“シアワセ”の方程式






絶対、避けられてる。
盛大な溜息を漏らしながら、悟空はそう思った。

そんな憂鬱な気分の悟空に声をかけるのは、中学生の時に仲良くなった那托だった。



「なんだよ悟空、らしくねえのな」
「……んー……?」
「すっげー湿気た面してるぞ」



のろのろと顔を上げた友人に、那托は顔を顰めながら言う。

いつも天真爛漫で笑顔の悟空が、そんな顔をするのは本当に珍しかった。
悟空のそんな部分をよく知っているから、余計に那托は親友のことが心配になる。


悟空はがりがりと頭を掻くと、また溜息を吐きながら、



「ちょっと…やっぱり嫌われたのかなって……」
「───ああ、あの金髪のガキ?」



中等部時代から仲が良かったから、那托は江流の事を知っている。
悟空がどれだけ彼のことを気に入っていて、毎日の送り迎えを楽しみにしていたのかを。
そして同時に、彼が中等部に上がって間もなく、悟空の送り迎えを拒否するように一人で登下校をするようになった事も。



「お前、今日も一人だったもんな」
「……うん」



悟空の机に乗りながら、那托は沈み込んでいる親友の頭を撫でる。



「まぁ、仕方ないんじゃねえの。気難しいお年頃ってヤツ」
「……そうかなぁ……」
「俺も似たような時期あったと思うし。お前は、変わんないけど」
「……嫌われたんじゃ、ないかな……?」
「それはないだろ」



生意気だけど、お前のことはきっと好きだよ。

笑顔でそう言う親友に、悟空も少しだけ気が晴れた。
そう言ってくれる人物が一人いるだけで、やはり楽になったと思う。



「どうしても一緒に登校したいなら、もうちょっと早く迎えに行ったらどうだ?」
「そうしてるんだけど…今だって前より早目に迎えに行くんだけど、絶対先に行ってるの」



悟空の気配に関しては誰よりも聡い子供だったから、判るのかも知れない。
どのタイミングで悟空が来るのか直感で感じて、それよりも絶対に早く出て行く。
最初の頃はそれでも追い付けたのに、最近はそれさえ許してくれなくなった。

12歳になった彼は多感な時期だから、悟空が送り迎えなどという子供染みた行為が嫌になったのかも知れない。
でも、それなら起こしに来るのを嫌がった時のように、一言でも言ってくれたらいいのに、と思う。



「……まぁ、正直」



ぽつり、と那托が呟いて、悟空は顔を上げる。
那托は明後日の方を向きながら、これは独り言だから気にするな、という空気。




「お前と一緒に帰れるから、俺はちょっと嬉しかったりするけどな」




以前の悟空は、登下校は絶対に江流と二人だった。
人気があるから色々な人から一緒に、と誘われたりもするが、悟空は絶対に断わった。

朝と、放課後と、悟空の時間は江流のものだったのだ。
だから運動神経は抜群で、自身の運動する事が好きなのに、何処の部にも入らなかった。
入りたい気持ちもあったが、そうしたら部活の為に江流と一緒の時間を割くことになる。
誘ってくれた人々に悪いと思っても、悟空はそちらが大事だった。


それが、江流が中等部に上がってから変化した。


登校は先に述べた通り。
下校の時は、以前は待っていてくれたのに先に帰ってしまうようになった。
時々悟空の方が早く授業が終わっても、彼は悟空の目を盗むように教室を出て行った。

そうして落ち込み淋しそうに帰る悟空を、那托は放って置けなかった。
今だけであると判っていても。





ちょっと不謹慎だな、と笑う親友に、悟空は小さく首を横に振った。




























下校中に鳴り出した携帯電話。
普段滅多に鳴らないから、悟空は一瞬びくっとしてしまった。

隣でそれを見て笑う那托を睨みながら、液晶画面を見る。
其処に映っているのは父親の名前で、悟空はすぐに通話ボタンを押した。



「もしもし」
『悟空、今帰りか?』
「うん、そだよ。もう家の近く」



聞こえてきた父親の声に、悟空は周りを見回しながら答える。



「どしたの?なんかあった?」
『ああ。ババアから呼び出しが入ってな、今から出る』



最近、本格的に軌道に乗り始めた、父の執筆活動。
人気の作家になりつつあるともなれば注目も集まり、本人へのインタビュー依頼も増えて来ていた。

金蝉はあまり人前に出るのが好きではないのだが、それでも全てを断ることは出来ない。
主にその理由としては、金蝉の本を出す出版社の社長の手引きである。
豪放磊落と言えば聞こえがいいが、破天荒な女社長に親子ともどもよく振り回されたものである。


今回はなんと言って父親を説得したのやら。
決して悪い人ではないのだけど、と思いつつ、悟空は苦笑する。



「おねーちゃんからじゃ仕方ないね」
『ったく……せめて事前に言えってんだ、あのクソババア』
「じゃあ今日は家にいられないんだ」
『ああ』



過保護な父は、滅多に悟空を一人にしない。
幼少期から悟空が一人ぼっちを極端に怖がるからだ。





『だから、今日は光明のところに泊まれ』





父の言葉に、悟空がぴたりと立ち止まる。
それを不思議に思った那托が、数歩歩いたところで同じように立ち止まって振り返る。


何も珍しいことではない、幼い頃はずっとそうしてきたのだから。
反対に江流が悟空の家に泊まりに来る事もあったし、今更どうこう言う事でもない。
いつもであれば諸手を挙げて喜ぶところなのだから。

けれども今だけは以前よりも少し事情が違ってしまった。
それを判っていない父ではないだろうに。



『いいか、悟空』



でも、そうする事で悟空を一人にしないように配慮してくれているのだ。
嫌だなんて言える訳がなかったし、何より悟空自身もそうする事が嫌な訳ではない。

ただ、今の自分達の間が少しぎくしゃくしているだけで。



「────……うん」



返事をする時、自分の声が震えていないか少し不安だった。
目の前にいる親友は、少し心配そうな顔をしながらこちらを見つめている。
その親友には、自分の顔は今どんな風に映っているのだろう。

よし、という父の声が聞こえた時、少しだけ安堵した。


それからお仕事頑張って、と言ってから通話を切った。
携帯電話を閉じてポケットにしまって、数歩前で立ち尽くしていた那托に歩み寄る。

二人並んで、また帰路を歩き出した。



「どした?」
「……今日、泊まり」
「何処?」
「……江流ン家」



俯き加減でそう答えると、那托はそっか、と返す。

それからしばし沈黙してから、



「……丁度良かったんじゃねえ?」



そう言うから、悟空は驚いたように顔を上げた。
那托は言葉を探すように頬を掻きながら、いや、な、と言葉を濁す。



「ちょっと話してみたらいいんじゃねえかな、って」
「……でも……」
「あいつの親もいるんだろ?悪いようにはならないと思う」
「……そっかな……」
「そうそう」



ぽんぽんと背中を叩いてくれる那托に、悟空は少しだけ笑うことが出来た。


最近はずっと那托に励ましてもらっている。
授業中も先生の話を聞いていなくて注意された時に庇ってくれたし、気を紛らわすように話しかけてくれた。
此処しばらく沈んでばかりいる悟空に根気よく付き合ってくれている。

そして、必ず「大丈夫だよ」と言ってくれる。
だからいつまでもそれだけに甘えていないで、背中を押してくれる親友に応えなければ。



「……うん。話、してみる」



はんなりと微笑んで頷いた親友に、那托は嬉しそうに笑った。



























思えば、泊まりに来る事すら久しぶりだったのだ。
以前はよく互いの家に上がっていたけれど、江流が悟空を避けるようになって、それはプツリと途絶えてしまった。
金蝉も最近は急な呼び出しと言うのもあまりなくて、夜中に家を空けることはなかったから。

江流はもともと一人でも平気だったから、大抵は光明が無理矢理押すように悟空の家に泊まらせていた。
それも本気で嫌ではないから、出来たことだ。


だのに、それがなくなったと言う事は、やっぱり嫌われてしまったんだろうか。


浮かんだ不安に緊張した。
けれど、それをなんとか払拭して、押し慣れた隣家のチャイムを押した。




少し間を置いてから扉を開けたのは、久しぶりに顔を見る幼馴染だった。




「あ…こ、りゅ……」



てっきり彼の父親が出てくるとばかり思っていたから、驚きで硬直してしまった。
それは江流も同じだったようで、珍しく目を瞠って悟空を見ている。


数ヶ月ぶりにまともに見た江流の背は、前に見たものよりもまた伸びている気がした。
悟空はと言えばすっかり成長が止まってしまって、160p前半のまま先へ行かない。
江流はこれからが更なる成長期だろうから、近いうちに追い越されてしまいそうだ。

少し前まで随分下にあった金糸が、もう少し視線を落とせば見えてくる。
なんだか急に大人の階段を上ったような年下の幼馴染に、悟空はまた驚いていた。



「……久しぶり」



隣家だから気配はいつだって感じる。
けれど、真正面から顔を見たのは本当に久しぶりだった。

……避けられるようになってから、江流は悟空の顔をまともに見なくなった。
学校で見つけても直ぐに逸らされるし、目が合った筈でも興味がなさそうに直ぐに外れてしまう。
いつも見つめ返してくれた紫闇が離れていって、だから“嫌われた”と思った。



「……ああ」



ようやく硬直から解かれた江流の声も、久しぶりに聞いた。
変声期が遅いのか、まだもう少し高めの声だ。

悟空はと言えばとっくに変声期は終えた筈なのに、未だに高いまま保たれている。


江流の紫闇が、悟空の持つバッグに向けられる。
それはこの家に泊まる時にいつも持ってきていた、所謂お泊まりセットだった。



「……あいつ、いないのか」
「う、ん」



幼馴染の父を捕まえて“あいつ”呼ばわり。
昔からのその生意気さに、悟空は苦笑して小さく頷く。



「だから、こっちに泊まれって」
「……まだ一人寝も出来ねぇのかよ」
「……だって……」



呆れた、と言わんばかりの江流の口調に、悟空は俯く。


自分でもいい加減に卒業しなければ、とは思っている。
思っているのだが、どうしても出来ないのだ。

何故こんなにも暗闇や孤独と言うものが駄目なのか、悟空自身にもよく判らない。
トラウマでもあるのかと那托に聞かれた事があったが、それも覚えがなかった。
金蝉に聞いても教えてくれないし、でも悲しそうな顔はするから、そういう類なのかも知れない。


申し訳なさそうに玄関前で佇む幼馴染に、江流は開けた扉に凭れて言った。



「……今日は、うちもいねえんだよ」



悟空から少し目を逸らして呟かれた言葉。
悟空はこの数分で何度目か判らないが驚いて、俯けていた顔を上げた。



「何処かの寄り合いだか、なんだか……泊まりだって言ってた」
「……おじさん、いないの…?」
「だから、そう言ってるだろ」



何処か苦々しげに言う江流に、悟空は何を言っていいか判らなくなる。


気難しい時期、と那托が言っていた。
だとしたら、一人になれる今夜は江流にとって嬉しい機会だったのかも知れない。

そんな時に自分が泊めてくれ、なんて。
江流が此処で一人がいい、と言ったら自分は引き下がるしかないと思った。
……タイミングが悪かったとしか言えない。



苦虫を噛み潰すような江流の横顔に、やっぱりこっちを見てくれないんだ、と思う。
そうすると本気で泣きそうになって、悟空はまた俯いて必死に耐えた。

その仕草が置いていかれた仔犬のようで、江流は視界の端でそれをしっかりと捉えていた。
しょんぼりとした姿は、江流も随分久しぶりに見たものだ。
いつも視界に入れないように、目があってもすぐ逸らすようにしていたから。


じんわりと悟空の視界が滲んで、ふる、と肩が震えた。


その直後、





「……入れよ」




小さな声だったけれど、それはちゃんと悟空に届いた。


一瞬何を言われたか判らず、理解しても信じられず、そろそろと顔を上げる。
江流は相変わらず視線を逸らしたままだったけれど、家の中を指差していた。

それは確かに、“上がれ”の合図。








敷居を跨いで、扉が閉まって。

それだけで、凄く嬉しかった。