“シアワセ”の方程式









醒めない夢

あなただけ想い続けていたい


いつの日か





二人の愛 輝く日まで


























ずっと、見ていた。
彼だけを。





男が男に惚れるなんて、なんて事は何度も考えた。
常識外れとまで言わずとも、それが世の中で偏見の目で見られることぐらいは幼くても判っていた。

けれども、好きなものは好きで誤魔化しようがない事だと自分自身受け入れるまでにそれほど時間はかからなかった。
思い返していけば無理もないと思えることもあったし、それよりも自分にそんな感情があった事の方が驚いた。
だから江流にしてみれば、惚れた相手が誰であるか、という事はそれほど大きな問題ではなかったのだ。


この感情を自覚したのは初等部の三年生の頃で、早熟でマセていたと言われればそうなのだろう。
受け入れるのにかかった時間は半年ほどで、長いか短いかと言われれば、短い方ではないかと思う。
世の中で一般的に囁かれる常識に捕らわれていたとしたら、だが。

他人が聞けば「それは単なる憧れの錯覚ではないか」というだろう。
しかし江流は何をどう考えても、“憧れ”という形を相手に向けることは絶対にないと考える。




だって。
惚れた相手は、確かに5つも年上ではあったけれど。

“憧れ”という言葉からは程遠いほど、幼い江流から見ても幼い性格をしていたのだ。


無邪気で無垢、単純明快。
そんな言葉が似合うような人物だった。




彼は江流の隣の家に住んでいて、物心ついた頃には既に一緒だった。

忙しい親に代わって彼は幼稚園の送り迎えをしてくれて、初等部に上がってからもそれは続いた。
彼が中学生になっても学校はエスカレーター式だったから、その関係はそのまま続いた。


けれども普段の二人の生活振りを見ると、どちらが年上か判らない時がある。
彼がとても無邪気なのに比べて、江流が歳の割りには冷めていると言われるほどクールな子供だったからだ。

小さな子供が喜びそうな些細な出来事に反応するのは彼の方。
江流とて無反応な子供ではないのだが、彼のように諸手を上げる事はなかったと言っていい。
無邪気に跳ねて喜ぶ彼を、江流は少し呆れた瞳で眺めている、という構図が基本。


それでどうやって彼に対して“憧れ”を持てと?
数少ない友人の一人、こちらも変に冷静な翡翠の少年に先の言葉を言われた時、江流はそう言い返した。

ならば、自分がどんな瞳で彼を見ているのか。
それは驚くほど自然に答えに行き着き、思い返せば自然に思い当たる節が多く、
そして江流は結局どうあってもその感情を自分にしては素直に受け入れる結果となっただろうと思う。







だって、ずっと彼を見ていた。






























朝、寝起きの悪い江流は弾かれたように飛び起きた。
まだ幼さを残すものの、いつもクールな色をしている紫闇の瞳は明らかな動揺に揺れている。
しばらく今の自分が夢にいるのか現実にいるのか判らず、江流は布団の端を持ったまま茫然としていた。

江流のこんな姿は、恐らく年上の幼馴染も滅多に見た事がないだろう。
というか、格好悪くてプライドの人一倍高い彼は絶対に見せたくないと思っている。


しばし硬直していた江流だったが、外から聞こえる鳥の声にはっとした。
それから布団を退けて、直後に彼は布団の上で激しい自己嫌悪に撃沈する事となる。



「………マジかよ……」



ようよう口から漏れたのはそんな言葉。
目元を手で覆って、次に零れたのはそれはそれは盛大な溜息だった。


江流が見たのは、己の下着と寝巻きを押し上げている自分の息子。
しかもそれなりに怒張していて、このまま父の待つ階下のダイニングに降りる気にはなれない。

更にそうなった原因にもすぐ思い当たり、再び撃沈する。



夢だ。
夢を見た。



所謂、夢精であった。
今年で中学一年生になった健全な青少年としては、無理もない事とも言えるだろう。
近年性的な意識に対して低年齢化が進むとは言え、これは男としては仕方がなく、ごく普通に迎える生理現象だ。

そういう事は学校の授業で一通り習ったし、友人にエロ河童と呼ばれる少年もいるので今更驚く頃はなかった。
だから問題なのは其処ではなくて、まだ頭に残っている自分が見ていた夢の方。



「………あんなバカ猿に………」



夢に見たのは、5つ年上の隣家の幼馴染────孫悟空、現在高校二年生の男の子。

年上に思えない程に無邪気で天真爛漫で、時々盛大なドジをして。
……現在、江流の片思いの相手であった。


顔を思い出すと同時に、夢で見た情景が脳裏で再生される。
それがあまりにリアルで生々しい気がして、江流は三度目の撃沈となった。




普段はとても無邪気に笑顔を向ける彼は、夢の中では酷く艶を持っていた。
火照った躯を江流に絡めながら、指先は江流を煽るように動く。
ふっくらとした唇で何事か囁いて、腕は江流の首を絡めて、そっと顔を近付けて行く。

夢で見る彼の様相は様々で、時に無邪気な子供のようであったり、妖艶な娼婦のようであったりする。
そのどれが良いと比べることはなく、それら全てが常に江流の若い性を煽り立てた。


最初から最後まで泣いている事もあれば、自ら脚を開き妖しい笑みで誘う事もある。

江流はいつもそれに煽られるままに、夢の中で彼を掻き抱く。
全てを貪り尽くすように、誰も知らない内部を暴き出していくのだ。



そうして夢から目覚め、いつも今現在のような事態に陥るのである。



夢は、その人の願望であると言う。
そして江流は、その言葉を否定できずにいた。




(……とにかく……)



悶々と考えていた江流であったが、いつまでもこうしている訳には行かない。
今日は平日で学校があるから、このままじっとしていると父が起こしに来る。

昔は幼馴染が起こしに来ていたが、いつまでも子供扱いされているようで嫌になり、初等部の高学年になって断わった。
その時彼は淋しそうな表情をしていたが、その時でさえ江流の理性は少々ヤバかったりした
だが江流の寝起きの悪さは中々直らなかった為、代わりに父の光明が起こしに来るようになっていた。


今の状態を───例え父が気にしなくても───誰かに見られる事は嫌だ。




だから少々慌しい足音を立てながら、江流は二階のトイレに駆け込んだ。


















朝食中は光明はいつも通りであったが、それでも江流は何処か後ろめたくて父の顔が見れなかった。
のんびりとした雰囲気の父はそれが本当に普通なのだが、こんな時ばかりは逆に気になる。

かと言っていつまでも気にしてはいられない。
とにかく何もない事を装いながら(バレても穏やかな父は何も言わないと思うが)、朝食を済ませると、
江流はさっさと学校へ行く準備を済ませ、そのまますぐに玄関へ向かった。


また其処でいつもどおりに挨拶をして家を出ようとすると、



「そういえば、もう悟空ちゃんとは一緒に行かないんですか?」



────またもいつも通りの笑顔で言われて、江流は一瞬固まった。

それでも何事もなかったように、いつもの無表情で振り返る。
…それも出来ているのか、若干の不安を感じつつ。



「中学生にもなって送り迎えはもういりませんよ」



事実、江流は中等部に上がって間もなくから、悟空と一緒に登校した事はない。
時折後から追い駆けてきた悟空と一緒になる事はあったが、家を出るのは此処数ヶ月いつも一人だった。



「そうでしょうかねぇ……」
「……そうですよ」



首を傾げながらのほほんと言う父に、少し詰まってから返す。


この穏やかな瞳は、息子である江流が思う以上に鋭い観察力を持っている。
時として江流自身が自覚しない事でさえ見抜かれる事があった。

正直、親子でありながら江流はこの父のことが一番掴めなかったりする。



「でも先日、金蝉さんにお会いした時、悟空ちゃんが最近元気がないって言ってましたよ」



金蝉、とは隣家の主、即ち悟空の父親の名だ。
見た目は悟空よりも江流に似ていて、悟空よりも江流の方が親子と間違えられることも多々ある。
……江流にとっても金蝉にとっても、甚だ不本意なことであるのだが。

彼は作家をしているので、滅多に外に出る事はない。
お陰で悟空は家事一般は一通り出来て金蝉は執筆に専念できるのだが、やはり時には親面というものはしたいようで、
執筆が一息済んだ時などは夕飯を彼が作ることはあるらしく、その時に父親二人は顔を合わせているそうだ。
ちなみに、江流は中等部に上がってから一度も金蝉と顔を合わせていない。



「変ですよねぇ。あなたと一緒にいる時は、あんなに楽しそうなのに」
「……昔と同じで煩いだけですよ」



素っ気無い言葉を並べながら、江流は玄関のノブに手をかける。



「もう待ってあげないんですか?」



光明の言葉に、一瞬江流の肩が揺れた。


幼い頃は、悟空が迎えに来るまで玄関先で待っていた。
幼児期から続いた送り迎えの習慣は、初等部の6年生になっても続いていた。

しかし、中学に上がって間もなく、江流は悟空に断ることもなく一人で先に学校に行くようになった。
起こしに来るのを嫌がった時のように、せめて一言、と考えなかった訳ではない。
けれど、その時にはもう、江流は長年見慣れた筈の幼馴染の顔を見ることすら躊躇うようになっていた。


それ以来ずっと、悟空よりも早く家を出るようになった。
学校で顔を合わせて問い詰められても、のらりくらりと交わして。



「……誰かが一緒じゃなけりゃ行けないような子供じゃありませんから」



そう、もう子供ではないのだからと。
当たり障りのない言い訳をしながら、一人で学校へ行く。
帰宅も高等部の授業が終わるのを待たずに。

逆に一人で登下校する悟空が心配になったりはしたけれど、それでも。
江流は彼を避けるように───否、避けながら日常を過ごすようになっていった。




「行って来ます」



父親の顔を見ないようにドアを開けて、いってらっしゃい、といつもの声。
振り向かないで後ろ手に玄関を閉めたら、その後はすぐに駆け出した。

隣家から玄関を開ける音がしたけれど、学校は隣家と反対方向にあって、すぐ隣の角を曲がる。
そうなると、家を出て江流の家へ向かおうとする幼馴染からは見えなくなる。


悟空が後を追い駆けて来るのは判っている。
だから、江流は学校への距離を全力で走る。








初めて、彼を置いて登校した日。



それは一番最初に、無邪気な幼馴染を夢で抱いた日だった。