biorhythms crazy






何処かで全てが壊れる音を聞いていた


何処かで全てが崩れる音を聞いていた







それを嬉しいと思った自分が、いる

























気まずい───という言葉ではきっと括り切れないのだろう。
息苦しさを覚えながらも、悟空はただじっとベッドの上に座っているしか出来ることはなかった。



部屋の灯りをつけていないというのに、不思議とこの部屋の中を暗いと思う事はない。
窓から差し込む月明かりだけで十分すぎるほど、この部屋は明るい。
闇色を酷く嫌う悟空の気質をよく理解してくれているからこそ、この部屋はこうなのだ。

大きな窓の向こうに顔を見せている月は、心なしかいつもよりも大きく見えた。
けれどいつまでもそちらに目を向けている事も出来なくて、悟空は結局自分の膝へと視線を落とす。


何故いつまでも月を見ていられないと思ったのか。
それは、その窓辺に自分の父親が立っているからに他ならない。


幼い頃の自分なら、きっといつまでも飽きずに眺めていただろうし、実際にそういう記憶も朧気であるが残っている。
父の金糸が月明かりに反射して、きらきらと煌くのが好きだった。
陽光に反射するのも似ているけれど、それよりも父は月の方が似合う気がした。

今でも父の金糸は好きだし、父自身も好きだ。
それはきっと何があっても、生涯変わらないだろうという自身がある。



父が一番好きだった。


母の顔は覚えていないけれど、それでもそういう類の寂しさを悟空は知らない。
代わりではなく、可愛がってくれる人は他にもいた。
兄代わりのような存在である二人の青年が、悟空にとってそうだった。

彼らはいつも悟空を愛してくれたし、手を繋いでもくれたりして、抱き締めてくれる事だって。
回数だけで言えば、立場の所為で忙殺に近い状態の父よりも多かったかも知れない。


でも、それでも父が一番好きだった。
何より、一番好きだった。



……そう、今となっては、それは完全なる過去形になってしまった。



好きな事は変わらない。
家族の情で言えば、変わらず一番になるだろう。

だけれど、家族の情や親愛の情という垣根を払ってしまうと、その順位は大きく変動するようになった。





……ほんの少し前に与えられた熱に、体がまた疼く。




こんな時間が増えた。
何をしていても、誰と話をしていても、頭から離れないものがある。

それにぼんやり思いを馳せると、思い出すのはあの荒々しい熱情で、それが悟空の奥底にあるものを呼び覚ます。
最近はそれが薄らと顔に出て来たりもしているようで、まさかそれの原因までは知られていないと思うけれど、
顔が赤くて熱っぽいとか言われる事が増え、幼い頃から健康優良児だった自分にすればかなり不審な状態だ。
何かあったのかと問われる度に何もないと応えるけれど、嘘が苦手な自分の嘘は、何処まで通用するだろう。


窓辺に寄りかかる父は、じっと悟空へ瞳を据えたまま動かそうとしない。
それに居心地の悪さを感じるようになったのは、一体いつからだっただろう。
また、その明確な理由はなんだっただろうか。

物音一つしないこの部屋の静けさが厭で、悟空は時折身動ぎ程度の抵抗をしてみた。
それで聞こえてくるのは衣擦れの音ぐらいだったけれど。



それ破って、父────金蝉が名を呼んだ。





「……その耳、どうした」




形だけ受け取れば、それはごく普通の疑問であっただろう。
けれど悟空は肩を揺らせてしまった。


昼間にあれこれ着せ替えられた時に付けられた色々な装飾品。
自分には似合わないから外したかったのに、頭の固い執事長達がそれを赦してくれなかった。
似合わないと思うのは慣れないからで、ならば聖誕祭まで慣れるようにつけておけと。

面倒臭かったし邪魔だったけれど、後から色々言われるのも面倒で、そのままにしておいた。
ブレスレットも、チョーカーも、ペンダントも実際そのままにしている。


けれど、その中で耳のイヤリングだけが、ない。

それだけじゃない。
悟空の耳朶は少し血が滲んで硬くなっていて、其処は確かにイヤリングがかかっていた場所だった。


ピアスのように埋め込んでいる訳でもないのに、どうしたらそんな痕が付くと言うのか。



「えと…引っ掛けて……落として…」
「何故」
「……遊んでたら…服の、袖…で……」



短い単語で問い返してくる父が、怖い。
怒る時は怒る父だったけれど、こんなにもそれを怖いと思ったのは初めてだったと思う。

だって何時だって、金蝉は何処かで悟空を赦してくれていたのだ。
それは父親だというのにまともに構う時間も作れない事への少しの罪悪感があったからかも知れない。
悟空が捲簾と揃って何事か起こして、それに叱る時ぐらいしかまともに向き合う時間はなかったから。


けれど、今の金蝉はそんな時にも垣間見る優しい面影は見つからなかった。
ただ怒りだけが彼の中に渦巻いているのが判る。



「……悟空」



叱る理由を、いつもちゃんと教えてくれた。
忙しさでそれが出来なかった時は、後を兄代わりの二人に任せて行った。

その前に、金蝉は必ず悟空の名前を呼ぶ。
短い溜息と同時に。


そろそろと悟空が顔を上げると、やはり無表情を貫く父の顔が其処にはあった。



「俺は、イヤリングを落としたとか、そういう事で怒ってるんじゃない」



じっとしているのが嫌いな活発な悟空が、小物類をなくす事はよくあった。
それでも絶対に失くすなと言われたものは、ちゃんといつまでも持っている。

今回のイヤリングは、そういう類のものではなかった。
悟空自身が小物類を好んで持たないし、金蝉も別にそれに重きを置いた事はない。
生傷も絶えない息子だから、耳朶の怪我もあまり心配してはいないだろう。





「……俺が前に言った事を、忘れた訳じゃないだろう」




だから金蝉が怒っているのは、もっともっと別のこと。







禁域に足を踏み入れた事。






真っ直ぐに射抜く紫闇が、言い逃れは赦さない事を告げている。

何か言わなければいけない、と悟空は思った。
けれど何を言えばいいのかも判らず、何故そう思ったのかも判らない。


ただ、頭の中を父とは違う金糸が横切った事だけが確かで。



「あそこに近付くなと、俺は何度も言ったな」



窓辺を離れ、金蝉が近付いてくる。
悟空は何故だかそれを見ていられなくて、俯いてしまった。
膝の上に置いた両手が視界に入って、また其処が翳る。

金蝉の影、だった。



「もうあそこを使っていないとは言わない。だがあれは牢で、という事は先にいるのが罪人だとは判るだろう」



あの場に近付くな、と言われた時に説明として受けたのは、
何年も使っていなくて老朽化が進んで子供が遊ぶには向かない場所で、
何より長い間に蓄積された術の副作用の所為で禍々しい事になっているから近付くな、というものだった。

実際、その一部は嘘ではなかっただろう。
老朽化が進んでいるのは間違いなくて、所々が崩れたり、格子が折れたりしていたから。

そして長い間封印の類の術を施されたあの場所には、良くない“氣”も立ち込めている。
歴代の血筋の中で最も突出した力の強さを持つ悟空だが、それに対抗する術はまだ知らなかった。
良くない“氣”に誘われて集まった悪霊の類にも似た連中に漬け込まれる恐れは、あった。


近づくなと言った時の父や兄達は、ただ純粋に悟空を危険から遠ざけようとしていた。

それを破ったのは、他ならぬ悟空で。
愛するが故、傷付けたくない故にそうしていたのに、彼らがそれを知った時何を思ったか、悟空にはよく判らない。



「あそこに行ってお前が何をしていたか、俺は聞くつもりはない」
「………う、ん……」



父のその言葉が、どんな思いを指し示して言ったものか、悟空にはよく判らなかった。
禁忌を破った息子に対して、どれ程の憤りと戸惑いを感じているのかが判らないのと、同じように。



「だが、あの場に入った事まで見過ごす訳にはいかないんだ」








あの地下牢が表沙汰には役目を終えた事になったのは、何十年も前の事。
完全に立ち入り禁止と定めたのは金蝉の代になってからだが、それ以前から危険な場所と言われていた。



其処に収容されるのは、全て世間的にも人間的にも大罪を犯したとされるもの。
深い場所に閉じ込められる者の殆どは捕らえた時から常軌を逸していることが多く、
そういう類の者は易い封術では抑えられない為、時には絶対封術と言われる結界も張る事があった。
そして常軌を逸したまま隔離された罪人はやがて死に絶えるが、その者の念は酷く深いものだ。
こびりついて何度浄化しても消えず、何十年経った今もそれは残っている。

そういった酷く深く暗い情念は、正反対の気質を持つものに引かれ易い。
また、同じ類の感情を持った者を虜にしてしまう事も少なくなかった。
だから小さな子供は無論立ち入る所か、近辺に近付くことさえも赦されなかった。
金蝉や捲簾、天蓬とてそれは同じことだった。


役目を終えたとされて尚使われているのは、其処にしか封じられない力を持つ者がいるから。
生半可な結界など通用しない、凶大とも言える力を有する罪人がいるから。
長い時間の中で地下牢に蓄積された術の効力の残りカスも掻き集めてまで、封じなければならないから。

封じ込められたソレが、外界に出たことは一度もないと言われている。
事実上、あの地下牢に張られる結界は何よりも強固なものとされているから、破られた事がなかった。
一度入れば出ることは出来ない、地下が巨大な迷路となっている事も相俟ってそう伝えられていた。

封じ込められた者は、死して尚外界に出ることは赦されなかった。
朽ち果て塵となってもその身の破片は暗い地下に閉じ込められたまま、存在さえも世間から忘れ去られても。
深く暗い情念が地下牢の全面に鬱積したのは、それも一つの理由だっただろう。









悟空とて、それを知らなかった訳ではない。
そういう場所がこの国の何処かにある、という事は、勉強の中で教わった。

けれど詳しい場所まで教えて貰った事はなく、捲簾や天蓬に教えて欲しいといっても、
もう少し大きくなってから、というのがいつもの答えだった。
ただ暗くて闇に閉ざされた場所には近付かないように、と繰り返し言い含められていたけれど。


確かに、あの地下牢はそういう場所だった。
最初になんの偶然か見つけた時はとても近付こうとは思わなかった。
もともと暗くて闇に閉ざされた場所なんて、小さい頃から酷く駄目だったから。

だけれどいつだったか、話に聞いていた地下牢が其処だと知って、次第に好奇心が疼くようになってしまった。
そして引き寄せられるように地下に足を踏み入れるまで、それから然程の時間はかからなかったと思う。



でも、判っている。
自分の犯した罪がどれほど根深いものなのか。

禁忌を破り、父や兄の言い付けを破り─────それを彼らが気付いた時、なんと思ったか。
悟空にはやはり何度想像しても判らないという結果に行き着くけれど、逆の立場だったらどうか。


子供の好奇心。
そんなもので片付けられることじゃない。



金蝉が、悟空の前で膝を折る。
低くなった金蝉の目線には、僅かであるが息子の表情を窺う事が出来た。



「……もうすぐ、19歳だ。自分がどれほどの事をしたかは、これ以上俺が言わなくても判っているとは思う」
「……………うん」
「なら、いい」



父の言葉に頷く悟空の表情は、決して嘘を吐いてはいなかった。
大きな瞳には雫が浮かび、けれど此処で泣くのは違うと歯を食いしばって耐えている。

幼い頃から滅多にない事だったけれど、金蝉が本気で怒ると知ると悟空はこの顔になる。
心配をかけた、迷惑をかけた、悪いことをした────感情だけで言えば幼い子供のような拙いものではあるが、
そんな風に素直で真っ直ぐだからこそ、金蝉も二人の兄代わりも悟空を愛しているのだ。


金蝉の大きな手が悟空の頭を撫でる。
其処から伝わる温もりは、いつ感じても、幼い記憶のものと寸分の違いもない。



「これからお前の聖誕祭までの一週間、此処で謹慎だ」



告げられた罰は、禁忌を犯した者に対して優し過ぎるものだった。



「お前があそこに立ち行った事は、まだ俺達しか知らない。大臣達も、誰も知らない」
「────……」
「俺達はこれを公言するつもりもないし、他の誰に知られるつもりもない」



表向きは少し行き過ぎた悪戯、という事にして。
構って欲しくてそういう事をする事はあったし、幼い頃はその所為でよく部屋の中で謹慎をしろと言われた。
期限は短くて一日、長くても一週間と少し程度で、その後には必ず構ってくれるようになった。

成長ごとにそういう行為は減っていたけれど、時々仕出かす事はあったから、きっと疑われることはない。
ああまた何かやったのか、そんな呆れた目線が少しの間増えるだけ。
謹慎処分の裏側にあるのは、そんな中に息子を晒したくない親心だと気付いたのは、いつだっただろうか。



「……いいな」



大きな手が悟空の両頬を包み込んで、小さな子供に言い聞かせるように金蝉は言う。

───……一国を担う者として、この手はどれほど重いものを抱えているのだろうか。
まだ守られる立場のままの悟空には、幾度考えてもやっぱり判らない。


だけれど、父が自分を大事にしてくれている事だけは確かで。







「─────…………うん」












なのに、求めているのはやっぱり違う熱だった。