


「うわっ、ホントだ!ソラもじゃん。グローブもしてないし」
「色々やってたら使い物にならなくなったんだよ」
「そう、だな。火を起こしたり、ヤシの実を割ったり……中々勉強になったよ」
「暢気だなあ。うわぁ、いったそ〜……」


 レオンの言葉に、ユフィは呆れたように言いながら、また彼女の手を見てその痛ましさに眉根を寄せる。
ユフィの両手がレオンの手を包むように握って、労わるように摩る。
レオンはくすぐったさに眦を細めながら、ユフィの心遣いに甘えていた。

 ティファもソラの手を見て、こっちも結構大変ね、と呟く。
まだ少年らしい柔らかさがあった筈の手が、水分の不足を示すように、爪先が欠けていたり、泥土が残って黒くなったり。
ハーフパンツから覗く膝下には痣もある。
顔色も、今は表情こそ明るいが、決して血色が良い状態とは言えないので、船に戻ったらエアリスが忙しくなるに違いない。
それは船の食事を預かるティファも同様であった。

 ソラと合流できた事を船へと知らせる為、クラウドが発煙筒に火を点ける。
花火のように上空高く打ち出された煙が細長い蛇を作るのを見て、ソラが言った。


「これ、狼煙?」
「ああ。シド達が船で、反対側の沿岸を周って貰っていた。どっちが合流しても合図して、俺達は拾って貰う手筈になっているから、日は暮れてからになるかも知れないが、待っていれば近くまで船が来るだろう」
「だからもう休んでいて良いよ」
「ホント?良かったぁ〜。もうクッタクタでさあ」


 ティファの言葉を聞いて、ソラは判り易くホッとした顔をして、その場にどさっと座り込んだ。
お互いを見付けた瞬間、元気良く走っていたソラだったが、今日までやはり大変な日々を送っていたのだろう、体は限界だったようだ。
そのまま浜辺に倒れて大の字になるソラに、ティファが「お疲れ様」と笑いかけると、ソラは頬を赤くして笑った。



 ゆらゆらと揺れる波の感覚が、酷く懐かしい。
そう感じられる程に、レオンとソラの遭難生活は過酷だったと言う事だ。
それでも、二人揃って無事にディスティニーアイランド号に戻る事が出来たのは、幸いと言う他ないだろう。

 クラウド達が言っていた通り、二人は先ず船医を担うエアリスの診察を受ける事になった。
過度の疲労は勿論、食料や飲み水も満足に得られる環境ではなかった為、二人の胃袋は殆ど空っぽだった。
昨夜の内にレオンが作り、今日一日の食料としていた魚の干物も、海岸に出る前には尽きていたそうだ。
海岸沿いはやはり魚の類がおらず、今夜分の食料の為に、また森へ入ろうかと話し合っていた所だったそうだ。
そうする前にクラウド達と合流する事が出来たのも、二人にとっては幸運であった。

 診察を受けながら、ソラは遭難してから今日に至るまでの経緯を話す。
海に落ちてから、レオンを抱えて島まで泳いだ事から始まり、一昨日はレオンが、昨日はソラが体調を崩していた事も話した。
エアリスはそれを、うんうんと相槌を打ちつつ、手当をしながら聞いている。


「でもさ、また森に入っても、川探さなきゃいけないからさ。どうしようかって言ってて、じゃあ前に川があった場所まで戻った方が良いかもーって。言ってたら、皆がいて」
「そうなの。じゃあ、若しかしたら、擦れ違ってたかも知れなかったんだね」
「そうそう。な、レオン」


 椅子に座って手当を受けながら、ソラはベッド端に腰かけているレオンに声をかけた。
レオンはソラの言葉に頷いて、すれ違いにならなくて本当に良かった、と言った。

 レオンもつい先程、エアリスに怪我の手当てを受けた所である。
彼女の両手は、指先まで包帯やガーゼで覆われており、明日一日は使わない方が良いと言われている。
生活に不便なので親指は包帯から外させているが、絆創膏は貼られていた。
ソラも手当が終わってみれば同じような状態にされている。


「はい、手の手当ては終わり。体を見るから、服を脱いで」
「はーい」


 返事をしながら、ソラはジャケットを脱ぎ、シャツもぽいっと脱ぎ捨てる。


「───打ち身や擦り傷はあるけど、怪我って言うのはなさそうだね。遭難している間、頭を打ったりした事はない?」
「ないよ。時々転んで、膝擦ったりした位」
「そう。一応、診せてね。……此処にちょっと傷があるのは?」
「んえ?」


 髪をかき分け、頭皮をまじまじと観察しながら言うエアリスに、ソラは首を傾げる。


「え〜、なんだろ……なんか引っ掛けたのかなあ」
「お薬、塗っておくね。ちょっと冷たいよ」
「うへっ」
「我慢、我慢」
「はーい」


 指につけた軟膏薬が小さな傷に塗られ、柔らかく優しく塗り伸ばされていく。
お風呂の後にもう一回塗った方が良いかな、と思いつつ、エアリスは軟膏の蓋を締めた。


「二人とも、お風呂に入る時には、両手は濡らさないようにしてね」
「えーっ、そんなの無理じゃん、絶対濡れるよ?」
「私のビニール手袋貸してあげるから。それを使えば、濡れないでしょ?」
「あ、そうか」
「大きな怪我があったら、お風呂も止めた方が良いんだけど、それはないみたいだし。二人とも、お風呂、入りたいでしょ?」
「入りたい!」
「出来れば、その…シャワーだけでも……」


 着の身着のままで遭難生活を送っていた二人である。
船にして珍しく独立したバスルームが設置されている船に戻って来れたのだから、せめてシャワーだけでも浴びたい、と思う。
エアリスもそれは察しており、遠慮し勝ちなレオンを見ながら言った。


「二人とも、大変だったんだもの。ゆっくりお風呂に入って、体の疲れも癒してね。両手の事だけ、今日は気を付けてくれれば良いよ。レオンも、シャワダーだけなんて言わないで、きちんとお湯に浸かってね」
「……ああ。ありがとう」
「ふふ。でも、お風呂で寝ちゃったりは、しないでね。溺れちゃうから」
「気を付ける」
「オレも!」


 エアリスの言葉に、厚意と気遣いを感じ取って、レオンは素直に甘えると言った。
その事にエアリスが微笑む傍ら、ソラも寝落ちに気を付ける、と宣言する。


「それじゃあ、ソラの方はこれで良いかな。ユフィがお風呂入れてくれてる筈だから、ゆっくり入って」
「飯はー?オレ、腹減ったよ」
「今ティファが作ってるよ。ソラがお風呂から上がる頃には、何か出来てるんじゃないかな」
「じゃ風呂入って来る!」


 ひょいっと椅子から降りて、ソラはたたっと軽快な足で部屋を出ていこうとする。
ゆっくり入る気なのか、食事の為にあっと言う間に出てしまうか、どちらになるかはエアリスには判らないが、ティファの事だから食事前に摘まめる物も用意しているに違いない。
でもお風呂はゆっくり入った方が良いな、とエアリスは思った。

 部屋を出ていこうとした所で、ドアノブを握ったソラの足がぱたっと止まる。
くるっと振り返ったソラの目が、上着を脱いだレオンを映し、


「あわっ」
「ん?」


 慌てて視線を逸らすソラに、レオンはきょとんと首を傾げる。
どうした、と問うレオンに、ソラは視線を外したままで言った。


「あの、えと。晩飯、一緒に食おうなって、言おうと思って!」
「それは……良いが、俺も後で風呂に入らせて貰うから、待たせてしまうかも知れないぞ?」


 腹が減っているんだろう、と言うレオンに、ソラは少し迷うように唸った後、


「へーき!待ってる!」
「……そうか。判った、なるべく早く上がるようにするよ」
「良いよ、オレが勝手に待ってるだけだから!じゃ、お先にー!」


 半ば一方的に約束を取り付ける形で言いながら、ソラは部屋を出て行った。
ばたばたと賑々しい足音が遠退いていくのを聞きつつ、エアリスは去り際の少年の顔を思い出しながら、薄着になって診察待ちをしているレオンを見る。
レオンは少しの間、名残を惜しむようにソラが出て行った扉を見詰めていたが、「あ、」と何かを思い出した声を上げて、エアリスへと向き直った。


「その。さっきソラが言っていた、体調を崩していた時の事なんだが」
「うん。何かあった?」
「いや、何かと言う程ではないと思うんだが……俺は大した事はなかったんだが、昨日の夜、ソラは熱を出していたんだ。今朝には元気になっていたけど、若しかしたら無理をしていたかも知れない。疲れも溜まっているだろうし、ぶり返したりもするかもと思って……」
「判った。注意して見てるね。シド達にも伝えておくから、何かあったら直ぐに診るよ」


 ソラの事が心配なのであろうレオンに、エアリスは努めて安心させるように意識しながら言った。
そんなエアリスの言葉に、レオンが安堵したように唇を緩める。
蒼の視線は閉じられた扉へと向かい、その向こうに消えていった少年の姿を思い出すように、眩しそうに細められる。

 そんなレオンの横顔を、エアリスはじぃっと見つめ、


「んー……」
「……ん?」


 診察とは違う目でまじまじと眺めるエアリスの視線に気付き、レオンは少し怪訝な表情をしつつ、首を傾げる。
何か可笑しい所があるのだろうか、と瞳で訊ねるレオンであったが、エアリスは何も言わずに、にこりと笑って見せるのみ。
レオンはまた首を傾げるが、踏み込まない距離感は相変わらずで、エアリスの笑顔の理由は判らないまま、釣られるように笑って見せたのだった。




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