夏の青春ダイアリー



最上部への最後の一段を上ると、悟空は勢いを殺さずに屋上へと続くドアを開けた。
一気に視界が開け、眩い太陽が二人の瞳を射抜く。
夏の始まりの入道雲が、遠くの山に笠を作っていた。


吹き抜ける青空が心地良い。
これは確かに、悟空でなくても屋上での昼食をと言い出す者もいるだろう。

けれど、この学校の、この校舎の屋上はいつも貸切状態だった。
出入りが制限されているという訳ではないけれど、他者にしてみれば同じような状況かも知れない。
いつしか昼食時間は此処が悟空のお気に入りのスペースとなり、それに伴い、此処で食事を取る者も限定された。
……“彼等”のお陰だろうと、紅咳児は思う。


希望通りの一番乗りが出来たことを、悟空は素直に喜んでいた。
重箱の弁当を片手に、広い屋上を楽しそうに駆け回る。



「やった、一番ー!」
「良かったな」



吹き抜ける風を全身に受けながら喜ぶ悟空に、紅咳児も少しだけ嬉しくなった気がした。



「少し陽射しが強くなって来たな」
「そっか? いいじゃん、これぐらい天気良い方が」
「熱射病にならないように気を付けろよ」



悟空は、太陽の下にいるのが好きだ。
それ自体は健康的だし、悟空に似合うから良いと思うのだが、時々悟空は自分の体の許容範囲を理解していない所がある。
確かに人一倍丈夫な体に生まれ付いているけれど、こうして過去に熱射に負けた事が皆無という訳ではないのだ。

本格的な夏になれば、高い位置にある屋上には尚一層の陽射しが降り注ぐ。
この場所を気に入っていることは紅咳児にもよく判るが、やはり健康を害するのは宜しくない。



「今度、他の場所も探して置こうか」
「えー……オレ此処がいい」
「後者の裏手は木々もあるし、静かだぞ。猫もいるらしい」
「猫? 猫って、ミケ?」
「お前はそう呼んでたかな」



ミケは、学校の裏手に一ヶ月前から住み着いた白と茶色のブチ猫だ。
もとは飼い猫であったのか人に慣れていて、特に悟空にはよく懐いている。
名前は勝手に付けられていて、特に固定されておらず、猫好きの生徒がそれぞれ好きに呼んでいた。



「そっかー……ミケ、昼飯何処で食べてんのかと思ってたけど、校舎裏なんだ」
「クラスの奴から聞いただけで、確証はないぞ。よく見るというだけで」
「ふーん。でも、ミケがいるんだったら今度は校舎裏で食べよっかな」



フェンスの傍に座った悟空の隣に、紅咳児も腰を下ろす。



「しかし、校舎裏だと……俺達はともかく、あいつらの教室からだと少し遠いな」



あと少しで此処に来るだろう人物達を思い出しながら、紅咳児は呟いた。
確りとそれを聞いた悟空は、弁当箱の包みを解きながら頭を捻らせる。



「あの二人、面倒臭いって言いそうだもんなぁ……」
「……いっそ、俺達だけで移動するか?」



他の奴らには内緒で───、と言う紅咳児に、悟空は首を傾げる。



「なんでそんな事すんの?」



悟空は大人数で騒ぐのが好きだ。
別に騒がなくてもいい、人に囲まれているのが好きだった。

陽だまりのような笑顔に惹かれる人は少なくない。
だから自然と悟空の周りに人が集まるのは判るし、その中心で向日葵のように笑うのもよく似合う。
その姿を見ているだけで、胸の奥がほんのりと暖かくなるような気がする。

けれど。


けれど、それとこれ────恋心とは別物だった。



「たまには、そういう日もあってもいいんじゃないか?」



二人で食べるのもいいんじゃないか、と言ってみる。
悟空は何故紅咳児がそんな事を言い出したのかが一番の疑問らしく、不思議そうに首を傾げている。

しかし疑問に思いこそすれ、悪い提案だとは思っていないらしい。
いつもと違う場所で、いつもと違う状況も良いものかも知れない、と考えているのだろう。


あと一押し。





そう思った時だ。










「あっ! クソ、先越された!」

「相変わらず早いですねえ」

「今日も此処かよ……」











階段口から聞こえた声に、悟空が振り返り、紅咳児はがっくりと肩を落とした。

二年生の悟浄と八戒、三年生の三蔵の到着だ。
少し前まで昼食時、生徒の集合場所と化していた屋上に、自分達以外が来なくなった要因の先輩方である。


それぞれ自分の弁当を持って近付いてくると、紅咳児と悟空の間に割り込むように座る。
悟空の隣に三蔵と八戒、悟浄と紅咳児は斜め前になる。
問答無用の場所の取り方に内心怒りを覚えることもあるのだが、悟空が嬉しそうなので打ち壊すことも出来なかった。



「へへー、悟浄のノロマ」
「んだとコラ! こっちは弁当買いに行ってたんだよ」
「あ、焼き蕎麦パン! いーなー……」
「猿の餌になるもんは持ってねぇよ」
「誰が猿だよ!」



一気に賑やかになる屋上に、紅咳児は小さく溜め息を吐く。

この騒がしさが嫌いな訳ではないし、悟空が楽しそうなのは此方も嬉しいから構わない。
問題なのは、この人物達のクセの強さだ。



「はいはい、落ち着いて。悟空、コロッケありますよ。食べますか?」
「いいの?」
「ちょっと作りすぎちゃいまして。手伝って貰えると助かるんですが」
「……お前、毎日作り過ぎて来てねえか?」
「なんの事です?」



にっこりと笑って悟空にコロッケを差し出す八戒。
完璧な笑顔から“邪魔すんな”オーラが醸し出されているように思うのは、気の所為ではない。
同級生と言うことでその恐ろしさを誰よりも知っている悟浄は、それ以上の追求を止めた。

しかし悟浄の言葉は、紅咳児と、恐らく三蔵の気持ちさえも代弁したものであった。


料理が得意と言うだけあって、八戒の弁当はいつも鮮やかなものだ。
見た目に見合う味であると紅咳児も認めている。
悟空はその弁当の一番のファンで、こうやってよく分けてもらっている。

食べることに人一倍の執着を持つ悟空に対して、この餌付けはそれはそれは効果的だった。





「八戒、大好き!」





………こんな台詞が飛び出してくる程である。

その瞬間に場の空気の温度が1、2℃下がったように感じた。
いや、そんな生易しい話ではない、悟空の隣でブリザードが吹いている。



「意地汚ぇ真似してんじゃねえよ、バカ猿」



玄奘三蔵だった。


無口、無愛想、口癖は“死ね”“殺すぞ”となんとも物騒な代物。
その癖カリスマ性は随一で、密かにファンクラブだか親衛隊だか出来ている(本人否認の。)。
文武両道、容姿端麗、幼少の頃は神童とまで呼ばれていたと噂がある。

完璧な天才と言われるこの男、大の人嫌いで有名だった。
極度の接触嫌悪の気があるようで、近寄る事すら誰にも許さず、会話なんて持っての外。


それが、悟空の前ではこれだ。



「自分の弁当だけで足りねえのか、毎日重箱抱えて来やがって」
「これはちゃんと全部食べるよ。でも八戒のコロッケ美味いんだもん」
「箸を振り回すな、行儀悪ィ」
「それよりさぁ、三蔵の方が食わなすぎだよ。すっげー少ないじゃん、信じらんね」
「大多数の人間はお前の食う量の方が信じられんと思うがな」



…穏やかな口調でないにしろ、この男にしては破格の扱いだ。
唯一それに気付いていないのが相も変わらず、超が付くほど鈍感な悟空一人だった。



「ね、オレの唐揚げあげる! 一個だけ」
「いらん。お前のだろうが、食ってろ」
「美味いのに」



続いた二の句は、相手が悟空でなければ絶対になかっただろう言葉だ。



「んじゃ、俺が食ってやるよ」
「やだ! 悟浄にやるなんて一言も言ってないだろ!」
「三蔵にやる位なら俺に寄越せってんだよ!」
「絶対やらねえ!」
「お箸で取り合いしちゃ駄目ですよ」



悟空の箸の唐揚げに、悟浄が箸を伸ばして奪おうとする。


このメンバーで落ち着いて食事が済んだ例がない。
八戒が悟空を甘やかし、悟浄が悟空に突っかかり、三蔵が怒鳴り……と、そんな調子が常だ。

静かに黙っているのは紅咳児だけ────と言うより、性根が真面目な所為でテンポについて行けないのである。
だから食事中に紅咳児が悟空と会話できるタイミングは、他の三人に比べて酷く少ない。
故に先程の提案を上げたのだが、やっぱり悟空は気付いちゃいなかった。



「煩ぇ! 飯時ぐらい静かにしやがれ、バカコンビ!!」



スパパーン! と小気味の良いハリセンの音。
何処に隠しているのやら。


いまいち踏み込む度胸のない自分に溜め息を吐いて、紅咳児は茶を飲んだ。

と、其処に。



「あーもう! 紅咳児、助けて!!」
「は?」



いつの間にか立ち上がって唐揚げの奪い合いをしていた悟空と悟浄。
たかだか唐揚げ一個で其処までの騒ぎに発展するのを、最早紅咳児も見慣れてしまった。
テンポについて行けないのに、目の前の情景にだけは慣れていた。


取り合いにムキになる必要性は皆無だ。
悟浄が寄越せと言って来たのも、その場のノリと勢いだろう。
が、こうまで拒否されると意地でも奪ってやろうという気になるものらしく。

体格差まで利用して奪いに来た悟浄の箸から逃げて、悟空は紅咳児に助けを求める。
悟浄の隣に座っているのだから、止めてくれと言うのだ。



「……なんで俺なんだ」
「だって隣じゃん!」



ほら、やっぱり。

いや、期待するだけ無駄だという事は判っている。
自分でもどういう言葉を期待していたのかは不明だったが。


でも頼られることに嫌な感情は湧かないものだ。
その理由が言葉通りの単純な、色気も何もないものであっても。



「その辺にしろよ、悟浄先輩」



一応学年が上なので、形だけの先輩呼びをして、紅咳児は悟浄の制服の裾を引っ張った。
悟浄がバランスを崩すと手を離し、弁当と茶を庇って横にずれる。
反対隣にいた八戒も、さっさと移動していた。



「ってぇ! てめぇ!」
「悟空が迷惑している」
「サンキュー紅咳児!」



睨みつけてくる悟浄を無視すると、悟空が嬉しそうに言った。



「お礼にこれあげる」



言って、悟空が差し出したのは、つい先程まで悟浄と奪い合いをしていた唐揚げ。
いらないと言っても聞かないだろうから、弁当箱を差し出すと、唐揚げは其処に収まった。



「この猿、俺にはやらねえっつってた癖に!」
「悟浄にあげるようなもんは入ってねーの!」



あかんべをする悟空に、悟浄がカチンと来た。



「こうなりゃお前の弁当の中身、全部食ってやる!」
「わーっ!!」
「……自分の胃の許容範囲、判ってます?」
「………意地ってのは恐ろしいもんだな……」
「煩ぇっつってんだろうが、バカ共! 殺すぞ!!」



ハリセンの音は、今度はしなかった。
変わりに向けられたのは、小銃。
勿論モデルガンであるが、当たれば痛い。






今度は二人の悲鳴が響いていた。